「Nothing」と一致するもの

Ronin Arkestra - ele-king

 年明けに「日本」をテーマにした作品『Heritage』を発表したマーク・ド・クライヴ=ロウが、新たなプロジェクトを開始する。WONK や CRO-MAGNON、KYOTO JAZZ SEXTET や SLEEP WALKER などのメンバーたちと組んだ「浪人アーケストラ」がそれだ。『Heritage』に続いて彼のルーツである「日本」がテーマになっている模様。アルバム『Sonkei』は9月25日に発売。なお、明日7月27日にはマーク・ド・クライヴ=ロウ個人の来日公演も開催されるので、そちらもチェック。

マーク・ド・クライヴ=ロウ来日情報:
https://wallwall.tokyo/schedule/mark-de-clive-lowe-melanie-charles/

RONIN ARKESTRA(浪人アーケストラ)
Sonkei

MARK DE CLIVE-LOWE の呼びかけで、ジャズを中心に日本の精鋭プレイヤーが集結したニュー・バンド RONIN ARKESTRA (浪人アーケストラ)!!
WONK、CRO-MAGNON、KYOTO JAZZ SEXTET 等のメンバーが参加、待望のデビュー・アルバム完成!!

Official HP: https://www.ringstokyo.com/roninarkestra

マーク・ド・クライヴ・ロウが『Heritage』に続いて、自身のルーツである「日本」にフォーカスしたプロジェクトが、浪人アーケストラです。LAから東京へと場所を移し、日本人のプレイヤーたちと作り上げたアルバムは、日本のジャズの歴史に新しいページを刻む作品となりました。 (原 雅明 ringsプロデューサー)

アーティスト : RONIN ARKESTRA (浪人アーケストラ)
タイトル : Sonkei (ソンケイ)
発売日 : 2019/9/25
価格 : 2,800円 + 税
レーベル/品番 : rings (RINC56)
フォーマット : CD

Tracklist :
1. Lullabies of the Lost
2. Onkochishin
3. Elegy of Entrapment
4. The Art of Altercation
5. Cosmic Collisions
6. Circle of Transmigration
7. Fallen Angel
8. Tempestuous Temperaments
& Bonus Track 2曲収録決定!!

参加ミュージシャン:
MARK DE CLIVE-LOWE
荒田洸 (WONK)
コスガツヨシ (CRO-MAGNON)
藤井伸昭 (Sleep Walker)
類家心平 (RS5pb)
安藤康平 (MELRAW)
池田憲一 (ROOT SOUL)
浜崎 航
石若 駿
Sauce81

Bruce Springsteen - ele-king

 スプリングスティーン本人は本作を政治的なアルバムではないと説明している。だが、それはオバマの前でピート・シーガーと「我が祖国」を歌ったときのように直接的な政治への関与を目指しているわけではないということ。あるいは『レッキング・ボール』(2012年)のときに「We」で示した連帯のように直接的な表現を避けているということで、彼がずっと目をかけてきた庶民へのまなざしが失われているということではない。というより、カウボーイ・ハットをかぶってブックレットにたたずむスプリングスティーン69歳を見るだに、いまの彼がアメリカの「下」にいる人びとのことを考えているように思えてくるのである。
 ここ数年とくに、彼は回顧的なムードを深めている。自伝の出版、『ザ・リバー』の35周年ツアー、そして自伝の内容をもとにしたブロードウェイ・ツアー(この模様は Netflix でも観られる)。老境に差しかかったロックンローラーが自身の人生を振り返りたくなるのは自然なことだが、しかしスプリングスティーンの過去に触れるということは、アメリカの普通の人びとが生きてきたあり様に触れるということでもある。『スプリングスティーン・オン・ブロードウェイ』を観ていてつくづく感じたことだが、スプリングスティーンというロック・ヒーローが特異なのは、彼は自分の人生だけを生きていないということだ。彼が描いてきた庶民のメロドラマ、市井を生きる人びとのフィクションを通じて、光の当たらない片隅で生きる人間たちの生を一貫して鳴らしている。

アメリカの兄弟たちが国境を越え、昔のやり方を運んでくる
今夜は西部の星が再び輝いている
“ウエスタン・スターズ”

 『ウエスタン・スターズ』はロック・アルバムというよりポップ・アルバムだと言われる。本人いわく「グレン・キャンベル、ジミー・ウェッブ、バート・バカラックといった70年代の南カリフォルニアのポップ音楽に影響を受けている」。得意としてきたロック・バンドのアレンジではなく、オーケストラを大きく導入したスタンダード・ポップスを思わせる音が詰まったアルバムである。なかでもジミー・ウェッブを思わせる瞬間が多く、フォークやカントリーを下敷きにしながらもシアトリカルなアレンジでどこかレトロな洒脱さを醸している。
 アメリカでジミー・ウェッブを聴いていたのはどんな人びとだろうか。いまのスプリングスティーンと政治的に共鳴するようなコンシャスな人間や、現在のハリウッドで活躍するような典型的な「リベラル」ばかりではないだろう。というか、むしろ保守的な田舎でヒット・ソングばかりを聴いてきたような連中に向けて『ウエスタン・スターズ』は作られたのではないか。アートワークの馬とアルバム・タイトルははっきりと古き良き西部劇を想起させるものだが、それはアメリカのかつての開拓精神に拘泥する側の人びとの心情を射程に入れたものであるだろう。言い換えれば、メイク・アメリカ・グレイト・アゲイン……の標語に惹きつけられてしまう側のことを、このアルバムは突き放していないのである。
 けれども古き西部を思わせる本作で、スプリングスティーンは昔ながらの西部劇のヒーローを登場させない。いるのはしがないヒッチハイカー、年老いた西部劇俳優、苦悩するスタントマンといった、やはり片隅で生きる者たちである。彼らはそれぞれうまくいっていない人生のさなかで孤独を抱え、アメリカ西部のどこかを彷徨している。全体として歌のトーンとアレンジは軽快だが、描かれる物語はけっして明るいものではない。誰にも顧みられることのない者たちの、誰にも気に留められることのない感傷が現れては消えていく。“ドライヴ・ファスト(ザ・スタントマン)”の「2本のピンで固定した足首、砕けた鎖骨/鉄の棒が入った脚/それでなんとか歩くことができる」というフレーズを聴いて、あの悲しい映画『レスラー』を思い出さないのは難しい。古き良き西部劇を支えていたのは名もなき人間のくたびれた人生であったことを、スプリングスティーンは忘れていない。

 かつて『ザ・リバー』を聴いて涙した者たちは『ウエスタン・スターズ』を聴いているだろうか。いま、アメリカでスプリングスティーンの歌を必要としているのは、豊かな多様性文化を経済的に余裕のあるところで楽しみ、アンチ・トランプに溜飲を下げるようなエスタブリッシュされた「リベラル」ではない。わたしたちがアメリカと聞いていまだに連想する荒野のどこかで、彷徨いながら生きる人びとだ。いまスプリングスティーンが民主党支持者の連帯のためのスローガンを引き下げ、懐かしいポップ・サウンドを鳴らしていることには何か強い気持ちがあるように思えてならない。
 国内盤の対訳を担当した三浦久氏は終曲“ムーンライト・モーテル”の訳の難しさについて、時制が入り乱れていることをその理由として説明している。そこでは過去と現在が混ざり合い、溶け合っている。スプリングスティーンがずっと描いてきたはぐれ者たちの悲しみの物語が交錯するように。弾き語りのフォーク・ソング、優しい歌唱、歴史に名を残さない誰かへの慈しみ……。

Brian Eno - ele-king

 今年でアポロ11号の月面着陸から50年……というわけで、ブライアン・イーノがダニエル・ラノワおよび弟のロジャー・イーノとともに1983年にリリースしたアルバム『Apollo: Atmospheres & Soundtracks』がリイシューされることとなった。この時期のイーノといえば「アンビエント」シリーズを終え、並行してやっていたジョン・ハッセルデヴィッド・バーンたちとのコラボも一段落がついたころだ。その過程で関わることになったダニエル・ラノワとは非常に馬が合ったようで、ふたりは『Apollo』を皮切りにハロルド・バッドやマイケル・ブルックとのコラボ、あるいはU2のプロデュースというかたちで共闘関係を続けていくことになる。つまり『Apollo』は「イーノ=ラノワ」コンビの出発点と捉えることも可能なわけだけど、今回の再発にあたりなんと、リイシュー企画の裏側を追ったドキュメンタリー映像が公開された。字幕はないので、頑張って聴きとろう。

※今回のリイシューの日本盤は〈ユニバーサル ミュージック〉より7月19日に発売。ボーナス・ディスクには11曲もの新曲が収められているので、要チェック。
https://www.universal-music.co.jp/brian-eno/news/2019-05-08-release

BRIAN ENO

アポロ11号の月面着陸から50年。
ブライアン・イーノが1983年に発表した傑作
『アポロ』エクステンデッドVer.は絶賛発売中!
アルバム製作のドキュメンタリーがYouTube公開!

1969年の7月、ちょうどアートスクールに通うためにロンドンに移り住んだ時だった。私は教授の隣の部屋に住んでいて、ある日その教授が「彼らが月に着いたよ」って言ったんだ。それから一緒に小さくてぼやけた白黒のテレビの映像を見た。何が素晴らしかったかって……その映像を見て、窓から見える満月を見て思ったんだ。──「なんてこった、これはまさに今、あそこで起こっていることなんだ」って。世界が変わったって思えた瞬間だったよ。

1983年にブライアン・イーノが、彼の兄弟であるロジャー・イーノ、そしてプロデューサーのダニエル・ラノワと共に製作・発表した傑作『アポロ』。
もともと月面開拓のドキュメンタリー映画『宇宙へのフロンティア』のサウンドトラックとして制作され、その後も映画『トレインスポッティング』やロンドンオリンピックの開会式でも使用されるなど、時代を超えた名盤として愛され続けている本作が、オリジナル・アルバムの最新リマスター・ヴァージョンに、11曲の新曲で構成されたボーナス・ディスク(『宇宙へのフロンティア』のサウンドトラックを再構築したもの)を加えられたエクステンデッド・ヴァージョンで登場。

オリジナル・アルバム以来、36年ぶりの実現となったブライアン・イーノ、ロジャー・イーノ、ダニエル・ラノワのコラボレーションを追ったドキュメンタリーが、NASA所有の記録映像と共にYouTubeで公開された。
アポロの月面着陸50周年である2019年。リアルタイムでその瞬間を体感したイーノのインタビューで始まる本映像では、オリジナル・アルバム、そして今回のリイシューを製作する上でどのような過程があったのか、それぞれの言葉で裏付けされることによりさらに深く本作の真髄を感じられる内容となっている。

ドキュメンタリー【Brian Eno on Apollo】
https://www.youtube.com/watch?v=WTxkLGBkcO0

ミュージシャン、プロデューサー、ビジュアル・アーティスト、思想家、活動家……と多くの顔を持つブライアン・イーノ。発売中の『ミュージック・マガジン』8月号の特集「エレクトロニック・ミュージック・アルバム・ベスト100」では、彼の代表作の一つである『Ambient 1: Music For Airtports』(1978)が第1位に選出されている。

Flying Lotus - ele-king

 まるで闇鍋のようだ。同時に集大成的でもある。サウンドの細部にかんしては原雅明と吉田雅史の対談に詳しいのでここでは最小限に留めておくが、70年代のソウル~ファンクを想起させるクラヴィネットの音色に、スティーヴ・エリスンの情緒的な側面がよくあらわれた(一部の)感傷的なコードとメロディ、随所に貼りつけられたミゲル・アットウッド・ファーガソンのストリングスが醸し出すシネマティックな雰囲気──それら三つの要素がこのアルバム全体の方向性を決定づけており、その合間合間に骨のあるヒップホップ・ビートや豪華なゲストたちによるラップ、歌、ミュジーク・コンクレート的な具体音をはじめとする音響実験、ゲーム音楽的なアイディア、メタル的ないしプログレ的なサンダーキャットの超絶技巧などが断片化され、ぎゅうぎゅうに詰め込まれている。相変わらず1曲1曲は短く、しかし全体は長い。最後をアンビエントでシメるところもいい。鍵盤を学び直し、音楽理論を習得したことの効果はたしかにあらわれていて、たとえば“Capillaries”なんかはこれまでのフライローからは絶対に出てこなかったであろう旋律を聞かせてくれる。とはいえいかに前作と違うことをやるか、という気負いはさほど感じられない。新しい試みとこれまで彼がやってきたことのダイジェストとが絶妙なあんばいで共生している。混沌といっていいほど雑多な要素が互いに反駁することなくひとつの秩序を形成し、共存している──これを宇宙と呼ばずなんと呼ぼう。
 いやもちろん彼は、スピリチュアルな気配を招き入れた2010年の『Cosmogramma』ですでに宇宙への跳躍を果たしていたわけだけれど、その「宇宙」はまだイメージや雰囲気のレヴェルに留まっていたように思う。そのぶっ飛んだ着想じたいは以降の作品でも遺憾なく発揮され続け、本作でも「炎」というテーマのもと、ウィンストン・ハッキングやデヴィッド・リンチや渡辺信一郎によって息を吹き込まれているが、もっとも重要なのは今回その宇宙が、サウンドの共存のあり方・アルバムの構成として実現されている点だろう。宇宙とは秩序のべつの呼び名である。

世界は変わった。きみもそうだ。“Heroes”

 もはやフライング・ロータスは破壊者ではない。むしろ守護者である。
 今回の新作をめぐるオフィシャル・インタヴューのなかでフライローは、「誰かが大変な時に助けられるようなものにしたいし、誰かがクリエイティブになるのを励ますようなものにしたい」と語っている。以前の彼ならけっして口にしなかったであろう類の発言だ。かつてドレーやスヌープ、エイフェックスやディラの背中を追いかけていた少年は、ピーナッツ・バター・ウルフにモノマネとは契約しないと突っぱねられたことをバネに精進、見事LAビート・シーンに革命をもたらすことになるわけだけど、安住を嫌う彼はその後もひたむきに実験を重ね、幾度もリスナーを驚かせてきた。結果、現在の彼は後続たちに自らの背中を見せつける存在になっている。『Flamagra』が示しているのは端的に、「ヒーロー」の矜持だろう。
 思うに、いまフライローは直接的にであれ間接的にであれ、いかに次の世代を育てるかということに心を砕いているのではないか。それは昨年10周年を迎えた〈Brainfeeder〉のディレクションからも推しはかることができるし、何より今回の新作が、まるで「こうやるんだぜ」と手本を示すかのように乱雑な諸要素を巧みに調停していることからもうかがえる。このすぐれた統治能力は理論の学習と『KUSO』の経験によって獲得されたものなのだろうけど、心境のほうにも変化があったのだとすればそれは、「継承」が最大のテーマであるアニメ『僕のヒーローアカデミア』によってもたらされたにちがいない。
 ジャズやファンクやヒップホップ、IDMにゲーム音楽など、前の世代から受け継いだ技法や着想の数々を、『ヒロアカ』の主人公が己の武器を拳から脚へと移し変えたように、けっしてモノマネではないかたちで自分自身のものへと昇華し、まったくべつのものへと生まれ変わらせること、そしてそのような(サウンドの模倣ではなく)制作のエスプリをこそしっかり後続へと引き渡すこと──それこそがまさに「変わりゆく同じもの」の神髄ではないか。
 ジャズもヒップホップも解体し、『You're Dead!』で行きつくところまで行きついたフライローが5年かけて導き出した答え、それが『Flamagra』のこの卓越した構成なのであり、その種々の音の配置が実現する秩序としての宇宙は、「炎」というテーマや「ファイヤー・スピリット」なる精霊を召喚することで、他方で彼がサン・ラーやリー・ペリー、あるいはそれこそ本作に参加しているジョージ・クリントンたちの系譜に連なる音楽家であることを思い出させてくれる。すなわちアフロフューチャリズムである。

 振り返れば去る2018年は、映画『ブラックパンサー』によって「アフロフューチャリズム」という言葉が一気に大衆レヴェルにまで浸透した年だった。そんな年にフライローことスティーヴ監督によるシュルレアリスティックな『KUSO』が日本公開されたことは、ひとつ象徴的な出来事だったように思う。むろん、アフロフューチャリズムそれじたいは90年代前半に発芽した新たな解釈の技術であり、ようは通常の──デヴィッド・スタッブスが『フューチャー・デイズ』のなかで述べているような(280頁)、白人(や日本人)の「黒人音楽はこうあってほしい」という期待を反映した──歴史観とは異なる切り口からブラック・カルチャーを辿り直す、ある種の系譜学とも呼ぶべきものだけど、それはおよそ10年前に、ソーシャル・メディアの出現やグローバリゼイションの暴力、リーマン・ショックなどの影響によって第二のフェイズへ突入した……と、レイナルド・アンダーソンは昨年『The Black Scholar』誌のインタヴューで語っている。彼は『アフロフューチャリズム2.0──宇宙的ブラックネスの飛翔』なる刺戟的な題を持つ本の編者であり、「ブラック・スペキュレイティヴ(思弁的)・アート・ムーヴメンツ」なる興味深い運動を提唱しているアメリカの学者で、その見立てによれば現在、アフロフューチャリズムは形而上学、美学、理論的応用科学に社会科学、プログラミングなどの側面によって特徴づけられる、汎アフリカ的な社会哲学になっているのだという。
 このあたりの話は勉強不足でまだよく呑みこめていないのだけれど、たしかにマーク・フィッシャーも2013年に自らの憑在論とアフロフューチャリズムとを接続する論考「クラックルの形而上学」を発表しているし、この10年でブラック・ミュージックの想像性をとりまく言説が新たな局面を迎えていることはわかる。けだし、批評家のマーク・デリーがアフロフューチャリズムを主張してから20年以上が経過したいま、それをどう受け継ぎアップデイトしていくかが問われているのではないか。そしてその10年というのはまさに、フライング・ロータスが試行錯誤を繰り返してきた時期とぴったり重なる。
 そう考えると『Flamagra』は外在的にも「継承」の問題に直面していることになるわけで、だからこのアルバムを、ゲストであるアンダーソン・パクやソランジュたちの新作と並べるのももちろん全然アリなのだけど、たとえばリー・ペリーの新作と交互に聴いてみる、というのもオルタナティヴな楽しみ方だと思う。そういうちょっとした遊びこそもっともたいせつなものでしょうよ、と、フライローのぶっ飛んだ想像性はわたしたちに教えてくれている。

Crystal Thomas featuring Chuck Rainey and Lucky Peterson - ele-king

 わたしの総体的な印象では、矮小な個人的感傷を擦り上げて、過剰な切なさを誇張し聞く側に同意を強要する、これが私生活も含めて、この世の春とばかりに我が世を謳歌している昨今の女性歌手の芸だ。特に高音域での行き過ぎた表現には、付いていけない事が多い。ここで紹介するクリスタル・トーマスは、1977年4月22日の生まれ。今どき彼女の年齢で歌を唄っていたら十把一絡げ的に歌姫(ディーヴァ)などと呼ばれて、マイクの前で「心が折れそうなのよ」と、悲鳴を上げていてもおかしくない。しかし彼女は、LP『イッツ・ザ・ブルース・ファンク!』で、まるで当たり前のように自然なブルーズを唄う、ルイジアナ州マンスフィールド育ちの南部女である。
 かつて「ブルースは暗い」と言い切って、収めようとした「音楽評論家」がいた。彼は北米の黒人音楽を愛好しつつも、この領域にはあまり馴染みがなかった事は認める。ただし、その一言でこの音楽を決めつけられては迷惑だ。
 ブラインド・ウイリー・ジョンスンの“ダーク・ヲズ・ザ・ナイト”のように、聞いていると恐怖を感じるほど寂しい演奏もあるけれど、こういう情感は、カントリー音楽からでも味わえる。今なら安価な組物CDで簡単に手に入る、ブラインド・レモン・ジェファスン(Snapper SBLUECD 502X)、チャーリー・パトゥン(Not Now NOT2CD508)、サン・ハウス(Not Now NOT2CD415)、ビッグ・ビル・ブルーンジー(Not Now NOT2CD401)など、第二次大戦直後までのエレキ導入前のブルーズを聞いてみればいい。ちっとも暗くない。哀調は漂うが、殊更にそこだけを強調してはいない。ここを誤解すると、非常に不自然な音楽になってしまう。ブルーズは日本人の大好きな感傷だけを擦り上げる歌ではない。希望と共に唄われる、前向きな音楽なのである。寂しさと暗さは違うのだ。クリスタル・トーマスは、このブルーズをあくまでも自然に唄う。
  
 下北沢の百円均一店の上りエスカレイタで彼女を見かけた。前の晩に同じ町の小さなクラブで、実演を観たばかりだった。そのショウの印象が良かったせいもあって、思わず呼びかけた。振り向いた彼女は、異国の私鉄沿線の百均店で突然に声を掛けられて驚いたようだったが、にっこり笑ってくれた。その時の来日に関わった親友の奥方の誘導で土産物を仕入れに来たらしい。一緒に店内を案内した。正月を前にした時期だったせいか、小さな縁起物が並んでいて、それらに興味を持ったようだ。書かれている漢字を、「これは幸運」、「こっちは長寿」、「安泰」などと説明したら、えらく興味を持って真剣に聞いてくれたので、当方は少々恐縮した。2018年12月の出来事だ。
 そのクリスタルが、自分名義のフルアルバムを録音中だという話は聞いていた。春が過ぎて例年になく長い梅雨が続いていた頃、もう少し詳しい情報が入って来た。テキサスのダラスで録音され、セッションには、ラッキー・ピータスン、チャック・レイニーが参加しているという。興味が湧いた。
 届けられたアルバム音源は2種類。CD『ドント・ウォリー・アバウト・ザ・ブルース』、その中から抜粋された10曲で作られたLPは、『イッツ・ザ・ブルース・ファンク!』となっていた。

 クリスタル・トーマスは冒頭に挙げた類のコンテムポラリー・フィーメイル・シンガーたちとそれほど年齢の差がないのに、大きな違いがある。
 まず、声だ。中音域を中心に幅があって柔らかく、聞く者の感情を逆撫でする突起がない。暖かいのである。発声は極めて自由自在、無理をしていない。リズム感の良さ、タイミングの適確さは随所に感じられ、バックトラックに載っかるのではなく、彼女の唄でリズム・セクションに控える男性4人の強者たちを引っ張る。節回しも曲線的で奥深く、聞く者を大きな渦に巻き込んで行く。北米黒人女性の獲得形質は遺伝しているのだろうか。断片的に聞いた人間からは、二世代前の唄い方だ、と簡単に片付けられてしまうかもしれないが、直接比較すれば、歌い出しからして伸び伸びとして、しなやかなクリスタルである。コーラス合間の何気ないひと言などでは、本来の若さが顔を覗かせるので、ああ今の唄い手だ、と分かる。
 楽曲はどれも特定の意匠を持たず、楽器を手にした誰もが簡単に思いつくようなリフを基に作られている。全てが演奏者に委ねられたジャムの延長とも言えるだろう。ただし、こういうのをカッコ良く仕上げるのは、とても難しいのである。下手をすれば、全員がそれぞれの受け持ち部分を弄んだだけで終わってしまうところだが、クリスタルによってそれぞれがひとつの「歌」に昇華している。
 冒頭曲“キャンチュー・シー・ワッチュー・ドゥイング・トゥ・ミー”を聞けば分かる。このテムポ、造り……、作者でもある御大アルバート・キングなら、その圧倒的な存在感で押し切れるだろうが、形にするのも難しい傾向の楽曲だ。それを力まずに流れるように決めてしまうのがクリスタルだ。
 続く2曲めの“ベイビ、ドント・リーヴ・ミー”は、クリスタルの自作曲となっている。やはり肝は彼女の唄だ。イントロなしで入る瞬間はスリルの絶頂で、コーラス毎にやって来る10小節めアタマのブレイクも、すんなりとカッコ良く決めている。こういうのは身体に付いた基本的なセンスが相当に冴えてないと、惨めな結果になるだけだ。同じようなストップ・ブレイクは9曲目の“アイム・ア・フール・フォー・ユー、ベイビ”でも出て来る。ここでも難なくこなせるのは天性の適確なタイム感を持っているからだろう。 
 クリスタルは、日本人ジャムプ・ブルーズ・バンドのブラッディスト・サクスフォーンのアルバム『アイ・ジャスト・ヲント・トゥ・メイク・ラヴ・トゥ・ユウ』(スペースエイジ SPACE-16 2018年)に、5番目の女性歌手として抜擢された。その前は、元々R&B歌手ジョニー・テイラーのバンドでトロムボーンを担当していたという。LPでは表題曲とも言える“ザ・ブルーズ・ファンク”で、唄わずにその実力の片鱗を披露する。若干の余裕と共に吹いているようだが、繰り返しのリフレインを聞くだけでも、重ねて来た歴戦の度合いは分かる。

 ギタリストとドラマーは白人だ。プロデューサーのエディ・スタウトが自信を持って推薦する、ジョニーとジェイスンのモーラー兄弟である。2015年に発表されたシャーウド・フレミングズの『ブルース、ブルース、ブルース』でもリズムを務めていたというが、わたしはその時、そして今回も何の過不足も感じなかった。ジェイスンのドラムズは着実で安定していて、彼の独特なタイム感がアルバム全体を支配している。音色も大変宜しい。ジョニーは、昨今数多蔓延るエフェクターと呼ばれる、余計な装飾無しでギターを聞かせてくれる。爪弾かれた弦が震えてスピーカを鳴らす物理現象が見える。
 ふたりの出しているのは、今どきの黒人演奏家では出せない音だ。それだけでなく若さ、謙虚さが感じられるのが、何とも嬉しい。立派な2019年型だ。

 メイヴィス・ステイプルの讃美歌集『マヘリア・ジャクスンに捧ぐ』(Dedicated to Mahalia Jackson Gitanes / Verve 535 562-2 1996年)で出会ったラッキー・ピータスンは、そこで、ピアノとオルガンをソツなく弾いていた。全曲オーヴァダビングなしのデューオという緊張度の高いセッションを程良い雰囲気でまとめていた。高度な演奏能力は当然として、「相当に賢い奴だな」というのが第一印象だった。わたしの前に登場した、久しぶりの有望な演奏者だったので、しばらく追いかけた。なかなかイカない男、という風にも見えた。
 それより遥か前の5歳で初録音、それも自身名義のソロ・アルバムというから、天才的な音楽能力を持っていたのだろう。ただし、彼は優れた脇役の道を選んだ。ソロ作品は順調に出しているけれど、ヒットを狙う野心は感じられない。その他では、いつも的確な援護射撃で主人公を助けている。
 驚いたのはA面最後の“レッツ・ゴウ・ゲット・ストーンド”だ。ジョー・コカーの実況録音盤(『マッド・ドッグズ・アンド・イングリッシュ・メン』 A&M 75021 6002 2 1970年)にこの歌が収められていて、そこで知って以来、40年以上に亘りわたしの重要楽曲表の上位に居座っている。ニック・アシュフォードとヴァレリ・シムプスンが書いた1965年の作品で、初出はアトランティック時代のザ・コースターズだそうだ。それを聞きたくて、他はダブりばかりの4枚組を買ったこともある。それはともかく、ここではラッキーは、まるでレイ・チャールズのように唄う。ラッキーは自作『ムーヴ』(Gitanes / Verve 314 537 897-2 1997年)でもこの歌を採り上げていたが、このクリスタルの新作では、本物以上にレイ・チャールズだ。声が全くのブラザー・レイである。何度聞いてもそのつど驚く。
 編曲感覚にも優れていて、1989年のソロ作品『ラッキー・ピータスン』(Gitanes / Verve 547 433-2 )に吹き込まれたウイリー・ネルスンの「ファニー、ハウ・タイムズ・スリプス・アウェイ」のアレンヂは、ブルー・ノート・レコードの社長にもなったドン・ヲズが、1994年の『リズム、カントリー・アンド・ブルーズ』(MCA MCAD-10965)で流用した程だ。ただ、今回ラッキーはこの『イッツ・ザ・ブルース・ファンク!』で、表立った編曲をしなかった、とわたしは見る。

 チャック・レイニーは電気ベイスの一時代を築き上げた男だ。器楽演奏が好きな人間なら、絶対に無視できない存在として70年代から80年代にかけて音楽界に君臨した。ネコも杓子もチャック・レイニーだった。
 わたしは世代的には恐怖のフュージョン・ブームを通り抜けてきた人間だが、あまりその領域を得意とはしないから、タレントのマギー・ミネンコが口にする程までに、彼が異常に持て囃された時も、その理由が分からなかった。
 わたしの印象としては、そもそも地味な人なのである。デーハなチョッパーをブチブチにキメる演奏家では決してなく、堅実な縁の下の力持ちだ。この『イッツ・ザ・ブルース・ファンク!』でも、目立つ事をあまりしていない。ただこの演奏が、本来のチャック・レイニーの姿だと断言しよう。その場で同時に演奏している人間たちに抜群の安定感を与え、作品への信頼につなげるという、いつもと同じ仕事に徹した姿だ。個人的にはこのベイスの音質に多少の不満があるけれどね。
 フュージョン・タイフーンが去って、黄金期のアリサ・フランクリン・セッションのような面子でブルーノート東京に来た時の終演後、文字通り手を合わせたら、チャック・レイニーの親指はわたしの人差し指より長かった。楽器が気持ちよく鳴るツボを心得ているのだろう、キイが違っても、ほとんど5フレットから10フレットの位置で弾くのも印象的だった。

 CDだけに収められている「ガット・マイ・モージョ・ワーキン」には脱帽だ。この取り替えようのない名曲は、ポール・バタフィールドやマイケル・ブルームフィールドらがマディ・ヲーターズやオーティス・スパンたちと一緒に作った『ファーザーズ・アンド・サンズ』(Chess / MCA CHD-92522 1969年)収録の実況録音アンコール仕様が、秀逸な吹き込みとして知られる。バンドスタイルの演奏で、ベイスはドナルド・ダック・ダン、ドラムズは、バディ・マイルズだ。ブルーズという音楽が、時空を超えて、地球上の全人種、全民族、全世代、に訴えかけた瞬間の記録とも言えるだろう。多くのブルーズ・バンドがお手本としているのも頷ける。
 それにひきかえ、こちらはラッキー・ピータスンのエレキ・ギター1本だけで、静かに始まる。「アタシが子供だった頃……」と浅川マキのように語りかけるクリスタルは、まるで泡瀬のユタだ。ふたりの関係は講釈師と曲師のようで、語りに対する直接的なギターの反応が素晴らしい。お互いに、出ている音をよく聞いている。
 クリスタルはまだ42歳、ラッキーだって55歳だから、こういうスタイルのブルーズに、「生」で同時代的には親しんでいないはずなのに、ふたりが紡ぐフレイズは、電気化以前の、あの「ブルーズ気分」そのものなのだ。このアンサムブルを提示したのがラッキーだと知って、わたしは大いに頷けた。ボーナスとして収められている別テイクには、控えめながらドラムズも参加していて、こちらの方が若干ミシシッピ風に聞こえたりする。
 ジャニス・ジョプリンがLP『コズミック・ブルーズ』で唄っていた「ワン・グッド・マン」では、冒頭の語りからも「ブルーズ気分」は滲み出て来る。ジャニス生涯のたったひとつの願いを主題にしたこの歌は、今回ごく当たり前に仕立て上げられているけれど、悲壮感が過度に濃厚でサイケデリック時代を引き摺った原仕様よりも、遥かに上手く行っているのではないか、正直そう感じた。自立したクリスタルは歌全体に力強い息吹きを与え、男性依存から離れられない性に泣く女の歌を新しく生まれ変えらせた。
 リヴィング・ブルーズ誌に載った紹介記事に、こんな行りがあった。

She loves this life.(中略)--even if life it tough. *

 そうなのだ。誰だってどんなに大変でもこの人生を愛して、生きていくのだ。LP『イッツ・ザ・ブルース・ファンク!』を聞いていると、クリスタルは当たり前のように、そうしているのが分かる。前回彼女が来日した時、この「ワン・グッド・マン」を唄っていると聞いて、ジャニスを以前から知っていたのか、とわたしは尋ねた。混乱した場所で話した事もあって詳細は忘れてしまったけれど、彼女はとても熱を入れて答えてくれた。そこにも彼女の前向に生きていく姿勢を、強く感じた。
 それとは別だが、今回のブルーズ・アルバムの中で“イトール・ビ・オーヴァ”は女性クワイアと一緒に仕上げたゴスペル作品である。人種的な制約を受け入れざるを得ず、そしてそれらを意識して抵抗した頃から時代は進み、このように楽曲の出自、領域にこだわる必要のなくなりつつある、今の現状肯定的な時の流れも見えてくる。

 ヒップホップという大津波を浴びた後、いま歌を唄い続けている女性たちは、絶対安全地帯から世の不公平や不平等を訴えながらも、美しく精緻なディジタルな映像の中で少々自意識過剰気味のように見える。男性は強がってはいるものの精気を削がれた遠吠えばかりで、よく見れば女性と同じ症候群に陥っている。そして現代ブルーズは、最新の例で挙げればフィンランドのイリア・ライチネンのような、「荒々しい音で激しくも弾ける」ヨーロッパのギタリストたちの慰みになってしまいそうな気もする。親しみ易くあらゆる表現を受け入れられるブルーズの単純な構造、無限の自由度は機能しているが、どれも薄っぺらなハード・ロックにあと二歩しかない。わたしはこれらの音楽を聞いて、満足出来ない。遣る瀬無くも、醒めて哀しい、無情な諦めと僅かな希望が混在する、肝心のブルーズ気分が、伝わって来ないのだ。
 このアルバムの各曲を、敢えて鮮やかな編曲で飾らなかったラッキー・ピータスンには、生々しい形の方がクリスタルを表現出来る、という思惑があったのではないだろうか。そして、ここまで述べてきたように、それは成功した。クリスタル・トーマスは「ブルーズ気分」を持ち、それを人に伝える事の出来る南部の女だった。

 このように、わたしにとって『イッツ・ザ・ブルース・ファンク!』は、何の抵抗もなく親しめる1枚である。ただしそれが「昔の響きを再現している」からでは、決してない。「昔の響き」が聞きたければ、昔のレコードを聞けば良いのだ。録音制作物の使命のひとつもそこにある。
 自分たちが生まれ育った環境から受け継いだ、逃れられない感覚を無理せずに使って、新しい何かを生み出さなくちゃ、という積極的な心の動き、これもブルーズ衝動の一つだろう。わたしは今回、LP『イッツ・ザ・ブルース・ファンク!』で、若々しくて心地良い「ブルーズ衝動」に浸れた。感謝しよう。
 吹き込み中の出来事として、クリスタルは移動中のダラスで白人警官に職務質問を受け、何の理由もなく大切な商売道具のトロムボーンを壊されたそうだ。彼女はまだ、絶対安全地帯にいるのではなかった。
 当たり前の事としてブルーズを唄うクリスタル・トーマス、この後はフジ・ロック・フェスティヴァルへの出演も控えている。そこで極東の島国の若者たちがどう反応するか、こちらも大いに楽しみだ。

 音楽そのものに疑いをもつこと、ジョン・ケージがいまだ影響力があることの理由のひとつだろう。ひとはいつの間にか音楽を小学校で習った譜面の延長のなかでのみ考えがちだが、ケージは音楽がもっと広く自由であることをあの手この手を使って証明した。もっとも有名な“4分33秒”はそのひとつだが、この曲を、〈ミュート〉レーベルが設立40周年のメイン・プロジェクトとしてレーベルのいろんなアーティストにカヴァーしてもらうという、なんともじつに度胸ある企画をやっていることは先日お伝えした通り(https://www.ele-king.net/news/006694/)。
 今回、レーベル創始者のダニエル・ミラー伝説のソロ・プロジェクト、ザ・ノーマルによる“4分33秒”が公開された。

■The Normal「4分33秒」

https://smarturl.it/STUMM433J

 “4分33秒”のカヴァー全58曲収録の『STUMM433』は、10月4日に発売される。おそらくアルバムのトータルタイムは、“4分33秒”×58ということだろう(あるいは、“4分33秒”をたとえば2分で演奏するアーティストはいるのだろうか)。
 なお、『STUMM433』は、ボックス・セットとしてレーベルの通販サイトのみで販売され、LPはダニエル・ミラーのサイン入り限定盤として、CDは5枚組として販売。またデジタル配信(ダウンロード、ストリーミング)は日本の各サイトより購入可能。

■『STUMM433』 購入予約リンク
https://smarturl.it/STUMM433J
・タイトル:『STUMM433』
・発売日:2019年10月4日
・ボックス・セット(LP, CD):MUTEレーベル通販サイト Mute Bankのみで販売
・デジタル配信(ダウンロード、ストリーミング):日本の各配信サイト


photo : Diane Zillmer

 ダニエル・ミラー(レーベル創始者)はこのプロジェクトに関して次のように語っている。「ジョン・ケージの ‘4分33秒’ は自分の音楽人生の中で長い間、重要で刺激を受けた楽曲としてずっと存在していたんだ。MUTEのアーティスト達がこの曲を独自の解釈でそれぞれやったらどうなんだろう?というアイデアは、実はサイモン・フィッシャー・ターナーと話してるときに浮かんだんだよ。私は即座に、これをMUTEのレーベル40周年を記念する”MUTE 4.0 (1978 > TOMORROW) シリーズ”でやったら完璧じゃないか、と思ったんだよ」

 ダニエル・ミラーは、自身のソロ・プロジェクト、ザ・ノーマルの7インチ・シングル『T.V.O.D.’ / ‘Warm Leatherette』を発売するためにMUTEレーベルを1978年に創設した。ザ・ノーマル名義の「4分33秒」は、その7インチ以来、実に41年ぶりの発売となる。彼は今回の楽曲の録音をノース・ロンドンのある場所で行った。 16 Decoy Avenueという住所は、MUTEのファンにとってはレーベル発祥の地としてお馴染みの場所である。


■サイモン・グラントのアート作品

 今回、各アーティストが自身の作品とともにビジュアルも作成しており、MUTE所縁のデザイナー28名がそれぞれ「4分33秒」から発想を得たアートワークを披露している。その中の一部を紹介すると、サイモン・グラント、彼は初期MUTE作品、ザ・ノーマルやファド・ガジェット、それにデペッシュ・モード等のアートワークを担当。スティーヴ・クレイドン、Add N To (X)のメンバーでもある彼はゴールドフラップのデザインを担当し、スリム・スミス、彼は1980年代から90年代を通してMUTEと仕事を共にした。マルコム・ギャレットはヴィンス・クラークとマーティン・ウェア(ザ・クラーク・アンド・ウェア・エクスペリメント)のハウス・オブ・イラストリアスのボックス・セットのデザインを担当し、トム・ヒングストン、彼はこれまでイレイジャーと仕事を共にし、2000年台初頭よりニック・ケイヴ・アンド・ザ・バッドシーズやグラインドマンのアートワークを担当している。アントン・コービン、彼は特にMUTEとの距離も近く、1980年代初頭からデペッシュ・モード、ニック・ケイヴ・アンド・ザ・バッド・シーズ、それにファド・ガジェット等と数多くの仕事を行っている。

 ヴァイナルのボックス・セットにはキャンドルセットが付属し、そのデザインは著名なシックス・センツ・パルファンのジョセフ・クオルターナが「4分33秒」から発想を得て作成したものである。彼は古い木造の劇場の中で光る一瞬の閃光をイメージした。それはコンサートの余韻を比喩的に表したものであり、静寂の香りとは?という問いに答えたものである。

 この作品から発生する純利益は英国耳鳴協会とミュージック・マインド・マターへ寄付される。この団体が選ばれた理由として、インスパイラル・カーペッツの創設メンバーでもあるクレイグ・ギルが、自身の耳鳴りの影響による心身の不安から不慮の死を遂げたことが挙げられている。このボックスセットは2019年5月にリリース予定、詳細はここ数ヶ月後にアップデートされていく。

■公開済み映像

ライバッハ 「4分33秒」
ザグレブにあるHDLU’sバット・ギャラリー・スペースで行われたインスタレーション「Chess Game For For」開催中に撮影・録音され、クロアチアのパフォーマンス・アーティストのヴラスタ・デリマーとスロヴェニア製の特製空宙ターンテーブルをフィーチャーした作品だ。

■「STUMM433」参加アーティスト一覧
A Certain Ratio, A.C. Marias, ADULT., The Afghan Whigs, Alexander Balanescu, Barry Adamson, Ben Frost, Bruce Gilbert, Cabaret Voltaire, Carter Tutti Void, Chris Carter, Chris Liebing, Cold Specks, Daniel Blumberg, Depeche Mode, Duet Emmo, Echoboy, Einstürzende Neubauten, Erasure, Fad Gadget (tribute), Goldfrapp, He Said, Irmin Schmidt, Josh T. Pearson, K Á R Y Y N, Komputer, Laibach, Land Observations, Lee Ranaldo, Liars, Looper, Lost Under Heaven, Maps, Mark Stewart, Michael Gira, Mick Harvey, Miranda Sex Garden, Moby, Modey Lemon, Mountaineers, New Order, Nitzer Ebb, NON, Nonpareils, The Normal, onDeadWaves, Phew, Pink Grease, Pole, Polly Scattergood, Renegade Soundwave, Richard Hawley, ShadowParty, Silicon Teens, Simon Fisher Turner, The Warlocks, Wire, Yann Tiersen

■MUTE 4.0 (1978 > TOMORROW) シリーズ
https://trafficjpn.com/news/mute40/

mute.com

芸術に完全はなく、完全なきが故に生命を賭け立ち向かい、挑んで行くのが音楽家の業である筈だ。(高柳昌行「フリー・フォーム組曲ライナーノーツ」)

 モダン・ジャズの俊英として音楽界に登場し、しかしアメリカのジャズの真似事やフォルムの新奇性に汲々とする人々に見切りをつけ、ジャズを求める根拠を掴み取るべくフリー・フォームの音楽を探求し、そしてもはやジャズとは似ても似つかないサウンドを創出し、結果的には出自を異にするはずのメルツバウや非常階段をはじめとしたノイズ・ミュージックと同列に語られることもある人物。そのように時代を画し続けた20世紀の日本のギタリストは高柳昌行を措いて他にいない。日本のフリー・ジャズ第一世代のミュージシャンであり、ギター・ミュージックとしてのフリー・ジャズを確立/発展させた異才。あるいはモダン・ジャズの傍流に位置づけられていたレニー・トリスターノに多大な評価を捧げることによって、正統的なジャズ史のオルタナティヴを提示するとともに、トリスターノ派のクール・ジャズを実践したジャズマン。さらにはのちにジャパノイズと括られもする騒音芸術家である一方で、深夜番組『11PM』にレギュラー出演していたボサノヴァ・グループのリーダーでもあった。またはギター講師として渡辺香津美や山本恭司らを輩出し、大友良英が師事するのみならずローディーを務め、一時期は深く関係していたことも知られている。厳しい即興演奏家であるとともに舌鋒鋭い文筆家でもあり、「日本リアル・ジャズ集団」なる組織を結成して機関誌『ECLIPSE』を発行、音楽批評家である間章やサックス奏者の阿部薫と行動をともにしたのちに袂を分かち、「メタ・インプロヴィゼーション」「アクション・ダイレクト」といった独自の言葉を提起した。フリー・ジャズのミュージシャンという通俗的なイメージを大きく逸脱していくように高柳昌行は様々な活動に取り組み、時代の移り変わりとともに未踏の音楽世界をつねに切り拓いてきた。むろん活動が様々に移り変わるということ自体が珍しいわけではない。そしてそれは時代とともにあらたなスタイルへと変化していったということとは似ているようでどこか決定的に違う。時代の流行り廃りとは別様の音楽のいわば根源にあるものを原理に変遷していった高柳の実践は時代の様式として古びて過ぎ去ることがないのである。日本のフリー・ジャズというジャンルは1970年代の産物としての音楽様式かもしれないが、高柳の思索と実践はこのような音楽様式からはやすやすと逃れ去り、いまもなお新鮮に響いている。それは時代の党派的なしがらみから解放されたいまを生きるわたしたちにとってこそ聴こえてくる響きでもあるだろう。

 生まれこそ東京だが第二次世界大戦のただなかである小中学生時代にはなんども農村へと疎開し、そこで過ごした風景がひとつの原体験として残っているとも述べたことがある高柳昌行は1932年生まれ、彼と同じく日本のフリー・ジャズ第一世代と言われる富樫雅彦や山下洋輔らに比すると一回り年長であった。そうしたこともあり50年代初頭からすでにミュージシャンとして活躍していた彼は、ほどなくして自身のグループを「ニュー・ディレクション・カルテット」と名づけて結成。グループ名義でのアルバムこそリリースしていないものの、『ジャズ・メッセージ・フロム・トウキョウ』などのコンピレーションで聴くことができるその演奏からは、20代半ばにしてすでに卓越した技術を誇るモダン・ジャズのギタリストだったということがわかる。60年代に入ると時代の機運とともに前衛的な音楽へと踏み出し始め、シャンソン喫茶の銀巴里において金曜日の昼に開催されていたジャズ・イベントを拠点に活動。黛敏郎ら現代音楽の作曲家たちによる「二十世紀音楽研究所」を超克するかのように「新世紀音楽研究所」を金井英人らとともに設立して銀巴里を舞台にオールナイトの実験的なイベントも開催していた。その後のジャズの季節は新宿へと移り、1969年に高柳はベースの吉沢元治とドラムスの豊住芳三郎とともに「ニュー・ディレクション」として活動を始め、ニュージャズ・ホールとしてオープンした旧ピットイン2階の楽器倉庫などを拠点にフリー・フォームの音楽を探求し、翌年には最初のリーダー作となるアルバム『インディペンデンス』をリリース。その後もこの「ニュー・ディレクション」というプロジェクトはサックスの高木元輝と豊住芳三郎とのトリオ、阿部薫とのデュオなどメンバーの変遷を経ながらも続いてゆく。1971年に結成されたアルト・サックスの森剣治とドラムスの山崎弘とのトリオは「ニュー・ディレクション・フォー・ジ・アーツ」と名づけられたがその4年後にはベースの井野信義を迎え「ニュー・ディレクション・ユニット」と改称。同年に「日本リアル・ジャズ集団」の機関誌と同じタイトルの名盤『侵蝕(ECLIPSE)』がリリースされている。そして同アルバムが収録された翌月と翌々月に〈ESPディスク・レコード〉からの発表を前提にして同じメンバーでスタジオ録音された音源が、T・S・エリオットの長編詩『荒地』からそのタイトルが取られた『四月はもっとも残酷な月(April is the Cruelest Month)』である。

 アメリカとは異なりジャズに取り組む根拠を持たないように見える「根付の国」においていかにしてアイデンティティを確立し得るのか。日本のフリー・ジャズの立役者たちの多くはこの問いに対して真摯に向き合い、そして本盤もまた〈ESPディスク・レコード〉を通して日本のフリー・ジャズが世界水準にあると示すはずだったと言われもしたものの、それよりも本盤にいま接するのであればフリー・ジャズというジャンルでは括り切れないオリジナルな音楽内容の方をこそ聴き取らなければならないだろう。この時期の高柳は「投射」という用語を頻繁に用いており、それは『インディペンデンス』で確立されたと本人は述べているのだが、音楽における二つの基本形態としての静と動をそれぞれ「漸次投射」と「集団投射」と名づけ、さらに前者は空間性を、後者は時間性を担っていると言うものの明確な定義がなされているわけではなく、むしろ高柳の言に従えば空間はやがて時間を、時間はやがて空間を孕み持ち、すなわち二項対立的に分離され独立しているものではなくむしろ両投射概念は入れ子状になっている。こうした投射音楽が収録楽曲のタイトルとしても掲げられた『侵蝕(ECLIPSE)』に比したときエリオットの言葉が冠せられた本盤においても1曲めと2曲めは「漸次投射」、3曲めが「集団投射」というコンセプトのもとになされた演奏だと推察することができるのだがそのサウンドは様相を大きく異にしており、とりわけ特徴的なのは山崎弘によるドラムスというよりもパーカッションを中心にした演奏だろう。断続的に叩かれ続けるシンバルなどの金属類の響きが持続時間を形成し、繰り返されるコントラバスの重音やバス・クラリネットおよびアルト・サックスの短いフレーズ、そして余韻を十分に残したギターによるフィードバック・ノイズの絡まり合うアンサンブルを聴くとき、これは静も動も空間性も時間性も含み込み、入れ子状になった投射音楽の両側面がむくむくと顔を出しているのではないかという気にさえなってくる。『侵蝕(ECLIPSE)』におけるおどろおどろしさはなく音響の即物性が際立っており、そしてその耳を保って聴き進めてゆくと集団による音塊が絶え間なく放出される3曲めにおいてもなだらかにゆったりと漸次的に変化するドローンのような響きが浮かび上がってくる。喧騒のなかに潜む平静、あるいは稠密化した時間の空間的な広がり。『侵蝕(ECLIPSE)』で明瞭に提示されていた「漸次投射」「集団投射」という概念は、おそらく、本盤においてこそむしろそれらが侵蝕し合う入れ子状の本質を明らかにしている。

 およそ30年にもわたる「ニュー・ディレクション」での活動を経て、あるいはいくばくかの時期が重なりつつも、80年代すなわち50代を迎えた高柳はさらにギターによるフリー・ジャズを探求したグループの「アングリー・ウェイブス」を結成する一方で、それまでとは異なりソロ・ワークが比重を増していく。たとえば『ロンリー・ウーマン』などに残されている演奏はジョー・パスに代表されるようなオーケストレーションとしてのギター・ソロというわけではなく、オーネット・コールマンやアルバート・アイラーの楽曲に範を取ってあくまでも単旋律を中心にメロディーとリズムのなかに自由を見出していく──そのことがかえって個性的な音色を印象づけもするという極めて特異な試みだった。さらに晩年近くの「アクション・ダイレクト」と彼が名づけたソロ・プロジェクトにおいては複数のギターを卓上に寝かせ、エレクトロニクスやテープ・コラージュを使用した大音量のノイズ・ミュージックへと突き進んでいく。そのような道行から振り返ったとき、「ニュー・ディレクション」における活動は投射音楽という名づけこそあるものの、フリー・ジャズやノイズ・ミュージック以前にあるむしろ名づけ得ぬ未明の音楽だったのだとは言えないだろうか。そしてとりわけ「漸次投射」と「集団投射」という一対のそれ自体が入れ子状になっているコンセプトを入れ子状のままに提示し得たことは、実践においてコンセプトの範疇からするりと抜け出していく即興的な生成と変化を聴かせてくれもしたように思う。あるいは即興演奏がつねに未完成であらざるを得ないことから賭けられた生命の軌跡。「インプロバイズド・ミュージックに携わって行く者なら、その範囲は汎音楽に近くなる」(「ジャズ・ノート、批判と断想」)と語った高柳にとって、即興演奏は明らかにジャンルではなくあまねく存在している根源的な行為だったのであり、「ニュー・ディレクション」における未明性は汎音楽としての即興性がもっとも際立つかたちでふつふつと煮詰められていたということに他ならない。おそらく本盤がフリー・ジャズの名門としても知られる〈ESPディスク・レコード〉からリリースされなかったことは歴史の不幸ではなく、むしろジャンルの色眼鏡を抜きにして彼の実践に触れることができる僥倖と言うべきだ。そしてさらに音源発掘や音盤復刻がなされ、CDやレコードのみならずストリーミング・サービスを介してほとんど気負いなく高柳の音楽に接することができるようになった現在だからこそ、聴き取ることのできる響きでもあるだろう。すなわちわたしたちは21世紀の「高柳昌行」にあらためて出会い直すことになるのである。

第7回 ゆるい合意で、がんがん拡大 - ele-king

「愛はあ、地球をォ、救わねえんだよ!」
 何の脈絡もなかった。小学五年生の真夏である。外気温に比すれば信じられないほど快適な温度の部屋で、私は「関東地方で最も恐ろしい塾講師」とすら噂されていた先生に算数を習っていた。先生が冒頭のセリフを言った時、普段一切の許可なき発声を許されなかった私を含む子どもたちが、いっせいに声をあげて笑ったことをよく覚えている。我らの笑いについて、先生は何も咎めなかった。
 私はなぜ笑ったのだろう? 単純にその言葉の唐突さに勢いだけで笑ったのか、恐怖政治の最中に作られた「笑いを許す瞬間」を素直に察知したのか、あるいは「愛は地球を救う」をあっさりと否定する大胆さが小気味よかったのかもしれない。YouTubeの見方を知っているだけでクラスメイトから一目置かれるような時代である。24時間テレビはまだ活気があって、「みんなが見ている番組」だった。「愛は地球を救う」の否定は、「勉強しないで24時間テレビを見るあいつら」を「勉強をするので24時間テレビを見ないわれら」が嘲笑する響きを間違いなく持っていたのだ。
 24時間テレビがいかに陳腐でマジョリティの欺瞞を含んでいるのかは、これまでさんざん批判されてきた。それでもまだあの番組は存続している。まだ続いているということはまだどこかで求められていると捉えるべきなのだろう。公式サイト(参照:https://www.24hourtv.or.jp/total/ 最終アクセス2019年7月15日午後6時)によれば、2018年の寄付総額は8億9376万7362円だったそうだ。寄付金は年々減っているのかと思いきや、推移を見渡してみても如実に下がっている感じはしない。この寄付金で誰かが救われることもあるのだろうし、全否定するのもよくないとわかっているが、どうしても晩秋のゴキブリのようなしぶとさにはぞっとしてしまう。
 考えるほどわからないのだ。「愛は地球を救う」は全てが曖昧だ。愛とは何なのか? 半泣きで100キロ走りきることが愛なのか、障碍のある人にチャレンジをさせて「勇気をもらった」などと述べるのが愛なのか、同じTシャツを着た大量の人間が「サライ」を合唱することが愛なのか。毎年毎年同じことが繰り返されてきたが、いまだに地球は救われていない……というより、どういう状態になれば「地球が救われました!」と言えるのかがわからない。何一つ具体性がない。何を指すのか一切わからない目標は便利だ。「達成しました」も「達成できませんでした」も全部思うがままにできる。もっと言えば、裏に何がうずまいていようが、表向きの目標が「愛は地球を救う」であるなら、多くの人はそれを否定しないだろう。「愛は地球を救う」という字面には、「漠然としたfeeling good」が漂っている。「ねこはかわいい」とか、「お菓子はうまい」とかと同じレベルの解像度であるがゆえに、「愛は地球を救う」なる言葉は広く受け入れられる。

 最近話題になったキム・カーダシアンの「kimono」騒動――キムが自らプロデュースしたブランドの下着に「kimono」と名付け、文化の盗用であると批判され、最終的に名称変更が発表された事件――に際して、私はすさまじい違和感を覚えていた。違和感の対象はキムの決定ではなく、批判者たちのやり方だ(これはキムのやったことには問題がないという意味ではない)。
 例えば京都市が発表した抗議文には、以下のように書かれている。

 「きもの」は、日本の豊かな自然と歴史的風土の中で、先人たちのたゆまぬ努力と研鑽によって育まれてきた日本の伝統的な民族衣装であり、暮らしの中で大切に受け継がれ、発展してきた文化です。また、職人の匠の技の結晶であり、日本人の美意識や精神性、価値観の象徴でもあります。
(出典:https://www.city.kyoto.lg.jp/sankan/page/0000254139.html 最終アクセス2019年7月15日午後6時)

 この文章、本当に何も言っていないに等しい。「きもの」を「(任意の民族衣装)」に、「日本」を「(任意の国・地域)」に変更すれば、あらゆる地域に対して通用する内容だ。着物を「日本人の美意識や精神性、価値観の象徴」とまで言うのならもっと具体的な歴史について語ってもよさそうなものだが、そういう話は何も出てこない。
 そもそもここで「伝統的な民族衣装」と目されている「きもの」とは、何を指しているのだろうか。BBCの記事には、以下のような「one Japanese women」のコメントが紹介されている。

“We wear kimonos to celebrate health, growth of children, engagements, marriages, graduations, at funerals,”
“It's celebratory wear and passed on in families through the generations.”
「私たちは健康、子どもの成長、婚約、結婚、卒業を祝うため、また葬式の場において着物を着用します」
「それはお祝いの服であり、世代を超えて家族に伝えられました」
(出典:https://www.bbc.com/news/48798575 最終アクセス2019年7月15日午後6時、訳は筆者)

 「祝いの服」としての「着物」……この時点でもう怪しい。「民族衣装」と正装がイコールで結ばれる状況は、ものすごく近代的だ。少なくとも芝草山で刈敷にするための芝を刈る江戸時代の百姓が着ていた「着物」や、中世の被差別民が着ていた柿色の「着物」は、ここでは完全に切り捨てられている。
 前近代において、衣服は身分表象であった。多様な形と機能があることはもちろん、着る人間の置かれた立場を示す意味が付随していた。すなわち「着物」を列島の衣服の中で通時代的に位置付けるとき、ある特定の形の衣服に「着物」を代表させることは、大部分の人間を列島の歴史から捨象する行為と同義なのである。数え切れないかつての生者たちの汗や涙を吸っていた衣服の大部分は、名もない人が必要に迫られて仕立てた普段着であって、職人が気合いを入れて作った高級な晴れ着に「着物」全てを代表させるのは、あまりに偏っている。
 兒島峰「「日本」の身体化」(方法論懇話会編『日本史の脱領域』森話社、2003年)によると、現代における「着物」のイメージは、「身分による着衣規制が解かれた明治期になって確立したもの」(前掲書、235ページ)なのだという。明治初期から半ばにかけて帯の重要性が高まり、昨今イメージされるような大きく立派な帯を締める形に変化していくのだ。兒島氏はこの「着物」イメージの成立時期を、洋服の受容とほとんど同時であると指摘している。「着物」のアイコン化は、明らかにナショナリズムの波の中で起きた現象であった……というより、今われわれが当たり前のように用いている「着物」というカテゴリ自体、この時期に「外部」の目を気にしながら設定し直されたものだと言えるのかもしれない。
「着物」を「日本人の美意識や精神性、価値観の象徴」とすることのグロテスクさは、改めて批判するときりがない。繰り返しになるが、今「着物」として想像されるスタイルは日本列島の衣服の歴史を代表させられるものではない。かつての首都である京都市が自らを「きもの」文化の発信者であり擁護者であると自負している状況自体、セントリズムであると言ってよい。また現在日本国籍を所持している人の中には、当然「着物」に連なる文化圏以外にルーツを持つ人が数え切れないほどいる。「着物」という曖昧な言葉で示されたカテゴリ内部の変化、揺らぎ、多様性を無視しながら「文化」の守護者であるかのように振る舞うのは、実に奇妙だ。
 兒島氏の「着物文化」批判をさらに引用しておこう。

 着物を文化とみなすことは、自己肯定感を満足させる。本来、流動的で、固定した枠組みを持たない着物は、やはり曖昧な概念である「民族」とか「人種」と結びついて、個人の感情に働きかける。(前掲書、237ページ)

「着物は昔からあるよね」「伝統は守ったほうがいいよね」……抽象的であるからこそ、そして「日本人」を漠然と肯定するからこそ、これらの問いは人の首を縦に振らせる力を持つ。あやふやな概念であるからこそ、ゆるやかかつ広範に合意を回収するのだ。

 今一番警戒すべきなのは、この「ゆるい合意でがんがん拡大するあやふやな概念」なのではないかと感じている。先に挙げた「愛」や「文化」の他はその筆頭であろう。これらの響きは、よい。「漠然としたfeeling good」がある。さらになんとなく重厚な雰囲気と、いかようにも解釈できる曖昧さを持っている。どんな人間でも何がしかの形で自分の気持ちや営みを委ねることができてしまうのである。
 何が問題なのだと思われるかもしれないが、社会が一人一人が違う気持ちでいること以上に、たくさんの人間が抽象的で大きな気持ちをひとつ共有していることを優先するのだとしたら、大量の人間を思うがままに支配したい人間にとって、こんなに都合のいいものはないだろう。その共有されたひとつの気分を口にしてやれば、それだけで大量の人間の感情が喜んで動くのだから。
 洋画が日本で公開されるとき、他にもっと力を入れた部分があるにもかかわらず「愛と感動の物語」文脈に寄せて宣伝を打たれる様子をよく見かけるが、あれもまた「漠然としたfeeling good」によってより広い人びとにリーチすることを狙ったものだろう。「これは愛なんですよ」「こういう文化なんですよ」でなんだってすてきに説明できてしまうなら、一人の人間が自分の抱いた感情がどのようなものであったか、自分の実践がどのような背景でいかに遂行されたかを、細かく言葉にする必要はなくなってしまう。これが恐ろしい。自分の考えや行動を自分の手から離して大きなものに委ねるやり方を繰り返していれば、個人など消えてしまう。そうなれば行き着く先は(もうすでに到達しているのかもしれないが)、他者のいない世界だ。批判も自浄能力もない、ただ全てがなんとなく同じ形であると信じられているぼやけた人混みと、その人混みの一部になるよう強制する静かな圧力だけが残る。

 やっぱり気持ち悪いのだ。私は特に「愛」の語りに鳥肌を立てている。「漠然としたfeeling good」の全てを否定するわけではないが、世間でここまで「愛」が尊いものとして重んじられているのを見ると、なんとグロテスクな仕組みなのだろうと思わずにいられない。批判しないとまずい気がする。くどいようだが、みんな「愛」に具体的なものを委ねすぎなのだ。解像度を下げて大きい括りに回収させる、この繰り返しで「愛」はすっかり幅を利かせているではないか。「愛」の専制は「愛」をそもそも理解できない、必要としていない人たちをシャットアウトするセントリズムであるし、「愛」概念をよくないものの隠れ蓑として機能させてしまう危うさでもある(「これは愛だ」と銘打って振るわれた暴力の事例は枚挙に暇がない)。

 話題にするにはだいぶ遅い話だが、しばらく前に友人が米津玄師の“Lemon”について「あれは抽象的だから売れたのだ」と言っていた。なるほど、あの曲はドラマ『アンナチュラル』の主題歌だったが、死や離別を扱う話であれば大抵マッチするため、どのエピソードで流れても大概泣けるようにできている。多くのおたくがこの曲に心を委ねていたのは印象的な光景であった。好きなキャラクターが死を迎えたり誰かと死に別れたりするシーンになんらかの形で思いを馳せながら、“Lemon”を聴いていたのである。“Lemon”はあらゆる物語が代入可能な感情装置であった。おそらく全て戦略的に設計されているのだろう。“Lemon”に限らず、「市場」全体が抽象的な方向に流れているような気がする。

 今や複雑な合意形成を広範に取り結ぶこと自体、ほとんど不可能になりつつあるのかもしれない。自分が何に対して何を感じているのかを緻密に言語化する作業、自分の宇宙を個別具体的な存在として捉え直す営みを、当たり前のこととして怠けずにやっていく必要がある。このとりとめもなく我ながら説教くさい文章も、「個人」を消さないための実践の一部だ。その時々で一番不安に思っていることを書き起こすと、胸のつかえが少し降りる。今夜は昨夜より少しだけいい。

Holly Herndon - ele-king

 コンピュータ技術などの進歩によって、2045年ごろには、技術的特異点が生じ、これまでとはまったく異なる世界がやってくるらしいが、この技術的特異点=シンギュラリティは、はたしておとずれるのか。
 シンギュラリティとは、制御できないほどに加速していくテクノロジーと、その結果引き起こされる重要な変化に対して人間が対処できなくなる、その加速化の到達点のことをさして言う。これは主にAIの進歩に関してたびたび耳にする言葉であって、AIが用いられている音楽においても同様の意味で用いられるだろう。
 テクノロジー/人間性、ソフトウェア、エレクトロニクス/身体性のような対立項は音楽において切っても切り離せないものであり続けた。実際、1955年〜56年のシュトックハウゼンの〝少年の歌”は、歌われた音響と電子的に制作された音響の統一をはかるというテーマのもとに作曲されたものであった。もちろんテクノロジーはどんどん進歩していくものであるから、テクノロジー/人間性、ソフトウェア、エレクトロニクス/身体性のような対立項の関係性はシュトックハウゼンが1950年代に〝少年の歌″を作曲した頃とは変わっているだろう。音楽の領域においてのシンギュラリティにも人間は近づいているのかもしれない。

 この問いにいま現在のこたえを出したのが自身のAIの赤ちゃんとコラボしたというホーリー・ハーンダンの『PROTO』である。このアルバムは「Spawn」と名付けられたホーリー自身のAIの赤ちゃんとのコラボレーションのなかで生まれた。
 ハーンダンはテクノロジーに対して、「私たちはテクノロジーに向かって走っているが、ただしそれらは私たちの思い通りである」との考えを持っているようだ。そんな彼女の活動に通底するテーマもテクノロジー/人間性、エレクトロニクス/身体性という対立項であった。
 そしてこれに対する彼女なりの答えが、人間の身体とデジタル・テクノロジーを結合させることの可能性を追求することであり、その方法として用いたのが彼女自身の「声」であった。
 1曲名“Birth″から彼女の歌声は引き伸ばされ、加工され非人間的なサウンドを構築していく。が、一方でアルバムを通して人間的な力のある歌声も彼女は披露している。人間的/非人間的な、彼女自身の歌声たちの循環、呼応によってこのアルバムは作り上げられているように感じる。

 私はこのアルバムを聴き、音楽=身体性について記述されているロラン・バルトの声のきめに書かれていたことを思い出した。声のきめとは「歌う声における書く手における、演奏する肢体における身体」であり、私たちはきめ=音の手触りを感じることができる。私たちがそれについて評価したところで、曲がもつ内容は個人的なものでしかなく、完全に科学的なものにはなり得ないのである。ハーンダンの歌声も、AIにより学習され、無機質に、テクノロジーによって加工されていくわけであるが、もととなる声はあくまで彼女自身のものであり、完全に科学的なものにはなり得ないのである。

 音楽の領域におけるシンギュラリティを超える日が来るのかどうかは私にはわからないが、ホーリー・ハーンダンの今作『PROTO』は2019年現在のテクノロジーと人間の関係を体現した作品としてとても価値があることは間違いない。ハーンダンは、エレクトロニック・ミュージックにおけるテクノロジーと人間の正しい関係性を提示しているのである。

OGRE YOU ASSHOLE - ele-king

 嬉しいお知らせです。9月4日、オウガ・ユー・アスホールが3年ぶりのニュー・アルバムをドロップします。心機一転、新たにスタートしたレーベル〈花瓶〉からのリリース。タイトルは『新しい人』ということで、どうしてもフィッシュマンズを思い出してしまいますが、いったいどんな想いが込められているのでしょう。
 なお全国ツアーの開催も決定しており、9月末から11月頭にかけて全国6都市をまわります。ちなみに新たなアーティスト写真は、撮影を塩田正幸が、アート・ディレクションを紙版ele-kingでおなじみの鈴木聖が担当しているとのことで、ヴィジュアル面にも注目です。ひとまずは8月7日に先行配信される新曲“さわれないのに”を待ちましょう。

[8月7日追記]
 ついに来ました。新曲“さわれないのに”が本日リリース、MVも公開されています。配信はこちらから。

[9月13日追記]
 先日発売されたばかりのニュー・アルバム『新しい人』、そこに収録された“朝”のライヴ映像が公開されました。バンドは9月29日から11月4日にかけてリリース・ツアーをおこないます。詳細は下記より。

半分現実 半分虚構
OGRE YOU ASSHOLE の新しい感覚の音楽。
三年ぶりとなる NEW ALBUM にして最高傑作『新しい人』発売決定。

メロウなサイケデリアで多くのフォロワーを生む現代屈指のライブバンド OGRE YOU ASSHOLE の三年ぶりとなる NEW ALBUM 『新しい人』が9月4日にリリース決定。
それに伴い全国6カ所をまわるリリースツアーの開催も決定。
ツアーファイナルはEXシアター六本木にて開催。
また8月7日にはアルバム発売に先立って収録曲“さわれないのに”の先行配信とMVが公開。

本作には、シンセポップ、ファンカラティーナ~ミュータント・ディスコのエッセンスを含んだ多幸感と虚無感が共生するダンスサウンドやメロウでメディテーショナルなスローナンバー等が収録。
心地よいサウンドスケープに無意識に引き込まれ、たどり着く先にある世界は……
サウンド・歌詞共にバンドの可能性を更に広げる最高傑作が完成。
レコーディング、ミックス、マスタリングは前作同様、バンドを熟知するエンジニア中村宗一郎が担当。

同時に初公開となる新しいアーティスト写真は撮影を塩田正幸、アートディレクションを鈴木聖が担当。

OGRE YOU ASSHOLE
新しい人
2019年9月4日 (水) 発売
金額:¥2,700 (税別)
Label:花瓶
品番:DDCB-19005
収録曲:後日発表

収録曲『さわれないのに』8月7日 (水) 先行配信

OGRE YOU ASSHOLE『新しい人』release tour

9月29日 (日) 松本ALECX
 前売 ¥3,900 / 当日 ¥4,400 (ドリンク代別)
 松本ALECX:0263-38-0050
10月6日 (日) 梅田TRAD
 前売 ¥3,900 (ドリンク代別)
 GREENS:06-6882-1224
10月12日 (土) INSA福岡
 前売 ¥3,900 (ドリンク代別)
 BEA:092-712-4221
10月22日 (火・祝) 名古屋 CLUB QUATTRO
 前売 ¥3,900 (ドリンク代別)
 JAILHOUSE:052-936-6041
10月26日 (土) 札幌 Bessie Hall
 前売 ¥3,900 / 当日 ¥4,400 (ドリンク代別)
 WESS:011-614-9999
11月4日 (月・祝) EX THEATER 六本木
 前売 ¥4,200 / 当日 ¥4,700 (ドリンク代別)
 HOT STUFF PROMOTION:03-5720-9999

◆オフィシャルHP先行 (e+ / 1人4枚まで)
https://www.ogreyouasshole.com/
7/19 (金) 22:00 ~ 7/29 (月) 23:59

◆PG(各イベンター)先行
後日詳細発表

◆一般発売
松本、大阪、福岡公演:8/10 (土)10時~
名古屋、札幌、東京公演:8/24 (土)10時~

OGRE YOU ASSHOLE Profile
出戸学 (Vo,Gt) / 馬渕啓 (Gt) / 清水隆史 (Ba) / 勝浦隆嗣 (Dr)

メロウなサイケデリアで多くのフォロワーを生む現代屈指のライブバンド OGRE YOU ASSHOLE。
00年代USインディーとシンクロしたギターサウンドを経て石原洋プロデュースのもとサイケデリックロック、クラウトロック等の要素を取り入れた『homely』『100年後』『ペーパークラフト』のコンセプチュアルな三部作で評価を決定づける。
初のセルフプロデュースに取り組んだ前作『ハンドルを放す前に』ではバンド独自の表現を広げる事に成功し高い評価を得る。
2010年 全米・カナダ18ヶ所をまわるアメリカツアーに招聘される。
2014年 フジロックフェスティバル ホワイトステージ出演。
2018年 日比谷野外音楽堂でワンマンライブを開催。
https://www.ogreyouasshole.com/

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