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「ラウドな反動」とは実際のところそのように「いま、ここ」の価値を取り戻すこと、ダウンロードできない種類の「体験」であることが重要なのだ。
2008年5月『ピッチフォーク』に掲載されたノー・エイジ『ノウンズ』のレヴューは、インターネットのために音楽カルチャーにおける地域性が解体され、曖昧になってきているという指摘からはじまっている。そのことがかえって音楽ファンたちの目を地元シーンへとフォーカスさせていると。
音楽が迎えつつあるグローバリゼーション問題についてはまだ議論・論点が出揃ったとはいえないが、2008年にそのようななかば反動的な文化のブロック的傾向の指摘があったことは重要だ。現在その動向がもっとも注目されるチルウェイヴの潮流も――こちらは地域性によらない音楽ムーヴメントとしてであるが――まさにこうしたグローバル化状況の渦中から生成されてきたものだ。よって両者は音楽性において開きがあるものの、その背景や環境的条件に着眼すれば非常に類似した性格を持っているとも言える。
以下に取り上げるバンド名を見ればあきらかであるが、2000年代後半のインディ・ミュージック・シーンは、テクニカルにはローファイとリヴァーブがキーワードとして機能し、その流れのなかにガレージ・ポップとチルウェイヴの隆盛の兆しが胚胎されていた。両者は性格の異なる双子のようなもので、前述のように出自やメンタリティとしてはよく似たものを持ちつつ、ギターかシンセか(後者にはギターをフィーチャーしたものも多いが)、バンドかソロか、地域性があるか汎世界的か、ライヴ向きかヘッドホン向きか、といった点できれいに対照を成すようにも見えておもしろい。特に後の2点は、音を介して何とつながるか、ということへの感性の差を感じさせる。
![]() Ty Segall Goodbye Bread Drag City /Pヴァイン |
本インタヴューの主人公、先日ディスク・レヴューでも紹介したサンフランシスコのベッドルーム・ポッパー、タイ・セガールは、この新しきガレージ勢を牽引するルーキーのひとりである。キャリアのそもそもをジ・エプシロンズというスラッシーなパンク・バンドからスタートさせたタイは、2005年にサン・フランシスコへと拠点を移し、そこに落ち着くこととなった。
タイ・セガールとしてソロ活動をはじめてからは、カセットや7インチ・シングルを含めるとかなりの音源をリリースしている。ラフでノイジー、イライラとしたディストーションにザ・フーやソニックスのようなヴィンテージな風合いのリヴァーブをめいっぱい効かせ、2分強で歌い上げるガレージ・ポップは痛快で、現在サン・フランシスコのもっともホットなアーティストに数えられようとしている。かの地はいま、粗っぽくエネルギッシュなガレージの季節を迎えているのだ。
ソニー・アンド・ザ・サンセッツにも参加するベイ・エリアのマルチ・インストゥルメンタリスト、ケリー・ストルツはタイが越してきた当時のサン・フランシスコ・シーンについておもしろい回想をしている。いわく、「ジョアンナ・ニューサムやディヴェンドラ・バンハートなどフリー(ク)・フォークの盛り上がりがしばらくのあいだを席巻し、消えていった」と。そして現在のシーンを占めるラウドな音はほとんどその反動ではないか、と。なるほど現在タイらが活躍するシーンの中心には、ジー・オー・シーズやフレッシュ・アンド・オンリーズなど、ワイルドで危険な香りを持ったガレージ・ロック・アクトがいて、やかましいノイズと行き過ぎたプレイ・スタイル(ショウで暴れてシンバルで顔を切ってしまったりする!)が支持を集めている。サン・フランシスコのただなかで状況を見守ってきた人物の実感であるから、こうした傾向を先行音楽への反動だとする観察には信憑性があるが、さらにマクロに考察したい。これらはフリーフォークを仮想敵にした噴き上がりではなく、ローファイの再評価という大きな機運に同調した、時代的な動きなのだ。それはきわめて地域的であり、同時に英米から世界にわたって広く見られる傾向でもある。
※参考までに列記しよう。サンフランシスコにはジー・オー・シーズらが看板を背負う〈イン・ザ・レッド〉があり、日本でも人気のブラック・リップスやヴィヴィアン・ガールズ、TVゴーストにタイベックなどどこか国境付近のワイルドさを持った辛口のガレージ・ロックを特色とする。またローファイ・ブームの寵児として〈キャプチャード・トラックス〉と人気を分かつサイケデリックなリヴァーブ・ポップ・コロニー〈ウッドシスト〉があり、主宰のウッズはじめリアル・エステイトやギャングリアンズ、カート・ヴァイル、またフレッシュ・アンド・オンリーズやホワイト・フェンスなど〈イン・ザ・レッド〉にもまたがるリリースをおこなっている。「シットゲイズ」の呼称で注目されたサイケデリック・ホースシットなどもこの周辺だ。
ブルックリンには前出の〈キャプチャード・トラックス〉があって、よりアーティでソフィスティケイトされたガレージ・ロックをレーベル・カラー として持っている点、〈イン・ザ・レッド〉の志向する粗暴さと好対照を成している。主宰のブランク・ドッグスやビーチ・フォッシルズ、ビーツの他、初期のダム・ダム・ガールズやガールズ・アット・ドーン、ブリリアント・カラーズなどc86直系のガール・ポップ、ワイルド・ナッシングやミンクス、クラフト・スペルなどポスト・パンクからニュー・ロマ的な雰囲気を持ったバンドにも力を入れ、独自のカラーを展開している。また〈ウッディスト〉など前出のレーベルともリリースしているバンドにカブりがあり、親交も深い。
オックスフォードの〈ファット・ポッサム〉も老舗にして人気が強く、ソニー・アンド・ザ・サンセッツ、スミス・ウェスタンズ、テニスやウェイヴスを抱える。土地としての盛り上がりがあるわけではないが、クリーヴランドのクラウド・ナッシングスの活躍と成功も現在のローファイ・シーンの影響を測る上で見逃せないものであった。さらにUKにまでおよび逆輸入的に注目されるのがドムやメイジズ、メイル・ボンディングの素朴ながら優れたガレージ・ポップ。US勢がポップさに対してどこかけれんみを感じさせるのに対し、UKから聴こえてくるこれらシーンへの反応はストレートなもので、そこがまたよい作用を生んでいると言えそうだ。
ローファイがなぜ再評価されるのか。いま「ローファイ」であることに新しいアーティスト/リスナーはどのような意味を求め、調達しようとしているのか。たとえば彼ら新しきガレージ勢にとって、アルバム制作や録音という作業はライヴ演奏の絶対的下位にあるように見える。ガレージというスタイル自体がそもそもそうであるとも言えるだろうが、彼らはライヴハウスでしか体験できない大音量のノイズ、ハプニング、そうしたものを聴衆とともに一体となって楽しむことのまさに一期一会な体験に価値をおいている。しかもよく見知った地元、人やものの流れが最小限であり、交換不可能であるような親しさや意味を持った場所としての地元を志向する。
暴れてシンバルで顔を切ってしまうショウなんていまどき考えられるだろうか? 考えられるのだ。それも、いまだからこそ彼らはそうする。音楽が、ブログやSNSなどインターネットを通じて拡散していく「情報」になってしまうこと、自分が世界中にめぐらされたヘッドホンのネットワークの末端のひとつとなってしまうこと。そうした状況への漠然とした不安が、「いま、ここ」という一回的な体験を保証するものへと向かわせるのではないか。ローファイとは、そのざらざらとしたなまなましさ、換えのきかなさ、体験の一回性の、言うなれば象徴、比喩である。
ロサンゼルスのアート・スペース「スメル」も、こうした希求感が生んだ場所であろう。タイはこのスメル通いを自らのキャリアにおける重大事として位置づけている。現代のファクトリーとも称されるD.I.Y.な運営スタイルには、ノー・エイジも深く関わっている。日本でもミカ・ミコやエイブ・ヴィゴダらの名前とともにインディ・ミュージック・ファンに少なからぬインパクトを与えた。音楽にとどまらず、横浜トリエンナーレでも注目を集めた女性マルチ・アーティスト、ミランダ・ジュライなども出入りするという良い意味での混淆がある。出演者も客も関係なく、壁を自分たちで壊してショウのスペースをつくったりしたというようなエピソードをみな楽しそうに証言する。そこであること/そこでしかないことの意味が横溢した、かけがえのない空間なのだろう。
ケリー・ストルツの指摘する「ラウドな反動」とは、実際のところそのように「いま、ここ」の価値を取り戻すこと、あるいはそんな価値を創出することではないだろうか。サン・フランシスコではないが、スメルが担保するのもそうした唯一性=入れ替え不可能性だ。他ではない、そこがスメルであるということ、そしてそこに行くということがダウンロードできない種類の「体験」であることが重要なのだ。その意味でも、スメルが音の名前ではなく場所の名前であるということはあらためて象徴的である。
タイはそうしたベイ・エリアの空気の中を往復し、自身は自身の存在論的な問題をテーマとして曲を作りつづけている。ライヴの際はふたりの女性をメンバーに迎えているが、基本的にはすべて自分でおこなっている。自分の存在をたしかめ、その唯一性をたしかめるかのように。「俺がいなくなったら思い出してくれるかい?」"ホエア・ユア・ヘッド・ゴーズ"
それは彼自身の切実な問いであり、シーンが漠然と抱いている気分であるようにも見える。グローバリズムによって高まる関係の流動性に、どのように耐え、棹をさすのか。彼ら多くのバンドは交遊も緊密で、タイ自身もシック・アルプスに参加していたり、前述のケリーはフレッシュ・アンド・オンリーズのベースのルームメイトだったり、その他のメンバーはサンドウィッチズのメンバーと懇意だったりソニー・スミスと一緒に録音していたり等々、例を挙げればきりがない。そして彼らがみな一様にアナログ志向で、リリースもアナログ盤やカセットであることが多いということも、グローバル化へのひとつの抵抗点......それによってその根拠がかぎりなくあいまいになってしまう存在の唯一性、をめぐっての切ない攻防であるとは言えないだろうか。
メールでの回答であるため簡素なものになっているが、以下の言葉からはタイ・セガールがこのシーンからいきいきとエネルギーを得ていることが感じられる。ムーヴメントが終息するとき、彼は何を手にしているだろう。
混乱や偽物の喜びというテーマのほうが強かった。自分が成長して、喜びとは何かとか、そういうのを探しているさまを表現したアルバムだと思う。
■サンフランシスコでは、あなたやガールズをはじめとして、ジー・オー・シーズやフレッシュ&オンリーズなど新しい世代のファズ・ポップやガレージ・ポップに勢いがあります。あなた自身はこのシーンをどのようにみていますか? 楽しんでいますか?
タイ:僕がいる音楽シーンは本当に大好きだよ。自分はとてもラッキーだと思っている。自分自身凄く楽しめているよ。世界の中でも最高のロック・シーンの一つだよ。
![]() Ty Segall Goodbye Bread Drag City /Pヴァイン |
■"コンフォータブル・ホーム"などはプレ・ガレージ的なヴィンテージな味わいがあり、あなたの過去の作品はストゥージズと比較されたりもしますが、前作『メルティッド』はそうしたレトロスペクティヴな音を通過して、あなた自身のオリジナルなリヴァーブ・ポップが完成したように感じました。そして今作『グッバイ・ブレッド』はよりメロディや歌が大切にされている印象を受けました。あなたのなかで、過去の作品と『グッバイ・ブレッド』のあいだにはどのような差異がありますか?
タイ:うん、たしかに『グッバイ・ブレッド』はよりメロウでそこまでパンクなレコードじゃないと思っているよ。いままでのやり方と全然違ったから、このアルバムを作るのはとっても楽しかった。ペースを落として、ゆったりさせるのがいまやるべきことだと感じたしね。とはいえ、またアグレッシヴで爆音のアルバムを次に作る準備はできているよ!
■今作からバンド編成ですが、女性おふたりはどのような経緯でメンバーになったのですか
タイ:エミリーは昔から知っているよ。大学生の頃からだね。デニーは元彼女だよ。彼女は今一緒にプレイはしていないけど、まだ親しいよ。
■ふたりは曲作りに関わっていますか?
タイ:残念ながら曲は全部僕が書いているよ。
■『メルティッド』のジャケの絵や『グッバイ・ブレッド』のジャケの犬は自己像ですか? あなたはよく顔を振って写真にうつったり、今作も犬の顔がくしゃくしゃにゆがんで写っていますが、こうした顔を用いた表現は自分の存在についてのセルフ・イメージだと考えてもよいですか?
タイ:そうだね。『メルティッド』のジャケは、自分がモンスターだったら、という表現のつもりだったんだ。今回の犬はアルバム全体の主観を表した画だと思うよ。
■あなたの詞はとても皮肉がきいていて、"カリフォルニア・コマーシャル"などは、カリフォルニアに対する屈折した愛を感じます。今作にはラヴ・ソングもいくつかありますがどれも少し苦く、思索的で、2ミニット・ポップの単純さから一歩踏み込んでいます。こうした「愛」をめぐるテーマやモチーフがあったのですか?
タイ:『グッバイ・ブレッド』は、どちらかというと混乱や偽物の喜びというテーマのほうが強かったかな。自分が成長して、喜びとは何かとか、そういうのを探しているさまを表現したアルバムだと思うな。
■『グッバイ・ブレッド』でいちばん大切にしていることをおしえてください。
タイ:歌詞だね。
■あなたの曲はとても短い。6分の曲を作るとしたらどのようなものになりますか?
タイ:ホークウィンドみたいな感じにすると思うよ。
■また、今後(次作以降)の展開として、いままでと異なる方法や音を模索したりしていますか?
タイ:そうだね、超ヘヴィーにしたいと思っているよ。
チルウェイヴという言葉自体、自分には意味がよく分からないんだ。ロックンロールでいいじゃないか!
■〈キャプチャード・トラックス〉や〈ウッドシスト〉といったレーベルは日本でも人気がありますが、あなた自身の音とも共通するところが多いと思います。こうしたローファイ・ミュージックが支持されることについてあなたはどう思っていますか。
タイ:すごく良いことだと思う!
■アメリカには豊穣なサイケデリック・ロックの土壌と歴史があり、またいまでも多数のバンドが存在しています。あなたの好きなバンドを教えてください。また、あなたにとってサイケデリック・ロックとはどのようなものですか?
タイ:レッド・クレヨラ、13thフロア・エレヴェーターズ、ラヴとかが大好きだね。自分が別の場所に飛んでいける意味で、他の音楽とくらべて僕にとっては大切な気がするんだ。
■ミランダ・ジュライなど個性的なアーティストが集まるというアートスペース「スメル」は、あなた自身もゆかりの深い場所だそうですが、どのようなところでしょう?そこでの印象深いエピソードなどがあったら教えてください。
タイ:「スメル」に通って育ったからね。自分にとってはとても大切な場所だよ。あそこがあったから、自分も音楽を作りたいと思えたんだ。
■「スメル」のようなコンセプトは世界を変えられますか?
タイ:残念ながらそれは違うと思う。何人かは変えたと思うし、これからも何人かの人生は大きく変えると思う。でもそこが良いとこなんじゃないかな。
■サンフランシスコのキッズは他に何を聴いているのですか?
タイ:Culture KidsとMikal Cronin!
■あなたをふくめ、最近はカセットや7"などアナログ・メディアのリリースを好む若いアーティストが多いですが、あなた自身がこれらを好む理由を教えてください。
タイ:アナログ作品の不完全さが好きなんだ。それゆえに生まれるあの温もりがね。
■あなたの音がチルウェイヴと呼ばれるとしたらどうですか?
タイ:爆笑すると思うよ。チルウェイヴという言葉自体、自分には意味がよくわからないんだ。ロックンロールでいいじゃないか!
誰のゲームだって?
俺たちみんなのゲームだから
今日は俺とゲームしないかい?
それに俺たちがいなくなったら
いったい誰が歌う?
だからいっしょに歌おうぜ
"グッバイ・ブレッド"
「韓国シューゲイザー」とポップをつけた瞬間に、少量ではあったがさっと完売してしまって、いま「韓」という符丁が日本において放つ魅力と威力のほどを思い知った次第だ。ヴィドゥルギ・ウユと読むらしいこの4人組コリアン・シューゲイザーは国境を越えてじわじわと認知されつつあり、2009年にはUSのスペーシーなサイケデリック・アクト、ブリス・シティ・イーストとのスプリット・アルバムをリリース、この春には全米ツアーも敢行している。寡聞な筆者は本リリースによってはじめて知った。『エアロ』は、本国では2008年にリリースされたデビュー・アルバムだが、2011年の8月に日本国内盤が発売された。
音としてはごくノーマルな方法を踏んだマイ・ブラッディ・ヴァレンタイン〜スロウダイヴ・フォロワーで、平面的な響きのあるウィスパリングな女性ヴォーカルがアクセントとなっている。アソビセクスのユキ、ブロンド・レッドヘッドのカズといった日本人女性ヴォーカルの系譜に連なるだろう。ディアフーフのサトミ・マツザキを筆頭とし、チャイルディッシュで非西欧的な雰囲気を持った彼女たちのヴォーカリゼーションは、ロック界隈ではじつに存在感がある。村上春樹のペーパーバッグの表紙が、障子となぜか裸の中国系女性だったりするとがっくりくるのだが、そのような安易で粗雑なオリエンタリズムから、西欧的な価値観への対抗軸としての積極的な捉え方まで、さまざまな視線が彼女たちのパフォーマンスに対して注がれていると言えるだろう。
このバンドを取り上げたいと思ったのは、存在としてとても複雑なレイヤーにまたがっていることに興味を感じたからだ。ひとつはいま述べたように韓国という出自。東洋のバンドだというだけでなく、日本の我々からしても韓国インディの世界はそう身近なわけではない。いわゆる「近くて遠い国」から聴こえてくる「洋楽ロック」というねじれには、興味を惹かれないほうが難しい。それはあらためて日本の中の「洋楽ロック」を映し出す鏡となるかもしれない。それから彼らの周辺にソウルのシューゲイザー・シーンがあるらしいということ。情報を得ようとしていろんなサイトにアクセスしてみても、ハングルが読めないために、音やバンド名どころか、「カートにいれる」がどこなのかすらわからないのだが、ラストFM等を横断するかぎりでもシューゲイザー・コミュニティの存在を感じることができる。
この「シューゲ・シーン」という奇形的な発達を遂げたバンドの集合体には、ぜひともまとまったカルチャー史的論考が書かれるべきではないかと思う。対象となるのはたとえばディアハンターをシューゲイザーととらえたり、フィ―ドバック・ノイズを援用したドリーム・ポップ全般をさしたりするのとは異なる位相に位置するバンド群だ。マイ・ブラッディ・ヴァレンタインやスロウダイヴ、スワーヴ・ドライヴァーなどの楽曲を世界標準フォーマットとしてその量産をおこなうタイプのアーティストたちである。
これは必ずしも批判的なニュアンスで述べるわけではなくて、むしろ私自身は彼らのありようの独特な性質と、それが持っている可能性について敏感でありたいと思っている。それはある意味で二次創作的な側面を持っている。自らのオリジナリティよりは、「マイブラらしさ」や、彼らシューゲイザー・ファンが共有し、なかばデータベース化されているともいえる「聴き所」(/ツボ/萌え要素)のようなものを優先し、前面化させるのが彼らの音であり態度だ。しかもコピー・バンドとははっきり異なる雰囲気を持っているし、演奏力も優れている場合が多い。亜流のフォロワーという認識はほとんどされず、まるでその音が優れたコミュニケーション・ツールででもあるかのように、しっかりとしたファン層を生み、微差を競いつつ共存している。日本ではセカイ系的想像力と結びつきつつ同様な展開をみせているが、本当にこうしたバンドは多いのだ。一時期、某中古チェーンの新品コーナーの一角はおびただしい量のこの種の作品で埋め尽くされていた。演り手と聴き手の多さをまざまざと感じたものである。
ヴィドゥルギ・ウユに関してもきれいにこの輪郭を感じることができるだろう。もちろんネオ・シューゲイザーと呼ばれるような新世代の特徴もしっかりと宿しており、"エレファント"にはペインズ・オブ・ピュア・アット・ハートなどに感じる慈愛のような暖色のノイズと透明感あるのびやかなヴォーカルを聴くことができる。リンゴ・デススターのいたずらっぽさもわずかに感じられ、それはスーパーカー的な切ない明るさとポップ・センス、初々しさのあるギター・ワークを配した"サイレン"にもうかがわれる。全体として暗く沈み込むような色調はうすい。シューをゲイズするという本来的な意味性を換骨奪胎することで、彼ら新世代のシューゲイザーはシーンとしての盛り上がりと豊穣さを得たのだとも言える。
そして、韓国にも独自のサイケ文化が育まれており、こうした音を受容し洗練させるための土壌があるのではないかということ。こちらも筆者は寡聞にして詳述できる知識はないのだが、すくなくとも韓国にはサイケ系のマイナー・フォークやSSW作品を多数リイシューしている名レーベル〈ビッグ・ピンク〉があることは有名であるし、フィッシュマンズの人気も非常に高いときく。キム・ドゥスなどのアシッド・フォークは日本やヨーロッパでも熱烈に支持されている。
このように、彼らは多くの文脈を串刺しにしている存在である。こうした若きシューゲイズ・バンドが韓国に他にどのくらいいるのか、そして世界のインディ・シーンにどのように絡み、展開していくのか興味はつきない。
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アニマル・コレクティヴが真夏の海辺でウォッシュト・アウトで踊り明かした翌日、スウェーデンのスタジオに出向いてレコーディングしていたら......、セイント・エチエンヌが再結成して脳天気なチルウェイヴを作ったとしら......、サザン・ショアーズはシンセ・ポップ時代における真性のバレアリックで、彼らの音楽を聴いたら10人に4人は腑抜けになってしまうに違いない。ここには過剰にドリーミーなシンセ・サウンドがある。官能的なループと心地よいビートがどこまでも続いている。女性ヴォーカルはこの甘美な音のひとつのパートして機能している。
とにかくこの3人組の新人には、チルウェイヴ以降のシンセ・ポップのモードとシンプルだがやためったら陶酔的なチルアウト・ビートがある。"テイク・ミー・エニイウェア(どこでもいいから私を連れてって)"は、いまの僕には1989年の音楽を聴くよりも1989年的なものを強く感じさせる......という言い方はよくないか......映画『アップサイドダウン』の試写を見たり、あるいは最近のUKのダンス・カルチャーの話を友だちとしているうちにセカンド・サマー・オブ・ラヴ話が盛りあがったりしたので、そういう喩えをしてしまったのだけれど、これは明白なまでに2011年の音だ。正直、ここ数年のバリアリック・リヴァイヴァルには興味を持てなかったのだけれど、サザン・ショアーズが奏でるポップスには、ウォッシュト・アウトやハイプ・ウィリアムスを親しんできた耳にとってはそれなりの魅力がある。良くも悪くもここには陰りというものがなく、呆れかえるほど徹底的に、ドリーミーでロマンティックだ。
先日、ブルックリンから一時帰国した沢井陽子さんと会って、最近のUSシーンについの話を訊いたら、やはりというか......アメリカ内部に住んでいるとチルウェイヴなんていうものはほとんど聴こえてこないそうで、住んでいながら耳に入ってきやすいのは......何よりもジー・オー・シーズ、あるいはタイ・セガールやダム・ダム・ガールズ(あるいは日本のスーザン)のようなガレージ・ロックであると。なるほど、ここには単純な話、彼女の趣味の問題が大いに関係していると思うが......、やっぱアメリカって大雑把に言えばいまでもそういう国なのか。まあたしかに、ロックンロールを生んだ国だし。
80年代、アメリカ人といっしょに暮らしたことがあった。あるとき彼から、イギリスのバンドは流行によってすぐに変わるから好きになれない、アメリカのバンドは流行に関係なく変わらないからいいんだと言われたことがあった。一理ある意見だが、僕は結局いまでも流行に左右される音楽を聴いている。僕も自分ではロックンロール愛があるほうだと思っているけれど、アメリカ人が抱いているロックンロールというスタイルに対する思いの深さは、イギリス人やドイツ人や日本人にはおよばないものがあるのかもしれない......というか、強い思いの人の絶対数がだんとつに多そうだ。ルー・リードが"ロックンロール"という曲で歌っているように、ラジオでそれが流れたときにすべてが解決するという魔法がいまでもあるのかもしれない。チルウェイヴやYMOがラジオでかかったとしても、それで悩みが解決しました! という気持ちになれるとは思えないし、アメリカにおいてシンセ・ポップはいまでも異端なのだろう。そう思うとなおさらシンセ・ポップの肩を持ちたくなってしまうのである。
追記:今日はFREEDOMMUNEですね。歴史的な日になるかもよ!
![]() Friendly Fires Pala XL Recordings/ホステス |
オルダス・ハックスリーといえば、自ら幻覚剤の実験台となって著述活動を続けたイギリスの作家で、ザ・ドアーズがバンド名に引用した『知覚の扉』が有名であるように、サイケデリックな60年代のサブカルにおいて広く読まれたひとりだ。
UKのインディ・ロック・バンド、フレンドリー・ファイアーズのセカンド・アルバム『パラ』は、ハクスリーのユートピア小説『島』の舞台となる島の名前から引用されている。そればかりか、このアルバムのオープニング・トラック"リヴ・ゾーズ・デイズ・トゥナイト"にいたっては、どう考えてもセカンド・サマー・オブ・ラヴへの記述がある。
かつて、フランキー・ナックルズとジェイミー・プリンシプルのシカゴ・ハウスのクラシック"ユア・ラヴ"をカヴァーしたこの若いバンドは、これだけまわりの同世代の誰もがディストピアを描いている現代において、ほんとんど浮いているんじゃないかと思えるほど理想主義を強調する。いったいこの20代は何を想っているのだろう......僕は訊かなければならなかった。
ヴォーカルとベースのエド・マクファーレン、ギターのエド・ギブソン、ドラムのジャック・サヴィッジ(彼はDJ活動もしている)が3人はワインを飲みながら話してくれた。
最近のインディ・ミュージックは、まるで『ピッチフォーク』に好かれるためにやってんじゃないかってくらい、知的で、ウィットに富んで、いろいろ複雑にしようとしているでしょ。そういう状況に対する僕なりのリアクションでもあるんだよね。
■ダブステップ全盛の2006年に、よくシカゴ・ハウスのクラシック"ユア・ラヴ"をカヴァーしたなと思ったんですよね。ダブステップに支配されたUKでハウス......っていうのが驚きだったんですよ。
エド・マクファーレン:ハハハハ。
■まわりから「何コレ?」って感じだったでしょ?
エド・マクファーレン:いや、わからないけど......あ、でも、直接ジェイミー・プリンシプルからメールもらったんだよ。
■良い電話だった?
エド・マクファーレン:うん、とても。もう、それで気持ちが解き放たれたね。
■あの曲を選んだ理由は?
エド・マクファーレン:歌詞が素晴らしいと思ったんだ。歌も良いし......、誠実で、直接的で、「僕には君の愛が必要」だなんて、そんなストレートなメッセージを歌う歌詞なんていまどきないだろ? しかも音的にも美しいし、切ないし、あれをダンス・ミュージックだと意識して聴いたわけじゃなかったんだ。だけど、あれをクラブで聴いたらきっとすごいんだろーなと思ってインスパイアされてカヴァーしたんだ。
■へー、歌詞なんだね。
エド・マクファーレン:そうだね。あと、最近のインディ・ミュージックは、まるで『ピッチフォーク』に好かれるためにやってんじゃないかってくらい、知的で、ウィットに富んで、いろいろ複雑にしようとしているでしょ。そういう状況に対する僕なりのリアクションでもあるんだよね。僕はもっと......なんていうか、クラシカルなサウンドでも良いと思っているし、昔のメッセージはまだ生きていると思っているんだよね。
■ダンス・ミュージックにどうして興味を持ったんですか? たとえば、アンディ・ウェザオールにリミックスを頼んだんでしょ?
エド・マクファーレン:いや、アンドリュー・ウェザオールにお願いしたのはリミックスだけじゃないよ。実はいま共同で制作しているぐらいなんだよ。
ジャック・サヴィッジ:まだ完成してないけど、いっしょにスタジオに入ったんだよ。
■アンディ・ウェザオールなんて僕らの世代のヒーローだけど、あなたがた若い世代なんかにしたら、もう忘れられた存在じゃないかとも思ってたんで。
エド・マクファーレン:アンドリュー・ウェザオールは僕らの世代(現在27歳)にとってもヒーローだよ! 実は何回もリミックスをお願いしているんだ。それで、ようやくそれが実現した!
ジャック・サヴィッジ:彼のDJセットも大好きだしね!
エド・マクファーレン:僕はもともとエイフェックス・ツインやスクエアプッシャーみたいなエレクトロニック・ミュージックを聴いていたんだよね。ポスト・ロックとかさ、ああいう複雑な音楽とか、あと、クリス・クラークがベッドルームで音楽を作ってそれで生計を立てているとか、そういったことにすごくインスピレーションを得ていたんだ。10代の頃はそうした、いわゆる〈ワープ〉サウンドを聴いていたんだけど、やがてそうしたものにも飽きてきて、そのときにハウス・ミュージックに興味を持つようになったんだ。
■そうだったんですね。
エド・マクファーレン:僕ら、みんな最初はインディ・ミュージックばっか聴いていたんだ。それでクラブに行くようになって、音楽に関して新しい体験をした。自分もそこに参加して聴くっていうか、ステージやミュージシャンを眺めるんじゃなくて、音楽だけを聴くっていう。それで音楽をインディ・ロックとは別の観点から見るようになった。ちょうどそういったきっかけのひとつが、アンドリュー・ウェザオールのロンドンのパーティだったんだよね。彼のイヴェントにはホントによく通ったな。
■なるほどね。今回の『パラ』は、タイトル自体はハクスリーのユートピア小説からの引用ですが、アルバムのコンセプトには20年前のUKにあったレイヴ・カルチャー、セカンド・サマー・オブ・ラヴといったものに対するあたがた若い世代の複雑な感情が込められたものとして捉えていいですよね?
エド・マクファーレン:そうだね、僕はその時代のことを知らない。僕が重要だと思っているのは「いまを生きる」ってことなんだよ。僕がいま生きていて、そして僕のまわりで、人びとが微笑んで踊ってくれて、それでしかも一体感を感じてくれたら、それがひょっとして20年前のレイヴ・カルチャーだったんじゃないのかなと思う。
■2011年から見て、あの時代の音楽文化のなかにはいまも有効だと思える事柄があると考えるんですね?
エド・マクファーレン:スピリット、とくにダンスさせるっていうところには共感があるし、そもそも僕らの音楽ってなんかの祝祭っていうか、お祭みたいな音楽なんだよ。
エド・ギブソン:あの時代のピアノ・コードなんかもすごく良いよね。ああいうのは自分たちと似ているなーと思う。
エド・マクファーレン:でも、僕らは、いろんな時代の音楽に影響されているんだ。どれか特定の時代の音楽に影響されているってわけじゃないんだよ。たとえば"ユア・ラヴ"は、いまダンスフロアでDJがかけたとしても絶対に良い曲だ。時代は関係ないと思っているんだ。
■そうは言っても、"リヴ・ゾーズ・デイズ・トゥナイト(あの日々をいま生きろ)"の"ゾーズ・デイズ(あの日々)"は20年前のことでしょ?
エド・マクファーレン:過去への敬意をもっていまを生きようって意味でそういう言葉にした。あの曲の歌詞は、すごく複雑な意味をはらんでいるんだ。僕たちはもう、どんなことがあっても、ダンスの黄金時代に戻ることはできないっていう認識と、そして、いまはそれなりに喜ぶべきことだってある。あの時代に戻ることはできないけど、あの時代のアティチュードはいまも取り入れることができる。だから、「昔には戻れっこない」という一般論を実はディスってもいるんだ。いまを生きようっていうメッセージそれ自体が、あの時代のアティチュードとも重なるんじゃないのかな。そういうことを言いたいんだよ。
ジャック・サヴィッジ:たまに勘違いされるんだけど、あの曲はノスタルジーじゃないんだ。
エド・マクファーレン:そう......ホント、あの曲の歌詞はすごく考え抜いたんだ。さっき「昔には戻れっこない」という一般論をディスったと言ったけど、ホントは誰にも攻撃していないんだ。そういう、誰かを批判するような歌詞にはしたくなかった。過去への大きな思いもあるけど、でも、最終的には現在というものについての思いを伝えたかったんだよ。だから、ものすごく慎重に言葉を選んだつもりなんだけどね。
■へー、そうだったんですね。言葉の選び方まではわからなかったけど、あなたがたの深いエモーションはしっかり伝わる曲だと思いますよ。
エド・マクファーレン:それは良かったよ。
[[SplitPage]]僕はマイ・ブラッディ・ヴァレンタインとムーディーマンを同じように好きで、同じように聴いている。インディ・ミュージックがダンスを受け入れたときの音楽も大好きだし、そういうときのギター・サウンドにも影響を受けている。
![]() Friendly Fires Pala XL Recordings/ホステス |
■実際、現在のUKはダンス・ミュージックの勢いがすごいですよね。ただ、あなたがたのようにピースなフィーリングを打ち出すようなものはそうないでしょ。
エド・マクファーレン:ピースって?
■ダブステップ以降ってこともあるんでしょうけど、音的にはダークでディストピックなものが多いでしょう。20年前はバカみたいにスマイリーな感じが多過ぎたとも言えるけど(笑)。
エド・マクファーレン:そうだね。ホントにその通りだと思う。僕も20年前のあの感覚が大好きなんだ。人びとがいっしょに踊って、そして心から楽しんでっていう。すべてを忘れてダンスしているようなあの感覚がね。ダブステップも大好きだよ。いまはロック・バンドにしても、UKではダークな感覚がトレンドなんだ。スペイシーで、ソンバー(憂鬱)で、そういうのがいまはある種の流行なんだと思う。
ジャック・サヴィッジ:ポスト・ダブステップでも良いのがたくさんあるけど、じゃあ、実際にクラブに行ったときに、あれがダンスしやすいと思うかな。それが良い悪いってことじゃなく、総じて言えば、あんまダンスしやすいものだとは思えないし、それがいまのポスト・ダブステップでは顕著なような気がする。
■なるほど。フレンドリー・ファイアーズはハウス・ミュージックのほうが踊りやすいと。そういえば、この取材の前まで、アラン・マッギーの取材をしていたんですよ。UKには〈クリエイション〉だとか〈ファクトリー〉だとか、インディ・ロックからはじまって、やがてアシッド・ハウスに影響を受けるインディ・ミュージックのレーベルがありましたよね。
一同:(何故か)ハハハハ。
エド・マクファーレン:ロック・バンドがエレクトロニクスを取り入れるってことが、ちょっと前にもあったよね。バンドによっては無理矢理やっている連中もいた。僕はマイ・ブラッディ・ヴァレンタインとムーディーマンを同じように好きで、同じように聴いている。インディ・ミュージックがダンスを受け入れたときの音楽も大好きだし、そういうときのギター・サウンドにも影響を受けている。
ジャック・サヴィッジ:アラン・マッギーやトニー・ウィルソンの時代は、インターネットもないし、選択肢が限られていた。ハウスが来たら、もうそれを強烈に真正面から受けるしかなかったんじゃないのかな。無視することなんかできない。絶対にそれを取り入れざるえなかったんだよ。ハウス・ミュージックの存在が大きすぎたんだ。いまは良くも悪くもインターネットの影響で、何かひとつだけに大きな影響を受けることはないでしょ。
■まあね。過去のロック・バンドで共感できるバンドって何がありますか?
エド・マクファーレン:うーん、わからない......(笑)。要素要素で共感してて、ひとつだけ挙げることはできないし、たとえばポスト・パンクのバンドでもサウンド的には自分らと違っても好きなところがあるし、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインのギター・サウンドからも影響を受けているけど、ぜんぜんうちらとは音が違うし......だからそれを言うのは難しいなー。
■バンドで最初にコピーしたのって何?
エド・マクファーレン:いや、それはもう、くだらないポップ・バンド、グリーン・デイとかデフトーンズ(笑)。ホント、子供の頃、13歳だったから許してね(笑)。17歳のときには自分らでクラブに通うようになって、で、いまの原型が生まれた。ダンス・ミュージックをやろうとしてたよね。
■フレンドリー・ファイアーズってすごく良い名前ですけど、どうして付けたんですか?
エド・マクファーレン:あんま面白い話じゃないんだけど、昔、〈ファクトリー〉にセクション25ってバンドがいたんだけど。
■あー、知ってる。もろ〈ファクトリー〉系の暗いバンドだったような。
エド・マクファーレン:彼らのアルバムに入っていた曲名から取ったんだよ。
■そうだったんだ(1981年の『オールウェイズ・ナウ』の1曲目)。
エド・マクファーレン:で、そのアルバムの2曲目に"ダーティ・ディスコ"って曲があって、同じ頃、その名前のバンドがデビューして、「ヤバイ!」って思ったんだけど、たぶん、いまはもういないと思う(笑)。
■ハハハハ。それは笑えるね。そういえば、アラン・マッギーの時代はすごくドラッグにハマっていた時代でもあったんですが、彼はさっき「2011年で最高にロックンロールであるためには、なんもやらないでストレートな状態でいることだ」って言ってましたね。
エド・マクファーレン:えー、ホント! リバティーンズやベイビーシャンブルズを手掛けていたような人が(苦笑)......。
■いやー、半分ジョークだとは思うんですけどね。
ジャック・サヴィッジ:リバティーンズやベイビーシャンブルズみたいなドラッグが肩書きになっているようなバンドもそうだけど、ドラッグ・カルチャーの影響を受けたバンドって、〈クリエイション〉だけじゃなくて〈ファクトリー〉にも多いよね。エイミー・ワインハウスにもそういうところがあった。そういう人たちって、輝いているときはすごいけど、その期間がすごく短いんだ。
エド・マクファーレン:でも、僕ら、アラン・マッギーから「君たちはア・サーティン・レイシオみたいだ」って言われたんだよね。自分としてはまったく似てないと思うんだけど(笑)。
■たしかに、まったく似てないですね(笑)。どうも今日はありがとうございました!
※年内にはまた来日公演があるらしいです。楽しみです!
先日、〈新代田FEVER〉でシミ・ラボのライヴを観た。PSGやラウ・デフも出演していたそのイヴェントは、彼らが所属するインディペンデント・レーベル、〈サミット〉の企画で、ムードマンのヒップホップ・セットのDJもブッキングされていた。それぞれのライヴももちろん充実していたけれど、ちょうど1年ほど前にPSGとシミ・ラボが出演したイヴェントのときより圧倒的にお客さんが入っていたことに驚いた。会場は満杯だった。熱気が凄かった。しかも、若い! 10代の若者もたくさんいた。ここ1年でこの界隈のシーンの何かが変わりはじめている。みなさん、注目しておいてくださいね!!
シミ・ラボは神奈川県の相模原を拠点とするヒップホップ・ポッセで、彼らが2009年12月にYouTubeにアップして話題を呼んだ"Walk Man"のPVがすべてのはじまりだった。
紙版『ele-king vol.2』のシック・チームの原稿でも書いたことだが、ここ最近の日本のヒップホップには多文化主義というコンセプトが浮上して来ていると感じている。いや、主義というほど明確な方向性を持っていないかもしれない。多文化的と言ったほうが正確だろう。最初にそのこと意識したのは、"Walk Man"のPVを観たときだった。彼らの人種的多様性がポスト・ワールド・ミュージック的な音の雑食性に直結しているとはまだ断言できないが、これからどうなるかはわからない。このテーマは今後、日本のヒップホップを考える上で重要になってくるだろう。彼らがお互いを冗談半分に「ニガ!」と呼び合いじゃれあっているのを見たときは、思わず笑ってしまった!
シミ・ラボについて詳しくは本サイトの彼らのインタヴューを読んで欲しいけれど、ディープライド、マリア、QN、オムスビーツ、ハイスペック、ジュマがいまのところのメイン・メンバーと言っていいだろう。〈FEVER〉にもこの面子で登場していた。
シミ・ラボのトラックメイカー、アース・ノー・マッドのファースト・ソロ・アルバム『MUD DAY』からいこう。アース・ノー・マッドはシミ・ラボのリーダー、QNのトラックマイカーの名義だ。彼は去年、QNとしてファースト・アルバム『THE SHELL』を〈ファイル〉からリリースしている。
まず嬉しいのが"Walk Man"が収められているということだ。アース・ノー・マッドには豊富なアイディアがある。彼のプリコラージュの手法はマッドヴィレインを彷彿させる側面があるが、DJスピナやDJプレミアといった90年代の東海岸ヒップホップからの影響も感じさせる。ドゥループ・Eがシャーデーのサンプリングから作ったミックステープのメロウなサウンドと共振しているような"Skit#2"の輝きは、アース・ノー・マッドの才能がまだまだこれから花開く可能性があることを予見している。
酒を飲んで、遊んで、映画を撮りたいと思い立ち、曲も作る。そして、いつの間にか日が昇ってくる金曜日の夜の何の変哲もない日を描いた"Flower And Money"には、青春の夢がある。「飲んだくれながら何かたくらんでる」("Flower And Money")。ああ、羨ましくなるほど彼らが輝いているように見える。シミ・ラボ&ジュマとクレジットされた"Mudness Lab"は"Walk Man"に続くようなミニマル・ファンクで、この曲には彼らの現在が刻み込まれている。
どれだけ脱力できるかに黒いグルーヴの肝がある。そういう説がブラック・ミュージックに挑戦するこの国の音楽文化から提唱されたことがある。ファンクのグルーヴを徹底的に理論化するということを多くのミュージシャンやバンドが試みてきた歴史がある。ある時期まで日本語ラップも実のところ理論化の産物だった。
それがどうだろう。スラックにしろ、パンピーにしろ、シミ・ラボにしろ、最近の若いヒップホップ・アーティストは当然のように理論化など必要としていない。それでも、ゆったり波打つ柔らかいグルーヴを紡ぎ出している。それは彼らの日常が"黒人化"しているということかもしれない。いずれにせよ、いつからか何かが変わったのだ。ムードマンがPSGのライヴを観ながら、「自分がかつてやろうとしていたことを全部やられている」と呟いたのは示唆的だった。
DJ ハイスペック&J.T.F 『Round Here:MIX TAPE』は『MUD DAY』とは異なる方向性を持っている。ジュマ、QN、オムスビーツによるJ.T.Fの楽曲をDJハイスペックがミックスしたこのミックスCDで、QN、オムスビーツは別名義も使っている。プリミティヴで、チープで、エレクトロの感性があり、ミニマルな骨組みだけのトラックは、しかし、侮ることができないクオリティがある。ここでも週末に何気なく部屋に集まって、「さあ、RECしようか!」という感じで制作した遊びの感覚がパッケージされている。この緩い態度が、彼らのヒップホップイズムを体現しているようだ。下世話で、猥雑で、騒々しく、ひょうきんな彼らのフッド感覚の延長で、この魅力的な音楽は創造されているのだろう。限定生産ということだが、興味を持ったらなんとか手に入れることをおすすめする。
エレクトロな"ラビリンス"、エキゾチックで呪術的な"キリィ"も面白い。そして、各々のラッパーの声にそれぞれ個性がある。スペース・ファンクな"スター"でギャルの声真似をしながら、延々とくだらないジョークを繰り出し続けるオムスビーツには手を叩いて笑った。「1週間に2回ぐらいアナル洗ってるし〜」だの「高いものならなんでも食える」だの、彼のナスティさには敬意を表したい。「年収1千万ないとウンコでしょ」「ウンコ! ウンコ!」というアホな会話は最高にくだらないが、ここには彼らの鋭い風刺精神もある。
マリアをフィーチャーしたエレクトロ・ミーツ・ベース・ミュージックな"マイソング トゥ"がもっともこのアルバムを象徴している。リリックにあるように「ダラダラダラダラ......」と続いていくノリがシミ・ラボをこれからも前に進めていくのだろう。そして、"マイソング トゥ"のPVを観て、僕はスチャダラパーの「大人になっても」のPVを思い出したのだった......。
リミックス盤がバンバン出ていた90年代中盤から00年代なかばから10年以上経って、音楽産業の状況もリスナーの嗜好も変わったとはいえ、オリジナルの変奏やヴァージョンちがいを聴きたい欲求は潜在的に一定数あるようで、〈グラモフォン〉の音源を縦横に駆使したカール・クレイグとモーリッツ・フォン・オズワルドの『リ・コンポーズド』が話題になったのも記憶にあたらしいが、それももう2年前の話だった。そんなにあたらしくもなかった。それにあのアルバムはクラシック曲を新曲に再構築することに主眼を置いていたので、リミックスというより、申告通り「リ・コンポーズ」だったが、マティアス・アーフマンやジミ・テナーとつづく一連のこのシリーズを聴きくらべると、個々の「再作曲」とリミックスのちがいがしだいに曖昧になる、やっかいなシロモノだったのもまたたしかである。どんな創作であれ主観なしには成り立ち得ないのだから、定義づけは作品の可能性の一端を示すものでしかないとはいえ、90年代の音楽を嚆矢に、創作物があたりまえに高次化する現在、接頭語「re」にはほとんど隠語めいた含意がある。
『RE: ECM』は、リカルド・ヴィラロボスとマックス・ローダーバウアーが〈ECM〉のカタログから、10人の音楽家の17曲(クリスチャン・ヴァルムーは5曲、アレクサンダー・クナイフェルは4曲と、複数曲選んである)を選び再編したリミックス盤。〈ECM〉はいうまでもなく、マンフレッド・アイヒャーを中心に1969年、マル・ウォルドロンの『フリー・アット・ラスト』とともに産声をあげたドイツの老舗ジャズ・レーベルで、キース・ジャレットでつとに有名だけど、〈ECM〉と聞くとまず、作品名やジャズのイメージより先に静謐で禁欲的なレーベル・カラーを想起される方も多いはず。音数を押さえた彼らしいミニマリズムを〈ECM〉の楽曲とミックスするヴィラロボスと、モーリッツとのトリオで培ったモジュラー・シンセの音色でダブ感を援護射撃するローダーバウアーのコンビネーションもおおむねそのカラーに沿っている。つまり原曲を活かす方向でリミックスをおこなっているのだが、それもそのはず、彼らはリミックス盤制作にあたって、〈ECM〉からマルチ音源を貸与されなかった、と解説にある。『RE: ECM』を、ビート感を押さえた曲やソロ・パートを中心に構成している背景にはそのような事情があった。アイヒャーにとって、リミックス作を〈ECM〉のカタログにうまく収めるための保険だったのだろう。ところがこの制約はアルバムをリミックスというよりDJミックスにちかづけることになる。ここでは原曲の時間と空間が尊重されているのと同じくらい原曲の外にいるリミキサーの異物感が強調されている。ヴィラロボスとローダーバウアーともなると追加エレメントを原曲になじませることに抜かりはない。にしても、〈ECM〉の作品に顕著な静寂と余白はたんに空白ではない。ファンクやレゲエの休符と同じように、そこにはテンションが満ちているし、ドラマのいち部がある。ヴィラロボスたちはそこに割りこんでくる。まきこまれた、といった方が適当だろうか。「こうするよりほかに方法がなかったからね」というつぶやきが聞こえてきそうだが、一方で歴史と格闘するのを楽しんでいるようにも思える。そう考えると、〈ECM〉のクールでスムースな音場にハウス/アンビエントの即物性が浮き彫りになるように思えるから不思議だ。サンプリング〜ループ、リ・コンポーズ、通常の手法であればはこうはならなかったにちがいない。『RE: ECM』はアイヒャーのマスタリングもあって〈ECM〉らしい一枚にしあがっている。けれども荒々しい。どこかオフィシャルブートの質感のある、リミックス......というよりリ-エディット的な『RE: ECM』だと思った。
ロンドンのアンダーグラウンド・ミュージックは、灰色の空の下の冷たいコンクリートに囲まれた都市生活における陶酔感を表すのがうまい。小学校4年生のとき、友だちと初日の出を見に自転車で海まで行こうと約束したことがあった。午前3時に大通りの交差点で待ち合わせたがいくら待っても友だちは来なかった。その通りにある街灯を見つめながらずいぶん長い時間待っていたら、いつしかその街灯に陶酔していた。それ以来、僕は街灯好きになった。これまでいろんな街灯を見てはうっとりしてきたわけだが、ロンドンのオレンジ色の街灯はとくに好みだ。昨年リリースされたLVのシングル「38」のアートワークには、まさにストリートを照らすそのオレンジの街灯がある。
LVはロンドンの3人組のダブステップ・プロジェクトで、昨年、立て続けに発表した何枚かの12インチ・シングルによって注目を集めている。ジャーナリストのマーティン・クラーク(別名、ブラックダウン)が主宰する〈キーサウンド〉から発表した「38」をはじめ、〈ハイパーダブ〉からはクオルト330との共作、そしてそのファンキー路線が話題となった南アフリカのOkmalumkoolkatとの共作「ブームスラング」の2枚をリリースしている。また、〈ヘムロック〉からはアントールドとの共作「ビーコン」を出している(リミックスはマウント・キンビー)。
本作『ルーツ』は、本国ではおよそ3ヶ月ほど前に〈キーサウンド〉からリリースされている(どういうわけか日本ではあまり見かけない)。ジョシュ・アイデヒン(Josh Idehen)は「38」にもフィーチャーされていたMCだが、『ルーツ』にそのシングルとのダブりはなく、収録された12曲すべてが新曲のようだ。
ダンス・ミュージックにはトレンドがある。UKにおいてそれはビートに表出する。言うまでもなく、ここ3〜4年はブリアル直系の2ステップ・ガラージの発展型(ポスト・ダブステップと呼ばれるもののひとつで、ハウスのBMPで、裏打ちで再現したハウスのようなビート)がトレンドの主流になっている。この心地よさにいちどハマるとなかなか抜けられなくなるもので、個人的にはいまだにその手のビートでなければ快楽を感じられない。パーカッシヴでシャカシャカとした耳障りはデリック・メイの一部の作品とも似ていなくもないが、やはりここは、ジャストなビートではなく裏から追っかけてくるビートによるグルーヴが良いのだ。『ルーツ』を買った理由もそれだ......というかそれだけだ。そして、それだけでも自分には充分な理由となる。ジェームス・ブレイクのアルバムだって、あのベースがなければ好きになれなかった。
『ルーツ』は、ブリアルの『アントゥルー』をやや軽めにした2ステップ・ガラージのビート、それに絡めたチョップド・ヴォイス、それからファンクのベースラインに特徴を持つ。M.I.A.(ないしはディプロ)のエレクトロ・パーカッションともに似たビートもあり、ダブからの影響もあれば、ダウンテンポもある。他人の耳にごり押しするタイプのビートではないが、多彩である。UKらしい雑食性のある音で、ジョシュ・アイデヒンのラップも初期のマッシヴ・アタックのように甘美かつダウナーな雰囲気を出している。そしてインナースリーヴには、地下道の写真と真夜中の裏通りの街灯の写真がある。手短に言えばブリアル・フォロワーだが、街灯好きにはたまらない1枚である。
Who is DVS1?
本名ザック・クートレツキー。それは、日本がまだ体験していない、USテクノ最後の刺客。彼のプレイを聴いたことがある日本人はまだ数えるほどしかいないはずだし、名前すらも聞いたことがない人がほとんどだろう。でも彼は新人ではない。なにしろ、彼は15年間に渡ってずっと地元ミネアポリスでアンダーグラウンド・パーティでプレイしてきたDJ。世界が彼のことを知らなかっただけなのだ。
ベン・クロックのレーベル〈Klockworks〉からのEP、そしてデリック・メイの〈Transmat〉からの『Love Under Pressure』EPのリリースによって注目を集めた彼が、何よりも得意とするのはDJプレイーー 初来日となるFREEDOMMUNE 0〈ZERO〉で、その全貌が明らかになる。
3度目の〈Berghain〉出演で10時間半のぶっ通しという超人的なプレイでベルリンのテクノ・フリークたちを熱狂させたほんの数日後、穏やかな昼下がりにじっくりと話を聞いたので、彼がどんな人物なのか、少々予習してもらえれば幸いだ。
ミネアポリスでパーティをやってきた先輩たちから、とにかく音にだけは妥協するなということを教わったんだ。ライティングやらデコレーションやら、他のものに手が回らなくても、音さえ良ければパーティは成り立つと。
■あなたのことを知っている人はとても少ないので、基本的なところから聞かせて下さい。出身はロシアなんですよね?
DVS1:そう、生まれたのはロシアで2歳のときにアメリカのミネアポリスに引っ越した。その後両親が離婚して、父はニューヨークに移った。だから僕はミネアポリスとニューヨークを行ったり来たりして育ったんだ。16歳から20歳まではニューヨークで高校を卒業したり大学に行ったりして、その後ミネアポリスに戻ってそれからずっと今も居る。
1996年にミネアポリスでイヴェントを主催するようになった。DJもしていたんだけど、最初はプロモーターとして音楽の世界に関わり出したんだ。僕がミネアポリスやったパーティで「伝説」となっているのは、1997年にハイコ・ラウ、エレクトリック・インディゴ、ニール・ランドストラム、トビアス・シュミットなど......当時まだアメリカでは誰もやってことがない規模の国際的なDJたちをブッキングしたときだった。車で6時間かかるシカゴからでさえ人が来たほどだったよ。だから、僕は「クレイジーなテクノ・パーティを巨大なサウンドシステムを使ってやってる奴」として知られるようになったんだ(笑)。それ以降、年に1回くらいのペースでこういう大規模なイヴェントを企画して、それ以外はもう少し規模の小さいパーティをやっていくようになった。本来なら2000人規模のイヴェントに使うようなサウンドシステムを300人のパーティで使っていたから(笑)、音が凄いという評判になっていた。
ミネアポリスでパーティをやってきた先輩たちから、とにかく音にだけは妥協するなということを教わったんだ。ライティングやらデコレーションやら、他のものに手が回らなくても、音さえ良ければパーティは成り立つと。そういう環境で育って来たのはとても幸運だったと思う。よくニューヨークのクラブに行くと、音が物足りないと感じた。決して悪くはなかったよ、他の大多数の都市よりは良かったけど、それでもミネアポリスには敵わなかった。これはミッドウエスト(アメリカ中西部)特有のものだったんだ。ニューヨークでもないしロサンゼルスでもない、ちょうど中間でいろんな場所のいいところを取り入れて独自の発展を遂げていた。
■その音に対するこだわりの話は非常に興味深いですね。どういう経緯で発展していったんでしょう?クラブ・シーン特有の現象なんでしょうか、それとも他の音楽シーンからの影響とか?
DVS1:とくにエレクトロニック・ミュージックの現場がそうだった。イヴェントやパーティを主宰してきたのは、ほとんどが自分も音楽を作っているかDJをしてる人たちだった。だから音の好みもはっきりしていた。僕はたまたま、幸運にもこうした「音中毒」の人たちのパーティに行っていたから、その経験から自分も同じようにしよう、あるいは彼らのスタンダードに見合うサウンドシステムを用意しよう、と考えた。先人たちに教わったことを自分も実践しただけだよ。
■ミネアポリスに限ってそういうパーティがおこなわれていたんですね?
DVS1:90年代のミッドウエストのシーンを知っている人ならみんな言うと思うよ、ミネアポリスはシカゴと比較してもネクスト・レヴェルのことを実現していたって。みんな意外に思うだろうけど。
■まったく知らなかったですね......
DVS1:ウッディ・マクブライドは知ってるかな? DJ ESPって言うんだけど......実は僕は個人的に全然好きじゃないんだけど! 一応ミネアポリスのシーンを語る上では外せない人物だから触れておくよ(笑)。彼が最初にミネアポリスを盛り上げたオールドスクールの立役者で、3千人、4千人規模のパーティを主宰してた。彼も先人に倣って、いい音にこだわった。120台のスピーカーを積み上げて「音の壁」を造ったりしてね。そんな環境で聴くと音楽も全然違って聴こえる。身体で音を感じることができる。
僕にとってはDJや楽曲制作も、「音を感じる」という行為の延長なんだ。ただ耳で聴くというだけではなく。よく、「君の曲はすごくシンプルだよね」と言われるんだけど、言われて気がついたのは、自分が無意識にこういうサウンドシステムで鳴らすことをイメージして作っているということ。だからラジカセで聴いても何がいいのかわからないと思う。でも、巨大なサウンドシステムで鳴らしたときに、意味がわかるはず。
■それは非常に興味深いですねぇ......いままで私は、アメリカには大きなテクノ・シーンは存在しなかったと認識してました。
DVS1:存在しなかったよ。だからこそ、僕らはずっと苦労してきた。ドイツみたいにカルチャーとして認められることがなかったから、つねにそれがチャレンジだった。自分たちでやり方を編み出して行かなければならなかったんだ。シカゴでもニューヨークでもない、ミネアポリスという街だから余計にね。だから、決して恵まれた環境ではなかったけど、その分好きなようにやれた。
パーティやイヴェントはいつもおこなわれていた。ごく自然に。ずっとそういうことをやってきた上の世代がいて、また若い連中がそれを真似してやりはじめて......と自然に受け継がれていた。もちろん調子のいいときと悪いときのサイクルがあるけど、それはどこの街でも同じこと。僕が最初にパーティに行きはじめた頃、ミネアポリスはハウスの街だった。シカゴに傾倒している人が多かったから。そしてほんの少しのテクノ。
■ミネアポリスのテクノは全然知らなかったです......
DVS1:僕と他に数人はつねにテクノを推していた。上の世代のハウスの人たちがあまりプレイしなくなったり、他のことをはじめたりするなかで、僕らは地道にテクノをやっていた。妥協せずに、質のいいパーティを週末だけにやるようにしていたんだ。クラブでやるのではなく、自分たちで会場から作っていた。それを続けるうちに、固定客が出来てきた。
それに興味深いのは......この話は先日も他の人にしていたんだけど、他のジャンルの人たちはそれしか好きじゃないという人が多い。ドラムンベースならドラムンベースだけ、ハウスならハウスだけ、テクノの人たちはすべて好きなんだ。......少なくとも僕の地元のテクノ・ピープルはね! 僕はそこにとても惹かれきた。他の街では違うのかもしれないけど。とくにドイツをはじめとしたヨーロッパではちょっと違いそうだけどね。
例えば僕もハウスのレコードはたくさん買う。ハウス・ミュージックも大好きだ。僕の仲間のテクノDJたちもハウス好き。だから僕らがパーティをやるときは、オープニングとクロージングにハウスDJをブッキングするんだ。そうやってビルドアップしてピークにテクノをやる。ヨーロッパでは20時間ぶっ通しでテクノやったりするから(笑)、ちょっと違うけどね。テクノ人間の僕でさえもそういうのはあまり好きではないんだ。そればっかりは嫌。僕はテクノを「デザート」にしたい。最高の気分で、満足しているところに、さらに最後の一押しが欲しい、そういう風にテクノをかけたい。アメリカではそうやってきた。テクノがピークで、そこまで昇る過程と、降りて来る過程がある。だからミネアポリスのテクノDJたちはディスコ、ハウス、パンク、インダストリアル......いろんな音楽を評価し楽しんで来た。だから僕らはより幅広い視野と趣向を持っている。少なくとも僕はそう思うし、そういう姿勢を変えないつもりだよ!
パーティやイヴェントはいつもおこなわれていた。ごく自然に。ずっとそういうことをやってきた上の世代がいて、また若い連中がそれを真似してやりはじめて......と自然に受け継がれていた。もちろん調子のいいときと悪いときのサイクルがあるけど、それはどこの街でも同じこと。
■あなたのDJプレイを初めて見たのは〈Berghain〉で昨年6月に行われたベン・クロックの『Berghain 04』リリース・パーティでしたが、本当にお世辞抜きで度肝抜かれました。
DVS1:そう言ってもらえるのは本当にありがたいよ。あの日のセットは、自分ではそれほど満足出来なかった。(日曜)正午からのスタートだったんだけど、あの日はみんな130〜132BPMでプレイしていて、最初は少しテンポを落としたほうがいいと思ったんだ。まだ〈Berghain〉がどういうところかもわかっていなかったしね(笑)。だから少し遅めにプレイしはじめたんだけど、お客さんの反応が鈍いように感じた。だから速くしないといけないな、と思って速くしていったんだ。結局137BPMぐらでプレイしていて、僕はまわりから「すごくいいけど、ちょっと速いよ!」という視線を感じた(笑)。でも続けるうちに、みんなが納得しはじめた。だから結果的には上手く行ったと思うけど。ベンはさぞかし不安だったろうと思うよ。本当はライヴをやって欲しいと言われていたのを断って、僕がDJをやらせてくれと頼んだからだ。彼は僕が今までに3回しかやっていないライブをたまたまミネアポリスで見ただけで、DJプレイを聴いたことがなかったんだよ。でも、「君がそう言うなら信じるよ」と言ってやらせてくれた。
■ベンもDJは聴いたことがなかったんですか!
DVS1:一度も。だから凄いリスクを負っていたんだよ(笑)。
■恐らくプレイしはじめてお客さんに違和感を感じたのは、単にテンポの問題ではなく、〈Berghain〉のお客さんが聴き慣れているDJとは余りに違うスタイルだったので戸惑ったんじゃないかと思いますよ。これは褒め言葉になるか分かりませんが、とてもアメリカ的なスタイルだと私も感じました。
DVS1:うん、うん。それはいろんな人に言われた。「君みたいなDJは聴いたことがない」とか、「他のDJと同じ曲をプレイしても全然違って聴こえる」と。それはとても有り難い褒め言葉だね。
■少なくとも私の目には、あの場にいたベンもマルセル・デットマンも衝撃を受けていたように見えましたよ。「ワオ!」って感じで。
DVS1:そうだといいけどね! でも僕はエゴと自信を混同しないように気をつけてる。自分に自信は持っているけど、過信しないようにしてる。あの日もとても緊張したけど、それは自分の実力に自信がないからではなくて、お客さんにどう受け止められるかわからなかったから。僕はいつも考え過ぎてしまう傾向があるので(笑)。でも2度目に〈Berghain〉で10時間セットをやったときは、満足感を得られた。「よし」という手応えがあったね。いままでの人生で最長のセットだったけど(笑)。それまでは長くても4〜5時間のセットだった。アメリカではそれ以上プレイする機会なんてないから。
■ベルリン以外ではほとんどそういう機会はないでしょうね......(笑)。
DVS1:そうだよね、だから僕も自分がああいう超ロングセットで実力を発揮出来るとは知らなかった。何でもやってみないとわからないものだよね。
■ちょっと話が逸れてしまいましたが......お聞きしたかったのは、あなたのそのDJスタイルはどのように形成されたかということです。どんなDJの影響を受けてきたんですか? やはり地元の先輩たちから?
DVS1:わからないな。でも、僕はパーティに行きはじめた頃から、ブース脇にかじりついているようなタイプだった。DJを観察するのが好きで、本当に感動したものだよ。DJがEQを操作していく様は......みんなただミックスしているだけじゃなかった、EQが肝だったんだ。先に述べたような、壁のように積み上げられたスピーカーで、ベースをぶち込んだときの迫力といったら! あれほどパワフルなものはない。自分でDJをするようになったのはニューヨークの高校にいたときで、そうだ、日本人のヒップホップDJからターンテーブルをもらったんだった! 名前はもう忘れてしまったけど、寮で同じ部屋だった子がね。ものすごくヘボいターンテーブルだったけど(笑)。自分で安物のミキサーも買って、ただ独学でやりはじめてみた。誰にも教わらずに。その頃、DJをやってる子と友だちになった。年下で未成年だったけど、すでに〈The
Limelight〉でプレイしていた。だから彼がやるときによく行って、ずっと観察してたよ。見る度にDJの持つパワーに魅了された。たまたま僕が行ったパーティ、あるいは時代だったのかもしれないけど、僕が知ってるDJはみんな音を操作して動きがあって、突っ立ってる奴なんていなかった。そういうDJを見てきたから、僕も同じようにやろうと思ったんだ。もちろん好きなDJの名前を挙げることも出来るけど、それよりも僕は90年代半ばという時代、そしてミッドウエストというエリアに影響されたと思う。当時は世界中のトップDJがミッドウエストに来てプレイしていた。ロラン・ガルニエ、デイヴ・クラーク......あの頃の彼らは神のようだったよね。もちろんいまでも素晴らしいけど、あの頃は絶頂期だった。それを僕は地元で体験出来た。ロラン・ガルニエのような人でも、僕らの使っていたようなサウンドシステムでプレイすることはほとんどなかったみたいで、「ワオ! 一体これは何だ?」って驚いていたよ。そして最高のプレイをした。恐らく、僕が体験したDJプレイのトップ5に入るセットだったね。ロブ・フッド、(ジェフ・)ミルズ、それにシカゴ・ハウスのレジェンドたちをそういうシステムで聴いていたんだ。当時はハウスとテクノがそれほど分かれていなかったしね、いまみたいに。みんな同じような機材を使って曲を作っていたから、サウンド的にもそれほど違いがなかった。同じ808や909のキックを使っていた。
......これで僕が受けてきた影響の説明になっているといいけど!
■良くわかりました! でもそれより前に話を戻すと、音楽にはずっと関心があったんですか?それともそうしたクラブ体験がきっかけで音楽にのめり込んだんでしょうか?
DVS1:昔から何かしら音楽には関わってきたね。子供の頃は母親にピアノを習わされていたけど、まあよくあるようにガキの頃は問題ばっかり起こしていたから、いつしかピアノは止めてしまった(笑)。その後1〜2年チェロもやってみたんだけど全然ダメで、それもすぐに止めた(笑)。ピアノはわりと得意だったんだけどね、ずっと弾いていなかったから忘れてしまったけど。いまはまた試行錯誤しているね。でもそんな風に母親はいつも僕に音楽をやらせようとした。とはいえ、父親がDJで母親がバイオリニストの音楽一家で育った、ってわけじゃない(笑)。家族に音楽家はいなかった。でも子供の頃から、ラジオで流れて来る80年代の、シンセ音楽をとても好んで聴いていたね。そこまで選択肢があったわけじゃないけど、ユーリズミクスとかがかかると喜んで聴いていた。そういうビートのある音楽が好きだった。
よくいろんな人とこの話になるけど、音楽に最初にどう触れるかでその後がだいぶ左右されると思う。最初に行ったイヴェントがダメな音楽ばかりだと、そこからいい音楽を探し当てるのは大変だ。でもラッキーな人は最初から素晴らしい音楽を聴いたり体験出来たりする。僕は後者だった。最初の頃から、いい音楽がかかるいいパーティに連れて行ってもらえた。僕は「ゲートウェイ・ドラッグ(入門麻薬)」って呼んでるんだけど、一部の人はいい音楽に辿り着くためにトランスを通過しないといけない(笑)。僕はそれをやらずに済んだ。最初からピュアで良質なハウス・ミュージックのパーティに触れられたから、とてもラッキーだったね。
自分で自分を売り込むようなタイプじゃなかった。初対面の人にはDJをしているとは言わなかったし、自分をDVS1だとは名乗らず、(本名の)「ザックです」と言っていた。「いつかプレイさせて下さいよ〜」なんておべっかを使うようなこともしなかった。
■以前からミッドウエスト以外の地域でもDJは頻繁にしていたんですか?
DVS1:いや、していない。僕はね、自分は出遅れたと思っていたんだ。例えばデリック・メイや、次の世代のクロード・ヤングといった人たちは、プロデューサーとしてブレイクする前にすでにDJとして有名になっていた。彼らはライヴ・セットなどやっていなかった。DJとして人気が出たんだ。とても腕のいいDJだったからね。でも僕が自分の腕に自信を持てるようになった頃にはテクノは大きくなっていたし、世界中に広まっていたし......それに僕は自分で自分を売り込むようなタイプじゃなかった。初対面の人にはDJをしているとは言わなかったし、自分をDVS1だとは名乗らず、(本名の)「ザックです」と言っていた。「いつかプレイさせて下さいよ〜」なんておべっかを使うようなこともしなかった。......なぜだろうね、とにかくもう遅いと思っていて、ミネアポリスの外にまで自分を売り込む努力をしたことがなかった。だから、ほとんど存在すら知られていなかったんじゃないかな。地元ではそれなりに有名だったけどね。だからミルズやフッドが地元に来たときは、いつも僕が一緒にブッキングされた。
その次のステップとしてやったことは、自分のクラブをオープンさせることだった。それが自然なことに思えたんだ。アンダーグラウンド・パーティをやり、アフターアワーズをやり、ウエアハウス・パーティをやり......次にやることは自分のクラブを持つことだと思った。自分はここに住み続けるんだし、自分の好きなDJをブッキングして、自分もDJできる場所が欲しかったんだ。音が良くて、使い勝手のいいブースがあって......だから僕は5年かけて自分のクラブをオープンした。でも、もう少し時間をかければ良かったところを焦ってしまったんだな、本来なら一緒に組むべきではない人たちと組んで開店させてしまった。一応2年間は営業したんだけど、やはり上手く行かなかった。いい人生経験にはなったけどね。でも閉店したとき、僕は多額の借金を背負ったし、エネルギーも削がれてしまった。「これからどうしたらいいんだろう」と思ったね。
■それはいつの話ですか?
DVS1:閉店して9ヶ月後にベンと出会ったから、オープンしたのが5〜6年前になるね。〈Foundation〉という名前のクラブだった。地下にある古いクラブを改装したスペースで、600人くらいの規模だった。そしてオールドスクール・ヒップホップとエレクトロニック・ミュージックに特化していた。アフリカ・バンバータ、ミックスマスター・マイクからジェフ・ミルズまで。僕はオールドスクール・ヒップホップも大好きなのでね、そういうパーティもやっていた。
だから閉店直後はかなり落ち込んで、今後どうしていけばいいのかわからなかった。でもとりあえず何かやろうと、店で使っていたサウンドシステムを別の店の〈The Loft〉というスペースに持ち込んで、またパーティをはじめたんだ。〈Shelter〉というパーティで、ひとりのDJが一晩通してプレイするというコンセプトだった。ひとりがオープンからクローズまでのロングセットをプレイするんだ。でも、このアイディアはちょっと行き過ぎていたみたい(笑)。普通だったら1時間から1時間半、よほど特別なゲストだったら2時間というセットタイムだから。しかもDJも誰にでもできることではなく、かなり幅広いレコード・コレクションがないと無理だ。しかも僕はヴァイナル人間だから、ヴァイナルに限定していたし。最初の6ヶ月くらいはまあまあ成り立っていたんだけど、だんだん人も減って、結局それも終わらせることになった。ちなみに最後の回はデリック・メイだったよ。同じ日にドキュメンタリー映画『HI
TECH SOUL』のプレビュー上映もした。
■おお、あの映画に日本語字幕つけましたよ!
DVS1:そうかい! そう、あれを上映してすぐにデリックがプレイしはじめて5時間のセットをやってもらった。でもその後は、本当にまたどうしていいかわからなくなって、しばらく姿を消していたんだよね。半年くらいかな。そしたら、ライヴをやらないかと声がかかった。でも最後にライヴをやったのはその5年も前のことだった。それが生まれて初めてのライヴだった。「5年振りだし、ぜひやってくれよ」と言われたんだけど、「いや、気がすすまない」と言っていたんだ。そしたら妻が、「やるべきよ。私を信じて、とにかくやってみて」と言った。「少しのあいだ自分のことに集中してみたら、あなたはこれまでずっと他のひとたちのために骨を折ってきたんだから。自分のために時間を使うべきよ」そう言われて、「わかったよ」と引き受けることにした。出演日の6ヶ月前にそう決めて、3ヶ月経ったところで同じ夜にベン・クロックがやって来ることが告知された。ベンは街のクラブでプレイし、僕は別のアンダーグラウンド・パーティに出演することになっていたんだ。
これ以降の話は、もうすでに他のインタヴューなどで読んでるかもしれないけど、僕はベンが聴きたかったので、自分のライヴ前にクラブに行って、彼のプレイを聴いた。でも挨拶とかはしなくて、ただ客として聴いて自分のパーティに戻ったんだ。そしたら、ベンのプロモーターが彼のプレイ後に、「どうしても聴いてもらいたい人がいる」と言ってベンを僕のパーティに連れて来ようとした。最初はベンも「疲れたからホテルに帰りたい。アフターパーティには興味ない」とか言っていたらしいんだけど(笑)、そのプロモーターが「彼も滅多にやらないライヴだから、ぜひ見て欲しい」と説得して連れてきた。ちょうど僕がはじまったところに。30〜40分のセットだったからとても短かったんだけど、ライヴ後に話をして、「曲のリリースはしてるの?」と聞かれたんだ。「いや、してない」と言ったら、「出したいと思う?」と聞き返されて。「そうだね、そろそろ出してもいいかもね」と言った。
面白いのは、その1ヶ月ほど前にデトロイトにオーディオ・エンジニアとして仕事をしに行ったことがあった。僕はしばらくそういう仕事もやっていたのでね。モーターショーのイヴェントなどで仕事をしていた。それでオフの時間はデリック・メイと遊んだりしていた。あるとき、彼のスタジオでいろいろ音楽の話をしていたときに、たまたま僕が自分の曲をかけたんだ。そしたら、「何だこれは?」と聞くので、「僕の曲だよ、最近こういうのを作ってみてるんだ」と言うと、「俺にくれ」と言う。「え? なんで?」と聞いたら「俺は〈Transmat〉を再開するんだ」という話で。ほぼ同じタイミングで両方に話を持ちかけられたんだ。でもベンの方が出すのが早くて、半年後には世に出ていた。デリックはそこから1年半かかったんだよね。
でも、自分は本当に幸運だったと思っている。このデジタル時代にデモやプロモなんて数え切れないほどある。でも僕は自分の最初のレコードを、1枚はベンといういま旬のアーティストのレーベルから出せて、もう1枚はデリックという歴史の生き証人で正統派なアーティストのレーベルから出せた。その両方から出してもらったことで、特殊なポジションに立てたから、より人びとに注目してもらえたと思うんだ。耳を傾けてもらえた。
僕は若手を批判するつもりはないけど、こうやっていろいろな場所に行ってプレイするようになって、周りの連中がみんな本当に若くてビックリしている。20歳とか21歳とか...... 彼らは彼らで素晴らしいと思うけど、僕は長くやってきた分だけ周りにリスペクトしてもらえていると感じる。いつもヴァイナルを持ち込むし、古いレコードをたくさん持っているし、それなりに経験があるDJだってことはわかってもらえる。世界的には「新人」なのかもしれないけど、僕はずっとこれをやってきたという自負がある。
よくアーティスト同士が「コラボレーション」とかやってるけど、正直僕は恥ずかしくて出来ない。プロダクションのことなんて何もわかってないから(笑)。ただ自分を表現するのに適度なことだけ知っているんだ。
■私があなたのプレイを見て最初に思ったことは、「なぜ私はいままでこの人のことを知らなかったんだろう!?」でしたよ(笑)。
DVS1:さっき言った通り、僕自身ももう出遅れたと思っていたくらいだからね。でも遅すぎるなんてことはなかったね、いまがパーフェクトなタイミングだったと思う。テクノはいままた勢いを取り戻している。僕が15年間プレイし続けてきた音楽が、いまいちばんきちんと聴かれていると思う。もし4年前に僕が「発掘」されていたら、そこまで注目されなかったかもしれない。音楽が注目されていなかったから。
先日も『Groove』誌にインタヴューされたときに、「いまのテクノ・ブームをどう感じていますか?」と聞かれたけど、ブームは何でも去るときが来るからテクノ・ブームも同じように去ると思う、でも僕はこの音楽を愛しているから、ブームかどうかは関係なくプレイし続けるだけだ、と答えた。
■昨年の6月が、初のベルリン出演だったんですか?
DVS1:いや、実はオリジナルの〈Tresor〉で10年前にいちどだけプレイしたことがあったよ。「新人ナイト」でね(笑)。97年にハイコ・ラウをミネアポリスに呼んでいた縁で、2000年に友人の結婚式でヨーロッパに来た際に、彼にどこかでプレイできないか聞いたんだ。それで彼が紹介してくれたのが〈Tresor〉だった。水曜日の夜に、3〜4時間のセットをやらせてもらった。あれも素晴らしい体験だったな。満員でね、でももちろん当時は誰も僕が何者かなんて知らなかった。
[[SplitPage]]よくアーティスト同士が「コラボレーション」とかやってるけど、正直僕は恥ずかしくて出来ない。プロダクションのことなんて何もわかってないから(笑)。ただ自分を表現するのに適度なことだけ知っているんだ。
■私があなたのプレイを見て最初に思ったことは、「なぜ私はいままでこの人のことを知らなかったんだろう!?」でしたよ(笑)。
DVS1:さっき言った通り、僕自身ももう出遅れたと思っていたくらいだからね。でも遅すぎるなんてことはなかったね、いまがパーフェクトなタイミングだったと思う。テクノはいままた勢いを取り戻している。僕が15年間プレイし続けてきた音楽が、いまいちばんきちんと聴かれていると思う。もし4年前に僕が「発掘」されていたら、そこまで注目されなかったかもしれない。音楽が注目されていなかったから。
先日も『Groove』誌にインタヴューされたときに、「いまのテクノ・ブームをどう感じていますか?」と聞かれたけど、ブームは何でも去るときが来るからテクノ・ブームも同じように去ると思う、でも僕はこの音楽を愛しているから、ブームかどうかは関係なくプレイし続けるだけだ、と答えた。
■昨年の6月が、初のベルリン出演だったんですか?
DVS1:いや、実はオリジナルの〈Tresor〉で10年前にいちどだけプレイしたことがあったよ。「新人ナイト」でね(笑)。97年にハイコ・ラウをミネアポリスに呼んでいた縁で、2000年に友人の結婚式でヨーロッパに来た際に、彼にどこかでプレイできないか聞いたんだ。それで彼が紹介してくれたのが〈Tresor〉だった。水曜日の夜に、3〜4時間のセットをやらせてもらった。あれも素晴らしい体験だったな。満員でね、でももちろん当時は誰も僕が何者かなんて知らなかった。
デリックが最初に僕にくれたアドヴァイスは、「人は君のことをオリジナルの楽曲で覚える。リミックスが記憶に残ることも稀にあるが、そう多くはない。だから自分のファミリーを作って、そこを基盤として、あまり多くのレーベルから出すな。そうじゃないと、いまの時代すぐに忘れられてしまうぞ」だった。
■楽曲制作もずっと取り組んでいたんですか?
DVS1:ずっと取り組んではいたね。でも実験の繰り返しで、曲を完成させるまでに至らなかった。スタジオも構えていたし、一時期はたくさんのアナログ機材も持っていた。でも何度か自分の企画に失敗してすべてを失った。僕は16歳の頃から「自営業」なんでね(笑)、何か大きなプロジェクトをやるときは自分の持ち物を担保に入れなければならなかった。それで成功したこともあるし、何度か失敗して、2度ほどすべてを手放さなければならなかった。機材もね。それほど使っていたわけじゃないから不便はないんだけど、かなりいいアナログ機材を持っていたから、残念は残念だ。いまはReasonを使って曲を作ってる。Reasonと言うとみんなショックを受けるんだけど(笑)。僕の曲はすべてReasonで作った。でもReasonをアナログ機材のように使っていると思う。すべてをMIDIコントローラーで操作しているんだ。僕は数学的な思考で曲は作れないのでね。ループを作って、それに合わせて「ジャム」をして録音するんだ。だからとても自然に曲が出来上がる。「でもドラムマシンみたいな音がする」と言われるけど、ドラムマシンみたいな使い方をしてるということなんだ。
■その制作方法はどうやってあみ出したんですか?
DVS1:ボタンを押してるうちに(笑)。よくアーティスト同士が「コラボレーション」とかやってるけど、正直僕は恥ずかしくて出来ない。プロダクションのことなんて何もわかってないから(笑)。ただ自分を表現するのに適度なことだけ知っているんだ。僕はDJすることに関しては精通していると言えるけど、プロダクションに関しては学習中だ。誰にもやり方を教えてもらったことがないから、恥ずかしくて「実は自分でも何をやっているのかよくわかりません」って正直に言えない(笑)。
でも時折、知識がないことが逆にプラスになっているんじゃないかと思うこともあるよ。知識が限られている分、その限られた中で最大限のことをしようと努力する。たまに「ああ、こんなエフェクトがかけられたらもっといいかもな...」なんて思うこともあるけど、「いや、これはこれでいい」と考え直す。僕はDJとしても、シンプルな音楽を好む。そういうことを忘れて歌を作ったりする人もいるけど、僕はトラックを作りたい。僕はDJだから、そのツールが欲しい。
■あなたの曲はすべてDJのために作られていると。
DVS1:ああ、リヴィングルームで聴かれることを想定して作ったことはないね(笑)。もちろんリヴィングで聴きたい人がいたら自由に聴いてもらってかまわないけど! 僕にとってはDJありきの音楽だ。パズルのピース。
■いまはかなり制作量も増えてますか?
DVS1:僕の作品としては、〈Klockworks〉、〈Transmat〉、そしてもうひとつ〈Enemy〉というレーベルから出した3枚だけだ。その後、ちょうど膝の手術をして3ヶ月歩けなかったときがあって、暇だし気分も落ち込んでいたので何か気を紛らわそうといろんなリミックスを引き受けた。それはいい勉強になったんだけど、そのときわかったのは、僕は複数のプロジェクトを同時進行できないということ。1曲ずつ片付けていかないとダメなタイプなんだ。リミックスをやると、いつもひとつのヴァージョンに絞れなくてふたつのヴァージョンを作ってしまう。完全に満足できる1曲が作れないんだ。自分ではすごくたくさんリミックスをしてきた気がするのは、実際は5曲なのにすべて2ヴァージョン作っているから10曲になってる(笑)。
でもいまはリミックスのオファーはすべて断っていて、自分の曲作りに集中したいと思ってる。〈Klockworks〉からの次のリリースはほぼ完成している。実はその1曲のエディットをベンが作って、すでにデトロイトやCLRのポッドキャストでプレイしているんだ。ネット上では「この曲誰か教えて!」と話題になってるから、なかなかいい感触を持ってるよ! 9月くらいまでには出るんじゃないかな。そして12月には自分のレーベルをはじめる。〈Hardwax〉がディストリビュートしてくれることが決まってる。
■レーベル名は?
DVS1:〈HUSH〉だ。僕は〈HUSH Productions〉というイヴェント・プロダクションをもう15年やっていて、〈HUSH Studios〉という31部屋あるスタジオも経営していて、さらに〈HUSH Sound〉という音響会社もやっているんだ。ちょうど今年の12月に〈HUSH Productions〉設立15周年になり、僕も35歳になる。だから、それを機にレーベルを立ち上げることにしたんだ。
■もちろんリリース第一弾はあなたの作品だと。
DVS1:すべて僕のオリジナル楽曲だ。リミックスは出さない。いま、みんなリミックスをやりすぎだと思うんだ。
■みんなたくさんのリミックスをたくさんの違うレーベルから出してますね。
DVS1:そう。デリックが最初に僕にくれたアドヴァイスは、「人は君のことをオリジナルの楽曲で覚える。リミックスが記憶に残ることも稀にあるが、そう多くはない。だから自分のファミリーを作って、そこを基盤として、あまり多くのレーベルから出すな。そうじゃないと、いまの時代すぐに忘れられてしまうぞ」だった。たしかに90年代を振り返ると、ほとんどの人はせいぜい2〜3レーベルからしか出さなかった。でもいまは同じ連中が25の違うレーベルから出して、同じ週に5つのリリースが重なっていたりする。そんなにいろいろやってもみんな消化し切れない。少なくともじっくり楽しんでもらえない。だから僕もその教訓に従って、自分のリリースを絞ろうと思ってる。ヴァイナル・オンリーでね!
■今後も拠点はミネアポリスなわけですね。
DVS1:ああ。ヨーロッパには2ヶ月毎くらいのペースで来ているけどね。ありがたいよ。いまはとてもいいポジションにいると思う。
■私もそう思います(笑)。
DVS1:とても幸せだよ。僕がよく人に言うのは、「僕はいま電車に乗っている。僕はそこから蹴り落とされるまで、乗り続ける」蹴り落とされたら元の生活に戻るけど、乗れる限りは乗っていこうと思ってるよ(笑)。やはり遅すぎるということはなかったね、いまが完璧なタイミングだ。
参考ミックス
Pacha NYC Podcast https://pachanyc.com/podcast/
最新リリース(リミックス)
Jon Hester/ Shouts In The Dark https://soundcloud.com/edec/
↓こちらも宜しく!
https://go-to-eleven.com/schedule/detail/386/2011/8