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STEVIE WONDER
LATELY-TIMMY REGISFORD & ADAM RIOS REMIXES
TIMMY ADAM / WHITE (US)
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STEVIE WONDER
LATELY-TIMMY REGISFORD & ADAM RIOS REMIXES
TIMMY ADAM / WHITE (US)
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17日から公開されているアンドリュー・ニコル監督『タイム』は、アメリカ人が愛してやまないアンチ・エイジがテーマかと思って観ていると、すぐにも格差社会の話だということがわかってくる。ふたつのテーマを単純化して見せてしまう手腕は鮮やかで、実にわかりやすく、しかもボニー&クライドを思わせるアクション映画としてまとめてしまうのだからかなわない。オキュパイという直接行動をとる者がいるかと思えば、『タイム』のようなエンターテインメントをつくる人がいる。ひとつひとつが単純極まりないものでも、それらが集まって「流れ」がつくられることに、日本にはないダイナミズムを感じてしまう。
『裏アンビエント・ミュージック』のあとがきで僕はアンビエント・ミュージックというのはジャンル・ミュージックではなく、様々なジャンルに偏在するスタイルだと書いた。そして、とくにジャズならジャズの、あるいはテクノならテクノにおけるアンビエントの特徴といった議論には向かわなかった。むしろ撹乱させたといった方がいい。しかし、現代音楽にはそれなりに傾向があるし、ワールド・ミュージックにもどこか似通ったセンスは感じられる。ロック・ミュージックも同じくで、とくに近年、USアンダーグラウンドが生み出す発想には単純なものが多く、なかでもロウ・ファイから転じたものには「流れ」以上のものを感じ取れることが少ない。そして、数だけが多い。グレッグ・デイヴィス、ミルー、マウンテンズ、エメラルズ、ピーター・ブロデリック、ロバート・A・A・ロウ、インフィナイト・ボディ、モーション・シックネス・オブ・タイム・トラヴェル......
ジェイスン・ユーリックのセカンド・ソロも発想の面では前作をそのまま踏襲し、レイヤーを微妙にズラしながら重ねるなど、全体としてはスキルを上げまくっている。冒頭からジ・オーブをドライにしたようなスモーク・サウンドが浴びせられ、そのままエンディングまで続いても文句はないぞーと思っていると、またしてもヴァージン・プルーンズを思わせるミニマル・ラーガやエスニック・タイプへと曲が変わっていく。1曲で1枚をやりきらないところがロック的だともいえるし、コンセプトではなく、演奏を聞かせたいというのもそうなのだろう。そして、最後に置かれたスモーカーズ・ドローンが圧巻のひと言。3時間ぐらいは聴きたいと思っていると、たったの6分で終わってしまう......
また、ヘックスラヴ(アンビエント本P223)という名義はもう使わないのか、88人目のボアドラマーだったザック・ニールスンが本人名義でリ リースしたセカンド・アルバムも『ウォント・トゥー・ビー・ナイス』以来のフル・アンビエント作となった。前作にあたる『ウィックト・ワーク・イット・アウト』はいつも通りドラミングをあれこれと試す作風で、説明が複雑になるので、まー、おいておくとして、彼が思い出したようにアンビエント表現へと回帰してくるのはなぜなのか。しかも、この男の場合は前にも増して曲の構造が単純というか、ドラムで複雑なことをやっている反動としか思えないほどシンセサイザーの厚塗りでことを済ましてしまうとも。バリアリック・ヴァージョンのクラウス・シュルツェか、限りなく上昇気分にさ せてくれるシャルルマーニュ・パレスタイン......などといったら松村正人にテキサスのライヴハウスでベースをお見舞いされてしまうかな。つーか、ジャ ケット・オブ・ジ・イヤー?
そうはいっても『タイム』は問題をとても単純化してしまったために(『コン・エアー』が『恐怖の報酬』にはなれなかったように)問題提起はあっても人間を描いた作品としての深みには欠けている。経済格差が人間関係にもたらす微妙で複雑な機微はそれこそチョン・ジュウン監督『子猫をお願い』にはかなわない。あの重層的な配置の妙こそ格差問題の核心に迫っていたといえる(彼女はもう映画を撮らないのかなー)。
どんな音でも受けて入れてしまえ文:野田 努
カセット・レーベルがこの日本でも増えている。東京の〈コズ・ミー・ペイン〉をはじめ、〈クルックド・テープス〉、そして福岡の〈ダエン〉......〈コズ・ミー・ペイン〉は昨年に欧米進出を果たしつつ、〈クルーエル〉からビューティが12インチをリリースし、〈クルックド・テープス〉はロサンジェルスの〈ノット・ノット・ファン〉などとの協調しながらリリースを重ね、そして福岡の〈ダエン〉はレーベルとしての第二弾を発表した。それが今回の中村弘二によるニャントラ名義の作品。100本の生産らしいが、こうした超限定盤を土台としながら、今日USアンダーグラウンドが盛り上がっていることを思えば、当たり前の話、ちょっと期待してしまう。日本国内でのカセット・テープの生産は終了したというから、それなりに強い気持ちがないと継続はできない。
もっともUSのインディ・レーベルがアナログ盤とカセットのみのフィジカル・リリースに至った理由も、昔は良かった的なノスタルジーというよりも、実利的な観点に立ったときの前向きさにあるんじゃないだろうか。CDでリリースしても勝手にダウンロードされてしまうわけだし、だったら数は少なくなくても買ってもらったほうがいい。ボロ儲けたい人には向かないが、経済活動と芸術活動を両立させるうえではひとつの可能性だと言える。
ここ数年、USのカセット作品を買いまくっていたという中村弘二にとっては、こうしたリリースは望むところだったに違いない。この作品は、アンビエント・テイストが際だっていた過去のニャントラ名義のどの作品とも違っている。作り方としては、ジェームス・フェラーロやOPN、ハイプ・ウィリアムスなんかと近いと思われる。音の断片を集め、それを編集していく。ナカコーらしく、まったくもって感覚的な作品だが、ひとつ思うのは、一時期のトーマス・ケナーのようにこの音楽には多くの静寂があるということだ。ケナーはかつて自分の音楽を「ふだんは聴こえない音を聴く」行為だと定義しているが、ニャントラのカセットもそれと似た謙虚さからはじまる。デヴィッド・リンチの映画のように一瞬だけ暴力的な世界に引きずり込みはするが、すぐにまた柔らかい電子の海へと戻してくれる。
ナカコーらしく、まったくもって感覚的な......と僕は先に書いたが、彼の音楽においてもっとも重要なことは、彼が音に対してオープンであるということである。年を経るごとにどんどん開かれていく。多くの時間を空想に費やすであろう彼だが、部屋に引きこもるだけではなく、彼はアルヴァ・ノトのライヴにも石野卓球のDJにも出かけ、灰野敬二と同時にガムランの響きにも耳を傾ける。彼の鼓膜はつねに好奇心を帯びている、そうだ、どんな音でも受けて入れてしまえ。
本作は、そういう意味では様式(スタイル)を持たない印象的音楽(アンビエント)で、中村弘二の自由の断片を聴くことができる。スーパーカーのファンの期待から逃れながら、販売戦略の文脈には乗らないこの音楽性がカセットで発表されるということも、まあ、微笑ましいと言えば微笑ましい。本当に聴きたければ聴けばいいし、手続きが面倒であるのならそれだけの話。
文:野田 努
[[SplitPage]]素直に楽しめない作品では、あるが...... 文:竹内正太郎
いつかは君と本当の空を飛べたらなぁって、それだけさ
スーパーカー"CREAM SODA"(1997)
本当じゃない空を走る、真っ白なひこうき雲。成熟に対する拒絶と、未熟に対する拒絶を同時に抱えながら、反抗という社会性をなんら帯びなかったそのバンドの思春期は、シューゲイジーなギター・プロダクションと、倦怠をはらんだ歌唱、そして何より、言葉に落とし込まれた過敏な十代の感性によって、世の典型さや平凡さを斜めに断裁しながら、あっという間に過ぎていった。癖になった意味のないため息、うんざりするような馴れ合い、不必要に甲高い連中の笑い声、ありふれた虚栄、虚飾、駆け引き、出し抜き、気持ちの悪い上昇志向、そして、それらをシニカルに見つめる自分の凡庸さ。『スリーアウトチェンジ』(1998)は、およそ十代という罪深い幻の季節を、コンパクト・ディスクの許容値ぎりぎりまで使い、ギター・ロックのエチュードとして録音している。
1995年、青森県八戸市にて結成。どう考えても遅すぎる出会いだったが、私は彼らの解散がアナウンスされた後、初めてその車に乗った。従前のギター・プロダクションにエレクトロニクスが屈託のない表情で交わる『JUMP UP』(1999)は、作品のバランスという点で、彼らの早熟さをもっとも端的に捉えている。ウォーク・スローリー。しかし、この時期のシングルB面で、ドラムンベースの試験的導入や、憂鬱なダウナー・ポップを披露せずにはいられなかった彼らにとって、そうした思春期性はもはや足枷でしかなかったに違いない。ろくにトリートメントされていないようなロウなミックスで過去を一括清算した『OOYeah!!』『OOKeah!!』(1999)を経て、彼らはトランス・ロックの加速度でもってゼロ年代の始まりを一気に駆け抜ける。『Futurama』(2000)は、レイヴ・ミュージックへの憧憬を、ロックの文脈においてヴァーチャルに昇華させた意欲作だった。
ところで、良くも悪くも独りでは曲を作れないという点に、団体音楽の大きな魅力がある。密室で顕微鏡をのぞくような、省察が行き届いた孤独なベッドルーム・ミュージックにはない、共同体の中でのある種の運動(ときに競争原理)が働くことによって、バンドのポップ・ポテンシャルが大きく引き出される例を、私たちはよく知っている。『HIGHVISION』(2002)は、互いの方向性に違和を感じ始めた彼らにとって、ポップ・バンドとしては最後の結実だった。益子樹や砂原良徳らとの合流、テクノの跳躍力、電子音の煌めき。全反射するような"愛(I)"は光の伝送路で無限に増幅され、ひこうき雲が消えた本当じゃない夜空に、"Strobolights"を何本も突き刺す。終盤、勝井祐二のバイオリンが外界の光を閉じていくそのアルバムは、バッド・トリップ気味に暗い示唆をまき散らしながら終わっていく。
消えてしまったストーリー
出番を独り待っている
静かに 静かに ただ静かに 夢を見ている
スーパーカー"LAST SCENE"(2004)
そして、最後の妥協点を探るように作られた『ANSWER』(2004)は、ポップ・バンドとして結成された彼らが、かつて拒絶していた成熟(少なくとも高度化や洗練)を受け入れ、セミ・ポップの領域へと踏み出したことを如実に物語る。音の装飾よりも空間のニュアンスを重視した、メロウなプロダクション。散文的な歌詞。ミニマルな展開。その削ぎ落とされた妥協点は、逆説的に彼らの飽和でもあった。翌年、バンドは解散を選ぶ。これ以降の4人の物語と、私はなぜか一定の距離を保ってきた。個人的にもっとも親しみをもって追いかけたのは、リミックス・ワークを通じてTV・オン・ザ・レディオやデイダラスら海外のオルタナティブ、そしてボーカロイド文化とも前向きに交わってきたフルカワミキであるし、一般的にもっとも成功した存在として認知されているのは、ロック・バンドのプロデュースからK・ポップの作詞まで手掛ける、いしわたり淳治であろう。
中村弘二(以下、ナカコー)はといえば、アンダーグラウンドを好み、端的にはiLLを名乗ってレフトフィールドの開拓を試みてきた。テクノ、アンビエント、グリッチ、ドローン、ストーナー・フォーク、チェンバー・ポップ、ひと回りしてのロック、あるいはスーパーカーの再考、そしてLAMA。そうした変遷の先に、いつの間にか復活させたNYANTORA(ニャントラ)名義によって、ナカコーは相変わらずの実験趣味(と孤独趣味)を爆発させている。〈ダエン〉からのリリースとなった、レーベルの代表アーティストでもあるダエンとのコラボレーション『duenn feat nyantora』は、相当時間の無音部・微音部を含む、実に抽象的な作品となっている。カセット・テープなので、スキップもできずにとりあえずは黙って聴いているしかないわけだが、音も鳴らないし、あー、眠ってしまおうか、と、忘れたころに浮かび上がる音。かと思えば、あれ、いつから音、鳴ってないんだっけ、と、気付いたら霧散している音。鳥のさえずりもあれば、心地よいグリッチ、耳をかすめる程度のノイズもある。
正直にいえば、一応、遅れてきたスーパーカー世代である筆者としては、素直に楽しめない作品では、ある。私はまだ音楽に加速度を欲しているし、ポップのある意味での下品さを必要としている。とはいえ、狭く聴かれることと、広く聴かれないことを同時に望んできたナカコーの立場からすれば、本作は完全な匿名性をまとうことに成功した作品ではある(いま、無条件でカセット・テープを聴ける人はそう多くないはずだし、ネット上で聴くこともできない)。というか、不況だ、不況だと言われて久しい昨今の音楽業界にあって、内容的にも外装的にも、"あえて広がり過ぎない音楽"をアナログ・メディアでリリースすることを、私は贅沢なことのように思う。DIY文化のプライドか、LAMAとのバランスか。いずれにせよ、小さな承認を大仰に分け合う、繋がりすぎた私たちのネットワークを断ち切るように、聴き手の受動性を拒絶するアンダーグラウンドの精神は続く。
文:竹内正太郎
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JEFF MILLS
Taken
(Taken / 12inch)
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SECRET CIRCUIT
Nebula Sphynx / Parascopic Rope
(Beats In Space / 12inch)
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MODEL 500
Control
(R&S Records / 12inch)
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BOB CHANCE
Wild It'S Broken/It'S Broken
(Emotional Rescue / 12inch)
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MITSUAKI KOMAMURA
Vintage Moon Ep
(Weedis / 12inch)
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MARVIN BELTON
Find A Way
(Mahogani Music / 12inch)
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HARDWAY BROTHERS
MANIA THEME
(Is It Balearic? / 12inch)
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ROBERT OWENS
Sacrifice
(Ndatl / 12inch)
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DISCO DEVIANCE PRESENTS
Ray Mang Edits
(Disco Devience / 12inch)
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今週の月曜日に竹内正太郎が書いたラナ・デル・レイの評だけれど、少し説明を加えたい。彼女のアルバムは僕がよく読んでいる欧米メディアからはけちょんけちょんに言われていて、1周回ってそれを評価するのが頭が良いみたいな論もあるのかもしれないが、ラナ・デル・レイを契機としながら、人間の醜悪さ、あるいはポップの資本主義の議論へと飛躍している点ではレディ・ガガどころの騒ぎではないく(そういう意味ではポップ・アイコンとしては充分な役割を果たしている)、ひとつ議論の焦点を言えば、彼女の露骨な名声欲というよりも、彼女が「偽物(fakeないしはshtick)」であることへの批判と「それでは偽物のどこが悪いのか?」という意見にある。メッセージと思わしきものなどには目もくれず、ポップ商品の戦略としても凡庸な偽物があることが前提で議論が進んでいるという、なかなか面白い展開を見せている。この件に関して異様な執念を見せたのが(ドローンやノイズやアヴァンギャルド系に強い)『タイニー・ミックス・テープス』で、5点満点中0点としながらも、彼女の歌詞の主題/言葉を科学者のように何の感情も見せず分析して、その言葉のセンスがいかに型にはまったものであるかを立証するためであろう、ものの見事にインデックス化している。それはアメリカのポップ文化の内部におけるインディ文化からの憤りに思えるが、『TMT』は皮一枚の冷静さを装って「我々はなぜ偽物を拒否するのか」という観念的な問題提起までそれとなくしている(この情熱には、我々にも見習うべきところが大いにあるのでは......)。
そこへいくとワイルド・フラッグについて考えることは気が楽に思えるかもしれない。ワイルド・フラッグは、沢井陽子さんが昨年レポートしているように、「このバンドは、スリーター・キニー(キャリー、ジャネット)、ヘリウム(メアリー)、マインダーズの(レベッカ)メンバーで結成された、いわばスーパー・ガールズ・バンド」である。スリーター・キニーといえばライオット・ガールを代表するバンドのひとつで、活動家であり、フェミニスト・バンドとしてよく知られている。と同時に、1997年のマスターピース『ディグ・ミー・アウト』がそのもっとも高みといわれている作品だが、ギター・ロック・バンドとしての実力も充分に認められたバンドだ。キャリー・ブラウンスタインはそのバンドのヴォーカル&ギターで、彼女はワイルド・フラッグにおいても、元ヘリウム(スリーター・キニーと同時期のインディ・バンド)のロリータ・ルックで知られるメアリー・ティモニーとともにギターを抱えて歌っている。『ガーディアン』によればロンドンではいよいよ90年代リヴァイヴァルが本格化しているようだし、20年前にフランネル・シャツ姿で歌っていたメアリーはいまやファッションとしてもど真ん中だ。
とはいえ、僕がおよそ半年前にリリースされたワイルド・フラッグのデビュー・アルバムについていまさら書いているのは、そうしたトレンドとは関係ない。ライヴ・レヴューにも書いたように、ザ・ガールのライヴが良かったことも引き金となっている。実はこのアルバムについては「いつか書こうといつ書こう」と思いながら昨年から机の上に積まれたCDのなかの1枚となっていたが、ヴァレンタインの夜にようやく「自分で書こう」と思い立った。
ロックンロールにとっての大きな問題点は、ノスタルジーである。亡きモノに未練たらしく思いすがってしまうこと。多くのガールズ・バンドは、たとえばヘリウム時代のメアリーが学生スカート姿でノイズを鳴らしているだけでも充分に新しかったように、ロックンロールの思い出話に砂をかけながら巧妙に、あるいは勇気を持って前に進んでいる。ダム・ダム・ガールズは思い切りクリシェを強調することで、ロックンロールをマニア向けの中古レコード店から解放する。で、それでは......ワイルド・フラッグのまずはどこが気を引くのかと言えば、繰り返しになるが、キャリー・ブラウンスタインとメアリー・ティモニーのふたりがギターを抱えて歌っているという点にある。誤解を生むような喩えで申し訳ないけれど、PHEWと戸川純が一緒にパンク・バンドを組んだとしたら......それはスーパー・バンドになるだろう。タイプの異なった女性ふたりがふたり同時にバンドの顔になるというのは、いままでなかった。
が、このバンドのもっとも肝心なことは、『ワイルド・フラッグ』というネーミングが暗示するように、これがひとつの声明、宣戦布告であるということだ。「私たちはロマンスとはなんたるかを知っている」と歌う1曲目の"ロマンス"(アルバムにおけるキラー・チューン)は、いろいろな意味に受け取れる曲だ。音楽の喜び、ロックンロールへの忠誠心、男性社会への反旗、インターネット依存者への嘲笑、純粋な愛......しかし僕がこのバンドを(あるいはザ・ガールを)格好いいと思えるのは、彼女たちが"生意気さ"をまったく包み隠さないところにある。すべての楽器が有機的に絡んで生まれるグルーヴは、楽しもうという気持ちと彼女たちの小生意気さとを結合させる。「私たちは音を愛する。私たちの見つけた音。音は私とあなたのあいだに流れる血」――アルバムには聞き分けの悪い子たちも耳を傾けるであろう堂々とした良い言葉、すなわち力強い自己主張でいっぱいだ。
ワイルド・フラッグは、ラナ・デル・レイ的なものとは対極にある。ジェームズ・ディーン、グレイト・ギャツビー、ウィスキー、ギャングスタ、そしてセックスとドラッグとアメリカン・ドリームといった耳にたこが出来ているような言葉を並べているラナ・デル・レイとは100万光年離れたところで"野性の旗"は涼しい風になびいている。キャリー・ブラウンスタインに関して言えば、サタデー・ナイト・ライヴのフレッド・アーミセンと一緒にケーブルTVでコメディ番組までやるような、あちらではいわば国民的な人気者で、彼女の番組にはボン・イヴェールやセイント・ヴィンセントも出演している。ワイルド・フラッグにはアメリカのポップ文化の最良なものがあると思うのだが、我が国ではラナ・デル・レイの"shtick"のほうがメディ的にも大衆的にも受けているようである。まあ、別に良いんですけど。
派手にやろう
私たちに失うものなんて何もない
ワイルド・フラッグ"ブーム"
DOMMUNEで「GOTH-TRAD特集」をやった翌日の晩、筆者はブルックリンのライヴハウスにいた......というのはもちろん嘘だが、沢井陽子さんが本サイトでレポートしているようなイヴェントにいた。2月14日、いわゆるヴァレンタインのチョコレートには縁のない筆者と小原泰広は、小雨の降るなか、3組のガールズ・バンドが出演する新代田の〈FEVER〉に向かった。「BATTLE AnD ROMANCE」という名前のイヴェントで、筆者のお目当てはタッツィオである。
7時になると最初のバンド、THE EGLLE が登場。ヴォーカル&ギター、ベース、ドラマーの3人組のガールズ・バンドで、「グッド・イヴニング」という英語の挨拶からはじまった。音は初期のキュアやデルタ5といった感じで、気だるいミニマルなビートとぺらぺらのギターが暗いムードを誘い、(オーディエンスとコミュニケーションをはかるというのではなく)引きこもりを思わせるヴォーカルが際だっている。〈4AD〉リヴァイヴァルとも重なっている雰囲気もあって、興味深い演奏だった。
この日の主宰者はきくりんと呼ばれていた21歳の青年で、長州ちから(28歳)という名前のパートナーと一緒にセット・チェンジの合間のDJとMCも担当していた。歌謡曲をかけたり、ヒップホップをかけたり、ハードコアをかけたり、意味がわからなかったが、とにかく陽気で、バカみたいにご機嫌な連中だった。ちょっとオタクっぽくも見えたが、絶えずツイッターをやっているようなタイプではなかったし、どこか20年前の小林を彷彿させた。「BATTLE AnD ROMANCE」の主題は? と訊いたところ「クロスオーヴァーであります」と21歳は語気を強めていたが、それは多くの自由時間をPCの前で過ごしているSNS世代への反発とも受け取れなくもない。
7時半を過ぎて、ステージにはタッツィオのふたりが登場する。いきなりラウドなノイズ・ギター、そのすぐ横ではドラマーがしっかりとリズムをキープしている。ルックス、そして演奏にもポップとノイズが衝突しているが、実に感覚的なこのバンドが素晴らしいのは、言葉に酔うことを拒むかのような衝動、その威力、その勇気にある。「ブス」「こんにちわ」......闇雲にわめき散らしている彼女たちを観ていると、微笑みがこみ上げてくる。説明よりもノイズが先走る。言葉を口から出す前の、そのうまく言えないもどかしさを音は突き抜けていく。そう、いい感じです。新曲の"3939"は素晴らしいドライヴ感を持った曲で、演奏は後半のほうが良かった。何度もライヴを観ている人に訊いたら、その日の出来は60%ぐらいだったとか。
8時を過ぎると日暮愛葉率いるTHE GIRLが出てくる。THE EGLLE と同様に3人組のガールズ・バンドで、ヴェルヴェッツの"フー・ラヴズ・ザ・サン"をBGMに演奏ははじまった。そしてTHE GIRLは......ロックンロールのジェットコースター、ドラムとベースが創出するグルーヴは素晴らしいうねりとなって、オーディエンスをすっかり魅了する。彼女たちの演奏は否応なしに身体を揺らすもので、気持ちをどんどん上げていく。
THE GIRLを訊いていると筆者は13歳のときにラジオで大貫憲章さんが紹介した"シーナ・イズ・パンク・ロッカー"すなわちロックンロールというものを初めて聴いた夜の気持ちを思い出すことができる。音楽を聴いて、生きていることにわくわくしてくる。それはいつまでも変わることのないファンタジーであり、ロマンスであり、永遠なのだ。
これだけの圧倒的なステージのあとに出演するバンドは、ちょっと気の毒だった。杏窪彌(アンミン)は台湾人の女性ヴォーカルをフィーチャーしたバンドで、相対性理論を思わせた。MCは中国語と日本語だった。トリを飾ったバンドは、男ふたり組のGAGAKIRISEで、ライトニング・ヴォルトを思わせた。それぞれ個性的なパフォーマンスだったし、GAGAKIRISEは迫力満点の演奏によって、今後おそらくもっともっと知名度を上げていくだろう。
しかしこの晩に限って言えば、誰が何と言おうとチャンピオンはTHE GIRLだ。久しぶりにロックンロールで踊り、筆者は彼女たちのロックンロールにプラトニックな恋に落ちたのである。
ケルンの企画レーベル〈マガジン〉からリリースされたアクゼル・ヴィルナーによるループス・オブ・ユア・ハート名義『アンド・ネヴァー・エンディング・ナイツ』はアブストラクトな展開を意図したものだけれど、これがあまりにもクラウト・ロックの過去をなぞるだけで、単純にがっかりさせられた。ヴィルナーがザ・フィールドの名義で追求してきた快楽モードのシューゲイザー・ミニマル・テック-ハウスはいつも完成度が高いだけに、余計にキャパシティの限界を見せられたようで、欲が裏目に出たという印象も。イェン-ユーベ・ボイヤーやドラムス・オブ・ケイオス(ヤキ・リーヴェツァイト)にはじまった同シリーズは、今後、ヴォルフガング・フォイトやカール・セイガン(!)へと引き継がれるらしい。
クラウトロックというのは、間章か誰だかが書いていたことだけれど、60年代のドイツでは「アメリカのコピー」でしかなく(たとえばボブ・ディラン)、これに対する猛反省から生まれてきたものだと言われている。本当かどうかは知らないけれど、クラウス・ディンガーやホルガー・シューカイ、あるいはラルフ&フローリアンやマニュエル・ゲッチングが独自の音楽性を切り開いたことはその通りで、その強度が現在に至っても衰えないことは、それだけオリジナルを生み出そうという妄執に煽られていた証左ではあるだろう。そして、その後はパンク・ロックやニューウェイヴを加工したノイエ・ドイッチェ・ヴェレにしても、シカゴ・アシッドやデトロイト・テクノをお手本としたジャーマン・トランスからエレクトロ・リヴァイヴァルに至る流れにしても、ドイツというカラーがそこにしっかりと存在していることは周知のことである。
しかし、ドイツにおいてヒップホップは、いまだに「アメリカのコピー」から脱却できないジャンルである。マッシヴのようなギャングスタ系しかり、インタレックのようなムダにジャジーな感じも同じくで、ロックやテクノと違ってブラック・ミュージックに対するコンプレックスが払拭できないのか、どうにもドイツらしさが出てこない。そんなにあれこれと聴いているわけではないけれど、エレクトロニカと融合したいくつかのものと、MIAの影響下から出てきたらしきルーシー・ラヴが最初はちょっとよかったかなーという記憶があるぐらいである。
07年からマーテリアとして3枚のアルバムを残してきたマーテン・ラシニーがマーシモトというスペイン語に名義を改めてリリースした『グリュナー・ザムト(=グリーン・ヴェルヴェット)』は、これで一気にドイツのヒップホップが変わってしまうとは思わないものの、なるほどこれはドイツでしかないと思わせるユニークな音楽性に彩られている。まずはスマーフ男組と同じくラップがすべてロボ声で、これが最後まで実に楽しい。サウンドがしっかりとつくられているせいで相乗効果が持続し、ドイツ語なので何を主張しているかはともかく、いきなり「バラク・オバマ!」と来たりして、ネットで調べた限りは(二木信が好きな)コンシャス系のようである。もしかしてデザインも緑の党を意識しているのか?(ちょっと難しいかもしれないけれど、可能なら限定盤のジャケットに触ってみて下さい。アマゾンではなぜか限定盤の方が安いし)。
オープニングからロボ声でマッシヴ・アタック、2曲目からヒップホップ・サウンドになる......といっても、もちろんUSメイドではなく、ヨーロッパに渡ってウェットになり、腰の重いリズムに派手なSEで景気をつけていくパターン。やはり、最近はベース・ミュージックやダブステップを意識せざるを得ないのか、モードセレクターと同じようにテクノのエッジとウェットなリズムをどう絡み合わせようかという発想になるのだろう、エレクトロに隣接した"グリーン・ハウス"や"アリス・イン・ヴラン・ランド"を基本としつつ、これにバリアリック調の"マイ・クンペル・スポールエィング"やクラフトワークを再構築したような"アングスト"、あるいは、ネジが狂ったようにワールド・ミュージックのサンプリングを組み合わせた"インディアナー"やモンドを掠めた"イッヒ・ターザン・ドゥ・ジェーン"がさまざまに色をつけていく(デア・プランがマジでヒップホップをやってると思いなまし)。ドイツでは移民を中心としたターキッシュ・ラップも盛んだからか、"アイ・ゴット・5"や"ブラウ・ラグン"ではトルコ風の旋律も取り入れられ、リベラルなところも見せる一方で、ドイツ民族の高揚を煽る(ように聴こえる)ような"ヴォー・イスト・ダー・ビート"で「アメリカのコピー」には大きく距離をあけていく。いや、素晴らしいです。難をいえば、ボーナス・トラックとして収録されているテクノ・リミックス("アイ・ヘイト・テクノ・リミックス"となっている)がちとウザいぐらいか。AKBじゃないのにヘビロテ~。
負け犬といえば、自分が男だからだろうか、いや、勝ち負けの世界と言えば男の世界だといつの間にか相場が決まっているからだろうか、勝手に男性を想像していたが、考えてみれば同じように女性にも負け犬はたくさんいる。マリア・ミネルヴァは自らを「女の負け犬の研究者」であることを宣言している。
1988年のセカンド・サマー・オブ・ラヴの年に生まれた彼女は、昨年、フェミニスト理論家、エルーヌ・シクススの名前を冠したアルバムを発表している。そのアルバム『キャバレ・シクスス』ではリヴァーブの深く効いた――チルウェイヴやヒプナゴジック・ポップとは地続きの――今日的なポップを展開しているが、年末に出回った12インチ「スケアド&プロフェイエン・ラヴ(神聖かつ冒涜的愛)」はいわゆるダンス・シングルとなった。だからまあ、やりたい放題のロサンジェルスの〈ノット・ノット・ファン〉傘下のダンス・レーベル〈100%シルク〉から出ているわけだが、これが実に抗しがたい魅力を秘めている。1980年代のオリジナル・シカゴ"ゲイ"ハウスの淫らさが今日のUSインディ・アンダーグラウンドと見事に出会ってしまったというか、それほどのハイ・レヴェルの妖しさがある。この週末、次号紙エレキングのために三田格が推薦する『ぼくのエリ』を遅ればせながら観て、そしてショッキングだったことのひとつは吸血鬼が実は「女の子ではない」という設定だった。それではあの少年と吸血鬼のプラトニック・ラヴは......。
ベッドルーム音楽の文化自体は20年以上前からあるのでことさら新しいものでもないのだが、女性プロデューサーが性の揺らぎを主題とすることは近年のトピックである。「インターネット時代における女性らしさとその疎外」を主題としているというグライムスが20年前のエイフェックス・ツイン("カム・トゥ・ダディ"以降ですね)に喩えられる時代だ。マリア・ミネルヴァはジョン・マウスとともに『ピッチフォーク』からは学問界とポップ界の往復者と呼ばれているような存在なので、言葉がわかればもっと深く楽しめるのだろうけれど、彼女の音そのものがある程度のところまで表してくれている。
それは声だ。なんてやわらかい、透明で、フニャフニャな声......。男ならそこでレトロなシンセサイザーの音色に酔ったりドラッギーな音色で決めるところを彼女たちは自分の"声"を武器にする。ダンス・ミュージックではないが、グライムスやジュリアンナ・バーウィックもそうだ。声、......彼女たちの声にはエルヴィス・プレスリーもミック・ジャガーもいない。パティ・スミスの"グローリア"(こちらはヴァン・モリソンのカヴァー曲)とマリア・ミネルヴァの"グローリア"(こちらはマリアのオリジナル)を聴きくらべれば、この40年弱の年月もあながち無駄ではなかったのではないかと思えてくる。
こうしたダンス・ミュージックの真新しい潮流のかたわらで、ベテランのリンドストロームが3枚目のアルバムを発表した。彼の音楽が東京で最初に話題になったのは2004年で、彼が自身のレーベル〈Feedelity〉を発動させたのが2002年12月だというから、ノルウェーのコズミック・ディスコの王様もデビューから10年目を迎えていることになる。地中海をまったく感じないのに関わらず何故かバレアリックと呼ばれたりもした彼の音楽の良さは、ひと言で言えばぬるさに尽きる。一時期はリー・ペリーをも彷彿させたラジカルな"いい加減さ"、ダンス・ミュージックの真骨頂のひとつでもある。それは寛容さであって、20年前はそれをバレアリックと呼んだわけで、多幸感のことではない!
とにかく『シックス・カップス・オブ・レベル』はコズミック・ディスコの王様の新譜である。バカみたいに大仰なイントロダクションからPファンクめいたビートのディスコへと、そしてギターが唸るロックの8ビートへと、まあ、よりファンキーと言えばファンキーな展開を見せている。相変わらず人を食った展開というか、思わせぶりだが無意味で、くだらないことに一生懸命になっているところはいかにもゼロ年代といったところ。このちゃらんぽらんさが懐かしいって? それでは竹内君、週末ぐらいは僕と一緒にバカになろう。