Home > Interviews > interview with DVS1 - 強靭なるミッドウエスト・テクノ
Who is DVS1?
本名ザック・クートレツキー。それは、日本がまだ体験していない、USテクノ最後の刺客。彼のプレイを聴いたことがある日本人はまだ数えるほどしかいないはずだし、名前すらも聞いたことがない人がほとんどだろう。でも彼は新人ではない。なにしろ、彼は15年間に渡ってずっと地元ミネアポリスでアンダーグラウンド・パーティでプレイしてきたDJ。世界が彼のことを知らなかっただけなのだ。
ベン・クロックのレーベル〈Klockworks〉からのEP、そしてデリック・メイの〈Transmat〉からの『Love Under Pressure』EPのリリースによって注目を集めた彼が、何よりも得意とするのはDJプレイーー 初来日となるFREEDOMMUNE 0〈ZERO〉で、その全貌が明らかになる。
3度目の〈Berghain〉出演で10時間半のぶっ通しという超人的なプレイでベルリンのテクノ・フリークたちを熱狂させたほんの数日後、穏やかな昼下がりにじっくりと話を聞いたので、彼がどんな人物なのか、少々予習してもらえれば幸いだ。
ミネアポリスでパーティをやってきた先輩たちから、とにかく音にだけは妥協するなということを教わったんだ。ライティングやらデコレーションやら、他のものに手が回らなくても、音さえ良ければパーティは成り立つと。
■あなたのことを知っている人はとても少ないので、基本的なところから聞かせて下さい。出身はロシアなんですよね?
DVS1:そう、生まれたのはロシアで2歳のときにアメリカのミネアポリスに引っ越した。その後両親が離婚して、父はニューヨークに移った。だから僕はミネアポリスとニューヨークを行ったり来たりして育ったんだ。16歳から20歳まではニューヨークで高校を卒業したり大学に行ったりして、その後ミネアポリスに戻ってそれからずっと今も居る。
1996年にミネアポリスでイヴェントを主催するようになった。DJもしていたんだけど、最初はプロモーターとして音楽の世界に関わり出したんだ。僕がミネアポリスやったパーティで「伝説」となっているのは、1997年にハイコ・ラウ、エレクトリック・インディゴ、ニール・ランドストラム、トビアス・シュミットなど......当時まだアメリカでは誰もやってことがない規模の国際的なDJたちをブッキングしたときだった。車で6時間かかるシカゴからでさえ人が来たほどだったよ。だから、僕は「クレイジーなテクノ・パーティを巨大なサウンドシステムを使ってやってる奴」として知られるようになったんだ(笑)。それ以降、年に1回くらいのペースでこういう大規模なイヴェントを企画して、それ以外はもう少し規模の小さいパーティをやっていくようになった。本来なら2000人規模のイヴェントに使うようなサウンドシステムを300人のパーティで使っていたから(笑)、音が凄いという評判になっていた。
ミネアポリスでパーティをやってきた先輩たちから、とにかく音にだけは妥協するなということを教わったんだ。ライティングやらデコレーションやら、他のものに手が回らなくても、音さえ良ければパーティは成り立つと。そういう環境で育って来たのはとても幸運だったと思う。よくニューヨークのクラブに行くと、音が物足りないと感じた。決して悪くはなかったよ、他の大多数の都市よりは良かったけど、それでもミネアポリスには敵わなかった。これはミッドウエスト(アメリカ中西部)特有のものだったんだ。ニューヨークでもないしロサンゼルスでもない、ちょうど中間でいろんな場所のいいところを取り入れて独自の発展を遂げていた。
■その音に対するこだわりの話は非常に興味深いですね。どういう経緯で発展していったんでしょう?クラブ・シーン特有の現象なんでしょうか、それとも他の音楽シーンからの影響とか?
DVS1:とくにエレクトロニック・ミュージックの現場がそうだった。イヴェントやパーティを主宰してきたのは、ほとんどが自分も音楽を作っているかDJをしてる人たちだった。だから音の好みもはっきりしていた。僕はたまたま、幸運にもこうした「音中毒」の人たちのパーティに行っていたから、その経験から自分も同じようにしよう、あるいは彼らのスタンダードに見合うサウンドシステムを用意しよう、と考えた。先人たちに教わったことを自分も実践しただけだよ。
■ミネアポリスに限ってそういうパーティがおこなわれていたんですね?
DVS1:90年代のミッドウエストのシーンを知っている人ならみんな言うと思うよ、ミネアポリスはシカゴと比較してもネクスト・レヴェルのことを実現していたって。みんな意外に思うだろうけど。
■まったく知らなかったですね......
DVS1:ウッディ・マクブライドは知ってるかな? DJ ESPって言うんだけど......実は僕は個人的に全然好きじゃないんだけど! 一応ミネアポリスのシーンを語る上では外せない人物だから触れておくよ(笑)。彼が最初にミネアポリスを盛り上げたオールドスクールの立役者で、3千人、4千人規模のパーティを主宰してた。彼も先人に倣って、いい音にこだわった。120台のスピーカーを積み上げて「音の壁」を造ったりしてね。そんな環境で聴くと音楽も全然違って聴こえる。身体で音を感じることができる。
僕にとってはDJや楽曲制作も、「音を感じる」という行為の延長なんだ。ただ耳で聴くというだけではなく。よく、「君の曲はすごくシンプルだよね」と言われるんだけど、言われて気がついたのは、自分が無意識にこういうサウンドシステムで鳴らすことをイメージして作っているということ。だからラジカセで聴いても何がいいのかわからないと思う。でも、巨大なサウンドシステムで鳴らしたときに、意味がわかるはず。
■それは非常に興味深いですねぇ......いままで私は、アメリカには大きなテクノ・シーンは存在しなかったと認識してました。
DVS1:存在しなかったよ。だからこそ、僕らはずっと苦労してきた。ドイツみたいにカルチャーとして認められることがなかったから、つねにそれがチャレンジだった。自分たちでやり方を編み出して行かなければならなかったんだ。シカゴでもニューヨークでもない、ミネアポリスという街だから余計にね。だから、決して恵まれた環境ではなかったけど、その分好きなようにやれた。
パーティやイヴェントはいつもおこなわれていた。ごく自然に。ずっとそういうことをやってきた上の世代がいて、また若い連中がそれを真似してやりはじめて......と自然に受け継がれていた。もちろん調子のいいときと悪いときのサイクルがあるけど、それはどこの街でも同じこと。僕が最初にパーティに行きはじめた頃、ミネアポリスはハウスの街だった。シカゴに傾倒している人が多かったから。そしてほんの少しのテクノ。
■ミネアポリスのテクノは全然知らなかったです......
DVS1:僕と他に数人はつねにテクノを推していた。上の世代のハウスの人たちがあまりプレイしなくなったり、他のことをはじめたりするなかで、僕らは地道にテクノをやっていた。妥協せずに、質のいいパーティを週末だけにやるようにしていたんだ。クラブでやるのではなく、自分たちで会場から作っていた。それを続けるうちに、固定客が出来てきた。
それに興味深いのは......この話は先日も他の人にしていたんだけど、他のジャンルの人たちはそれしか好きじゃないという人が多い。ドラムンベースならドラムンベースだけ、ハウスならハウスだけ、テクノの人たちはすべて好きなんだ。......少なくとも僕の地元のテクノ・ピープルはね! 僕はそこにとても惹かれきた。他の街では違うのかもしれないけど。とくにドイツをはじめとしたヨーロッパではちょっと違いそうだけどね。
例えば僕もハウスのレコードはたくさん買う。ハウス・ミュージックも大好きだ。僕の仲間のテクノDJたちもハウス好き。だから僕らがパーティをやるときは、オープニングとクロージングにハウスDJをブッキングするんだ。そうやってビルドアップしてピークにテクノをやる。ヨーロッパでは20時間ぶっ通しでテクノやったりするから(笑)、ちょっと違うけどね。テクノ人間の僕でさえもそういうのはあまり好きではないんだ。そればっかりは嫌。僕はテクノを「デザート」にしたい。最高の気分で、満足しているところに、さらに最後の一押しが欲しい、そういう風にテクノをかけたい。アメリカではそうやってきた。テクノがピークで、そこまで昇る過程と、降りて来る過程がある。だからミネアポリスのテクノDJたちはディスコ、ハウス、パンク、インダストリアル......いろんな音楽を評価し楽しんで来た。だから僕らはより幅広い視野と趣向を持っている。少なくとも僕はそう思うし、そういう姿勢を変えないつもりだよ!
取材:浅沼優子(2011年8月16日)