彼はしかし、ずっと子どもでいることを謳歌しているわけではない文:木津 毅
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「僕を頼っていいんだよ」......アルバムの冒頭を飾る"ユー・キャン・カウント・オン・ミー"のシングルのジャケットは、幼い子どもを肩車した父親のイラストで、それは本作のインナースリーブに転載されている。「僕は立ち向かうつもりさ/少なくとも頑張ってみるから」――父親となったパンダ・ベアの頼もしい宣言のようだが、それは「ダッド・ロック」にはならない。例の深いリヴァーヴで、甘く優しく心地良く歌われる。レディオヘッドのように、父親になったことがさらに世界を憂えたり嘆いたりするモチーフにもならない。思い出すのはアニマル・コレクティヴの"マイ・ガールズ"で、そこでは、僕は世俗的なものなんて興味がないんだ、僕が欲しいのは僕の女の子たちのための4つの壁と煉瓦の板が欲しいだけ、というようなことが歌われていた。僕の女の子たちというのが自分の家族のことだとすれば、とてもアニマル・コレクティヴらしい......というかパンダ・ベアらしい言い方だと思う。徹底して個人的であること、それが彼の表現では一貫している。
『パーソン・ピッチ』は多くのフォロワーを生み出しチルウェイヴの呼び水になったのは周知のことで、昨年パンダ・ベアがシングルを続けてリリースしたのは、シングルが中心で語られるチルウェイヴに対するリアクションかもしれないと思っていた。だからはじめ僕はこのアルバムをチルウェイヴとの距離を測りつつ聴こうと思ったのだが、それはあまり上手くいかなかった。こうして彼の曲が並んだものを聴くと、単純に格が違いがはっきりするというか、チルウェイヴでは「何となく」で済まされがちなソングライティングの部分での力の入り方が違う。僕は「チルウェイヴはパンダ・ベアの新作が決着をつけるだろうから」というようなことを書いてしまったが、当の本人は自分が影響を与えたシーンのことに目配せするよりも、自身の音楽を前進させることに集中している。サンプリングの海に浮かぶようだった『パーソン・ピッチ』とは違って、構造がシンプルに整頓されていて、つまり歌としての体裁が整えられている印象だ。
アルバムの前半、シングルとそのB面曲で固めた5曲は本当に見事なもので、ジャンクなサイケデリック・サウンドを鳴らしていたアニマル・コレクティヴがなぜこの10年でここまで浮上したのかが証明されている。複雑なリズム・パターンを持つ"スロウ・モーション"でも、高音の電子音が煌く"サーファーズ・ヒム"でも、はっきりとした展開があるメロディが堂々と中心に据えられている。それは"ラスト・ナイト・アット・ザ・ジェティ"でのまばゆい高揚でピークに達し、アルバムは文字通りのタイトルの"ドローン"を真ん中で挟んでより抽象的なサウンドへと突入していく。"シェヘラザード"の翳りに意識を奪われ、クロージングの"ベンフィカ"に気持ち良くまどろむ。実験性とポップの融合、ではなく音の冒険そのものをフックとして聞かせるその妙技は、音と遊び続けてきたパンダ・ベアだからこそ得られたものだろう。
アルバムを通して、親となることとその責任、自立すること、親しい友人とのすれ違い、イノセンスを失うこと......つまり大人になることについてのモチーフが散見される。それは、「パンダさんクマさん」と自分のことを呼び、『パーソン・ピッチ』のアートワークにあったように想像上のユートピアを作り上げていた彼にとっての、社会のなかで生きることに目覚めていくドキュメントのようだ。ピーターパンだと言われ続けたパンダ・ベアも、ずっと子どもでいることを謳歌しているわけではないのだ。"アフターバーナー"での「僕はひどく疲れてしまった/踏み出すことに/苦痛に耐えることに」という呟きのあとに続く、「僕は金では買わない/地位を金では買わない/こう思うんだ/どこかにもっと本当のやり方があるはずだと」という決意がナイーヴすぎたとしても、それは彼なりに真摯に現実に向き合った結果である。
だが、その音楽はやはりとてもドリーミーで甘くて......逃避的に響く。なぜだろう、と考えたときに、それは彼の表現があくまで個人としての視点から発されているからではないかと思った。パンダ・ベアが見ているものは自分の周りのものばかりで、その領域を大きくはみ出すことはない。そしてその場所を守り抜く。アニマル・コレクティヴがゼロ年代を通して体現したあり方は、社会に対する反抗でももちろん隷属でもなく、別のクリエイティヴな場所を作り上げてそこで戯れることだった。それは素晴らしいことだと思う。だけど、僕にとってはそこが同時に物足りなさでもある。現実との摩擦音がノイズとして耳に入ってくる瞬間がもっとあれば、ユートピアに入れない人間にとってもそれはスリリングなものに響くのではないだろうか。
『トムボーイ』には、本当に見事な夢の世界がある。それはしかも現実に向かいつつ鳴らされているのだから、そのコントラストこそがこの煌きをもたらしているとも言えるだろう。パンダ・ベアが個人の領域を大きくはみ出して、より現実に目覚めたらその美は消えてしまうのだろうか? だとすれば、僕には「それが聴きたい」とは言えないけれど、この心地良いまどろみが永遠に続くわけでもない、とも思う。ここでは終わっていく何かの、その最後の輝きが反射しているのかもしれない。
文:木津 毅
[[SplitPage]]熱でもアイロニーでもない、静かに明るくひらけている肯定感文:橋元優歩
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パンダ・ベアとアニマル・コレクティヴ最大の功績は、案外とリズムやビートにあるのかもしれない。ビートとは、心臓の鼓動がそうであるように、時間を分節するものだ。刻み、前進する。どもったり淀んだりすべったりしても、基本的にはリニアな流れを持つものだと言える。ループという方法は、我々が日ごろ感じているそうした流れを対象化するものである。リピートとは違う。「繰り返す」のではなく、「元に戻ってしまう」=「前に進まない」のがループで、そこには時間というものについての批評がある。パンダ・ベアの音楽はしばしばループの多用について指摘されるが、「元に戻りつづける」ことは、後に彼以降の音にヒストリカルな意味をもたらすことになるエスケーピズムを象徴していたのかもしれない。とくに3連符が2拍子で延々と続いていく"ファイアワークス"や"ウォーター・カーシズ"など、あの独特のビートを持った曲を聴いていると、ビート自体は非常に躍動的なものを孕んでいながら、それがループすることで独特の滞留感覚を生んでいることに気づく。それは揺りかごの時間みたいなものだ。赤ん坊に時間概念はない。目を覚ますたびに同じ地点に戻る。そして我々が赤ん坊でない限り、それは心地よい逃避として機能するだろう。彼の音楽についてよく指摘される祝祭性も、民俗音楽的なシミュラークルからではなく、このように普通の日常性から切り離された時間感覚によるものではないだろうか。
パンダ・ベアのビート/時間感覚がもたらしたものの大きさについていま考えている。それは実際の手法としてのビートから、もう少し抽象的な意味にまでひろがる。彼とアニマル・コレクティヴが2000年代のインディ・ミュージック・シーンに与えつづけてきた影響は計り知れない。60年代から「死んだ」「死んでない」と続くロックの営み、先の10年でもガレージ・リヴァイヴァルとポスト・パンク・リヴァイヴァルといった形で弁証法的に進んできたロック・ミュージックの時間軸を、解体し、超越するものが、パンダ・ベアの祈りと祝福のループに隠されていなかっただろうか。
ストロークスに象徴されるガレージ・リヴァイヴァリストたちのように、2000年代はそもそも復古的なロック・ヒーロー像によって幕を開けた。もちろんそれを駆動していたもの、そもそもそんなイメージをリヴァイヴァルさせたところには大いにクリティカルな態度があったと言える。続いてポスト・パンク・リヴァイヴァリストたちの隆盛があった。これはそのままガレージ・リヴァイヴァリストたちへのリアクション、批評である。ポスト・パンク自体がもともと非常に知的な動機を持っている。しかし、このようにメタな方法の追求はいずれ袋小路に陥る。
パンダ・ベアの滞留するビートは、そのように線的に進み続けなければならないという近代的なオブセッションを解除したのだ......というのは私見である。結果、インディ・ミュージック・シーンには自由さや新たな風通しが生まれ、2008年前後に大いに果実を実らせた。サウンド面でも、シャワーのように光降り注ぐサイケデリアや無国籍で土俗的な意匠は、ポップなフィールドではMGMTというスターを生み、ダーティ・プロジェクターズやギャング・ギャング・ダンスなどブルックリン周辺の実験主義者たちの存在を押し上げ、現実世界とのやわらかい遮断装置のような覚醒感あるドリーミー・サウンドはチルウェイヴを準備した。ディアハンターの体現するサイケ/シューゲイズもまさにこの盛り上がりの中で萌芽し、パンダ・ベアのソロに色濃いトロピカリアは、エル・グインチョやドードースのように陽気なサイケというヴァリエーションを生んだ。
またビーチ・ボーイズ=ブライアン・ウィルソンの血脈を宿した内省的できらきらとしたポップ・センスは、ザ・ドラムスやモーニング・ベンダースなどのヴィンテージなサーフ・ポップ・ルネッサンスにまで連なるといえる。
さて、今作についてみていこう。パンダ・ベアのソロとしては4作目となる。彼が率いた10年が終息し、前作は名盤として記憶され、作り手としてはひと息つくタイミングではあるだろう。やや地味で、パーソナルな印象に仕上がっている。"スワニー河"を思わせるアメリカン・トラッドなコーラスで幕を開ける冒頭"ユー・キャン・カウント・オン・ミー"。もちろんすべて彼自身の声である。
この『トムボーイ』では、先に述べたビートの問題とともに、彼の声の力にもあらためて感服した。アトラス・サウンドの『ロゴス』収録の"ウォークアバウト"でパンダ・ベアのヴォーカルがおもむろに聴こえてきたとき、そしてパンタ・デュ・プランスの『ブラック・ノイズ』に1曲参加していたのを聴いたことを思い出す。まったく関係のない街角で聞いても、彼の声はそれとわかるのではないだろうか。くっきりと輪郭のあるヴォーカルで、あたりの色を変えてしまうような強さがある。むやみな熱でもやたらなアイロニーでもない。その両者を通過しつつ、静かに明るくひらけている肯定感。力強いが決してマッチョにならないあのヴォーカルを表現するのには、そうした言葉しか思いつけない。そして深くリヴァーブのきいたサウンドには、サンプリングされた音の断片が、この世界を生きる様々な生命の情報のように溶かし込まれている。声の上でも一人称や時間性を超えてくる。というか、ヴォーカル/バック・トラックという二元論を超えていて、彼の声は彼のビートであり、時間感覚だ。
つづく表題曲"トムボーイ"は得意の8分の6拍子で展開する桃源郷サイケ・ポップ。パーカッシヴなギター・ストロークと脈のようなバスドラがひたすら心地よい。このループ感といい、養分の多いリヴァーブ感といい、そしてビームのように圧倒的な光量のヴォーカルといい、パンダ・ベアの粋ともいうべき曲である。ループが際立つのは"スロー・モーション"だ。スクラッチするように、とにかく進まない。主題の断片のみで出来上がっている。だがまったくストレスがなく、声の浮力で延々と気持ちいい。このままこの音楽の外へ出たくないと思わせる、逃避願望を誘う音だ。だが彼の音はそのことによって人を枯らしたり閉塞させもしない。"ドローン"でビートが消えたとき、彼の祈りが静かに浮かび上がってくる。パイプ・オルガンの、強弱も濃淡もない太く一定した響きに声が同調する、祝詞のようなトラックだ。幻夢のような世界だが、生きるエネルギーに満ちている。
以上はパンダ・ベアのおさらいというか、パンダ・ベアの100パーセント、これまでに知っている彼の音を馥郁とたのしめるパートである。異色トラックを指摘するなら"アルセイシャン・ダーン"、"シェエラザード"、"アフタ―バーナー"といった後半の数曲になるだろう。おおらかで、センチメントな起伏の少ない彼の作風に、このようにエモーショナルな切なさが現れるのは驚きである。
それはビートにも表れていて、"アルセイシャン・ダーン"は切迫感をもって前進する2拍子。独特の滞留感覚がない。"アフタ―バーナー"はボンゴやコンガをあしらいながらも16ビートで展開するトライバルなダンス・チューンで、これまた驚きだ。ベースもよく動き、やはり切迫感がある。ラストはループによって昂揚していくセクシーな構成。ループの中に安息と逃避を見出す彼のマナーを、大きく逸脱する曲である。"シェエラザード"は『キャンプファイア・ソングス』をピアノで作り直したような、古い引き出しを開けたアシッド・フォーク。いずれもパンダ・ベアの次のモードを占うものではなさそうだが、このアルバムが少し力の抜けた、クローズドな感覚をもった作品であることをしのばせる。いろいろと入っている。静かにアソートされている。私などのようにパンダ・ベア/アニマル・コレクティヴとロック史を振り返りながら随想するのもよいだろうし、イージーに聴くこともできるだろうし、しかし何度でも繰り返し聴くほどはまってしまうかもしれない。そういうアルバムだと思う。
文:橋元優歩
[[SplitPage]]少年っぽい性質を持った少女のポップス文:野田 努
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サイケデリック・ミュージックというのは、一応お題目としては、いま知覚しているこの現実が他の誰かの都合の良いように作られているある種の幻なのではないかという疑いと、そう思ったときの息苦しさから逃れるための音楽で、つまり倒錯しているのは現実のほうだと言っているような音楽で、だからそれがカウンター・カルチャーとなるのも筋が通っている。ところが、この10年、自分が聴いている音楽、欧米ではサイケデリック・ポップと呼ばれているアニマル・コレクティヴ以降のインディ・ロックにおけるサイケデリックとは、自分たちの現実と彼らの現実との接点で争う気配はない。それはある意味、とても小さな避難所となっている。そのことが伝統的なロックの物語を信仰する大人たちをいかに苛立たせ、もしくは同世代の音楽ファンからの批判に甘んじてきているかは、本サイトでずいぶんと書いてきた。だが、ヒップホップにしてもハードコア・パンクにしても、あるいはハウスにしても、社会的な機能の仕方としては大きさの差こそあれ同じように小さな避難所だ。釣り好きのお父さんがMCバトルに参加することはないし、音楽の多くが社会問題を扱っているわけでもない。
いち部の音楽ファンのアニマル・コレクティヴへの嫌悪は、30年前のディスコやハウスのそれと少しばかり似ている。クラスのなかでもっとも口数が少なく、弱々しかった子がマッチョになることなく、それまで大声で喋っている子たちよりも、どんどん共感を呼ぶようになってしまった。それがこの10年のUSインディ・ロックで起きたことだった。
だいたいアメリカのロックというのは、エルヴィス・プレスリーでもキャプテン・ビーフハートでもルー・リードでも、あるいはヒップホップでも、腕っ節が強そうか、あるいは口が達者な人たちが舞台に上がっているようなきらいがある。が、しかし、動物集団のパンダ・ベアというちゃんちゃらおかしな名前を冠した連中は、そうした人たちから嘲笑されてもおかしくないような、誤解を招きかねない喩えで恐縮だが、上の世代が捨てることのできないセックスと暴力の夢物語にうんざりした、いわば弱い子の代表のように思える。民主主義とはいえ、結局は口が達者で声がでかい人間がモノを言ってきた国において、アニマル・コレクティヴの、人前で威張ることのできない弱い子による綿菓子のようにやわらかい音楽は、強い大人が導いてきたその国の歴史にそもそも反している。9.11を目の当たりにした彼らは、もう強い人たちに世界をまかせていられないと思ったのだろう。ゆえにアニマル・コレクティヴがインターネットを通じてグランジとヒップホップしかないようなアメリカの田舎にまで影響を与えたというのは、実はパンク(カウンター)な出来事なのである。
僕がパンダ・ベアとアニマル・コレクティヴにもっとも興奮を覚えていたのはゼロ年代半ばちょい前くらいの『サング・トングス』や『キャンプファイア・ソングス』といった作品の頃なのだけれど、アニマル・コレクティヴにとっていまのところ最大のヒット作となっているのが2009年の『メリウェザー・ポスト・パヴィリオン』で、よく知られるようにあの作品が幅広く受けた伏線には2007年のパンダ・ベアのセカンド・ソロ・アルバム『パーソン・ピッチ』がある。実験的でありながらポップで、彼の長所が集約されたような、ずばぬけて美しいアルバムだった。そして『パーソン・ピッチ』は、同じ年のアニマル・コレクティヴの『ストロベリー・ジャム』よりも批評家受けした。パンダ・ベアとアニマル・コレクティヴは、数年前にいちど大きなクライマックスを迎えている。
それでも『トムボーイ』がまたしても注目されているのは、アニマル・コレクティヴが切り拓いて、『パーソン・ピッチ』がさらに拡大したと言えるシーンがいま大いに盛りあがっているからだ。ディアハンターをはじめビーチ・ハウスのようなドリーム・ポップ、ウォッシュト・アウトのようなチルウェイヴ、ベスト・コーストのようなビーチ・ポップ......、サイモン&ガーファンクルの再発をうながしたのもパンダ・ベア、すなわちノア・レノックスだろう。
"トムボーイ"というのは辞書では"お転婆娘"だが、パンダ・ベア本人の説明によれば「少年っぽい性質を持った少女」を指す言葉で、なるほど彼らしい主題と言える。音楽的に見れば、『パーソン・ピッチ』に顕著だったIDM的なエレクトロニクスの装飾性を剥ぎ取って、『トムボーイ』はメロディに重点を置いた、より歌を強調したアルバムになっている。それはピンク・フロイド時代のシド・バレットとブライアン・ウィルソンが合唱しているような音楽だ。そして、ある種の躁状態をロマンティックに描いた前作にくらべて『トムボーイ』にはメランコリーがあり、陰りがある。本人も「リスナーの顔を平手打ちしちゃうような音楽にしたかった」と言っている......が、そのわりには相変わらず彼の音楽は優しい感情に包まれている。とくに〈ファットキャット〉からシングル・リリースされた"ラスト・ナイト・アット・ザ・ジェティ"は絶品だと思うけれど、敢えて難癖をつけると、これは過去についての歌であり、メロディラインもレトロだ。パンダ・ベアは彼の実験精神と前向きさでリスナーを惹きつけてきたミュージシャンであり、ノスタルジーは似つかわしくない。
『パーソン・ピッチ』のような遊びがないぶん『トムボーイ』には少しばかり堅苦しい神聖さが漂っている。潔癖性なのはもとからだが、トゥ・マッチに感じる箇所があるのだ。アフリカのリズムを取り入れた"アフタ―バーナー"がその良い例で、パンダ・ベアの歌の過剰な叙情性がコンガによるリズミックな高まりを消してしまっている。ダブが好きだというわりには、音の空間を自分の声で埋めてしまうところに良くも悪くも彼の自信がうかがえるし、それがストイックさを忘れなかった『サング・トングス』との決定な違いである。極端に言えば、声ばかりが耳に残ってしまうのだ(逆に言えば、彼の声がただひたすら好きだという人にはたまらない作品でもある)。
これだけキャリアがあれば当たり前だが、"ドローン"のような曲は、自分のファンがいるという認識がなければ作れない曲だ。例えが古くて申し訳ないけれど、早い話、これはRCサクセションの"よォーこそ"のような曲だが(『SNOOZER』誌のインタヴュー記事参照)、それはそれとてティム・ヘッカーばりのトラックをバックに「いまの僕には君が見える」と繰り返すこれでは、あたかも森のなかでヨーダが演奏するエレクトロニカのようではないか......。
と、まあ、こんな風にぶつくさ文句を書いているようだけれど、たしかにパンダ・ベアとアニマル・コレクティヴはアメリカの音楽を変革した。そう、確実に。か弱い子供がか弱い子供たちだけで船を造って航海に出た。幸いなことに、僕もまだその船から降りたいとは思わない。
文:野田 努














































