「Noton」と一致するもの

Seahawks - ele-king

 ポスト・チルアウト〜シンセウェイヴの隆盛もずいぶんと落ち着いて、いったん引き波モードに入りつつあるように感じられる今日このごろ。あっちへふらり、こっちへふらり。そんな移ろいやすいシーンのど真ん中にいながらも、太陽よりも高く、海よりも深く、どこまでも孤高に。そして、変わらないバレアリック・オーシャン・トリップで、現実のタガをゆるめ、見たことのない色遣いで、日常をビカビカとテカる極彩色に染め上げるロンドンのベテラン・デュオ、シーホークスの新作が漂着した。

 変わらない、といってもそれは彼らが捕らえて引き延ばした永遠の電子パラディーソ感覚のことであって、そこにたどり着くまでの冒険心はまたもや新しい表情を見せ、今作でも一段上の鮮度を約束してくれる。
 相変わらず深い靄に包まれたノスタルジックなシンセが跳ね回り、水しぶきを上げ、照りつける太陽の光を反射しながらコズミックにクルージング。これまでにもバンド編成で柔らかくも力強い演奏を聴かせてくれたが、今回のフル・バンドは特別だ。ベースとギターにホット・チップ〜LCDサウンドシステムのアル・ドイル。ドラムとギターにホット・チップの初期メンバーであり、現在グローヴスノー名義で活動しているロブ・スモウトン。そして、キーボードにホラーズのトム・ファースらを迎えたサウンドは、前作『アクアディスコ』で披露した「溶けろ! リアリティ〜!!」と言わんばかりの誇大妄想エキゾチカよりも心もち(生音が多いせいもあり)現実味を帯びたアーバニズムを聴かせてくれる。そして、特筆すべきは曲だけでなくアルバム全体のムードを先導するアルのベースである。スペーシーなうわものから独立した、もっこり野太くフュージョンチックなベース。タメを効かせ、スムースに波打つ余裕がじつにいやらしい、この、リズムとねっとり絡みあう魅惑のベースラインだけでも聴きごたえ十分ではないか。

 さらに、もうひとつのトピック。これまでジ・オーブばりのヴォイス・サンプルこそ多用していたものの、情緒あるサウンドのみで胸焦がすドラマを演出してきたシーホークスだが、なんと今作には明確な言葉がある。さまざまなゲストを迎えた歌がある。そしてこれが、シーホークスの世界がもつより具体的なイメージを露わにしてくれるのかと思いきや、またしても靄の向こうではぐらかし、僕たちを未開の海に放り出す。美しい……この手に届きそうで届かないもどかしさがたまらなく美しい。海辺のフィールド音と弾けるハウシーなビート、マリア・ミネルヴァの「rainbow sun...electricity...」というささやきからはじまる1曲め“レインボウ・サン” なんて、その言葉選びと発声だけで眩しくて視界くらくら。つづく、ティム・バージェス(シャーラタンズ)の渋みを帯びながらもふわふわ漂う歌声が心地よい夢想歌“ルック・アット・ザ・サン”は、ヨット・ロックなんてスノッブ気取り(?)ではなく、まるで10ccかロキシー・ミュージックの『アヴァロン』ばりのスメルズ・ライク・アダルト・オリエンテッド・スピリットがもわ〜んと匂い立ち、ホーン、トランペットの挿入からサックスのソロが立ち現れる瞬間なんて止まらないロマンチックに浮揚しながら哀愁にむせ返らぬばかりだ。さらに、ピーキング・ライツの奥方インドラ・ドゥニスをヴォーカルに迎えたエコーたっぷりのサイケデリック・オーシャン・ダブ、“ドリフティング”。これまでのシーホークス節を踏襲したインスト曲にしてタイトル曲“パラダイス・フリークス”など、しなやかな突起もたくさんだ。そして、極めつけは、80年代に2枚のシングルだけを残して音楽界から姿を消した——知る人ぞ知るエレクトロ・サイケデリック・ポッパー——ニック・ナイスリーをフィーチャリングした“エレクトリック・ウォーターフォールズ”である。まるでアニマル・コレクティヴが2005年のEP『プロスペクト・ハンマー』において、60年代に活動していた伝説のフォーク・シンガー、ヴァシュティ・バニヤンをゲストに迎え、再び彼女の存在に光を当てたように(じつはヴァシュティが引退後にはじめてレコーディングしたのはピアノ・マジックの2002年作『ライターズ・ウィズアウト・ホームズ』でだったりするのだが、この際それは置いておこう)、シーホークスはニック・ナイスリーを現代に蘇生させてともに手を取り、光輝くトロトロの電子の滝へとダイヴするのだ。

 シーンの波が引いてすべてが泡になろうが、通りすがりの享楽者が安易な叙情をまき散らし、そこをゴミで埋めつくそうが、シーホークスには関係ない。匿名性の高いシーンのなかで、彼らの一歩は誰もが見惚れる美しいフォームで、しなやかに、そして着実に新しい足跡を残す。水木しげる、田名網敬一らとのコラボレーションも納得できるヴィジュアル・アーティストのピート・ファウラーと、〈Lo Recordings〉を主宰し、80年代後半からクラブ・シーンの最深部でキャリアを築いてきたジョン・タイ。そんなふたりの創造主は、意識こそこちらを遠く離れ、ジ・アザー・サイドで、すすすい~と泳ぎ回っているものの、身体は現実世界にしっかりと足をつけ、いたって沈着に遊泳の舵を握る。
 そう、彼らはくそったれの現実から逃避するのではなく、それを解きほぐしてこちらがわりにたぐり寄せる。こっちの水も甘〜いぞ、と。そんな香りに誘われて、白んだ夜を彷徨う明け方4時ごろのレイヴァーたちは、シーホークスに連れられ、迷うことなく、優しく深いあいまいな海へと還るのだ。

 もうすぐ夏がやって来る。

Arca (DJ set) - ele-king

 「DJ set」というクレジットに不安をおぼえたひともいたかもしれないが、しかし、アルカのそれはまるでライヴだ。プレイ・スタイルは言葉どおり、まさにトータル・フリーダム。彼の進化系ないしは変異体。さながら魔術のようなCDJさばきからはトータル・フリーダムの影響力をまざまざと感じる(じっさい友だちだとのこと)。〈フェイド・2・マインド〉的なヒップホップ/R&Bのミックス感覚でもって音響的悪戯を極めたステージ。出世作のタイトル『&&&&&』はハッタリじゃない。ヴォーグに、ハウスに、アンビエントに、リック・ロスに、R&Bヴォーカルに、スムース・ジャズっぽいトランペットに、…メタル? たしかにミックスは(Tくんがジョージ・マイケルとデフトーンズの曲だったと証言するとおり)カオスそのものだが、一貫してダンス・ビートは崩されない。サウンドの根底には、エレクトロニカやグリッチ、そしてヒップホップがあるようだ(彼がもともとヌーロ/Nuuro名義でエレクトロニカ/エレクトロポップを作っていたこと、『&&&&&』にスヌープ・ドッグが鮮やかに挿入されていたのを思い出してほしい)。

 『&&&&&』からは想像するのがむずかしいほど、リスニングの姿勢で来たら面食らってしまうほど、アルカことアレックスのDJはハードなダンスを志向する。フロアを沸かしにかかる。が、沸きあがる直前でつぎつぎと曲を変えていく。エフェクトの使い方もすさまじく、ピッチもBPMも彼の思うがままに操作され、サウンドはぐにょんぐにょんに引き伸ばされ、ゆがみ、ぶっ飛んで、沈んでいく。DJというより、『&&&&&』のダンス・ヴァージョンをその場で作っていたような感覚だ。かつてのヌーロ名義のクリアなイメージとはほど遠く、ダーティでノーティ。ダークでエレガンス。エクスペリメンタルでありエクスペリエンス。脳は揺れ、身体が音楽をキャッチする。いったい何が彼を変えたのだろうか? 1時間半、彼の集中力と陶酔は最後まで崩れなかった。
 また、アルカとともに怪奇的な映像プロジェクト『トラウマ』を制作しているジェシー・カンダもロンドンから会場にかけつけており(VJはしていなかったようだ)、流暢な日本語でファンと話していた。
 『&&&&&』のヴァイナル化を経て、今年はアルカのアルバム・リリースが期待されている。これはかなり期待していい。再来日公演があれば、絶対に見逃さないでほしい。

 この夜は他の出演者も印象的だった。ゴルジェを牽引しつつ最新EPで「終了」を宣言したハナリ(hanali)も忘れられない。タムを激しく乱打しながら思いっきりダンスのモードで挑んでいて(本人いわく途中からはノープランだったらしい)、これまででいちばんの熱いライヴだった。マッドエッグ(Madegg)も、途中ナイト・スラッグス的グライムの趣味をのぞかせつつ、文句なしのカッコよさ。物販で買ったEP「4」も、疲れた身体にしみるクールな作品だ。

 もしかすると今年いちばんの夜だったのかもしれない。このイヴェントに立ち会えて幸福だった。また、〈モダン・ラヴ〉のショーケースでも感じたのだが、オーディエンスに若くクールな女性が多かったことも印象的だった。リカックスを筆頭に。

 今月24日の深夜にはJ・クッシュとトータル・フリーダムのDJが体験できた。(https://www.tokyoprom.com/2014/05/prom-nite-4.html)。#最高の夏がきた。

坂本慎太郎 - ele-king

 いままでとは違う。“ソフトに死んでいる”、“空洞です”、“あえて抵抗しない”、“なんとなく夢を”、“つぎの夜へ”、“幻とのつきあい方”、“まともがわからない”、そして『ナマで踊ろう』……、こう来ると今回はいままでは違うぞ、と思わざるえない。極端な話、人生の虚無をただただ受け入れながら、深沢七郎的な「ぼーっとして生きる」人間の歌を歌ってきた坂本慎太郎にしては、ある意味ロマンティックな題名、と言えるだろう。
 そして、そのタイトル曲には、こんな言葉がある。「昔の人間はきっと/音楽がかかる場所で/いきなり恋とかしていた/真剣に」……レーベルの資料によれば、人類滅亡後の地球が新作のコンセプトというが、つまり、未来から見た過去にあたる現在は、本当はもっとロマンティックなんだよと坂本慎太郎は諭しているように思える。まわりくどい表現だが、それが彼の持ち味だ。

 とはいえ、実際のところ『ナマで踊ろう』は、“ソフトに死んでいる”の拡大版というか、いままで以上に、アイロニーというものが強く描かれている。アイロニーというからには、皮肉る対象があるわけで、それは今日の社会ということになろう。英国のメディアからは「scary」という言葉で形容されている安倍晋三のことだろうし、新自由主義ということだろう。ウクライナ情勢に見る世界秩序の崩壊かもしれない。何にせよ、それが、単純な嫌悪感の発露だとは思えない。坂本慎太郎は例によって言葉をぼやかしているものの、いや、リスナーの内面から醸成されるであろう言葉を促すように……、しかし、どう考えても今回は毒づいているのだ。ここには憤怒がある。つまり、らしくない。「決してこの世は地獄/なんて/確認しちゃだめだ」「見た目は日本人/同じ日本語/だけどなぜか/言葉が通じない」なんて、らしくない。

 もちろん、何かを成し遂げたいとか、人生の勝負に出るとか、一発カマスとか、そうしたどや顔のギラついたものとは対極の、言わば勝っても負けても面白くないという坂本らしさは、言葉の随所にも、そしてサウンドにも見える。僕は最初の数回は、歌詞を気にせず、ただ音だけを聴いていた。ただ音だけを。この、ひたすら気持ち良い音だけを。ぼーっとしながら。気持ちよくなりながら。

 オーヴァーダビングされた、70年代の、ゆるいトロピカルな歌謡曲もどき……、たとえば“スーパーカルト誕生”は、いかにも昭和ムード歌謡な曲調をジョー・ミークがミキシングしたかのような曲だ。場末の酒場的で、不自然なほどエキゾティックで、滑らかで、なおかつ巧妙なまでにサイケデリックだ。
 デヴィッド・トゥープは、ミークについて「ブライアン・ウィルソンやリー・ペリーやフィル・スペクターのように、未知の領域からの音楽を具現化したいがゆえに、正気の外側においても音と奮闘したサイエンティストのうちのひとり」と説明しているそうだが、ミークといえば、かつてはチェリー・レッドから再発されたり、最近はジンタナ&エメラルズにカヴァーされたりと、近年とみに再評価されている音響加工の先達だ。
 ウィルソンもペリーもミークも、たしかに錯乱したり、スタジオを燃やしたり、自殺したりした。が、坂本慎太郎がそんなエクストリームな事態になると思えないのは、彼にはヘゲモニー的なるものに翻弄されない、なかば禅的な心持ちがあるように思うからだ。食って寝ればいい、何もしないことが最善だと言わんばかりの、そんな心持ちが。

 だが、今回は、違う。強いアイロニーをもって、何かを訴えている。ネガティヴな感性に居場所を与えない現代を「いびつに進化した大人たち」の社会として風刺する“義務のように”、それから、アイドルだろうと介護だろうと牢獄としての社会の一部だと厳しく描く“あなたもロボットになれる”で、アイロニーは乾いた笑いとともに最高潮を迎える。レトロを装った痛烈な批判者という意味において、忌野清志郎がタイマーズでやったことを坂本慎太郎は彼なりのやり方でやっている、と言えやしないだろうか(“争いの河”とかさ、ああいうのを思い出す)。
 そして、“やめられないなぜか”~“この世はもっと素敵なはず”にかけて、坂本慎太郎は、あたかも世界の瀬戸際から、皮肉に満ち、ウィットに富んだ社会的コメントのオンパレードを展開する。「地震 水害 台風 大火災/見舞われるたんびにもうやめよう/と思った/でもやめられない俺は/あれを」、「そいつがこの危険な/この国の独裁者/歯向かった人間は/すべて消してしまう」、「お前正気か?(あいつらみんな人形だよ)」……。アルバムの最後に彼は、あけすけもなく、「ぶちこわせ(この世はもっと素敵なはず)」と繰り返す。ぶちこわせ。ぶちこわせ。これはパンクでもハードコアでも、ガレージ・ロックでもない。徹頭徹尾ひたすら心地よく、精巧に作られたゆるいポップスでありながら、リスナーを闘争に駆り立てているかのようだ。

 いままでとは違う。坂本慎太郎は、いままで、間違った「あいつら」と正しい「僕たち」という単純な二分法を歌ってこなかった。だが、いま彼ははっきりと、間違った「あいつら」を指さしている。間違いは、死んだ目をした「俺」にも内在する。ともかく、“あえて抵抗しない”と歌った人が、いま、敢えて抵抗しているのだ。逆に言えば、それほどまでに、いま、「scary」な事態が進行している。本格的に。
 
 最後に豆知識をひとつ。いまや日本の音楽は、欧米のコレクターにとって最後の秘境としてある。これだけインターネットが普及して、英米以外の先進国の大衆音楽があらゆる切り口からアーカイヴ化されても、日本の音楽は、ほとんどされていない。いま、まさにされようとしているが、その歴史の長さ、リリース量の多さ、そしてまた、欧米になろうと思ってもなりきれないことの独創性から言っても、いまだ整理されていない大いなる秘境としてある。マヒナスターズがコーネリアスよりも脚光を浴びることになるかもしれない。ま、何にしても、坂本慎太郎は、ここが秘境であることをわかっているひとりである。

Plaid - ele-king

 いつだったかプラッドのライヴを観たときに、夕暮のなかを鳥の群れが飛んでいく映像を使っていたのをよく覚えている。それは彼らが鳴らす情緒的な電子音の戯れにじつによく溶け合っていたが、映像を見ているわたしたちの記憶のなかにもその風景はすでにあったはずである。ノスタルジックな感慨を抱かせる以前に事実として記憶を喚起させる。自分のなかでプラッドというと、鳥のシルエットがオレンジ色の背景を漂う姿がいつも浮かんでくる……それはプラッドがライヴ用に「作った」映像なのか、自分が実際に見た風景なのか、いまではもうわからない。

 誰もが円熟と言っているプラッドの10作め『リーチー・プリンツ』にはなるほど、新しいものがない代わりに彼らがこれまで長い時間をかけてきたものがよく練磨されており、聴いているわたしたちの25年の記憶をどこまでも曖昧にしていく。考えてみればオウテカの『エクサイ』もそうだったし、ボーズ・オブ・カナダの『トゥモローズ・ハーヴェスト』もそうだった。90年代の〈ワープ〉を特徴付けた、IDMのオリジネーターたちの作品群が内的な歴史を意識させるものにならざるを得ないのは、それだけ彼らの功績が大きかったということだろうし、20年という時間はじゅうぶんに長かったということなのだろう……リヴァイヴァルが決定的なものとなる程度には。『リーチー・プリンツ』には覚えやすく耳触りのいいメロディがふんだんに収められていて、それはブラック・ドッグ・プロダクションズから分断されるものではない。プラッド時代に移ってからでも、いつ聴いても心地いい『レスト・プルーフ・クロックワーク』や『ダブル・フィギュア』……から、滑らかに連なっていてる。ハープの音色が導入となる“オー”から、三連符の繰り返しが緩やかに高揚へと誘う“ホークモス”、華麗なオーケストラが展開される“リヴァプール・ストリート”まで、その優美さはますますきめ細かくなってはいるが。基本的にはリスニング向けに作ってあるが、“テサー”のようなずっしりとしたビートの曲にはダンスの感覚がないわけでもない。
 そして本作のテーマはまさに「記憶」であるという。アートワークでは自身のレントゲン写真に慣れ親しんだ環境の風景が重ねられているそうだが、それはまさに「自分」の「頭のなか」で起こっていることだと示すイメージである。それこそは20年前にアーティフィシャル・インテリジェンスが提唱したものであり、あらためて視覚化されているというわけだ。『リーチー・プリンツ』を聴いていると、この四半世紀の電子音楽のサウンドの冒険、ベッドルームでの戯れが浮かんでは消えていくようだ。わたしたちの「頭のなか」のエレクトロニック・ミュージックの記憶が、そこでこそ響き合っている。それがノスタルジーになってしまう前に、侵すことのできないドリーミーな領域を守り続けるように。

HOUSE definitive@DOMMUNE - ele-king

 来週のブルー・マンデーの26日、7時からドミューンにて『ハウス・ディフィニティヴ』刊行記念のトーク&DJがあります。

 出演:西村公輝、三田格、Alix-kun、鈴木浩然、野田努
 DJ:ドクター西村、Alix-kunほか
 
 ドクター西村氏のハウス研究の道のりと最新成果をはじめ、ジャパニーズ・ハウスのコレクターでもあるフランス人DJのAlix-kunの「日本のハウスの再評価」、西村氏をして「NYハウスに関して鬼のように詳しい」と言わしめる鈴木浩然氏のガラージ話、久しぶりの出演となる三田格と野田努がハウス・ミュージックへの思いを語り尽くします。
  『ハウス・ディフィニティヴ』を買ってくれた人、これからハウスを聴いてみたいという人、ものすごく暇な人、いつまでたってもハウスが嫌いな人、ご覧いただければ幸甚です。
 また、DJでは、Alix-kunが「ジャパニーズ・ハウス・セット」を、ドクター西村氏が『ハウス・ディフィニティヴ』セットを披露するでしょう。
 26日は7時からずっとドミューンにおりますので、みなさん、お気軽にいらしてくださいね。ヨロシク~。

The Mistys - ele-king

 ザ・ミスティーズは、ザ・ボーツのアンドリュー・ハーグリーヴスと女性ヴォーカリスト、ベス・ロバーツによるユニットである。
 透明で幽玄なヴォーカル、激しい電子ノイズ、歪んだビート。このアルバムを近年流行のインダストリアル/テクノとして分類することは当然可能だ。だが同時に、ヴォーカル入りゆえ、ポップ・ミュージックを「偽装」してもいる。これが重要だ。この偽装によって、聴き手の意識をノイズの奔流へとアジャストさせ、時代の「底」へと連れ出していくのだ。「底」とは芸術の底でもある。それはすべてが可視化されるインターネット環境下における「抑圧されたものの回帰」だ。暗く、不透明で、ノイジーな音などの抑圧されたものたちの回帰。ザ・ミスティーズに限らずインダストリアル/テクノは、そのような音楽とはいえないか。バタイユとフロイトの申し子のように。

 ザ・ミスティーズについて先を急ぐ前に、まずはザ・ボーツを振り返っておく必要がある。ザ・ボーツは、アンドリュー・ハーグリーヴス とクレイグ・タッターサルがオリジナル・メンバーのエレクトロニカ・ユニットであった。「あった」というのはその音楽性が、現在、大きく変化しているからだ。これまでの経歴を確認しておこう。
 ザ・ボーツは2004年に最初のアルバム『ソングス・バイ・ザ・シー』を〈モビール〉から発表した。〈モビール〉は、00年代中期において、エル・フォグやausなどのアルバムをリリースしていたUKのエレクトロニカ・レーベルである。ザ・ボーツは〈モビール〉から『ウィ・メイド・イット・フォー・ユー』(2005)、『トゥモロウ・タイム』(2006)と3枚のアルバムをリリースしている。総じてIDM的な響きにアンビエント的な持続が軽やかに持続し、いわばフォーキーなネオアコースティック・エレクトロとでもいうべき、いかにも00年代中期的なエレクトロニカである。
 2008年以降は自らのレーベル〈アワー・スモール・イデアス〉から『サチュレーション, ヒュム&ヒス』(2008)、『ザ・バラッド・オブ・ザ・イーグル』(2011)、『バラッズ・オブ・ザ・ダークルーム』(2011)などのアルバムや各種EP、ausが運営する〈フラウ〉から『フォールティ・トーンド・レイディオ』(2008)、〈ホームノーマル〉から『ワーズ・アー・サムシング・エルス』(2009)などのアルバムをリリースする。その作品は次第にモダン・クラシカルな要素が導入され、サウンドの色彩感にも変化を聴きとることができた。そして2011年。〈12k〉から『バラッズ・オブ・ザ・リサーチ・デパートメント』を発表する。このアルバムは彼らのエレクトロニカ/モダン・クラシカル路線の総括とでもいうべき作品だ(ちなみに、アンドリュー・ハーグリーヴスは、ザ・ボーツの他にもテープ・ループ・オーケストラなどを結成し活動)。

 以降、ザ・ボーツは大きな変化を遂げることになる。2013年、彼らは新たな自主レーベル〈アザー・イデアス〉を設立。そのサウンドはインダストリアル・サウンドへと急激な変貌を遂げる。ザ・ボーツは、〈アザー・イデアス〉からカセットテープ・オンリーで『ライブ・アット・St.ジェームス・プライオリィ,ブリストル』(2013)、アルバム『ノーメンカルチャー』を立て続けに発表。そのアートワークもインダストリアル/テクノのイメージを喚起させる赤とモノトーンの色彩を基調とした象徴主義的なイコンを思わせるデザインへと一変した。この変化は少なからずリスナーを驚かせた。あのザ・ボーツがこのような音になるとは誰も予想していなかったからだ。

 その〈アザー・イデアス〉最初のリリースが、ザ・ミスティーズの7インチ・シングル「ストーキング / ドロワーズ」(2003)である。この7インチ盤に続き、彼らは60ページのブックレットと5曲入りのCDがセットになった限定盤『レコンビナント・アーキオロジー』(2013)をリリース。ついでアルバム『リデンプション・フォレスト』をLP限定300部で発表した。そして本年2014年、日本のレーベル〈プレコ〉からオリジナル盤に4曲の未収録曲(傑作シングル“ストーキング”と“ドロワーズ”も収録)を加えた完全版とでもいうべきCD盤をリリース。さらに広いリスナーに彼らの音楽が届くことになった。
 インダストリアル化したザ・ボーツとザ・ミスティーズは同レーベルにおいてほぼ同時期にリリースされたこともあり、インダストリアル/テクノなトラックという音楽性には共通するものがある。だが、ザ・ミスティーズにはヴォーカルが入っている。エレクトロニカ時代のザ・ボーツからヴォーカル・トラックはあったが、現代的なインダストリアル/テクノにおいて、ヴォーカル入りはそれほど前例がない(アンディ・ストットはヴォーカルというよりヴォイスだ)。

 そして何より重要な点は、そのヴォーカルはメロディと歌詞があるにも関わらず、トラックに充満する歪んだノイズたちと同じように、それぞれの楽曲間のメロディの差異が消滅し、まるでトラックの中に蠢くイコンやサインのように耳に響く点である。
 たとえば本CD盤2曲めに置かれた“イノセンス”を聴いてみよう。ノイズの律動に、歪み切ったビートにヴォーカルが重なり、シンセベースの律動が耳を襲う。そうしたサウンドの洪水の中、ベス・ロバーツの声が意識へと浸透していく。そう、本作においてヴォーカルとノイズは同等なのだ。そしてドラムン・ノイズとでも形容したい激しいリズムを持った“ベヒモス“の衝撃。それはまさに時代への警告のように響く(ベヒモスとは旧約聖書に登場する怪獣の名であり、それは豊穣と破滅の両方を意味するという)。

 加えてザ・ミスティーズはヴィジュアルにも一貫したコンセプトがある。そのヴィデオは過去のモノクロ映画からシークエンスやシーンを丸ごと引用し楽曲を重ねていくという大胆なものだ。


A Birds Name


STALKING

 これらは20世紀の記憶を、音と映像によって再生成させる試みといえる。その音や映像には途方もない不安が漲っており、その不安がウィルスのように聴き手のイマジネーションを浸食する。過去を現在に蘇生すること。その不安、快楽、美。ザ・ミスティーズに限らず現代的なインダストリアルは20世紀のイコンとイメージを借用しているのだが、その大胆な借用の美学によって、ノスタルジアよりは同時代性を得ている。

 事実、現在の〈アザー・イデアス〉は、〈モダン・ラヴ〉や〈モーダル・アナリシス〉などのレーベルによって牽引される現代的なインダストリアル/テクノの動きと共鳴している。それはこの「暗い」時代と連動する美学的潮流でもある。絶望の時代を「暗さ」をゆえに嫌悪し、無理に明るく振舞うのではなく、その「暗さ」に積極的にアジャストし、絶望を「美学=アート」として変貌させていくこと。それによって時代の底から世界に抵抗すること。私は〈アザー・イデアス〉をはじめ〈モダン・ラヴ〉、〈モーダル・アナリシス〉、〈ホスピタル・プロダクションズ〉などのインダストリアル/テクノ/ノイズレーベルのリリース活動は、そんな世界への「抵抗/接続運動」の発露ではないかと思っている。

 小春日和のような2000年代を象徴する牧歌的なエレクトロニカから、ダークなインダストリアル/テクノへ。〈アワー・スモール・イデアス〉から〈アザー・イデアス〉へ。そう、イデアはいま、別の領域に至っている。

古池寿浩 - ele-king

 松葉色の味わい深いくすみが路辺に生きる雑草を思わせる紙ケースの片隅に、井の字をあしらった切り抜きが拵えられている。そこからは生まれ落ちて成育し、楽器を手にして次の世代を残す蛙の姿の、延々とつづく生命の循環の一コマが顔を覗かせており、盤面を回転させることによって、そのサイクルを辿っていくことができるようになっている。書籍の装幀などを手掛けてきた谷田幸によるこの小粋な容れ物に収められているのは、トロンボーン奏者の古池寿浩による初のソロ・アルバムとなる『井の中の蛙』である。
 1974年生まれの古池は、いわゆる音響的即興を活動の中心に据えつつも、渋さ知らズや藤井郷子オーケストラ、宇波拓率いるHOSEなどでも活躍し、元コンポステラの中尾勘二と関島岳郎とともに組んだバンド・ふいごにおいては、今年で結成15周年を迎えるという手練れである。その苗字から連想される芭蕉の名句を体現するかのような音楽は、しかし自然を模すことによって生み出されたものというよりも、彼のトロンボーンに対する飽くなき探究心が、偶然にもその音色と交差していく様子を聴き取ることができるようなものとなっている。

 欧州に滞在した経験もある古池は、彼の地では日常的に行われているという自宅コンサートを、ここ日本において定期的に開催してきた。極小の空間で奏者と聴者の親密な関係性のもとに行われるライヴは、音量を抑えなければならないという物理的な制約も手伝って、微弱な音の中にある豊穣な音楽を紡ぎ出すという、音響的アプローチが中心となった試みである。その企てを発展させるかたちで大崎〈l-e〉において月に一度のペースで開催してきたイヴェント〈井の中の蛙〉の、本盤は集大成であるといってもよいだろう。お玉杓子(オタマジャクシ)、鳴嚢(鳴き袋)、黒斑紋(トノサマガエルなどにみられる模様)、蟾酥(ヒキガエルから抽出される生薬)、それに森青やオットン(ともに日本固有の蛙の名称)といったように、すべての曲名が蛙と関連づけられており、その音色もどこかこの生き物を思わせるものである。しかし一度そうした連想を断ち切って響きに沈潜してみれば、はたして本当にトロンボーンひとつによるものなのかと驚くほどに、多様な音を聴き取ることができる。引き延ばされた一音から湧き出る粒子状の音、抑制されたホワイトノイズ、打楽のような破裂音、あるいはモンゴルの伝統的歌唱法であるホーミーにも似た重音奏法による旋律。

 それはわたしたちがふだん、奏されるものとしてのこの金管楽器に潜在する音を、まるで聴き逃しながら接しているということに対する気づきとも言い換えられる。雑音/楽音の境界線は、知的には切り崩されていようとも、西洋音楽の規範を内面化して生きざるを得ないこの国にあっては、いまだに人々の奥深くに居座りつづけている。トロンボーンを吹くということが、単旋律を奏でるという意味で即座に解されることへの驚きのなさ。であればこそ、こうした試みには、過ぎ去った潮流の残り香として無視してしまってはならない現在的な価値があると言えるのだ。だが古池はさらに特異な歩を進めている。圧し殺された楽器の声が、奏者の全身を賭して掬い上げられるとき、すなわち気息が関与することで奏するものと奏されるものが一体となった音楽が生み出されるとき、それがわたしたちの記憶の底に埋れた響きと重なり合う瞬間がおとずれる。ここに散乱する表題が生きてくる。環境的な音に具体的なかたちがあらかじめ呈示されていることによって、わたしたちはほとんど奇跡としか呼びようのないトロンボーンと蛙の邂逅に立ち会うこととなる。それは大海を知らぬ井の中の蛙が、されど空の高さを知るようにして、トロンボーンという固有の道具から無限の想像力を引き出すことに成功している。

ENO & HYDE - ele-king

 やはりブライアン・イーノから語りはじめるべきだろうか。

 ブライアン・イーノは20世紀後半から現代に至るまで、ポップ・ミュージック/ロック・ミュージックの「知性」を体現する存在である。「知性」と は何か。好奇心である。彼の類稀な「知性」は、音楽を基点としつつ、アートやサイエンス、文学に至るまでさまざまな領域を、関心の広がりの赴くままに吸収 してきた。その過程でイーノは「アンビエント・ミュージック」という有名なコンセプトを生み出した。これは音楽のみならず芸術と環境を中継する概念/構造 でもある。彼の活動の中心概念は「音楽をいかにユーザーの生活=環境に溶け込ませるか」だったように思える。
 イーノがアーティスティックなアンビエント作品、ストレンジなロック・ミュージック、インスタレーションの制作やソフトウェアの開発のみならず、U2、 コールドプレイなどのメジャー・バンドまでも平気で手がけ、そのどれもが成功を納めてしまうのは、彼が「ユーザーの環境=生活の中にある音楽」という概念 の実現化を実践してきたからではないか。ヒット曲もミュージック・アプリも、生活の中になるアンビエント・ミュージックである。そう、つまりは文房具のよ うな音楽。
 ゆえにイーノは20世紀後半を代表する音楽家であると同時に、20世紀後半を代表する音のプロダクト・デザイナーである。

 この春、かねてから話題になっていたブライアン・イーノとカール・ハイドのコラボレーション・アルバムが〈ワープ〉からリリースされた(いまさら二人の経歴を語る必要もないだろう。検索すればすぐにわかるのだから)。
ネット上でも発売前から2曲が先行トラックとして発表されており、アルバムの雰囲気は多くのリスナーが掴んでいた。事実、このアルバムを通して聴いた者 は、先行トラックの2曲がもたらしたイメージと、大きな差異がないことに安心と納得を受け取ったはずである。イーノのファンならば「さすがはブライアン・ イーノ」と安心するだろう。それほどのファンでなければ「近年のイーノ御大の音だな」などと呟くだろう。またアンダーワールド=カール・ハイドを聴いてき たリスナーならば、彼特有のヴォーカル・ラインが本作でも健在であることに喜びを感じもするだろう。
 いずれにせよ、このアルバムを聴いたものは、決定的な「驚き」を感じることはない。ここにあるのは「驚き」ではなく「必然」なのだ。レコーディングの技 術的な部分や楽曲・演奏の細やかな箇所でより専門的に「驚く」ということはあるかもしれないが、一般的なリスナーにとっては、エレクトロニクスと生演奏が バランス良く交じり合った(しかし少しだけ変な)聴きやすいポップ・ミュージックである。それゆえ何度も聴けるアルバム=プロダクトに仕上がっているとい える。
 そう、このアルバムの最大の肝は「驚くべきことなど何もない」というブライアン・イーノの強靭なプロダクトの品質管理の意識が、しかし管理された窮屈さに収まることなく、ある種の風通しの良さを保持している点にある。

「驚きではない」。そこから本作を考察してみよう。たとえばイーノとハイドのコラボレーションに関しても驚くには値しない。なぜなら過去のライヴ競 演やハイドのソロ・アルバム参加などを考えれば必然であった。また、イーノはU2やコールドプレイなどのメジャーなロック・バンドのプロデュースを巧みに 実践してきたベテラン・プロデューサーである。アンダーワールドというテクノ・ユニットのポップ・スターのメンバーと仕事をすることに違和感があるわけで もない。

 リリース前にアナウンスされていたアフロビートの導入も、2011年のシェウン・クティのアルバムのプロデュースという直近例を挙げるまでもな く、イーノはトーキングヘッズのプロデュース時代からロック・バンドにアフリカン・リズムを一種の「モード」として取り入れてきた先駆者(の一人)であ り、やはり必然性がある。またポリリズムを駆使した本格的なアフロビートではないという点も同様だ。あくまでロックのビートを基準として一種の香水のよう にアフロビートがふりかけられているのだ。その点においてもイーノ過去作品と共通する。

 そして本作においてビートルズの“トゥモロー・ネバー・ノウズ”的なメロディの楽曲が多い点も「驚き」はない。もちろんイーノ単独曲では、まるで 70年代のロック期ソロ作品のようなメロディも聴かれるが(9曲め“トゥー・アス・オール”など)、カール・ハイド(とフレッド・ギブソン)との共作“ダ ディーズ・カー”““ア・マン・ウェイク・アップ”などリズムが強調される曲においては、念仏のような“トゥモロー・ネバー・ノウズ“的なメロディにな る。なぜならこれらのヴォーカル・メロディは、モーダルな構造のトラックの上で、そのコードの基音の狭間を這うように作られているからだ。結果としてブリ ティッシュ・ロックがミニマルビート化/テクノ化したときの一種の伝統として(ケミカル・ブラザーズ)、“トゥモロー・ネバー・ノウズ“化していく。

 ともあれ、このように簡単に列挙できるほど、このアルバムに「驚き」はない。そもそもイーノも(そしてハイドも)、奇想天外な「驚き」をもたらす アルバムを作ろうとは思っていなかったはずである。イーノは「イーノ・ハイド」という名義のアルバムを、プロダクトとしてほぼ完璧に仕上げた。何度も繰り 返し聴ける高品質な音源。手にする喜びのあるジャケットのアートワーク。
 イーノが自身の作品の、ある種の「アート・プロダクト」化を徹底しはじめたのは、じつは〈ワープ〉移籍以降の大きな特徴だ。『スモール・クラフト・オ ン・ア・ミルク・シー』(2011)以降、ジャケットのアートワークは装丁や紙質を含め完璧である。そしてデジタル化していく現在の音楽状況のなか、フィ ジカル盤のアートワークを追求していくのは大切な仕事だ。
 音楽的にも〈ワープ〉以降のイーノ作品は、風通しの良さ(イーノ特有のユルさ?)を保持しつつも、デジタル時代特有の輪郭線のクッキリしたグリッド感を 実現する精密なポスト・プロダクションを行うことで、自由と厳密さが絶妙なバランスの上に成立している。本作も同様である。

 しかし、それでもなお、本作には真に驚くべき点が3つある。1つは「サウンド・プロダクト・デザイナー、ブライアン・イーノ」だけではなく、独自 のメソッドを独学で学んだ「作曲家、ブライアン・イーノ」が不意に顔を出す点だ。とくに1曲め“ザ・サテライツ”のイントロのシンセ・ブラスのフレーズ。 そこに彼の指先が生み出す独特な響きを聴き取ることができるはずである。本作には、「音楽家イーノ」の素の顔がところどころに表出している。この音楽の魅 惑的な奇妙さ。その傾向は前3作よりも強い。

 2つ目は、それゆえイーノが主導権をもってアルバムを作り上げているように思える点である。65歳を迎えたこの音楽家は未だ完全に現役であり、プ ロデュースのみならず自らトラックを手がけているのだ。もちろんカール・ハイドのギターやヴォーカルは重要である。そして若き共同プロデューサー・フレッ ド・ギブソン(20歳!)、シェウン・クティのアルバムで共同プロデュースしたジョン・レイノルズの功績も大きいだろう。だが彼らの奏でる音に対して、き わめて自由に、何の先入観もなく、オトノアソビのように介入し、サウンドの生成と戯れるさまこそブライアン・イーノの真骨頂だ(それゆえイーノ単独曲“ブ ラジル3”、“セレブレーション”が収められているデラックス2CD盤のディスク2は興味深い)。

 そして3つめは、ブライアン・イーノというひとりの人間の中の、ミュージック・プロダクトを巧みに作り上げるプロデューサー/サウンド・プロダク ト・デザイナーという側面と、単なるプロフェショナルに凝り固まることなく、音と遊びつづける永遠の天才的なアマチュアが、ごく自然に同居している点であ る。これが何より驚くべきことだ。だが、それこそが音楽の創作者として正しい態度とするなら、やはり「驚くに値しない」のだ。なんという円環か!

 あらためて結論を述べよう。ブライアン・イーノはつねに正しい。そう、「驚くには値しないこと」こそ、本当に「驚くべきこと」なのだから。

Pharrell - ele-king

 30才以下で、アファーマティヴ・アクションという政策を知っている日本人はどのくらいいるのだろうか? 
 先月4月24日付けのウォール・ストリート・ジャーナル(日本版)に、「米最高裁、ミシガン州のマイノリティ優遇廃止に合憲判断」という記事が掲載された。これは、ミシガン州が、公立大学入学において、アファーマティヴ・アクション(積極的差別是正策)を2006年に廃止したものに対して、米連邦最高裁判所が合憲と判断したというものであった。記事に付随していたアメリカの国立教育統計センターの2012年の統計によれば、大学進学比率は、ヒスパニック系が68.5%、白人が67%、黒人が62.1%と、ほぼその差がなくなっているという。さらに記事によれば、カリフォルニア州を含む8州では、ついに、と言うべきか、すでにアファーマティヴ・アクションは廃止されているとのことであった(この政策は、当初からアフリカ系アメリカ人の中でも賛否両論あり意見が分かれていた)。

 時代は完全に変わったのであろうか。少なくとも90年代は、「キープ・イット・リアル」といういまではいっさい聞かなくなった言葉に象徴されるように、アフリカ系アメリカ人によるヒップホップ・アルバムのほとんどは、行き場のない怒りと聴く者を威圧するようなサウンドに満ちていた。その時代を象徴する楽曲のひとつが、ファレル・ウィリアムスとチャド・ヒューゴによるプロデューサー・ユニット、ザ・ネプチューンズが手掛けた、ノリエガの“スーパーサグ”(1998)である。
 そもそも音楽という表象的な表現手段に留まらず、事実1992年には、日本でも大きく報道された「ロス暴動」というロサンゼルス市街で起きた大規模な放火、略奪といった多数の死傷者を出す事件すらあった。この事件の根は深く、ここでその背景を詳しく説明することは控えるが、それから20年以上が経過し、やはり時代は確実に前に進んでいると考えてよいのだろう。バラク・オバマが奴隷の子孫ではないにせよ、アフリカ系アメリカ人が大統領として国家のリーダーシップを取るその聡明な姿を日々メディアで目にすれば、一部の白人至上主義者がかつて持っていた有色人種に対する差別的な見解は、(当然なのだが)まったくの出鱈目であることは誰の目にも明らかだ。もしかしたら、アメリカの問題はすでに「人種」ではないのかもしれない。

 ファレル・ウィリアムスは、2枚目となるソロ・アルバム『ガール』をリリースした。公式インタヴューによれば、同アルバムは、ファレルが参加したダフト・パンクの“ゲット・ラッキー”を受けて、ソニーからオファーされたものであったという。従って、アルバム全体の印象は、ダフト・パンクの『ランダム・アクセス・メモリーズ』に通じる部分も多いが、『ガール』のほうは、よりファレルの持つファンクネスが強調されたアルバムに仕上がっている。共演陣も、ジャスティン・ティンバーレイク、マイリー・サイラス、アリシア・キーズ、そして、ダフト・パンクなど多彩な顔ぶれとなっており、良い意味で濃厚なブラック・ミュージックと言うよりは、良質のポップスとして広く受け入れられるようなトラックが並んでいる。
 そして、ファレルが、今回のアルバムについて「女性に対する感謝の気持ちのスペクトラム」と述べている通り、ポジティヴなリリックが全編に渡り綴られている。また、リード・シングルとなった“ハッピー”では、24時間にわたる前代未聞のミュージック・ヴィデオが制作・公開されたが、そこに登場するのは、OFWGKTAのタイラー・ザ・クリエイター、アール・スウェットシャツや、ジェレミー・フォックス、マジック・ジョンソンなどの著名人が何人かカメオ出演しているものの、そのほとんどは一般の人びとである。
 そこでは、その多くのファレルの言う「普通の人」が、ゴージャスなプールサイドや洒落たパーティ会場ではなく、ごくありふれた場所、例えば、街のガソリンスタンドや地下道、ショッピングモールなどでまさに自由に踊っている。さらに、ファレルは、収録曲“マリリン・モンロー”について、下記のように述べている。

 “どういうわけか、社会と言うのは、自分が大勢の中の1人だって思わせようとしてきた。でも、お互いにこう言えばいいじゃないか。「いいかい、君はスペシャルなんだ。唯一無二の存在なんだ」って。”

 そしてこのメッセージは、“ハッピー”のミュージック・ヴィデオでも同様に見事に体現されている。

 先月末、現在、アメリカでは、新たな貧富の差による分断が進んでいる――といった内容のNHKの報道番組が放映されていた。そこではかつてのような人種による分断ではなく、職業や所得による分断の実情が報告されていた。当然、その大多数は貧しい側だ。貧富の格差が固定化され、1%が99%を切り捨てていくその現実に、かつて貧しい者の精神的な支柱でもあったアメリカンドリームの構造は消えかけているという。

 先述した通り、映像でファレルは、その99%の側である「普通の人」を主役にしている。もし仮にセレブリティ(彼らは、ときに富める者を象徴する)だけを集めたヴィデオを制作していたとしたら、それはプロモーション・ヴィデオにはなるかも知れないが、たんに24時間というトピック以外に意味を持ち得ることはなかったかもしれない。この映像のアーティスティックな作品としての価値は、それが仮に無意識であったにせよ作家から見た社会の有りの侭を映し出しているからこそ、だ。そして、映像のなかの彼らは、悲観的ではない。それぞれが、自由に、思うままにダンスしている。もちろん、そこに「人種」による分断はもはや見られない。

 これが、99%の側の者たちの「それでも楽しんでやるよ」という諦めの境地なのかどうかはわからない。しかし、ファレル・ウィリアムスは、稀代の音楽家、そして現代のポップスターである。彼が奏でる音楽を聴く者は、その瞬間だけでも日常の嫌なことを忘れ、「ハッピー」な感情に包まれることができるのかも知れない(まるで、『夏の夜の夢』のパックの魔法のように)。そして、彼らはまた、階層が固定化された日々のループに戻っていく。本来、自由と平等=競争(アメリカンドリーム)を是認してきたアメリカ。反転してそれが崩壊している現状が見えてくる、というのは筆者の単なる深読みであろうか。

ウィズネイルと僕 - ele-king

 英国映画の定番。というか、誰の家に行っても必ず本棚に並んでいるDVDがある。で、そういう映画ほどなぜか日本では観ることができないことが多い。
 例えば、シェーン・メドウズ監督の『メイド・オブ・ストーン』が日本公開された時。
 宣伝する側は(わたしも含めて)「『This Is England』の監督が撮ったストーン・ローゼズのドキュメンタリー」と書いた。しかし、実際にメドウズが初めてイアン・ブラウンに会った時、イアンは「僕は君の『Dead Man’s Shoes』が大好きだよ」とメドウズに言ったのであり、ジョン・スクワイアも「『Dead Man’s Shoes』の監督だからシェーンに(ドキュメンタリーを)任せようと思った」と『メイド・オブ・ストーン』のUKプレミアで語った。
 つまり、英国の音楽や映画が好きな人々の間では、シェーン・メドウズといえば『Dead Man’s Shoes』の監督なのだが、残念なことに日本では公開されていない。見れない映画について書いたところでしょうがないと思いつつ、拙著にこの映画のレヴューを入れたのは、UKの音楽やカルチャーが好きな人は押さえておくべき1本だと思ったからだ。

 そしてこの『ウィズネイルと僕』こそ、そういう映画の代表的作品である。
 わたしが10年前にHP活動をはじめた時、ジョン・ライドンの応援ページ(当時、世間はB級セレブ番組に出演したライドンへの非難と怒号に満ちていた)と共に作成したのが、この映画のページだった。
 その後、この映画の邦版DVD発売を求める運動を行っている方々の存在を知った。日本でも吉祥寺バウスシアターで単館上映されたことがあると知った。で、そのバウスシアターが閉館するという。そのクロージング・イヴェントが行われている5月を通じて、同館が上映しているのが『ウィズネイルと僕』らしい。バウスの閉館を飾るのに、これほど相応しい作品があるだろうか。別の言葉で言えば、『ウィズネイルと僕』を日本で唯一上映したような映画館が閉じるのである。日本の人々はそれでいいのか。わたしが日本にいたら暴れる。

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 いまデーモン・アルバーンのソロを聴いているのだが、デーモンも『ウィズネイルと僕』ラヴァーであることを公言している(そう思うと、彼のソロはパロディ・アルバムじゃないかというわたしの疑念はいよいよ強まる)。
 そういえば、ブリットポップ期は『さらば青春の光』と『ウィズネイルと僕』人気の再燃期でもあった。ブラーとオアシスがこの2作を「好きな映画」に挙げたからだ。オアシスがモッズの『さらば青春の光』派で、ブラーが『ウィズネイルと僕』派といえばいかにもの構図だが、実はその辺が微妙にクロスオーヴァーもしていて、デーモンは“パークライフ”で『さらば青春の光』のフィル・ダニエルズとデュエットし、リアムは『ウィズネイルと僕』でリチャード・E・グラントが着用したコートをTV司会者と取り合って話題になった(リアムはオークションで競り負けた)。

 モリッシーの『Vauxhall & I』のタイトルが『ウィズネイルと僕(“Withnail & I”)』にちなんだものであることは知られているし、米国のキングス・オブ・レオンの曲の歌詞にも「Withnail & I」は登場する。元ミュージシャンのジョニー・デップは「死ぬ前に見たい映画」に本作を挙げているし、UKでもっとも激辛な映画批評を書くガーディアン紙の名物ライター、ピーター・ブラッドショーがレヴューで5つ星を付けた奇跡のような映画でもある。

 この映画がそれほど人びとを魅了するのは何故だろう。
 それは、一言でいえば「UKらしさ」だとわたしは思っている。
 ここでわたしが言うUKとは、ガーデニングとかアフタヌーン・ティーとかのUKではない。それらの要素はどうでもいいんだけど、それでも「UK好き」を自認する人は、好きな要素がすべてここにあるだろう。
 悲喜劇。は英国人が得意とする分野だ。しかし『ウィズネイルと僕』は喜悲劇の域に達している。
 「後にも先にも、この映画のような作品は存在しない」
 と、あのピーター・ブラッドショーが書く所以である。
 これは「笑って泣かせる」映画じゃない。あるシーンでは笑わせ、次のシーンでは泣かせるような作品ではないのだ。全編を通じて「大笑いしながらも心の奥底で泣きたい」ような映画だ。
 ふたりの売れない俳優志望の青年が、だらだらといい加減に日常を生きているというだけのストーリーは、誰も死なないし、何らの衝撃的なツイストがあるわけでもない。ただ全編ふざけているだけのような映画でもある。だが、大笑いさせられながらも何故か奥底にくすぶっていたせつなさを一気に噴出させるようなラストシーン。雨の中でウィズネイルがロンドン動物園のオオカミたちを前に「ハムレット」のセリフを朗々と叫ぶ場面は英国映画史上に残る名シーンである。

 やることなすこと失敗し、アル中になったブランメルみたいなウィズネイルというキャラクターは、セックス・ピストルズのジョニー・ロットンやグレアム・グリーンの「ブライトン・ロック」のピンキーに匹敵するアンチ・ヒーローでもある。
 UKほど魅力的なアンチ・ヒーローを生み出す国はない。
UKほど滑稽なルーザーをクールに見せる国はない。
 それは英国が負けるということの美学を、勇ましく竹槍を突き上げることのダサさを知り抜いている国だからだろう。この国のヒーローは「勝つ」なんて無粋なことをしてはいけないのだ。
 その証拠に、リアム・ギャラガーだけではない。人生のある時点で、猛烈にウィズネイルのコートを着てみたかったという英国人の男性をわたしは何人も知っている。

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