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トータスによる約7年ぶり7作めのニュー・アルバム『ザ・カタストロフィスト』。多様な音楽性を折衷し、ひとつの時代を築きつつ20年にわたって飽くことなき実験を繰り返してきたバンドによる新作──ヨ・ラ・テンゴのジョージア・ハブリーが歌い、デヴィッド・エセックスのカヴァーまで登場する本作を“読み解く”ために聴いておきたいアルバムを約10枚ご紹介。
記念すべきファースト・アルバム。「亀」というロックバンドらしからぬ名を冠した彼らの歩みはここからはじまった。ジョン・マッケンタイアの出自であるハードコアやダグ・マッカムな叙情的なメロディが生々しくも未分化まま、乾いた熱量と共に封じ込められている。ポストパンク的ともいえるダビーな処理や電子音への耽溺に加え、サウンドのポスト・プロダクション的実験も行われており、90年代のポスト・ロックの鼓動が聴こえてくる。(D)
トータスの名を一気に広めることになった傑作セカンド。ポスト・プロダクション志向はさらに強まり、演奏と編集、編集と作曲の境界をスムーズに遡行/移行しながら、90年代のポスト・ロックの基本形を完成させた。ジャーマン・ロックや電子音楽の影響を臆さずに導入し、90年代中期のDJモード=リスナー主義的な雰囲気も象徴している。乾いたギターの音色や旋律に、グランジ以降を「生き延びてしまった」ロックの叙情性を感じる。(D)
ファースト・アルバム収録曲や95年リリースのリミックス盤、さらには初期7インチ盤などを収録したコンピレーションアルバム。ジャズ、ヒップホップ、テクノ、音響派、電子音楽、映画音楽など多種多様な音楽のショウケースといった趣で、いま聴きなおすとバンドの試行錯誤が刻印されているのがわかる。傑作セカンド・アルバムへと繋がっていくエレメントをはっきりと聴き取ることができる。スティーヴ・アルビニのリミックス曲も注目。(D)
トータス初期の歩みの集大成にして彼らの代表作。ハードディスク・レコーディングを大幅に導入し、編集と作曲の境界はさらに滑らかに。シカゴ音響派の代表格といわれる彼らだが、この作品においてストラクチャー志向にモード・チェンジしている点は重要なポイントに思える。ジャズ的なものに接近しているのは本アルバムでジェフ・パーカーが正式メンバーになった影響大か。印象的なアートワークはメンバーのジョン・エルドンの落書き。(D)
トータス史上、もっとも過激で、もっとも過剰で、もっとも怒りに満ちているアルバム。『TNT』的洗練への反動か、穏やかなムードをあえて破壊するようなノイジーなサウンドが展開されている。1曲め“Sensca”のエレクトリック・ギターはジミヘンの霊が乗り移ったかのようだし、ドラミングはハードコアの亡霊のよう。機材もハードディスク編集からアナログ機材へと回帰し、その太い音像が魅力的だ。過渡期故の過剰な魅力が本作にはある。(D)
前作が「破壊」とするなら、本作は「再生」だろうか。リラクシンなムードが漂う中、緻密に再構成させるサウンドは『TNT』を想像させるが、前作の過剰なポスト・プロダクションを経由したそのサウンドは、トータス史上、最大級に洗練されており、ストラクチャー志向であった『TNT』よりも、サウンド志向の強いアルバムともいえる。本作においてトータスは初めて演奏と音響の融合に成功したといえるのではないか。声の導入もバンド初。(D)
『イッツ・オール・アラウンド・ユー』から5年を経て発表された6枚めのアルバム(06年にボニー・プリンス・ビリーとの競演作を発表していたが)。前作がサウンドなら本作は演奏に焦点を当てたアルバムか。あるい『スタンダーズ』に内包していた過激さの再認識か。プログレッシヴ・ロックを彷彿させる叙情的でダイナミックな演奏はロック・バンド・トータスの面目躍如といった趣。以降、7年間、オリジナル・アルバムのリリースは途絶える。(D)
独人ジャーナリスト主導で、現地コーディネーターにジム・オルークと〈スリル・ジョッキー〉のベッティナを立てたオムニバス。『Eureka』と『Insignificance』の狭間にいたジム、ポスト『TNT』としての『Standards』を世に問うたばかりのトータスはもちろん、サム・プレコップ、ケン・ヴァンダーマーク、アイソトープ217など2枚組にぎっしり18組。バンディ・K・ブラウンやプルマン、トー2000など、往時を偲ばせるメンツもふくめ、(はからずも?)90年代オルタナ~ポストロック~音響万博の趣だが、過渡期ならではの多様性はいまもってまぶしい。表題は「2018年――シカゴは変わっているだろう」の意。しかし予言の年を迎える前にシーンは激変した。(松)
ジェフ・パーカーによれば「Gesceap」は「In C」を参照したとのことだが、同じライリーの「Rainbow In Curved Air」(69年)のラーガ的モードも彷彿させる。「In C」はミニマル・ミュージックの代表作のひとつで、すべてハ長調の短い53個のフレーズをモジュールに見立て、その反復と連動が楽曲を構造化する、ミニマル・ミュージックの代表曲だけあって、ロック畑にも無数に援用(ときに誤用)されてきたが、トータスはミニマルの解釈と更新において頭ひとつ抜けているようだ。(松)
英国のポップ・シンガーの、タイトル曲がビルボードでもヒットしたデビュー作。73年のUKといえば、ボウイは前年の『ジギー・スターダスト』で押しも押されもしない☆となり、ゲイリー・グリッターがチャートを席巻する、グラム全盛の潮流を見越したふしは冒頭の“Lamplight(邦題:魔法のランプ)”にうかがえるが、アメリカン・オールディーズやシングルB面のバラード“On And On”など、音楽性は幅広く、なかでも“Rock On”はつづく“Ocean Girl”と併せ、レゲエ~カリブ音楽の影響大で、幼少期のトータスの面々をとらえたのもむべなるかな。エントロピーが高まる世相のなかで、その引き算の戦略が新鮮かつセクシーだったのだろう、エセックスはのちに俳優業でそれをふるうことになる。(松)
ジェフ・パーカーのいうシカゴの即興コミュニティとコラボレートした作品とはどのようなものか。発言ではうかがい知れなかったので妄想で、このようなものだったんじゃなかろうかと導き出したのがこちら。アンソニー・ブラクストンと並ぶAACM──ジェフ・パーカーもその一員──の論客であるトロンボニスト、ルイスによる自作即興対応ソフトウェア「Voyager」とのマンマシーン・インプロヴィゼーション集。発表当時は、アカデミシャンだけあって、気宇壮大なこころみのわりにDX7的な音色のダサさに耳がいって仕方なかったが、あらためて聴くとなかなかどうして味わい深い。シンクラヴィアと同じ寝かしどきの問題か、数日前ブーレーズを聴き直したせいか?(松)
ホーボーケンの守り刀にしてUSインディの要石、ヨ・ラ・テンゴのスタジオ作13枚めのプロデュースは20年来の旧友ジョン・マッケンタイア。不変のスタンスはそのままに、しかし3年前の『Popular Songs』以上に濃縮した曲ごとの旨味をジョンマケのツボを押さえた音づくりがひきたてる。ほんのりサイケかつアシッドな風味はジョージアがヴォーカルをとった“Yonder Blue”に3年越しにフィードバックしていくかのよう。ジェフ・パーカーが2曲めで弦アレンジを担当。ロブ・マズレクらの参加も色どりを添えている。(松)
そのロブとチャド・テイラーによるシカゴ・アンダーグラウンドのデュオ名義は7作目にあたる最新作で電子音と即興によるこれまでの鋭角的な作風から新世代のジャズを念頭に置いたそれに舵を切った。ボウイの遺作への参加でときのひとになっ(てしまっ)たマーク・ジュリアナのように、抽象と抑制より具体と饒舌を前に、エチオピアン・ジャズやらIDMやらをおりこみながら『ザ・カタストロフィスト』に通ずる音色でコンパクトかつグルーヴィに攻める、なんと巧みで聡明なひとたちであることか。(松)
10年、いや15年前まではマニアックな音盤を手に入れるなら、幸運を祈るか大枚をはたくしかなかった。発掘音源であれ再発であれ、純粋な新作であっても、極端にリスナーのすくない音盤はリリースされた瞬間から残部僅少で、しかるべき筋にあたるか足で稼ぐしかない。電子音楽や実験音楽、アングラなジャズ、ロック、異形のポップ、カルトスターたちの奇盤、珍盤、廃盤、海賊盤はよくないけども、売り切れは彼らとの永遠の別れを意味し、買おうにも刷り部数が3桁以内なら、プレス工場から好事家の棚に直行するようなものであり、あとはディーラーとコレクターの独壇場、ビギナーにとっては焼け野原である。音楽が骨董あつかいされることへの呪いにちかい批判は本稿後半でおこなうとして、そのまえに、私は本媒体がたちあがって日もあさいころだから、4、5数年前になるが、コラムでフルクサスについて連続して書いたとき、次はヘンリー・フリントかワルテル・マルケッティにしよと思った。思ったまま、放置してしまったのはひとえに私の不徳のいたすところだが、そもそもそう考えたのは、彼らはこの手のひとにしては比較的まとまった数の作品があったからである。
「2004年2月26日、63歳のヴァイオリニストで、作曲家、哲学者、作家のヘンリー・フリントが珍しくラジオ番組に出演した。それは、ラジオ番組の司会者で、詩人、そしてオンライン・アーカイヴのサイトUbuWebの創設者のケニー・G(スムースジャズのスターではない方の)——本名ケネス・ゴールドスミス——のゲスト出演者としてだった」
デイヴィッド・グラブスは著書『レコードは風景をだいなしにする ジョン・ケージと録音物たち』の「はじめに」「序章」につづく第1章「ラジオから流れるヘンリー・フリント」をこのように書きおこす。本文はつづけて、この放送を聞き逃したとしても、ご心配にはおよびません。というのも、番組の音源はそこで流した曲のリストとともにUbuWebに3時間におよぶMP3ファイルとしてアップしてあるからだ、とつづく。グラブスにしたがってUbuWebのフリントのページを開くと、いちばん下に番組の音源がのこっており、クリックすると老境にさしかかったフリントの声がいまも聴ける、いつでも聴ける。来年でも再来年も、再来年のつぎをどういうかは知らないが、そこでも、UbuWebが存在し、全面的なコンテンツの見直しでもないかぎり未来永劫聴くことができる。
つくづくいい時代になった。私だけでなくだれもがそう思うにちがいない。喫茶店や会議室で、ウィットに富んだ会話を交わしながら知らない名称やトピックをPCやスマホで検索する輩にはなおのことそうだろう。もっとも、ひとがしゃべっているときに画面を見るのはおよしなさい。
ところがこれには注意が必要だ。あなたのいま聴いているフリントのインタヴュー音源はすでに十年前の出来事なのである。
グラブスは録音物が宿命的に帯びる反復聴取とそこに積もる時間の経過、交換可能な商品としての録音物、それと録音の差異、ひいては音を録る行為そのもの、フィジカルからデジタルにいたるメディア(媒体)の変遷史およびそれが録音物にあたえた(る)影響を、彼のはじめての本で丹念にたどっていく。伴奏者はジョン・ケージ。ケージをめぐる本は地球上に無数にあるが、彼の音楽が内在的に必然的にはらむ問題の系を更新するともにあらたに提起する野心的なとりくみで本書はとりわけ重要である。
まず、レコードからデジタルへメディアがきりかわり、よりハイファイに音楽を聴く環境が整ったことをグラブスは評価する、これには目をみはった。というのも、私たちはアナログとデジタルではアナログに軍配をあげるのが粋な通人と考えがちだからである。むろん私もその一派で、長年レコードの音のまろやかさと芯の太さこそ音楽を聴く悦びと思い生きていた。グラブスの問題提起を要約するとこうなる。モートン・フェルドマンのような「まばらで抑制的な」しかも長時間およぶ楽曲を再生するには、収録時間が長く原理的にノイズのない再生環境が適している。そのほうが作曲者の意図──を汲んだ演奏者の意図──によりちかい。私たちはフェルドマンをメタリカなみの音量で聴くこともできるし逆もまたしかり。リスナー主導型の聴取スタイルはレコードを歴史と作者の思惑から切り離し、個々人の用途に奉仕する方向へうながしたが、音楽の誕生当時の狙いを精確に再現するには分解能やSN比も視野に入れるべきではないか。「Play Loud」の但し書きのあるレコードはいっぱいあっても「Play Quiet」と書き添えたものはほとんどみない。これはつまり、レコードを聴くとはいうまでもなく「集中的聴取」であるからか、あるいは、音楽は音のおりなす美学であるため、無音ないし微音、雑音は音楽にあたらない。どうも後者である気がしてならない。でなければ、代々木オフサイト、ヴァンデルヴァイサー楽派が21世紀に存在感を示した理由がない。グラブスは本書でおもに20世紀音楽を論じているが、音響以後の2000年代の傾向は1950年代(「4分33秒」の初演は1952年、チュードアの手になる)に端を発し、60年代を通じてテクノロジーとの相関で避けて通れないものになったと言外ににじませている。
音楽と音はおなじなのかちがうのか、ちがうならどうちがうのか。
ケージのたてた沈黙の問いを二項対立で解こうとするからおかしなことになる。おなじく音楽と音を峻別し、それぞれに個別にあたるのも無効である。前者を社会学者的(な広く浅い)知見、後者を専門家的(狭く深い)それとするなら、結局どちらも無難にならざるをえない。『別冊ele-king』第4号での岸野雄一の「ケージの理論はケージにしか使えない(中略)ケージの理論を援用して実現された音楽も、ケージの理論を援用して他の音楽を繙こうとした批評も、面白いと思ったものはひとつもない」という発言の行間にはおそらくそのような問題意識が横たわっている。ケージでもベンヤミンでもマクルーハンでもリオタールでもいい、彼らのことばのキャッチーなところだけとりだして見出しでわかった気にならないことだ。そもそもわかるとはなにがわかるのか。わかるとは思考停止のいいかえにすぎないのではないか。私たちは引用を相田みつをめいた手ごろな箴言ととらえるのではなく、自身の文脈にムリに沿わせるのではなく、そこにできた外部の嵌入する裂け目ととらえなければ断片はたやすく情報に堕す。音楽と音も似た関係にあり、両者の截然と区別できず、不断に嵌入し合う状態をケージは作曲であらためて耳に聞こえるものにしたかったのではないか。たとえ沈黙の側についたにしても、沈黙の底から躁がしさが沸きあがってくる、と古井由吉が書きそうな耳のありかた。ケージは鈴木大拙からそれをうけとり、おそらく折衷的なやりかたで彼の作曲の方法の一部とした。
そんなある日、私はレコード屋でアルバイトしていると午前中で人気のない店内にひとりの女性客があらわれた。レジに立ち慣れると、お客さんがなにを求めやってきたか、年恰好、立ち居ふるまいでわかるようになるのは不思議である。私はああこの妙齢の女性は購入された商品に不備があったんだな、と直感した。眉間のシワがけわしい。案の定、妙齢の女性は陳列棚のCDに目もくれず一直線に私のほうへ歩み寄ってこういった。
「不良品なので交換してください」といって妙齢の女性はCDをさしだした。もうしおくれたが、これは90年代なかごろの話です。Jポップの呼称が定着し猫の杓子もCDを買った音楽業界の方々の夢の時代のことだ。
わかりました、と私はいった。確認します。といっても、ご覧にとおり、店内にはバイトの私以外、だれもいない。社員と先輩バイトは客がいないのをいいことにウラで一服しているのだろう。音楽に携わる人間はスロースターターなのだ。レジを空けるわけにもいかない。仕方なく私は店内放送用のプレイヤーにCDをいれた。どういった不備でしょうか、と私は訊いた。ノイズが聞こえるんです、と妙齢の女性は答えた。何曲めですか。1曲めです。
わかりました。かけてみると、ヒップホップに影響を受けたミドルテンポのファンキーなトラックがかっこいいディーヴァもののJポップ(どうしてもだれのCDだったか思い出せない)、90年代はこういった音楽がハシカのごとくはやったが、私と妙齢の女性はそのグルーヴに身じろぎもしない。ありましたでしょ、と妙齢の女性はいう。私はまったくわからない。もう一度頭からかける。30秒も経たず、妙齢の女性はやっぱりありましたね、という。Aメロから先にいけない。何度かけても聞こえるんですよ、と妙齢の女性がぷりぷりするぶん、私はへどもどする。ハードコアやノイズの聴きすぎで耳がバカになったのだろうか、と焦った。もうしわけありませんが、ノイズが聞こえた時点で教えていただけますか、と私はお願いした。3度めにかけるやいなや妙齢の女性は天上のスピーカーを指さした。ここです! その仕草に、私は仏陀が生まれてすぐ天を指して「天上天下唯我独尊」といった姿をかさねてひれふしそうになった。
──いわれてみればたしかにそうだ。ノイズである。レコードの針音のサンプリングが数秒間。CDなのにあたかもターンテーブルでかけているような錯覚、というより記号が喚起するものを狙ったプロデュース・ワークであるが、彼女はそれをノイズととらえた。私は彼女に、これはこれこれこういった意図の音楽上の演出なのでほかの商品にもかならずはいっています、と説明しおひきとり願ったが、内心おどろいた。そしてそのおどろきの意味するところは『レコードは風景をだいなしにする』を読むと前と後ではちがったものになった。彼女はCDというノイズのない媒体の特性を前景化し、私は音楽をいわゆる文脈で聴いた。テクノロジーと音楽の歴史がそこで交錯する。どちらが上か下ではない。
ケージの著書『サイレンス』所収の「無についてのレクチャー」の最後にこうある。「テキサス出身の/女性は言った/テキサスには/音楽がない/テキサスに音楽が/ない理由は/テキサスにレコードがあるから/テキサスにレコードをなくそう/そうすればみんな歌いだす」これは『レコードは風景をだいなしにする』の第5章「テキサスからレコードをなくせ」冒頭に引用されている(引用は同書より)。以上の文の前にケージは以下の文を置いた。
「中国の青銅製品/なんていいんだろう/だがこの美しい品々は/他人が/作ったものであり/所有欲を/かき立てがちだが/私は自分が何も/所有していないのを/知っている/レコード収集/それは音楽ではない/蓄音機/は楽器ではなく/ひとつの/ものである/ものは別のものにつながるが/楽器は/無に/つながっている(中略)それに/LPレコード/ですら/ものなのだ」(ジョン・ケージ『サイレンス』水声社/p222〜22 引用にあたり約物を省き、アキと改行を「/」であらわした)
のちにケージみずから「Indeterminacy(不確定性)」にももちいたこの一文がこの本の通奏低音になっていることは火をみるよりあきらかである。くりかえしになるが、グラブスはレコードによる音楽の反復聴取、所有と共有、さらに音楽を録ることそのものに彼の思考は遡行する。レコードと磁気テープ(ハードディスクといいかえてもいい)の差異、プリントと写真機のちがい、あるいはバルトいうところの「プンクトゥム」、映像とそこに映るもの──他分野との類比にはさらにつっこんだ考察も必要だろう(とくにラカンを掠めるのは感心しない)が、リュク・フェラーリ、ベイリーとAMMとコーネリアス・カーデューなどなど、すでに半世紀とはいわないまでもそれほど前の先達の作品から今日的な問題を剔出する語り口は闊達で鋭く、ユーモアも忘れない(荘子の無用の用のくだりなど、わが身につまされました)。グラブスが研究者であるとともに類い稀な音楽家であることの裏書きではあるが、となると、彼が音楽家として身を立てた90年代、とくにポスロック〜音響の季節以後にこれらの問題はさらにどのような変遷を経て現在にいたるのか、彼の考えを読んでみたくなるのは人情というものだろう。それまで、私たちは本書を読み、そこに登場する作品を聴き考える猶予ができる。さいわいなことに専門店で清水の舞台から飛び降りなくともそれらの音楽にふれるためのトバ口に立てるのが21世紀だと、グラブスもいっている。それほどこの本は現在的であり、くりかえすが、きわめて野心的なこころみである。
追記:
と書いたところで、デイヴィッド・グラブスさんが来日されると知りました。やったね! 彼のCDと本を片手にかけつけましょう!
■David Grubbs Japan Tour 2016
2016年1月17日(日) ※終了しています
神戸・塩屋 旧グッゲンハイム邸(https://www.nedogu.com)
〒655-0872 兵庫県神戸市垂水区塩屋町3丁目5−17 tel:078-220-3924
open 17:00/start 17:30
前売り:3,000円/当日:3,500円(with 1 drink order)
出演:デイヴィッド・グラブス、大野雅彦(from ソルマニア)
1月18日(月)※終了しています
名古屋 K.D.ハポン(https://www2.odn.ne.jp/kdjapon)
〒460-0012 愛知県名古屋市中区千代田5丁目12-7 tel:052-251-0324
open:19:00/start:19:30
前売り:2,800円/当日:3,200円(with 1 drink order)
出演:デイヴィッド・グラブス、中尾勘二トリオ(中尾勘二、古池寿浩、宇波拓)
1月22日(金)
東京・代々木上原 ムジカーザ(https://www.musicasa.co.jp)
〒151-0066 東京都渋谷区西原3丁目33-1
open:18:00/start:18:30
前売り:3,000円/当日:3,500円
出演:デイヴィッド・グラブス、ホンタテドリ(宇波拓、佳村萠、秋山徹次)
1月23日(土)
東京・吉祥寺 キチム(https://www.kichimu.la)
〒180-0004 東京都武蔵野市 吉祥寺本町2丁目14−7
open:18:30/start:19:00
前売り:3,000円/当日:3,500円
出演:デイヴィッド・グラブス、oono yuuki
トーク・ゲスト:細馬宏通(from かえる目)
※詳細は以下よりご確認ください
https://mapup.net/wp/2015/12/david-grubbs-japan-tour-2016/
企画制作:map 招聘:Ourworks 協力:hibari music、filmart
カニエ・ウェストがサウンドクラウド・ページに、ケンドリック・ラマーとの初コラボレーション曲、“NO MORE PARTIES IN L.A.”を公開した。英紙『ガーディアン』によれば、サンプリングの元ネタは、ジュニー・モリソンの“Suzie Thundertussy”。また同紙には、曲中のケンドリック・ラマーが歌うリリックが抜粋されている。
“Liquor pouring and niggas swarming your section with erection / Smoke in every direction, middle finger pedestrians / R&B singers and lesbians, rappers and managers / Music and iPhone cameras.”
KANYE WEST×KENDRICK LAMER – “NO MORE PARTIES IN L.A.”
なお、カニエ・ウエストは2月11日にニュー・アルバム『Swish』のリリースを控えている。
実験の旗色が悪いのか。前衛は死んだのか。あの死なないはずの、もしくは何度も死んでも蘇生したはずのピエール・ブーレーズも死んでしまった。前衛音楽も、実験音楽も、とうの昔に20世紀のフォルダに入れられてしまってわけで、マニアの蒐集欲を満たすブツ=盤としてフェティッシュな欲望の対象になってしまったのだろうか。むろんこれはこれで悪くない倒錯だ。私も大好きな倒錯である。
では、実験音楽も前衛音楽も死んだ、というかゾンビ化した21世紀において、音楽における実験的な試みそのものも無効化したというのだろうか? いや、そうではないだろう。そもそも音楽とは終わることなき音の実験ではないか。20世紀が終わっても音楽が音楽である限り実験は終わらない。実験とは生の証である。ならば、もっとカジュアルに、もっとクールに、もっとモダンに、もっとモードに、音の実験をすればいい。モダン・モード・エクスペリメンタル。
そして昨今の音楽的潮流において、そのようなモダンでモードなエクスペリメンタル・ミュージックは極めて重要な存在になっている。ベルギーの実験音楽/サウンド・アート・レーベル〈アントラクト(Entr’acte)〉はその代表格だろう。〈アントラクト〉はグラフィック・デザイナーでもあるアロン・ケイ(Allon Kaye)が主宰するレーベルで00年代から活動を続けている。もはや中堅といってもいいレーベル・キャリアだが、白地+色の新しいアートワーク・フォーマットやヴォイナル・リリースなどを導入して以降は、ノイジーな実験音楽のクラブ的展開という新しい領域へとその活動を拡張しつつある。じじつ、昨年リリースした、イマジナリー・フォーシズ(Imaginary Forces)、ガイ・バーキン&サン・ハマー(Guy Birkin & Sun Hammer)、カイル・ブラックマン(Kyle Bruckmann)などのアルバムは、エクスペリメンタルとロウなテクノをリンクさせた素晴らしいアルバムであった。
そんな〈アントラクト〉から、イゾルデ・タッチの新作がリリースされた。彼女は南カルフォルニアを拠点として活動をしているアーティストである。イゾルデ・タッチ名義では〈ファーザー・レコード(Further Records)〉からアルバムを発表しており、本作は2作めに当たる。また本名アーシャ・セシャドリ(Asha Sheshadr)名義では、〈グリッド・コンプレックス(Gryd Complex)〉や〈ジギタリス(Digitalis Limited)〉などから作品をリリースしている。
この〈アントラクト〉という、いまもっとも重要なエクスペ・レーベルからのリリースは彼女に大きな飛躍をもたらすのではないかと思う。じじつ本作はとてもユニークな作品に仕上がっているのだ。どの楽曲も、霞んだ音ならではの、美しくも儚い美が生成されている。アルバム1曲め“スタンダード・デヴィエーション(Standard Deviation)”から、その美的感覚は十分に表出している。クラシカルなピアノのループに、硬い電子ノイズに、ダブィなベース、キックの音、彼女自身と思われる声が、真っ白な空間に漂流する粒子のように交錯していくのだ。
個人的には2曲め“パセティック・マシン(Pathetic Machine)”、3曲め“スカルペルス(Scalpels)”、4曲め“PVCバーン(PVC Burn)”などに聴かれるビートの音色=テクスチャーに注目したい。柔らかい声の層に、崩れ落ちていくかのようなインダストリアル・ビートが融合し、崩壊直前の美を聴き手に与えてくれるのだ。この感覚は極めて独特である。
また、どの楽曲においても(彼女の)「声」と「ノイズ」によって極めて独特なアンビエント/アンビエンスな感覚が生成している点も重要だ。この宗教歌曲的/賛美歌的ともいえるクラシカルなアンビエンスは、2010年代以降のドローン/アンビエントを経由した新世代ならではの響きではないかと思う。私見だが、カラリス・カヴァデール(KARA-LIS COVERDALE)のアンビエント作品との近似性も感じられた。
それにしても2015年において、〈アントラクト〉はついに頭ひとつ上に突き抜けた。ノイジーなサウンドを伴ったエクスペリメンタル・ミュージックでありながら崩壊したようなテクノ・ビートやループも混入されており、00年代の電子音響や10年代初頭のインダストリアル/テクノ「以降」を感じさせる作品を多数リリースしたのだ。とても新しく、モダンなレーベルへと刷新したように思えてならない。
新年早々〈アントラクト〉のサイトでは、2016年最初のカタログがアナウンスされていた。主宰アロン・ケイの審美眼(耳)はますます冴え渡っているといっていい。今年も刺激的で、クールで、エクスペリメンタルで、モダン/モードな作品をリリースしてくれることだろう。
インディ・シーン、ひいてはクラブ・シーンでも世界的にその存在感を強く示しているバンドJesse Ruins。彼ら新曲とリミックスの合計6曲をコンパイルした『EVE』が3月11日に発売される予定だ。フォーマットは12インチ(枚数限定)とバンドキャンプでのデータ配信になる模様。
ダイナミックでときに抑制されたリズムと、緻密にコントロールされた数多の音から最後まで目が離せない。目隠しの状態で聴けば、この音楽がベルリンで、またはNYアンダーグラウンドで生まれたと思うリスナーもいるだろう。どんなシーンにもコネクトできる可能性を内包しつつも、実態が掴めないサウンド。実にJesse Ruinsらしい1枚だ。
リミキサー陣には〈1080P〉などのカセットテープ・レーベルからリリースしているTlaotlon、東京若手テクノ・コミュニティIN HAにも所属するRafto、謎のルーキー・デュオSuburban Musikらが参加。幽玄でロウなテクノ・サウンドから、ときにダビーな側面も噴出する個性溢れたリミックスに仕上がっている。できることならターンテーブルを使い、心して向き合いたい6曲だ。
Jesse Ruins - EVE – Teaser
Jesse Ruins
“EVE”
税込定価 2500円
<収録曲>
A side
1, Eve Liquid
2, Wet King
3, Mineral
B side
1, Mineral (Tlaotlon Remix)
2, Mineral (Rafto Remix)
3, Eat A Holy Monitor (Suburban Musik -Suburban Boys RMX)
予約受付はこちらで受付中
Jesse Ruins Bandcamp
MAGNIPH store
Jesse Ruins
https://jesseruins.com/
擬装チェンバー・ポップの傑作『Ansiktet』(Inpartmaint)以後、ピアノ・カルテットを結成し、このところ弦楽曲に注力してきた渡邊琢磨(akaコンボピアノ)が、本媒体でも何度かとりあげた気鋭の映像作家、牧野貴とタッグを組み、「Origin Of The Dream(夢の起源)」と題した音と映像によるステージを渋谷WWWで初演する。具体的なイメージを重層化し、縦横無尽に運動させる牧野の映像と、古今東西の弦楽曲の批評的乗り越えを目する渡邊琢磨のスコアにもとづく13台の弦楽器の52本のストリングスが織りなすドラマの交錯は、逃れることのできないほど官能的な、夢の起源(Origin Of The Dreams)を思わせる舞台になることうけあいです!

写真:Yasuhiro Koyama

写真:Ryo MItamura
渡邊琢磨 × 牧野貴 Live Concert
'Origin Of The Dreams'
2016年3月17日(木)
渋谷WWW
開場20:00/開演20:30
映像:牧野貴
音楽:渡邊琢磨
Piano,Conduct : 渡邊琢磨
1st Violin : 梶谷裕子、大嶋世菜、高橋暁
2nd Violin : 須原杏、帆足彩、波多野敦子
Viola : 中島久美、中山綾、河村泉
Cello : 徳澤青弦、橋本歩
Double Bass : 鈴木正人、千葉広樹
料金:3,300円(全席自由/ドリンク代別)
会場:渋谷WWW
住所:東京都渋谷区宇田川町13-17 ライズビル地下
アクセス:https://www-shibuya.jp/access/
お問い合わせ:WWW 03-5458-7685
チケット購入ページURL(パソコン/スマートフォン/携帯共通)
https://sort.eplus.jp/sys/T1U14P0010843P006001P002179310P0030001
牧野貴(映画作家)
2001年日大芸術学部映画学科撮影・現像コース卒業後、単独で渡英、ブラザーズ・クエイに師事する。2002年よりテレシネ・カラーリストとして多くの劇映画、ミュージックビデオ、CF、アーカイブの色彩調整を担当する傍ら、2004年より単独上映会を開始する。フィルム、ヴィデオを駆使した、実験的要素の極めて高い、濃密な抽象性を持ちながらも、鑑賞者に物語を感じさせる有機的な映画を制作している。また、ジム・オルーク、ローレンス・イングリッシュ、コリーン、マシネファブリーク、大友良英、山本精一、渡邊琢磨、カール・ストーン、タラ・ジェイン・オニール、イ・オッキョン等の前衛音楽家と共同作業においても、世界的に高い評価を獲得している。2009年には上映組織「+」プラスを立ち上げ、今まで日本に紹介される事の無かった映画作品を多数上映している。2011年よりエクスパンデッドシネマプロジェクトを開始、ヨーロッパ、北米、南米、オーストラリア、アジア等数多くの国際映画祭で受賞、上映多数。作品の発表は主に映画祭、映像芸術祭、音楽祭などの他、映画館、美術館やギャラリー、ライブハウスでも行い、その活躍の場は増幅を続けている。現代日本実験映像界を率先する作家である。https://makinotakashi.net/
渡邊琢磨(作曲、ピアノ)
97年、米バークリー音楽大学で作曲を学ぶ。帰国後、「COMBOPIANO」名義で活動を開始。2000年、NYに渡り鬼才プロデューサー、キップ・ハンラハンとの共同制作でアルバムを次々とリリースし注目を集める(英、音楽専門誌「WIRE」などに取上げられる)以降、国内外のアーティストと多岐に渡り音楽制作活動を行う。2004年、内田也哉子、鈴木正人(little Creatures)と、「sighboat」を結成(サマーソニック'10出演ほか)。2007年、デヴィッド・シルヴィアンのワールドツアー18カ国30公演にピアニストとして参加。2008年、内橋和久(gt)、千住宗臣(ds)とCOMBOPIANOをバンドとして再編(フジロックフェスティバル'09出演ほか)2014年、本人名義としては6年ぶりとなるアルバム『Ansiktet』をリリース。同年、本人主宰による室内楽アンサンブル「Piano Quintet」を結成(アラバキロックフェスティバル'15出演ほか)映画音楽、CM、舞台等、多岐に渡り楽曲制作・提供する。https://www.takumawatanabe.com/
正直、東京(ま、西側っすね)に30年以上住んでいても、いまだに東京人というアインディティティを持てないんですよね。まったくピンと来ない。で、ぼく(=野田)のように、たまたま仕方なくここに住んでいる人が、ぼくのまわりには多い。家賃は高いし、次から次へと再開発されるし、味気ない街ばかりだし、クラブも中心地ばっかだし、歩くの早いし、自動車うるさいし、恐いし、世界のいくつかに都市を見てきたけれど、これほどコミュニティが形成しづらい都市もなかなかないと思う。大声で「東京」っていうのが、いまだに違和感があるっす。
御大、都築響一と平井玄が「東京」をめぐって対談する。果たして「リアルな東京」とはどこか?
1月22日(金)19時開場/19時30分開始
第3回「街から」トークライヴ
TOKYO 右なのか? 左なのか?
都築響一と平井玄が首都の臍の下、新宿二丁目でガチンコ対決する!
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入場無料(但しワンドリンクオーダー)投げ銭制
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「マスコミが垂れ流す美しき日本空間のイメージで、なにも知らない外国人を騙すのはもうやめにしましょう」(『TOKYO STYLE』)と言ってデビューした都築響一。麴町育ちの彼は20年を経て『東京右半分』をものした。隅田川西岸しか知らない平井玄は、去年『ぐにゃり東京』で「神は街の底に宿る」とのたまわった。垂れ流しの怪しいオリンピックが迫る
東京の「リアル」は右か、左か。はたまた・・・・・どこに?
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主催:街からトークライブ実行委員会 03-6638-6685
「街から」誌:https://www.machikara.net/
https://cafelavanderia.blogspot.jp

何時ごろだったんだろう。おぼえが凪いでは遠くけだるげに薄靄へとまぎれこみ、ぼくはといえばおおかた放心していた。おどろくほど菫がかった濃い空にも、次第しだいに暗がりが満ちてくる頃合いではあったのだけれど。時計で時刻をたしかめるたんびに吐息のような軽い失望。刻限なんですって、でもなんの? かならずしも視界は良くない。墨版ヲ抜イタノハ誰カ? やがてはついえ、なんにもかにもなくなってしまうよりかはほんの、ほんに少ぅしだけ手前、市営バスなら停留所から次のんまでのちょっきり真ん中らへん。うろついてた猫が流し目くれながらわざとらしく目の前を横切り、ラジオはありきたりな軽音楽を鳴らしていた。不思議なほど眠くはなかった。ねむたくないのならでも、ただただ、だからこそ、いつもながらの夕くれどきだった。
と、音楽が不自然にやや遠のいて、雑音ともなんとも、だけどさっきまでのジョッキーとはあきらかにちがう、なんだよ、これ。胸騒ぎよろしくときめいては、壊れた信号機さながら三原色に瞬く電波に乗って、揺れながらもなお近づいてくるなんて。囁くような波動のこれって「こえ」?
子どもたちを 夢中にさせて
子どもたちを、めざめさせて
子どもたちみんなに ブギーを
たったの一度っきりしかない恩寵というものがある。あとにも先にも二度とはおこりえない。ただいっぺんこっきりの僥倖。
ぼくにもそれは訪れた。
テレビから来た。え、TV? そうテレビ! 木枯らしモンローや無用の介あたりを最後に殆ど省みられることもなくなっていたブラウン管。ウルトラQもプリズナーNo.6もゲバゲバ90分もとっくに終わってしまってて、腐った夕方の奇妙な吹き替え洋画(J・ロージーBOOM! 『昼顔』、エリオ・ペトリ!)か再放送のマグマ大使(お母さんが人間モドキに! だのに江木俊夫は三色ロッテの半ズボン!)あるいは記憶もいくらか前後してるか。
でもその、陳腐化はなはだしかったはずの四角い箱から、うそじゃないけどうそみたいな、そいつは、ほんとうに来たんだ。
1980 Floor Show。
ビデオなんてあるわけない。大急ぎで受像機の前に、でっかいテープレコーダーを据えてテレビのボリュームをあげる。ジャックなんか差し込んじゃったらこんどは音がきこえないだろう。日本全国でこの夜、いったいどれだけたくさんの少年少女が同じように、つかわないコンセントをこっそり抜いて、レコーダーに付け変えてしまっていたことか。人差し指を口の前に立てて「いいからあっち行っとけってば」騒ぎたて煩い弟や妹を遠ざける、シーってあんた、“China Girl”なんかまだ2年は先だよ。
なんとも幼稚な、ぶざまで、おまけに、なんてイノセントな15才。どんなにロックに飢えていたろう。なんと渇き、餓えていたことか。
その前年には神戸に、船で(!)来日したボウイのライヴにも行っているというのに。因果にも疑り深い日本人は、でも目が悪いのと、巨大ホールでの演出に疎外感というより、周囲の観客の目が気になってたのかも。慣れてないから。すべて想いおこせばJUN ROPEのCMが入っていたよなあ。国営放送とおもいこんでいたのはきっと“Starman”のせいだ。大阪でNHKは2チャン(ネル)だったから。
♭ たまらなく 誰かに知らせたくなって
電話したんだ 知らせなきゃってね
遠いけど ほら、きこえるよね?
TVにだって映ってるじゃないか!
チャンネルは2だ 回してごらん
窓からだって見えてる あれって?
あの光が「彼」だよね もしか
ぼくらが合図したら 来たりしてね
この地上に? まさか でも
パパたちにはないしょだよ だって
バレたらぼくら さらわれちゃうかも
(連れてって欲しいくせに……!)
「1980 Floor Show」を見たのは家のテレビでだった。ほんとうに偶然だった。生放送だったのかって、あんたね、文脈読み違えるのもたいがいにしておくれでないかって、李礼仙かっちゅうねん。だれが少女仮面やねん、だれが薪能で大鶴義丹やねん。“All You Need Is Love”ちゃうちゅうねん。
やれ魂が揺サブラレただの、あたまの中心までズドンって撃ちこまれたみたいだったのって、けっして、そう、けっして、
誓ってそんな、なまやさしいものではなかった。
使い古され、たとえ究極の名言ではあっても最近、使用過多かもしれなくてもやはり、言明する義務はある。すなわち、
マルクスのいう「命がけの飛躍」がそこにはあった。
すくなくともあの日、「あれ」を見た瞬間からわたしは、後戻りすることなどできなくなってしまったのだ。厳然たる事実だ。然るにこのていたらく……なのかもしれない。反省なんか…、いや反省くらいふつうにいくらでもするし、ただ、再び同じ繰り返しが訪れたら躊躇無くまた、おんなじ轍を必ず踏んでやる、というだけだ。ミック・ロンソン(死んでる)のソロでボウイ(死んじゃいました)が歌った“Like A Rolling Stone”聞いてるか。かつて間章(死んだ)はパリの本屋の店先で、モーリス・ブランショ(故人)の新刊の題名が「友愛」なのを見て、人目もはばからず街中で泣いた。ぼくだってめっきり涙を流さなくなって久しいけど、いや泣くのはECDに譲るとしよう。わたしには別の主題がある。とうてい一代では終われないし終わるつもりもない。1回だけで追悼しきれるものではない。
誰にとって? ぼくに、わたしに、ボウイに、オレに、やつがれに、拙者に、自分に、みどもに、おいらに、ミーに、ハルミにとって、ああ。
絶対に「決定的」で、だからこそ……、
じじつぼくはいまだに、打ちのめされたそっから一歩も、立ち直れてさえいない。
さて、年寄りになればなるほど懐古趣味高じては時代環境も背景も顧みずに、昔日を美化しては頑固に言い張り言い募る傾向が、ある。あるね、じつによく。とはいえこの「1980 Floor Show」のビデオも売ってたけど。買って、そして見たけど。
それで?
おまえな、『迫力ありますね』とか心にもないこと言うなや。あほにおもわれるで。ええ? オレが傷ついたりするかいな、知ってるか? KINKI KIDSの“硝子の少年”って、ゲイやらオカマに人気あんの。むろんのこと時間などあるはずもないし、猶予などあろうはずもない。お金はどうだろうか、わからない。
ぼくには、ついにわきまえられそうにもない。「どうしてモロッコ行きを繰り返すんですか?」ときいてくる人までいる。つまり、この2016年にデヴィッド・ボウイを、ぼくが追悼することは、かつてのぼくがある種の、へんな嫌われかたをしたのはなぜか、というのに通底はするにちがいない。
それは「かっこいい」と「かっこわるい」
の二元論、姫と坊主、美女と野獣…ではなしに、いいやそれだけじゃない以上、次回に回そう。それにしたって、
もしもわたしが死んだら、そしてお葬式まで出すことになったとしたら、まずはAlladine Saneで、出迎えて欲しい。それといまひとつ、“Time”の中の「We Should Be On By Now」について、
「わたしたちは 間に合ってっているはずだのに」と、
それと、Ryco盤CDの『LOW』のボーナス最後の「サウンドアンドヴィジョン」途中からのノイズが、空襲に聞こえるのはわたしだけ?
京都にいたんだ。
だいたい現代音楽家が不摂生だからこんな羽目に陥るんだ。ピエール・ブーレーズがあとさきも考えずよりによって正月明けなんかに死んじまうもんだから。知らんぷり決めこもうにも、ふくれっつらした切手貼る用のスポンジが水を含んでなきゃ意味を為しえないようにね。言い過ぎだわ、いくつだって思ってるの? かくてそんなようにして、体内に蓄電されすぎた真冬の人の手が、深い毛のふさふさした猫をなぜたりなんかしたら。電気掃除機のでっかくて意味のわからない、ほんのちょっぴり触れるだけで、わざとらしくぱちぱちとはぜる。そうよそれ。静電気が摩擦熱のあおりくらって、おかげで狂った予定の歯車は留めゴムが一方的に勝手にのび、のびのびとエントロピーの羽根をひろげはじめてしまう。空腹なのに繕いごとに余念がなくなってしまっては間にあわない。しっちゃかめっちゃかな徹夜続きのまま新幹線に飛び乗るのがやっとというこんなありさまじゃねぇ。掛けた目覚ましに跳ね起きて眠たい目をこすりながら、五条烏丸にほど近いゲストハウスまで。なんて立派な2階建ての、木造のでもしんしんとなんて冷えるのかしら。昼の日なかからひたひたと飲み続けたあげく22時もまわって京阪の駅地下にあるクラブ「メトロ」に。31才で夭逝したアシッド・フォーク歌手(山田仁というらしい)の没後十年記念オールナイトのギグ。友川(カズキ)さんと……。
以下、後段に続く
文:山崎春美
デトロイト・テクノは、複数の位相において起点となり、価値観を更新したという意味において、ターニング・ポイントであり、ビッグバン(はじまり)だった。都市のレポートとしての音楽、都市という牢獄から脱出する術としてのベッドルーム・テクノ、ヨーロッパとアフリカの衝突、ポスト・ブラック・ナショナリズム……、ある意味ではより民主主義的なインディ・シーン、いち個人いちレーベルの現代の先駆けでもあった。
クラフトワークは理解できても「エイフェックス・ツインの音楽はどうしてもわからん」という御人はいまも少なくなく、しかし、その“てんで話にならない”音楽は、この30年間で膨張し、がっつりとひとつの価値体系をモノにしている。その契機となったのが、デトロイト・テクノだ(現代ではさらに新たな価値体系が生まれつつあることは、OPNを聴いている人はうすうす感じているだろうけど、しかしそれはダンス・ミュージックではない)。
とにかく、「これ普通やらないだろ」というときの「普通」に囚われない自由さを、技術よりも先立つものの重要さを「黒い」と表現できるなら、それはエレクトロニック・ミュージックにおけるビバップだったとも言えよう。
あるいはまた、ホアン・アトキンスがエレクトロ、デリック・メイがハウス、URがファンク……と喩えるなら、カイル・ホールのセカンド・アルバムはジャズだ。ジャズのセンスが色を添えている。デトロイトの音楽一家出身で、叔父が高名なジャズ・ピアニストのローランド・ハナ、叔母もミュージシャン(ヴァイオリン奏者)で、母も歌手。彼が10代でありながら大人びたハウスでデビューしたことは、そうした家庭環境も大きく関係しているのだろう。ホールの初期の作品に、「新しく古い世界」という曲があるように、新しさと古さを持ち合わせながら語りかける。古さを温ねることが前進に繫がるという好例である。
それで待望の新作だが、1曲目の“Damn! I'm Feeln Real Close”、ぼくはこれを聴いて、3枚組で5千円以上もする高価な3枚組を買うことに決めた。リズムからはダブステップ以降を感じる。が、全体はメロウなムードに包まれている。ピアノはエリック・サティめいた静謐さを思わせ、ときおり美しいフルートの音色、そしてアシッド・サウンドがカットインされる。前作『ザ・ボート・パーティ』が破壊的とも言えるほどリズミックな躍動を前景化している作品だとしたら、『フロム・ジョイ』は夜のムードをキープしつつ、随所に実験を試みながら、しかし滑らかでメロウに展開するアルバムだ。
“Dervenen”を聴いていると、ステファン・ロバーツの〈Eevo Lute〉レーベルの初期作品を思い出す。エレガントで、ドリーミーで、メロディアスなハウス・ミュージック。曲の後半でシンセサイザーが歌いはじめるような“Wake Up and Dip”、〈Retroactive〉時代のカール・クレイグを思い出さずにはいられない“Strut Garden”、どんなに閉ざされた心でもこじ開けてしまうであろう、ジャズ・ピアノ・ハウスの“Mysterious Lake”。そして、3枚目の裏面つまり最後の曲“Feel Us More”は、本作において3本の指に入る名曲だ。若々しい感性(リズムの組み方、チョップ)、そして古きもの(ハウスにおける美しいメロディ)が絶妙なバランスで展開する。ちなみに今回のアートワーク、どう考えても、初期のデトロイト・テクノの名作を手掛けてきたアブドゥール・ハック直系の感性だよなぁ……。
ハウス・ミュージックから30年以上の年月が流れて、社会もダンス・ミュージックを受け入れるようにはなった。しかし、デトロイト・テクノを起点とする価値体系が広く認められているわけではない。ヨーロッパがいまだにデトロイト・テクノへの思いを馳せるのは、この音楽が、どん底で生まれていることを忘れたくないからである。

















