「Noton」と一致するもの

 雑誌『ビックリハウス』の表紙や、マンガ雑誌『ガロ』などで連載をしていた「クシー君」シリーズ他、数多くのイラストやグラフィック・デザインを手掛けていた漫画家・イラストレーター鴨沢祐仁。その唯一無比の、オシャレでファンシーかつ形而上学的な独特のイラストは、音楽関連でも、オメガドライブ新井正人は熱狂的なファンでアルバムやシングル盤のジャケに多数採用、またムーンライダーズの鈴木慶一プロデュース『ビックリ水族館』『SF -サイエンス・フィクション-』のジャケ、ムーンライダーズのトリビュート・アルバムなど。

 いまなお多くの熱狂的なファンを持つ「稲垣足穂よりタルホの世界を表している」鴨沢祐仁。惜しくも2008年に他界した彼の没後10年を追悼した、初のイラスト集を北原照久氏の協力の下、刊行決定!!

■少年なのに大人
ロボットなのに人
室内なのに自然
冷たいのに可愛い
鴨沢祐仁のキュートな魅力は、対立項が絵の中で握手しているからである。
そのマジックは絵を成立させている線を見ればよく分かる。
クッキリした冷たい線描がこんなにも優しく愛らしいキャラクターを出現させる。
そのマジックが鴨沢祐仁の魅力なのである。
日本のキューティズムは、鴨沢祐仁から始まったのだ。
――萩原朔美(エッセイスト・映像作家/元ビックリハウス編集長)

■私は、鴨沢さんの最良の絵を与えられた幸せな編集者だった。――南伸坊

■彼が作るロゴだとか、パッケージ・デザインだとか、本当にお洒落で全部商品にしたい!って思ってしまうほどセンスが素晴らしかった。――北原照久

■稲垣足穂の世界を絵画で、カニ星雲のラヂオ放送から流れてくる音楽が、君にも聴こえるだろう?と鴨沢祐仁に誘われたわけである。――湯浅学

解説:南伸坊、湯浅学、北原照久

■5/19(土)より青山ビリケン・ギャラリーにて、「稲垣足穂と鴨沢祐仁(仮)展」行なわれます!!

お問い合わせ
ビリケン商会:03-3400-2214
営業時間:12:00~19:00(毎週月曜日定休)
〒107-0062
東京都港区南青山5-17-6-101 ビリケン商会

Gwenno - ele-king

 世界は滅びる。あまりにもたやすく、それは消失する。核戦争なんか起こらなくたっていい。地球外生命体からの侵略を待つ必要もない。あなたがいつもどおり毎日の暮らしを送ってさえいれば、ただそれだけで世界は滅び去っていくのである。
 たとえば「This is a pen」という定型文がある。この言い回しから想像される風景は、「これはペンです」という言い回しから想像される風景と大きく異なっている。言語はそのおのおのに固有の認識の帝国を築き上げる。ようするに、言語こそが世界を作り上げているのである――なんて書くと構築主義っぽくなっちゃうけれど、言語にそういう側面があることは否定しがたい事実だろう。だから、あるひとつの言語が失われるということは、それによって認識されていた世界がひとつ滅亡するということなのだ。
 現在地球上に生存する言語の数は3000とも5000とも8000とも言われている。その正確な数をはじき出すことは不可能だが、2年前の『ワイアード』の記事によると、それらは4ヶ月にひとつのペースで失われていっているのだという。あるいは2週間にひとつ、という説もある。いずれにせよ、あなたが歯を磨いたり満員電車に揺られたりクラブで踊ったりして過ごしている数週間ないし数ヶ月のあいだに、少しずつ、だが確実に、世界は消滅していっているのである。

 そんなふうにいまにも消えてしまいそうな世界を崖っぷちのぎりぎりで支えている言語のひとつに、コーンウォール語(ケルノウ語)がある。ケルト語派に分類されるその言語はユネスコの評価によれば「極めて深刻」な消滅の危機にあり、日本でいうとアイヌ語がこれに相当する。
 コンセプチュアルなインディ・ポップ・バンド、ザ・ピペッツのシンガーだったグウェノー・ソーンダーズ、彼女にとって2枚目となるソロ・アルバム『Le Kov』は、そんな絶滅の危機に瀕したコーンウォール語で歌われている。タイトルの「Le Kov」が「the place of memory」すなわち「記憶の場所」を意味していることを知ると、なるほどこのアルバムは彼女の母語をとおしてその私的な思い出を回顧する類の作品なのかと思ってしまうけれど、しかしグウェノーはコーンウォール人ではなく、ウェールズはカーディフの出身である。じっさい、SFからの影響とフェミニズムなど政治的な題材を掛け合わせた前作『Y Dydd Olaf』(2014年)は、おもにウェールズ語で歌われていたのだった(収録曲“Chwyldro”はのちにウェザオールがリミックス)。とはいえ、コーンウォール語の詩人を父に持ち、幼い頃にその言語を教わった彼女にとってコーンウォール語は、ウェールズ語と同じように「ホーム」を感じることができる言語なのだという。

 エレクトロニック・ミュージックのリスナーにとってコーンウォールと言えば、何よりもまずエイフェックスである。彼は当地の出身というだけでなく、『Drukqs』でじっさいにコーンウォール語を曲名に使用してもいる。その14曲目、ピリペアド・ピアノが美しい旋律を奏でる小品“Hy A Scullyas Lyf A Dhagrow”から着想を得たのが、グウェノーのこのアルバムのオープナーたる“Hi A Skoellyas Liv A Dhagrow”だ。といってもエイフェックスから借りてきたのはどうやらタイトルだけのようで、レトロなストリングスと囁くようなヴォーカルの合間に挿入されるトリッシュ・キーナンのごときコーラスは、むしろブロードキャストを強く想起させる。いまはなきかのバーミンガムのバンドの影はこのアルバム全体を覆い尽くしており、シングルカットされた2曲目“Tir Ha Mor”や、8曲目“Aremorika”あるいは9曲目“Hunros”など、随所にその影響が滲み出ている。

 全篇がコーンウォール語で歌われているからといってグウェノーを、絶滅危惧言語の保護を声高に叫ぶアクティヴィストに仕立て上げてしまうのは得策ではない。4曲目“Eus Keus?”は英語に訳すと“Is there cheese?”となるそうで、古くからあるコーンウォール語の言い回しをそのまま使ったものらしいのだけれど、ようするにただ「チーズある? ない? あるの?」と歌っているだけの冗談のような曲である。つまり彼女はここで、マイナー言語による表現だからこそ尊い、というような反映論的な見方に対しても果敢に闘いを挑んでいるわけだ。

 プロデューサーであるリース・エドワーズの仕事だろうか、ブレグジット後の孤立感が歌われているという3曲目“Herdhya”など、エレクトロニクスの使い方もまずまずで、かねてよりウェールズ語を己のアイデンティティとしてきたスーパー・ファーリー・アニマルズのグリフ・リースが気だるげな歌声を聴かせる“Daromres Y'n Howl”なんかは、アヴァン・ポップのお手本のような作りである。ドラムを担当しているのは同じくウェールズ人脈のピーター・リチャードソン(元ゴーキーズ・ザイゴティック・マンキ)で、全体的に催眠的だったり浮遊的だったりする上モノをきゅっと引き締めるその手さばきもまた、本作に良い効果を与えている。
 このようにグウェノーの『Le Kov』は、歌われている内容がまったく理解できなかったとしても、鳴っている音に耳を傾けるだけでじゅうぶんに楽しむことのできるアルバムとなっている。コーンウォール語という言語のマイナー性に頼らずに遊び心に溢れたサウンドを聴かせること――まさにそこにこそ本作の大きな魅力があるといえるだろう。

 たとえ世界が滅亡してしまったとしても、すなわちたとえコーンウォール語が完全に消失してしまったとしても、いまエイフェックスの『Drukqs』が若い世代に参照されそれまでとは異なる意味を帯びはじめているように、グウェノーのこのアルバムもまた文字どおりレコード=記録として永遠に……とまではいかなくともそれなりに長期にわたって振り返られることになるだろう。すでに滅び去った世界を指し示す、新たな想像=創造の契機として。

三田 戸川純が12年ぶりに舞台復帰した『グッド・デス・バイブレーション考』を観て来ました。「途中で音楽の道に逸れたけれど、元々は役者だから」と本人が何度も強調していたので、ある種の執念を感じる復帰だよね。東北大震災の後、演劇に人気が集まったということがあって、その時は平田オリザ・フォロワーがメインだったので、僕はあまり引き込まれなくて。その後、また違うタイプのコンセプチュアルな演劇を観に行ったぐらいで、自分ではもう演劇は観ないかなと思ってたんだけど、『グッド・デス・バイブレーション考』はしっかりとしたオーソドックスな内容で、映画でいうと『生きてるものはいないのか』や『シャニダールの花』といった近年の石井岳龍(石井聰亙)を思わせる近未来SFものだった。

水越 深沢七郎『楢山節考』の近未来版で、戸川の配役は捨てられる老婆。同世代の私もすでに姥捨される側なのか!と暗い気持ちにもなりますが……

三田 貧困家庭で65歳以上の老人は死ねと。戸川純が「性別を超越した認知症の老人」を演じるということだけは知っていたんだけど、山の上に住む貧困家庭にひとりの女=ザラメ(野津あおい)が訪ねてくるところから話は始まる。だんだんとわかってくることだけれど、自由恋愛が禁止された世界で、国が決めたパートナーと結婚するためにザラメはやってきた。貧困家庭は長男のバイパス(板橋駿谷)、母のヌルミ(稲継美保)、ジジことツルオ(戸川純)という3世代で構成されていて、どうやらその辺り一帯はゲットーなんだね。

水越 「近未来」とは現代の辺境で、その辺境が数年後の世界に広がっていく。そして”姥捨”の話はおそらく人類の抱えてきた長い長いテーマで、さらにもっと広げれば、”役立たず”の話こそが神話を始めとするすべての物語の原型じゃないかね。

三田 それは新自由主義がはっきりさせたよね。役立たずはみな社会のお荷物だと。それでもすべての人には遺伝子改良が施されていて、社会全体としては「進歩」はしていることになっている。

水越 まあ、その状況、現実が原型であって、物語となるときは役立たずの再生、役立たずの英雄化こそ語り継がれてきたものだけどね。この芝居では役立たずは「Fランク」と呼ばれてる。そういう単語の使い方が現代との回路を強く意識させるんだよね。そういう打ち棄てられたひとびとが自給自足で生き延びている集落なんだよ。「2050年には人口が一億人を切り、三分の一が後期高齢者となる日本」のどこか。

三田 戸川純演じるジジだけが、社会がそうなる以前の記憶を持っている。

水越 そう。その設定のほか、昔、一世を風靡したポップスターだったという設定や歌いながらの登場なども現代と、舞台となる近未来とのつなぎ役になっていて、この近未来は空想じゃないじゃん、と感じさせるんだよね。

三田 自由恋愛が禁止された根拠は明らかにされていない。最近だと少女マンガの『恋と嘘』は少子化対策として自由恋愛は禁止されていたり、少しひねってあったけど、映画『ロブスター』も自由恋愛を野放しにしておかないという意味では妙に世界的なトレンドとしてテーマ化されている。『グッド・デス・バイブレーション考』でもそこは危機意識を共有しているということなんだろうけれど、さらには「歌」も禁止されている。通底しているのは「感情」の自由を許さない社会を想定していることのようで、戸川純演じるジジもその世界には順応しているかに見えるわけですね。

水越 表向きの根拠は、差別の禁止だよね。たった一人を選ぶのは差別になるからいけないって、ネットのどっかで誰かが愚痴ってるような与太を大真面目な建前として「恋愛禁止」になるという荒唐無稽さが最近の政治を見てると逆にリアルだったりする。細かいところまでこのリアルさは凝ってるんだよ。たとえば「家族だけは愛していい」とか。それで、感情を刺激する歌や知識を伝える文字も同時に禁止されるところがこの作品の大きなテーマだと思うな。ここで禁止されていたのは戸川純、的なものだった。

三田 ああ、なるほど。「戸川純禁止」。最初、あの世界に順応している戸川純がとても大人っぽくて、老賢者のような役だったでしょ。あれがとても新鮮でね。普段、楽屋で話したりする彼女とは本当に別人。戸川純自身にああいう側面もあるのかなと思ったり、完全にそういう役になり切ってるのかなと思ったり、「劇」として本当に楽しめた。作と演出の松井周は昔から戸川純のファンだったのでキャスティングしたと語ってたけど、なのに、あれをやらせるというのは、その時点ですでに批評的な意味を持っていて、とても知的な発想だと思いました。

水越 「戸川純禁止」!!!(笑) で、松井周は若い頃から何度も読んできたという「楢山節考」についてこう言っている。「「姥捨」という制度にノリノリで従おうとする「おりん」というおばあさんの自己犠牲の話は近代以降の社会や人権という発想に真っ向からぶつかります。けれど、それでも惹きつける魅力があるのです。「見過ごせない美しさ」のようなものです。生き物としてのさだめとも読めそうな、はっきり言えば危ない哲学です」。この作品は、そういう退化、野暮の見かけで現れた異端だったんだと。大正モダンの装いであわられ、ときに反動的なイメージで見られることもあった戸川純を思い出すじゃない? 松井さんはそんな「危ない哲学」を美しく軽妙に、現代に移し替えている

三田 その哲学というのは「家族」を優先させるということ?  夢警察とか思想警察とか、いろんなものが取り締まられているのに「家族」だけが無条件で許されているのは異常な感じだったよね。

水越 安倍政権の念仏にあるじゃん。「自助、共助、公助」つーのが。「共助」ってあれ、「家族」のことなのよね。親族が生活保護を受給していることで攻撃された芸能人がいたけど、あれの旗振りは自民党の議員だったでしょ。家族愛という建前のうしろには、社会保障費削減もある。しかしそういう打算以上に、ほんとうに家族の絆が好きなのかもしれない。選択的夫婦別姓への抵抗などから推察すると……。
芝居の中で、ヌルミがそのことを「秘密の話」みたいに息子にいうところは割と高度なユーモアだと思った。なんつー近未来! いや、現代!って。 ちなみに、姥捨も現代の美徳として語ることは簡単なんだよね。「尊厳を持って人生が終わることを実現し、医者も安心して対応できるような仕組みを考えたい」(安倍晋三)、「(社会保障費削減案を問われ)一言だけ言わせていただくと、私は尊厳死協会に入ろうと思っているんです」(石原伸晃)、「いい加減死にたいと思っても、『生きられますから』なんて生かされたんじゃかなわない。しかも政府の金でやってもらっていると思うとなるとますます寝覚めが悪い」(麻生太郎)などなど、おりんおばあちゃんの自己犠牲精神はかくも健在ですよ。問題は、現実に多くの日本人が「病気で生きるくらいなら長生きはしなくていい」としか思えずにいることで、姥捨を過去の物語にできないでいること。

三田 この一家は微妙に国家に蝕まれていて、それは「死んだと思っていた子ども」に対す感情が根深くストーリーを左右するところに表れている。実際にゲットーで暮らしている人たちって、誰もが国家に対する抵抗勢力になるとは限らなくて、むしろ国家が理想とするようなものになる場合も多い。そうやって弱いものとして描いたことはリアリティのあるところだったかもしれない。

水越 そうだよね。問題は、政治家たちが社会保障政策削減のために尊厳死を利用しようとしていること以上に、現実に多くの日本人が「病気で生きるくらいなら長生きはしなくていい」としか思えずにいることで、姥捨を過去の物語にできないでいることだよね。ヌルミが繰り返す「お国のために」という言い方は、いまなら違う言い方になってるんじゃないかとは思うけど、分かりやすいよね。トランプの支持者に経済的弱者が多いというのと同じで、そのための「文字の禁止」=「教育機会の剥奪」でもあるんじゃないかな。
というか、考えてみればほとんどの家族ってそういうものだよ。だから、「家族」を隔離したいのかもしれないよ。日本の戦争映画ってたいがい「愛する人のため」とかいうけど、「家族」って弱点なんだよ。弱点だけで結束させて隔離すればどんなに誘導しやすいか。

三田 佐藤友哉の小説『デンデラ』は「楢山節考には続きがあった!」という触れ込みで、そうやって捨てられた老人たちが別な村を作って生き延びていたというカウンター的な発想だったんだけど、ああいう発想があったことは、多分、誰も覚えてないよね。『グッド・デス・バイブレーション考』も結末は相当に悩んだそうなんだけど、結論から言うと、そういった発想よりも実際の現実の方が重いという終わり方だったと思います。

水越 姥捨って、「楢山節考」でも今の現実の尊厳死でも、「美しい」ってことが最大の醜さなんだけど、この芝居ではジジの雰囲気がいつの間にか変わっていって、うやむやになっていく。ネタバレしたくはないけど、ここにジェンダーを見ることもできるよ。勇ましく麗しい理想はおじさん的なものじゃないのか? なんて感じにね。無理に見ることもないけど。

三田 そう、「いつの間にか」についてもっと論じたいんだけど、これ以上はネタバレなので……

タクシー運転手 約束は海を越えて - ele-king

 忘れてた。昨年暮れ、ele-king booksの『超プロテスト・ミュージック・ガイド』に原稿を書くことになって、10代の時に耳に入ったポリティカル・ソングをあれこれと思い出すことができて、我ながら大した記憶力じゃないかと思っていたのに、すっかり忘れていた曲があった。白竜の“光州シティ”である。正確にいうと「10代の時に聞いた」のではなく、1981年に“光州シティ”という曲が入っていたがために「白竜のデビュー・アルバムは発売禁止になった」ということを知っただけで、曲そのものにショックを受けたわけではなかった。実際に曲を聴いたのはもっと後のことで、調べてみると、それは自主製作盤としてライヴ会場では売られていたらしい。そこまでは知らなかった。ニカラグアの政変をタイトルにしたクラッシュの『サンディニスタ!』は聴いていたのに、その翌年に韓国で起きた「光州事件」にはそこまでの興味はもっていなかったということだろう。そして、例によってどんな作品かもよく調べずに観始めたチャン・フン監督『タクシー運転手』が「光州事件」を扱った作品だということがわかった瞬間、発売禁止のことまで一気に思い出すことになった。ああ、これか。ということは、あっという間に曲にして、さっさと葬り去られたということだったのか。素直に発売されていた方がむしろ僕の記憶には残らなかったかもしれない。「光州事件」というキーワードはそれ以来、いつも頭のどこかにあり、それがいま、目の前のスクリーンで再現されている。“光州シティ”でキーボードを弾いているのは、ちなみに小室哲哉である。

『映画は映画だ』(08)というウィットの効いた作風でデビューしたチャン・フン監督は前作の『高地戦』(11)でもすでに大きく社会派に舵を切っていた。南北朝鮮を分ける38度線がどのようにして決まったのかを扱った『高地戦』は目を疑うような内容で、それこそ何日か前にキム=ジョンウンとムン=ジェインが交代で跨いだあのラインは僕には死体の山にしか見えなかった。『高地戦』ほど無力感を覚えた映画も珍しく、さらには同じ民族に対してここまでやるかというテーマが『タクシー運転手』には引き継がれている。ストーリーは実に単純で、日本のプレスセンターにいたドイツ人ジャーナリスト、ピーターことユルゲン・ヒンツペーター(トーマス・クレッチマン)は光州で何かあったらしいという情報を耳にし、単身、韓国に乗り込む。家賃が払えなくて困っていたタクシー運転手、キム・マンソプ(ソン・ガンホ)はソウルから光州まで往復してくれれば大金を払うというピーターを他の運転手から横取りし、軍の検問を突破して光州に辿り着く。政治にまったくといっていいほど関心を持っていないマンソプは金さえ貰えればいいと思っていたものの、チョン=ドハン(全斗煥)政権が光州で行なっていた虐殺を目の当たりにして動揺し、自分の目の前で起きていることをピーターが世界に報道しなければならないと思うようになっていく。僕にとっては馴染みがなかったけれど、映画はニュースなどで報道された場面がそっくりに再現され、さながらドキュメンタリーのようなつくりなのだという。エンドロールの前には役者ではなく、ユルゲン・ヒンツペーター本人が出てきて、回想を語るシーンもある。

 光州で軍事独裁に抗う様々な人々。キム・マンソプが光州で出会う学生や同業者たちはかなり念入りに造形されている。ソウルで軍事独裁に反抗していたのは一部の学生だけで、それらは理解しがたいものだと思っていたマンソプも光州市民と行動を共にしているうちにだんだんどっちが正しいのかわからなくなってくる。一気に考え方が変わってしまうわけではないところがこの映画は上手い。「おにぎり」の使い方も巧みだった。韓国映画を何本か観たことがある人なら、韓国にはチョルラド(全羅道)差別があることにはすでにお気づきのことでしょう。『サニー 永遠の仲間たち』(12)のような楽しい映画でも発音が少し違う友だちがそのことを隠そうとしていたり、最近でも『荊棘の秘密』(16)で「奥さんは全羅道出身だからなー」というわざとらしいセリフがあったりと、気になり始めるとあちこちに爪痕は残されている。チョン=ドハンがなぜ光州で歴史的な国民の大虐殺を始めたかは、民主化を求めるデモが特に激しかったからということもあるのだろうけれど、おそらくこの差別も影響しているだろうとは言われている。そのことは特には『タクシー運転手』では描かれていない。さらには軍事独裁を容認していたアメリカについても言及はない。実在したタクシー運転手の目を通して「光州事件」が淡々と描かれ、韓国国内でさえ民主化運動ではなく長らく「北朝鮮に扇動された暴動」だと見なされていたという「光州事件」を79年から始まった「ソウルの春」と同じものだったと位置付けていく。そして、後半は取材テープをどうやって外に持ち出すかというアクション・モードに切り替わり、『アルゴ』や『コロニア』といった政治サスペンスと同じ楽しみに変えてくれる。「光州事件」がどれだけのものであったかは韓国の猟奇映画に出てくるシリアル・キラーの多くが「光州事件」の年に生まれたという設定になっていることからも窺い知れるものがある。良いか悪いかはともかく、それだけで説明されてしまうことがあるということなのだろう。


Alva Noto - ele-king

 本作『UNIEQAV』は、カールステン・ニコライの新レーベル〈ノートン〉におけるカールステン・ニコライ=アルヴァ・ノトによる初のソロ・アルバムであり、同時に08年の『UNITXT』、11年の『UNIVRS』から続いてきた「UNI」シリーズの完結編でもある。

 ここで「UNI」シリーズについて簡単に説明しておこう。まず、00年代中盤以降のアルヴァ・ノトが〈ラスター・ノートン〉で展開した連作シリーズはふたつあった。ひとつは「UNI」シリーズ。もうひとつは「ゼロックス」シリーズである。「ゼロックス」シリーズは07年に「Vol.1」、09年に「Vol.2」、15年に「Vol.3」が発表され、このシリーズも三作目で一区切りをつけたようだ。ゼロックスの名前のとおり「コピー」をテーマとしたアンビエント・ドローン連作である。
 対して「UNI」シリーズはリズミックなトラックを中心に収録するシリーズだ。発端は「アルヴァ・ノトが数十年前に東京のクラブ“UNIT”にブッキングされた際、その環境に応じたサウンドを作り出そうとしたのがきっかけ」という。つまり最初から「クラブユース」のトラックであることを目指していたようである。
 同時に『UNITXT』の後半部分で聴かれるように、音素からノイズ領域に還元された音響もサウンドの特徴を形成していたことも大きな特徴であった。いわばリズム/ノイズという音楽・音響の構成要素を素材の状態から再蘇生するように突き詰め、サウンド/トラックの生成・構成・構築を行っているのだ。
 その意味で「UNI」シリーズは00年代初期までの初期のサイン派のリズミックなコンポジションによるウルトラ・ミニマルな電子音響の流れにあるシリーズともいえる。コピー/生成という「ゼロックス」シリーズに近いテーマ性を読み込むことも可能だろう。

 新作『UNIEQAV』においては、そんなカールステン・ニコライのリズム/ノイズの生成・構築が洗練の極を迎えていた。かつての過激なまでのウルトラ・ミニマリズムは影を潜め、実にエレガントで端正なテクノ・トラックである。細やかなリズム、高密度な低音、ミニマムな電子ノイズなどが、ときにダイナミックに、ときにしなやかにコンポジションされ、聴き手を音響の渦の中に巻き込んでいく。グリッチ・サウンドを経由した10年代後半的な「モダン・テクノ」といっても過言ではない見事なトラックだ。

 この『UNIEQAV』では、そんなモダン・テクノ的なマシン・グルーヴに加えて、「ゼロックス」シリーズ(特に「Vol.3」)や、坂本龍一との共作である映画『レヴェナント』のサウンドトラックなどにあった音楽的な和声感覚もそこかしこに埋め込められてもいる。たとえば「ゼロックス」『レヴェナント』的な持続音で幕を開ける“Uni Mia”、その途中から鳴り始める「二つ目のコード」のように。
 加えて「声」の導入も「UNI」シリーズの重要な要素である。カールステン・ニコライが「声」をトラック内に本格的に用いたのは、おそらくは「UNI」シリーズからのはず。そして「UNI」シリーズの「声」といえば、フランスの音響詩人アン=ジェイムス・シャトンである。
 彼は〈ラスター・ノートン〉から11年に『Événements 09』、2012年にアルヴァ・ノトと、長年のコラボレーターであるアンディ・ムーアらとの共作で『Décade』をリリースしている。二作とも途轍もなくクールなヴォイス+電子音響だ。
 そのふたりの最初の共作トラックが収録されたアルバムが、08年にリリースされた『UNITXT』であった。カールステンの電子音響トラックに、アン=ジェイムス・シャトンの無機的な質感の声がこれほどの見事なマッチングを聴かせるとは思いもよらなかった。それは電子音響ヒップホップとでも形容したいほどの「クールさ」だが、何より世界の満ちている資本主義社会的な記号=言葉を反復するヴォイスは、「UNI」シリーズが内包していた世界認識論を体現していた。じじつ、11年の『UNIVRS』にもアン=ジェイムス・シャトンは参加し、三文字の企業・団体名/ロゴの英字を繰り返し発声し、アルバムのメッセージを強く体現していた。
 それは『UNIEQAV』の“Uni Dna”でも同様だが、前作までとは反対に、まずはトラックが先行制作され、そこにアン=ジェイムス・シャトンのヴォイスが重ねられたらしい(曲名どおりDNA情報に関するワードだ)。結果、アン=ジェイムス・シャトンによる「声」のリズムとアルヴァ・ノトのトラックのリズムの関係性が、ふたりのこれまでのコラボレーションから反転しているのだ。

 ではカールステン・ニコライは、この『UNIEQAV』ではトラック優先で、ビートの可能性を追及したかったのだろうか。しかしそれはビートというより、ある法則で区切られた音の線=リズムというべきかもしれない。「声」もまた法則で区切られた音の分割=リズムである。じじつ『UNIEQAV』におけるリズムは、“Uni Clip”などで聴かれるようにキーボードをタイプする音にも聴こえるし、“Uni Sub”のベースの3連などは、アン=ジェイムス・シャトンの声のようにも聴こえる。横溢する分断されるリズム=音の線。

 リズム。ノイズ。分断される音。これらが交錯する本作を聴いていると、不意にカールステン・ニコライが育った「東ドイツ」のことを考えてしまった。たとえば、彼が少年期などに耳にしていた東ドイツにおけるラジオ放送などを。
 私見だが、この最先端の電子音響の本質には、どこかカールステン・ニコライの記憶の層が織り込まれているように聴こえてならない。もしかすると「東」に住むカールステン少年・青年は、(おそらくは検閲によって)消えかけて(分断された)ラジオ放送を耳にしていたのではないか、と。思えば「ゼロックス・シリーズ」の「Vol.3」もまたどこか記憶の旅のようなアルバムあったが、本作『UNIEQAV』も音楽のフォームは違えども、やはり、同様のものを感じてしまった。
 サイン・ウェイヴ、グリッチ。ノイズ。マシン・リズム。90年代以降、ヒトから離れたマシン/エラーな音響作品を作り続けてきたカールステン・ニコライだが、00年代後期から10年代以降のシリーズ/アルバムには、彼の幼年期の記憶/人生も結晶しているようにも思えるのだ。20世紀後半、東ドイツの記憶。モダニズム建築。放送。ノイズ。音響。リズム。
 そう、知覚を圧倒するテクノロジーの交錯による最先端電子音響/モダン・テクノ『UNIEQAV』が放つマシニック・リズムのむこうには、ヒトの記憶が、まるで光のように交錯し、反射しているのだ。


4月に刊行された『現代プロレス入門』にて表紙を飾っていただいた葛西純選手をお招きし、5月28日、書泉グランデにて刊行記念サイン会がおこなわれます! 先着50名となっておりますので、ご予約はお早めに。

出演者
・葛西純選手(プロレスリングFREEDOMS)

イベント内容
・サイン会

開催場所 / 開催日時
書泉グランデ(神保町) 7F
2018年05月28日(月) 19時~

発券場所 / 発券日時
グランデ(神保町) B1F
2018年04月28日(土) 10:00~

【店頭受付】2018年4月28日(土) 10:00~
【電話受付】2018年4月29日(日) 13:00~
 TEL:03-3295-0017(直通)

※参加券1枚に付き、対象商品1点にサインをお入れ致します。
※サイン入れは対象商品のみとなります。予め、ご了承下さい。
※商品は当日、必ずお持ちください。

ご参加方法

4月28日(土) 10:00より書泉グランデBFにて『現代プロレス入門』をご予約・ご購入でご希望のお客様【先着50名様】にイベント参加券をお渡しいたします。

※商品1冊ご予約・ご購入につき参加券1枚の配付となります。
※状況により1回のご予約・ご購入数を制限させて頂く場合がございます。
※参加券1枚で大人1名様限り有効(お子様のご同伴は係にご相談ください)。
※電話受付は店頭受付開始日の翌日13:00から、残券がある場合に行います。
TEL:03-3295-0017(直通)

ご注意事項
*参加券配付は予定数に達し次第、受付を終了いたします。
*参加券は再発行ができませんので、紛失されませんようご注意ください。
*会場内は禁煙です。
*会場内外の録音・録画は禁止とさせていただきます。
*イベント当日、マスコミの取材カメラが入り、イベントの様子を撮影する場合がございます。
*やむを得ず、予告なしにイベント内容が変更となる場合がございます。
*営利目的による転売行為はおやめ下さい。転売が明らかな場合は、イベントへのご参加をお断りする場合がございます。
*イベント終了までにお支払いがございませんと商品はキャンセルとさせていただきます。
*イベント終了後2週間以上ご来店、ご連絡がない場合はキャンセル扱いとして、商品(特典)は処分させていただきます。
*イベントが長くなりますとイベントの途中で休憩を取らせていただく場合がございます。休憩時間中はお客様にはお待ちいただくことになります。皆様のご理解ご協力をお願いいたします。
*イベント終了時間は決まっておりません、ご参加のお客様が居られませんと終了となります。参加券をお持ちの場合でも遅れて来られますとご参加になれませんのでご注意ください。

(イベントに関するお問い合わせ)
★神保町・書泉グランデBF スポーツ&格闘技コーナー
TEL:03-3295-0017
営業時間 平日10:00~21:00 土日祝10:00~20:00

ザ・スクエア 思いやりの聖域 - ele-king

 格差に対する危機感はヨーロッパ映画に深く浸透し、そのことが更新を促している。昨年のカンヌ映画祭のパルムドールを受賞した本作『ザ・スクエア 思いやりの聖域』が表象するのはまず、その最新の成果といったところだろう。監督のリューベン・オストルンドは1974年生まれだが、 ヨルゴス・ランティモス辺りとともに下手したらミヒャエル・ハネケを過去へと追いやりかねない存在である。ここでのポイントは、格差の問題を (ケン・ローチやアキ・カウリスマキのように) 移民や難民、貧しき者たちの立場に身を置いて誠実に描くということでなく、むしろ中産階級やブルジョワの側に入りこんで風刺するということにある。
 オストルンド監督の前作『フレンチアルプスで起きたこと』(14)では、スキーリゾートにやって来た比較的裕福なスウェーデン人一家の父親が雪崩事故をきっかけに妻や子どもからの信頼を失う様が描かれていたが、海難事故などの緊急事態では「おんな子どもが先」とならない現実を証明したレポートから着想を得たものだそうだ。つまり、沈みゆく船はヨーロッパであり、「おんな子ども」は貧民である。雪崩から逃げようとした父親に悪気があるわけではない。危機に直面し、本能的に生き延びようとしただけだ。が、道義的に「正しくない」とされ、そのことで責められ、また自分自身が苦しむこととなる。

 『ザ・スクエア』ではそうした主題をさらにコンセプチュアルに押し進めている。舞台となるのは現代アート界。スウェーデンの現代美術館のキュレーターであるクリスティアンは新しい展示である〈ザ・スクエア〉を準備している。それは地面に正方形を描いただけの作品で、このような説明が付け加えられたものである――「〈ザ・スクエア〉は“信頼と思いやりの聖域”です/この中では誰もが平等の権利と義務を持っています/この中にいる人が困っていたら それが誰であれ あなたはその人の手助けをしなくてはなりません」。要は、クリスティアンは一流のキュレーターとしてアートを通して現代における道義を世に問おうとしているのだ。そこまでを背景として、物語は彼が財布とスマートフォンを盗まれるところから動き始める。GPS機能を使って犯人の在りかを突き止めるが、そこはおもに低所得者が暮らす集合住宅だった。部下にそそのかされたこともあり、全戸に脅迫めいたビラを配って盗品を取り戻したクリスティアンだったが……というところから彼の立場は危ういものとなっていく。しかも〈ザ・スクエア〉のキャンペーンはネットで炎上。これは現代の「正しさ」が皮肉な結果を生むことの典型的な例だが(正義を訴えれば訴えるほど炎上商法に加担してしまう)、クリスティアンが自分のことでいっぱいいっぱいなせいで「道義」のことが目に入っていなかったときに起きてしまったことだ。
 たとえばアンドレイ・ズビャギンツェフの『ラブレス』(17)やミヒャエル・ハネケの『ハッピーエンド』(17)がそうだが、近年のヨーロッパ映画の一部の作品では経済的にある程度以上の水準を保つには他者の犠牲に無関心になるしかない、という側面が強調されている。だが『ザ・スクエア』のクリスティアンはべつに無関心、なわけではない。キュレーターという立場からできれば何か世に示したいとすら思っている。が、それは現実の世界では――〈ザ・スクエア〉の外では実現できないのである。そこでは自分の立場や財産を守ることが最優先されるからだ。

 そもそも〈ザ・スクエア〉はそもそもオストルンド監督が実際に携わったプロジェクトである。そして、それ自体がエリート主義めいた小賢しさを孕んだ試みであるとじゅうぶん自覚している。要は自己批判なのだ。その上で、現代アート界の欺瞞や追いつめられていくクリスティアンの姿をドライな演出で滑稽に映し出していく。そう、クリスティアンに悪気はない。盗まれた物を取り返そうとしただけ。だけど、そこから導かれる行為には「信頼と思いやり」も「平等の権利と義務」も「手助け」もない……。彼もまた、資本主義リアリズムに囚われて身動きが取れなくなっている。
 映画は当然クリスティアンを批判的に描いているのだが、しかしながら、ハネケがブルジョワを冷血の権化として登場されていることに対し、オストルンドはどうにか彼の人間味のようなものを浮かび上がらせようとする。彼は間違いを何度も犯しながら、それでも真に人道的であるということはどういうことなのかを辛うじて学んでいく……もったいぶったアートのなかでなく、現実のものとして。これはその不格好な過程を見守る映画なのだ。〈ザ・スクエア〉の外にこそある思いやりを、そして、わたしたち全員の課題として持ち帰らせようとする。ギリギリのところで相互扶助の可能性に懸けているように見えるのである……というのは、僕の願望が含まれているだろうか?

 ところで、〈ザ・スクエア〉の四角とは何のことなのだろう。たぶんにスマートフォンの画面ではないし、よもや国境で区分けされた国家のことでもない。それはきっと、映画のスクリーンのことである……と言ったらそれこそ願望が入っているだろうが、しかし、本作――それが、アート映画というエリートの嗜みだとしても――を通してオストルンドが格差社会においてそれでも追求すべき「信頼と思いやり」を真剣に考えたことは間違いない。

予告編

Kali Uchis - ele-king

 忘れられないのは彼女の太い眉毛と長いつけまつ毛だけじゃない。「彼女は愛なんて要らない。欲しいのは僕(私)の100ドル」──スティーヴ・レイシー(not フリー・ジャズ奏者/R&Bバンドのジ・インターネットのメンバーで、シドのソロの共作者)が一緒に歌っているこの曲“Just A Stranger”のフックは、いちど聴いただけで覚えるぐらいキャッチーだ。決してハッピーな曲ではないがちょっとのりのりの気持ちになれるという、今日のダンス・サウンドを咀嚼したネオソウル・ポップの佳作だと言えよう。カリ・ウチスのデビュー・アルバム『アイソレーション(孤絶)』には、そんな洗練されたポップスが何曲も、そしてまた何曲もある。まあGW前だし、初夏だし、気持ちを上げる意味でも、最近聴いたポップ・アルバムのなかで断トツでお気に入りの1枚を紹介しよう。
 
 コロンビア系アメリカ人の彼女の名前は、すでに多くのポップス・ファンには知られている。なにせ彼女の参加作品/共演者のリストには、メジャー・レイザー、ミゲル、タイラー、ザ・クリエイター、ゴリラズ……などとある。18歳のときに発表したミックステープ(そのゆめかわいい曲たち)がその前年まで車のなかで暮らしていたという彼女の存在を音楽界に知らしめたのだった。
 コロンビアのラナ・デル・レイなどという風評もあるが、そこまで深刻に悲しいようには見えない。USのエイミー・ワインハウスという形容もあるようだが、そこまでレトロ・スタイルではない。が、たしかにワインハウスと似ていると思う曲はある。“Flight 22”と“Feel Like A Fool”、この2曲はレトロスペクティヴなソウルだが、まあ許そう、ほんとうに良い曲なのだから。

 とにかく、いろんなタイプの曲がある。オープナーの“Body Language”はなんとボサノヴァ調の曲で、かなり良い感じでドリーミーに展開する。スペイン語で歌われ、レゲトン調のアクセントを持つ“Nuestro Planeta”もじつに洗練されている。ブーツィー・コリンズとタイラーが参加した“After The Storm”は、サンダーキャットの領域をかすりながらも柔らかいファンクのクッションの上を沈んでいく。近年のR&Bにありがちな際だったことをやっているわけではない。基本に忠実でありながら今風にまとめられている。
 レゲエのダンスホール・スタイルをゆっくりと再生しながら彼女のセクシーな歌がまわり続ける“Tyrant”も印象的な曲だ。まあ、歌詞はそれなりにエロスと政治が絡められているようだが……(この暴力的な世界で耳に入るのは静寂……あなたは暴君? いまやすべてが暴動なのにあなたは静寂……) 
 アルバムのなかでもっとも意表を突いているのは、ほとんどクラウトロック(クラフトワークorノイ!)の"In My Dreams"。いや、これはなかなか……歌詞もまたユニークというかドラッギーというか……(私は夢の少女、夢のなかではお金の心配もない、ママもコークに手を出さない……幸せ、幸せ、誰も存在しない)。

 カリ・ウチスは夢の少女なのだろう。あの眉毛とつけまつ毛とピンクの印象にはなんかこう、ファンタジーすら感じる。とはいえ、彼女の『アイソレーション』という言葉には、ひょっとして、いや、たぶんぼくの妄想だが、ジョイ・ディヴィジョンの“アイソレーション”からの引用だったりして……などと思ってしまったりもする。ま、なんにせよ、考えてみればGW中に『アイソレーション(孤立)』なんて、ある意味皮肉が効き過ぎているよなぁ。ちなみにプロデューサーはTV・オン・ザ・レディオのデヴィッド・シーテックで、演奏しているのはバッドバッドノットグッド。

August Greene - ele-king

 今年の頭にロバート・グラスパーがふたつの新プロジェクトを開始しているというニュースが入ってきた。ひとつは「R+R=NOW」というもので、クリスチャン・スコット、デリック・ホッジ、ジャスティン・タイソン、テイラー・マクファーリンによるバンド。こちらは今年の『東京JAZZ』での来日も予定されている。
 そしてもうひとつはオーガスト・グリーンというもので、コモンとカリーム・リギンズとによるユニット。グラスパーはコモンと旧知の仲で、いままでもいろいろと共演しており、ロバート・グラスパー・エクスペリメントの『ブラック・レディオ2』(2013年)にもコモンは参加していた。カリーム・リギンズは1990年代よりコモンの数々の作品の共同プロデューサーを務め、またJ・ディラやエリカ・バドゥなどの作品に関わる一方でジャズ・ドラマーとしても活動するなど、グラスパー同様にジャズとヒップホップ/R&Bを繋ぐような存在である。
 この3者が集まったオーガスト・グリーンは、そもそも2016年10月3日(※オバマ政権時代)にホワイトハウスで行われたセッションが発端となる。当時「サウス・バイ・サウス・ローン」というアート・イベントが米大統領官邸で開催され、その一環で〈NPRミュージック〉によるライヴ配信シリーズの「タイニー・ディスク」の特別篇が図書室で行われ、そこにコモンが出演した。バックで演奏したのはグラスパー、リギンズほか、キーヨン・ハロルド、デリック・ホッジ、エレネ・ピンダーヒューズで、ビラルもゲスト出演していた。コモンが『ブラック・アメリカ・アゲイン』(2016年)をリリースする11月4日の1ヶ月ほど前のことで、このアルバムから数曲が披露された。『ブラック・アメリカ・アゲイン』にもグラスパーとリギンズはプロデューサーとして参加しており、リリースから4日後の11月8日は米大統領選の投票日だった。『ブラック・アメリカ・アゲイン』は「ブラック・ライヴズ・マター」に触発されたアルバムで、ドナルド・トランプへの対抗姿勢が示されたものだったが、結局コモンたちの願いとは裏腹にトランプ政権が誕生することになる。

 そうした観点から、『オーガスト・グリーン』は『ブラック・アメリカ・アゲイン』のその後を描いたアルバムとなる。「もし、俺が黒人のケネディだったら」と歌う“ブラック・ケネディ”に示されるように、黒人たちのアメリカの夢を再びというメッセージがここでも繰り返される。コモンによると、ケネディ一族はアメリカの富や権力、影響力の象徴であり、それを黒人の流儀でやったのが“ブラック・ケネディ”となる。
 そして、グラスパーはこの曲に黒人たちの不屈の強さを込めている。ブランディがゲスト参加した“オプティミスティック”は、ゴスペル・グループのサウンド・オブ・ブラックネスのカヴァー。原曲がリリースされた1991年はR&Bやハウス・シーンも巻き込んでのヒットとなったのだが、今回のカヴァーに際しては映像作家のB+を監督に迎え、キング牧師記念日にミシシッピ州のジャクソンでPVが撮影された。コモン、グラスパー、リギンズ、ブランディらに加え、ミシシッピの人権活動家らが登場する内容となっている。
 なお、“レッツ・ゴー”と“プラクティス”に参加しているサモラ・ピンダーヒューズはラッパー兼ピアニストで、前述のホワイトハウスのセッションに参加していたフルート奏者エレネ・ピンダーヒューズの兄にあたる。“レッツ・ゴー”や“フライ・アウェイ”はフォーキーで枯れた味わいが印象的で、“アヤ”はグラスパーらしいジャズ感覚が表われた曲。演奏にはギターやフルートなども加わっていて、クレジットはないがエレネ・ピンダーヒューズがフルートを吹いていたりするのではないだろうか。“ノー・アポロジーズ”はブロークンビーツ的なジャズ・ファンクで、コモンのラップはラスト・ポエッツ風。この曲に顕著だが、リギンズのズレてよじれたドラミング・ビートがアルバムの聴きどころのひとつでもある。

 本作はオーガスタス・グリーンの自主制作となり、いまのところCDなどの発売はなく、配信もアマゾン・ミュージックのみと限定的な形でのリリースとなっている。どのような理由でこうした形態となったのかはわからないが、政治的な問題なども絡んで大手のレコード会社などからはリリースできなかったのだろうか。ただ、リリースにあたって前述のPVや「タイニー・ディスク」でのライヴ披露などプロモーションが行われ、そうした話題性とともに作品そのものは非常に内容が濃い。2018年のブラック・ミュージックの重要作として記されるべき作品である。

Lolina - ele-king

 ファースト『ライヴ・イン・パリス』の収録曲の一例……“マスかき最後の日々”、“私はあなたのアンビエント妻”、“怒り”、“EUの時間”……、そしてセカンド『ザ・スモーク』……“フェイクな街、リアルな街”、“スタイルと罰”、“失われたエヴィデンス”、“ハッパと花の小道”、“殺人”、“裏切り”……ほか。
 インガ・コープランドを名乗る女性(exハイプ・ウィリアムス)による、ロリーナ名義の2作目、いまのところBandcampで配信のみのリリース。日本円にして約1200円。

 ロリータ、いや、ロリーナ。希望はない。フェイクな世界を生きる。
 コープランド名義ではシンセ・ポップのスタイルで意味深そうな歌を歌った彼女は、ロリーナ名義ではより自由形式による表現を展開している。ピアノによるライト・クラシック調にはじまりヒップホップへと転じる“ルーレット”、気怠いラップが入る“フェイクな街、リアルな街”、インダストリアル調の“スタイルと罰”、プリミティヴなビートの“川”、R&B調の“失われたエヴィデンス”、シンセ・ポップ調の“ハッパと花の小道”、催眠的なウェイトレスと反復の“殺人”、アカペラではじまる“裏切り”。
 すべての曲が最小限の音数で展開される(歌+αにもう1音ぐらいの感覚)。それは収まりの悪いムード音楽や古めかしい舞台音楽、無邪気さを欠いたフレンチ・ポップスのようでもあるが、すべての歌唱には抑揚がなく、晴れやかさというものがない。商業的なポップ・ミュージックにおけるカタルシスが欠如しているし、曲名からも察することができるように、何か良からぬものの気配がある。まるでクラフトワークがヤング・マーブル・ジャイアンツをカヴァーしたようなスカスカの短音階の楽曲であり、暗がりのなかのつぶやきの音楽だ。“フェイクな街、リアルな街”や“川”といった曲で彼女が見せるM.I.A.調のラップにしても、じつに気が抜けている。
 しかし、そう、これが彼女なのだ。さんざん裏切られてきた者であるが故に期待を裏切り、正直であるが故にときに絶望的であること。彼女がかつて在籍していたハイプ・ウィリアムスとは、21世紀のTGである。

 アリーナ・アストロヴァというのが彼女の名前らしいが、いまだにぼくたちは彼女がどんな人なのか、そもそも音楽に対する彼女の考えがどういうものなのかを知らない。虚偽であるなら過去のわずかなインタヴューで語っているが、いまだ彼女は公の場で自分を語らないし、自分を巧妙に隠し続けている。5年以上インターナショナルに活動していながら、いまもなおその実体を知られていないということそれ自体が現代社会を思えばすごいことだ。
 が、他方でぼくはコープランド名義のソロ・アルバム『Because I'm Worth It』に彼女の本心を見た気がしている。それは、世界の裏側に拡がる圧倒的な空しさと関係しているのだろう。しかし彼女は、そうした負の感覚を感情で水浸しにすることはない。むしろドライなジョークに包んでいるように見える。つまりこの悪夢をジョークにすることで、彼女はそれを遠ざけている(相対化している)のだ。だからたとえば“私はあなたのアンビエント妻”も、彼女らしいユーモアのある皮肉だ。アイロニーは、彼女の作品における重要なキーワードである。
 『ザ・スモーク』に関して言ってしまえば、“フェイクな街、リアルな街”がベスト・トラックだろう。次点が1曲目の“ルーレット”、MVが上がっている“川”もたしかに面白い。ちなみに、その映像に情緒のひとかけらもないことは言うまでもないのだが……。
 このフェイクな世界を生きるうえで、人はシニカルになることを強いられている。ロリーナを聴いていると、それはそれでいいじゃないかと思えてくる。彼女のアイロニーとシニシズムは、ぼくのような感傷的なリスナーをしっかり捉えているんだし。

※文中の曲名は筆者が勝手に和訳しました。原題はdiscogsなどで見て下さい。

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