「Man」と一致するもの

Blawan - ele-king

 コロナ禍に入ってからのシングルがほぼすべて当たりだったベース系インダストリアル・テクノのブラワンことジェイミー・ロバーツによるセカンド・アルバム。タイトルは「病気になるための秘薬」とでも解すればいいのか、ボルヘスやトム・ロビンズの魔術的な小説みたいで、作品に迷い込む気を満々にさせる。ブラワンのダンス・ミュージックはいつも人間性のダークな面に焦点が当てられる。ファニーな側面はもちろんあるけれど、不必要にハッピーであった試しはない。13年前に彼の名を一躍有名にした“どうして僕のガレージに死体を隠すんだよ?(Why They Hide Their Bodies Under My Garage?)”も、母親のフェイヴァリットだったというフージーズの“How Many Mics”から「部隊を殲滅させて死体をガレージの下に隠すんだ」と軽くトーンを上げてラップされる歌詞に愚直なアンサーを返したもので、人間の不可解な行動を誇張して示すことに成功し、ジェフ・ミルズからスキルレックスまでノン・ジャンルでヘヴィープレイされる結果となった。くだらないベースラインの氾濫で多幸感に支配されたダンスフロアに異質な感触を持ち込むのがブラワンであり、『SickElixir』には“心配しないで、僕たちは幸せだよ(Don’t Worry We Happy)”と、ダークサイドに興味を持つ人々を否定しようとする動きにもあらかじめ楔は打たれている。ブラワンという名義はちなみにジャワ・コーヒーの銘柄で、ダンフロアに苦味を注ぎ込むのがロバーツの役割ということだろう。

 7年前に闇の中を突っ走っていくようなデビュー・アルバム『Wet Will Always Dry』でシンプルな力強さを見せたロバーツは(最近だと“Caterpillar”が素晴らしかった)パーリア(Pariah)ことアーサー・ケイザーと組んだカレン(Karenn)名義のジョイント・アルバム『Grapefruit Regret』(19)でテクノ以外の要素をすべて削ぎ落としたことが裏目に出たとしか思えず、無限に思えたポテンシャルももはや尽きたかと思われたものの、ソロでは再びダブステップやウォンキーのようなテクノ以外の要素も回復させ、『SickElixir』ではついに別人のような風格を伴って堂々たるリターンを果たしている。ケイザーとはその後も〈Thrill Jockey〉からパーシャー(Persher)名義でメタル系のアルバムを立て続けにリリースしていて、『SickElixir』にはあからさまにそのフィードバックも感じ取れる。最も特徴的なのはハード・ドラムの多用で、バーミンガム・サウンドと称されるイギリス流のポスト・インダストリアルがベース・ミュージックに埋め込まれた様は、それこそバーミンガム・サウンドを代表するサージョンがヒップホップをやっているように聞こえたりと、アグレッシヴな破壊衝動がダンス・ミュージックのフォーマットにがっちりと畳み込まれている。この4年間にリリースされた「Soft Waahls EP」「Woke Up Right Handed」「Dismantled Into Juice」といったEPはいずれも野心的で発想も多岐に渡っているのはさすがで、とくに「Bou Q」は素晴らしいのひと言だけれど、『SickElixir』に詰め込まれた曲の数々はそれらとも一線を画す強度があり、それこそリスナーを病気にしてやるという熱量が全編に漲っている。ここ数年、批評に熱量を求める声が高まっていて、論破を忌避する人たちがよりにもよって精神論に回帰していく感じはなんだかなーと思うのだけれど、音楽自体に熱量が宿ることはもちろん素晴らしいことである。

 基本的にはイーブン・キックだった『Wet Will Always Dry』とは異なり、『SickElixir』の基調をなしているのは広義のブレイクビーツ。全体にザ・バグがキャバレー・ヴォルテールをブラッシュ・アップさせたような響きに満ち、ディスコやハウスと出会ったインダストリアル・ミュージックがダンスフロアに感じた可能性や初期衝動を再燃させているかのよう。曲の長さも平均で3分ちょいと『Wet will always dry』の半分ぐらいになり、酩酊感よりもイメージの喚起が優先されている。BPM90~110に収まる曲が多く、これに80や130で緩急をつけ、アルバム全体の展開も迷宮的な構成を助長している(“Birf Song”はヘン過ぎてBPMがとれない)。何度聴いても頭にスヌープの“Drop It Like It's Hot”が浮かんでくる“NOS”や、空中分解したUKガラージを無理やり曲として成立させている“Creature Brigade”など、多種多様な曲のどれもが印象的で、好きな曲は人それぞれに異なることだろう。ノイズがねっとりと絡みつく“Sonkind”もクセになるし、アシッドヘッドには“Rabbit Hole”がたまらないことでしょう。今年はエレクトロが奇妙な変化を遂げた年で、その動きに反応したらしき“Style Teef”はシェレルばりにBPM160で展開される高速エレクトロ。リック・ジェイムズやMCハマーがてんてこ舞いで回転している姿が目に浮かぶ。

 実は、この夏に〈Planet Mu〉からリリースされたスリックバックのデビュー・アルバムに多大な期待を寄せていた。オフィシャルでは初となるアルバムであり、なによりも〈Planet Mu〉にレーベルを定めたという安心感もあったのだけれど、この5年間にアンフィシャルで8枚ものアルバムをリリースしてきたことが裏目に出たとしか思えず、皮肉なことに『Attrition(消耗)』と題されたアルバムは確かに疲れを感じさせるものがあり、〈Nyege Nyege〉から頭角を現してきた時のスリリングな響きには遠く及ばないものを感じてしまった。『消耗』というタイトルは、実際にはケニアからポーランドへ移住する際に、1年間にわたって国境付近で待機させられたことに由来し、音楽性と直接結びつくことではないらしいのだけれど、どうしてもこの5年間にやってきたことが悪い意味で投影されているタイトルだという印象を受けざるを得なかった。そこに、等しくデコンストラクテッド・クラブの要素としてハードコアやポスト・インダストリアルを取り入れた『SickElixir』が届けられたことで、肩透かしに終わってしまったスリックバックに対する期待感は見事なほどレスキューされてしまった。しかも、UKベースの文脈にポスト・インダストリアルを取り入れる手際がより巧みであり、ハードコアやポスト・インダストリアルといった荒々しいモードを現在の文脈で活性化させるにはこれ以上はないと思うほど『SickElixir』はよくできていると思う(もちろん、スリックバックにもまだまだ期待はしたい。それにしてもケニアからポーランドへと、どうして2次大戦中にナチスが支配していた国を渡り歩こうと思ったのだろう?)。

 Hello Hello! hey hey! はろはろ! へいへい!
 今月からこの連載を書かせていただくことになりました、DJのheykazmaですッ!!

 普段は東京で高校一年生をかましつつ、experimentalを軸に、TechnoやHouse系のDJをしたり、ギャルマインド満載なトラックを作ったり、モデルをしたり、パーティを主催したり、遊びに行ったり……。アーティストとして、学業の傍ら、楽しく活動しています。

https://lit.link/heykazma

 この連載では、ワタクシことheyが制作した音源の話や、最近聴いてムネアツな音楽、日常のワラえることなど、みなさんと共有したいものをひたすら書いていく予定(キリッッッ)。ゆる〜く読んでもらえたら嬉しいhey!

 hey的にお気に入りのheyの現在地的なDJ Mixはこちら! 1億回聴いておくんなまし〜

 初回のテーマは……10/1にU/M/A/AからリリースされたRemix EP「Happy Halloween Remixes 2025 Curated by heykazma」について。
 この作品は、毎年10月になるとSNSでよく耳にするハロウィンソング定番曲!再生数がマジでヤバいJunkyさんのボカロ楽曲『Happy Halloween』をテーマに、heyがキュレーションを担当したEPです!

Junky- Happy Halloween (heykazma Remix)

 このお話をいただいたきっかけは、「Happy Halloween」の原曲をリリースしたレーベルのみなさんが、私が主催しているパーティ「yuu.ten」に遊びに来てくれちゃったことでした(感謝!!♡)

 「yuu.ten」は、2024年からスタートした“音に溶ける”をコンセプトにしたダンスパーティ\(^o^)/

 初回となるvol.1は、地元・仙台で愛しているお店「ファシュタ -Första-」で開催したの。東京から、普段一緒にユニットを組んだりしているマヴ・北村蕗をゲストに迎え、2人会をやっちゃいましたよ。

 そして、6月20日に開催したvol.2は下北沢SPREADにて。LIVE、DJ、アートパフォーマンス、似顔絵ワークショップなど、私の“好き”と“友人”をぎゅっと詰め込んだ内容に(((o(*゚▽゚*)o)))♡

 会場は満員で、来てくれたまゔたちからも「こんなイベント待ってた!」と言ってもらえて、本当に嬉しい夜だったよん˚ˑ༄

 後日、「heyちゃんにお願いしたいことがあったんだよね!」と、今回のリミックスEPの企画のお話をレーベルの方からいただきました。すごく光栄でテンション爆上がり!(わーーい

 今回私が担当したのは、いわばディレクター的な役割。
 リミキサーの選定、アートワークをお願いするアーティストの選定、MV監督の起用、リリースパーティの企画などなど…。

 特に最初に取りかかったのが、「誰にリミックスをお願いするか?」という部分。hey的に、原曲の“Happy Halloween”が持つ、ポップでキャッチーで、ちょっとホラーでかわいい世界観を、それぞれの解釈で楽しく再構築してくれそうなアーティストたちをピックアップ!

 結果、リミックスをお願いしたのが、Shökaちゃん、清水文太くん、バイレファンキかけ子さま、foodmanパイセンの4名! そしてアートワークを村田みのりせんせー、MVをALi(anttkc)っちにオファ〜しました!

 ジャンルも活動スタイルもバラバラだけど、それぞれの個性がピカピカで、hey的に「この人たちが並んだら絶対おもしろい!」と思える方々ばかり。
この選定には、これまでheyが遊びに行ったパーティや出会ったアーティスト、SNSで気になっていた方など、これまでの縁やつながりがめちゃくちゃ活きているchanょ。

 ここからは、今回リミックスをお願いした4組のアーティストについて、heyとその人たちとの出会いや制作までの流れを書いてみますっ!

Shöka (Remixer)
 Shökaちゃんとは、もともと共通の友人を通じて知り合いました。最初にちゃんと話すようになったのは、彼女が出演していたイベントに遊びに行ったときのこと。そこから、会ったり会わなかったりを何度か繰り返して、気づけば自然と仲良くなっていました。
 あるとき、「高校時代にボカロをよく聴いてた」って話をしてて、それを聞いた瞬間に「これはShökaちゃんにリミックスお願いしたいかも!」って直感で思ったんです。
 思い切ってオファーしたら快く引き受けてくれて、出来上がった曲を聴いたときは本当にびっくりしました。普段のShökaちゃんの独特なバイブスが音にも滲み出ている一方で、作品ではあまり見せていない音楽性もあって、すごくドープに仕上がっていて……不思議で、でもクセになるタッチの曲。何度も聴いては刺激受けまくりで、ひたすら最高!!

ライヴ観に行ったとき謎の遊びをしている写真...

清水文太 (Remixer)
 文太くんのことは、小学生のころハマっていた「水曜日のカンパネラ」のスタイリストをしていたり、私がずっと好きなクィア&フェミをテーマにした東京のDJパーティ「WAIFU」でライブ出演していたりと、名前を見かけるたびに気になる存在でした。
 ちゃんと話すようになったのは、実は今年に入ってから。私が出演したパーティにふらっと遊びに来てくれたのがきっかけでした。
 話してみたら、表現の幅広さとか感性の鋭さとか、想像以上で。彼の実験的かつ自由なバイブスにめちゃくちゃ惹かれて、今回のリミックスもぜひお願いしたいと!!!!
 実際に届いた音源は、まさに文太くんの空気感そのまま。“ハロウィン”というテーマに対して、甘すぎず、美しくて、でもちょっと毒もある。その微妙なバランスを取れるのは、やっぱり文太くんしかいないなって〜〜〜!♡

一緒に新宿御苑行ったら急にストレッチをし始める文太くん

バイレファンキかけ子 (Remixer)
 かけ子さまとは、クラブの現場で出会ったというより、SNSでかけ子様のDJ Mixや情熱大陸のBootlegを先に聴いて、「この人やばっ!」ってなったのが最初。
 初めて実際にお会いしたのは、上京してすぐ。かけ子さまが出演しているパーティに遊びに行って、フロア最前でマヴと爆踊りしてました(笑)。
 プレイ後に話しかけたら、めちゃくちゃ優しくて面白くて、バイブスが最高すぎて! かけ子様の音楽のお祭り感とハロウィンのお祭り感をMixしたら絶対最高になると思って、すぐオファーしちゃた! 結果、めちゃくちゃフロア爆発しそうなリミックスが届いて感動。安心信頼、安定のかけ子大先生!!

初めてお会いした時に撮ったツーショ!!

食品まつり a.k.a foodman (Remixer)
 食まつパイセンとも、かけ子様と同じく最初はSNSにアップされていた音源を聴いて強く惹かれたの.........!!!!!
 さらに、大好きな作家・アーティストのシシヤマザキちゃんと「1980YEN」というユニットを組んでいたこともあり、当時からすごく気になる存在。昨年の夏、下北沢SPREADで初めてライブを拝見したのですが、そのパフォーマンスが圧倒的で、やっと会えました!
 そんな中ふと!「ボカロと食まつパイセンの音楽が混ざったら面白いのでは!?」と思い、今回無茶振りオファーを〜〜〜〜(*´∇`*)
 そして生まれたのが、めちゃくちゃ異色でエグいサウンド。聴けば聴くほどクセになる、“スルメ楽曲”の極みです!! パイセン サイコー!

りんご音楽祭で会ったときの写真!!

村田みのり(アートワーク)
 みのり教授と出会ったのは6月。コムアイさんとみのり教授が主催する「おかしなおかね」に、参加したのがきっかけ。
 もともとインスタで作品を見ていて、「この世界観めっちゃかわいい!」って思ってたんです。
 実際にお会いしてみたら、テンションの波長がすごく合うし、初対面でもすぐに仲良くなれちゃた。
 そのあともイベントで何度か会ううちに、みのり教授の持つ柔らかさとか、アイデアの発想力にどんどん惹かれていって。今回のハロウィンのテーマを考えたときに、真っ先ににお願いしたい!って思いました。

はじめてみのりさんとbonoboでお会いした日
w/もりたみどりちゃん&Yoshiko Kurataさん

ALi(anttkc) (Music Video監督)
 ALiっちは、普段からよく遊ぶマイメンのひとりで、もう説明いらないくらい信頼しまくってる存在。私が主催している「yuu.ten」でもVJを担当してくれたり、彼が運営している神保町のイベントスペース「RRR」でブッキングしてくれたりと、お互いに呼び合ったり、遊びに行ったりな関係!映像制作に関しては本当に安心と信頼のクオリティで、今回も絶対にお願いしようって迷いなく思いました。打ち合わせではふわっと伝えただけなのに、彼が作ってくれた映像はPOPでかわいくて、動きもテンポも最高。本当に、ALiっちの映像が加わったことで、今回のEPやハロウィン企画全体の世界観が一気にぐっと立体的になったな〜と感じています。

りんご音楽祭で会ったときの写真!!

 そして最後に、hey自身が制作したRemixについて〜。
 heyはこの曲の「アゲな部分」にフォーカスして、Hard Technoでわっしょい感を大切に、数々の有名ダンスアンセムから影響を受けて、NEO盆踊りの極みmixに仕上げました! 500,000,000回聴いてくれ!

 今回の企画を通して、改めて「人と人とのつながり」や「音楽が持つ広がりの力」を強く感じました。heyがこれまで現場で出会ってきた人たちと、ひとつの作品を一緒に作り上げられたことが本当に嬉しい( ; ; )

 それぞれのリミックスが持つ世界を聴きながら、ぜひハロウィンという季節を自由に楽しんでほしいなと思うよんっ♪

 またリリースを記念して、日本橋にあるアートホテル”BnA_WALL”でhey主催リリパを開催します!!こちらも激アツな企画になってるので...絶対に来て欲しいです!!!!!!!!!!

 これからも私heyは己かましまくりで前に進んでいこうと思うよっ
 それでは次回の連載、どこかのパーティでお会いしましょう˖ . ݁

Happy Halloween Remixes 2025 Curated by heykazma
Release Party at BnA_WALL 日本橋

2025年10月31日(金)
18:00 Open
19:00 Start
22:00 Finish

■ DJ
heykazma
バイレファンキかけ子
カワムラユキ
CASE(Wangone)
■ Live
Shöka
清水文太

■チケット
¥3.500 当日(会場のみで販売)
¥3.000 前売り ※非売品ステッカー付 50枚限定
¥2.000 Under 25
※小学生以下のお子様のご入場は無料です。
※会場キャパシティの上限に達した際には当日券が販売中止となる場合があります。

Peatix | eplus

R.I.P Dave Ball - ele-king

野田努

 デイヴ・ボールは、ポール・ボールになったかもしれなかった。 彼が生まれた1959年5月3日、じつの母親はポールと名付けている。しかし未婚のシングルマザーは、1年間の貧しい生活の果てに我が子を養子に出すことにした。ポールを養子に迎え入れたボール夫妻は、ポール・ボールのような韻を踏んだ名前ではこれから学校に行ったときに問題になるかもしれないと、デイヴィッドに改名したのである。かくしてデイヴ・ボールは、イングランド北西の街、ブラックプール──サッカーファンからは、弱いけど人気があってサポーターが熱い(駿河湾のくぼみのどこかのチームのようだ)地元クラブのことで知られ、英国音楽ファンからはノーザン・ソウルの大いなる拠点のひとつとして記憶されている──で思春期を送ることになる。
 ボールが初めてディスコに行ったのは10歳のときで、のちに彼がマーク・アーモンドとともに結成するソフト・セルがカヴァーし、最初の、そして最大のヒットになった“Tainted Love”を初めて聴いたのは16歳のときだった。グロリア・ジョーンズがこの曲を吹き込んだのは1965年、しかもこれは不発シングルのB面曲、そもそもあまりよく知られていない曲だった。ノーザン・ソウルとは、このように、大勢がまだ知らない埋もれたアメリカのソウル——デトロイト、シカゴ、フィラデルフィア、LAなどのなるべくヒットしなかった曲——をディグするというレアグルーヴ的なアプローチによる選曲と、そしてDJは会場にやって来たダンサーのためにひと晩中踊る曲をかけ続けるというレイヴ的なアプローチを兼ね備えた、1970年代の、DJ/ダンス・カルチャーの初期段階だった。南部やロンドンの洗練された文化と違って、北部のいなたい労働者階級の若者が週末のダンスのために生きる刹那的なライフスタイルに根ざした巨大なアンダーグラウンド・ダンス・シーンである。

 デイヴ・ボールがポップ史において果たしたひとつの成果は、ソウルとパンクとクラフトワークを合体させたことだった。ソウルとスーサイドを合体させたことだった、とも換言できる。ひとりのヴォーカリストとひとりのエレクトロニック担当者のふたりでステージに立つことの先駆者にはスーサイドがいたし、第二期DAFもそうだったけれど、言うなれば彼らはアンダーグラウンドの脅威だった。1979年(ウィキペディアほかネット情報では1978年結成とあるが、本人の述懐によれば、サッチャー当選の1979年に結成。おそらく、アーモンドのパフォーマンスのバックに初めて音を付けたのが1978年なのだろう)に誕生したボールとマーク・アーモンドのソフト・セルは、チャートを賑わせ、トップ・オブ・ザ・ポップスに出演するようなポップ・ミュージックのユニットである。
 とはいえ、ソフト・セルがポップスとして聴かれるには少し時間が必要だった。だいたいポスト・パンク期からゴシック期へと(つまり70年代末から80年代へと)移行する時代における若きエレクトロニック・ミュージックは、いきなりMoogを買えるほど裕福ではなく、機材が日進月歩していたこともあって作品ごとサウンドが異なっている。初期のシンセサイザーと言えばモノフォニック(単音しか出せない)で、シーケンサーの代わりはテープデッキ、ドラムはBOSSのDr Rhythmとか、もしくはプリセットを使うことも珍しくなかったし、最初期のキャバレー・ヴォルテールのようにホワイト・ノイズをリズムの代わりに使っていたバンドもいる。しかしながらそうした制限が、創造的な音楽を促していたと言いたくなるのは、いま聴くと、今日のPC内でつくられた音楽にはない、それぞれ固有のテクスチャーや創意工夫に基づいた深みのある魅力を放っているからだ。

 ロックンロールが大嫌いだった父親のもとで、10歳から音楽オタクとなったデイヴ・ボールは、すべてのお小遣い/アルバイト代をレコードにつぎ込み、リーズ工科大学に進学する頃にはそれなりのレコード・コレクションを有していたという。ソウル・ミュージックからグラム・ロック、ディスコ、プログレからクラウトロックまで、横断的に蒐集していた彼が最初に天の啓示を感じたのは、高校時代にアイスクリーム屋でバイトしていたときにラジオから流れたクラフトワークの “アウトバーン” だった。それから、ブライアン・イーノの『アナザー・グリーン・ワールド』、そしてドナ・サマーの “アイ・フィール・ラヴ” ……。
 大学に進学するとリーズにやって来たパンク・バンド/ポスト・パンク・バンドのライヴ──オリジナル・ヒューマン・リーグ、キャバレー・ヴォルテール、ジョイ・ディヴィジョン、ACR、スピッツ・エナジー、スロッビング・グリッスル等々──を目撃している。在学中、学位取得のためしばらくマンチェスターへ移り住んだときは、2トーン・レコードのツアーやディーヴォ、YMOのライヴにも足を運んだ。そのころには、ボールの関心はエレクトロニック・ミュージックに絞られていた。在学中、ギターを売って得た金と300ポンドで、ふたつのオシレーターを搭載したKorgのデュオフォニック・アナログ・シンセサイザー、800 DVを買った(数年後にはソフト・セル・サウンドのトレードマークにもなる、もう一台のKorg、ベース・シンサイザーSB-100を手に入れる)。
 大学の同級生にはマーティン・ハネットの実弟がいて、最上級生にはフランク・トーヴェイがいたが、大学に入って最初に声をかけた相手が、ヒョウ柄のシャツを着てアイラインを入れたマーク・アーモンドだったのは運命的である。ジョン・ウォーターズの「ディヴァイン」シリーズやラス・メイヤー、ケネス・アンガー、ウォーホル等々、トラッシーなカルト映画好きという共通の趣味もあって意気投合したふたりだが、最初のボールの役目はアーモンドのパフォーマンスのためのBGMをつくることだった。そうこうしているうちに、ふたりの関心は音楽制作に向かったのである。歌と作詞はアーモンド、曲の担当がボール。そしてふたりがつくりあげたのは、ノーザン・インダストリアル・キャバレー・エレクトロとでも言いたくなるような独特の雰囲気をもった音楽だった。
 
 ソフト・セルは、ポスト・パンク時代のエレクトロニック・バンドの第一波(キャブス、ヒューマン・リーグ、TG、シリコン・ティーンズ、ファド・ガジェット等々)に続いた第二波(ほかにデペッシュ・モードやブランマンジュなど)に相当する。ボールはリアルタイムで、トーマス・リアの「Private Plane」、キャバレー・ヴォルテールの「Extended Play」、スロッビング・グリッスルの「United / Zyklon B Zombie」、ザ・ヒューマン・リーグの「Being Boiled」といった1978年の重要な7インチ・シングルに共感を寄せていた、つまり、その次のステージを狙っていたのである。
 最初期のソフト・セルにおいて——そしてエレクトロニック・ミュージック史においても——もっとも重要な曲、 “Memorabilia”(1981) は、ボールの憧れのひとり、ダニエル・ミラーのサポートを得て制作された。この曲の、反復的な四つ打ちのグルーヴ、フィルターをかけたシンセ、ダブ処理されたヴォーカルといった構成は、明らかに、ディスコのその先へと突き進んだサウンドで、のちに「ハウス・ミュージックの先駆け」と評価されることになる。また、世界初の「Eレコード」などと呼ばれてもいるが、それは誤認だ。ソフト・セルは当時まだエクスタシーの存在など知るよしもなかった。もちろん、それから1年後、この時代としては画期的なリミックス・アルバム盤 『Non Stop Ecstatic Dancing』(1982)に収録された同曲の別ヴァージョンをNYで録音する頃には、ふたりとも経験済みではあった。ちなみに言うと、当時はまだ、それは違法ではなかったのである。
 初期のソフト・セルでもう1曲重要なのは、もちろん──当然、オリジナルと違って──大ヒットした “Tainted Love”になるが、こちらのプロデュースはマイク・ソーン、それ以前はワイアーを手がけた才人である。1975年に〈スパーク・ノーザン・ソウル・レコード〉からもカヴァーEPが出ているほどノーザン・ソウル・クラシックたるこの曲のカヴァーの提案をアーモンドが受け入れた理由は、オリジナルでは彼のヒーローのひとり、マーク・ボランの妻=グロリア・ジョーンズが歌っていたからだった。シングルではこの曲からスプリームスのカヴァー曲 “Where Did Our Love Go” にミックスされる。Roland CR-78のリズム、 SB-100によるシンセベース、それから電子ドラムパッド、 電子クラップ──それらメタリックな響き(それは電子パンクと言える)のなかで歌われるソウル・ミュージック。こうしたある種の倒錯が、ジョン・ウォーターズの醜いものほど美しいと同様にソフト・セルの個性となった。

 モノフォニック・シンセが奏でる絶妙な音色のうつくしいメロディをもったソウル・バラード“Say Hello, Wave Goodbye”はソフト・セルの代名詞と言える人気曲だが、ファースト・アルバム『Non-Stop Erotic Cabaret』のなかでは、週末のクラブに勤しむ若者の孤独を歌った “Bedsitter” のようなダークな曲(MVのなかでアーモンドが読んでいる本はジョン・ブレインの『年上の女』である)も好きだし、彼らのカルト映画趣味がここぞとばかりに噴出した(そしてすぐに放映禁止になった) “Sex Dwarf” のMVにおけるTG的な恐れを知らぬ侵犯的タブーへの挑戦も興味深く思ったものだったけれど、リアルタイムでいちばんよく聴いたのはセカンド・アルバムの『The Art of Falling Apart』(1983)だった。
 ぼくはここで読者諸氏に言いたい。その曲を聴いてから、20年後も30年後も40年後もずっと好きでいられる曲があるということは幸せなことである。若い読者が、今年自分が好きになった曲をこの先もずっと聴き続けると思っているのなら、それでいい。音楽はファストフードになりつつあるかもしれないけれど、老兵としては、そうではない音楽もまだあると思いたいのだ。ぼくは『The Art of Falling Apart』(明らかに機材的にアップグレードされた、しかし全体としてはファーストよりも暗く重い作品)に収録された“Where the Heart Is” がいまでも、曲そのものもその歌詞も、大・大・大好きだ。モリッシーよりも数年早く、家族からつまはじきされた少年のよすがをなくした孤独な心を歌い上げるその曲に天使の羽を与えたのは、間違いなく、デイヴ・ボールのシンセサイザーである。
 しかしながら、このころすでにソフト・セルは友好的に分裂していた。アーモンドは、ニック・ケイヴ、リディア・ランチ、ジム・フォータスらアンダーグラウンドな人たちと交流しつつ、マーク&ザ・マンバス名義でソロ・アルバムをつくっている(それもまた、とてつもなくすばらしいアルバムだ。なにしろ、あのアノーニに決定的な影響を与えたのだから)。ボールもまた、ジェネシス・P・オリッジやヴァージン・プルーンズのギャヴィン・フライデイ、コイルのジョン・バランスらアンダーグラウンドな人たちと交流し、最初のソロ・アルバム『In Strict Tempo』(1983)を制作する。そしてボールは憧れだったキャバレー・ヴォルテールのアルバム『The Crackdown』(1983)に参加もしている( “Just Fascination” と “Crackdown ” の2曲である)。ソフト・セルの最後のアルバムはいまひとつの内容だったが、彼らにはこんなエピソードがある。あるとき、ソフト・セル宛の郵便物がレーベルに届いた。分厚い写真集が入っていて、そこには、「あなたたちの音楽が大好きです。ポール&リンダ・マッカートニーより」とつづられていた。

 とはいえ、ソフト・セル解散後の80年代なかば以降のボールは、物事がうまくいっていたとは言いがたい。好転したのは、ジェネシス・P・オリッジがアシッド・ハウスに心酔し、彼が自分でもアシッド・ハウスをつくろうとJack the Tab名義で『Acid Tablets Volume One』(1988)を企画し、そこに参加してからだった。P・オリッジから紹介された『NME』のライター、リチャード・ノリスといっしょにM.E.S.H.名義で “Meet Every Situation Head on ” をつくると、それに反応し、サポートしたDJのひとりにアンドリュー・ウェザオールもいた。
 ノリスとのコンビが、ザ・グリッドへと発展することはよく知られている。この時期、UKのダンス・ミュージックを聴いていた人なら、ザ・グリッドによるリミックス──ハッピー・マンデーズの「Loose Fit」やペット・ショップ・ボーイズの「DJ Culture」、イレイジャーの「Am I Right?」、ブライアン・イーノの「Ali Click」,デイヴィッド・シルヴィアン「Darshan」等々──を少なくとも5曲以上は聴いているだろう。
 ボールが初めて日本の地を踏んだのも、1995年のザ・グリッドとしての来日公演だった。 “Crystal Clear” や “Swamp Thing” といったソフト・セル以来のポップ・ヒットが続いていたころで、場所はたしかリキッドルームだったと思う。ライヴに駆けつけたオーディエンスのなかにはソフト・セルのファンも少なくなかったけれど、ぼくがそのとき取材したのは複数のメディからインタヴューされたボールでもノリスでもなかった。同じく初来日で、そのときはぼく以外の誰も取材しなかったアーティスト、前座を務めたオウテカのほうだった。

 リアーナが “SOS”(2006) でソフト・セル版“Tainted Love”をサンプル・ネタとして使ったころ、かつてはチープなソウル・エレクトロで一世を風靡したふたりは、再度タッグを組んで精力的な活動をしていた。2002年には1984年以来の4枚目のアルバムをリリースし、2003年にはハイドパークで開催された6万人規模のゲイ・プライドのヘッドライナーを務めたソフト・セルだったが、ボールにはこんなエピソードもある。彼が恋人とNYのゲイ・バーに入ったとき、まったくの偶然だが、カウンターの隣にはフレディ・マーキュリーが座っていた。マーキュリーはボールの顔を見ると、「デイヴィッド、教えてくれ。君とマークは恋人同士なのか?」と訊いた。ボールは自分がストレートでガールフレンドがいると説明すると、マーキュリーは黙ってその場を去ったという。このことが、ボールが髭を剃るきっかけとなった。

 それはさておき、長年にわたるあらゆる依存症がボールを蝕んでいた。1990年代後半には、飲酒と喫煙、ドラッグの乱用で精神的にも身体的にも、そして日常生活に支障がでるほど窮地に追い込まれていたボールは、なんとかしようと一時期はアルコール依存症匿名会と薬物依存症匿名会に通ったほどだった。ドラッグと煙草を断ったデイヴ・ボールは新生ソフト・セルを始動させると、先述の通りアルバムを発表し、大きなライヴもいくつかこなし、2020年には自伝『Electronic Boy』も上梓している。2022年の『Happiness Not Included』が比較的高評価だったので、翌年にはその姉妹作『Happiness Now Completed』もリリースした。2025年10月22日自宅で亡くなったというボールだが、ソフト・セルとしての新作『Danceteria』の制作を終えたばかりだった。そういえば、つい先日ラスト・アルバムを出したセイント・エティエンヌの『International』にはザ・グリッド・リミックスがあったけれど、ボールはまだぜんぜんやる気だったのだろう。

 ほんの数年前、石野卓球とのメールで、あのころ自分が好きだったのはクラフトワークの “Numbers” よりもソフト・セルの同名曲のほうだった、というやりとりをしたことがある。そうしたら、あの曲をエイフェックス・ツインがサンプリングしているの知ってた? と卓球から教えられた。自分としては、あの時代の人たちがここにまたひとりといなくなるのはとても寂しい。先週末は多くのファンが “Say Hello, Wave Goodbye” を聴いたのだろうけれど、あらためてあのころのボールの音楽を聴いていると、良い曲ばかりで、やはりすごいことをやった人だったんだなと思った。

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三田格

 9年前、デイヴ・ボールは(ジャーナリストではなくピアニストの)ジョン・サヴェージと『Photosynthesis(光合成)』と題されたアンビエント・アルバムをリリースしている。どちらがイニシアティヴを取ったのかはわからないけれど、『Photosynthesis』はダーク・ドローンに分類され、ひと言でいえば不気味な作品に仕上がっていた。その当時はまだL.A.から解き放たれたベルリン・スクール・リヴァイヴァルの余波がニュー・エイジのポテンシャルを増幅させていた時期で、簡単にいえばアッパラパーな雰囲気のなかで、どんよりとした『Photosynthesis』には出る幕がないと感じられた。そして、無意識のうちに僕にはデイヴ・ボールに期待する、ある種のムードがあることを自覚した。それはやはりソフト・セルやザ・グリッドといったキャリアの初期に展開されていたポップでカラフルな響きであり、重苦しい曲調のなかにもどこか抜けのある軽妙洒脱なセンスだった。『Photosynthesis』にはあまりにもそれがなかった。しかし、デイヴ・ボールの訃報を聞いて僕が最初に聴いたのは、なぜか『Photosynthesis』だった。暗く、のったりと蠢くシンセサイザーに哀悼の気持ちは少しずつ吸い込まれていった。

『Photosynthesis』から5年後にソフト・セルは再-再結成を果たす。そして、3枚のアルバムを完成させている。彼らにとってファイナルとなった7thアルバム(発売は来年)を完パケた直後にデイヴ・ボールは亡くなり、ヴォーカルのマーク・アーモンドは「2026年はデイヴ・ボールにとって高揚感に満ちた年となるはずだった」と饒舌な追悼文で嘆いている。「僕たちの50年を一緒に祝えたらよかったのに」と。その追悼文によると、ソフト・セルはロンドンというよりもN.Y.のディスコ・カルチャーに属すると彼ら自身は考えていたようで、ラスト・アルバムに『Danceteria』と名付けたことは、ガビ・デルガドーが最後に残した曲のタイトルが“Tanzen(ダンス)”だったことと共鳴している。そう、1981年は彼らがイギリスでダンス・カルチャーを爆発させた年だった。ニュー・ロマンティクスやブリティッシュ・ファンクも呑み込んで「メソッド・オブ・ダンス」を合言葉に。

 ソフト・セルがN.Y.のディスコ・カルチャーに属すると考えるのはとても納得のいくことである。実際にN.Y.のディスコでMDMAを経験したことが彼らの音楽性に影響を及ぼしたこともそうなら、マーク・アーモンドの変態的な歌詞はルー・リードの強い影響下にあり、性的マイノリティが集まるN.Y.のディスコ文化とは親和性が高かった。ルー・リードと世代的な差を感じるのはユーモアの質で、「自動車の後部座席でセックスをしているとシートに張り付いていたガムが背中でくちゃくちゃと音を立てている(大意)」といった発想はやはりルー・リードのそれとは距離を感じさせる。大学生の頃、単純な手作業のアルバイトをしている時に退屈なのでニューウェイヴの曲を集めたテープを作業場で鳴らしていたら一緒に作業をしていたカナダ人のモナちゃんが、ジョイ・ディヴィジョンがかかると「辛すぎる……」といって作業の手を止めてしまい、ソフト・セルがかかると笑いが止まらなくなって、やっぱり仕事にならなかったことがある。なるほど、ソフト・セルというのはそういう風に聞こえるのかと思ったものである。

 シンセポップというのはどれも極めてチープで、ソフト・セルも例外ではなかった。先行したパンク・ロックの影響もあるのだろうけれど、「極めてチープなサウンド」で表現される世界観は普通の生活様式からは逸脱した人間性や、人間の隠された一面を戯画化して取り出す傾向があった。ヒューマン・リーグやザ・ポリスがストーカーを題材にして人間のファナティックな行動を通して時代を照射するのとは異なり、ソフト・セルは背景としての社会に目を向けることはなく、彼ら自身がどのように生きているかを切々と歌い、その核心は多様なラヴ・ソングに結実していった。人間の性を支配や消費という観点からドライに歌ったことで大きな論争を呼んだ“Sex Dwarf”は極端な例だけれど、彼らの曲の多くは強く変態性を帯び、ノーマルな人々にとっては気持ち悪いものにしか映らなかったことだろう。愛を歌い、その姿がどれだけ無様でも取り繕う様子もないどころか堂々としていたところは、日本だと戸川純が立っていた場所を想起させる。エロ・グロ・ナンセンス全開で好きなことをユーモアたっぷりに歌っていた戸川純がそれでも新曲を出せばTVに呼ばれていたという「社会的な評価」は、おそらくイギリスでソフト・セルが置かれていた位置に通じるものがある。がんばろうとか人にやさしくといった表面的な言葉ではなく、人が人を強く求める思いが彼らの表現の中心にはあり、時に人間の弱さを受け入れてくれることがない社会派の音楽よりも彼らの方が愛されていたとしたら、それはやはり制度よりも彼らの心が人の方に向けられていたからだろう。

「正しいことをするのに、僕の力はもういらないんだね」(“Tainted Love”)
「僕たちは初めて会った見知らぬ他人さ、そうだろ?」(“Say Hello, Wave Goodbye”)
「バカすぎて君にはヒドいこともできない」(“Torch”)

 ソフト・セルにとって最大のカヴァー・ヒットとなり、ロング・ランを続けたあげく、『サイトシアーズ 殺人者のための英国観光ガイド』という映画のテーマにもなった“Tainted Love”は、タイトにリズムを刻むグロリア・ジョーンズの原曲よりもルーズな曲進行で、語尾を伸ばすように歌うことで歌詞の内容を強調し、シャカタクのヴォーカル、ジル・サワードがラス・スワン名義でカヴァーしたヴァージョンを参考にして彼らのヴァージョンを練り上げたという。ギネス・ブックに載るほどのメガ・ヒット曲となった“Tainted Love”はそして、12インチ・ヴァージョンでは途中からシュープリームス“Where Did Our Love Go”に変わり、再び“Tainted Love”に回帰してくるという不思議な構成となっていて、カップリングには完全に遊びでつくられた“Tainted Dub”を収録するなど12インチ・シングルという新たなメディアのポテンシャルをこの時点でここまで引き出したグループはほかにいなかった。ソフト・セルの12インチ・ヴァージョンはその後も原曲の2~3倍の長さになるのは当たり前で、10分を超える“Numbers”や12分近い“Soul Inside”など、デイヴ・ボールがいかにミックスで遊ぶのが好きだったかということを印象づける(このことだけでもデイヴ・ボールがDJカルチャーに移行することは初めから決まっていた気がしてしまう)。

 デイヴ・ボールのサウンド・プロダクションが唯一無二のものになるのはセカンド・アルバム『The Art of Falling Apart』からで、場末のキャバレーを音で表したようなファーストから一転、それはヴェルサイユ宮殿かトプカプのような荘厳さを感じさせた。シンセポップにこんなことができるのかと当時の僕はかなりショックを受け、シンセポップ=「チープ」という形容詞はもう使えないと思った。基本的には“Sex Dwarf”のゴージャスなアレンジを全体に敷衍させ、オーヴァー・プロデュースを恐れなかった結果が『The Art of Falling Apart』になったのだと思う。どの曲も本当に素晴らしく、すべてにああだこうだと言いたいところだけど、当時は台所がテーマなんて珍しいと思い、“Kitchen Sink Drama”の歌詞を訳してみると母親が現実逃避ばかりしているという内容で、マーク・アーモンドが離婚した自分の母親をディスりまくっているのかと思っていたのだけれど、今回、調べ直してみたら“Kitchen Sink Drama”とは社会的リアリズムに基づくイギリスの文化運動を指す名称で、「怒れる若者」の源流だということを初めて知った。マーク・アーモンドにしてみれば自分の書く歌詞はアラン・シリトーに連なるものであり、マイク・リーやケン・ローチといった映画監督の表現と地続きなんだという表明だったのかもしれない。デイヴ・ボールのサウンドはピアノを導入に使い、歌詞に合わせて幻想的なフレーズを多用し、流れるように白昼夢を描いていく。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの“Sunday Morning”が念頭にあったのだろう。

『The Art of Falling Apart』と同じ年にデイヴ・ボールは初のソロ・アルバム『In Strict Tempo』も完成させている。ソフト・セルはシンセポップの代表格ではあるけれど、デペッシュ・モードやユーリズミックスと同じ文化圏にいたわけではなく、それは彼らのマネージメントが〈Some Bizzare〉だということと深く関係している。〈Some Bizzare〉とサインしたことがあるミュージシャンにはサイキックTV、ノイバウテン、スワンズ、コイル、ザ・ザ、ジム・フィータス……とオルタナティヴのフロントラインが揃い踏みで、それこそ「普通の生活様式からは逸脱」した音楽家しかいなかった。『In Strict Tempo』はニュー・オーダーが“Blue Monday”で新たなモードに歩を進めたようにデイヴ・ボールがダンス・カルチャーに模索の手を延ばした痕跡が残る一方、ヴォーカルにヴァージン・プルーンズからギャビン・フライデイを迎え入れるなど〈Some Bizzare〉という環境から得られるアンダーグラウンドな価値観がひしめき合ってもいる。実は、最初に取り上げたジョン・サヴェージとのジョイント・アルバム『Photosynthesis』は、こうした〈Some Bizzare〉の文脈でデイヴ・ボールを捉えればもっと鷹揚に楽しめたのかもしれない。デイヴ・ボールにとってそうした環境がどれぐらい吉と出たのかはわからないけれど、それこそ後には『Live in Heaven』にも参加するなどサイキックTVのメンバーにもなったことで、ジェネシス・P・オーリッジやジャーナリストのリチャード・ノリスとともにアシッド・ハウスにのめり込んでいく機会を得たことは間違いない。サイキックTVの変名アルバムとして認識されているアシッド・ハウスのコンピレーション『Jack the Tab/Tekno Acid Beat』はジェネシス・P・オーリッジに加えてデイヴ・ボールとリチャード・ノリスが全曲で関わっていて、すでにザ・グリッドの前段階と言えるものになっていた。同じ年にデイヴ・ボールはキャバレー・ヴォルテールの2人とラヴ・ストリートを結成し(両者は『The Crackdown』ですでに結びついていた)、バリアリック・ビートの“Galaxy”でもファンキー・ビートを聞かせている。『Jack the Tab/Tekno Acid Beat』と“Galaxy”を続けて聴くと、ある種の迷いのなさは伝わってくる。この時期のブリティッシュ・アシッド・ハウスはオリジナリティを否定し、他人と同じものをつくるのがいいとされていたので、デイヴ・ボールのそれもとくに彼の個性が反映されたものではない。ジャケット・デザインがデザイナーズ・リパブリックだというのがデイヴ・ボールの美意識からかけ離れ、いまとなっては同時代性だけを強く主張している。

 84年に第1期ソフト・セルのラスト・アルバム『This Last Night in Sodom』をリリースした後、デイヴ・ボールの足跡はあまりに細切れになる。最初は当時の妻、ジニ・ボールとアザー・ピープル名義でサンプリングを散りばめたディスコ・ナンバー、“Have a Nice Day!”をリリースし、続いて3人組のイングリッシュ・ボーイ・オン・ザ・ラヴランチ名義では“Blue Monday”のバッタもんにしか聞こえない“The Man in Your Life”やハイエナジー調の“Sex Vigilante”を連打と、ソフト・セルからマーク・アーモンドによるメロディ・センスを取り除いたディスコ・ビートへの執着をとにかく強く感じさせる。ストローベリー・スウィッチブレイドのローズ・マクドウェルやシュガーキューブスのアイナール・オルン・ベネディクソンらと組んだオーナメンタルでも多幸感あふれる“No Pain”にどこまでもさわやかな“Crystal Nights”とシンセポップの延命をこれでもかと追求するも、これらがどれも長続きしなかったことがアシッド・ハウスへと舵を切るきっかけになったのだろう。デイヴ・ボールの作業でいえばソフト・セルの12インチでやっていたことをメインとすればいいだけのことだからロック・カルチャーからダンス・カルチャーに乗り換えられないと苦悩するほどのこともなく様変わりはできたはずである。サイキックTVやラヴ・ストリートとの習作を経て正式にリチャード・ノリスとスタートさせたザ・グリッド(マネージメントはアラン・マッギー)はデビュー・アルバム『Electric Head』ではまだイングリッシュ・ボーイ・オン・ザ・ラヴランチやオーナメンタルに近い音楽性を多分に残していて、これが最初にシングル・カットした“Floatation”のリミックスにアンディ・ウェザオールを起用したことで完全にダンス・カルチャーの領域へと歩を進められただけでなく、プレスの注目を最初から集めることにも成功する。ザ・グリッドによるソフト・セルのリミックス集『Memorabilia - The Singles』と並行して続くセカンド・アルバム『456』から“Crystal Clear”をヒットさせたのはもはや時間の問題だった。1993年にグラストンベリー・フェスに行った際、昼間のプログラムが終わるや否や、暗くなった途端に会場内で小規模なレイヴ・パーティがあちこちで始まり、ほどなくして“Crystal Clear”が僕たちの頭上にも鳴り渡った。クラウドはあっという間に恍惚としたムードに包まれ、多幸感の波を全身に浴びていた。ザ・グリッドは、さらにサード・アルバム『Evolver』からバンジョーをフィーチャーした“Swamp Thing”をヒットさせ、その頃には「国民的人気」と書き立てられるまでになっている(その勢いでカイリー・ミノーグ“Breathe”までプロデュースする)。

 リチャード・ノリスの指向だったのではないかと思うのだけれど、ザ・グリッドは『456』から“Heartbeat”をシングル・カットする際、ブライアン・イーノにアンビエント・リミックスをオファーしている。ダンス・アクトとしてのザ・グリッドは4作目の『Music for Dancing』で一旦休止し、10年以上空けて復活するも、ラスト・アルバムとなった『Leviathan』ではロバート・フリップをゲストに迎えてアンビエント・アルバムも製作している。荒涼として寒々しいアンビエント・アルバムである。これがデイヴ・ボールの過去の作品とどう繋がっているのか、僕にはさっぱりわからなかった。アンビエント・ミュージックには個人の資質を出しづらいということもあるのかもしれないけれど、『Leviathan』や唯一のソロ作となった『In Strict Tempo』を聴いていると、もしかするとデイヴ・ボールには生涯を通じて本当にやりたかったことはなかったのかもしれないとも思えてくる。それこそ本当に意志の強い人と共に作業をすることで作品の完成度や相乗効果を高めることが彼にとっては才能を活かす道であり、デイヴ・ボールでなければソフト・セルやザ・グリッドは仮りに生まれていたとしてもまったくの別物になっていただろう。ソフト・セルやザ・グリッドが現在、残されているかたちになったこと、そして、“Torch”を聴いてトランペットという楽器が好きになった僕は、それだけでも彼が存在したことに感謝したい。……Say Hello, Wave Goodbye。

Miru Shinoda - ele-king

 バンド・yahyelでの活動、〈Protest Rave〉運営メンバーといった一面でも知られる音楽家・篠田ミルが、ソロ・デビュー作となるEP「Pressure Field」を昨年リリース作『epoch』のプロデュースなどで関係を深めた松永拓馬と共同運営するレーベル〈ECP〉より10月22日にリリース。

 映画音楽やサウンド・アートの領域までを広く行き来する傍ら政治的アクションにも積極的にかかわる彼によるEP「Pressure Field」は、変容する社会への疑問を投げかけるかのようなメッセージと、実験性とポップセンスが同居する巧みなサウンド・デザインによって構成された6曲入の作品。音楽家として社会を見つめ、音で問題提起を続けてきたかれなりの、現況へのアンサーか。以下詳細。

Artist:Miru Shinoda
Title:Pressure Field(EP)
Label:ecp
Format:Digital
Release: 2025.11.5
Streaming:https://linkco.re/nBDz4muE

Tracklist:

1. Big Site
2. Hottest Summer
3. Good Morning Mr.Kishida
4. Power Plant - Fukushima 250117
5. Sine Waves in The Rain
6. Path

All songs written/produced/mixed by Miru Shinoda
Mastering: Wax Alchemy
Artwork: Atsushi Yamanaka
Label: ecp
Artist Photo: Kenta Yamamoto
PR: Masayuki Okamoto
Production: スタジオ さ組

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これまで松永拓馬、ACE COOL、Rinsaga、May J.ら多彩なアーティストとの楽曲制作や、yahyelメンバーとしての国内外での活動、また舞台・映画音楽、ファッションムービーのサウンドデザイン、サウンドアートの領域まで、様々な創作の場を越境してきた音楽家・篠田ミルが、ソロデビューとなるEP《Pressure Field》を発表する。

更新され続ける猛暑、身体に染みついた新自由主義、福島の発電所が放つノイズ、雨の中でゆらぐ正弦波。
『Pressure Field』は、圧力変化の個人的な備忘録であり、その音響的な軌跡である。

篠田ミルはこれまで、コロナ禍のライブハウス・クラブカルチャーを守るムーブメント『#SaveOurSpace』や、クラブカルチャーに根ざしたサウンドデモ『プロテストレイヴ』を企画するなど、政治的アクションにも深く関わってきた。

また、2024年には相模原市藤野の自然環境を舞台とした野外イベント『by this river』を開催し、自然環境の中で音楽と観客が一体化するような実験的空間を創り上げた。2025年には、被災地支援を行うbeatfic experimentとのコラボレーションのもと、福島県で開催された『rural 2025』にて、「被災の記憶に耳を澄ますこと」を主題に、ポータブルラジオを使ったサウンドパフォーマンス“Tuning for Pray”を初演。さらに、音楽家・原摩利彦の声がけのもと、パレスチナ・ガザでレコーディングした音を元にした楽曲の購買で支援に繋げる『THEY ARE HERE』プロジェクトへ共同発起人として参加している。

こうした実践に共通するのは、「音と場」の関係性を通じて、社会に対する聴覚的な応答を試みる姿勢である。

今回のソロデビューEPは、これら長年のコラボレーションと分野横断的な経験を凝縮し、個人的なステートメントとして結実させるもの。ポップな感覚とアヴァンギャルドな質感、そして社会や環境への鋭敏な感受性が交差する作品となっている。

また、本作品は2024年に篠田ミルと松永拓馬が設立したレーベル/プラットフォーム「ecp」よりリリースされる。

●篠田ミル / Miru Shinoda

1992年生まれ。音楽家。
2015年にyahyelのメンバーとしてデビュー。以降、松永拓馬やACE COOL、Rinsagaなど多くのアーティストと楽曲提供やプロデュースを行う。また、ファッションブランドのルックムービーや映画音楽、舞台音楽の作曲、サウンドインスタレーションやパフォーマンスの制作にも携わる。
2024年には松永拓馬と共にレーベル・プラットフォーム《ecp》を設立、神奈川県藤野にてイベント《by this river》の開催に携わる。
また、これまでに《プロテストレイヴ》や《D2021》などの表現活動を通じたアクティビズムにも、企画や運営を通じて積極的に参加している。

近年の主な参加作品:
・サウンドパフォーマンス “Tuning for Pray”(2025)
・ACE COOL『明暗』(2024)
・松永拓馬『Epoch』(2024)
・橋本ロマンス『饗宴』(2024)
・Rinsaga『Saga』(2022)
・May J.『Silver Lining』(2021)

Herbert & Momoko - ele-king

 イギリスの電子音楽家、マシュー・ハーバートがドラムと歌を主とした表現を手がけるモモコ・ギルとのユニット「Herbert & Momoko」にて約6年ぶりの来日公演を実施。静岡の〈FESTIVAL de FRUE 2025〉でのDJセットを皮切りに、東京・福岡・札幌・京都・金沢の全6都市をめぐるジャパン・ツアーとなる。

 Herbert & Momokoは、ミニマル~エクスペリメンタルな側面で知られるマシュー・ハーバートの数々のプロジェクトのなかでもハウス・ミュージックとヴォーカルを軸とした、実験性とポップ・センスが同居したユニット。本年6月には〈Strut Records〉からコラボ・アルバム『Clay』を発表。ふたりがつむぐ、晩秋のメランコリックな気分にぴったりの世界観に浸ってみましょう。

Herbert & Momoko Japan Tour 2025

11/01 SAT SHIZUOKA at FESTIVAL de FRUE 2025 *DJ set feat. Momoko live vocals
Les Claypool's Bastard Jazz / AKIRAM EN / anaiis & Grupo Cosmo / Capablanca / CHO CO PA CO CHO CO QUIN QUIN / DJ Sotofett / DOGO / Enji / E.O.U / ffan / GEZAN / Joana Queiroz & Manami Kakudo / MASCARAS / Nakibembe Embaire Group ft.Naoyuki Uchida / Ohzora Kimishima / Powder / Rubel / Solar / Yamarchy / 7e / 鏡民
https://festivaldefrue.com

11/04 TUE TOKYO 18:00 at WWW X *Duo Live Extended Show
DJ: 5ive [Thinner Groove]
https://www-shibuya.jp/schedule/019224.php

11/07 FRI FUKUOKA 22:00 at Keith Flack *Duo Live
DJ: p.co [SEXTANS] / Tatsuoki [Broad] / vvekapipo [hertz]
https://t.livepocket.jp/e/herbert_momoko

11/08 SAT SAPPORO 20:00 at Precious Hall *Duo Live
DJ: midori yamada (the hatch)
https://t.livepocket.jp/e/20251108herbert-momoko

11/13 THU KYOTO 19:00 at Metro *Duo Live
Front Act: Kazumichi Komatsu
https://www.metro.ne.jp/schedule/251113

11/14 FRI KANAZAWA 18:00 at PALAIS *Duo Live
DJ: FUTOSHI SUGIKI / Susumu Kakuda
https://pa-lais.com/schedule/2025-11-14

tour promoted by WWW & melting bot
tour poster: Andry Adolphe


Matthew Herbert

Matthew Herbertは受賞歴のある作曲家、アーティスト、プロデューサー、作家であり、その革新的な作品の幅は30枚以上のアルバム(高く評価された『Bodily Functions』を含む)から、アカデミー賞受賞映画『ファンタスティック・ウーマン』の音楽、ナショナル・シアター、ブロードウェイ、テレビシリーズ(『Noughts and Crosses』、『The Responder for BBC』)、ゲーム(『Lego』)、ラジオのための音楽にまで及ぶ。ソロ演奏、DJ活動、自身の21人編成ビッグバンドや100人合唱団を含む様々なミュージシャンとの共演で、シドニー・オペラハウスからハリウッド・ボウルまで世界中でパフォーマンスを行い、インスタレーション、演劇、オペラも創作している。

Quincy Jones、Ennio Morricone、Serge Gainsbourg、Mahler といった象徴的なアーティストのリミックスを手掛け、Bjork の長期にわたる共同制作者でもある。ロイヤル・オペラ・ハウス、BBC、ドイツ・グラモフォンなどから作品を委嘱されているが、最も知られているのは、日常音やいわゆる「ファウンド・サウンド」を電子音楽へと昇華させる音響表現である。代表作『ONE PIG』は豚の誕生から食卓へ、そしてその先までを追った作品だ。2018年には初著書『The Music』を Unbound 社より出版。現在はラジオフォニック研究所のクリエイティブ・ディレクターを務める。

2021年、Matthewと聴覚をテーマにした Enrique Sanchez Lansch による特別ドキュメンタリー『A Symphony Of Noise』が公開された。10年以上にわたり撮影された本作は、電子音楽家、アーティスト、サウンド活動家としての Matthew の約20のプロジェクトを追う。彼はまた最近、音を用いた作曲の倫理に関する博士号を取得し、次の実験的プロジェクトでは10億を超える音を聴取することを基盤としている。

https://www.instagram.com/matthewherbertmusic


Momoko Gill

Momoko Gillは、ロンドンを拠点に活動する新進気鋭のアーティスト。プロデューサー、作曲家、作詞家、そしてマルチ・インストゥルメンタリストとして、ドラムと歌を中心に多彩な表現を展開し、注目を集めている。オックスフォードに生まれ、京都・横浜・サンタバーバラ・ロンドンで育ったバックグラウンドを持ち、その幅広い感性を音楽に注ぎ込む。Matthew Herbert、Alabaster DePlume、Tirzah、Coby Seyなど、英国の個性豊かなアーティストたちと共演し、ジャズ、アヴァンギャルド、エレクトロニックの狭間で独自の存在感を示してきた。ロンドンのクリエイティブ・コミュニティTotal Refreshment Centreを拠点としている。

2025年には Matthew Herbert と Clay を共同プロデュース。そもそもの始まりは、Herbert のアルバム『The Horse』収録曲を Momoko がリミックスし、その音を Herbert が高く評価したことだった。また、詩人/ラッパー Nadeem Din-Gabisi とのデュオ An Alien Called Harmony ではプロデューサーを務める。さらに2026年初頭には、自己プロデュースによるデビュー・ソロアルバムを Strut Records からリリース予定。
親密さと深みを併せ持つ歌声で、ジャンルと物語性、そして音響実験の境界を押し広げながら、独自の音楽世界を切り拓いている。

https://www.instagram.com/momokogill

R.I.P. D’Angelo - ele-king

緊那羅:Desi La(訳:編集部)

 人は大衆音楽における「才能」について、歌声や見た目の特別さを指して語りがちだ。どんなふうに歌い、叫び、あるいは甘く歌い上げるのか、とか。だが、音を「どのように聴いているのか」、そしてさまざまなジャンルの音楽をレゴブロックのように組み合わせ、過去の黄金の瞬間を細かく分解し、それを吸収し、「なんてこった!」と神々しいまでに独自なひらめきにうなずきながら、人びとを椅子から立ち上がらせ、心を動かすようなかたちに再構築する、その才能についてはあまり語られないかもしれない。D’Angeloは、2025年10月14日、わずか51歳という若さでこの世を去った。彼をめぐっては、メディア、共演者、ファン、そして彼のイメージや遺産で商売をしようとするSNS上の人びとから、さまざまな思い出が語られるだろうけれど、彼に正しく敬意を捧げるためには、彼を「ミュージシャン」と呼ぶだけでは足りないと私は思っている。彼はむしろ「技師(エンジニア)」であり、「建築家」だった。プリンスやマイルス・デイヴィス、パーラメントのように音楽を構築した偉大な建築家たちの系譜に属する存在だ。

 インスタグラムを何気なくスクロールしていたとき、私は残念ながら、あの“Untitled (How Does It Feel)”のヴィデオでの一瞬の性的イメージばかりを強調するインフルエンサーたちの投稿を目にしてしまった。彼を性的対象としてしか見ないそうした悪魔的な心性こそが、いくつかある理由のうちのひとつ——彼がキャリアの大部分を通して長く姿を消していた理由のひとつ——ではないのか。あの映像で焼きついた彼の官能的なイメージは、当時の大衆の記憶から決して消えることはないだろう。が、それは彼の真の才能を示すものではなかった。彼を讃えるということは、彼が望んだかたちで見られること、そして彼の激しい努力の結実を讃えることでもある。

 D’Angelo——本名マイケル・ユージーン・アーチャー——はヴァージニア州の生まれで、ファレルと同郷である(ヴァージニアの水にはたしかに何かがあるのだろう)。彼は教会の少年として育ち、ゴスペルを愛し、そしてソウル、ロック、ファンクの黄金時代の巨人たち——アル・グリーン、ジミ・ヘンドリックス、フェラ・クティ、プリンスなど——に憧れた。彼のヒーローもまた、みんな同じく「建築家」だった。音に対する鋭敏な耳を持ち、アレンジ、バンドの選択、そして全体的なプレゼンテーションにおいて非凡なセンスを備えた音楽家たちだ。彼は成長するにつれて、それらの創造者たちの手がけた構造を解きほぐし、彼らがどう音楽を創出しているのかを考究した。とりわけ、プリンスだ。彼がひとりでスタジオとサウンド全体を完全に支配していたその姿に魅了され、「あれが自分だ」と感じたはずだ。

 音楽業界が何かとレッテルを貼りたがるなかで、D’Angeloが『Brown Sugar』でシーンに登場し、最初のすばらしい成功を収めてから、彼には「ネオ・ソウル」という称号が与えられた。1995年のデビュー当時から、そして続いて登場したエリカ・バドゥの『Baduizm』(1997年)などと並び、その呼称は一定の妥当性を持っていたと言える。というのも、ヒップホップはもともとソウル/ファンクに影響を受けており、ネオ・ソウルの進化は、文化的にも経済的にも支配的となったヒップホップからの影響の「フィードバック・ループ」を示していたからだ。セクシーでチルなヴァイブス、しかもストリートの匂いもある。
 じっさいD’Angelo はネオ・ソウルの特徴をすべて体現していた——ヒップホップの影響を受けたタイトなビート、滑らかなヴォーカル、無駄のないプロダクション、社会的意識をもった歌詞、グルーヴに乗った重心の低いフロー、そして技巧に走らないセクシーな歌声……。
 多くのミュージシャンとは異なり、D’Angeloが遺した公式アルバムはわずか3枚のみだ。しかしそのどれもが前作を凌ぐ傑作であり、『Black Messiah』(2014)はまさにその頂点に立つ作品だった。彼が病に倒れる前に取り組んでいた未発表の音楽も、いずれ何らかの形で日の目を見ることになるだろうが、現時点では、『Black Messiah』こそが彼の到達点であり頂点である。もちろんそれは、『Voodoo』(2000)や『Brown Sugar』を軽んじてよいという意味ではない。むしろいまとなっては、これら2作を、音楽だけにすべてを賭けたひとりの男が歩んできた、その進化の道筋としても味わえる。

 もし私が「ブラックネス(黒人性)」という概念を音楽的革命として講義する授業を開くとしたら、『Black Messiah』収録の“The Door”という曲をかけるだろう。70年代的なハーモニーとファンクのリフが全編を覆い、厚みのあるファンク・ベースが鳴り響き、1940年代のブルーズ的スライド・ギターのクレッシェンドでは、スライドが弦に擦れる音までミックスに残されている。90年代的なデジタル録音のようなアンプ・ディストーションはなく、リラックスしたホンキートンク調のビートに乗せたファルセットの歌声。ファンク特有の切れ味あるストップ&スタートのイントネーションがありながら、歌唱技巧を排している。そしてたしかなダウンビートが、教室で机を叩いてビートを刻み、まわりの仲間が手拍子を合わせていた高校時代のあの瞬間を黒人たちに思い起こさせる。そうしたすべてが、この1曲のなかに凝縮されている。
 D’Angelo はまた、「ブラック/アフリカ的な音楽学習法」の価値を体現していた。ブルーズ、ゴスペル、ジャズ、あるいはアフリカの伝統音楽——いずれにおいても、黒人音楽とは共同体的な営みであり、集中して意図的に聴くことによって成り立っている。複数のパートが重層的に動きながらも、汗をかくことなく完璧に同期している。ビートとビートのあいだにはたっぷりとした呼吸がある。「重要なのは何を演奏するかではなく、何を演奏しないかだ」とマイルス・デイヴィスが言ったように。
 デビュー作で成功を収めたにもかかわらず、D’Angelo は資本主義的商業システム——すなわち大手レーベルという獣——の餌食になることを拒んだ。アーティストの首筋に息を吹きかけ、スタジオに押しかけては「早くリリースを」「長いツアーを」「最大の利益を」と迫る連中に対して、彼は「くそくらえ」と言い放ち、ルーツのクエストラヴとともに5年間もの冬眠に入ったのだ。……5年だ! 大学の学位を取るより長い。その「大学」が『Voodoo』であり、さらにそれを3倍にしたものが『Black Messiah』だった。
 反資本主義的な精神を貫きながら、D’Angelo は「ブラック・ヒストリーの音」を追い求め、それに人生を捧げた。彼は、過去の偉大な音楽家たちの独自性の蒐集家であり、各アルバムの制作にあたっては、その音楽を研究し、向き合い、ジャムし、さらにまた向き合い、あらたな協働者を招き入れてはまた向き合い、ヴォーカルだけで2年を費やしてもなお、音楽とともに座り続けた。その結果、『Voodoo』と『Black Messiah』は聴く者の前で雲を切り裂き、天を開く。細部にまでこだわり抜いたサウンド・デザインが機能する要素を徹底的に磨き上げ、極限まで高めている。
 建築家とは機械や建物の「内部構造」を見る者である。それを組み合わせることで以前よりも高い創意を生み出す。構造の逆解析を行い、どの瞬間においても楽曲を「最高なもの」として立ち上がらせる。そのような能力を持つ者。D’Angeloには「駄作」と呼べるアルバムがひとつもない。それは、彼が——良い意味で——あまりにも「良いアルバムを作ること」に執心していたからだ。そして、彼は待ち、さらに待ち続け、それが熟するのを見届けた。

 D’Angelo の壮大さ、彼のパフォーマンス、優しさ、録音作品は、視界の果てまで広がるほどの賛辞の波を呼び起こした。しかし残念なことに、彼を苦しめたある種の悪魔が誘発した逮捕、依存、鬱などが彼の早すぎる死に影響した可能性がある。皮肉なことに、彼を押し上げたその「社会的イメージ」こそが彼の首にかかった重すぎる錨となり、彼はそこから抜け出そうともがいた。注目すべきは、『Black Messiah』がD’Angeloのアルバムのなかで唯一、彼自身の姿がジャケットの表にもその裏面にも登場していない作品であるという点だ。焦点は完全に「作品そのもの」に置かれている。
 彼の焦点は、つねに芸術そのものに向けられていたのだ。そして2025年のいま、私たちはようやくその全体像を享受できるのである。その美しさ——彼の微笑み、その語り口、彼が遺した物語とそこに刻まれた教訓、そして何よりも音楽への絶対的な献身——そのすべてを、ありのままに味わえるのだ。


People often talk of talent as if it`s only a person’s singular singing voice or their particular look. How they sing, shout or croon. But not enough of how they hear and put the Lego blocks of multiple genres of music together, pick apart the golden moments of excellence of the past, take them in and head nod to the “goddamn!” pure heavenly idiosyncrasies and reassemble them in a way that move people from their seats and into their hearts. D`Angelo has left us at the early age of 51 years old this past October 14th 2025. There will be many memories of him from media, collaborators, fans and social media types looking to capitalize on his image and legacy. But to properly give tribute to him, I feel it`s appropriate to knight him not a mere musician but an engineer. An architect. In the vein of other architects like Prince or Miles Davis or Parliament. Doomscrolling on Instagram, I unfortunately ran across posts by influencers only emphasizing his sexuality from that one moment in time with the video "Untitled (How Does It Feel)", but that objectifying demon mind is actually the reason among several others for his long absence for the majority of his career. That image will never disappear from the public conscious of that time but that wasn`t his talent. To honor him is to honor how he wanted to be seen and the result of his intense efforts.

D`Angelo, born Michael Eugene Archer in Virginia, just like Pharrell (I think there is something in the water in VA for sure), was a church boy who grew up with love for the Gospel and love for the titans of the soul, rock, and funk era, i.e. Al Green, Jimi Hendrix, Fela Kuti, and Prince just to name a few. All his heroes were also fellow architects. Musicians with keen ears for sound, arrangement, band selection, and overall presentation. And as he grew up dissecting those creators and how they moved - he particularly was mesmerized by Prince`s one man command over the studio and his sound - D`Angelo said that`s me.

With the music industries need to label, D`Angelo`s entry into the scene and initial success with “Brown Sugar” was given the mantle of Neo-Soul. And to some extent with his debut in the 1995 and other titanic releases in the same period like Erykah Badu`s Baduizm in 1997, this is warranted as hip hop was initially influenced by soul/funk and Neo-Soul`s evolution signaled a feedback loop of influence by the dominance of hip hop culturally and financially. Sexy chill vibes but street.

D`Angelo exhibited the hallmarks of what was to be Neo- Soul; clear, hard hip-hop influenced beats, smooth vocals, uncluttered productions, socially relevant lyrics, in the pocket groove heavy flows, and sexy vocals that avoided theatrical gymnastics.

Until many musicians, D`Angelo leaves behind only 3 official albums. But each one is a classic greater than the one before with “Black Messiah” being the crowning achievement. I`m sure that music he was working on before his previously unannounced cancer disabled him will see the light of day in some way, but for now “Black Messiah” is the apex of his known work. That doesn`t mean sleep on “Voodoo” or “Brown Sugar.” Instead, just enjoy the evolution from a man solely focused on it.

If I could teach a class on blackness as a concept of musical revolution, I might play a song like “The Door” from “Black Messiah.” An unassuming song drenched in 70`s harmonic funk recitations, thick funk bass, 1940`s blues slide crescendos with the noise of the slide gracing the strings left in the mix, no amp distortion a la 1990`s digital recording, falsetto singing to a relaxed honky tonk sing song beat, the crispness of funk stop start intonation leaving out vocal gymnastics, and a solid down beat that gives black people memories of that guy in the class room who banged on the desk in high school to make a fire beat while his friends clapped in unison around. All of this in one song.

D`Angelo also represents the value of the Black / African method of studying music. Black music, whether blues or gospel or jazz or traditional African, is a communal situation filled with intensive intentional listening, focused and deliberate, layered instrumentation with multiple parts moving but in sync without breaking a sweat. Lots of breathing between the beats. “It`s not what you play but what you don`t” as Miles Davis used to say. D`Angelo despite his debut album success, refused to be the meat for the capitalist commercial beasts that major labels often are, breathing down the necks of artists, visiting them in the studio in effort to push them for a quick release, a long tour, and maximum profits. D`Angelo said fuck them and went into a five year hibernation with Questlove of The Roots ..... 5 YEARS!!!! just to produce “Voodoo.” 5 years is longer than

getting your degree in university. In this case though, the university was “Voodoo” and then times that by 3 with “Black Messiah.” Anti-capitalist in his endeavours, D`Angelo rested on his devotion to the “sound” of Black history in his eyes. A collector of the idiosyncrasies among his favorite musicians of the past, in making each album, he studied and sat with the music, jammed and sat with the music, invited new collaborators and then sat with the music, spent almost 2 years just doing vocals and still sat with the music. And it shows cause in particular “Voodoo” and “Black Messiah” separate the clouds from the heavens for listeners, letting loose a sound design meticulous with it`s attention to the things that work and amping them up.

An architect sees the inside of the machine or the building, the innerworks that when put together create greater ingenuity that before, reversed analysis of construction that allows each song to be see at a moment`s notice as great. D`Angelo doesn`t have any bad albums because he was too intent (in a good way) to make a good album. And he waited and waited til it gestated.

Though the grandeur of D`Angelo, his performances, his kindness, his recordings created waves of accolades that rolled exponentially as far as the eye could see, unfortunately certain demons haunted him leading to arrests, addiction, depression and so forth, all of which may have contributed to his untimely departure. His social image, the very thing that propelled him forward became an albatross, too heavy to bear but he did his best to break free. Take deep note that “Black Messiah” is the only D`Angelo album where he doesn`t appear on the cover or back sleeve. The focus was fully on his art. The beauty now of 2025 is we can enjoy the beauty of his smile, his diction, his stories, lessons learned and absolute devotion to music.

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高橋芳朗

 ディアンジェロが逝ってしまった。死因は膵臓癌。51歳だった。かつての公私におけるパートナー、アンジー・ストーンが3月1日に交通事故で他界したのがまだ記憶に新しい中での思いがけない訃報。プリンスと共に彼の最大のインスピレーション源だったスライ・ストーンも6月9日に亡くなったばかりだ。スライの死を受けて、ディアンジェロの諸作を改めて聴き直していた方も多かったと思う。

 ディアンジェロは、1990年代以降で最も強大な影響力を有したアーティストのひとりだ。ただし、彼が30年に及ぶキャリアで残したアルバムはたったの3作。1995年の『Brown Sugar』、2000年の『Voodoo』、そして2014年の『Black Messiah』。もともと完璧主義だったことに加え、2000年代は薬物/アルコール依存、相次ぐ逮捕騒動などで活動が停滞。寡作ぶりに拍車をかけることになった。

 ディアンジェロの3作のアルバムはすべて掛け値なしに破格の傑作といえるが、彼は現在に至る名声を実質最初の2作で確立している。人種差別撤廃を訴えるブラック・ライヴズ・マター運動を背景に作られ、ザ・ルーツのクエストラヴが「俺たちの世代にとっての『There's a Riot Goin' On』」と激賞した『Black Messiah』も強力だが、真のゲームチェンジャーはやはり『Brown Sugar』と『Voodoo』。特に『Voodoo』は決定的だった。

 ビヨンセはディアンジェロへの追悼コメントで彼を「The Pioneer of Neo-Soul」と讃えたが、ディアンジェロが『Brown Sugar』と『Voodoo』によって果たした功績を端的にまとめるならば、それはまさに「ネオソウルの音楽像を作り上げたこと」となる。ディアンジェロが編み出したネオソウル・サウンドの最大の特徴は、J・ディラの作風に着想を得た揺らぎ(ズレ)のあるビート、そこから生じる聴く者をじわじわと引きずり込んでいくような深みのあるグルーヴ。その原点といえる試みは『Brown Sugar』収録の “Me and Those Dreamin' Eyes of Mine” で確認できるが、完成を迎えるのは5年後の『Voodoo』まで待たなくてはならない。

 『Voodoo』のビートの革新性は、レコーディング時の数々の逸話が浮き彫りにしてくれる。たとえば、ギタリストとしてのゲスト参加が決まっていたレニー・クラヴィッツがサンプル・トラックのドラム・パターンに違和感を訴えて「これでは演奏ができない」と辞退したエピソードなどは、ディアンジェロが描いていたヴィジョンがいかにセオリーから逸脱していたかを示す好例だろう。だが、何よりも興味深いのは『Voodoo』の大半の曲でドラムを担当しているクエストラヴの証言だ。彼はレコーディングに際して、ディアンジェロから「徹底的に正確さを削ぎ落としてほしい。絶対にうまくいくから俺を信じろ。グルーヴをキープしつつ、とにかくだらしなく叩くんだ」と要求されたという。

 正確さこそが命であると考えていたクエストラヴはディアンジェロの注文通りに演奏するのに約1ヶ月もの時間を費やしたそうだが、その成果──クエストラヴが言うところの「泥酔しているかのような演奏」──が最も如実に表れているのが以降ネオソウルのひとつのプロトタイプとして継承されていくことになる “Playa Playa”や “Chicken Grease” だ。ここで打ち出されているフィーリングは現在ネオソウルとして紹介されているあらゆる作品から聴き取れるのはもちろん、もはや今日のモダン・ミュージックを語る上で欠かせないものになっている。

 ミュージック・ビデオと併せてディアンジェロのアイコンになっている “Untitled (How Does it Feel)” がたくさんのオマージュ・ソングを生み出し続けている事実も含め、彼と『Voodoo』の遺伝子はいまもなおそこかしこで見つけることができる。ディアンジェロのデビューから30年、『Voodoo』のリリースから25年。これだけの歳月を経ているにもかかわらず、そのレガシーがなんら古びることなくフレッシュなアイデアとして有効性を維持しているのは驚異的と言うほかない。1990年代にデビューしたレジェンドのなかでも、ディアンジェロの音楽は若い世代にとって比較的「近い」位置にあったのではないだろうか。

 でもだからこそ、この世界にディアンジェロがいない現実をなかなか受け止めきれずにいる。ジョージ・クリントンがケンドリック・ラマーやフライング・ロータスとコラボするような未来が、きっと彼にもあったと思うのだ。

 原雅明的なジャズの聴き方、というものは間違いなく存在する。それは唯一無二としかいいようのないものだ。ジャズについて筆を執ることのある筆者にとって、そんな彼の文章は常に憧憬と羨望の対象だった。これはおべっかやお世辞ではない。特に、90年代末から00年代初頭には、文筆家/選曲家/プロデューサーである彼の文章に大量に触れ、おおいに刺激を受けた。当時、シカゴを中心としたジャズのアルバムに彼が膨大な数のライナーノーツを寄稿していたのだ。それらは、昨今シカゴ発のジャズについて書く機会の増えた筆者の活力源/栄養源になっている。
 そんな原のジャズ観は例えば、K-BOMBが主宰するブラック・スモーカー・レコーズからリリースされた彼のミックスCDを聴くとよく分かる。電子音楽家ヤン・イェリネックのサンプルねたにジャズを見出し、マイルス・デイヴィスの未発表音源にJ・ディラとの相似性を見出し、ポスト・ロックをモーダルな側面から再評価した彼のジャズ観、ひいては音楽観が表出しているからだ。
 そんな原の新著『アンビエント/ジャズ』が発売された。“マイルス・デイヴィスとブライアン・イーノから始まる音の系譜”という副題の通り、古今東西のジャズにアンビエント的な響きを見出すという離れ業を、原はやってのけている。ただ、アンビエントとジャズの距離は元々決して遠くはなかった。
 例えば、1940~50年代にかけて活躍したクロード・ソーンヒル楽団が録音した“Snowfall”のエーテル状のサウンドは、のちのアンビエント作品に影響を及ぼした。細野晴臣もソーンヒルからの影響を公言している。また、ブライアン・イーノは、『Ambient 4:On Land』(82年)のセルフ・ライナーで、マイルス・デイヴィスの『Get Up With It』(74年)収録の“He Loved Him Madly”にアンビエント的な響きを感じたと記している。そうした流れに原は早くから着目していた。
 マイルス・デイヴィスの名前が出たところで、本書の冒頭で原が執拗なまでにマイルスの60年代、及び80年代の作品に焦点を当てていることを記したい。『E.S.P.』(1965年)を出発点とし、『Miles Smiles』(67年)、『Miles in the Sky』(68年)、『Filles de Kilimanjaro』(68年)といった、あまり顧みられてこなかったアルバムの重要性を原は示す。これらの作品は69年の『In a Silent Way』でひとつの完成形を見るため、上記のアルバムはそのための助走であり模索の産物だと思われがちだ。ゆえに軽視されることになる。
 ここまで書いて気付く方も多いだろう。助走であるからこそ、完成形に至る萌芽があちこちに見て取れるのであり、それを黙殺していたのは自分のほうなのだと。あるいは、旧来のジャズ評論全体もそうだったかもしれない。『In a Silent way』で開花する要素がそれらの作品に潜んでいたならば、既に語り尽くされている『In a Silent way』よりも、その前段階を語るのは批評として今こそ取り組むべき課題だろう。原の姿勢はまったくもって正しいのである。
 「ジャズにおけるオーヴァーダビングの先駆者たち」にも目から鱗が落ちる。原はこの見出しのような括りでレニ・トリスターノとシドニー・ベシェとビル・エヴァンスとクリス・ポッターとキース・ジャレットを同一線上に並べ、キースのひとり多重録音作品である『Spirits』や『No End』にも触れる。一応断っておくと、キース・ジャレットを掘り下げてみようと思って、この2作から聴く人はまずいないだろう。これは自己批判を含めて言うが、キースの音楽を愛聴してきた筆者もこの2作は未聴だった。
 だが、軽視されがちだが明らかな特異点である作品を論じるのは、よく考えれば評論のまっとうな在り方であり、必要なことでもある。やはりこれはジャズ評論の問題でもあるだろう。この2作を「オーヴァーダビングの先駆者たち」というカテゴリーで語った評論があっただろうか。少なくとも、筆者は読んだことがない。このように、リアルタイムで評価されなかった作品に原は積極的に価値を見出してゆく。
 フリー・ジャズのイメージが強いサックス奏者のマリオン・ブラウンの関わった作品がある時期、〈ECM〉を先取りするような世界観を孕んでいたこと。ブライアン・イーノのアンビエントが、ダニエル・ラノワやジョー・ヘンリーを経由して、ブレイク・ミルズまでつながっていること。ビル・フリゼールやブラッド・メルドーなど、コンテンポラリー・ジャズの世界でもアンビエンスに深く留意するミュージシャンが増えていること。これらは水面下でつながっている。本書を読み終えると、無数にちりばめられた点が最後には線になるような感慨が押し寄せてくるはずだ。
 原が自らを決して“ジャズ評論家”とは名乗らない理由は、本書を読むとよく分かる。ジャズ評論家とはまったく異なる角度でジャズに切り込んでいるからだ。彼が菊地雅章のエレクトロニックなアルバムについてインタヴューした際、原は初対面の菊地に〈記事が掲載されるのがジャズ雑誌ではないこと、自分がジャズ評論家ではないことを最初に確認された〉という。そして菊地は〈そうではないことを伝えると、オープンに話せることを確認したように、少し微笑んだ〉という。実際、そのインタヴューは原にしかできないものに仕上がっている。詳しくは著作を読んで確かめてみて欲しい。

Coppé - ele-king

 エレクトロニカからジャズまで横断し、精力的に活動を続ける音楽家、みずからを「火星人」と名乗るCoppé。彼女がアリゾナ州で自身のレーベル〈Mango + Sweetrice〉を立ち上げ、「Coppé」名義で活動を開始してから今年でちょうど30周年を迎える。それを記念し、最新作『30rpm - i wish i had a brain -』の発売が決定、同日リリース・パーティの開催もアナウンスされた。
 会場は青山BAROOM。共演にモジュラーシンセ界の重鎮HATAKENらを招き、ゲストDJとしてミックスマスター・モリスや徳井直生らが顔をそろえる。特別な一夜をぜひ。

『Coppé 30rpm. Release Party at BAROOM』
日時:2025年11月28日(金)
OPEN 19:00 CLOSE 23:30
LIVE 20:00-21:00 ※自由席
ENTRANCE:¥5,000(1ドリンク別)
会場:BAROOM|バルーム
https://baroom.tokyo/
東京都港区南青山6-10-12 1F

Live:
Coppé (voice + OP-1)
HATAKEN( modular synthesizer )
STEEEZO (OP-1 + TP-7 / Manipulator)
Kevin M ( piano + accordion)
Mark Tourian (double bass)
Hiro (guitar)

Fabulous Dancing Lights
Brightone by Quasar

DJ:
Mixmaster Morris
Nao Tokui (Neutone)
Nick Luscombe (Mscty)
KNS (Phaseworks)

【LIVE情報】
<Mango + Sweetrice>設立30周年記念
Coppé 最新作『30rpm - i wish i had a brain -』
リリース・パーティー開催決定!
青山 BAROOM の円形ホールにて、Coppé スペシャル・ライブセット!
ゲストDJとして、Mixmaster Morris の出演も決定!
1995年、米アリゾナにて自身のレーベル〈Mango + Sweetrice〉を立ち上げ、Coppé として音楽活動をスタートしてから今年で30周年を迎える。
それを記念してリリースされる最新作『30rpm - i wish i had a brain -』の発売に合わせ、スペシャル・リリースパーティーの開催が決定した。
これまでに Orbital、Luke Vibert、Nikakoi、Plaid、Kettel、Atom™、DJ Q-bert など、世界各地のさまざまなジャンルのアーティストとコラボレーションを重ね、独自の宇宙的ヴィジョンで活動を続けてきた Coppé。
30周年を記念し、豪華バンド編成によるスペシャルライブが青山 BAROOM の円形ホールで披露される。
今年のフジロックのステージでも Coppé とデュオで共演したモジュラーシンセ界の重鎮 HATAKEN をはじめ、無数の OP-1 を自在に操る Steeezo、ピアニストの Kevin、ダブルベースの Mark、ギターの Hiro といった豪華メンバーが集結。
さらに、光を操る集団 Brightone by Quasar によるライティングも加わり、視覚と音響が融合した唯一無二のライブ体験を創出する。
またライブ前後のバーエリアでは、豪華DJ陣がアニバーサリーを彩る。
アンビエントとチルアウトの伝道師 Mixmaster Morris、AI × 音楽のフロントランナー Nao Tokui(Qosmo / Neutone)、英国 BBC でも活動した選曲家 Nick Luscombe、偏愛ディガー KNS(Phaseworks)といった Coppé の盟友たちが、ヴァイナル・オンリーの DJ セットで30 周年を祝う!

『30rpm - i wish i had a brain -』
祝!レーベル〈Mango + Sweetrice〉設立30周年
ジャパニーズ・エレクトロニカ・ゴッドマザー、Coppé 最新作!
Orbital のアルバム参加でも注目を集めた “ジャパニーズ・エレクトロニカ・ゴッドマザー” こと Coppé。主宰レーベル〈Mango + Sweetrice〉の設立30周年を記念するアルバム『30rpm - i wish i had a brain -』がついに完成!
Aphex Twin の盟友としても知られるレジェンド Luke Vibert、ジョージアが誇る至宝 Nikakoi とその息子 Luna9、WARPの重鎮 Plaid、モジュラーシンセ界を牽引する HATAKEN、天才ピアニスト Jacob Koller といったおなじみのアーティストたちに加え、多数の新たなコラボレーターたちも参加。ダブ、トリップホップ、エレクトロニカはもちろん、アンビエントからドドイツまで――その振り幅の広さに驚かされる、唯一無二のサウンド宇宙が広がる。さらに、2024年にイギリスで開催された「Cassette Week UK」で初披露され、話題を呼んだ楽曲「It’s you!」も収録。まさに Coppé にしか創り出せない、異次元の音楽世界が詰め込まれている。
アートワークは前作と同様に、イギリスの伝説的デザイン集団 The Designers Republic が担当。マスタリングは、John Zorn のレーベル作品をはじめ、Laurie Anderson や Roy Hargrove なども手がけ、グラミー賞も受賞している名エンジニア Marc Urselli が前作に続いて参加している。CD、レコード、カセット、デジタルの4形態でリリース。なお、各フォーマットごとに一部収録曲が異なり、カセットのみ「Cassette Week」商品として先行発売される。

interview with Lucrecia Dalt - ele-king

 このインタヴューは、いまから10年ちょい前の話からはじまる。エレクトロニック・ミュージックのシーンでは明らかに異変がおきていて、それはざっくり大別すると、ニューエイジ的なるものとそうではないものだった。そして後者においては、ダンス・カルチャーの周縁部かその外側で、特筆すべき混淆が起きていたことが、時間が経ったいまではよりクリアに見える。それは、クラシックの分野で前衛音楽と括られるものとさまざまな大衆音楽(ないしはモダン・クラシカル、ノイズ、アンビエントやなんか)との雑交で、あたかもニューエイジ的な居心地の良さに反するかのような、サウンドの考究者たちの、遊び心のこもった冒険だった。
 このマージナルなシーンでは、多くの女性たちが目立っていたことも特筆すべきだろう。ローレル・ヘイロー、フェリシア・アトキンスン、サラ・ダヴァチー、クライン、メデリン・マーキー、ケイトリン・オーレリア・スミス、ホーリー・ハーンドン、クララ・ルイス、コリーンetc——コロンビア出身で、当時はベルリンに住んでいたルクレシア・ダルトもそんなひとりだった。

 前作『¡Ay!』によっていっきにその名を広めたダルトだが、それに次ぐ新作『A Danger to Ourselves』は、さらに多くのファンの心を掴むアルバムとなっている。ラテン版スコット・ウォーカーというか、南半球のポーティスヘッドというか、この暗闇のなかの光沢は、彼女の味のある「歌」、そして凝ったサウンド工作によって構成されている。ネジが狂ったクンビアのリズムからはじまるアルバムの冒頭“cosa rara”は、マッシヴ・アタックをコロンビアの地下室にテレポートしたかのようだ。この喩えに沿えば、デイヴィッド・シルヴィアンはトリッキーで、つまり幽霊のようにこの曲に参入する。しかし、それに続く曲“Amorcito Caradura”ではジュリー・クルーズめいたドリーミーな舞台をみせ、広大な視界へとリスナーを連れ出すのだ。そして、ラテン・ジャズ・エレクトロニカ(などと呼んでみたくなる)“stelliformia”やレトロ・ポップとグリッチとの美しい協奏“divina”等々——妖光を放つ曲がいくつも収録されたこのアルバムは、間違いなく今年のベストの1枚に入るだろう。

 ダルトは、現在アメリカに住んでいる。ロンドン在住の坂本麻里子氏に質問表を渡し、取材は日本時間の深夜に決行された。彼女の人となりもわかるインタヴューになったと思う。


Photo : Sammy Oortman Gerlings @sammyoortmangerlings

私の家は女性仕立屋の家柄で、ドレスや洋服を作っていて。それで個人相手の洋裁レッスンをおこない、そのかたわらで音楽を作っていった。そうしながらデモ・テープをMySpaceにアップしたところ、グートルン・グートが「コンピレーションに参加しないか」とコンタクトを取ってくれて。あれがもう、自分にとっては非常に強力なシグナルだったというか……

あなたの新作を聴いているとき、たまたまコーヘイ・マツナガと話す機会がありました。

ルクレシア・ダルト(LD):そうなんですか! ワーオ……!(嬉しそうに笑いながら)コーヘイとはもうずいぶん長いこと音信不通になっているけれども……。

「今度、ルクレシア・ダルトにインタヴューするんだよ」と彼に言ったら、喜んでくれて。10年前、コーヘイがベルリンに住んでいた頃、彼はあなたやローレル・ヘイローらと交流があったそうですね。とくにあなたには良くしてもらった思い出ばかりのようでした。

LD:わぁ、嬉しいな。

いっしょに公園に行ったり、自転車をプレゼントされたり——

LD:アハハッ! いや、あれは私のルームメイト。彼女がバースデー・プレゼントとして、彼に自転車をあげたんです。それに誕生パーティも開いて。

はい、お誕生会をしてもらったと言っていました。

LD:あのときはゼリーをたくさんこしらえました(笑)。

(笑)ゼリーを??

LD:(笑)ええ、彼が誕生日にゼリーのなかに浮かびたいと言っていたので、私たちはゼリーでいっぱいのケーキを作ったり、とにかくゼリーまみれになって。アハハハハッ! ゼリー中心のパーティで、あれはとても楽しかった……。

なるほど。それにジュリア・ホルターを紹介してもらったりした、と教えてくれました。こういう楽しそうな話を聞くと、まだベルリンの家賃も安かった時代、そにには、ボヘミアン気質のアーティストたちのコミュニティ的なところがあったのかなと想像します。

LD:はい。

ちょうどその当時は、〈PAN〉みたいなレーベルの周辺には、ダンスフロアとアカデミアとポストパンクの溝を埋めるようなエレクトロニック・ミュージックのシーンが発展途上でしたよね。あの頃は、みなさんどんな感じで活動されていたのでしょうか?

LD:記憶を呼び起こしてもらえて、とても嬉しいです。あの頃自分がいた時/場所を思い出しますね……あの時代のことはちょっと忘れ気味になっていました。というのも、あれは私が自作レコードの大半を作曲したアパートメント、あそこに移る以前の話なので。当時私はまだ友人と同居していましたし、暮らしていたのはとても妙なアパートメントで、バスルームは共同で屋外にありました(笑)。
 だからおっしゃる通り、何もかも、とてもボヘミアンな雰囲気でした。けれども私たちはあの頃に、コーヘイ、ラシャド・ベッカー、ローレル・へイローといった面々と過ごすチャンスを得たわけで……思うに異なる文脈を通じて、だったんでしょうね。非常にまとまりのあるコミュニティがあったとは思いませんし、むしろ個別のグループがポケット的に存在していて、とあるスペースに行くと出くわす面々がいて、また他の場所に行くと別の人びとと出会う、という具合で。私はずっととても多くの領域で実験してきたので、そういった可能性の数々を、音楽/ミュージシャン小集団のすべてを通り抜けて行くことができました。

坂本:なるほど。ゆるやかに連携した、異なる細胞群のようなものですね。

LD:ええ、そういうことです。少なくとも私自身はそう捉えていた。さまざまなグループに参加していましたし、そうするうちに私のいた集団の人びとはもっと「アーティストたち」になっていったというか……まあ、もっと折衷的でいろいろな人々の集まりだったんですけどね。それにあの頃のベルリンには、エレクトロニック・ミュージックのプロダクションの本当に多彩なレヴェルに触れられる、という側面がありました。おっしゃっていた通り、知的/アカデミックなものからより身体/感情に訴えるパンク的なもの、そしてもっと純粋にエレクトロニックなものまで。ですからベルリン時代は素晴らしかったなと感じます。


Photo : Louie Perea @perea.photo

つまりボレロの歌もロバート・アシュリーも、私にとっては同レヴェルに存在し得るし、かつそのどちらもリズム、質感、テクスト等について考える際のアーティストとしての私の組成にとって同等に重要。

あの時代、かつて前衛と括られていた音楽、リュック・フェラーリ、ロバート・アシュリー、アルヴィン・ルシエ等々を、アカデミアの文脈から切り離して現代のエレクトロニック・ミュージックのなかで再文脈化するみたいなことがあったと思います。かつてアカデミアのなかで聴かれていたような音楽が、いきなDJミュージックのひとつとして面白がられるみたいな。またその一方、あなたは〈Other People〉から発表したミックス作品では、さらに前衛ジャズを中心に選曲し、ドゥルッティ・コラムやコイルなどと交えていました。こうした、世界の非商業的な実験音楽を横断的に探索するみたいな動きが、なぜあの頃に起きたんだと思いますか?

LD:うーん、どうしてだったんでしょうね(笑)? とにかく……それが私のアートに対する考え方の一部だ、としか。本当に多くのさまざまなソース/諸グループから影響を受けるということですし、いまの例で言えばドゥルッティ・コラム、そしてロバート・アシュリーなんて、いっしょにするのはほとんど不可能に思えますけど(苦笑)、どういうわけか私からすれば理にかなっている。
 口で説明するのはむずかしいんですが、思うに——あの頃、私は友人で素晴らしいアーティストであるラヒーナ・デ・ミゲル(Regina de Miguel)とコラボレートしていて、そのときとても自由を感じました。彼女はヴィジュアル・アート畑出身の人なので、実に多彩なソースから影響を引いてそれらをミックスしていた。あれがとにかく、自由奔放に物事を混ぜ合わせることを恐れるな、というインスピレーションを自分にもたらしてくれたんじゃないかと思います。それに、感じるんです……だから、アーティストは脳の持つ折衷性を享受すべきだし、そのあるがままを許し、存在させてあげよう、と。
 というのも、そういう状態が起こるのは素晴らしいことだと思うんです! 私はコロンビア出身なので、そうしたさまざまなものはすべて同じレヴェルにある、というか。つまりボレロの歌もロバート・アシュリーも、私にとっては同レヴェルに存在し得るし、かつそのどちらもリズム、質感、テクスト等について考える際のアーティストとしての私の組成にとって同等に重要。ロバート・アシュリーは言うまでもなく、スポークン・ワーズ部がとても複雑ですよね。もちろんローリー・アンダースンにも同じことが言えますし、他にも数多くいますが。だからミュージシャンであれば、そうやって数限りない可能性に触れることになる、というのに近い。音楽のおかげでそうした小領域の数々に参加できるのは最高だと思います。あるときはジュリアン・ラーバー(Julian Rohrhuber)のような人と同じステージに立ち、今度はフェリックス・クビーン(Felix Kubin)と一緒にプレイし、その次にはもっと伝統的な意味でのバンドとも共演できる。そうした様々な飛び地のなかで居心地良く、自分をエイリアンのように感じるのが本当に好きなんです(笑)。

坂本:外世界からの訪問者、と。

LD:(笑)その通り。それは好きですね。

なんでこんなことを訊いたのかというと、あの時代、エレクトロニック・ミュージックのシーンは、癒し的なニューエイジに向かった人たちと、あなたやローレルやコーヘイのように過去の前衛を探索した人たちとに大別されると思うからです。

LD:はい。

リーマンショックから数年後の(暗いご時世のはじまりの)ことなので、ニューエイジに向かいたくなる気持ちもわからなくないのですが、その一方で、敢えて難解な音楽のほうに向かうってどういうことだったんだろうかと興味深く思っているからです。

LD:(笑)なるほど。私の場合——そこに関しては、バルセロナ現代美術館(MACBA)の功績も認めなくちゃいけません。というのも、同館のウェブラジオ主任のアナ・ラモス、彼女は本当に素晴らしい人で、サウンドの収集はもちろん、極めて複雑な音楽を制作したアーティストの作品を紹介することも考えた。彼女がウェブラジオ向けのポッドキャストを編集するのを当時手伝っていたおかげで、自分がそれまでまったく知らなかった驚異的なマテリアルの数々に触れることになった。それに彼女は、フランスのGRM(Groupe de Recherches Musicales/音楽研究グループ)でのレジデンシーにも招待してくれました。で、あの頃私はアーロン・ディロウェイ、これまたテープ・ループ等々に非常に入れ込んでいる人とのコラボレーションもはじめていて……
 というわけで、そうですね、「どうしてか」を説明するのはむずかしいんですが、思うにたぶん——ああ、ベルリンではCTMというフェスティヴァルも開催されていますね。CTMも、私たちにああした音楽を表現するためのスペースを提供してくれた重要なプラットフォームだと感じます。ですから私たちは現代美術館でああした、あらゆる類いの物事をミックスすることをやっていましたし、それは音楽的な領域はもちろん、それとは別の文脈においてもつじつまが合っていた。CTMフェスティヴァルは、異なるさまざまな主題にのめり込んでいたああした多彩な人びとを探し出し、出演させるという意味でとても賢明だったなと。ですから、ローレル・へイローの音楽と私の音楽には大きな隔たりがあると思う人もいるでしょうが、もしかしたら私たちは、知的な参照点の多くは共有しているかもしれない。で、それはほぼ同時期に起こっていたわけで、私たちはたとえば『The Wire』誌だったり——

坂本:(笑)なるほど。

LD:——(笑)たまたま同じ書籍を読んでいたからかもしれません。そんなわけでどういうわけか、私からすれば何もかもが均等化しましたし、音楽についての異なる考え方を抱くチャンスがもたらされた。それがアーティストとしての自分の成り立ちの一部になってくれて、本当に良かったと思います。

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ですから私たちは現代美術館でああした、あらゆる類いの物事をミックスすることをやっていましたし、それは音楽的な領域はもちろん、それとは別の文脈においてもつじつまが合っていた。

質問は、コロンビア時代の話になります。あなたがコロンビアのメデジン大学で土木工学を専攻した理由はなんでしょうか? ちょっと珍しい選択に思えますが……。

LD:(苦笑)たしかに。まあ、子供の頃はあれと同じくらいアートにも興味があったと思います。歌も好きで、絵も描いたし、バレエ教室に通ってダンスを学んだ。ただ、私にはとても理路整然と組織的な、すごく頭脳派とでもいうのか(笑)、数学・物理学等々が大好きな面もあるんです。80年代にコロンビアで育ったわけですが、あの頃「音楽で食べていく」という発想は、実際的・実利的に言っても当然のごとく筋が通らなかった。ですからとにかく、音楽は趣味になっていくんだろうな……と思いましたし、あくまで本業はエンジニアであって、アーティスティックな面は片手間に、自分の心を満足させるために(笑)音楽を作ろう、と。
 ところが工学の勉強を修了し、とある会社で働きはじめたところ、たちまち——あれは25歳のときでしたが、「自分が生きたい人生はこれじゃない」と悟りました。で、「いまこそ、そのタイミングだ」と思いましたし——と言っても、会社や仕事に対してまったく不平はありません。本当に素晴らしい職業だったと思います。ただとにかく、自分の直観とのコネクション、そしてアーティストになりたいという思いがとても恋しく思えて。で、私の父、そして友人のリカルドも「だったら少しの間やってみたら? 試しに2年くらいやってみて様子を見ればいい」と言ってくれた。それで「オーケイ、縫製業でお金はなんとか作れそうだ」と判断しました。
 私の家は女性仕立屋の家柄で、ドレスや洋服を作っていて。それで個人相手の洋裁レッスンをおこない、そのかたわらで音楽を作っていった。そうしながらデモ・テープをMySpaceにアップしたところ、グートルン・グート[※初期ノイバウテン、マラリア!等]が「コンピレーションに参加しないか」とコンタクトを取ってくれて。あれがもう、自分にとっては非常に強力なシグナルだったというか……グートルン・グートみたいにとても、とても重要な、シーンを、とくに女性アーティストのシーンを支援し続けてきた人が、自分のやっていることに何かを聴き取ってくれたんだ! と思いましたから。当時は自宅のベッドルームで、ごく安物のマイクロフォンに、MIDIキーボードひとつを相手に音楽を作っていました。それっきり。他には何も無し。でも、彼女は私のやっていたプロセスを信じてくれたし、私も「やっているこれらのことについて、ひたすら自分の直観を信じてそこに賭けよう」と感じはじめた。
 以後、土木系エンジニア業は振り返らずにやって来ました。そんなわけで、音楽の道を選んでからすいぶん経ったいまとなっては、自分が土木工学を学んだのは奇妙に思えますね、エンジニア職を辞めてもう20年にもなりますから(笑)。

その、音楽の道を選んだ決心について、あなたは『The Wire』とのインタヴューで「バルセロナのMACBAで開催された哲学者ジル・ドゥルーズに関する会議に参加することになって。彼の時間観について語り合ううちに、遂にすべてに納得がいくようになっていきました」と答えています。ドゥルーズの時間観(idea of time)について話したことがどうしてあなたに音楽の道へと進ませたのか、もうちょい説明を加えてもらってもいいでしょうか?

LD:私は哲学者ではないので、彼の大きな作業を完全に理解し、説明するのはもちろん無理です。でも思うに、視覚的な面で——なんというか、あの会議の講演者が時間について、「時間の折り重なり」というドゥルーズの時間観を話しはじめたんですね、著書『襞:ライプニッツとバロック』でも彼が模索したところですが。そこで自分にとってすべてつじつまが合いはじめたのは、私自身も、自分のやっていることは決して直線的ではないと思うからです。つまり、私のやっていることはもつれ合いのようなもので、そのなかから徐々に何かが意味を成していく、という。こんな風に(と、両手を重ね合わせ層を描くジェスチャー)。そこから、地質学を考えはじめました。たとえば深いところにある地層が突如隆起して、土地景観を変化させてしまうことがありますよね。
 というわけで、時間の非直線性に関するあのちょっとしたコメントを聞いて、その後も長いあいだ、大いに考えさせられることになって(笑)。それに、自分が土木系エンジニアとして働いていた事実を正当化する方法を見つけようとしてもいた、というか。エンジニアとしてさまざまな研究をおこなっていたとき、土壌分析他のために地質学由来のインフォメーションを常に考慮に入れていました。で、そのパートはいつも私には詩のように思えたんです、というのもそうした情報を通じて、その文脈において何が起こっていたのか、突如として自分は何千年も昔に引き戻されるので。そうやって「ここのこの土壌は、こんな風に探査できる」「ここはこういう風に切り出せる」と言えるだけでも、さまざまな形状やフォルムの基盤となるものを作り上げられますが、それでも私たちははるか昔の地層の情報すべてに責任を負っている、という。
 ですからある意味あのおかげで、エンジニアとしての自分の記憶群をよみがえらせるひとつの方法がもたらされました。そして、詩とそれが私自身の文脈に持ち込んでくれるさまざまなイメージに沿って活動していくやり方も。それでなんというか、(苦笑)かつて自分が長いあいだエンジニアとして働いた事実との一貫性、なぜそうだったかの根拠がもたらされたというか。

音楽をやるうえで、まずはバルセロナに移住したのはなぜでしょうか? スペイン語圏であることが大きかったのでしょうか? また、そこからベルリンに移住した理由は?

LD:バルセロナに移ったのは、私の当時のパートナー、彼があそこで暮らしていたからです。一緒に暮らしたくて移住することにしました。そのおかげで、彼の視点・考え方等々を通じて、それまでとはまったく違う人生が自分の前に開けましたね。
 続いてベルリンに移ったのは……あの頃にもう、「自分には変化が必要だ」と感じていました。ベルリンは良さそうに思えましたし、先ほどあなたがおっしゃったように、当時のベルリンはまだ物価・家賃も安く、とてもクリエイティヴな街で。それに、もっと刺激に富んだ環境に身を置く機会を自分に与えたいと思ったんです。30代前半でしたし、「よし!」と——だから、自分にはまだとても急な思いつきを実践できそうに思えましたし、そこで荷物は段ボール箱4つだけでベルリンに移った。最初に暮らした部屋は家賃が90ユーロだったんです!

坂本:(笑)嘘のような話ですね……。

LD:(笑)ええ。だから生活もちゃんと成り立つ、みたいな。と言ってもごく狭い小部屋で、ベッドの脇に「スタジオ」を組んで……というものでしたが、そんな風にはじまりました。そして、たしか音楽委員会(Berlin Music Board)という名称の機関に助成金を申請し、それでドイツ映画研究をスタートするきっかけが生まれた。そこから、ドイツで私が初めて作ったアルバム『Ou』(2015)に繫がりました。というわけで、実に多くの人びとと出会い様々な形でインスパイアされることになった、とても大事な場所になりましたね。

いえ、『¡Ay!』はブレイクスルー作品ですが、その前の作品、『No Era Sólida』が生まれた背景/経緯をお話いただけますでしょうか?

LD:『No Era Sólida』はとても……自然に無理なく出来ていった、声を用いてどんなことができるかを探った作品ですね。とても多くの事柄が元になった作品ですが、とにかくアイディアとしては、どうやったら自分自身を、自分の声を解放し、そうすることでそれをほぼ自律した存在にできるだろうか、ということでした。アフリカのルンバ音楽等を聴いて頭をそれに馴らし、そのフィーリングを念頭に置きながら、言葉や、ヴォイスのフローの邪魔になるものをすべて排するようにしました。
 あの頃ラシャド・ベッカーと親しくて、実際、ノード・モジュラーとヴォコーダーの可能性を探るように励ましてくれたのは彼でした。それで私は、一般的ないわゆる「ヴォコーダーのサウンド」とは違うものを出すにはどうすればいいか、かなりリサーチしはじめたんです。「どうやったらやれるだろう?」とものすごくオタクっぽくハマりましたし(笑)、『No Era Sólida』はだいたい、そういう風にできた作品です。とてものびのび自然にやったアルバムですし、そのほとんどはファースト・テイクというか。もちろんその後でいくつかの要素にプロダクション面で手も加えましたが、主要なアイディアは「とても即興性の高いジェスチャーからどうやってアルバムを1枚作るか?」にあった、そういう作品です。

アーロン・ディロウェイとの共作『Lucy & Aaron』はたいへんユニークなものでしたが——

LD:フフフッ!

あなたにとって彼との共同作業はどんな意味がありましたか?

LD:とても意義がありました。というのも、私は彼の作品/活動が本当に好きで――彼のライヴ・ショウが大好きなんです。彼とはMADEIRADiGというフェスティヴァルでいっしょになったことがあって。ポルトガル領の、アフリカ大陸に近いマデイラ島で開催されるフェスなんですが、彼がそこで演奏しているのを観て、テープ・ループくらいとても単純なものを使ってリズムを生む、という彼の考え方に強い感銘を受けた。彼のリズムは、テープ・ループの反復から生じるという類いのものです。
 そんなわけで私たちがコラボでとったプロセスはとても素敵でした。私から彼にシグナルを送り、彼がそれをキャッチしてループをこしらえ、ふたりでとても奇妙な素材を作り出し、それに載せて私が歌う。そしてそれを軸に更にオーディオ部も録音し……という感じで、お互いの発するシグナルと、それぞれに異なる作業のやり方とに作用し合った。アーロン・ディロウェイ、そして新作でのアレックス・ラザロもそうですが、私自身のヴォキャブラリーの、自分の歌の感覚の上に積み重ねていく可能性をもたらしてくれる、ああいうコラボレーションは私にはレアなんです。
 ですからアーロン・ディロウェイとの共作レコードで、私たちは「歌のフォルム」を少し探っていたなと感じます。たとえば〝Ojazo〟、あの曲を私はほとんどもうフラメンコの歌、フラメンコのラメント[※節の一種]に近いものにしたいと思いましたが、でも実際はそれとは無関係なテープ・ループの上に載っている、という。あのレコードは本当に気に入っています。あの作品にふたりで取り組めて本当に良かった。


Photo : Louie Perea @perea.photo

デイヴィッド・シルヴィアンはまず何よりも、指導者ですね。そして言うまでもなく、その指導の過程を通じていろいろなことが起こった。たとえば何曲かでギターを弾いていますし、ドラムスの録音場面にも立ち会い、コメントをいろいろと出してくれた。彼との仕事で本当にたくさん学んでいます。

デイヴィッド・シルヴィアンとはどのように知り合ったのでしょうか? 

LD:2、3年前にツィッター(現X)経由で彼にメッセージを送ったんです。私は『¡Ay!』を作っていて——というかリリースしようとしていたところで、あのアルバムの制作において彼の作品の影響が非常に大きかったと本人に伝えたかったので。とくにシンセサイザーのサウンド、そして歌としてのフォルムを維持しようとしつつもサウンド面に関しては自由奔放にやろう、という彼の独特な考え方ですね。それをきっかけにふたりの間で対話が始まり、仲良しになり、そしてその対話はいまも続いている……という(笑)

そうした流れで恊働することになった、と。彼の耽美的なアプローチは、あなたの世界と親和性があると思います。『A Danger to Ourselves』というアルバムにとって、彼の果たした役割はどのようなものだったとお考えでしょうか? 指導者/良き相談役?

LD:はい。彼はまず何よりも、指導者ですね。そして言うまでもなく、その指導の過程を通じていろいろなことが起こった。たとえば何曲かでギターを弾いていますし、ドラムスの録音場面にも立ち会い、コメントをいろいろと出してくれた。で、私はアルバムのプリ・ミックスを自分でやり、その上で彼が最終的なミキシングをまとめた。ですから実に多くのレヴェルで関わり、貢献してくれている。自分にはツールが不足していると感じたというか……だから、彼との仕事で本当にたくさん学んでいます。ヴォイスのレコーディングひとつとっても——あれは私にはまったく謎の領域で、これ以前はとても苦戦してきました。ところが彼と一緒に作業することで、私はとても特別なマイクロフォンを購入することになり、非常に多くの物事について、これまでとはかなり違う考え方をするようになっていった。彼は……自分が「ここにあるべきだ」と思った通りの場所にヴォイスを据える、その助けをしてくれました。彼みたいな人にしか、その助言はできなかっただろう、そう思います。というのも彼は——だから、彼自身の音楽にしても、たとえば『Blemish』(2003)でヴォイスはほとんどもう、聴き手の心にまっすぐ届く、そんな感じ。で、私は本当に、ヴォイスに込めた情動性を超えたかったし、ミキシングの技術を通じてそれを達成したかった。彼はそれを可能にしてくれたと思います。

新作がどのように生まれたのかを知りたく思います。前作『¡Ay!』のようなひとつのテーマに沿ったコンセプチュアルな作品ではない、『A Danger to Ourselves』はあなたの生活/人生経験から生まれた音楽という理解でいいのでしょうか?

LD:間違いなくそうですね、今回はもっと私自身が出ています。ただ、自分の生きてきた経験を通じ、そこにどうフィクションを交えるか、という面もあります——私の歌はときに、核となるアイディアはとてもシンプルな事柄、ロマンティシズムや官能性、人生をパートナーと共にする、といったことだったりします。そして、その上にシュルレアリズムといったフィクションの層を重ねていく。たとえば〝mala sangre〟では、私が何を描写しようとしているかはっきり目に浮かぶと思います。ほとんどネオ・ノワール映画の一場面に近いというか、何か奇妙なことが起こっているように思える。けれども奇妙だなんてことはなくて、とてつもなく大きな情熱を抱くとああしたことを実際に感じるんです。だから私はある意味作為的なトリックを使って、とてもストレンジな、この「愛」なる現象を説明しようとしている、という。

新作は、いままで以上に「歌」が際立ったアルバムだと思いました。もちろんすべての曲にはあなた独自のテクスチャーがあるのですが、誤解を恐れずに言えば、これはルクレシア・ダルト流のポップ・ミュージックではないのかと。

LD:ええ、そうだと思います。同感。

ほとんどパーカッションで構成される〝cosa rara〟でも歌が耳に入ってきます。2曲目の〝amorcito caradura〟などは、ジュリー・クルーズ風のドリーム・ポップに近いものを感じました。アルバム中もっともポップな〝divina〟も魅力的な曲です。

LD:ありがとう。

作者の狙いとしては「歌」であること、「ポップ・ミュージック」の領域に接近することは意識されたのでしょうか?

LD:ポップなアルバムを作るのが重要、というわけではありません。ただ、いつもそう思うのですが、私はバラッド、シンプルなバラッドが本当に好きで。たとえばザ・フリートウッズのようなグループの歌ですね。それで、シンプルなバラッドくらい効き目のあるものを作り出す方法は何かないだろうかとずっと考えてきました——ただし、自分のヴォキャブラリーと作業の仕方を用いて。というわけで、あれは自分への問いかけに過ぎませんし、〝divina〟のように歌になったと感じる例もありますし、〝covenstead blues〟のような凍り付いたバラッドというか、ぞっとするような、ダークなトラックもある。それでもシンプルなコード群にまで絞り込めば、ああした曲だってジャズ・ミュージシャンが演奏するとシンプルなスタンダード曲的なものになるだろう、と(笑)。
 だから、さまざまなレイヤーすべてをひとつにまとめる、というアイディアが好きなんだと思います。なぜなら私にはまだ、ああした多彩なインフォメーションのすべて、それらも「私」なわけですが、それらが必要なので。それはつまりサウンド・デザイン、音でデザインされた世界ということですし、サウンドと空間を特殊なやり方で考えてみるわけです。たとえば、遠くにあったように思えた要素が急に目の前に迫って来る、とか。ああいうやり方で曲を作ると、本当に楽しいなと感じます。コンポーザーとして、私はひとつの環境を、それ自体のリアリティを内包している世界を作り出したい、というか。そして、そこに奇妙さと共に美も持ち込みたい。というのも、自分を満足させてくれるのがそういう音楽なので。で、このアルバムで私はそういうことをやらずにいられなかったし、しっくりきました。実際、このようなアルバムをもっと作り続けていけたら良いな、と思っているくらいです。

あなたの「歌」にはジャズからの影響も感じるのですが、実際のところ意識されているのでしょうか?

LD:はい。ジャズの数々の側面が大好きですし、たとえばジャズ・ソングが……そうですね、具体的な例を挙げたいんですが(とPCスクリーンをチェックしながらつぶやく)、最近聴いたもので、あのタイトルは……ちょっと待ってください……ああ! チャーリー・へイデンの、キース・ジャレットも参加したデュエット集アルバム『Closeness』(1976)。これはもう、本当に傑出した作品です。とくに〝Ellen David〟というピースや——あるいは私のファイヴァリットなジャズ・レコードの1枚であるギル・エヴァンスの『ギル・エヴァンスの個性と発展 (The Individualism of Gil Evans)』(1964)にしろ、マイルス・デイヴィスのサントラ『死刑台のエレベーター』(1958)にしろ、情動面で惜しみないジャズを聴きながらその中を旅していくのがとにかく好きで。
 それにジャズ界のミュージシャン相手の方が、自分は概して仕事しやすい気がします。というのも、彼らは演奏楽器に関してとても変化に対応しやすく、実験に対しても非常にオープンなので。クラシック音楽を学んだ人の場合、「思いつく限りヘンな音を出してもらえますか?」と頼むと、怪訝な顔で「どういう意味でしょう?」なんて答えが返ってくることもたまにある(苦笑)。対してジャズ・ミュージシャンにそう話すと、「ああ、良いね! 弦でこんな音を出せる。やってみよう!」と。今作でベースを担当してくれたサイラス・キャンベルの場合、最高でした。彼は狙いを見事に把握してくれましたし……すご過ぎでした(笑)。私もたまに、「1秒でいったいいくつの音を出せるの? こんなのあり得ない」と思ったくらいで。しかもコントロールはばっちり、という。でも、何かの一部になり、それに対してオープンになるのは、とてもシンプルなことだったりする。私もフリーにやっていたし、とある時点で彼もほぐれてくれて、〝hasta el final〟のエンディングのアップライト・ベース部は本当に見事だと思いますが、あれはすべて彼の即興のテイクなんです。このレコードに彼があれを持ち込んでくれたのは、とにかくアメイジングです。でも、それはドラマーのアレックス・ラザロも同じですね。彼はジャズ・パーカッション学を修了したので、その道のエキスパート。だから彼も、コンポーザー/混成者として自由になるためのインフォメーションをすべて備えている人だと思います。

アートワークの写真とヴィジュアルについてのあなたの狙いを教えてください。

LD:ああ、あれはある意味、議論の的になっていて——

坂本:(笑)そうなんですか?

LD:(苦笑)はい。あのジャケットが気に入らない、あるいは私の表情が好きじゃない、という人が多くて。ただ、自分としては——このアルバムは多くの部分で、「自己を省みる」という発想に触れていると感じます。たとえばジャン・コクトーは「鏡を見ると人は死に近づくことになる」[※映画『オルフェ』/1950に関する発言]と言いました。なぜなら鏡は、見る者に時の経過を思い出させてくれるとも言えるからです。で、私はたまに自分の見た目を確認できるこの道具がなかったら、世界はどんなに違っていただろう? という空想をもてあそぶことがあります。もしかしたらもう少し自由で、さまざまなことに対する心配もやや薄まるんじゃないでしょうか?
 というわけで、私は忘れないための方法として自己イメージを使っていますし、またある意味では闘ってもいる。私たちは自分たちをどんな風に提示するか、という点について。ですから私からすれば、ほとんど誰も予期しなかったような、そういう表現を今回やれてとても良かった。というのも、満足し切った喜びの表情等々はとてもよく目にしますが、自分は「いや違う、このレコードにはもっと迫力のある、攻撃的とすら言えるイメージが必要だ」と感じたので。アルバムのタイトルにも「a danger to ourselves(自分たち自身を傷つけかねない危険)」を選びましたし、だからある意味自分自身と闘っているとも言えます。愛を掘り下げているのと同じくらい、このアルバムはその点、自ら招く危険も探求していますね。つまり、何かを考え過ぎたり、あるいは自ら植え付けてしまった内なる狂った声に耳を傾け過ぎることを通じて、自らを危険にさらすこともある、という。

ところで、あなたは現在アメリカが拠点だそうですね?

LD:はい。南西部にいます。

いまなぜアメリカに移住したのでしょうか? 政治的には決して良い状況ではないと思われますが。

LD:(苦笑)ええ、その通りですよね……ただ、私はかなり奇妙なポケットめいた、砂漠地帯に暮らしていて、ここは本当に、とてもマジカルな生活環境だと思います。いまここで暮らせるのは、何もかもから隔絶したアウトサイダー的存在に近いというか。そうですね、日々私たちが目にしている現実の外側にいる気がします。自然にふっと思い立って、ここに来ることにしたんです(笑)。恋人との関係を続けていこうという思いもありましたし……。

坂本:すみません、何もあなたの私生活を詮索するつもりではないんですが――

LD:(笑)わかっています。構いませんよ!

ただ、アメリカに移るタイミングとしては、いまはかなりやばいのではないか? と。

LD:はい、そうですよね。その点はちゃんと自覚していますが、と同時に……このエリアで実に素晴らしいアーティストの数々に出会ってきましたし、自分は本当に恵まれていると思います。それにこの砂漠、景色の美しさも息を呑むほど素晴らしいですし、自分はそれらからインスピレーションを受け続け、かつ私たちがいま生きているクレイジーな現実の中で活動を続ける励みをもらっているんだ、そう思います。

(了)

Cecil Taylor/Tony Oxley - ele-king

 予感。沈黙の縁にぶら下がりながら、同じ旅路を託したその相手がいつ応答するのかを思いめぐらす。セックスよりも自発的に。私はセシル・テイラー(1929年生 – 2018年没)をいちどしか見たことがないが、彼の最大のパートナーが沈黙と予感であることを知っている。セシルは、1956年以来、フリー・ジャズ、あるいはファイア・ミュージック、あるいはファー・アウト・ミュージック——呼び名が何であれ——の背後にある比類なき自然の力であり、ピアノを携えて、またバンド・リーダーとして、セシル・テイラー・ユニット名義や数多くのソロ演奏によってアブストラクト・ジャズの急進的な運動を先導した。セシルの人となりは豪快で知られている。彼のピアノ演奏もまたそうで、旋律と不協和のまったく独自の言語を作り上げた。その強度において彼に比肩しうるのは、サン・ラーの音楽だけである。

 このアーカイヴ音源でのトニー・オクスレイ(1938年生 – 2023年没)は、セシルと息を合わせる共演者、あるいは乗客である。なぜなら、1988年に録音されたこのデュオ作品『Flashing Spirits』においては、未知の領域を切り拓いていくべく舵を取っているのはセシルだからだ。『Flashing Spirits』は今年の7月にひっそりとリリースされたため、一見すると大きな出来事には見えないかもしれない。しかしジャズの連続体のなかで捉えれば、その意義は間違いなく重大であった。1988年は、トニー・オクスレイとセシルの長きにわたる友情と音楽的パートナーシップのはじまりを示す年なのだ。
 このふたりは、すでにそれぞれの国においては高く評価される革新者だった。セシルが1960年代初頭にアヴァンギャルドのピアニストへと変貌した一方で、イギリスではトニーがデレク・ベイリーや、多くの仲間たちとともに「Company」録音やその他の作品に参加し、〈インカス・レコード〉からリリースされた(たとえば1975年に発表された彼自身の名を冠した素晴らしいアルバムのような)数々の作品によって進化を遂げていた。テイラーと同じく、トニーも数多くの輝かしい録音を生み出している。したがって、両者がステージを共有することが、活動開始から20年以上も経ってからであったという事実は、きわめて注目すべきことなのだ。

 1988年の夏、セシルはベルリン市の要請を受けて、ドイツ・ベルリンで1か月にわたる連続コンサートに参加した。そしてトニーと組まされたことで、花火が打ち上げられた。7月17日、彼らは初めて演奏し、その最初の魔法は『Leaf Palm Hand』として解き放たれた。『Flashing Spirits』はそれからわずか2か月後のことである。その事実だけで、彼らの相乗作用がいかなるものであったかを示すに十分であろう。なぜなら「ときおり共演する」という音楽上のパターンは、しばしば物事を新鮮に保とうとする前衛的音楽家たちの選択肢だからだ。
 ゼロから出発し、ゆっくりと構築していく——形が現れはじめるとともに予感の障壁を取り払っていく。その「ことが動き出す」までには、およそ2分半を要する。しかしこの文脈において「動き出す」という言葉は理解しにくい。というのも、そこには激しい綱引きがあり、一定したダウンビートが存在しないからである。

 この録音は単なるドキュメントにすぎない。そしてこれは、はじまりがわかっていて終わりに酔いしれるクラシック音楽でもヘヴィメタル音楽でもない。これは運動体としての、本当に生きた音楽なのだ。そして聴き手は、セシル・テイラーの両手が鍵盤を駆け抜け、明確な旋律がいくつもの音域でピンポンのように反響するのを見ながら、椅子の端に腰掛けて右へ左へと視線を走らせる子どもにならねばならない。セシルは座っているが、完全に座っているわけではない。なぜなら、どんな新しいアイディアも彼を飛び上がらせるかもしれないからだ。彼はトニーに盗み見るような視線を送るが、トニーの方がむしろセシルに注意を払っているだろう。というのも、彼は「このマザーファッカーはクレイジーだ」とわかっていて、セシルがいつ気を変えるかわからないからである。

 あなたがこの音楽にピンこないのないのなら、私は無理に好きになれとは言わない。だが、もしこれがあなたにとって日常の糧であるならば、クール・ジャズのレコードとこれとの違いを、心の奥底ではすでにわかっているはずだ。ひとつは、煙草を吸い、特別な香りのワインを手に恋人とともにくつろぎ、あるいは笑い合いながら楽しむためのもの。だが『Flashing Spirits』のような録音は、まったく別の物語だ。それは、普通の人間が入り込むことのできない場所への入門である。まさにそのために、私は『Flashing Spirits』のようなジャズをひとつのコード(暗号)だと感じる。最初は判読不能だが、集中(そしておそらく多少の献身)をもってはじめて理解することができる。プログラミング言語や宗教的なイニシエーション(入門儀礼)と同じように。入門を果たした者たちは、この録音を持っていることの幸運を知るだろう。そしてなんてことだ、この音の素晴らしさ! ドラムとピアノは驚くほど明瞭で、まるで自分が彼らの目の前に座っているかのように感じられる。私はセシルのレコードを山ほど聴いてきたが、これは間違いなく自分のトップ10に入る作品だ。

 少しのあいだ、私の脳は問いかけていた——なぜだ? なぜこれは良いのか? なぜ私は惹きつけられているのか? いったいなぜ? そして私は再び聴きはじめた。深いリスニングを。特製のノイズキャンセリング・ヘッドフォンをつけ、街を歩きながらフレーズを拾い上げると、セシルの後継者たちを気取る新しいピアニストと、セシル自身との違いを聴き分けることができた。セシルは旋律に囲まれて育ったのだ。ゴスペル、ブルース、クラシック、その他いろいろ。旋律の中心から、セシルはカコフォニー(不協和音の奔流)を抱きしめ、そしてそれを抱きしめたとき、彼は自身に刻み込まれた旋律を一緒に連れていった。これはノイズではない。彼は若き日のすべての旋律をリミックスして、新たなチョコレートケーキへと仕立て上げ、旋律を刻んでは歪めているのだ。だから、あの狂騒と混沌を通しても、私は旋律の断片を次々と、かたまりごとに聴き取ることができる。私の母には決して聴き取れないだろうが、それでまったく構わない。

 これは録音されたのは1988年、英国での〈Outside in Festival〉、そのときセシルは58歳か59歳だった。その事実をもういちどよく考えてほしい。私は、39歳で膝や背中の痛みを口にする人びとを知っている。トニーは少し若く、およそ50歳だった。だが私は、30歳で階段を上るのにも苦労する若者を知っている。このアルバムは、その鮮烈さや旋律的な気迫や激烈さ、あるいは「ジャズ的時代精神」の体現として——ファイア・ミュージックの誕生から20年を経た後で演奏されたにもかかわらず——十分に鼓舞的であるはずだ。仮にあなたを鼓舞しないとしても、より深いリスニングと、そして何より「身体を動かすこと」の大切さを思い出させてくれるだろう。


Anticipation. Hanging on the edge of silence wondering when the person you have entrusted to go on the same journey with you will respond. More spontaneous than sex. I have only seen Cecil Taylor (b. 1929 - d.2018) once but I know that his greatest partner is silence and anticipation. Cecil, the preeminent force of nature behind free jazz or fire music or far out music or whatever you may choose to call it since 1956, spearheaded the radical movement with the piano and as band leader in abstract jazz with numerous releases under his Cecil Taylor Unit and solo performances. Cecil`s personality is known to be brash and so is his dominance on the piano making a totally unique language of melody and dissonance that is only rivaled by Sun Ra`s in its intensity.
For this particular recording, Tony Oxley (b. 1938 - d. 2023) is his focused co-partner or passenger since it is Cecil who is navigating very extraterrestrial terrain here in this 1998 duo recording titled “Flashing Spirits” (Burning Ambulance Music) released this past July. “Flashing Spirits” with its quiet release, doesn’t seem monumental but in the jazz continuum, it was. 1988 marked the beginning of Tony Oxley and Cecil’s long friendship and partnership in music. This despite each of them being highly respected innovators in their respective countries. While Cecil transformed into THE avant gardist pianist in the early 1960`s, over in the UK, Tony was evolving with the likes of Derek Bailey and many others who participated in the Company recordings and other releases put out on Incus Records (like his brilliant self named record put out in 1975) in the late 60`s onward. Like Taylor, Tony created numerous brilliant recordings so it is quite remarkable that neither shared the stage til 20 plus years after they began.

It was the summer of 1988 that Cecil took part in a month long series of concerts in Berlin, Germany at the request of the city and in being matched with Tony, fireworks were set off. On July 17th, they first performed and that initial magic was released as “Leaf Palm Hand.” “Flashing Spirits” was only 2 months later. That alone should illustrate their synergy as the pattern in music of “occasionally collaborating” is often the chosen course for left field musicians aiming to keep things fresh.
Starting from zero and slowly constructing, taking away the barriers of anticipation as the forms begin to appear, it takes nearly 2 and a half minutes before things are “going.” But “going” is a difficult word to understand in this context because there is a vicious tug of war and no consistent downbeat.
This recording is just a document and this is not classical music or heavy metal music where you know the beginning and revel in the end. This is kinetic really live music and you have be the kid sitting on the edge of his seat looking back and forth at Cecil Taylor as his hands wiz past keys and clear melodies ring ping ponging on numerous registers. Cecil is sitting but not exactly, because any new idea might make him jump. He will sneak glances at Tony but Tony is more likely to be paying attention to Cecil cause he knows “this motherfucker is crazy” and may change his mind at any minute.
If you don`t like this music then I can`t convince you. But if this is your bread and butter, then you should already know at heart the difference between a cool jazz record and this. One is for smoking and getting chill or giggly with a significant other over wine with a special scent. Recordings like “Flashing Spirits,” are a totally different story. They are initiations into places the average person cannot enter. It is because of this that I feel jazz like “Flashing Spirits” is a code. Illegible at first, it takes concentration (and maybe a little dedication) to be able to comprehend. Similar to any coding language or religious initiation. Those initiated will know they are lucky to have this recording and damn, the sound for this is gorgeous. The drums and piano are pretty freaking clear and it feels like I am sitting right in front of them. I have listened to a bunch of Cecil records but this is definitely going in my top 10.
My brain for a minute was even was asking why? Why is this good? Why am I engaged? Freaking why? And then I started re- listening. Deep listening. Walking down the street with my special noice-cancelling headphones on picking up on the phrases and I could hear the difference between new pianists that try to sit on the mantle of Cecil and Cecil himself. See Cecil grew up surrounded by melody. Gospel, blues, classical and what not. From the center of melody Cecil embraced cacophony and when he did, he took his engrained melodies with him. This isn`t noise. He is remixing all the melodies of his youth into a new chocolate cake with melodies chopped and screwed. So through the frenzy and the chaos, I still hear chunks and chunks of melodies. I am sure my mother wouldn`t but that`s just fine.
When this was recorded in 1988 at the Outside In Festival in the UK, Cecil was 58 or 59. Please read that sentence again cause I know people who are 39, talking about pains in their knees and backs. Tony was a little younger at 50 approximately. Still I know kids who have difficultly walking up stairs at 30. If this record isn`t inspiring for its vibrancy or melodic swagger or intenseness or jazz zeitgeist nature despite being performed 20 years past the birth of fire music, then it should be an inspiration to practice more deep listening and most importantly, to exercise!

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