「Dom」と一致するもの

James Ferraro - ele-king

 ベスト・バイは、日本で言えばヨドバシ・カメラやビック・カメラのようなアメリカの超巨大家電チェーン店だが、しかしそれは主として郊外にある。フォックス・スポーツはFOX社のスポーツ中継番組で、アメリカンフットボールをはじめ、メジャーリーグベースボールも放映している。昨年、〈オールド・スペリング・イングリッシュ・ビー〉からアナログ盤として再発された(オリジナルは2008年のカセット・リリース)ジェームズ・フェラーロの『ラスト・アメリカン・ヒーロー』のスリーヴ・アートは、ベスト・バイの鮮やかな発色の青と黄の看板の写真が使われている。裏側にはフォックス・スポーツのロゴ、そしてベスト・バイの駐車場に駐めてある車とロボットがコラージュされている。封入されたライナーノーツには、アメリカの郊外におけるスプロール化に関する記述、「表紙の写真は空虚な世界における現代のゴモラ寺院たるベスト・バイ・プラザ・センター」、ロボットについては「グーグル以降のデジタル・コロシアムにおける闘士」などという説明もある。

 今日のアメリカにおいて中産階級の貧困化は大きな社会問題のひとつとしてある。アメリカにある程度の時間滞在したことがある人にはわかる話だが、しかし日本における貧困とアメリカのそれとは違う。アメリカは、そのスプロール化と郊外の巨大なウォール・マート文化、その住宅事情だけを見たら、たとえば東京郊外のニュータウンや北関東の住宅地など何と説明すればいいのだろう、そもそもの国の豊かさの基準がどれほど違うのかという話でもある。
 『ラスト・アメリカン・ヒーロー』は、そうしたアメリカの郊外文化の豊かさと貧しさの両側をシニカルに描いている。作品からは、木々などの自然がところどころ部分的に残っているような、キレイに整備された広大な住居地域の、日本人(もしくはイギリス人)からしたら羨ましくなるような、それなりに広い一軒家のなかで、車で買ってきた1ガロンのマウンテンデューを冷蔵庫から取り出してアメフトに熱狂する母親、そしてその奥の部屋に閉じこもりっぱなしでPCに向かっている肥満体の青年を思わず想像してしまう。
 だいたいフェラーロの異常な数のリリース(2008年で7作、2010年は18作のアルバム)をdiscogsを見ながら数えていると、彼自身が手に負えないオタクなのではないかと思えてくる。彼のポートレイトを見ると、名前の通りラテン系顔の、70年代のディスコから飛び出してきたように見える。

 『ファー・サイド・ヴァーチュアル(仮想の向こう側)』は、しかし2011年に彼が発表する唯一のソロ・アルバムである。1枚、彼はダニエル・ロパーティン(OPN)らとの共同作品を出しているが、ソロ作品は2010年末の『ナイト・ドールズ・ウィズ・ヘアスプレー』以来となるようだ。
 前作ではMTV的な消費文化としてのアメリカン・ポップを主題としていたが、この新しいアルバムで彼は、アートワークが暗示するように、タッチスクリーンが表象するある種の快適さを扱っている。ゆえに楽曲は、まるで嘘のようにポップで、キャッチーで、わざとらしいほど心地よい。"あなたのマックが眠っているあいだのスターバックス、スジズム博士"、"ヤシの木、Wi-Fiと理想の寿司"、"グーグル詩集"、"グローバルな昼食"、"リンデンドル"(有名な仮想貨幣ですね)......ずいぶんと興味深い曲名が並んでいる。作り方はほとんどOPNと同じだと思われるが、展開される音楽は別だ。1980年代の映画『コヤニスカッツィ/平衡を失った世界』におけるフィリップ・グラスと比肩される今作だが、フェラーロはデジタル時代の病的なまでの快適さを実に巧妙に描いている。繰り返すようだが、やけに軽快なのだ。デジタル時代のマーティン・デニーのように、そう、最後の2曲、"分譲マンションのペットたち"の暗さ、そして"太陽光発電の微笑み"の微妙な曲調を除けば。

Chart by UNION 2011.12.05 - ele-king

Shop Chart


1

PINCH & SHACKLETON

PINCH & SHACKLETON Pinch & Shackleton HONEST JONS / UK »COMMENT GET MUSIC
2011年下半期最大級の問題作!! TECTONICの首領・PINCHとダブステップ・シーンの異端児SHACKLETONとのコラボレーション!!!2011年前半にリリースがアナウンスされ大きな反響を巻き起こしていたPINCHとSHACKLETONのコラボレーション・アルバムが遂に、遂に登場!! ブリストルにて自身のレーベル・TECTONICを運営しつつ、PLANET MUやPUNCH DRUNK、DEEP MEDIなど主要レーベルからも精力的にシングルを切る実力者PINCHと、拡張を続けるシーンにおいてなお孤高の存在であり続ける奇才SHACKLETONが創出した異次元の音響空間がここに!! 生々しいパーカッションと不穏なドローンが覚醒感たっぷりのM-2、重々しいベースライン上で女性のヴォイス・サンプルが奇妙にに変調していくM-5など、どこを切っても濃厚すぎるトラックばかり!!まさにこれこそがダブステップの正当なる進化を体現した真にアンダーグラウンドな作品、シーンの歴史に鋭利な爪跡を残す怪作の誕生です!!

2

VAKULA

VAKULA Leleka001 LELEKA / UK »COMMENT GET MUSIC
限定500枚プレス、ハンドスタンプ仕様の180グラム重量盤!!デトロイト/シカゴのアイデンティティーを昇華/消化した初期衝動的な6トラックを収録した注目の1枚!!別名義VEDOMIR、3RD STRIKEからリリースされた"Saturday"のリミックス12"を控えるシーンの中でも突出した実力者VAKULAがセルフレーベルLELEKAのファーストリリースに登場!!

3

NO BOUNDARIES

NO BOUNDARIES Modular Pursuits (Daphni Remixes) PLANET E / US »COMMENT GET MUSIC
DAPHNI (CARIBOU/MANITOBA)リミックス!!! 昨年突如リリース、モジュラー・シンセの発信音のみで収録&構成されたアルバムが話題となったCARL CRAIGのプロジェクト・NO BOUNDARIESのトラックを、LEAF~DOMINO等でお馴染みの鬼才・CARIBOU/MANITOBAの別プロジェクト・DAPHNIが2バージョン・リミックス!!! 軽くバウンスするボトムに細かく刻むハット、そこへ発信音やヒプノなシンセ、ヴォイス&ボーカル・サンプル、時にヘビー&ヒステリックに打ち付けるパーカッション等、様々な音の欠片が時に過度なボリュームの強弱をつけ次から次へと飛び交っては変容、ズブズブに引き込んでいく圧巻の2ミックス。

4

TOFU PRODUCTIONS

TOFU PRODUCTIONS Trabalhador SUNDANCE / GER »COMMENT GET MUSIC
THOMAS MELCHIOR & FUMIYA TANAKAによるニュー・プロジェクト・TOFU PRODUCTIONSリリース第一弾!! これまでもRICARDO VILLALOBOSやJOHN THOMAS等、ミニマル・シーン注目のコラボレートでも話題を集めてきたFUMIYA TANAKAが、主宰SUNDANCEレーベルよりPERLONやSMALLVILLE、LUCIANOの共作等で知られるTHOMAS MELCHIORとの新プロジェクト・TOFU PRODUCTIONSのデビュー・シングルをドロップ。少ない音数の隙間から生み出される絶妙なグルーヴとブラック&ジャズ・フィーリング溢れるサンプル使いがたまらなくファンキーな仕上がりです!!

5

FLOATING POINTS

FLOATING POINTS Shadows EGLO / UK »COMMENT GET MUSIC
セルフレーベルEGLOからFLOATING POINTSによる2枚組12"がリリース!!リリースの度に即売れが続くUK発EGLOの22番は主宰者FLOATING POINTSの新作12"!!デトロイト・マナーなシンセトラックから、ダブステップ、エレクトロニカ的な音響など、これまでにも増してそのレンジの広い才能を発揮した5トラック収録の2枚組!!

6

ONUR ENGIN

ONUR ENGIN Sweet Power/Summer Madness GAMM / SWE »COMMENT GET MUSIC
ホワイトでリリースされた「Onur Engin Edits Vol. 5」収録の山下達郎"Love Talkin' (Honey It's You)"のリエディットが注目される中、ONUR ENGINがスウェーデンのGAMMレーベルから再登場!!A-サイドにはJAMES MASON"Sweet Power"を、KOOL & GANG"Summer Madness"をビートダウン仕様にエディット/アレンジしたB-サイドと2トラックを収録した1枚。

7

MIKE HUCKABY

MIKE HUCKABY Tresor Records 20th Anniversary (国内仕様盤) TRESOR / JPN »COMMENT GET MUSIC
SURGEON!JOEY BELTRAM!DREXCIYA!クラシック満載!!!!!ベルリンで20年以上の歴史を誇り、数々の傑作を残すドイツはベルリンの老舗レーベル・TRESORの20周年を記念した超強力オフィシャル・ミックスCD。本CDのミックスではなんとデトロイト・ミュージック・シーンに於いて欠かせない存在として長きにわたり活躍してきたベテランDJ/プロデューサー、MIKE HUCKABYをフィーチャー。これまで幾度もクラブTRESORに出演してきた彼ですが、TRESORレーベルからのリリースは本作が初。全22曲でまとめられたそのトラック・リストは冒頭のSURGEONからROBERT HOOD、BAM BAM、JEFF MILLS、BELTRAM、DREXCIYAまでお馴染みのトレゾア・ファミリーの名作/代表作に加え、"The Tresor Track"と題されたMIKEによる未発表トラックも。

8

RROSE

RROSE Merchant Of Salt SANDWELL DISTRICT / UK »COMMENT GET MUSIC
UKインダストリアル~アンダーグラウンド・ミニマルの最深部・SANDWELL DISTRICT新作に16番でも変態度満点のドープ・テクノ・チューンを鳴らし大きなインパクトを残したあのRROSEが2度目の登場 !!!! 唸りをあげてドライブするビッキビキのマッシヴ・テクノ・ビートが兎に角ヤバい圧倒的な内容でドープ&ドラッギー全搭載といった様相の超強力な1枚です。マスト!!!!!

9

NINA KRAVIZ

NINA KRAVIZ Ghetto Kraviz REKIDS / UK »COMMENT GET MUSIC
ジャケットからしてTRAXイズム丸出しのRADIO SLAVE主宰・REKIDS新作。そのジャケが指し示す通りオールド・スクール・シカゴ/ゲットーテイストなトラックを搭載していますが、これを手がけるのはこのREKIDSは勿論、DJ JUS-EDのUQやEFDEMINのNAIF等、毎度強烈なレーベルからリリースを重ねているロシア出身の才女・NINA KRAVIZ。スッカスカのトラックの隙間をグルーヴさせますが、けだるげな女性ヴォイスで構成されたループは往年のシカゴ・ルーツものよりグッとクールな印象でそこがまた独自の世界を作り出しています。

10

TROPICS OF CANCER

TROPICS OF CANCER End Of All Things DOWNWARDS / UK »COMMENT GET MUSIC
REGIS主宰・UKアンダーグラウンド・レーベルDOWNWARDSを拠点にBLACKEST EVER BLACK等からのリリースでもその異色のノイジー&アヴァンギャルド/ダブなサウンドで圧倒的な存在感を示すSANDWELL DISTRICT一派・SILENT SERVANT=JOHN MENDEZがパートナーCAMELLA LOBOと組む漆黒のゴシック~ノイズ/ダブ・オルタナ・デュオ、TROPIC OF CANCERが遂にリリースした7曲入りデビュー・アルバム。

Thee oh sees, total control, doomsday student, the beets
@285 kent ave
Nov.17.2011


Thee Oh Sees
Carrion Crawler / Dream
In the Red Records

AmazoniTunes

 チケットはソールドアウトだし、最初はとくに乗り気でなかったというのに、午後10時ぐらいになると私は会場に向かっていた。会場に着くと、いちど入場して、そしてスタンプをもらった人までもが再入場できなくなっている。ドアの兄さんは、暴動が起こる寸前のようにみんなから文句の攻撃を浴びさせられていて、かなりかわいそうだった。いずれにしてもかなり大変な状態なのだろう。
 仕方なく、私は隣の会場のグラスランズでひと休みする。このふたつの会場は隣合わせで私はよく行ったり来たりしている。
 そこでのライヴを見いつつ15分ぐらいが経って、もういちどトライしようと外にでる。するとドア付近で怒っていたかたまりが、いち列にきちんと並んでオーガナイズされているで。少しずつ列は動いているようだ。罵声を浴びさせていたキッズのひとりは、入るときに「さっきは怒鳴ったりしてごめん」とお兄さんに謝っている。よく見ると、その日のオーガナイザーのトッドPが入場を規制している。さすがだなと思っていると、彼はウィンクしながら私をこっそり裏から入れてくれた。

 場内はサウナかと思うほどの熱気だった。何も見えないので、とりあえず頑張っていちばん前に行こうする。が、人が多すぎて動けない。
 すると場内をウロウロしているトッドPがいたので、彼の背中についてなんとか最前列まで行けた。そしてトータル・コントールの最後の演奏がが少し見れた。
 というか、この状態でひとつのバンドの演奏が保つのだろうかと思うぐらい場内は息苦しい。そして案の定、ジ・オー・シーズ(Thee Oh Sees)がはじまった瞬間には集団は大揺れに揺れ、スピーカーは倒れ、人が上から降って来る。危険な状態だ。私はなんとか壁際に移動する。それでも人がどんどん攻撃的にぶつかってくる。後方を見ても大変な数の人だ。ライトニング・ボルトの観客と同じようなタイプだが、もう少し若いし、圧倒的に男が多い。

 ジ・オー・シーズ(theeohsees.com)は、最近(5月ぐらい)新メンバーとしてインテリジェンスのラーズ・フィンバーグを迎え、5ピースになった。ニューアルバム『Carrion Crawler/ The Dream』も11月15日に〈In the Red〉から、リリースされたばかりだ。マーチ(物販)テーブルには、そのリリース以外にシルクスクリーンのツアー・ポスター($20)、ゲロをはいてる(?)ジ・オー・シーズのキャラのイエローとブラックTシャツ($15)、ライトに照らされたその先には、そのスマイル・キャラが浮かび上がっている。たしかすべてJPDのデザイン。ディテールは細かく、しかも可愛いので、思わず買ってしまう。

Photos by Eric Phipps for Impose Magazine
https://www.imposemagazine.com/photos/thee-oh-sees-at-285-kent

 ジ・オー・シーズの楽曲自体はそれほど攻撃的というわけではないのだが、どうしてキッズはこんなにエキサイトしているんだろう。トッドPは「何かあれば、すぐに音楽はストップする」とアナウンスしている。そのあいだにも暴れすぎているキッズを横目に、いまにも倒れそうな大型スピーカーを必死になって抑えているキッズがいる。ステージのJPDはあまりにもフロアがキチキチなので、「あがって来いよ」とキッズを煽っている。
 そしてステージはキッズで溢れ、これって逆ライトニング・ボルト? と思わず笑ってしまう。しかしたしかに、フロアの威圧感が少々マシになった。JPDはステージから「ビールないかな?」と言っている。ステージからバーまでは、人が多すぎてまず行き来できそうにない。
 いよいよスピーカーの音が出なくなった。しばらくその状態で演奏していると、手にビールを持ったトッドPがステージに颯爽と現れる。そして大急ぎでスピーカーの抜けたコードを探して、無事に音を戻す。フロアからは大声援だ。彼こそはインディー救世主。ジャンクヤード、クイーンズの端のダイブバー、工場スペース、冷蔵庫屋......どこでも普通にショーをオーガナイズしている。

 7~8曲目で私は、暑さと危険感で外に出た。人を掻き分けて外へ出るのに余裕で5分かかった。外ではまだ人が待っている。そしてまだ人が入ってきている。物販をもういちど見に行こうとしても、そのまわりで踊っているキッズ達がいて、テーブルにも近寄れない。どういうことだ!

 とにかく、ふたたび最前列には戻れない。隣のグラスランズに移動する。そこのスタッフたちとしばらくハングアウトしていると、トッドPが現れ、「キッズたちがナッツ(気が狂ってる)になってるの見たい?」と言う。
 私は彼のあとについていく。道を回ってこう行くとここに出るのねと、285 kent aveのステージの真裏に来た。たしかにキッズが大暴れの真っ最中だ。ハラハラと、気が気でなかっただろう彼の顔にもやっと笑顔が見えていた。
 ジ・オー・シーズのショーは何回も見ている。新しいとは思わないのだが、いつも見たくなる。彼らがニューヨークにいると聞くと、憑かれたようにショーにきている。今回何度も名前を出しているが、ライトニング・ボルトと同じように、何か大きな魅力がある。ちなみに彼らは同じ時期のRISD(ロード・アイランド・スクール・オブ・デザイン)出身。私は10年ほど前の同じ日に、偶然彼らに出会った。比べたくなくてもつい比べてしまう。この話は機会があればぜひ。

 翌日(nov.18)はマンハッタンのル・ポワソン・ルージュでのショーだ。そして、それを終えると彼らは北へ向かう。今回のツアーは(w/トータル・コントロール、)11月4の日オースティンのファン・ファン・ファン・フェストを皮ぎりに、サウスを東へ、イーストコーストを北へ、ミッドウエストを通り、西海岸に戻るという丸1ヶ月強のツアー。サンクスギビング・デーはさすがに休んだそうだが、その前日(シカゴ、ダブルショー)も次の日(ローレンス)も演奏している。ジ・オー・シーズはほとんどツアーが生活である。1年に3~4回はツアーをしている。それがジ・オー・シーズというバンドなのだ。

Simi Lab - ele-king

「アンダーグラウンドのままでいよう。どうせ、ブロンクス以外でこんなものを聞きたがる奴なんていないんだから」(グランドマスター・フラッシュ)

 だが......ヒップホップは世界中に拡がった。どんなにヒップホップを嫌悪する人間でさえ、『Arular』(M.I.A.、2005)が世に問われる頃には、その普及度を認めずにはいられなかった。たかだか30年の歴史ではあるが、サンプリング・ビートという特殊な構造を持つこの音楽は、理論的には無限のトラックを生み出すことが可能であり、また、この音楽特有のラップという手法も、あらゆる隙間を流れ、R&Bやロック、ポップスといったジャンルの半径を拡張させている。それは、ジャンル間での交流・交通を流動的に促し、ヒップホップそれ自体をも変えていった。もはや、それはヒップホップと呼べない、呼ぶべきではない、という声もある。しかし、カニエ・ウェストとジェイ-Zがビルボードの頂上からヒップホップのチャンピオンシップを宣言するような現在、それでもなお、変わっていく変わらないもの(changing same)がこの文化にはあり、すなわち、「優れたヒップホップは必ずアンダーグラウンドからやって来る」、ということだ。

 そう、『ヒップホップはアメリカを変えたか?』(菊池訳、2008)の序盤で、この音楽の持つ種々の潜在性を軽視していた言葉として強調されている冒頭の、フラッシュによる自虐的なフレーズは、いまや、ヒップホップの持つべき矜恃をむしろ代弁している。あるいは、『いるべき場所』(ECD、2007)を思い出してもいい。この音楽にはこの音楽に相応しい場所があるのだ。しばしば、それが「どこからやって来たか」が、音楽以上に評価を決めることもある。この国のドメスティック・ラップは、商業的な規模にはいまだ恵まれていないが、そうした意味で、シーンのルールが一夜にしてひっくり返る、そうした可能性を孕んだ文化なのだ。具体的には、YouTube、SNSが音楽伝播の補助インフラとして機能する現在、王が城で高いびきをかく夜に、伏兵がひとつの鮮烈な動画を世界に問いかけ、一晩でシーンのルールを変えてしまうこともあり得る。"WALKMAN"(2009)は、いち部ではそのようなざわめきとともに迎えられた。

 以降、準備は着実に進められてきており、じらすようにして各所で発表されたSIMI LABの断片は、すでに収集困難になりつつある。また、クルーの核となるQN(a.k.a Earth No Mad)は、各所でのインタヴューによればヒップホップ・クラシックに限らず広い射程で音楽を聴くというし、何人かの異なる趣向を持つビート・メイカーを抱えているわけだから、SIMI LAB名義でのアルバムがどのような内容になるのか、想像し難かった。が、結果から言えば、本作『Page 1 : ANATOMY OF INSANE』はどちらかと言えばこれまでの「伏線回収」の観が強く、個人的には『The W』(Wu-Tang Clan、2000)を思い出すなど、ひとまずはヒップホップの面子を立てた作品となった。Hi'Specによる、ハスラー・ラップばりに高圧的なトラックの上で堂々とマイクを回すクラシック・スタイルの"Show Off"が、それを象徴している。

 思えば、アメリカのローカル・ミュージックが複雑な変換を伴って受容されるに際して、この国のドメスティック・ラップは様々な歪み、膿、しがらみを抱え込んできた。不毛な内紛もあった。また、先人らの奮闘の甲斐あり、90年代のうちに「何語でラップするか」という段階を越え、USのシーンとの時差を一挙に減らしながら、ゼロ年代には「何をラップするか」という次元に突入しつつも、結局、新しい季節に「何をラップするか」で再び躓いた。SIMI LABはいま、この国で日本語を使ってラップすることの不自由さをまったく感じさせない。むしろ、日本語と英語のあいだを自由にフロウしつつ、意味性に囚われることなく無意味性をも避け、武装よりは内省を好む彼らのラップは、絶妙なバランスの上でラップ本来の軽やかさを取り戻しているようでもある。また、ネット・ネイティヴなのだろう、YouTube、Twitterなどの拡散力を巧みに利用しつつも、隠すべきものは隠しており、Googleでどう検索をかけても、SIMI LABの全貌は見えない。彼ら・彼女らのそうした自由な振る舞いを見ていると、この国のドメスティック・ラップが新しい季節を通過していることがわかる。

 正直、アルバムとしてはいささかムラのある仕上がりとなった。個人的には、QNにもう少し出しゃばりを期待していたが、それを含めてもやはり、SIMI LABはいずれの固有性をも拒絶し、物語性を排除することでアンダーグラウンドの掟を守ったのであり、敬意を込めて言えば、この音楽を好む人はまだ少ないだろう。にも関わらず、SIMI LABの周辺がにわかに騒がしくなってきた。そう、あらゆるジャンルにおいて、既存の価値観を問い直すような表現は、喝采ではなく常にざわめきとともに迎えられる。前例なきメンバー構成が成す魅力的なヴィジュアル・イメージも、極めてクールだ。このざわめきが聴こえるだろうか? プレスされたような息苦しいアンビエンス、不穏な金属音、淡々と進行するビート、各々のメランコリアを内破するような堂々たるマイク・リレー、いまの閉塞感に対するアンサーのようにもなったアンダーグラウンド・クラシック"The Blues"(pro by OMSB'Eats)は、この先もっと多くの聴き手にこのざわめきを届けるだろう。

Qluster - ele-king

Kではじまるクラスターからコンラッド・シュニッツラーが抜けてCではじまるクラスターになり、さらにメビウスの代わりにオンネン・ボックが参加してQではじまるクラスターに。あはは。ボックはレデリウスがメタル・ボウルなどの演奏で参加していたクリスチャン・キュービック(裏アンビエントP102)の人脈からフック・アップされたようで、ツァイトクラッツァー・アンサンブルの一員として活動するサウンド・インスタレイションの若手。

CとQは並行して活動を続けるらしく、それはつまり、レデリウスから溢れ出る創作意欲をメビウスだけでは受け止めきれないということなのか、いずれにしろレデリウスとクリント・イーストウッドはいまや暴走老人の域に達していることはたしか。2011年にレデリウス・ミュージックから配信されたコラボレイションの数は......とにかく多い(ちなみに寡作とはいえ、09年にリリースされたメビウスのソロ作『クラム』の評価もかなりのもの)。

Qではじまるクラスターも、デビュー作『フラーゲン』は東日本大震災の直後にリリースされ、年内にはライヴ・アルバム『ルーフェン』も間に合うというハイ・ペースぶり。モーガン・フィッシャーとのジョイント・アルバム『ネヴァーレス』や、とくにティム・ストーリーとの『インランディッシュ』で印象付けられたように、ここ数年、ニュー・エイジ色が強くなっていたレデリウスの嗜好をそのまま反映していたスタジオ作に対し、ライヴ・ワークでは緊張感を増した実験性が回復し、完成度では圧倒的にこちらを取りたい。あるいはニュー・エイジとサウンド・インスタレイションは、つい最近までは似ても似つかぬものだったのに、アンビエントという概念によってそれらは奇妙な融合を成し遂げ、低俗とアカデミズムはあっさりと横断されていくと聴くこともできるか。一部でミュージック・コンクレートとイージー・リスニングの境界が失われつつあるように、ロマンとアンチ・ロマンがせめぎ合うというのが時代の要請なのだろう(?)。

ニュー・エイジというキーワードの復活にはOPNもひと役買っているところがあるとは思うけれど、2011年のみならずアンビエント・ミュージック全体でもベスト10内には必ず入ってしまうに違いないアリオ・ダイ&ツァイトの3作目『イル・ジャルディーノ・エルメノイティコ(解釈学的庭)』から半年ほど後にリリースされたダイのソロ18作目にもニュー・エイジとの危ない橋を渡ろうとする傾向は聴き取れる。ツァイトとのコラボレイションでは華やかで明るく、人生への祝福に満ちたファンタジーが基調をなしていたのに対し、『ハニーサックル』では同じように慈しみと類まれなる穏やかさを感じさせながら、どこかに抑制された情念や漠然とした不安を潜ませている。「悪い予感のかけら」とでもいうのだろうか、作風の落ち着かない人なので、近作との関連性や反動といったものから生まれたものではないと思うものの、『イル・ジャルディーノ・エルメノイティコ』ほど誰彼にでも薦めたいものではなく、この感じが必要な人に上手く伝わればいいなと思うだけである(こんな書き方ではとても無理だろうけれど......)。

HOW TO DRESS WELL来日 - ele-king

 ハウ・トゥ・ドレス・ウェル......、これは穴馬、ダークホースですよ。〈トライ・アングル〉というレーベルは、oOoOOをはじめ、ハウ・トゥ・ドレス・ウェル、ホリー・アザーといった怪しげな連中の作品をリリース、いわゆるダークウェイヴ/ウィッチハウスの発火点となっている。ハウ・トゥ・ドレス・ウェルの音楽は、たとえるならサイケデリックな幽霊屋敷のR&B、嗚咽のような、すすり泣くダークウェイヴ/ウィッチ・ハウス。彼のアルバム『ラヴ・リメイン』は、恐ろしい作品である。
 そしてアクティヴ・チャイルド、チルウェイヴ/シンセ・ポップの現在ですね。今年はファースト・アルバム『ユー・アー・オール・アイ・シー』もリリースされました。もうこの人は、歌が素晴らしいです。アクティヴ・チャイルドの登場とともにソフト・セルやアソシエイツの中古もいっきに品薄になりました。
 そんなわけで、12月12日は代官山 UNITに現実逃避してください。

12/12(月) 代官山 UNIT
OPEN 18:00 / START 19:00 ¥4,500(前売/1ドリンク別途)

INFORMATION:
03-3444-6751 (SMASH), 03-5459-8630 (UNIT)
smash-jpn.com smash-mobile.com www.unit-tokyo.com
チケット発売中!
ぴあ (P: 152-493), ローソン (L: 75255), e+ (eplus.jp), UNIT, 岩盤

企画制作:root & branch
協力:ART UNION CORPORATION/PLANCHA, ULTRA-VYBE

続報:ウォール街デモ - ele-king

Nov.24 (thu) thanksgiving & Occupy Wall Street

 11月24日はサンクス・ギヴィング・ディ(11月の第4木曜日)。アメリカではいちばん大きなホリディ。クリスマスよりもサンクス・ギヴィング・ディに、みんな家族の元へ帰る。街はひっそり静まり返り、ニューヨークはゴースト・タウン化する。私の友だちはアパートのビルのなかで残っているのは私だけと嘆いている......。
 この日は、家族や友だちでディナー・パーティを催す日で、ターキーの丸焼き、グレイビーソース、クランベリーソース、マッシュポテト、スタッフィング、コーンブレッド、温野菜、パンプキンパイなどなど、食べ物に溢れる、別名「ターキー・ディ」、とも呼ばれるくらいだ。実際、スーパーに買い出しに行くと、ターキーとじゃがいものコーナーは売り切れ。

 私は今年は居残り組。昨日も街に出てみたが、ひっそりとしていたし、今日も寂しい感じだろうと諦め半分でウォール街に繰り出した。なによりも、先日インタヴューしたグレッグ・フォックスが語っていたウォール街のデモの中心地をこの目でたしかめたかったというのがある。
 デモ(座り込み占拠)の中心となったズコッティ・パークは、11月14日の夜中(11/15の早朝)に警官によるデモ参加者の強制排除で200人以上が逮捕された。いちじ騒然とし、私たちのまわりのミュージシャンからも「いまウォール街で撤去作業が行われている!」などというツイッターが随時アップデートされた。(ちょうどインタヴューした、グレッグ・フォックスの翻訳が一段落したところだっ。)
 今週月曜日(11/21、強制排除から一週間後)には、グレッグ・フォックスも経営に携わるブルックリンのシェア・スタジアムで、テッド・レオ、チータス・アンドロニカス、ソ・ソ・グロスのウォール街デモをサポートするベネフィットショーが開かれた。
 壁にはOWS(ウォール街を占拠せよ)の文字が描かれ、バンドも観客も大いに盛り上がっていた。チータスの最後のほうのセットで、誰かがドリンキング・ソングをリクエストする。チータスは、「これはドリンキングでなく、公正の歌」と言ってザ・クラッシュで有名な"I Fought the Law"をカヴァーしたあと、テッドレオとソ・ソ・グロスのヴォーカリスト、アレックス・ディバインをステージに呼んで、こんどはビリー・ブラックの"To Have and To Have Not"をカヴァーする。この曲のコーラスは、「Just because you're better than me(だって君は君は僕より良い)/ Doesn't mean I'm lazy(僕が怠け者という意味ではなく)/ Just because you're going forwards(だって君は前に進んでる)/ Doesn't mean I'm going backwards(僕が後退しているっていう意味ではなく)」というものである。

 話を今日に戻す。ウォール街の駅を降りると、すぐ横のトリニティ教会がある。それを左手にブロードウェイを北に上がると、2ブロックほど先に、ズコッティ・パークが見えてくる。強制排除と聞いていたのでガラーンとしているのかなと思いきや、意外にも人がたくさんいた。もちろん警察も大勢いるけど、その公園だけがわやわやしている。なかに入ろうとすると可愛らしい女の子に「お腹減ってる? 今日はサンクス・ギヴィング・フードを無料でサーブしてるの。ターキーがいい? ヴェジタリアンがいい?」と聞かれる。見れば、たくさんの人がフードラインに並んでいる。「thanksgiving line dinner start here(サンクス・ギビングのディナーの列はここからスタート)」というサインを持った男の人がせっせと列の整頓をしている。レストランや個人サポーターの協力により、5000人分を用意したらしい。私はもちろんターキーをリクエスト。「エンジョイ!」ときびきび働く元気の良い彼女。その横では、「nirvana positively pure 」というブランドの水もサーヴしていた。
 ここで働いている人はみんなボランティア。サンクス・ギヴィングらしいことがここでできるとはまったく想像していなかったので、なんだか得した気分になった。メーシーズのサンクス・ギヴィングパレードにいくよりもサンクスギヴィングが味わえるかも。
 公園のなかにはいると人びとが思い思いに、メッセージをいれたプラカードを掲げている。物を作って置いていたり、リーディングをしていたり、アコースティック・ライヴをしていたり、遊園地みたいになっている。リーダーというか中心になる人がいないので、どこに行って良いのかもわからず、横ではすでに誰かが警察官と言い合いになっている。誰かが逮捕されていたり、かなりカオス状態だ。カメラやマイクを持った報道陣も多く、まだまだ動きの真っ只なかなんだなと感じる。
 私はせっかくなので、そこに座って、サーブしてもらったサンクス・ギビング・ディナーを食べてみた。ターキー(w/クランベリーソース、グレイヴィー)、マッシュド・ポテト、マッシュド・パンプキン、ブレッドが入っていて、きちんとしていた。
 しばらく音楽を聞いたり、人びとと交流したり、様子を見ていたが、ヒッピーの聖地のような、すでに観光地のようにもなっている。この動きがどの方向に行くのかは人びとがひとつになって、どのようにこの困難な金融問題/貧困問題に立ち向かうのかにかかっている。時間も経っているし、そこにいるだけでなく何か具体的な、目に見える動きが必要だろう。それがないことには、このカオス状態はこのまま続くと思う。
 その日は私たちのまわりのインディ・バンドたちはいなかったが、このあいだにウォール街のデモをサポートするミュージシャンのリストも増えてきているし、インディ・ミュージック・リスナーのなかでは今日のアメリカが抱えた金融問題、経済格差の問題への関心は高まっている。

 11月29日には、ユニオンプールという会場で、ライアン・ソウヤー(トール・ファー、スタビング・イーストワードw/Tunde of TVOTR )、GDFX、サイティングスのショーがある。これもこの動きに何かを訴えるショーになる。人びとが未来のためにひとつになることを強く認識したとき、まだ混沌としているウォール街デモの動きにも光が見えるのかもしれない。

The Field - ele-king

 進んでも進んでも気がつけば同じ場所に戻っている。ザ・フィールドの音楽は一言で言えばそれである。
 反復という手法はもちろんダンス・ミュージックの基本だが、それがリズムやフレーズの徹底したループという意図的なものになると、それはもはやひとつの表現形態で、大げさに言えば人間が生きることのアナロジーになり得ると思う。永劫回帰とか輪廻転生とか大それたことでなくても、寝て起きて、ほとんど同じような毎日を繰り返し続ける生活のことを「リズム」だと呼ぶ感覚を言い当てているのではないだろうか。ほかの反復音楽を聴いていてもそんな風にはあまり思わないのだが、ザ・フィールドの音楽の叙情性、というか「ヒューマンな」感触はなぜだか僕にそんなことを思わせる。そしてそれは、ダンスフロアやベッドルームなどの特定の場所ではなく、もっと日常の生活に近いところにある。
 あるいは僕の場合、ループという言葉を聞くとごく初期の任天堂のマリオのゲームを思い出す。正しいルートを選ばないと同じ地形を延々と繰り返す単純なトラップにループと名前がつけられていたのだ。そしてそこで、僕は敢えて間違ったルートを選んで遊んでいた記憶がある。するとテレビに映るのは延々と同じ画面の流れの繰り返しで、それはいまにして思えばある意味サイケデリックな体験だったと言えよう。

 本作のタイトルの「ループする精神状態」は、そんな不毛さと快感に同時にはっきりと言及する。ザ・フィールドはループそのものをコンセプトとして意識的に掲げたアクセル・ウィルナーによるプロジェクトであり、無地のクリーム色を背景にアーティスト名とタイトルだけが簡素に記されたジャケットが3作続けられたことにも表れているように、ミニマリズムをその美学としている――のだが、ミニマル・テクノと呼ぶにはどこか、そこからはみ出すニュアンスをつねに孕んでいる。それは例えばタイミング的にもネオゲイザー勢とシンクロしたシューゲイジングな味付けであったり、音の丸い輪郭による柔らかい質感であったり、上モノのメロディが持つセンチメントだったりするのだが、作を重ねるごとにそうした細部により神経を使っていることがわかる。ループという「効用」があるとして、それをフィジカルなものとしてよりもメンタル面にいかに作用させるか、にウィルナーは関心を抱いているのではないだろうか。ザ・フィールドの音楽の手触りはいつも、機械の冷たさではなくどこか体温を感じさせるものである。
 この3枚目に顕著なのは何よりも生音のドラムとベースであり、それらによる僅かなエディットのズレやリズムの揺れ、有機的なグルーヴである。基本的に拍は4/4を刻みながらも、裏の拍にビートが入ったりリズムが微妙にシンコペートしたりする複雑さも実は張り巡らされている。半音階がやたら入ってくるシンセの和音。それらによって醸されているエモーションもまた、上り詰めもせず沈み込みもしない単純に喜怒哀楽に分けることのできないもので、デビュー作『フロム・ヒア・ウィ・ゴー・サブライム』においてわかりやすいブレイクやフランジャーで演出された高揚感を思えば、反復が持つ可能性のより奥へと分け入ることに成功していると言えるだろう。
 もちろん、ザ・フィールドのひたすら繰り返される音楽のなかにも様々な展開は用意されている。オープニングの"イズ・ディス・パワー"では順序良くドラムが入り、ベースが入り、そして6分ほど経ったところでようやくがらっと風景を変える得意のテクニックを使ってオープニングをソツなく演出しているし、"バーンド・アウト"では途中でやたらメロウな歌が入ってきたりする。そう言えば前作『イエスタデイ&トゥデイ』ではコーギスのカヴァーを唐突にしていたが、それよりも遥かに自然なやり方で歌を自分の音楽に溶け込ませている。ただ、「アルペジオされる愛」と洒落たタイトルがつけられた"アルペジエイティッド・ラヴ"で10分同じフレーズを繰り返しながら次第にギターのノイズが降り注いでくるときの渦巻くようなサイケデリアや、タイトル・トラックにおいてやはり10分かける反復のなかで細かい電子音のフレーズを差し込んでくる周到な快楽への誘いこそが、本作の聴きどころでありザ・フィールドの真骨頂だろう。基本的なやり方は変えずとも、ウィルナーは高揚よりも陶酔の方に向かっている。ラスト・トラック"スウィート・スロー・ベイビー"のやたらに崩した奇妙なリズムだけは新しい手法に貪欲に挑んでいると言えるが、通して言えばザ・フィールドというコンセプトの着地点がこのアルバムだろう。

 そして、それは徹底して心地良いものとしてある。作り手によって意図的になされたループを通してそれが達成されるならば、それは不毛な繰り返しであるかもしれない生活を緩やかに肯定し、そこに寄り添うものとなるだろう。同じところをぐるぐる回っているようでも、ひょっとすれば螺旋状に上昇はしているかもしれない。生きることには「リズム」が欠かせないのだと、そのサイケデリアからじわじわと聞こえてくるようである。

第六回:時計と巻物 - ele-king

 私はヨコハマトリエンナーレ2011に関わっている方と話したとき、今回のメダマのひとつがクリスチャン・マークレーの《The Clock》と聞いて、ある感慨をおぼえた。この作品は映画から切りだした映像の断片を現実の24時間の流れとシンクロさせた24時間の長さの映像作品で、鑑賞者は12時にそれを観るとしたら、画面には時計の針が12時を指す映像が映っている。1分程度の断片が線条の時間に沿って延々と展開するのをまのあたりにすることで、私たちは映像の集積がつくるイメージのベクトルに引きずられつつ、おのおのの断片の記号性と向き合うだけでなく、現実の時間をつねに意識することになる。ウォーホルの『エンパイア』や前回のトリエンナーレに参加したダグラス・ゴードンの『24時間サイコ』とか、時間を脱臼させたり再認識を迫る映像作品は、実験映画/映像の分野にすくなくないが、マークレーのように外からではなく、時間の内側で時間と戯れてみせたものはあまりない。というか、原理を転倒させることなく、似たものがないものをつくりあげるのは途方もない手間がかかる。マークレー(とスタッフ)は《The Clock》を制作するにあたり数千の映画を観たという。時計の映っているシーンはないかと血眼になった。キリのいい時間ならそれなりにあるが、ハンパな時間は簡単に見つからない。それは映画のアーカイヴにタグをつける作業に似ていた。あるいは、エスペラント語を学んで長編小説を書くようなものかもしれないと思うと眩暈がする。

 宇川直宏は「DOMMUNE開局宣言」で「映像により世界は連帯している」と、映像があふれる時代を指摘した。一方で「何をもって"映像"なのか?」総意のない混沌とした情況に進んで巻きこまれることで、どこまでも「現在」であろうとする。「世界」とのつきあい方をいいたいのだ。クリスチャン・マークレーはアーカイヴを掘ってつなぎ作品にすることで、映像に現実の時間をとりこみ、作品と現在とのあいだに緊張関係をうみだした。映像が現実と相互交通するこの関係の背後に逆・現実拡張というほどの狙いがあったかどうかわからないが、マークレーがふたたび(?)現在のアートシーン(?)の先頭にあらわれたのは、宇川直宏の問題意識と無関係とはいえないと思うのである。なんといっても、マークレーは《The Clock》の展示で今年のベネチア・ビエンナーレでグランプリにあたる金獅子賞を受賞したということだ。ヨコハマトリエンナーレ2011に鳴り物入りで登場したのである。


2011年10月22日 「"Manga Scroll" A vocal score by Christian Marclay」より
ヨコハマトリエンナーレ2011 / 日本郵船海岸通倉庫(BankART Studio NYK)

 マークレーはわかりやすい。と書くと語弊があるかもしれないが、もってまわったいい方の現代美術と較べるとそのコンセプトは輪郭がはっきりしている。鑑賞するひとが受ける印象にはちがいがあるのは当然だが、マークレーのいいたいことが伝わらないという心配はない。あるいはいいたいことをねじ曲げて受けとられないという気がする。シンプルなアイデア。それを形にするための偏執的編集。さらにそれを浸透させる伝達力とそこに含まれる笑いがポップさにつながるのはマークレーも例外ではない。しかもここにはヨーロッパ的な屈託というよりも--マークレーはスイス系アメリカ人である--20世紀初頭にカフカが夢想した未来のアメリカの工業化された都市の摩天楼と、それを支えるシステムの影にある野趣を感じさせる逞しさがある。逞しさというのはちょっとちがうかもしれないが、即物的で実体的な手触りはやはり拭えない。この印象は私がマークレーを知った最初に感じたことだ。いまも変わらない。私は彼を90年代前半に知った。マークレーがダウンタウン派と呼ばれるニューヨークの即興音楽シーンに出入りしていたころで、フリージャズの形式を逃れ、ロックやハードコアやオルタナやダンスミュージックに逃走線を敷いたその界隈の音楽家に較べても、マークレーは最初からどこか超然としていた。というか、誰彼のように高度な音楽の素養がないからアイデアで勝負するしかない。ターンテーブルといっても、ヒップホップやバトルDJみたいな系統的なスキルとフォーマットとは関係ない。マークレーの影響下にあった大友良英はターンテーブル音楽を批評として機能させたが、マークレーは諷刺に近かった。諷刺であるからには対象を異化し、なにものからも距離を保たねばならぬ。だからターンテーブルの個数をベラボウに増やすか、会場に敷きつめたレコードを踏ませるか、レコードを切り刻んで接着するか、ヤヤコシイことばかりマークレーは考えていたが、それを簡便に伝達する術をほとんど本能的に心得ていた。才能という言葉を使うのは何もいってないに等しいが、これを才能といわずして何といおう。

 マークレーの代表作に、ルイ・アームストロングやジミヘンや、ゲンズブールとジェーン・バーキンの音源をコラージュした数曲を収録した『More Encores』という10インチ盤がある。89年にドイツの〈No Man's Land〉から発表し、97年にクリス・カトラーの〈ReR〉から再発された。当時東証一部上場企業の従業員だった私は社員寮でこの10インチ盤を聴いていた。やや音量は大きかったかもしれないが、そこは折り目正しい企業人であるから、騒々しいということはなかったはずである。ところが一曲目の"ヨハン・シュトラウス"がはじまり誰もが知っている"美しき青きドナウ"をコラージュしたパートにさしかかったとき、隣の部屋の方が壁をバンバン叩く音がした。部屋の模様替えでもしているのだろうと、私は気にかけなかった。レコードの中ではマークレーがヨハン・シュトラウスの三拍子に合わせてスクラッチしている。一拍目にスクラッチが来るのがいかにもワルツだ。興に乗ってきた私は盤面を擦りはじめた。ヨハン・シュトラウスを擦るマークレーを擦る私という連想が私を陶然とさせたそのとき、ドアを激しく叩く音がした。レコードから針をあげ、扉を開けてみると、隣の部屋の先輩が立っていた。スポーティに刈りこんだ頭髪とシャンと伸びた背筋は彼がかつて運動部で厳しい鍛錬を積んだことをうかがわせる。技術職で、たしか工場のシステムを管理する部署だったはずだ。
「きみが音楽を好きなのはわかるけど、キチガイみたいなのは止めてくれないかな」と彼はいった。怒気はふくんでいるが、口調は穏やかである。私はひどくメン食らった。楽しんでいた音楽が他人の迷惑になっていたことに動揺した。
「すみません。以後気をつけます」
 その場はそれで収まった。ともに折り目正しい企業人であったのが幸いした。しかし私は考えこまざるを得ない。マークレーが彼の神経を逆なでしたのは、音量でもノイズの含有量とも美意識とも(たぶん)関係ない。教科書に載っている名曲が歪曲されたこと、無自覚に前提としていた教科書的なものの歪みから生まれた「余り」と向き合うことの不安があったのではないか。マークレーは長いキャリアを通じて、観客と鑑賞者にそれを突きつけてきた。境界線はここにある、と。それは案外すぐそばにある、と。そしてまた、その外に踏み出すのは意外に簡単だ、と。ちょっとした頭の捻り具合だ、と。マークレーはいっている。それはヒップホップがブレイクからループを組み立てたこととも、ジミヘンがギターを壊す瞬間だけを持続させる目的でJOJO広重が非常階段を結成したのとも動機はそう変わらない。インダストリーとポップ音楽をまとめてフルクサスの血脈に引きずりこめ! と。マークレーの音楽はそういうふうに耳を鼓舞する。と、考えながら、10月22日、私は日本郵船海岸通倉庫(BankART Studio NYK)に腰かけている。


2011年10月22日 「"Manga Scroll" A vocal score by Christian Marclay」より
ヨコハマトリエンナーレ2011 / 日本郵船海岸通倉庫(BankART Studio NYK)

 今日はクリスチャン・マークレーのコンサートである。といっても、マークレーは演奏しない。ヨコハマトリエンナーレ2011の関連イベントとして、マークレーの《Manga Scroll》を巻上公一が「演奏」するのである。簡単に説明すると、《Manga Scroll》は海外(アメリカ)に輸出した日本のマンガに描かれたオノマトペ--当然外国語に翻訳されている--をロールペーパー上に再構成したグラフィック作品で、掲載図版をご覧いただきたいのですが、「KA-BAWM」「FLIP PLOOF」「ZOOOM」「BOOM!」といった大小さまざまな擬声語が左から右へ流れていく巻物(スクロール)形式になっている。巻上公一はこの幅20メートルにおよぶ作品をスコアに見立て、擬声語を音声化するという。


Christian Marclay / Courtesy of Gallery Koyanagi
Image courtesy of Graphicstudio/USF, Tampa, Florida, USA

 おおかたの席はすでに埋まっていて--定員制のイベントなのです--演奏者=巻上公一も待機している。最前列で作者が見守っている。三日後にギャラリー小柳ではじまる「Scrolls」展のために来日したのだろう。司会の女性の前口上に続き作者が挨拶する。「中世日本の表現形式である巻物と現代のマンガのミックスであるこの作品を上演するのにマキガミ以上にふさわしいアーティストはいない。マキガミは日本語でいうスクロール、巻紙ですから」と作者は面長な顔をやや上にさし向けてしゃべっている。社員寮の隣の先輩とどことなく似てる、と思ったのはさっきまで彼のことを考えていたからだ。《Manga Scroll》が中央の長机の上に寝かされていて、観ることができないのはちょっと不満だが、コンサートでは観客は演奏者の手元の譜面を見ないのだから、しょうがない。主役はあくまで音だということだ。


2011年10月22日 「"Manga Scroll" A vocal score by Christian Marclay」より
ヨコハマトリエンナーレ2011 / 日本郵船海岸通倉庫(BankART Studio NYK)

 巻上公一は声帯を縦横に駆使し《Manga Scroll》を音声化する。『Kuchinoha』『Koedarake』といったソロ・ヴォイス盤の音声実験(実験的音声)における声の可能性を上から下へ、あるいは右から左へ、スクロールするように、巻上は声を引き攣らせ撓ませ歪ませ二重化させる。巻上の声のヴィルトゥオーゾぶりは圧倒的だが、アクロバティックなテクニックに溺れるより、テクニックそのものを戯画化するように思えるのは、マークレーと巻上の思惑の一致というべきだ。オノマトペという、意味でも音でもある言葉をどちらともつかないように音にすることに巻上公一ほど長けたひとはいない。しかも《Manga Scroll》は日本のマンガの擬声語を英語に翻訳したものが元である。そこに誤解や誤読や翻訳不可能性が入りこむ隙間が生まれる。それだけでなく、世界中に知れわたった「マンガ」とカートゥーンやアメコミといった海外コミックとのタッチのちがい--文化的なコードの差異--も《Manga Scroll》には投影されている。あるいはマンガ史という形式の来歴まで視野に入れ、演奏者はつぎつぎ現れる擬声語を読み解いていかなければならない。普段マンガを読むとき、誰もそこまで気にしない。みんな電車の中で普通にマンガ本を開き、電車に揺られている。誌面はコマに割られていて、その中にキャラが描かれていて、フキダシには文章があり、擬声語がそこに描かれた情況や運動を視覚化している。読者はそれら全部を頭の中で統合しながらマンガを読み進めていくわけだけだが、ここでマークレーの側に立って考えてみると、マンガという形式/メディアをサンプリング/エディットするには擬声語に着目するのがいちばんてっとりばやい。というか、これしかない、とマークレーは思った。その発想は大文字の「映画」を「時計」という記号からリエディットした《The Clock》と響き合っている。

 巻上公一の演奏が終わって、はじめて実物の《Manga Scroll》を目にしたとき、さまざまな擬声語が紙面上で連鎖し旋回し衝突していた。文字たちが結託してひとりでにDNAの螺旋構造に組み上がったかのようなシームレスな文字列はマークレーの偏執的編集性をうかがわせるだけでなく、文字のデザインのエフェクト(初期マック・デザインを思わせる)がそのまま、この作品をグラフィック・スコアとして使うときに指示記号に転化することを物語っていた。音の長短や高低など、演奏者の決定に任せる部分はもちろんある。であっても、グラフィック・スコアはだいたいそういうものだともいえるのだが、これを詳しく述べるのには私は稿を改めなければならない。(了)

クリスチャン・マークレー「Scrolls」
2011年12月22日まで
GALLERY KOYANAGI
www.gallerykoyanagi.com


2011年10月22日 「"Manga Scroll" A vocal score by Christian Marclay」より
ヨコハマトリエンナーレ2011 / 日本郵船海岸通倉庫(BankART Studio NYK)

Atlas Sound - ele-king

 シンガー・ソングライターの作品に必ずコンフェッションがなければならないかというと、もちろんそんなことはないし、告白文体を持つものがそのまま優れた作品になるかといえばそんなこともない。しかし告白すべきことのない人間に書ける歌などあるだろうか。自らの「告白すべきこと」――それは自身の暗部とも業とも呼べるものだ――とどのように向き合うのか、近代文学的ではあるが、このレヴェルの問いがある芸術表現にはたとえ言葉がなくとも人の心に食い込む力が生まれる。アトラス・サウンドの『パララックス』を聴いてみるとよい。漱石は、なにか悪事を犯した人間でも、それにいたった動機やその顛末をすっかり完全に記述しおおせることができるならば、その罪はゆるされるのではないかという考察を綴っているが、この作品にはまさにその意味でのコンフェッションがある。

 アトラス・サウンドはディアハンターを率いるブラッドフォード・コックスによるソロ・ユニット。〈クランキー〉からスペースメン3のようなスペーシー・サイケ、あるいはハロルド・バッドのようなアンビエント・スタイルを持ったノイズ・アルバムを出していた頃が嘘のように、いまでは独自の音と歌を獲得するにいたったディアハンターだが、それゆえに分化の兆しも見えはじめていた。より歌が前景化してきたというか、これまでバンド形態によって相対化されていたブラッドフォード自身のデーモンが、音のキャラクターに深く根ざすようになったということだ。それはギタリストのロケットのソロ作品が「もうひとつのディアハンター」を体現するような音であることからもわかる。ディアハンターの傑作『マイクロキャッスル』はそうしたなかでバンドとしての最良の均衡が生み出したアルバムだ。アトラス・サウンド『ロゴス』もその分身として最良の結実だった。
 それにつづき、ややとりとめのない印象を残したディアハンター『ハルシオン・ダイジェスト』、アトラス・サウンドとしてフリー・ダウンロード形式にて発表された4巻組超ヴォリューム音源『ベッドルーム・データバンク』といった両プロジェクトの近作を経て、本作はブラッドフォードの名の下にようやくこれまでのすべてが統合された作品だと言えるだろう。音楽的に特別な変化はない。特別なのはその凝縮ぶりである。それが歌によってなされていることは、ジャケット写真にも象徴的に示されている。告白という文字をプリントしたいくらいだ。これほどの密度を持ったアルバムは久々に見る。

 ブラッドフォードが作品を通して歌い、告白するものがなにかといえば、ふたつあって、愛と孤独である。というか、そのふたつは彼にとっては同じひとつのものなのだろうということが作中からしのばれる。「パララックス」とはそうしたことを指すタイトルなのかもしれない。愛とは孤独のことであり、孤独とは愛のことである。そしてその両方とも、誰かそばにいてくれる人が見つかることで成就する/解消するという種類のものでないことは明瞭だ。たとえば"テ・アモ"において、一緒に眠り同じ夢をみるふたりはそれぞれにとても孤独である。「テ・アモ」、つまりわたしはあなたのことを愛している。しかし「わたしはあなたがただひとりの存在であったかのようにふるまうだろう」というとき彼は孤独である。「あなたはいつも終わっていて、弱りきって、沈み、倒れている」、彼の愛はつねにそうしたものへと向かっていく。短く象徴的な詞を包み、シンセが柔らかくレイヤードに広がるドリーミー・サイケ・ポップ。角の立った音はまるでなく、催眠的なリヴァーブが深くかけられているが、曲の展開をリードする電子ピアノのリフにだけそれが外されている。ぱらぱらとして叙情をはねのけるかのように無機質なその音には、痛いほど孤独の暗示がある。ふたりでいることは孤独でないことを意味しない。そしてその痛みを等量に持つ(「分かち合う」のではない)ことが愛という場所にいたる条件だ......"パララックス"で繰り返される「イコール」はおそらくはそんなことを意味している。いささか断定的に読み過ぎているかもしれないが、大筋で間違ってはいないだろう。トレモロのギターや電子ノイズが浮遊するあいだを縫って、ここでもシンセ・リフだけが醒めた音を出している。締まったリズムとウェスタンなロマンティシズムを持ったフォーク・ロック。表題曲としての深みと華やかさが備わっている。"モダン・アクアティック・ナイトソングス"は「あなたの愛には吐き気を催すだけの価値があるか」という問いかけからはじまる。これも彼が愛という観念に対して抱いている厳しさをよく表しているだろう。

 しかしこの愛は、たとえばジェームス・ブレイクが歌う愛となんと違っていることだろう。"テラ・インコグニータ"でブラッドフォードは、完全にひとりきりで、誰も自分を邪魔することのない場所のことを愛と呼ぶのだと歌っている。ブレイクのエモーショナルな愛、過剰な妄想にも思われる愛が隙間の多い音で提示されたのに対し、孤独の別名であるようなブラッドフォードの愛がリヴァーブとディレイの靄に包まれているのもとてもおもしろい対照だ。しかしそれは息の詰まるような靄ではない。多くの作品を経て、透徹したシューゲイズ・サウンドを彼は手に入れた。そこには激情ではなく、穏やかな起伏がある。本作もちょうどそのような起伏を持ったアルバムである。"モナ・リザ"や"ザ・シェイクス"といった躍動的で親しみやすいナンバー(歌詞はその限りではないが)、"フラグスタッフ"のようなアシッド・フォーク、"ドルドラムス"のようなアンビエント・ポップ、いずれにも高い精神性と緊張感が持続して引き継がれるが、そのことが音楽の「聴く」という楽しみを妨げない。彼が表現者としていかに優れているかということが痛いほどわかるだろう。愛と孤独が不分明であるような地点から彼は歌をつむいでいる。ファルセットで繰り返される「ステイ」"アンプリファイアズ"という言葉は、厳しい祈りのようにいつまでも心に響く。

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