Shop Chart
![]() 1 |
![]() 2 |
||
|---|---|---|---|
![]() 3 |
![]() 4 |
||
![]() 5 |
![]() 6 |
||
![]() 7 |
![]() 8 |
||
![]() 9 |
![]() 10 |
![]() 1 |
![]() 2 |
||
|---|---|---|---|
![]() 3 |
![]() 4 |
||
![]() 5 |
![]() 6 |
||
![]() 7 |
![]() 8 |
||
![]() 9 |
![]() 10 |
![]() 1 |
SOFT MEETS PAN
TAM MESSAGE TO THE SUN EP.
CROSSPOINT / JPN / 2010/12/27
»COMMENT GET MUSIC
|
![]() 2 |
SOFT MEETS PAN
TAM ~MESSAGE TO THE SUN~ タム お日様への伝言
CROSSPOINT / JPN / 2010/12/22
»COMMENT GET MUSIC
|
||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
![]() 3 |
![]() 4 |
AFRODESIA
THE AFRO SOUL-TET
LUV N' HAIGHT / US / 2011/1/15
»COMMENT GET MUSIC
|
|||||
![]() 5 |
![]() 6 |
SIS
GALLIAN / MACHISTE
REBELLION / UK / 2011/1/16
»COMMENT GET MUSIC
|
|||||
![]() 7 |
![]() 8 |
DOP
NO MORE DADDY (AME REMIX)
CIRCUS COMPANY / FRA / 2011/1/15
»COMMENT GET MUSIC
|
|||||
![]() 9 |
COFFEE & CIGARETTES BAND
ELECTRIC ROOTS EP2
ELECTRIC ROOTS / JPN / 2010/12/18
»COMMENT GET MUSIC
|
![]() 10 |
DJ NATURE
SUNTOUCHER REMIX PT.2
JAZZY SPORT / JPN / 2010/12/22
»COMMENT GET MUSIC
|
ありがとうございます。おかげさまでele-king、売れています!
さて、ただいまタワーレコード新宿店 8Fのクラブ・コーナーにて、ele-king 復刊記念として、アルバム・レヴューにて紹介された商品を一挙15タイトルご試聴いただけます。近くに行かれた方はぜひ覗いてみてください!! そしてele-king読みながら、試聴しましょう!!
09年にはマット・スティールと組んだグリッチ・ミニマルのSNDとしても活動を再開し、さらに昨年末、2枚同時にリリースされたソロ3作目と4作目(1作目はセキュラー・ミュージックス・オブ・サウス・ヨークシャーの名義で、同郷であるヒューマン・リーグを再構築した『リプロダクション』アンビエントP197)。
ソロではフロアを意識しないアブストラクト・タイプに徹し、神経症的なパッセージとシンプルな音階の移動だけで微妙なインプレッションを残そうとする。基本的に快楽的ではないけれど、苦行ではなく、過去の実験音楽のようでありながら、やはり過去のそれにはないダンス・カルチャーからのフィードバックを感得せざるを得ない。どちらかというと、そのことは〈メゴ〉盤に色濃く投影され、パート3にあたる"アシッズ・イン・ザ・スタイル・オブ・ライアン・トリーナー"というタイトルが示す通り(誰だ?)、09年にやはり〈メゴ〉からリリースされたフローリアン・ヘッカー『アシッド・イン・ザ・スタイル・オブ・デヴィッド・テュードア』を複数形にしてモジったことは瞭然だし、過去の実験音楽にアシッドを注入するという考え方と、その実践として聴くしかないものになっている。実際、かなりユーモラスな展開が目白押しで、パート2にあたる"ヴォルテックス・スタディーズ"もまたベーシック・チャンネルと同じタイプの地味なユーフォリアを内包し、重箱の隅をつついて回るようなトリップ・モードにまだこだわっていることがよくわかる。
とはいえ「アシッド・イン・ザ・スタイル~」の方向性を重視するならトムトンツ(復刊エレキング1号P72)でも聴いた方がぜんぜん手っ取り早いことはたしかで、〈ラスター-ノートン〉盤はそれよりもシリアスな試みに終始し、マーク・フェルの資質がユーモアに軸を置いたものではないことがよくわかる。暴力性と叙情性をクラッシュさせたオープニングから一貫して緻密に構築された全17曲は『多重安定性』というタイトルとは裏腹にとてもスリリングで、〈メゴ〉盤よりも過剰にビートを駆使しつつもグルーヴは皆無というポリシーを堅持しつつもベーシック・チャンネルにはないダイナミズムを発揮し、頭でっかちにもまだ充分な未来が開けていることを予感させる(エレクトロニカ健在、というか)。
〈ラスター-ノートン〉盤は09年8月~2010年7月にかけて録音され、メゴ盤は同じく2010年の8月に一気につくられたとあり、そのような制作プロセスの差も作品の違いによく表れている(電気グルーヴの『J-POP』と『イエロー』みたいな対照性というか)。
相変わらず豪邸暮らしのメタルが書いてくれないので、自分で書くことにする。昔から言われているように、人間は満足してしまうと欲を無くすのだ。ある意味では羨ましい限りであり、また、メタルのような人間がDJとして暮らしていけるというのも悪いことではないか......などと思ったりもする。
さて、昨年末、テクノ・シーンにおいてもっとも評判となったアルバムがシャックルトンのミックスCDである。全曲自分のトラックでミックスされたそれは、いわばミュータント・ワールド・ミュージックであり、アフリカン・パーカッションのポスト・ダブステップ的展開である。その素晴らしいミックスCDとほぼときを同じくしてリリースされたのがこのシングルで、いまだロング・ヒット中である。
実際の話、「マン・オン・ア・ストリングス/バスタード・スピリット」は魅力いっぱいのシングルだ。アフロ・パーカッションをベースにしているとはいえ、サイケデリック検定試験ではAクラスの飛びようで、意味不明な効果音と脈絡のない展開の迷宮のなかで、アシッドをきめながら薄暗い熱帯雨林を歩いていると珍獣に出会ってしまっかのような、あるいはJGバラードめいた極彩色のディストピアが広がる。それでもベースは太く、グルーヴがある。DJならずとも欲しい1枚である。こういうシングルが売れるのは......、まったく悪いことではない。
ミックスCDに関しては、後日レヴューする予定です。
サブトラクトには素晴らしい才能があると思う。ジョイ・オービソンとならぶ才能だ。ロスカがケヴィン・サンダーソンなら、サブトラクトとジョイ・オービソンははっきりとカール・クレイグだと言える。さすが、ザ・XXを輩出した〈ヤング・ターク〉がダブステップ・シーンから引っこ抜いただけある。とにかく、部族の仮面を被ったこのトラックメイカーは2011年の注目株のひとつだし、ジェームス・ブレイクと並んでアルバムが期待されているひとりである。
サブトラクトの音楽性は幅広い。いまとなってはダブステップというよりも、デトロイティッシュなエレクトロやディープ・ハウス、あるいはジャジーなブロークンビーツ風の作品のほうが印象深い。12インチ2枚組の「2020」にはアトモスフェリックなテクノ色が強く出ていたし、〈ヤング・ターク〉から発表した"サウンドボーイ・シフト"にはダブの深みが広がっていた。"ルック・アット・スターズ"は彼のなかではもっともキャッチーな曲で、それこそカール・クレイグの作る歌モノのようなエレガントな色気がある。
「ナーヴァス」は昨年末にリリースされたシングルで、タイトル曲はジェシー・ウェアのR&Bヴォーカルをフィーチャーしたキラー・チューンである。シンセのベースライン一発で決まってしまうという、クラブ・ミュージックにおいてハイレヴェルの曲だ。B面のアップリフティングなファンキー調の曲も捨てがたい。世界にはダンス・ミュージックを作れる人と作れない人の2種類がいる。サブトラクトは間違いなく前者である。
〈XL〉も味なことをする。これは昨年の『/\/\/\Y/\』収録曲の、ラマダンマンのピアソン・サウンド名義による片面のみのリミックス・シングルだ。広くはダブステップ・シーンのひとりではあるけれど、アルバムに参加したラスコとは毛色が違う。ラマダンマンは、ラスコと違ってアンダーグラウンドである。クレジットを見ただけで迷わず買ったこのシングルだが、ドラムマシンのスネアを主体としたプラスティックマン流の打ち込みの、よく知られるところのラマダンマン・サウンドで、違いといえばM.I.A.の声が入ることぐらいなのだが......まあ、良しとしましょう。キャッチーだし、後半のトリッピーな展開もありがちだが親しみやすい。まあ、M.I.A.の声がこのビートに混じっているだけでも興奮するよ。
シルキーは本当に格好いいよなー。A面の"スロウジャム"における重量級のダブステップ・ビートから最後の最後で鳴り響くメロウなサックスを聴くと彼がマイク・バンクスやイアン・オブライアン、あるいは4ヒーローのようなプロデューサーの系譜にいると言っても差し支えないんじゃないかと思える。 B面の"ワンダー"におけるシンコペーション、さりげないサックスの入り方、ベースのうねり、そして鍵盤の音色もそうだ。これが最新のアンダーグラウンド・ブラック・ミュージックであり、これがアーバン・ミュージックというもの。"シティ・リミッツ"シリーズの最新は、まったくを期待を裏切ることのないソウルフルな1枚であり、しかもこの人からは目が離せないとますます思わせる良いシングルである。
「ベルリンでミニマル」と言われただけで耳に栓をするような人は少なくない。僕が「ベルリンでミ......」と言った時点で不機嫌になる。わからないでもない。僕も昔は「ニューヨークでパ......」と言われただけで不機嫌になった。しかし、そんなせっかちな人にもこのシングルは薦めてみたい。モーリッツ・フォン・オズワルド(k)、マックス・ローダーバウアー(b)、サス・リパッティ(per)の3人と、そしてティキマン(g)によるモーリッツ・フォン・オズワルド・トリオの新作である。昨年リリースされたライヴ・アルバムも欧米ではすこるぶる評判が良かったが、メタルが何も言わないので僕はまだ聴いていない。それでもこのシングルを何故買ったかとえば、驚くべきことにB面をDMZのマーラがリミックスしているからである。ベルリン・ミニマルのゴッドファーザーが初めてロンドンのダブステップと手を組んだのだ。そして......マーラのリミックスは悪くはないのかもしれない、が、しかしA面に収録されたオリジナルの前ではかすんでいる。というか、マーク・マッガイアの蜂蜜たっぷりのミニマルを聴き込んだ耳にはこのストイシズムが新鮮に聴こえる。単調なキックドラムと曲の背後でうねっているベースとのバランスは見事で、抑制されたキーボード、ギターが地味であることの良さを最大に引き出す。
フリーライターなんていうヤクザな稼業を選んでしまったばかりに日々の生活は不安定極まりない。精神的にも経済的にも正直厳しい。去年、カネのことで彼女とどれだけ揉めたことか......、はははは。根は楽天的な人間のつもりだが、鬱屈した感情といかに上手く付き合っていくかというのは、日々の生活において重要なテーマである。
実際に、1万や2万程度のカネで頭を悩ませ、社会への不信や猜疑心をつのらせ、被害者意識に囚われる人びとがいる。フリーターだろうが、派遣労働者だろうが、ニートだろうが、正社員だろうが、どんなならず者だろうが、そのことについては変わらない。
ハイ・デフのファースト・ソロ・アルバム『DISKNOIR』を大きく特徴付けているのは鬱屈した感情だ。暗さを全面に出すことは、ヒップホップのスタイルのひとつとも言えるが、それだけでは片付けられない何か切実な雰囲気がここには漂っている。タイトルが暗示しているとおり、『DISKNOIR』はフィルムノワールチックな、犯罪映画を思わせるハードボイルド・ヒップホップに仕上がっている。
クライム・ストーリーを描き出すという点では、『ピッチフォーク』やこの国の音楽評論家のあいだでも高く評価されたレイクウォン『オンリー・ビルト・4・キューバン・リンクス...PT.II』(09年)を連想させる。サウンドもウータン・クランをはじめとする90年代の東海岸ヒップホップ――ブート・キャンプ・クリック、ブラック・ムーン――を彼らなりにアップデイトしているように思える。ソウルフルなトラックがあり、スペース・ファンクがあり、甘くジャジーなアブストラクト・ヒップホップがある。重心の低いビートとベースの不吉なループが『DISKNOIR』の出口のなさを象徴しているかのようだ。
旭川出身のラッパー/トラックメイカーであるハイ・デフは現在、都内のアンダーグラウンドなヒップホップ・シーンを中心に活動している。彼と同郷の相方、トノ・サピエンスがオリジナル・メンバーのヒップホップ・ポッセ、CIA ZOOはこれまでに未発表音源集を集めた『LOST TAPES VOL.1』(07年)と『THE LOGIC WORK ORANGE』(09年)といった素晴らしくファンキーでマッドなアルバムを世に送り出している。とくに後者の雑食性と都市を猛スピードで疾走するような勢いは凄まじい。これは2009年のベストの1枚だ。
CIA ZOOにはブッシュマインドも所属している。彼らの仲間には、昨年、個人的にはこの国のヒップホップのなかで2010年のトップ5に入る出来だった『WELCOME TO HOME』を発表したロッカセンもいる。
ヒップホップやハードコアやレゲエ、テクノやハウスといったダンス・ミュージックが彼らのバックグラウンドにあり、それらを燃料に彼らは町中をねずみのように徘徊し遊び、逞しく生きているのだろう。そんな息遣いとタフな生き様が彼らのケオティックなサウンドから伝わってくる。ブッシュマインドらが主宰者を務めるインディペンデント・レーベル〈セミニシュケイ〉のコンピレーション『WISDOM OF LIFE』もそんな彼らの成果のひとつと言える。
ファンキーなCIA ZOOを知っている人はこれを聴いて戸惑うかもしれない。音楽業界への憤りを歯に衣着せぬリリックで放ち、ときに悪態をつき、サディスティックな欲望を吐き出したかと思えば、「ちっぽけなチンピラ」だと自分のことを卑下する倒錯した感覚がある。「安定したいけど国が不安定」というのは率直な気持ちだろう。"ペイント・イット・グレー"を聴けば、ハードコア・ヒップホップはマッチョでワルというイメージしか持てない人も少しは考え方を変えて、この文化の複雑さに目を向けると信じたい。神聖かまってちゃんがこんがらがった現実のなかから絶望を音楽化したように......、いや、喩えが安易だったかもしれないが、ここにある怒りや不満にも耳を傾けて欲しいと思う。
ハードコア・バンド、ペイ・バック・ボーイズのリル・マーシー、ケムイ、DJ PK、メデュラ、トノ・サピエンス、スターバースト、ノース・スモーク・ING、ジプジーといった面子が参加している。大半のトラックはDJ COP(ハイ・デフ)が制作している。なんともアイロニカルなネーミングじゃないか。じっくりと付き合えば、黒い笑いが滲み出てくるアルバムでもある。
ハイ・デフは闇に寄り添うことに情熱を傾けている。陰謀論めいた社会風刺には危うさを感じなくもないが、無視できない怒りや不満が充満している。これがもしフランスなら暴動に結びつくかもしれないなんてことを考える。いずれにせよ、僕は闇のなかで武装するこういう態度が嫌いじゃない。これはひとつの覚悟のある生き方だ。そして徹底的に暗さと対峙したあと、最後の2曲で人生を祝福しているのが素晴らしい。
年末の『エレキング』(紙版--もう書店に並んでいるので、みなさんよろしくお願いします)をホウホウの体で入稿したあとののんびりした正月の一週間で『漱石を読む』(福武書店)を読んだ。につまって個体になったブラックコーヒーのような文章の連鎖をたどるだけで、私はたいへん幸福な気分になる。以前湯浅学氏が『レコード・コレクターズ』で「溶けた鉛を飲みこむような」と評した――もしかしたらちがう人が書いたかもしれない--キャプテン・ビーフハートの代表作『トラウト・マスク・レプリカ』を文章に置き換えたら、こんな感じかもしれないと思った。いや、ほんとうは、いまから20年ほど前、学生だった私は、学生はつねにそうであるようにサヨク的であり、井上光晴をよく読んでいたが、彼が死んでひと月ほど経った『群像』だったかに彼の追悼特集が組まれ、特集とは関係のない、その号の巻頭にあった小島信夫の短編(「羽衣」だったと思う)のひとを食ったというよりも前提を無視した書き方に衝撃を受け、当時新刊だった『漱石を読む』はそのとき買ったのだが、小島信夫の批評集成が水声社からでたのを知って、再読したのだった。じつはビーフハートを聴いたのは、恥ずかしながら、その翌年の暮れにワーナーからはじめて国内盤CDがでたときであり、順番は逆だった。彼らの古典の誇張、いや、むしろ古典のディシプリンと呼びたくなる行為のなかからなにかが反転し、前衛と意図することのない道筋を、目の前に広がる道なき荒野に浮かびあがらせる感じは方法意識におもに焦点をあててきたが、私には抽象論、概念論だけではない、端正なフォーマットを否定する行為を運動に転化させる意図があった。膨大に引用する過去作品が薪や炭のように内燃機関を燃えあがらせ、吐き出した煙は粉塵をあとにのこした。エコロジカルな洗練は微塵もない。彼らは過去を他者をリスペクトしたように見せかけながら、小説や批評、あるいはブルースとブルースのあとに連なったポピュラー音楽のうえにことごとく「私ではないもの」としてあるときは傍線を引き、またあるときはその上に二重線を書きこんだが、「私」とはどういうものか?
私は大晦日の紅白歌合戦のサワリだけ見ようと、テレビをつけると浜崎あゆみが歌っていた。"ヴァージン・ロード"という歌だった。彼女は純白のウエディング・ドレスを着てNHKホールの客席の後方から現れ、ドレスの後ろ裾は何十メートルにも及んでいたようだった。その姿は歌の内容とそぐわないわけではなく、むしろそのものなのだが、彼女がウエディング・ドレスを着て熱唱したただそれだけのシンプルな演出は、NHKホールの客席はおろか、テレビの画面を眺める私たちにも向けていないようであった。歌に没頭するというより、目もくれず演じるようであり、その歌唱にはチェリッシュから平松愛理を経て木村カエラにいたる、満ち足りた結婚ソングにはない非日常性が際だっており、ひとことでいえばオペラめいており、またそれは俗流のオペラや演劇や文学がそうであるように感傷的であり悲劇的に思えた。ケータイ小説的といってもよかった。2011年になって、YouTubeで"Virgin
Road"のPVをみて、そのときかんじたことの一端はわかった。PVで彼女は花嫁姿で武装していた(形容でなくマシンガンをもった花嫁を演じていた)。浜崎あゆみは"Virgin Road"を映像化するにあたり、社会と切断した、ゼロ年代にセカイ系と呼ばれたものの雛形として、秩序を向こうにまわし戦ったボニーとクライド(『俺たちに明日はない』)を記号化したドラマがあったが、誰もが知っている通り、ボニーとクライドは悲劇である(これがシドとナンシーだったらもっと喜劇的だったろうに)。そこにはカタルシスに向かって感情を増幅させていくヴェクトルがあり、それはきわめて音楽的であるだけでなく、一面的に音楽的、つまり予定調和であり様式である。
はたして彼女はその数時間後に、シェーンベルグから〈メゴ〉に至るまで、形式と抽象主義の大国オーストリア出身の俳優と結婚したのだが、いいたいのはそんなことではない。結婚の翌日か翌々日に彼女は「私はこれからも私であり続ける」というふうなコメントを出した。ここで彼女いう「私」はどんな「私」だろうか? 彼女個人ばかりでなく、90年代後半から彼女が音楽を通して代弁してきた、無数のシチュエーションとそこに直面した無数のひとたちの心情はそこに含まないのだろうか? 結婚という人生の転機においてさえも変わらない「私」とはなんだろうか?
私には妻も子もいる(だんだん文章が妙な方向にいきそうだが......)。家庭をもつ身には家賃が高い上に狭い東京のマンションの一室では音楽さえまともに聴けない。『明暗』の津田のように親の援助を得られない境遇ではなおさらで、家人が寝静まった夜に蚊の鳴くような音でストゥージズを聴くこともしばしばである。私は強がってそこにこそ発見があるとはいわないけれども、主体はつねに状況の変容の憂き目に晒されていて、「私」は変わることは前提にある。もちろん状況とは結婚そのものを指してもいて、彼女は旧態依然とした結婚という制度に絡めとられないと宣言したとも考えられなくはない。では、ジェンダーが問題になるかといえばそうではない。ジェンダーの基底にある社会と制度、そこで拮抗する進歩主義と保守主義の両面から中心を眺めるときの視差があり、感覚的に後者に目を瞑ることで、主体である「私」は遠近感が曖昧にならざるを得ないということかもしれない。私は保守主義に与したいのではなく、制度をとりまく考えの両翼が問題にする以上に現状は屈折しており、結婚しようとしても簡単にできるものではない。との前置きを置くなかでは、戦後すぐの作家たちの初期設定だった家族観を共有できた時代--江藤淳が戦後の象徴とし、上野千鶴子が「男流」と呼んだ小島信夫に代表される家族観への両者の意見こそ視差だろう--はいまの時代、牧歌的にすら映るが、牧歌的な風景において当の「私」は家族という集団のなかで一筋縄ではいかない個別の問題を抱え翻弄される。それは古典的な制度の特異点かもしれないが、特異点としての「私」は普遍性への迂回路として機能しはじめる、そしてそういった特異点は関係性のなかにしか存在し得ないと小島信夫であれビーフハートであれいっていたように思える。浜崎あゆみにはそれがない。彼女の「私」は代名詞でこそあれ、変数ではない。90年代末、あるいはゼロ年代初頭に彼女が代弁していた最大公約数としての「私」は消え、彼女はすでにマジョリティの声ではない、というのは、産業としての音楽の斜陽化と、ポップ(アイドル)ミュージックにおける人工美がさらに加速したことが原因かもしれないし、背景にあるハイパー個人主義は多数派を作ることすら躊躇わせる何ものなのかもしれない。ハイパー個人主義というより個人主義のインフレーションが起こったこの10年は同時に、先鋭性とひきかえに金メッキのように薄く引き延ばされた(新)保守主義が社会の表層にはりついた10年だったといいかえてもいい。カルチャー全体の古典回帰はその背景と無縁ではないと思うし、私もこの数年古典に触れる機会は多かった。小島信夫しかりキャプテン・ビーフハートしかり。それらには制度/形式という組織体が存続するかぎりそこに巣くっていて蠕動する感じがある。かつてそうだっただけでなくいまでもそうなのである。そのとき「私」というものはそこでは、任意の空間における任意の点であるだけでなく、ブラウン運動をする点どうしの特殊な関係性のなかで、不確定性原理に似た対象との関わりを持たざるを得ない。となると、「社会は存在しない」という観点と、(ポスト・)フェミニズムをあわせて検証することになり、煩雑かつ長大になるので避けるが--後者については、『ゼロ年代の音楽 ビッチフォーク編』(河出書房新社)という本があるのでそちらを参照ください--ゼロ年代以降の「私」のうしろには公約数が控えているのではなく無限の匿名性が広がっており、もとが匿名的だったダンス・カルチャーの停滞はゆえなきことではなく、無数のジャンルが乱立したのは反動かもしれない。しかしそれぞれが音楽の制度であるジャンル・ミュージックとの関係を特殊に保つかぎり音楽はいくらか延命する可能をのこしている。ビーフハートのようにわかれないものとして、歴史のなかに宙づりになって。
彼はいまは絵描きとして暮らしているが、ほんとうにまた音楽をはじめるチャンスはゼロなのだろうか。そう思う間もなく、浜崎あゆみの入籍より2週間も早く、ビーフハートは鬼籍に入ってしまった。
キャプテン・ビーフハートことドン・ヴァン・ブリートは2010年12月17日に没した。その2週間前、高校の同級生で『トラウト・マスク・レプリカ』をプロデュースしたフランク・ザッパの命日にあたる12月4日に、トークショウで湯浅学氏とザッパについて話した。
「ザッパはキャプテン・ビーフハートの才能に嫉妬してはいなかったでしょうか?」
私はそう訊くと、湯浅氏は「それはあっただろう。ビーフハートみたいに形式を無視した音楽を作ったひとは、ザッパのような音楽主義者には疎んじられただろうが、憧れられもしただろう」
そう述べたのは、ビーフハートの音楽はデルタ・ブルースを土台にしたが、やり方はブルースを洗練させるものではなく、緊張させ、野生化したのだといいたかったと思われる。それがもっとも顕著にあらわれたのはいうまでも『トラウト・マスク~』だが、その前の2作『セイフ・アズ・ミルク』『ストリクトリー・パーソナル』にしてもブルースに収まりきらないものはある(後者は彼らの英国ツアー中にマネージャーが勝手にだしたものだが)。ただ遠心点をどこに置くかには迷いというか、若干の逡巡はかんじる。逆説的にいえば、ブルースはおろか、音楽さえも追い越す音楽をこの世に生み出すことの畏れを乗り越えた結果、この世に生まれたのが『トラウト~』だったといえる。それほどこのアルバムはたいへんな戦いの涯に生まれた。「作曲8時間、練習1年、録音1週間」かかったとこのアルバムは語り草になっている。しかし筆舌に尽くしがたかったのは、音楽よりヴァン・ヴリートの意を汲むところにあった、と当時マジック・バンドの一員だったズート・ホーン・ロロことビル・ハークルロートは『ルナ・ノート』(水声社)で『トラウト~』の制作過程を述懐している。
「俺はなんとなくもう『奴隷犬』みたいになりかけていた。不可能と思われるパートの練習に三時間も悪戦苦闘し続けて、豚のように汗まみれになっていたのを思い出すな。実際、それは絶対に不可能だったんだ! 最終的に俺はその八十パーセントぐらいを達成し、俺にできる限りのことはやったという結論に落ち着いたが、それは実に九ヶ月の間この曲を練習続けた後のことだ! 何より最悪なのは、どこで曲が終わるか、曲の長さがどのくらい引き延ばされるのか、いつ変更されるのかもわからない。はっきり言ってドンの気まぐれ次第だったんだ」
ヴァン・ヴリートはほとんど弾けないピアノを叩きながら『トラウト~』の曲を作曲し、マジック・バンドのメンバーに声音を使ったり色や情景で説明したりしたという。カリスマといわれるミュージシャンにありがちな過剰な自意識がそこに絡んでいるようにみえる。しかしそのエゴはただ肥大して存在を誇示するのではなく、周囲を飲みこみ、世間と衝突する運命にあった。およそ最悪な独裁者といわれてもしょうがないヴァン・ヴリートのコントロール・フリークぶりと疑心暗鬼と独善性は、彼の音楽が理解されないことへの怒りの裏返しであり、また同時に理解され得ない音楽に執着せざるを得ないみずからへの苛立ちの反動でもある。ロバート・ジョンスンが十字路で悪魔と取り交わした契約に、69年のドン・ヴァン・ヴリートは手を染めた......と書くと情緒的に過ぎるが、それほど『トラウト~』の異質さはロック史に鮮烈にのこっている。そして、つけくわえるなら、サマー・オブ・ラヴの時代の悪魔はすくなくとも戦前よりトリッピーだったはずだ。
ハークルロートはこうも述べている。
「ドンの創造力というのは、純粋に音楽的な意味では、あまり明確な形を持ってないんだな。むしろものの見方が彫刻家の目なんだよ。音も、体も、人も、全部道具として見ているのさ。結局彼のバンドの一員としての俺達の使命は、彼の持つイメージを、何度でも再生可能な『音』に変えることだった」
ハークルロートが彫刻家にどんなイメージをもっていたかはわからない。しかしヴァン・ヴリートの音楽をこれほど的確に表す評言もない。ポリフォニーともヘテロフォニーともいえる音楽の構造を空間の奥行きに置き換えたキャプテン・ビーフハートと彼のマジック・バンドは、フィル・スペクターやビートルズがスタジオに籠もって行った実験を、灼熱の砂漠にもちだしたといっても過言ではない。ビーフハートにはオーディオマニアックな人間がよろこぶ立体感やら奥行きやらはない。がしかし、どもるようにシンコペートし、強迫神経症のようにイヤな汗をかいたままループするフレーズの数々は、一音一音がそれぞれを異化し、触れられるほどの物質感をもっている。前からだけでなく、後ろからも斜めからも眺められる。賢明な読者のみなさんはもうお気づきかと思うが、それはまるでサイケデリックな体験の渦中のようだ。
追記:浜崎あゆみの入籍から3日後、元ジャパンのベーシスト、ミック・カーンが物故者になった。『トラウト~』の13曲目、"Dali's Car"と同名のバンドを元バウハウスのピーター・マーフィと再始動しようした矢先の訃報だった。ヴァン・ヴリートと同じく絵描きであり彫刻家でもあった彼のベース・ラインは音楽の規範を逸脱した、ハークルロートにならうなら、まさに彫刻的なものだった(とくに『錻力の太鼓』のアイデアは、ホルガー・シューカイとジャコ・パストリアスをつなぐものだったとも思う)。
ともにご冥福をお祈りします。
ここ数年でブリアルのセカンド・アルバムとザ・XXのデビュー・アルバムを繰り返し来ている人は、デトロイト・ハウスの暗い冒険における第三の男による25年目にして最初のオリジナル・フル・アルバムを気に入るんじゃないだろうか。試しに最初の3曲を聴いてみるといい。アマゾンのサイトで聴ける。
2010年は、最初の3枚のシングルを編集した『ザ・ゴッサム&ソウル・エッジ』と自身が経営するレコード店の名前を冠した、デトロイトとシカゴのディープ・ハウスのコンピレーション『ヴァイブス・ニュー&レア・ミュージック』の2枚のアルバムを発表したリック・ウェイドが、2011年新春は彼にとってのファースト・アルバムをリリースする。『アナログ・アクアリウム』がそのタイトルである。"アナログ"という言葉にはもちろんアンチ・デジタルという意味が込められている。デリック・メイからムーディーマン、あるいはDJノブがときに主張するここ最近の"アナログ"志向は、なんでも新しい技術を受け入れればいいとういものではないという、ある種の抵抗運動である。この正月、僕は静岡でデリック・メイのDJを聴いた。デリックが「ここだ!」というタイミングで激しいイコライジングを繰り返しながらミックスするロバート・オウェンスの"ブリング・ダウン・ザ・ウォールズ"をしっかり受け止めることができたオーディエンスは決して多くはなかったが(90年代が懐かしすぎる!)、しかし相変わらず3台のデッキとミキサーを使って"演奏する"彼のDJは、目新しさはないものの、依然としてフロアを揺るがす力を持っている。とくにリズムにアクセント付けるためのあのこまめなイコライジングはいつ聴いても感心する。あれだけやれば、誰もが踊ってやろうという気になる。
リック・ウィルハイトにおける"アナログ"もイコライジングにあるが、デリック・メイのリズミカルなそれとは違う。彼の仲間のひとり、セオ・パリッシュと同じように、ウィルハイトはより過剰に、サイケデリックと呼びうる領域まで音域を変化させる。『アナログ・アクアリウム』は、そうしたデトロイト・アンダーグラウンドの生演奏による作品だ。
しかし......"アクアリウム"と呼ぶには抵抗があるほど、これはダーク・ソウルなアルバムである。スリーヴアートはカラフルだが、どう考えても中身の音楽とリンクしない。冒頭にも書いたように、スタイルこそ違えどブリアルやザ・XXのような真夜中の音楽だ。とりわけセオ・パリッシュとオスンラデが参加した"ブレイム・イット・オン・ザ・ブギ"、スリー・チェアーズの第四のメンバー、マルセラス・ピットマンが参加した"ダーク・ウォーキング"の2曲はデトロイト・アンダーグラウンドの闇のなかの光沢を魅力をたっぷりと見せつける。最小限の音数で、最大限の叙情を引き出す"ダーク・ウォーキング"もまたその真骨頂である。とくにマニアックなリスナーなら、嫌らしいほど一見単調な反復のなかに細かい変化を付けていく"コズミック・ジャングル"と"コズミック・スープ"の16分に陶酔するだろう。それでもアルバムの白眉はビリー・ラヴが逆立ちしながら呻いているような、さかしまのソウル・ミュージック、"ミュージック・ゴナ・セイヴ・ザ・ワールド"だ。ムーディーマンとも似た淫靡さがナメクジのようにうごめく、いわば打ちひしがれたミュータント・ファンクである。
『アナログ・アクアリウム』を聴けば、ムーディーマン系のディープ・ハウスもマンネリズムに陥っていると思っているリスナーも考えをあらためるのではないだろうか。スリー・チェアーズにおける第三の男は主役の座に躍り出ようとしている。何よりも彼らにアナログ主義という主張がある限り、デトロイトの実験的なハウス・ミュージックはまだまだ先に進みそうだ。
昨年のはじめにリリースされたディーズ・ニュー・ピューリタンズ(以下TNP)のセカンド・アルバム『ヒドゥン』を、今頃になって取り上げるのは他でもない、英国メディアが2010年の重要作としてこぞって賛辞を送るからである。『NME』などは年間ベストという特待ぶりだ。TNPとは何だろうか。クラクソンズらとともに2008年のシーンに浮上し、「ニュー・エキセントリック」等の呼称でメディアから祭り上げられた彼らは、身体性よりも観念を上位に置く点で、ブリティッシュの伝統に眠るプログレッシヴ・ロックの血統を呼び覚ます存在であったとも言えるだろう。セカンドとなる本作においてその傾向はいよいよ強まっている。一方でエディ・スリマンが惚れ込み、ディオールのショーに楽曲提供、また本人たちもモデルとして登場するなどデビュー当初からメジャー感のあるバンドでもあった。方法としては、ダークでミニマルなポスト・パンク的アプローチで強烈に異世界を立ち上げる。ポップ・マーケットにおいて、恋でもなく人生でもなく、種としての人類の卑小さを歌う。それが周囲に比して際立った存在感を放ち、批評性を帯びていることはよく理解できる。UKシーンはこうしたバンドの登場を欲していたわけである。
しかし、音楽的な評価については少し注意を払いたい。TNPがおもしろいのは、純粋に音のためではないと思うからだ。「iPodのイヤホンなんかのしょうもない音で聴いていたら、きっと新しいスピーカーが欲しくなるだろう。信じてほしい、これはバング&オルフセンを強奪してでも聴く価値がある。(NME)」実際には、おそらく本作の基調を成すブラスや教会風のコーラス隊は、音楽制作ソフトやシンセサイザーなどにプリセットされている音源であり、生音のダイナミズムといったものはない。どちらかといえば平板でちゃちなものである。むしろここで名状されている「iPod」的な音環境にフィットするとさえいえる。しかし、こう考えるのはどうだろうか。本作がおもしろいとすれば、バング&オルフセンなど出る幕のない、こうした平板さのためである、と。
TNPの佇まいや世界観には、英国中世への幻想をかき立てるところがある。ケルトの森、そこで束縛なく生きるアウトローたち、トラディショナルな楽器が奏でる陽気な舞曲、湿気と冷気にエキゾチックに覆われた伝承的な世界。そして、それを脅かす鎧と剣の世界。TNPのモチーフに重なるのは後者である。"ウィー・ウォント・ウォー"の「ウォー」のイメージは近代戦争ではありえない。トラック半ばで丁寧に「シュキン!」という長剣の音がフィーチャーされているが、その「シュキン!」は、我々が映画やアニメ、ゲームで親しんだファンタジックな中世を象徴するような音だ。本当のところがどうであれ、あの音をきくと無意識に宝飾や意味ありげな刻印のある西洋の剣を思い浮かべるだろう。シャーマニックなドラムと勇ましいブラスに縁どられ、呪文のようなつぶやきがミニマルな展開で高揚を生むこのポスト・パンク・チューンは、CGをふんだんに使った制作費何十億円という歴史ロマンやファンタジー映画が持つ、不思議な平板さを感じさせる。
けっして論難するのではない。この平板さにリアリティを見たいのである。彼らは生楽器や西洋音楽の正統を継ぐブラス・アンサンブルを、まるで抵抗なくフェイクな音で代用する。彼らが好む中世や古代のイメージもまさに大衆映画的なもので、しっかりと考証されたものというよりはいつか見た勇者とお姫様のRPGのそれと本質的には変わらない。立体的で肉感的な世界をペラペラに圧縮するものである。歴史や時間性を簡単に飛び越えてしまう。本作は、そのようなCG/ゲーム/アニメ的な想像力で成り立ったアルバムである。ただし「虚構の世界をテーマとしたコンセプト・アルバム」などといったものとはおよそ違う。彼らにとってゲーム/アニメ的な世界はコンセプトなどではなく環境なのではないかと思える。音の安っぽさやファンタジー風の世界観はネタではない。彼らにとってオーソドキシーやオーソリティといったものは最初から意味を失っていて、このいびつで半出来なゲーム的音楽こそがリアリティなのではないか。ゲームに詳しくないのだが、それはニンテンドーのピコピコをサンプリングするという態度とも違っている。古い機器に対するフェティシズムを伴う、そんな批評的な遊戯ではない。これは自然であり環境。2次元的な虚構の世界だということは百も承知だけど、でもそんなのはもう普通で、みんなそうでしょう?と。べつに現実の世界にとくに期待するわけでもないし、任意に選んだ好みの世界で、好きなことをやっているだけなのだ、と。よってTNPの音を「ディストピア・ミュージック」として評価するのであれば、彼らの趣味性ばかりでなく、彼らの思惑を超えたところで、その在りよう自体が図らずもポスト・モダンのディストピア的な側面を体現しているととらえるのが正確だ。それはグローファイ/チル・ウェイヴ的な音について、政治的な批評性を欠く逃避音楽だとする「大人」たちからの批判に、「いや、これはオルタナティヴなサイキック・リアリティを伐り拓くものである」と応酬した「チョコレート・ボブカ」のマックレガー氏の言葉にまで繋がっていくだろう。
"5"のリリックに「すべての木々が歩きはじめ、すべての河が話しはじめる」という部分がある。『NME』誌は「ここにおいて彼らは"タイム・ゾーン"(1曲目)の葬送のモチーフから自然の再生へと円環する」と結論しているが、そのリリックには決定的な続きがある。「それってデジタル操作でそうなるだけなんだけど」。あらゆる情報が平板な一画面に並ぶ世界に彼らと我々は生きている。『ガーディアン』誌はダーティ・プロジェクターズやヴァンパイア・ウイークエンドを引き合いに出しながら、インターネットが可能にした彼らのグローバルな感覚と想像力をTNPにも見出そうとしている。モニター上ですべてのことが起こるこの底の抜けた世界で「ほんとうのこと」とは何か。そこでは木も歩き、河も言葉を話す。TNPはこうした世界をデフォルトとして生きることで、音に強度と説得力とを獲得しているのだろう。
『ガーディアン』に、1月12日掲載の「ロック・イズント・デッド、イッツ・ジャスト・レスティング(ロックは死んでない。ただ休んでいるだけ)」と題されたブログ記事がある。これは同紙がたきつけた『NME』との「ロックは死んだ」論争のひとつのアンサーだが、週間チャートに占める割合の低さなど全体的なロック不況を指摘しながらも、大きな跳躍力でもってロック・バンドが前線に飛び出てくることを期待する文章である。やはり、というか、もちろんUK国内でもロックの不調に対する深刻な認識があるのだ。これを休息ととるか衰微ととるか、次に何が生まれてくるのか、それとも何も生まれないのか。こうした黎明とも薄暮ともおぼつかない状況下で、オアシス系のコミューナルなバンド・サウンドではなく、TNPというプログレ的なひきこもり音楽に国内メディアの期待が集まっているのはとても興味深いことだ。
ちょっとちょっと、これは格好いい! 2011年注目のひとつ、相模原のヒップホップ・クルー、シミラボ(SIMI LAB)からアース・ノー・マッドの"Don't Touch Me feat. QN From SIMI LAB"のPVが到着した。待望のアルバム『Mud Day』は、〈SUMMIT〉より3月25日にリリース予定。