「Low」と一致するもの

Second Woman - ele-king

 2017年、セコンド・ウーマンの新作『S/W』が〈エディションズ・メゴ〉傘下の〈スペクトラム・スプールス〉よりリリースされた。〈スペクトラム・スプールス〉は、元エメラルズのジョン・エリオットが主宰するレーベルで、イヴ・ド・メイ、コンテナ、ニール、ドナート・ドジーなどシンセティック/エクスペリメンタルな電子音楽を数多くリリースし、マニアから絶大な信頼を得ている。

 セコンド・ウーマンは、その〈スペクトラム・スプールス〉から、2016年にファースト・アルバム『セコンド・ウーマン』をリリースすることでデビューしたユニットである。とはいえ、彼らは「新人」ではない。メンバーは、あのテレフォン・テル・アヴィヴのヨシュア・ユーステスと、〈クランキー〉からのリリースで知られるビロングのターク・ディートリックなのである。
 もはや説明は不要だろうがテレフォン・テル・アヴィヴは、00年代エレクトロニカにおける最重要ユニットである。近年、〈ゴーストリー・インターナショナル〉からファースト・アルバム『ファーレン・ハイト・フェア・イナフ』とセカンド・アルバム『マップ・オブ・ホワット・イズ・エフォートレス』がリイシューされ、改めて00年代エレクトロニカ/IDMの再発見に一役を買っている存在だ。
 対して、ヨシュアがメンバーでもあるセコンド・ウーマンでは、「現在進行形のエレクトロニック・ミュージック/電子音響」を提示する。いわば、マーク・フェル以降のグリッチ・ミュージックとテクノとアンビエントの交錯の実現である。むろんそれは単に「テクノ化する」という意味ではない。いわば00年代のグリッチ/クリックから10年代のアンビエント/ドローンに移行したときの「中間地点」を、もういちど見直し、それを現代的な音響作品として(再)生成する試みなのである。いわば、グリッチ・テクノとアンビエント/ドローンの融合という形式の実現だ。
 それでも前作であるファースト・アルバム『セコンド・ウーマン』には、いかにもテクノ/IDM的なミニマリズム=反復性の残滓があったことも事実である。しかし、その反復性は、BPMの揺らぎによって、内側から機能を停止され、グリッチ的に散らばるサウンドの粒が次第に融解していくような感覚も聴き手に与えていた。これが重要なのだ。今ならば、『セコンド・ウーマン』は、10年代的なインダストリアル/テクノ的な重厚さを一度、解体するようなサウンドであったと理解できるだろう。このアルバムの真の役割は、インダストリアル/テクノなど、テン年代初頭のエレクトロニック・ミュージックを、一度、終わらせたことにある。

 そして、EP「E/P」を経由し、リリースされたセカンド・アルバム『S/W』においては、グリッチ・ノイズの音とテクノ的な反復が、シンセ・パッドの音色の中に融解しかけており、新しいアンビエントな音楽/音響として再生成されていく、そんな新しい感覚を生み出していた。グリッチでもあり、テクノ的であり、フットワーク的でもあり、アンビエント的でもあること。00年代のグリッチ/クリックから10年代のアンビエント/ドローンの「あいだ」に存在していた「かもしれない」のサウンドを、セコンド・ウーマンは構築しているのである。

 同時に、本作は、後半になるに従い、まるで時間がループするかのように、次第にテクノ的反復性が、表面化するような構成になっている。曲名が「/」で統一され、“/”、“//”、“///”、“////”となっていくわけだが、ちょうど折り返し地点である5トラックめ以降は、“////\”、“////\\”、“////\\\”……とバックスラッシュが逆向きから支える表記になっており、そこからもこの「反転」が意図的なものだと分かってくる。アルバム・ジャケットも赤と白で反転=対称的である。
 時代のヘゲモニーは、ある真理が、空虚=洗練に辿り着いたとき、すべてが反転する。本作のアンビエントからテクノへの反転は、そんな時代の反転(反動ではない)を象徴しているように思えてならない。彼らは「グリッチ以降とアンビエントの中間領域に消え去った音」=「消え去った二番目の女」を探し求めるうちに、また最初の地点へと戻ってしまったのだろうか。ループする並行世界の只中を生きるように。

 まあ、そんな妄想はさておき、少なくとも本作は、エレクトロニカの並行世界を生きているふたりによる「かつて、あったかもしれないサウンドの捜索(=創作)」の中間報告書ともいえるアルバムではないかとは思う。彼らは00年代以降の電子音楽/エレクトロニカ特有の「空虚さ=ミニマリズム」を現代からもう一度、辿りなおしてみせる。その結果、「かつてありえたかもしれない」グリッチとテクノとアンビエントの、精密で、マシニックで、美しい音のタペストリーを、われわれに向けて提出することになるのだ。
 2000年代末期から2010年代初頭にかけて、クリック&グリッチなサウンドが、もしも急速にロマンティックなドローンへと反動的に転換せずに、あの〈ミル・プラトー〉の理想を受け継ぐように、アンビエントとグリッチが融合・交錯していたら? そんなエレクトロニカ/電子音響の並行世界を、彼らはセコンド・ウーマンとして意図的に生成するのだ。そんな気がしてならない。
 真の未来とは、そして、本当の新しさとは、香水の残り香のように消え去った近過去の中に優雅に漂っているものだ。それは電子音楽でも変わらない真理である。セコンド・ウーマンの電子音には、そんなエレクトロニカ/電子音響の「二回めのゼロ地点」を聴き取ることができるはずだ。

special talk : ISSUGI × CRAM - ele-king


ISSUGI & GRADIS NICE
THE REMIX ALBUM "DAY and NITE"

Pヴァイン

Hip Hop

Amazon Tower HMV iTunes


CRAM & ILL SUGI
Below The Radar

Moevius

Hip Hop

Amazon Tower

 ISSUGIとCRAMの対談をお送りする。CRAMとは、ISSUGIがビートメイカー/DJのGRADIS NICEと共作した『DAY and NITE』のリミックス盤『THE REMIX ALBUM "DAY and NITE"』にリミキサーとして参加したビートメイカーである。ISSUGIとKID FRESINOと5LACKの3人がマイクリレーする“TIME”という哀愁漂う曲を、80年代の“ソーラー・サウンド”を彷彿させるファンク・フレイヴァーと強烈なアタックのビートで構成されたダンサンブルなリミックス・ヴァージョンに生まれ変わらせている。が、これはあくまでもCRAMのひとつの表情であり、彼のサンプリングを主体としたビートはより多彩な表情とウネリを持っている。

 この若き才能、CRAMについてもう少し説明しておこう。彼は1991年生まれ、福岡出身のビートメイカーで自主制作で数多くの作品を発表、bandcampではこれまで創作してきたビートが大量に聴ける。ISSUGIが毎月発表した7インチをコンパイルした『7INC TREE』にもビートを提供、昨年末にはラッパー/ビートメイカー、ILLSUGIとの共作ビート集『BELOW THE RADAR』をリリースしている。手前味噌だが、後者の作品は、僕が運営に関わる『WORDS & SOUNDS』というレヴュー・サイトでも取り上げさせてもらった。また、CRAMは6月末に、すでにbandcampとカセットテープで世に出した『THE DEVIL IN ME』という作品をCD-Rという形で発表する。このスピード感も彼の武器だ。

 例えばトラップだけが新しいラップ・ミュージックであり、ブーム・バップは90s懐古趣味のヒップホップであるという認識を持っている方がいるとすれば、それは安直である、とだけ指摘しておこう。そのように、新旧のスタイルを二項対立で理解できるほどこの音楽文化は単純ではない。ISSUGIを聴いてみるといい。彼は、黒い円盤がターンテーブルの上をグルグル回りながら新しい音を鳴らしていくように、自分のスタイルを堅持しながらラップとサウンドを更新し続けている。CRAMは、サウンド、リリース形態、そのスピード感も含め現在の世界的なビート・ミュージックの盛り上がりに共鳴している。そんな2人によるラップとビートと創作を巡る対話である。まず2人はいつ、どこで出会ったのだろうか。

冗談じゃなく、CRAMは天才だと思ってます。これだけは書いといてください。俺こういうことあんまり言わないんで(笑)。 (ISSUGI)

トロントはそれぞれのシーンが小さいからひとつのパーティにヒップホップのビートメイカーだけじゃなくて、エレクトロとかダブステップの人たちもみんな集まるんです。そこでヒップホップだけじゃないノリも吸収できたかなと思います。 (CRAM)

ISSUGI:たしか福岡の〈CLUB BASE〉で会ってCD-RをもらったときにCRAMとはじめて会いましたね。レーベル面の赤い、黒のレコードの形のCD-Rだったと思う。

CRAM:僕は高校のときにMONJUの3人で出場しているMCバトルの映像を観てはじめて知りました。司会がDARTHREIDERさんでした。

ISSUGI:〈3 ON 3 MC BATTLE〉(〈Da.Me.Records〉と池袋のクラブ〈bed〉が主催していたMCバトル)だ。

CRAM:それからMONJUの『Black.de ep』を聴きました。

『Black.de ep』を最初に聴いたときのインパクトはどんなものでしたか?

CRAM:スネアの音がめっちゃ小さいのにグルーヴがあるのがかっこよかった。90sのヒップホップってドラムの音にインパクトがあって大きいじゃないですか。ドンッドンッダッーン!って。そういうビートとは違うかっこよさがあって16FLIPが好きになりました。

ISSUGI:うれしいですね(笑)。

CRAMくんが2016年にリリースした『Call me 3324"CD-R"』の紹介にBOSSのSP-303、SP-404といったサンプラーを使っていると書かれていますよね。最初からSPで作り始めた感じなんですか?

CRAM:いちばん最初はMacのGarageBandです。それからマッドリブやMFドゥームを知って、SP404の存在も知ったんです。それで当時は安かったのもあって買いました。その後、マッドリブが使っているのが広く知られるようになって、いまはめっちゃ値段が上がってますね。

SPの好きな点、SPでビートを作る理由は何ですか?

CRAM:MPCだと音があたたかくてディラっぽい音になってそれはそれでかっこいいんですけど、SPはデジタルっぽい音、冷たい感じになるのが好きなんです。みんなと違う音を出せるのもいいなって思ったのもありますね。

ISSUGI:俺はCRAMのビートを聴いて、まず音の鳴りがヤバいって感じましたね。それからグルーヴをナチュラルに理解してるなって感じさせるところと、メロディのかっこよさの3つですね。全部のパーツが生き生きしていて意味のある動きをしているんです。しかもデモ音源で聴いてもありえないぐらい音がデカい。マスタリングをしていないのにバッチリ音が出せているのは耳が良い証拠だと思いますね。いまSoundCloudで公開されてる“Ride Or Die”っていうビートもヤバいっすね。

CRAMくんは独自に、ナズやジェイ・ZやレイクウォンといったUSのラッパーのリミックスもかなりやっていますよね。

CRAM:「俺のビートでジェイ・Zが歌っとうや! バリかっけぇ!」っていう感じで始めたのがきっかけでしたね。

ははは。今回、『THE REMIX ALBUM "DAY and NITE"』では、 ISSUGI、KID FRESINO、5LACKがラップする“TIME”をリミックスしています。ISSUGIくんからのディレクションはあったんですか?

ISSUGI:CRAMにはアカペラを全部送ったんですけど、“TIME”は絶対やってほしいと伝えましたね。CRAMにはリミックスを作るセンスがあると思ってるんで、メロディの入ってくる“TIME”をリミックスしてほしかったんです。

CRAM:日本語のラッパーのリミックスは初めてだったんですよ。ISSUGIさんから依頼されたのもあって、最初は意識しすぎて16FLIPに寄せた音になっちゃったりもしたんです。自分の色を出すために何度も作り直しましたね。時間はかかりました。

ISSUGI:でも俺はCRAMに関しては、マジで100%言うことないと思ってる。冗談じゃなく、CRAMは天才だと思ってます。これだけは書いといてください。俺こういうことあんまり言わないんで(笑)。

CRAM:ありがとうございます。

ISSUGI: REMIXって場合によってはビートよりラップの方が前に“走っちゃう”こともあるんです。俺は自分で作った曲のBPMやピッチを数字でおぼえてないけど、俺がラップしている曲だから、ラップが走ってるって俺が感じたらそれは走ってるんですよ。CRAMはその点でバッチリだった。ラップのタイミングをわかってる。CRAMのオリジナルの曲を聴いていてもそこが絶対間違いないとわかってましたね。

CRAM:MASS-HOLEさんとISSUGIさんで対談してる記事があるじゃないですか。

ISSUGI:『1982S THE REMIX ALBUM』をリリースしたときの対談だ。

CRAM:そこでISSUGIさんが自分のラップの乗せるタイミングについてMASS-HOLEさんにけっこう指摘したというのを読んだから、「うわ、これ、バチッとせなイカンやん」って。

ISSUGI:「こいつ、厳しいぞ」って(笑)。

ははは。CRAMくんはビートメイカーとしての基礎というか、リズム感やビート・メイキングする際の感覚をどのように手に入れていきましたか。

CRAM:ひとつはトロントですかね。カナダのトロントに一時期住んでいて、そこで感じた海外のノリがめちゃくちゃ新鮮でした。トロントはそれぞれのシーンが小さいからひとつのパーティにヒップホップのビートメイカーだけじゃなくて、エレクトロとかダブステップの人たちもみんな集まるんです。そこでヒップホップだけじゃないノリも吸収できたかなと思います。SoundCloudを通じて知り合った友だちのビートメイカー、CYがたまたまトロントに住んでたんです。一緒にパーティに遊びに行ったんですけど、そこで「『SP持ってきて!』って言えばよかったねー!」って言われて、「いや、実は……」ってバッグに忍ばせていたSPを取り出してライヴしたんですよ。そしたら、「お前、ヤバいから次もライヴして!」ってなって、トロントのシーンに乗り込んでったっすね(笑)。

ISSUGI:いいね、いいね。

ところで、ISSUGIくんは『THE REMIX ALBUM "DAY and NITE"』をどのように作っていったんですか?

ISSUGI:リミックス・アルバムを作ること自体、超久々だったので楽しんで作りましたね。『Thursday』のときに5曲のリミックスを入れた作品(『THURSDAY INSTRUMENTAL & REMIXES』)を出したり、それ以降、曲単位でのリミックスはありましたけど。今回はメロウな感覚がいつもより2割増しぐらいで出ましたね(笑)。それと新曲が何曲かあると聴く人も楽しいと思って新曲も入れてます。

“SPITTA feat. FEBB (Prod. by MASS-HOLE)”と“RHYZMIK & POET (Prod. by FEBB)”の2曲が新曲ですよね。“D N N”はNYのブロンクスのGWOP SULLIVANっていうビートメイカーが作ってますね。

ISSUGI:そうですね。“D N N”は新曲ではなくて、ある曲のタイトルを変えてみましたね。GWOP SULLIVANはO.C.のアルバム(『SAME MOON SAME SUN』)の“Serious”っていうビートを聴いて超ヤバいなと思ったのがきっかけですね。

仙人掌をフィーチャーした“MID NITE MOVE”はGRADIS NICEと16FLIPの2曲のリミックスがありますね。

ISSUGI:同じ曲のリミックスが2曲入っているのがリミックス・アルバムっぽいなって思って入れましたね。だから、自分がリミックス・アルバムと思う要素を詰め込んで作りましたね。このGRADIS(NICE)のリミックスは、俺が(ラップを)乗せたいと思うビートを選んで作ったんですよね。

ISSUGIくんとCRAMくんにはビートの共作のやり方や考え方についても聞きたいですね。ISSUGIくんがいまFRESH!でやっているレギュラー番組の「7INC TREE -TREE & CHAMBR-」ではBUDAMUNKと共作する様子を放送したりしてますし、本作の冒頭曲“BLAZE UP”は JJJがドラムで、プロデュースは16FLIPとクレジットされてますよね。一方、CRAMくんもこれまでAru-2との『MOVIUS ROOPS EP』、ILLSUGIとの『BELOW THE RADAR』といった作品もあります。

CRAM:『BELOW THE RADAR』に入っている曲は、ILLSUGIが「これ、良くね?」とか言ってネタを選んで、僕は「うーん、どうだろう、でもやってみるか!」と思いながらSP404を駆使してかっこよくしていきました。

ISSUGI:はははは。CRAMが組み立てていったの?

CRAM:あの曲に関してはそうですね。ILLSUGIが上ネタのシーケンスを組んで、僕がドラムを打ちました。それでかっこよかったらアルバムに入れようって感じでした。『MOVIUS ROOPS EP』の場合は、まずAru-2がピロ~ッてシンセを弾いただけの、ビートもない、BPMもあってないような音を送ってきたんです。そういう、「これをどう使うの?」みたいな素材をチョップしたりフリップしたりして組み立てていきました。そうやって頭を捻って考えて作るのが好きなんですよね。

ISSUGI:俺は人が打ったドラムに自分がネタを入れるのが好きですね。“BLAZE UP”も最初にJ(JJJ)がドラム・ループだけ送ってきたんですよ。「何かを入れて返してください」という感じで。元々は今回のリミックス・アルバム用ではなかったんですけど、そのドラムが気に入ったから上ネタだけ入れて返すタイミングで、「リミックス・アルバムで使わせてもらえないか?」と頼んでOKしてもらいました。そこからベースとかを足してビートとして完成させましたね。すごく気に入っています。

RAPも含めてドラムからどのパートも前に行っちゃダメだっていうのはありますね。 (ISSUGI)

鼻唄で「フンフン~♪」って歌えるのが僕は良い曲だと思います。音楽やっていない人もつかめるのも大事だと思いますし、そこは意識していますね。 (CRAM)

「7INC TREE -TREE & CHAMBR-」の第2回目の放送でBUDAMUNKのビートにISSUGIくんが上ネタを足していくシーンがあるじゃないですか。ビートをループさせて、あるフレーズをいろんなタイミングで鍵盤で弾いて被せたりしていましたよね。

ISSUGI:これまでに曲を作りまくってきてるんで、ここで終わりだっていうタイミングが自分のなかにあってそこに入れていくんです。そこに入れられたら完成でストップしますね。

CRAM:僕もそこを見つけたらそれ以上は深く考えないで終わりにしますね。それ以上やるとドツボにハマっちゃうんで。ピッて止めますね。

ISSUGIくんはラップのレコーディングにもそんなに時間をかけない印象があるんですけど、ラップに関してはどうですか? 一発OKが多いですか?

ISSUGI:1回で録れるときもあるけど、ハマるときはもちろんありますよ。10回とか15回とか録り直すときもある。

CRAM:ハマったときはどうするんですか?

ISSUGI:くり返し録り直しているときは、リリックやフロウというよりも、ビートにラップを乗せるタイミングを調整しているね。速過ぎてもダメだし、遅過ぎてもダメだから。1小節めから16小節めまですべてが自分の頭のなかにあるリズムで置けたときにひとつのヴァースが完成じゃないですか。それと気持ちですね。その2つです。

さきほどISSUGIくんが、ラップがビートよりも先に“走っちゃう”とダメだという話をしていましたよね。その感覚はとても面白いと思いました。

ISSUGI:いまの時代はいろんな音のバランスでグルーヴを作ることができるので、グルーヴに関してもいろんな考え方があると思うんです。記憶が曖昧なので違ってたら申し訳ないんですけど確かマイルス・デイヴィスがどの楽器の演奏もドラムより絶対先に走っちゃいけないと語っていたんです。それを知ったとき、間違いないなと思いました。自分のなかの基本もそれなんですよね。RAPも含めてドラムからどのパートも前に行っちゃダメだっていうのはありますね。

なるほど。

ISSUGI:俺が好きで聴いているUSのラッパーとかミュージシャンの多くが当たり前に持っている感覚だと思うんです。黒人のラッパーでラップが走ってるヤツとか余り聴いた事ないので。多分HIPHOPの前にJAZZとかSOULとかがあったからだと思うんですけど、日本の音楽は走ってるなと思うときもありますね。ちょっと前にJJJが面白いことを言ってたんです。Jが福岡のクラブのイベントに行った時、フロアでずーっとビートを裏でノッてるヤツがいたらしいんですけど、Jは「こいつだけ裏でノッテルな」と思ってたらしくて、その日ビートのショウケースを観たらそいつが出てきてそれがCRAMだったんですよね。ビートを聴いたら「やっぱりヤバかった」って言ってて。CRAMはリズムキープの感じもやばいと思いますね。とぎれず円を描くようなループの感じ。

CRAMくんは、創作における鉄則というか、曲作りやビート・メイキングに関して意識していることはありますか?

CRAM:鼻唄で「フンフン~♪」って歌えるのが僕は良い曲だと思います。音楽やっていない人もつかめるのも大事だと思いますし、そこは意識していますね。だから、メロディアスなビートが僕は好きですね。

あと、「7INC TREE -TREE & CHAMBR-」でISSUGIくんがBUDAMUNKに「ファンクとは何か?」と訊くシーンがあって、これまでISSUGIくんがファンクという言葉を使っているのをあまり聞いたことがなかったのもあって興味深かったです。

ISSUGI:そうなんすよ。俺、最近ファンクが超気になっちゃってるんです。fitz(fitz ambro$e/ビートメイカー)っていうヤツが、〈Weeken'〉で俺がDJ終わったあとに、「超DJヤバかったよ。ファンクを感じたね」って言ってくれたことがあったんです。TRASMUNDOのハマさんにも「ISSUGIくんはファンキーだよね」って言われて、「俺ってファンキーなのかな?」ってここ最近考えることがあって。

CRAM:はははは。

ISSUGI:俺はBUDAくんからファンクを感じてきたんです。それは、ジェームズ・ブラウンのファンクというよりも、例えばエリック・サーモンやDJクイックに感じるファンクのことなんです。それでBUDAくんにああいう質問をしたんです。

そのときにBUDAMUNKが「動きが滑らかで流れてる感じ」というような表現をしていましたね。

ISSUGI:そうですね。言葉で説明するのは難しいけどノれる感じとかも言ってくれたときがあった気がしますね。それが動きがあるって事なのかなと思って。クールな感じのベースラインにも感じるし両方ありますよね。
 話変わるんですけどCRAMとILLSUGIのビートライヴ見た事ない人は出てるパーティに遊びにいってみて欲しいですね。ノリ方を目撃すると、「こいつらマジで音にノってんな」って伝わってくる。ビートライヴをやり出したらハンパじゃないなと思わせるものがあるんですよね。それがやっぱり音楽じゃないですか。CRAMがクラブでよくかける自分で作ったジェイ・Zのブレンドとかもハンパないです。

CRAM:あと、僕はいまのリル・ヨッティとかも好きなんですよ。それはチャラくてもノれるし、ラップが120点で上手いと思う。ジェイ・Zにもチャラい曲があったりするけど、確実にノリがあるんですよ。僕もそういう音楽が好きですね。

ISSUGIくんはリミックス・アルバムを出したばかりで、「7INC TREE -TREE & CHAMBR-」も進行中ですけど、2人は近い未来はどんな風に活動していく感じですか?

ISSUGI:〈Dogear〉からCRAMの作品を今年出したいと思ってます。CRAMは自分的に絶対にヤバいですから。「7INC TREE -TREE & CHAMBR-」では7インチをリリースする以外にもCRAMもそうだし、自分の周りのかっこいいやつを紹介できればと思ってます。あと例えばレコードをプレスしたり、スニーカーを探しに行くとか、あとはTOURの映像とかヒップホップが好きなヤツだったら楽しめる番組にしていければと思ってますね。

CRAMくんのアルバム、楽しみにしてます!

CRAM:ありがとうございます!

Cornelius - ele-king

北中正和

 音楽で複雑なことを表現しようとするとき、普通のミュージシャンは難しいコードを使ったり、リズムの実験を重ねたり、音数を増やしたりして、足し算や掛け算で対応しようとする。『ファンタズマ』のころまで、コーネリアスもそうだった。

 しかしそれが『POINT』では一転する。音数が激減して、簡潔かつポップになったのに、奥行きが深まったのだ。何が彼にその転換をうながしたのか、不勉強でよく知らないのだが、数少ない音で、一聴してコーネリアスとわかる音楽が出現。次の『SENSUOUS』はその方向の洗練を極めたアルバムだった。

 そこから反射的に連想されるのは、純邦楽における間の感覚、石庭に象徴される禅の思想、俳句の省略の美学などだった。べつに日本の音階が使われているわけでも、和楽器が演奏されているわけでもないのに、そこにはまぎれもなく伝統をふまえつつ更新していく現代の日本のポップスの姿があった。
 それから11年。アルバム『Mellow Waves』に先立って発表されたシングル「あなたがいるなら」は、まさにその延長線上の曲で、落ち着いた演奏にポップなヴォーカルがのっかっている。作詞は坂本慎太郎。音楽は小山田圭吾。現在望みうるかぎり最強のコンビの期待にたがわぬ名ラヴ・ソングと言っていいだろう。

 セカンド・シングルの「いつか/どこか」は小山田圭吾が作詞作曲したファンク・ロック・チューン。ドラムやベースやシンセの音は、「あなたがいるなら」のキーボード同様、往年のR&Bやファンクを思わせるが、歌の後ろのリズム・ギターはどちらかといえばカントリー系、間奏はワイルドなノイズ系で、歌も含めた全体の組み合わせは、ありそうでなかったものだ。
 この曲、 歌声は軽快だが、うたわれていることは、諸行無常の世界。隠遁した老人の思いを先取りするかのような歌に驚く。アルバムではそれは、この曲の次に置かれた“未来の人へ”の内容にもリンクしている。こちらの歌は、自分のアナログ・レコードが遠い未来の誰かに聞かれることを想像する内容だが、その関係はそのまま、いまレコードを聞いている自分とそのレコードの作者の関係にあてはまる。これも坂本慎太郎の作詞だ。
“夢の中で”は夢の深層心理の歌で、漢字の四文字と三文字の熟語が出てくるところは、細細野晴臣や高野寛の初期の作品みたいだなと最初は思ったのだが、探索中という歌詞は、探し物は何ですか、という井上陽水の“夢の中へ”にも通じる。この交錯が意図的でないとすれば、実に興味深いシンクロニシティだ。
 ループが巧みに使われた「Mellow Yellow Feel」にしても、雨の日の気分を一筆書きのように描いた“”The Rain Song”にしても、磨き抜かれた透明感のあるサウンドと最小限の言葉からイメージがどんどん広がっていく。こういう作品では、物語性をはらんだ坂本慎太郎の詞の作風とのちがいもよくわかる。

 他の作品にふれる字数がなくなったが、2010年代の名作として語りつがれていくであろう素晴らしいアルバムの登場を喜びたい。

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野田努

 『ファンタズマ』には、「97年3月にJUST LIKE HONEYという歌を世界中でたったひとり口ずさんだ男だった」と歌う曲がある。彼がかつてサンプリングしたビーチ・ボーイズの曲名と同じ曲名の曲だが、このラインを意訳するとこうなる。「オレは、流行に敏感なだけの男ではない」
 実際、『Mellow Waves』は流行の作風ではない。思えば『69/96』も趣味がよいと言われていた「渋谷系」なるタームへの当てつけのように、絶対に渋谷系的な人たちが嫌うであろうへヴィメタルを「引用」したほどだから、まあ、我こそ最先端というノリには基本アンチであり、むしろ英米の動向への関心が以前よりも落ち着きはじめたのが『ファンタズマ』だった、とぼくは考えている。それでも、1年前に“ガール/ボーイ・ソング”を愛聴していたぼくは、“スター・フルーツ〜”を初めて聴いた瞬間に「エイフェックス・ツインじゃん!」と叫んでしまうことを我慢できなかったということも告白しよう。
 が、しかし、欧米の批評のひとつとしてKeigo Oyamadaを「科学者」に喩える人がいたように、コーネリアスのエレクトロニックな立体音響は、欧米の基準からすれば「緻密」かつ「クリア」で、100mlのメスシリンダーを使って1ml単位も正確に計量するプロセスにおいて完成する精密な何かに見えるのかもしれない。そうした丹念さと同時に、同時代のいかなるロック・バンドよりも、圧倒的に多彩な「引用」と高い「参照性」、巧妙かつ独創的な、そしてポストモダンな「再構築」がその名作の評価の土台となっている。

 それはたしかにそうだが、ぼくがコーネリアスに惹かれる最大の要因は、即物主義と叙情主義との駆け引きの絶妙さにある。“スター・フルーツ〜”においてエモーショナルなのは、歌詞の棒読みのような歌よりも、あの当時のテクノロジー環境としてはおそろしく労力を擁するであろう、過剰にエディットされたドラムンベースだ。あのブレイクビーツを聴いているとき、ぼくは最初はクスっと笑っているが、じょじょにあの曲を作った作者の、表面上からは隠された穏やかなならぬ心情に触れているような気がするのだ。が、同時に、「いや、それは気のせいじゃないだろうか」とも思うのだ。

 1小節のなかにスライスされたビートを詰め込むだけ詰め込んだ“スター・フルーツ〜”とは対照的に、先行シングルとなった“あなたがいるなら”は、マッシヴ・アタックの“エンジェル”を彷彿させるスローモーションの世界で、そのローピッチな、広げられたビートの間隔には魅惑的な沈黙がある。坂本慎太郎による感傷的な歌詞がなかば涙もろい節回しで歌われるわけだが、それら湿り気&古風な表層は並行してミックスされる即物的かつモダンなシンセベースの乾きによって刹那押しのけられ、距離がはかられる。まさにコーネリアス、だ。
 このスローテンポ、そして「あなた」という他者の不在すなわち「未練」が歌われていることは意表を突いているといえば意表を突いているが、“あなたがいるなら”はときにユーモアさえ感じるほど芸が効いているからまだいい。即物的なるモノと叙情的なるモノとのせめぎ合いは、その次の曲、“いつか / どこか”で早くも最高潮を迎える。美しいアルペジオと感情の起伏のない歌い出しとともに挿入されるシンセベースは、別れの歌に洒落た衣装をまとわせ、楽曲への耽溺を制御させる。音楽において我を見失わない態度は(そしてエモさのないヴォーカリゼーションも含めて)、ぼくにはクラフトワークを思わせるのだが、それはコーネリアスが年齢によって定義される音楽ではないことを意味している。

 とにかく、アルバムは目を見張る2曲ではじまる。3曲目以降は、圧倒的なそれら2曲とくらべてしまうと大人しいと感じるかもしれないが、『Mellow Waves』は音も、そして歌も、コーネリアス作品にしては「言葉」も耳に残る佳曲揃いである。悟ったかのように淡々としながらどこか切なさも入り混じった坂本作詞の“未来へ”では、彼は「わたし」が不在の未来を空想している。そのいっぽう“Mellow Yellow Feel”ではサウンドにフォーカスする。「声」と「ギター」が織りなす華麗なミニマリズムの穏やかな幻覚性は、ニック・ドレイクめいたメランコリーの“The Rain Song”にも引き継がれる。Lushのミキ・ベレーニをフィーチャーした“The Spell of a Vanishing Loveliness”は、そうしたはかなさをさっともみ消すような、熟れたギター・ポップだ。小山田圭吾の棒読みヴォーカルとは対照的なメリハリのある歌は、アルバムの切なさに高ぶる空想=裏読みに対して、「いや、なんでもない」と言っているかのようだ。シンプルな8ビートの“夢の中で”はアルバム中もっともキャッチーな曲で、ユーモアが入り混じった歌詞もさることながら、その展開の親しみやすさは、ニュー・ミュージックのようであり、コーネリアスにおいては冗談のようにポップと言えよう……。

 こうしたアプローチは、先述したように本作が流行を気にしていないという話とも繫がる。なるほど大半の曲に見られる裏拍子にアクセントをおくリズムは今日的なベース・ミュージックとリンクするとこじつけられるなくもないが、インターネットが普及し、24時間個人個人がおのおのの欲望にアクセスできる(逆説的には、24時間消費活動を強いられている)現代では、そもそも隣近所も巻き込むような流行(ムーヴメント/トレンド)は起こりづらく、起きたとしても滞空時間も短いだろう。一瞬にして消え、また現れ、また消える。だいたいコーネリアスが参照性の豊富さを武器にしたのは、PCをいじっていればどんなにマニアックなものでも簡単にコピー&ペイスト(物真似が)できる「いま」ではなく、20年以上も「昔」の話なのだ。

 『Mellow Waves』は偉大なアルバムである。そのもっともな理由は、『ファンタズマ』以降の3枚がそうであるように、これと似たアルバムが他にないからである。この2ヶ月、ぼくはコーネリアスについて集中的に考えを巡らせていた。このことを問い詰めていくと、ひとつには、日本人として日本に生まれ音楽的野心抱きながらポピュラー・ミュージックを続けていくことの困難さにぶち当たる。それを思えばコーネリアスはなおのことたいしたものだが、最後にもういちど反復すると、ぼくが彼の音楽にときめきを感じるのは、丹念にデザインされた立体音響とユーモア、そして、結局のところその奥ゆかしい感情表現にあるのだろう。直球にモノを言えない日本人と言われてしまえばそうかもしれないが、しかし……しかし……、だからこそ、絶妙なバランス感覚をもって流暢に展開する“いつか / どこか”は、いまさら誰がやるんだと耳を疑うような、古典的なロック・ギターソロによって破綻する。科学者が設計したパーフェクトなロボットにも涙をこらえきれないときがあるように。

You me - ele-king

FORESTLIMITで聴いて良いと思った曲

RAMZA × TAKCOM - ele-king


Pessim (short film) from takcom™ on Vimeo.


「郊外」という場所が浮かび上がるのは時間の問題だったのかもしれない。

 この20年あまりのあいだにJポップのフィールドが空洞化していくのに並行して、日本各地で勃興したインディペンデントな音楽たち。その背景にはいうまでもなく、郊外のベッド・ルームから直接に作品を発表できるインターネットの普及があった。それはいままでの一極集中だった日本の音楽産業の脱中心化とも呼べる状況を引き起こしたのだけれど、神戸のニュータウン出身のインターネット世代のアーティストの代表格、TOFUBEATSがその素晴らしい最新アルバムでするどく問題提起したように、そうしたゲームのルールの変化を無邪気に祝福する事態でもなくなっているようだ。

 現在インターネットについてゆるやかに共有される「すべてあるようでなにもない」といった感覚は実は、濃密な歴史をもたない郊外やニュータウンについてよく口にされてきた常套句でもある。あらゆるものにイージーにアクセス可能なのに、なにか決定的なものが奪われてしまっている感覚。考えてみれば、インターネットという「場所」は、中心を持たないフラットな空間性、歴史を欠いたデータのカタログ化、フェイクとリアルがごちゃ混ぜになった噂話のエコー・チェンバー……といったいくつかの意味で、郊外という場所をつよく思わせる。郊外のニュータウンもインターネットも、すくなくともその誕生時には未来への夢を仮託されて創りだされたものなのだけれど、どうやらその夢の中身は必ずしも輝かしいものとは限らない、ということらしい。

 映像作家のTAKCOMが監督した『PESSIM』というショート・フィルムは、つまりはそんな郊外をめぐる磁場をすくなからず無意識に共有し、また別の角度から照射しているように思える。知っての通りこの映像作品は、東海地方のアンダーグラウンドなラップ・ミュージックの屋台骨をつくってきたビート・メイカー、RAMZAの同タイトルのファースト・アルバムから生み出された。RAMZAの作品には、エディットされたATOSONEのラップの断片が登場するだけで、アレサ・フランクリンを始めとするソウル・ミュージックのサンプルはあくまで音の断片としてその意味を剝ぎとられている。光根恭平と宮本彩菜をキャスティングし、VFXを抑制的に駆使したTAKCOMのフィルムにも、セリフらしいセリフはなく、ただ「郊外の悪夢」という短いシノプシスが添えられているだけ。両者ともにとても寡黙だ。

 しかし、郊外生まれのふたりの作家が創りだしたふたつの『PESSIM』には、20世紀に形成された日本の郊外という場所に由来する、強烈なイメージがそれぞれ棲みついている。郊外というのは不思議な場所で、各地のそれぞれの違う文脈の中で造形されながら、ひとめで「郊外的」としか言いようのない、なにか共通の感覚を思い起こさせる。その感覚はグローバルなものだ。郊外の風景は世界中どこでもよく似ているから、郊外生まれの人間はまるで移住性の鳥のように、遠く見知らぬ場所にさえデジャヴにも似た郷愁を抱く。都市の構造的にいって、いわばこの世界の人口の大半は郊外をその故郷にしているのだ。

 それにしても「郊外の悪夢」というイメージは示唆的だ。今年のはじめに大きな波紋を呼んだWIRED JAPANの記事「ニーズに死を」のきっかけは、去年の大統領選以降のアメリカの混乱にあるのだけれど、そのディストピアSFよろしくの状況の中心にいるドナルド・トランプは、ニューヨークやカリフォルニアといったリベラルな都市部とは真逆の、ラスト・ベルトと呼ばれる打ち棄てられた中西部の郊外の絶望をその源泉のひとつにしている。イギリスのEU離脱を決めたブレクジットへの賛否のマップにおいても、フランス大統領選で決選投票まで進んだ極右候補マリーヌ・ル・ペンの支持率を表すマップにおいても、各地の郊外はグローバルなリベラル都市への反発の色に染まっていた。現在の世界の反動を突き動かしているのは、リベラルな未来の夢を見続ける先進的な都市群への、置き去りにされた郊外からの復讐に見えなくもない。ここ日本に目をむけるなら、スーパー・パワーとして急成長する中国のそばで、あらゆる客観的な統計がかつてのアジアの経済大国の悲観的な未来を描いている現在、もしかすると「日本の郊外」というよりも「郊外としての日本」というイメージのほうが、これから重要になってくるのかもしれない。

 ゴタクはこれくらいにして、最新の情報をアップデートしておく。7月8日にはいよいよ渋谷WWW LOUNGEに凄腕の面子を集めて東京でのリリース・パーティも発表されたRAMZAの『PESSIM』は、盟友FREE BABYRONIA 主宰のインディペンデント・レーベルAUN MUTEからリリースされ、TOFU BEATSやCE$、FUMITAKE TAMURA(BUN)、ATOSONEなどが惜しみない賛辞を捧げている。コラージュ作家も名乗るRAMZAのアートワークが素晴らしいのでぜひフィジカル盤を手に取ってほしいけれど、反響にこたえてデジタルでの配信も始まった。
 TAKCOMのほうの『PESSIM』は、カルチャー・メディア『HIGHSNOBIETY』でプレミア上映され、最近ではTAKCOMの単独インタヴューも公開されるなど、海外メディアからもじわじわと注目を集めているようだ。プレミアに前後してひっそりとオープンされた公式サイトには、「ビート・サイエンス・フィクショニストは郊外の悪夢を見るか?  Does the Beat Science Fictionist Dream of Suburban Nightmare? 」と題した文章も寄稿させてもらった。モティーフは夢と、サイエンス・フィクションと、そして象徴としての郊外だ。重要なインスピレーションを与えてくれたふたりの作家に感謝する。(泉智)


■ PESSIM SHORTFILM オフィシャル・サイト(JAPANESE & ENGLISH)

https://www.pessim-shortfilm.com/

■ RAMZA 『PESSIM』 RELEASE PARTY 7/8(Sat)渋谷WWW LOUNGE

https://www-shibuya.jp/schedule/007855.php


OPEN/START
24:00 / 24:00
ADV./DOOR
¥1,500 / ¥2,000 (税込 / オールスタンディング)
LINE UP
[Beat live] Ramza / Free Babyronia
[Live] Campanella / Nero Imai / DUO TOKYO
[DJ] 行松陽介 / BUSHMIND / DJ HIGH SCHOOL
TICKET
一般発売日:6/3(土)
e+ / RA / WWW店頭
INFORMATION
WWW 03-5458-7685

Cornelius - ele-king

 いよいよ来週末(6月24日)、新作『Mellow Waves』をリリースするコーネリアスの大特集号が、今週末(6月17日)、別冊ele-kingとして刊行されます。
 本年度の最重要作品=『Mellow Waves』についてはもちろんのこと、コーネリアスほぼ全作品のクロスレヴュー、小山田圭吾の半生を語る超ロング・インタヴュー、貴重なたくさんの写真……、また、坂本慎太郎、高橋幸宏、SK8THING、本田ゆか、宇川直宏ら、親しいアーティストたちの証言インタヴューなど、かなり盛りだくさんの内容になりました。
 コーネリアスが日本の音楽の水準を上げたことは間違いないのですが、『JAPAN TIMES』の音楽欄に寄稿するイギリス人ジャーナリストのイアン・F・マーティンによるコーネリアス分析、来年コーネリスの本を海外で出版するアメリカのアカデミシャン、マーティン・ロバーツによる論説も、グローバルな視点でみたときの日本の音楽を知る上でも手がかりになるであろう、読み応えのある内容となっています。
 『Mellow Waves』は、コーネリアスにしか作れない音響による、美しくメロウな作品ですが、(日本の)音楽にさらなるエネルギーを呼び込みうる起爆剤でもあります。音に耳を澄ませて下さい。そして願わくば、『コーネリアスのすべて』を手にとって下さい。
 

■特集:コーネリアスのすべて
 その生い立ちから初めてザ・スミスを聴いた夜、小沢健二との出会い、フリッパース・ギター解散からコーネリスへ、そして『ファンタズマ』から新作『Mellow Waves』へ、その半生を語る超ロング・インタヴュー。初めて公開する幼少期の家族写真、中高時代など、貴重な写真も多数掲載な……、
 11年ぶりの新作『Mellow Waves』をリリースするコーネリアスを大特集!

■contents
小山田圭吾ロング・インタヴュー 北沢夏音/野田努/松村正人
『Mellow Waves』クロスレヴュー 松村正人、野田努、宇野維正
対談:小山田圭吾×坂本慎太郎「求め合う音と言葉」

INTERVIEWS
瀧見憲司「狂えるスタイルとコーネリアスの関係」
辻川幸一郎「音楽に感応する映像」
中村勇吾「ロジックを絵筆にカタチをつくる」
宇川直宏「ハイテクノロジー・ブルース~90年代以降の映像と音楽の実験史」
イアン・F・マーティン「クール・ジャパンとウィアード・ジャパン」
本田ゆか「コーネリアスのユニバーサルランゲージ」
SK8THING「併走する感覚」
高橋幸宏「もしかしたら売れるかもしれない」

コラム
三田格「乾いた孤独 The90’s and Cornelius」
松村正人「キュレート・オア・エディット」
畠中実「音響作家小山田圭吾」
マーティン・ロバーツ「メロウどころじゃない 『ファンタズマ』以降のコーネリアス」
ジョシュ・マデル「コーネリアスのアザー・ミュージック」

コーネリアス ディスク・ガイド
天井潤之介/磯部涼/宇野維正/小川充/小野島大/河村祐介/杉原環樹/デンシノオト/野田努/松原裕海/松村正人/村尾泰郎/矢野利裕/吉田雅史/与田太郎/吉本秀純

BIOGRAPHY
小山田圭吾略年譜

!!! (Chk Chk Chk) - ele-king

 「構造と力」。この浅田彰の著書をアルバム・タイトルに掲げたのは2003年のデートコース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデンだったが、確かに、ダンス・ミュージックは「構造と力」の音楽である。ドラムとベースを背骨としつつ、ギター、キーボードなどの和声・旋律楽器が音楽を彩る・生む。そして、その「構造」には身体を動かす力、つまりは律動が生まれている。まさに構造と力。

 2000年代初頭の80年代リヴァイヴァル期(ノーウェイヴ/エレクトロ・リヴァイヴァル)において、当時のトレンドであった〈DFA〉がNWリヴァイヴァリーなディスコ・パンクの後継だったとするなら、チック・チック・チックの根底には無骨ながらハウス・ミュジックがあった。つまりは享楽的なのである。そして、彼らの7作めのアルバムである本作において、その享楽性はいっそう強くなっていた。こんな戦争とテロの時代だから? つまりはトランプ政権時代のダンス・ミュージック? まあ、いずれにせよ、まさに「恐れを振り払え!」だ。強く、しかし柔軟なビートに、幾人ものボーカリストが召喚され、盛り上げていく。その反復されるビートやフレーズは、摂取するほどにどんどん体に効いてくる音楽なのである。
 レコーディングはバンドのホームであるブルックリンでおこなわれたという。ゲストボーカルには、UKのシンガー、リー・リー、シンガーソングライター/女優のミーア・ペイス、そしてグラッサー名義でも知られるキャメロン・メジロー、チェロ奏者/シンガーのモーリー・シュニックなどが参加している。彼もまたエレガントにアジテーションするように、トラックを盛り上げていく。

 何はともあれ、まずは4曲め“NRGQ”を聴いてほしい。性急なギターのカッティングとビート、シンプルなベースライン、リー・リーらのコーラスを追いかけるシーケンス。中間部のラップ・パート、サビのコーラス。チック・チック・チック史上最高ともいえるダンス・ミュージックの醍醐味が1曲の中に凝縮されているといってもいい。この曲には、「この最高の瞬間はやがて消え去ってしまう」という諦念と、しかし、それゆえ「この瞬間の生は永遠だ」という圧倒的な肯定感が横溢している。刹那と肯定。これもまた構造と力である。

 本作のサウンドには、80年代初頭のNYのダンスフロアのムードを2017年の今、再生するという倒錯的な快楽に満ちている(むろん、私は体験したことがないので想像でしかないが、そのような想像をかきたてる作品であること自体が音楽の豊かさではないか?)。こんな最低・最悪な時代だからこそ、「音楽」という瞬間の享楽にすべてを賭けること。世界を笑い飛ばすこと。世界に、権力に、抑圧に、従わないこと。彼らは「この打ち砕かれたような状況から、何か美しいものが育ってほしい」というメッセージも発しているというが、それはつまり「音楽をする」ということであろう。
 この作品は、いわば、希望と抵抗のアルバムなのだ。「戦争に反対する唯一のことは」という有名な言葉がある。ある文学者の名文句だ。2017年現在、その後に続けるとするなら、こうなるだろうか。「踊り続けること」ではないか。闘争でも逃走でもない。踊り続けること。それは「人生」そのものだ。生きている限り、それは永遠に鳴り続ける。構造と力。踊らせること。踊ること。この身体と音楽との関係性において、ダンス・ミュージックは、どんなに最悪な状況にアジャストしつつも、しかし、本質的に心身ともにヘルシーな音楽であるのだ。ダンス・ダンス・ダンス!


寺尾紗穂×マヒトゥ・ザ・ピーポー - ele-king

 寺尾紗穂×マヒトゥ・ザ・ピーポー、さらに前野健太。なにが起こるんでしょうか。
先日、マヒトゥ・ザ・ピーポーがギターで参加した、寺尾紗穂の“たよりないもののために”がYoutubeで公開されましたが、みなさんもう聴きました? その言葉と音響に浸ることができたひとたちに、以下のイベントを紹介します。まだ聴いていないひとたちは、ヴィデオを観てみてください。

 寺尾紗穂は6/21に最新アルバム『たよりないもののために』を、そして6/28にはマヒトゥが2ndアルバム『w/ave』をリリースします。6月27日はなにが起こるんでしょうか。詳細は以下にまとめたので、お見逃しなく。

■にじのほし9『月の秘密Prime』

出演:寺尾紗穂×マヒトゥ・ザ・ピーポー/前野健太
日程:2017年6月27日(火)
会場:渋谷WWW(東京都渋谷区宇田川町13-17ライズビル地下/TEL:03-5458-7685)
時間:19:00開場/19:30開演
料金:前売券¥3500+1d/当日券¥4000+1d
※ 一部座席有り/整理番号順入場


■寺尾紗穂
1981年11月7日東京生まれ。
2007年ピアノ弾き語りによるアルバム「御身」が各方面で話題になり,坂本龍一や大貫妙子らから賛辞が寄せられる。大林宣彦監督作品「転校生 さよならあなた」、安藤桃子監督作品「0.5ミリ」、中村真夕監督作品「ナオトひとりっきり」など主題歌の提供も多い。2015年アルバム「楕円の夢」を発表。路上生活経験者による舞踏グループ、ソケリッサとの全国13箇所をまわる「楕円の夢ツアー」を行う他、2010年より毎年青山梅窓院にてビッグイシューを応援する音楽イベント「りんりんふぇす」を主催。昨年リリースの最新アルバム「私の好きなわらべうた」では、日本各地で消えつつあるわらべうたの名曲を発掘、独自のアレンジを試みて、「ミュージックマガジン」誌の「ニッポンの新しいローカル・ミュージック」に選出されるなど注目された。
みちのおくの芸術祭「山形ビエンナーレ」での絵本作家荒井良二とのコラボ、金沢21世紀美術館企画「AIR21:カナザワ・フリンジ」でのソケリッサとの共演など、演奏の場もライブハウスを超えて広がりつつある。
活動はCM音楽制作(ドコモ、無印良品など多数)やナレーション、書評、エッセイやルポなど多岐にわたり、著書に「評伝 川島芳子」(文春新書)、「原発労働者」(講談社現代新書)、戦前のサイパンに暮らした人々に取材した「南洋と私」(リトルモア)。8月に集英社より「あのころのパラオをさがして」を発売予定。平凡社ウェブにて「山姥のいるところ」、本の雑誌ウェブで「私の好きなわらべうた」を連載中。その他資生堂の広報誌「花椿」、高知新聞、北海道新聞でも連載を持つ。6月21日最新アルバム「たよりないもののために」と伊賀航、あだち麗三郎と結成したバンド「冬にわかれて」の7インチを同時発売。
https://www.sahoterao.com/


■マヒトゥ・ザ・ピーポー
2009年 バンドGEZANを大阪にて結成。作詞作曲をおこないボーカルとして音楽活動開始。
2011年沈黙の次に美しい日々をリリース。HEADSの佐々木敦の年間ベスト10のデイスクに選出され、全国流通前にして「ele-king」誌などをはじめ各所でソロアーティストとしてインタビューが掲載されるなど注目が集まる。
2014年、kitiより2ndアルバムPOPCOCOON発売。
2014年には青葉市子とのユニットNUUAMMを結成し、アルバムを発売する。
2015年にはpeepowという別名義でラップアルバム Delete CIPYをK-BOMBらと共に制
作、BLACK SMOKER recordsにてリリース。
2016年には今泉力弥監督の映画の劇伴やCMの音楽などを手がける。
また音楽以外の分野では中国の写真家REN HANGのモデルや国内外のアーティストを自
身の主催レーベル、十三月の甲虫でリリース、
野外フェスである全感覚祭を主催したり、近年は仲間とweb magazine PYOUTHを始
動。ボーダーをまたいだ自由なスタンスで活動している。
2017年 6/28にNUUAMMの2nd album「w/ave」を十三月の甲虫より発売。
https://mahitothepeople.com/


■前野健太
シンガーソングライター。俳優。
1979年埼玉県生まれ。
2007年、自ら立ち上げたレーベル"romance records"より『ロマンスカー』をリリースしデビュー。
2009年、全パートをひとりで演奏、多重録音したアルバム『さみしいだけ』をリリース。2009年元日に東京・吉祥寺の街中で74分1シーン1カットでゲリラ撮影された、ライブドキュメント映画『ライブテープ』(松江哲明監督)に主演。同作は、第22回東京国際映画祭「日本映画・ある視点部門」で作品賞を受賞。
2010年、『新・人間万葉歌~阿久悠作詞』へ参加。桂銀淑(ケイ・ウンスク)「花のように鳥のように」のカバー音源を発表。
2011年、サードアルバム『ファックミー』をリリース。映画『トーキョードリフター』(松江哲明監督)に主演。同年、第14回みうらじゅん賞受賞。
2013年、ジム・オルークをプロデューサーに迎え『オレらは肉の歩く朝』、『ハッピーランチ』2枚のアルバムを発表。
2014年、ライブアルバム『LIVE with SOAPLANDERS 2013-2014』をリリース。文芸誌『すばる』にてエッセイの連載を開始。
2015年、雑誌『Number Do』に初の小説を発表。CDブック『今の時代がいちばんいいよ』をリリース。
2016年、『変態だ』(みうらじゅん原作/安齋肇監督)で初の劇映画主演。ラジオのレギュラー番組『前野健太のラジオ100年後』をスタート。
2017年、『コドモ発射プロジェクト「なむはむだはむ」』(共演:岩井秀人、森山未來)で初の舞台出演。初の単行本となる『百年後』を出版。
https://maenokenta.com/

即興音楽の新しい波 - ele-king

 『ジャパノイズ』の著者としても知られるアメリカの音楽学者デイヴィッド・ノヴァックはかつて、90年代後半からゼロ年代前半にかけて東京に出来したひとつの音楽シーンを、代々木Off Siteをその象徴として捉えながら日本発祥のまったく新しい即興音楽のジャンルとして「音響(ONKYO)」と呼んだ(1)――もちろんそこで挙げられた数名のミュージシャンたち、たとえば杉本拓、中村としまる、Sachiko M、吉田アミ、秋山徹次、伊東篤宏、宇波拓、そして大友良英らについて(ここに大蔵雅彦やユタカワサキをはじめとしてまだまだ加えるべきシーンの担い手がいたこととは思うが)、その多様な試みと実践を「音響」というただひとつのタームで括ってしまうことなどできないし、ノヴァック自身もおそらく批判を覚悟のうえで戦略的にそうした呼び方を採用しているようにみえる。それにそもそも「音響」と言い出したのはノヴァックが最初ではない。この呼称が日本語の読み方のまま世界的に流通していることからもわかるように、それが認知されるきっかけとなったのは日本語圏ですでにそうした呼び方がなされていたからだ。その起源は虹釜太郎が渋谷に90年代半ばに2年ほど構えていたレコード・ショップ、パリペキンレコーズのコーナーにあった「音響派」という仕切りにあると言われているが(2)、そこで扱われていた音楽は即興音楽シーンに限らずより広範かつ雑多なものだった(3)。だがいずれにしてもこの時期にそれまでの即興音楽とは質を異にしたニューウェーブとも言うべきいくつもの魅力的な試みがおこなわれていたことは事実であり、匿名的で、微弱な音量で、沈黙や間を多用するなどとしばしば言われる(4)ように、それらにゆるやかに共有されていた同時代性のようなものがあったということも指摘できるように思う。そしてそうした動向をリアルタイムで国内外へと発信し続けてきたウェブ媒体として「Improvised Music from Japan」があった。

 もともとは「Japanese Free Improvisers」という名称で1996年に英語オンリーで開設されたこのウェブサイトは、その後日英二ヶ国語になり、日本で活躍する外国籍のミュージシャンも紹介するために名称を変え、さらにCDショップ兼レコード・レーベルとしても機能しはじめることとなる。2012年からは水道橋にイベント・スペースとしても利用できる実店舗「Ftarri」を構えることになる、その前身となったサイトである。それを独力で立ち上げ運営してきた鈴木美幸は、それまでジャズ評論家/翻訳家として執筆活動をおこなっていたのだが、この時期に出現したまったくジャズとは接点のない即興演奏を前にして戸惑いと驚きを感じ、そして途方もない魅力を覚え、すぐさま世界に紹介する役割を買って出た(5)。ウェブサイトに記載されるミュージシャンの数は日増しに増えていき(いま現在も増えている)、シンプルなページ・レイアウトも手伝って、膨大なアーカイヴを簡潔に参照することのできる類稀なメディアとして機能していった。そしてこのウェブサイトが日本の同時代的な即興音楽シーンを、殊に海外へと向けて発信していく重要な役割を果たしていったということは改めて述べるまでもない。そこには「音響」として括ることはできないにしても、しかし何らかの新しさはあった。ならばそれはいったいどのような新しさだったのか。

 「Improvised Music from Japan」が紙媒体として発行している雑誌がある。2003年にその増刊号として、音楽家/批評家の大谷能生が責任編集を務めたものが出された。新しい世代の即興演奏家を紹介することがテーマになっていたその増刊号では、冒頭に、大谷による「Improv's New Waves ―論考―」(6)と題された文章が掲載されていた。そこでは多くの若手即興演奏家たちに「個人的な好みを排した、匿名的な音の世界」へと足を踏み入れていくことを厭わない傾向がみられるという指摘がなされ、さらにジョン・ケージもデレク・ベイリーも前提していなかっただろうものとして、しかし当時の(おそらくは現在も)先端的な即興音楽シーンの経験の基盤となっているものとして、録音メディアという装置を挙げながら、「これまでの音と音楽との区別がまったく役に立たないこうした世界を一旦受け入れ、そこからまた改めて『音楽』と呼べる体験を作り上げていくこと。即興演奏家とは、『音』と『音楽』とが現実に交錯する『演奏』の現場でそれを実践していくミュージシャンたちのことだ」と述べられ、そして次のように締め括られていた。

先ほど聞こえた音は、一体なんだったのか? 今聴こうとしている音は、一体どのような音なのか? 指先を緊張させながら鼓膜と思考を充分にゆるめる、または、思考を緊張させながら指先は脱力させるという相反する作業をおこなうことによって生まれるこうした問いを繰り返すことによって、即興音楽の演奏者は物質的持続の底の底へと降りていく。リ=プレゼンテーションに伴うすべての喜びと手を切ろうとする、こうした聴覚による世界の描写方法は、これまでのどのような芸術からも得ることのできない、まったく新しい現実との接点をぼくたちに提示してくれるだろう。(「Improv's New Waves ―論考―」)

 録音装置というメディアは人間的な価値判断や聴取の可能性を度外視して、あるいはそれらとは無関係に、あくまでも物質の次元で響きを捉え記録するものであり、たとえば自由に織り成されていく即興演奏が、メロディ・ハーモニー・リズムといった西洋音楽を構成する要素を持たずとも、あるいはその他の組織化された音の秩序をあらかじめ備えていなかろうとも、録音されるというそのことが音楽の成立条件となることによって、そうした側面をまるごと預け、繰り返し聴くことのできる音楽として手元に残してしまうことができる。演奏家はそこで出す音の種類や音の出し方に縛られることなく、思い思いにサウンドと関わりを持つことができるようになる。経験の基盤となっている物質的な次元が、意味づけられる前の音響を聴き手としての演奏家に開示してくれるのだ。そこに「聴覚による世界の描写方法」が見出されていく。「まったく新しい現実との接点」が見出されていく。

 大谷の論考にいち早く反応したのは音楽批評家の北里義之だった。彼は大谷の論考にいくつかの疑問を提起した(7)。するとそれに対する大谷の返答が「ジョン・ケージは関係ない」(8)という新たな論考としてまとめられ、さらに北里の再反論が「ケージではなく、何が」(9)という文章をも生むこととなり、とりわけ後者の論考は曖昧に乱用され続けてきた「音響」というタームについての再考を促し実相を炙り出そうとする極めて示唆に富んだものなのではあるが、ここではそれらのやり取りに関して深入りしない。一言添えるとしたら、大谷が個人主義を徹底させた先にある「匿名的な音の世界」を見出したことと、北里が「匿名的な音の世界」にモダンの原点そのものへの回帰を見出したことは、同じことがらを別の側面から考察しているに過ぎないということのように思う。だがここでは大谷が描いたシーンの情況について、北里がそれを「即興演奏が徹底して個の音楽であったことに対するアンチテーゼ」(10)だと読み取ったことに着目しておきたい。個人主義が徹底されようと、モダンの原点への回帰であろうと、そこにはそれまでの即興音楽が個と個の衝突やそれを過剰に濃縮することに価値を見出していたこととはまったく別の在り方があった。それはオフサイト周辺のシーンをつぶさに観察してきたイギリスの音楽家/批評家クライヴ・ベルの言を借りるならば、「肉体的なエネルギーや即効性のあるレスポンスよりも、リスニングとサイレンス、そして忍耐力を前面に押し出していた」(11)のである。そして「個の音楽」から離脱していくなかで見出されたのは、共演する際に単に個と個が対峙するだけではなく、「まわりの空間の、ほかのたくさんのものの一部」(12)として捉え返されるような共演者の在り方でもあった。ここに聴取と同様に新たな価値が見出されたことがらとして空間を付け加えることもできる。そこでは「アカデミックな場所にはいないバンドマンたちが、初めて空間を問題にしだした」(13)のである。

 あれから14年もの歳月が流れている。その間にも様々な試みがなされてきた。「音響」をジャンルとして忠実になぞる者もいれば、杉本拓のようにそれを「テクスチャーの墓場」(14)と呼んで明確に批判する者もいるし、それでもなお何らかの可能性を模索する者もいれば、そうした問題系とはまったく別の領域で活動をおこなう者もいる。「音響」の行く末として「即興」の原理的な不可能性が提起される(15)一方で、そうした原理論は即興音楽の実際に即していないという意見(16)もある。多様化と細分化を複雑に極めていく現代即興音楽シーンについて、それを一言であらわすのは容易ではない。だがこれだけは言えそうだ。そうした様々な試みが自然と集まってくるような、いわばホットスポットのような場所が各地に点在しているということは。とりわけ水道橋Ftarriに足を運んでみるならば、戸惑いと驚きを覚えるような、そして途方もない魅力に打ちのめされてしまうようなイベントに、なんども出会うことができるのである。それらは「音響」に限らず、たとえばジャパノイズ、サウンド・アート、現代音楽、フリージャズといった既成のジャンルに近接し人脈的な交流を持ちながらも、それらのどのタームでも捉えきれないような魅力を放っている。だから大谷能生の「Improv's New Waves」にまるで呼応するかのようにして、それを呼び覚ますかのようにして、今年のはじめにFtarriの店主・鈴木美幸が「即興音楽の新しい波」(17)というタイトルを冠したイベントをおこなったことを、もう少しよく考えてみたいのである。

 確かに2003年には見られなかった新しい試みが、2017年までにはいくつも出てきている。それらが果たしてシーンとしての波を形成するものなのかどうかはまだわからないが、まったくもって無関係な試みがただ単に乱立しているだけというよりも、やはり同時代的であるような響き合いを聴かせてくれるように思うのである。それを考えてみるためにも、ここでは水道橋Ftarriをひとつの窓としながら、そこからどのような光景が見えているのか、あくまでも極私的な体験から得られた見取り図を描いてみることにしたい。そのためにここでは、「ハードウェア・ハッキング」「ライヴ・インスタレーション」「シート・ミュージック」「即響」という4つのテーマを設け、それぞれについて言及していく。ただし、これらは情況を把捉する手段として便宜的に設定されたテーマに過ぎないので、当然のことながらジャンルのようにシーンを四分できるというものではなく、さらにミュージシャンによってはこれらのテーマに跨る試みをおこなっている者もいるだろう。それでもそうした具体的な実践に接近していくための契機になるのではないかとは思う。

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1 ハードウェア・ハッキング

 ハードウェア・ハッキングというのは字義通り既成の楽器や電子機器を物理的に改変するという意味で、とりわけ実験音楽/電子音楽の世界で著名な作曲家ニコラス・コリンズによって特有の意味合いが付与されて用いられるようになった。コリンズの言わんとするところを簡潔にまとめた金子智太郎による記事(18)から引用すると、ハードウェア・ハッキングとは「電子工学の専門知識を前提としないDIY電子工作」であり、「コリンズがハードウェア・ハッキングの文化的性格として強調するのは、電子音楽における作曲家と技術者の分離の解消や、デジタル化によって減退した直接性と接触性の回復などである」。要するに必ずしも専門的な技術者ではない演奏家が、自らの手を動かし試行錯誤と実験を繰り返しながら、既成の道具に直接的な改変を施していくことによって新たなサウンドを探し出すのである。コリンズ自身が述べるように、それを「その機器の設計者すら予想しなかった結果を、あらゆる可能性に挑戦する極端な実験主義によって生みだすこと」(19)と言い表すこともできるだろう。そこには既に完成された楽器を使うことでは得られない新奇な音色の探求と、さらにそうした楽器を用いた演奏に要請される新たな身体性の獲得、およびそこから導き出される、これまでになかったような時間的/空間的な構造化への可能性が秘められている。


中田粥 - A circuit not turning
きょうRecords (2017)
Amazon

 こうした方向性をもっとも過激に推し進めているひとりとして中田粥の名前を挙げることができる。東京都出身で現在は大阪に拠点を移して活動する中田は、既成のキーボードを解体し、内部の基盤を剥き出しにするとともにその回路に手を加え、独自の音響を紡ぎ出す実践をおこなっている。そうして生み出された楽器を彼は「バグシンセサイザー」と名付け、彼自身はハードウェア・ハッキングではなくリード・ガザラが提唱した「サーキット・ベンディング」の手法の応用であると言い、さらにそれをかつてジョン・ケージがピアノの内部の弦に直接ゴムや金属を挟むことでコンパクトな打楽器アンサンブルとしての音響を生み出した「プリペアド・ピアノ」における内部奏法の延長線上にある実践として捉えている。初期のバグシンセサイザーによる演奏では、自主制作したミニ・アルバムに残されているようにプリセットされた音源が断片的にあらわれていく奇妙な具象性を聴かせていたが、現在はより回路の接触から生まれる電子音響ノイズが強調されたサウンドとなっており、それは『A circuit not turning』で全面的に聴くことができる。一方でライヴでは音響を聴かせるだけではなく、小さな基盤のタワーを構築したりするなど、単なるサウンドの愉しみとしてだけでは終わらない、造形的な視覚要素と空間を生かしたインスタレーション的側面を体験することができる。


竹下勇馬 - Mechanization
Mignight Circles (2017)
Bandcamp

 中田粥とも共演歴が多く、ハッキングという方法論を別の視点から極端に推し進めているもうひとりのミュージシャンとして、竹下勇馬の名前も外せない。中田とふたりで「ZZZT」というデュオ・ユニットを組んでもいる竹下は、エレクトリック・ベースに様々な自作の電子機器を取り付け、自ら「エレクトロベース」と名付けた、これまた奇っ怪な楽器を扱っている。アメリカのトランペット奏者ベン・ニールが「ミュータントランペット」と名付けた改造トランペットを使用していたことを彷彿させるが、ミュータントランペットが既存の音楽を前提とした複数の楽器パートを兼ねる異なる要素の統合を目指すものであったのに対して、エレクトロベースは統合というよりも増殖であり、異なる要素が異物のままに同居することで前提とされる音楽それ自体を問い直しにかけていく。さらにニールがSTEIMという研究所の後ろ盾のもとに楽器を発展させていったことに比すると、あくまでもDIYの精神で改変を施していく竹下の楽器はより自由な音楽へと開かれてもいる。竹下によるベースの改造はいま現在も続いており、一旦でき上がった状態に慣れるとさらにコントロールし難いものへと改変していくというのだからその実験精神は尽きることがない。演奏では通常のベースの弦の響きを織り交ぜ、それを変調するとともに複数の電子音響ノイズを併用するサウンドを生み出しており、『Mechanization』の後半においてその模様を聴くことができる。


《《》》 - 《《》》
Flood (2015)
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 中田粥と竹下勇馬が、ドラマーの石原雄治、ギタリストの大島輝之とともに結成した《《》》(metsu)によるアルバム『《《》》』では、ハッキングによって生み出されたふたりの楽器が、アコースティックな打楽器とエッジの効いたカッティング・ギターとともに丁々発止のやりとりをする様が収録されている――とはいえハッキングされた楽器から発されるのは肉体的というよりもテクノロジカルなエネルギーであり、レスポンスも即効性があるというよりは不確定的な要素が多く、そこが従来の即興音楽にはない面白さとも言える。このアルバムの3曲めおよび4曲めに参加しているサックス奏者の山田光は、改変こそ施していないものの、マイクロフォンやスピーカーを組み合わせることによって独自の音響をサックスから紡ぎだす演奏を試みてもいる。山田のそうした側面にフォーカスを当てたアルバムはまだ発売されていないものの、ロック・バンド「毛玉」のフロント・マンとしても知られる黒澤勇人とのデュオによる作品が近くリリースされる予定だという。すでにゼロ年代の後半から即興音楽シーンに関わってきた黒澤もまた、集音と増幅を駆使することによって、卓上に寝かせたギターから独自のエレクトロ・アコースティックなサウンドを聴かせる演奏をおこなっている。

 このようにハッキングされた楽器からスピーカーを通して発される電子音は、楽器奏者との共演をおこなうことによって、電子音と楽器音が交錯するいわゆるエレクトロ・アコースティック音楽としての様相を呈していく。「エレクトロ・アコースティック」という言葉自体は、狭義には50年代の電子音と具体音を併用したレコード音楽のことを指すが、「音響」のムーヴメントと相俟って90年代以降により広く知られるところとなり、生演奏にエレクトロニクスを取り入れただけの音楽にも適用されるなど、現在では語感の良さも手伝って乱用されているきらいがある。しかし「エレクトロ・アコースティック」という考え方がもたらしたのは単に電子音と生音を併用するということだけではなく、技術の進歩などにより一方にまるで本物の楽器のような音を出す電子音があらわれ、他方には拡張され尽くした特殊奏法――これもひとつの技術革新だ――によってあたかも電子音のようなサウンドを奏でる楽器奏者があらわれ、そうした境界線の曖昧になった電子音/生音が、サウンドの平面上に同等の資格をもって立ちあらわれることによって、電子音や楽器音に歴史的に担わされてきた役割というものを、あらためて問い直す契機になったという点にこそある。そこでは音の発生源がラップトップPCなのかアコースティック楽器なのかといったことよりも、そこに一体どのような音が発生していて、それがどのように聴こえてくるのかということの方に焦点が当てられる。とりわけ「ハードウェア・ハッキング」の流れのなかから導き出されてくるエレクトロ・アコースティック音楽では、電子的なノイズと楽器の非器楽的使用による無形のサウンドが交差する傾向が強く、それを必ずしもハッキングすることのないエレクトロ・アコースティックの実践と関連づけてみることもできるだろう。


高島正志 / 影山朋子 / 長沢哲 / 古池寿浩
Astrocyte meenna (2016)
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 山田光のアイデアを取り入れることによって、独自の組み合わせからエレクトロニクス装置を生み出したドラマーの高島正志もまた、サウンドの地平をゆく固有の道を突き進んでいる。「G.I.T.M.」と名付けたその自作装置を取り入れた高島の演奏は、リズムというよりは痙攣するパルスの積み重なりを聴かせ、合奏では往年のスピリチュアル・ジャズのような陶酔感を伴っていく。他方で高島は作曲も手掛けており、そのモチベーションは自由であるはずの即興演奏が陥りがちな定型を脱することという、ギャヴィン・ブライアーズのデレク・ベイリーに対する批判を彷彿させるものがあるが、それでも彼自身はプレイヤーとして即興演奏をおこなう活動を手放してはいない。いわば彼にとっての作曲行為は即興演奏と相互に影響を与え合うような地続きのものとしてあるのだろう。現在は福島県に居住し、アジアン・ミーティング・フェスティバルにも出演したギタリストの荒川淳が郡山市で運営するスペース「studio tissue★box」で主に活動しているものの、都内でライヴをおこなうこともある。先日(5月5日)も高島の作曲作品が、竹下勇馬と石原雄治によるデュオ・ユニット「Tumo」によってリアライズされるライヴがおこなわれるなど、シーンとの交流がみられた。


Straytone / 中村ゆい / 増渕顕史 / 徳永将豪
A Crescent and Moonflowers
meenna (2016)
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 エレクトロニクス奏者と楽器奏者の共演から生まれるエレクトロ・アコースティック作品も紹介しておきたい。ミニマル・ドローンな音源の反復から電子音響を変化させていくStraytone、太く豊かな倍音を含んだサウンドを求道的に発し続けるサックス奏者・徳永将豪、12小節という定型を取り外したブルースの音響そのものに焦点を当てるかのようなギターを奏する増渕顕史によるトリオ・セッションと、声というよりも呼吸する気息の物質性をあらわにするヴォイス・パフォーマー中村ゆいが加わったカルテットによるセッションのツー・トラックを収めた『A Crescent and Moonflowers』である。管楽器のようなうねりとプリペアド・ギターのような打楽器的なサウンドを聴かせるStraytoneの演奏は、徳永と増渕による特殊奏法を取り入れた響きと混ざり合い、さらには吉田アミの「ハウリング・ヴォイス」を彷彿させる電子音響的なヴォイスを発する中村ゆいの演奏がそこに重なり合うことで、サウンドそれ自体の地平が開かれていく。そうした音像のなかから、ときおりその楽器の、あるいはその奏者にしか出せない固有の響きが前面に出てくる瞬間に立ち会うとき、サウンドの地平に照準を合わせていた耳に異化作用が施されていくというのも、こうしたセッションならではの愉しみだと言えるだろう。


康勝栄 / 弘中聡
state, state, state
ftarri (2012)
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 エレクトロ・アコースティック音楽の可能性を、あくまでも演奏を基礎としながらも、録音芸術として作品化した特筆すべきアルバムとして『state, state, state』も挙げておきたい。MultipleTapを主宰しウェブ雑誌『20hz』を発行するなど、日本のインディペンデントな音楽シーンを精力的に紹介し続け、クライヴ・ベルにも「これらの音楽を取り巻く環境を、特に日本において変えていくという使命を負っている」(20)と評された康勝栄と、変則的で巧妙にデザインされたリズムがラップのフロウを新鮮に聴かせるバンドskillkillsなどで活躍するドラマーの弘中聡によるデュオ作品である。僅かにポスト・プロダクションが施されたデュオ演奏とそれぞれのソロ、そして録音されたままのデュオ演奏が収録された本盤は、エレクトロ・アコースティックという考え方によって演奏をサウンドの地平で捉えられるようになったはずのわたしたちの耳が、それでも音盤上で施される改変によって本来の演奏を想起してしまうということ、しかし手を加えないことが本来の演奏と呼べるものなのかどうかということなどを、スタイリッシュなビートとともに提示している。すでに5年前の作品であり、とりわけ康の現在の活動はギターよりも自作エレクトロニクス装置を用いた演奏をする機会が多くなっているものの、そうした問題提起する射程の深さを伴うこの作品の特異性はまったく古びていない。

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2 ライヴ・インスタレーション

 かつてデュオ・ライヴをおこなった川口貴大と大城真は、それを観た米国のとあるレーベル・プロデューサーから「これはインスタレーション系だ」と評されたことがあるという。要するに「こんなものは音楽ではない」という否定的なニュアンスが含まれた評価を受けたのだが、むしろそうした評価を、従来の音楽概念では評価しきれないような、しかしあくまでも音を介した新しいパフォーマンスとの出会いから発された言葉として、ポジティヴに受け止めることもできるだろう。今年の春に出版された大友良英による好著『音楽と美術のあいだ』でも提示されていた、音楽とも美術ともつかないそうした新たな表現領域――あるいは領域から逸脱する表現のありよう――を、しかし美術に基軸を置いた音の展示ではなく、あくまでも音楽の現場で「演奏」としてなされている、いわば「ライヴ・インスタレーション」とも言える実践を眺めることから、その実態を探っていきたい。ここで紹介するミュージシャンたちの多くはアート・スペースに設置されるような音の展示作品も制作しており、いわゆるライヴハウスのような音楽のために設けられた場においても、空間と大きく関わるようなリアルタイムの反応と操作をおこないながら、投げ出された音の行方を見守るという非常に独特な「演奏」をおこなっている。こうした動向については、音楽家/評論家のデイヴィッド・トゥープによって「フェノメノロジスト」という呼称が用いられてもいる(21)


川口貴大 / ユタカワサキ
Amorphous Spores
Erstwhile Records (2015)
Erstwhile Records

 川口貴大はもともとフィールド・レコーディング作品の制作からそのキャリアを出発させながらも、ゼロ年代の半ばにはすでに会場内を歩き回りながら自作の音具を設置していくという特異なパフォーマンスをおこなっていた。『n』に結実するそうした方向性は、その後、大城真、矢代諭史とともに結成したグループ「夏の大△」へと受け継がれるとともに、より演奏に比重を置いた新たな表現を開発していった。複数のヤンキーホーンと音叉、さらには臓器のように伸縮する巨大なビニール袋とスマートフォンの光を用いたパフォーマンスでは、演奏の進行と展開を共演者に対する反応ではなくビニール袋の動きに合わせるという、非常に独特な即興演奏の取り組み方をしている。共演者との相互触発から反応の応酬を聴かせるのではなく、もっと人間の世界から離れた物と物の相互作用を提示するかのような川口のパフォーマンスは、その見た目の異様さもさることながら、どこにでもある日用品の匿名性とは裏腹に、彼にしか生み出せない個性的なサウンドを奏でることにも成功している。ユタカワサキとのデュオ・セッションにポスト・プロダクションを施すことで完成した『Amorphous Spores』で聴くことができるのは、人間の身体的な動作からは切り離されたところにある音響に刻まれた、しかし紛れもない彼の個性である。


大城真
Phenomenal World
hitorri (2014)
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 匿名的かつ個性的なサウンドは大城真が自作した通称「カチカチ」からも聴くことができる。かつてはヴィデオ・フィードバック現象を音楽として提示し、その後も「ウネリオン」と名付けた独自のフィードバックを発生させる楽器を自作するなどしてきた大城は、よりコンパクトに持ち運びの出来る形態として手のひらに収まるサイズの「カチカチ」を生み出した。会場内を歩き回るパフォーマンスは、ともに「夏の大△」で活動する川口貴大の初期の試みを彷彿させるところがあるが、至る所に設置された「カチカチ」が生み出す即物的な音響のアンサンブルがサウンドのモアレを形成するところなどは、独自に取り組んできたフィードバック現象の実践からの形跡を感じさせる。ヴィデオ・フィードバック、ウネリオン、「カチカチ」などを全て収録した、大城の活動の集大成ともいうべき作品が『Phenomenal World』である。彼自身の「現象としての音や、その発生の仕組みへの興味」(22)があらわされている本盤のタイトルからは、現象学を出発点に非人間的なオブジェクトに立脚する哲学を構想するという、グレアム・ハーマンの「オブジェクト指向存在論」を連想させるところがある。ただしそうした現代の思想動向の実体化や反映を彼の音楽に見出すことよりも、まずは様々にあらわれるサウンドに対する興味と驚きが根底にあるのだということには注意しなければならないだろう。


秋山徹次 / 大城真 / すずえり / Roger Turner
Live at Ftarri
meenna (2016)
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 今年の初めにイングランド北西の都市マンチェスターで大城真とともに展示およびライヴをおこなったすずえりの近年の活動にも非常に興味深いものがある。アコースティック・ピアノ、大小のトイピアノ、それにさらに小さな模型のピアノを連結し、「ピアノでピアノを弾く」という実にユニークな展示作品を手掛けるすずえりは、ライヴにおいても複数の「ピアノ」を用いながらそのユニークネスを発揮したパフォーマンスを繰り広げている。会場で何かを制作しようとしているものの、それにしてはあまりにも非合理的で非効率的なプロセスを踏んでいくことが、むしろ自作した音具たちの連関を生み出していくそのパフォーマンスは、従来の演奏概念とはまったく別のところから「即興」の醍醐味を聴かせてくれる。肩肘張らない脱力した佇まいもまた、しかつめらしく状況を見守る即興演奏とは別の緊迫感を生み出していく。残念ながら彼女のこうした側面を捉えた音盤はまだリリースされていないものの――とはいえ、彼女の面白さは音盤にはならないライヴのプロセスにこそあるともいえる。なので反対に、それをどのようにサウンドとして定着するのかは非常に気になるところだ――大城真、秋山徹次、それにロジャー・ターナーとのカルテットによるセッションを収めたアルバム『Live at Ftarri』でその特異な実践を垣間見ることができるだろう。

 音盤として残された彼ら/彼女らの実践は、あくまでも変化するサウンドの妙味にその魅力があらわれているわけだが、ライヴや展示においては「装置の実用性や象徴性ではなく、装置同士のネットワークや、物質が人間にもたらす影響」(23)とも言われるような、人間中心主義的な世界を離れた音たちが織り成していく、オブジェクトの相互作用のようなものを形成することの面白味がある。多くの場合ハッキングした自作音具を用いながらも、それをスピーカーから電子音として鳴らすのではなく、あくまでもアコースティックな響きとして空間に配置していくということも、現象する音の環境世界を提示しようとすることと無関係ではないだろう。それは「演奏」というよりも、人間に従属することのない音の発生を、制御不能なままに見届けようとするある種の「聴取」行為とも言える。こうした点から、まったく別の試みであるように思えながらもフィールド・レコーディングという実践との近似性が浮かび上がってくる。フィールド・レコーディングもまた、人間の世界を離れた音の環境を相手取っていく試みだからである。言うまでもなくそれをどのように切り取るのか、すなわち聴取する耳をどこに設定するのかということがフィールド・レコーディングの要であり、それは必ずしも聴くことによって視点を切り取ることが要点ではないインスタレーションの在り方とは異なっている。しかし耳の先で起こる出来事を人間が従属させることはできないのであって、とりわけそうした聴取の実践をライヴ空間でおこなうミュージシャンにあっては、そこでわたしたちが立ち会うこととなるのは出演者たちに同化した耳の視点ではなく、むしろ彼ら/彼女らが聴き、聴こうとし、それでも聴くことの外部へと溢れてしまうような音の生態系であるだろう。


stilllife
archipelago
ftarri (2015)
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 笹島裕樹と津田貴司のふたりによって結成されたstillifeは、フィールド・レコーディングをライヴにおける「演奏」としておこなう非常にユニークなデュオ・ユニットである。彼らのライヴでは、オートハープや木製の笛、音叉、小石、ガラス瓶その他無数の音具と、集音し変調するエレクトロニクス装置などを用いながらも、それらは一般的な音楽の演奏においてホワイト・キャンバスに描かれる絵のようにあるのではなく、むしろその場の環境やライヴをおこなう会場にすでにある様々に彩られたキャンバスを前にして、その背景が決してまっさらな沈黙ではないことを明かすかのように挿入されていく響きとしてある。言うまでもなく、彼らがそこで聴き取ろうとするサウンドは、観客であるわたしたちと同一のものではない。むしろ聴き取ろうとする彼らの「演奏」によって浮かび上がる音の世界が、わたしたちひとりひとりに固有の聴取の位置を与える契機となっていく。しかしだからこそ、彼らの音盤はライヴであらわされる音楽とはまったく別の価値を帯びもする。傑作ファースト・アルバム『夜のカタログ』の翌年にリリースされた『archipelago』では、あたかも電子音楽のような即物性を伴って響く鳥の鳴き声が、最終的にはそれが他ならぬ「鳥の声」という意味にまみれたサウンドでしかなかったということに、思わず気づかせるような工夫が凝らされていて、それは録音作品ならではのstillifeの「耳」の刻みかたとも言えるだろう。


松本一哉
水のかたち
SPEKK (2015)
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 stillifeのメンバーでもある津田貴司と、ベースを用いた特異なドローン/倍音を奏でてきたTAMARUとともに、昨年からは「Les Trois Poires」というグループでも活動をおこないながら、独自のフィールド・レコーディング作品を残しているアーティストとして、打楽器奏者の松本一哉の名前を挙げることもできる。「自分が指揮者になったように音を選んで聴けば、身の回りには常に偶然に作曲された音楽が溢れている」(24)と語る彼が、「偶然のオーケストラに奏者として自分が音を足すことで、全く別の聴き方ができたり、もっと違う楽しみができたり、今まで体感したことのない新しい価値を見出せる」(25)ということを念頭に置いておこなった環境音とのセッションが、『水のかたち』には収められている。全編が「ありのまま」に収録された本盤からは、「波紋音」をはじめとした複数の音具を用いた、水琴窟での数回にわたる演奏から、長野県根羽村に固有の独特な鳴き声を持つ蛙との演奏、梅雨明けに突然訪れるひぐらしとの演奏、あるいは浜辺に打ち寄せる波音との演奏など、水をテーマに様々な場所でおこなわれた「セッション」の記録を聴くことができる。打楽器奏者ならではのリズミカルな演奏もおこなう松本の音楽が、しかしときおり環境音なのか彼の打音なのかわからなくなる瞬間に立ち会うとき、「偶然のオーケストラ」が詩的な方便やケージ主義的な認識論ではなく、極めて具体的なサウンドのありようを指しているのだということがわかる。

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3 シート・ミュージック

 シート・ミュージックとは元来音楽の流通形態のひとつの在り方を指し、とりわけ録音/再生技術が音楽の消費形態として一般化する以前の18世紀末から20世紀初頭にかけて、音楽家が生み出した作品をいつでも再現できるような状態で所有するために売買された楽譜を指すのだが、ここでは大谷能生が『貧しい音楽』のなかで設けた章のタイトルから借用し、即興音楽シーンにおいて新たな表現を求めるために取り交わされているいわゆる「作曲もの」の総称として用いることにしたい。同書のなかで大谷がおこなったインタヴューにおいて、そのころ即興よりも作曲へと活動の比重が増していた杉本拓は、「即興で演奏すると落ち着き先が似てしまう、結局ある磁場の中に収まってしまう。そういった重力から離脱する手段としての作曲」(26)の魅力を語っていた。意味づけられる前の物質的な次元における音響を経験の基盤として分有しているならば、シート・ミュージックの役割もまた、同一の音楽を記号化して保存/伝達することよりも、記号化することから生まれる流動的で一回的な実践のほうに焦点を当ててみることができるようになる。すなわち、紙に書き記したスコアを介して演奏をおこなうことが、単なる伝達の手段やイデアルな領域に作品を保存するのではなく、即興演奏に新たな側面から光を浴びせ、より活動を活発化させるための方途となっていくのである。

(ところで、かつて批評家の佐々木敦は、体験を前提とし聴かれることを目指しているという点においてコンセプチュアル・アートとは異なるものとしながら、「一回性の中に、他の可能性を排除するに足る理由づけ」のないような、「聴かなくても聴いてることと無限に同じになる」ようなものこそが、「即興的な、偶然的な要素を取り入れたヴァンデルヴァイザー以後の作曲の方法論」だと述べていたことがある(27)。いわば充足理由律を否定する思弁的な作曲に可能性を見ていたのであって、それは音をあるがままにするはずのケージ主義的な実験音楽の多くの試みが、しかし音の物的状態ではなく、あくまでも聴くこととの関わりにおいてのみ可能な実践でしかなかったのに対して、聴取および演奏とは区別された作曲それ自体を提起していたジョン・ケージ自身の試みにおいては、「聴取と音の相関」(28)を抜け出す手掛かりをみることができるのであり、その方向性を相関主義の隘路に陥ることなく推し進めたものとして「ヴァンデルヴァイザー以後の作曲の方法論」を捉えることもできる。だが本稿では、あくまでも演奏やパフォーマンスに重心を置いた実践を事例として紹介しているため、こうした「思弁的作曲」を中心的に取り上げることはしない)。


Suidobashi Chamber Ensemble
Suidobashi Chamber Ensemble
meenna (0016)
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 2016年に結成されたSuidobashi Chamber Ensembleは、そのメンバーの多くが即興演奏家としても活躍していながらも、ヨーロッパの現代作曲作品からメンバー自身による豊富なアイデアを取り入れた楽曲、あるいは交流のあるグループ外の音楽家による作曲作品もリアライズしてみるなど、「作曲もの」を活発に実践しているグループである。メンバーを率いるのは吉田ヨウヘイgroupで活動していたフルート奏者の池田若菜で、ほかに即興演奏に果敢に取り組んできたヴィオラの池田陽子、シーンには珍しいファゴットを奏する内藤彩、さらに杉本拓と大蔵雅彦が参加している。前三者はクラシック音楽を素養に持つというところもユニークで、とりわけ内藤彩はこのグループに参加するまでこうしたシーンとはまったく関わりを持っていなかったというところも興味深い。ライヴでは毎回趣向を変え新たな楽曲に取り組んで見せる一方で、決め事なしの集団即興も試みるなど、尽きないアイデアと怖いもの知らずの実験精神にはつねに驚きが満ち溢れている。そうした彼ら/彼女らの魅力をたった1枚のアルバムに集約することなど到底できないが、それでも『Suidobashi Chamber Ensemble』におけるヴァンデルヴァイザー楽派の楽曲を演奏するという試みからは類稀な音楽が生み出されており、ライナーに池田若菜が書き記しているように「構造の理解だけでははかれない何か別の視点から作品を体験すること」(29)の面白さを感じ取ることができるだろう。


Various Artists
実験音楽演奏会
slubmusic / kenjitzu records / l-e (2015)
実験音楽演奏会

 Suidobashi Chamber Ensembleとも交流を持ちながら、主に大崎/戸越銀座のイベント・スペース「l-e」を拠点に活動する実験音楽演奏会(30)も、こうした「作曲もの」で魅力的な活動をおこなっている集団のひとつである。杉本拓が2013年にl-eでおこなっていた「実験音楽スクール」の参加者からなるこの集団には種々様々なメンバーがおり、「なるべく失敗しそうなのを作る」(中条護)という意見から「誰でも参加できる、なるべく簡単なことをやりたい」(高野真幸)という意見まで飛び交う(31)など、一様に括ることのできないバラエティの豊かさがある。だがそれでも、こうした集団として活動をおこなうことが互いに影響を与え合うことによって、また、基本的にはどのような実践も許されるl-eという拠点を持つことによって、様々に新しい試みへと踏み込んでいくことのできる理想的な環境があるとは言えるだろう。『実験音楽演奏会』に収められているのは、五線譜に書き記された作品からテキスト・スコアによるものまで様々であり、たとえば室内の温度を演奏を指示する楽譜に見立てた作品の実演などが収録されている。杉本はかつてこう述べたことがあった――「実験音楽とは、何が音楽であるのか、どのようにある音についてそれが音楽であるかないのかを認識するのか、そういう問題に対して思弁を活性化させ、さらにその思弁に対して実践で答える、そういった精神を持続させていく装置のひとつである」(32)


浦裕幸 / 金沢健一 / 井上郷子
Scores
meenna (2017)
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 こうした固定メンバーあるいは集団による実践とは異なりながらも、ユニークな作曲作品を生み出している存在として浦裕幸の名前も挙げることができる。2月17日のライヴで初演された「Etude for Composition #1」において、リアライズする即興演奏家の固有のサウンドを扱いながらも、カードを捲る無意識的な動作とそこから生まれる意図されざる響きを露わにしていた浦は、『Scores』においても奏者固有の音響をたゆたわせながらも、二重の無意識的なるものを顕在化させることに成功している。ひとつめはまったく音楽化されることを想定せず、もっぱら造形的な美しさだけを追い求めて制作されていた彫刻作品から、その形象を楽譜に見立てることで生まれる和音とその連なりであり、もうひとつはそれを演奏した10月1日の群馬県立近代美術館に偶然居合わせた子供のはしゃぎ声と基層となる環境の響きである。ポスト・ケージの地平にいるわたしたちにとって、もはや単にステージ上で演奏者がなにもしないというだけでは、意図されざる響きとしての「サイレンス」が立ちあらわれてくることはない。浦自身がどこまでそれに意識的に取り組もうとしているのかは定かではないものの、彼の実践からは、現代の耳に「サイレンス」をいかにして出会わせることができるのか、という挑戦を読み取ることもできるだろう。

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4 「即響」

 「即響」という耳慣れない造語は、フランス文学者/音楽評論家の昼間賢による論考「音響音楽論」(33)から借用した言葉である。同論考では、組織化された音楽、あるいはそうした音の連なりにすでにして組み込まれた楽音ではなく、「音響」――とりわけ音の(複製技術というよりも)保存手段としての録音を介したものとしての――を起点に据えて音楽の再構築を図る試みについて、それを喉歌、ブルガリアン・ヴォイス、クロード・ドビュッシー、ジミ・ヘンドリクス、フィールド・レコーディングといった多岐にわたる事例を辿りながら論述していくという内容になっている。その最終章「究極のローカル(二)――楽器に徹した即興演奏=即響の現在」において、昼間は現代即興音楽シーンについて触れながら、その特徴を「音の過剰や極端な欠如によって音楽の根幹を揺るがすのではなく、特異な響きを最大限にいかしつつ、通常の音楽とは別の音響を、あくまでも楽器によって、すなわち人間の身体を介したかたちで演出する音楽」として「即響」と呼ぶことにしている。それは「物質そのものではなく物的状態、すなわち、社会的に決められた用途から自由になった物と同様にありたいと願う人との出会い」であり、「意味づけられていない自由な音のために黙々と続けられる」実践なのである。大谷能生が14年前に提起した「新しさ」をも彷彿させるこうした定義は、当時見出された可能性を自らの身体と楽器を前にした音楽の現場において、さらに一層洗練させていく一傾向として捉えることもできるだろう。


歌女
盲声
blowbass (2014)
daysuke

 こうした傾向を語るにあたって、昼間賢がそれを体現するアーティストとして挙げていたチューバ奏者の高岡大祐について触れないわけにはいかない。ステージでパフォーマンスをおこなうだけでなく、生きることそれ自体が即興演奏と地続きにあるような発言を残してきた「旅するチューバ吹き」の彼が、石原雄治と藤巻鉄郎というふたりの打楽器奏者とともに結成した「歌女」は、ブラスバンドからそのキャリアを出発させたという高岡の音楽的な原点に立ち返るかのように、ニューオリンズ・スタイルのリズム隊を彷彿させる編成となっている。だがその音楽はまったく異なるものであり、重音奏法を循環呼吸によって延々と続けるチューバの響きにふたつの打楽器が交差するリズムが絡み合う演奏や、細かいパルスの連続が大きなうねりを生み出していく演奏など、音楽的なサウンドを聴かせる一方で、何かを転がしたりファスナーを開け閉めする物音が連ねられていく「非音楽的」な音響も聴かせている。そうした音楽が収められた『盲声』は、アルバムの冒頭に野外からライヴ会場へと赴く足音が、末尾にはライヴ会場から去っていく様子が録音されていることを思うと、この作品全体が「歌女」というグループの音響を生け捕りにした、いわばフィールド・レコーディング作品とも言えるものとなっている。


徳永将豪
Alto Saxophone 2
hitorri (2015)
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 楽器の求道者として自らに固有の音響を生み出してきたアルト・サックス奏者の徳永将豪もまた、「即響」とも言えよう特筆すべき試みをおこなっている。14年前の大谷能生の論考においてもっとも若い世代のひとりとして紹介され、当時多くの即興演奏家がエレクトロニクスを取り入れた演奏をおこなっていたのに対して、あくまでも「サックスというアコースティックな楽器の響きに取り組んでいる貴重な存在」(34)として挙げられていた徳永は、その後も自らの音楽を錬成していくことで誰にも到達できないような響きを獲得するに至った。運指をほぼ固定したまま息を吹き込むサックスからは、その呼吸の運動によって様々に反響し共鳴する驚くべきサウンドの豊かさを聴かせてくれる。それだけでなくときおり荒れ狂うように軋るノイジーな演奏もおこないながらも、気息によって形づくられる身体的なリズムが、特殊奏法を駆使したサックス演奏を、単なるノイズ生成ではなくより音楽的な流れとなっていくような構成的な展開をももたらしている。ファースト・ソロ・アルバムでは抑制された静謐さの揺らめきを探索していたその音楽は、5年半後の『Alto Saxophone 2』においてよりダイナミクス溢れる強靭な演奏に至り、そしていま現在も変化を続けている。彼の3枚めとなる新たなソロ・アルバムは近くリリースされる予定のようである。


大上流一
Dead Pan Smiles
DPS Recordings (2015)
Tower

さらにもうひとり、ギタリストの大上流一の実践をこうした特徴から捉えることもできるだろう。すでにゼロ年代の前半には活動を始めていた大上を「新しい波」などと呼ぶわけにはいかないものの、80年代から続く中野のライヴ・スペース「Plan-B」において、彼が2004年から10年間にわたって毎月おこなってきたライヴにおけるソロ・インプロヴィゼーションが、5枚組のアルバムとして陽の目をみることによって、ようやくわたしたちは彼の試みに録音を介して出会うことができるようになった。10年間の記録から厳選された録音が収録されている『Dead Pan Smiles』には、デレク・ベイリーを思わせる点描的なハーモニクスとフレーズから逸脱する演奏や、後期高柳昌行のごときフィードバックを取り入れた轟音ノイズなどがありながらも、ベイリーとも高柳とも遠く離れたミニマルに反復していく独自の即興演奏までもが収められている。それはどこかジム・オルークのギター・ソロを彷彿させるところがあるかと思いきや、そこにとどまることもなく、豊富なアイデアと卓越した技術を駆使して新たな即興に挑んでいく様に立ち会うとき、こうした連想ゲームがことごとく無意味になるような気にさえなってくる。ひとつとして同じ演奏がなく、つねに変化を続けるその音楽は、当然のことながらジャンル化した「フリー・インプロヴィゼーション」の再生産などではなく、まさしく「意味づけられていない自由な音のために黙々と続けられる」実践の軌跡と言うことができるだろう。


Various Artists
Ftarri Third Anniversary Vol. 1 ~ Vol. 6
meenna (2015)
Ftarri / Meenna

 もっとも懸念すべき事態は、こうした見取り図を描くことによって、その図式に収まりきらない魅力的な実践の数々が、わたしたちの前から見えなくなってしまうことにある。それを避けなければならないということは強調してもし足りない。そこで最後に、水道橋Ftarriが実店舗を構えて3周年を記念してリリースしたアルバムを紹介しておくことにしたい。Vol.1からVol.6まで計6枚出されたこれらのコンピレーション・アルバムには、これまで言及してきたミュージシャンたちのほとんどを含みながら、それだけでなく、総勢28名にも及ぶ多様な音楽が収録されている。そこには当然のことながらこれまで書き記してきた4つのテーマではまったく掬い取れないような特異な実践もあれば、そうしたテーマに当て嵌まるものの紹介し切れなかった試みもあるだろう。だがさらに言うならば、水道橋Ftarriを窓口として眺めることそれ自体が妥当なことなのかどうかということも、問われなければならないように思われる。そこに出演しているミュージシャンたちは言うまでもなく他のスペースでも活躍しており、たとえば六本木Super Deluxe、大崎l-e、桜台pool、東北沢OTOOTO、八丁堀七針、千駄木Bar Isshee、神保町試聴室など、他にも十分に窓口となり得るような音楽の現場が無数にあるのだ。さらにそれらの情報が掲載されたウェブサイトは、現在では「Improvised Music from Japan」だけでなく、それぞれのミュージシャンたちが容易にインターネット上に個人の拠点を作ることができるようになっているし、あるいはト調のように、都内のライヴ日程を価値判断を下す以前にひたすら収集し続ける驚異的なウェブサイトもあらわれてきている。本来であれば、そうした個別の現場とそこで活躍する単独者たちについて、ひとつひとつに丁寧に言説を付していくという作業が正しいことのようにも思う。しかしその個別の実践があまりにも膨大に広がっていることが、一般的なリスナーにとってどこから近づけばいいのかわからない難解さを生み出しており、さらにそうした多様性がむしろ興味を分散し触れてみる機会をも数少なくしてしまっているようにも思うのである。そうしたことを打ち破るきっかけとして、本稿のような踏み台の役割を果たす言説も必要なのではないか。無論、ここから先は、個別の読者が実際に現場へと足を運んでいくことが期待されている。ここで紹介した数々の実践は、それを目前にしてみるならば、音盤とはまったく異なる風景として立ちあらわれてくることだろう。そしてそれを未だなお「即興音楽」と呼び続けることが適切であるのかどうかは、今後あらためて議論されるべきことでもあるように思われる(35)

Oneohtrix Point Never - ele-king

 来る8月11日、OPNによる新たなアルバム『Good Time Original Motion Picture Soundtrack』がリリースされる。タイトルにもあるとおり、今回のアルバムはジョシュア&ベニー・サフディ監督作『Good Time』の劇伴で、先日開催されたカンヌ国際映画祭にてカンヌ・サウンドトラック賞を授かるなど、すでに高い評価を得ている。
 OPNことダニエル・ロパティンがサントラを制作するのは今回が初めてではない。彼は2013年にソフィア・コッポラ監督作『The Bling Ring』のスコアをブライアン・レイツェルとともに手がけている(興味深いことに『R Plus Seven』がリリースされたのと同じ年である)し、2015年にはアリエル・クレイマン監督作『Partisan』の音楽を単独で担当している(興味深いことに『Garden Of Delete』がリリースされたのと同じ年である)。だが、本名のダニエル・ロパティン名義ではなく、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー名義でサントラを発表するのは今回が初めてのはずだ。
 メタルに触発されたかと思えばボーカロイドに影響されたり、ルトスワフスキを再解釈したかと思えばジャネット・ジャクソンをカヴァーしたり、アノーニとコラボしたかと思えばDJアールをプロデュースしたりと、もはや何を考えているのかさっぱりわからないロパティンだけれど、今回のサントラをOPN名義でリリースするのにもきっと彼なりの意図があるのだろう。ただのサウンドトラックとしてだけではなくOPNのアルバムとしても聴いてほしい、というような。
 ともあれ、イギー・ポップとの共作曲“The Pure And The Damned”が先行公開されているので、それを聴きながら待っていようではないか。


ONEOHTRIX POINT NEVER
本年度カンヌ・サウンドトラック賞受賞!
ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーによる
サウンドトラック・アルバム『Good Time』のリリースが決定!
イギー・ポップ参加の新曲をフル公開!

先日開催されたカンヌ国際映画祭にて、ジョニー・グリーンウッドやフェニックス、ジェド・カーゼル、イブラヒム・マーロフといった名だたるミュージシャンや作曲家たちを抑え、カンヌ・サウンドトラック賞を受賞したワンオートリックス・ポイント・ネヴァー(Oneohtrix Point Never)ことダニエル・ロパティン(Daniel Lopatin)が、受賞作である映画『GOOD TIME(原題)』のサウンドトラックを8月11日(金)にリリースすることを発表。イギー・ポップが作詞とヴォーカルを担当したエンディング・テーマ“The Pure and the Damned”が公開された。

Oneohtrix Point Never - The Pure and the Damned (feat. Iggy Pop)

本年度のカンヌ国際映画祭の目玉のひとつとされた映画『GOOD TIME(原題)』は、東京国際映画祭グランプリ&監督賞のW受賞を『神様なんかくそくらえ』で成し遂げたジョシュア&ベニー・サフディ兄弟による最新作で、『トワイライト』シリーズや『ハリー・ポッター』シリーズで知られるロバート・パティンソンや、クエンティン・タランティーノ監督作『ヘイトフル・エイト』のジェニファー・ジェイソン・リーが出演するクライム・スリラー作品となっている。

Good Time Trailer (Original Score by Oneohtrix Point Never)

8年ほど前、ぼくらは音楽に、あるいはワンオートリックス・ポイント・ネヴァーその人に興味を持った。ぼくはいつもダンの音楽(特に初期の頃の)を、まだ作ってもいない映画のサウンドトラックとして想像していた。『GOOD TIME』でのコラボレーションから、それを取り巻く対話を通じて、ぼくらは深い友情と、もちろんこの色鮮やかでこの世のものとは思えないようなスコアを手に入れた。制作の前にダンとはコンセプトのことでよく話し合った。それがカンヌで花開くことになるとは……まるでハイレゾ・ファンタジーだね。 - ジョシュア・サフディ

ぼくはワクワクしながら、ミッドタウンにある兄弟のオフィスを訪ねた。そこには彼らが好きなものが何でもあって、まるで聖地みたいだった。巨大な『AKIRA』のポスターと『King of New York』が並んでたよ。ふたりはぼくに、特殊な映画に取り掛かるつもりだと言った。ぼくから見たサフディ兄弟は、非常に特異なことに取り組みながらも、伝統を尊重する監督だ。ジム・ジャームッシュやクエンティン・タランティーノ、レオス・カラックスといった監督を思い浮かべても、彼らは映画の歴史を愛するがゆえに映画制作そのものから遠ざかりがちだが、いずれにせよあの独特の個性を失うことはない。ぼくらに共通しているのは、傷ついてボロボロになったものに対する愛着と敬意だ。たぶんぼくらはいま現在の歴史を守りたいという衝動を感じていると思う。昔の、ではなく。ぼくら自身の言葉でだ。 - ダニエル・ロパティン

『GOOD TIME』はサフディの出身地であるニューヨークに断片的なつやを与えている。だが固い留め具としてそこになくてはならないのが、衝撃的なアンダースコアだ。ほぼノンストップで酔わせるそのエレクトロニカは、ブルックリンを拠点に活動する実験音楽の作曲家ダニエル・ロパティン、またの名をワンオートリックス・ポイント・ネヴァーが手がけている。エンディング・テーマ“The Pure and the Damned”でコラボレートしたのはイギー・ポップだ。至る所で響き渡るプログレッシヴ・ロックのシンセサイザーは、ウィリアム・フリードキン、マイケル・マン、そしてジョン・カーペンターの『Assault on Precinct』といったヴィンテージ映画の残響を呼び起こしているが、決して模倣ではない。 - Hollywood Reporter

ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーことダニエル・ロパティンによって提供されたスコアは、この映画と完璧にマッチしている。タンジェリン・ドリームのようなVHSスリラー・サウンドトラックに由来しながらも、ここ最近の模倣者たちとは比べものにならないほど独創的で表現力がある。ロパティンの不安気な旋律と音の急襲は、コニーの頭の中と思えるくらいの感覚を我々に与えてくれる。 - Vulture

ゴミ番組と、ドラッグ・カルチャーと、蛍光色が飛び散った夜間の撮影と、振動するシンセサイザーを混ぜ合わせた21世紀のファーストフード・ハイブリッド。ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーのすばらしいスコアに感謝だ。 - The Film Stage

ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーによる映画『GOOD TIME(原題)』のサウンドトラック・アルバム『Good Time Original Motion Picture Soundtrack』は8月11日(金)世界同時リリース! 国内盤には、ボーナス・トラック“The Beatdown”が追加収録され、解説書が封入される。iTunesでアルバムを予約すると、公開された“The Pure and the Damned (feat. Iggy Pop)”がいちはやくダウンロードできる。

label: Warp Records / Beat Records
artist: Oneohtrix Point Never
title: Good Time Original Motion Picture Soundtrack
cat no.: BRC-558
release date: 2017/08/11 FRI ON SALE
国内盤CD: ボーナス・トラック追加収録 / 解説書封入
定価: ¥2,200+税

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映画『GOOD TIME(原題)』
2017年公開予定
第70回カンヌ国際映画祭 コンペティション部門選出作品

東京国際映画祭グランプリ&監督賞のW受賞を『神様なんかくそくらえ』で成し遂げたジョシュア&ベニー・サフディ兄弟による最新作。

コニー(パティンソン)は、心に病いを抱える弟(ベニー・サフディ監督兼任)のため、家を買い安全に生活させてやりたいと考えていた。そこで銀行強盗をふたりでおこなうが、途中で弟が捕まり投獄されてしまう。弟は獄中でいじめられ、暴れて病院送りになる。それを聞いたコニーは病院へ忍び込み、弟を取り返そうとするが……。

出演:ロバート・パティンソン(『トワイライト』『ディーン、君がいた瞬間』)、ベニー・サフディ(監督兼任)、ジェニファー・ジェイソン・リー(『ヘイトフル・エイト』)、バーカッド・アブティ(『キャプテン・フィリップス』)
監督:ジョシュア&ベニー・サフディ兄弟(『神様なんかくそくらえ』)
配給:ファインフィルムズ

2017/アメリカ/カラー/英語/100分
(C) 2017 Hercules Film Investments, SARL

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