「Noton」と一致するもの

ブリグズビー・ベア - ele-king

 日本では現状、ロマン・ポランスキーの『告白小説、その結末』やウディ・アレンの『女と男の観覧車』は問題なく公開されているようだが、アメリカでは今後ふたりの作品を観ることはますます難しくなっていくだろう。養女の性的虐待疑惑から多くの俳優たちに「今後は出演しない」と言われているウディ・アレン、70年代の少女への淫行でアカデミーから追放されたロマン・ポランスキー。とくに厄介なのはポランスキーで、彼の過去の作品には未成年のセックスがモチーフとして入りこんでいるものもある。#MeToo以降の世界で彼らの新たな作品が成立しにくいのはともかく、かつての「名作」たちもまた封印されていくのだろうか。
 表現の作者と作品をどの程度切り離して考えるべきかというのはいま盛んにおこなわれている議論で、大ざっぱに言うとポリティカル・コレクトネス的価値観からアメリカはより作者のありように厳しくなり、ヨーロッパがそれに抵抗している……という図式があるにはある。が、アメリカもまた、Spotifyから「ヘイトコンテンツ」に当たるとされる楽曲が削除されたことに対しケンドリック・ラマーらミュージシャン陣が表立って反発するなど、一筋縄ではいかない様相となっている。たしかに、表現者が清廉潔白でなければならない世界は窮屈だし、ましてや表現の中身が当たり障りのないものばかりになってしまっては本末転倒だろう。表現規制に抵抗する勢力が台頭し始めているということだろうか。いずれにせよ、いま、ポリティカル・コレクトネスと表現の自由、そして作者の振る舞いと作品の関連性についてより時代に合った枠組が模索されており、多くの人間がそのことに頭を抱えている。

 現在アメリカのなかで、こうした議論にもっとも敏感なのはコメディアンたちだろう。大人気コメディ番組〈サタデー・ナイト・ライヴ〉出身のチームで制作された『ブリグズビー・ベア』を見ても、ある表現(今風に「コンテンツ」といったほうが適切かもしれない)が作者とどの程度紐づけられるべきなのか考えていることがわかる。主人公の青年ジェームズは外界から隔離されたシェルターで暮らしており、両親に愛されて育ったものの自由はなく、唯一の楽しみはクマのキャラクターが冒険をしながら数学や日々の生活のルールを教えてくれる教育番組〈ブリグズビー・ベア〉だった。が、あるとき警察がやって来て両親は逮捕されてしまう。ジェームズが「両親」だと思っていたのは彼を赤ん坊のときに攫った誘拐犯であり、信じてきた世界はすべて嘘で、彼が大好きな〈ブリグズビー・ベア〉ですら偽の父親がジェームズのために作っていたものだった……。そして物語は、ジェームズが本当の両親に迎え入れられ、「リアル」の世界にどうやって馴染んでいくか模索していくところから動き出す。
 そこで鍵になるのが〈ブリグズビー・ベア〉、つまり犯罪者が作ったコンテンツなのである。ジェームズは番組への愛を語ることでギークの友人を作り、その続きを制作することで「リアル」の世界での生き甲斐や人間関係を構築していく。が、本当の両親からすると〈ブリグズビー・ベア〉は犯罪者どもが作った忌まわしい呪いでしかなく、見ようによってはジェームズはストックホルム症候群を引き起こしているとも言える。映画はそうした葛藤を経て、〈ブリグズビー・ベア〉という作品そのものの力でジェームズの新たな人生を祝福しようとする……たとえ犯罪者が作ったものであろうとも作品の価値はあると、ひとまずそうした結論の映画だと言えるだろう。なかでも、ジェームズが〈ブリグズビー・ベア〉の制作のために、原作者でありかつての「父親」(しかも演じるのがマーク・ハミル=ルーク・スカイウォーカーという、世界中に愛された「嘘の人物」である!)と向き合う場面は本作でもっとも美しい瞬間だ。

 ひとつ思うのは、こうした議論で表現の自由派はしばしば「作者と作品はまったく別物である」と主張するが、そんなに単純に割り切れるものではないということだ。少なくとも本作はその地点に問題を矮小化してしまっていない。YouTubeにアップされた〈ブリグズビー・ベア〉はヴァイラル的にヒットするのだが、その人気の理由は作品の力「のみ」ではどうやらなさそうである。サイケデリックでシュールな教育番組はそのカルト的な佇まいからひとを惹きつけるが、と同時に、犯罪者が偽物の息子への愛情から作ったものであるという「作品背景」がフックになっていることが示唆される。〈ブリグズビー・ベア〉が世のなかに受け入れられるのは、そこに何だかんだ言って愛情がこめられていたからだし、だからこそジェームズも作品を通して「リアル」の世界と交流できたという描かれ方である。
 しかしながら、もし仮に、偽の両親が性的虐待をジェームズにおこなっていたら〈ブリグズビー・ベア〉はどう描かれていたのだろう。偽の両親が本当には悪い人間ではないことが本作の優しさとも言えるし、踏みこめていない点だとも言えるだろう。描かれることはなかったのでわからないが、もし彼らの犯罪がある一定のラインを超えてしまっていたら、〈ブリグズビー・ベア〉は許されないコンテンツだし、ジェームズの番組に対する情熱もストックホルム症候群とされていたのではないか。そこの明確な線引きはどうしたってあるように思える。「作者と作品はまったく別物である」と結論づけてはならない何かが。
 だから、当たり前でつまらない着地点になってしまうのだが、そのラインがどこにあるのかを見極めることが重要なのだろう。が、つまらないからこそ価値があることなのだ。そしてそれは、時代によっても場所によっても、作品によっても背景によっても変わってくる。つまり、いまこそ批評の力が試されているということだろうし、アメリカのコメディアンたちは表現の自由を勝ち取るために怜悧な批評家であろうと努力しているということなのだろう。“This Is America”で今年話題を独占したチャイルディッシュ・ガンビーノ=ドナルド・グローヴァーがコメディアンであるのもそういうことだ。チャーミングな小品であるこの映画もまた、そうしたコメディが輝く時代を示している。

予告編

Sparkling 竹井千佳画集 - ele-king

女の子の心をわしづかみにする大人気のイラストレーター、竹井千佳。初のイラスト全集ついに発売!

いつも竹井さんの作品を見る時呼吸がうまく出来ず心臓が喉に詰まる謎の感覚に陥る…
ただ苦しくない、むしろ気持ちよ過ぎて…なんだこれ!どんな感情なんだ…
待てよ、これがまさか…心躍る…?
心躍りたい方、ファンシースーパーキュートハッピーキラキラガールズを超えたリアルが詰まった竹井ワールドをお楽しみ下さい!
(簡単に言うと大勢の人の中で好きな人を見つけた時の感情)――渡辺直美


パステル調で色鮮やか、キラキラと弾ける様に楽しいポップな感性と、抑制の効いた品格ある日本画の風情や、昭和の少女たちに迎えられた塗り絵のような奥深い世界観を併せ持つ魅力的な作品たち。
女の子たちに見え隠れする「醒めた眼差し」「ポジティブなエネルギー」「ちょっとイジワルで小悪魔的でさわやかな色気」も感じる彼女の表現は多くの女性の支持を呼び、メディアやブランドコラボでの活躍も目立つ存在に。
最近では有田哲平が司会を努めるTBS『夢なら醒めないで』のスタジオ・デザインや、雑誌『andGIRL』とコラボしたコーヒー・カップのイラスト提供、原宿ではコスメブランドの大型壁面ポスターが飾られ、地元である宇都宮市とコラボした観光誘致パンフレット「ナイショの宇都宮」が各公共機関で配布されるなど、幅広く活躍。
キュートな女子だけの人気に留まらず、今正に目が離せない竹井千佳の世界に存分に触れることのできる初のイラスト集です!


編集後記(2018年7月2日) - ele-king

 カタルーニャ州で磨かれた美しきポゼッション・フットボールは、その楽園の対岸にあるPK戦という暗黒郷に引きずり込まれた時点でやばいなと思った。120分のあいだ74%ボールを支配していたスペインが負けたこと、ガーディアンいわく“ディナー・ジャズ・フットボール”、フットボールの戦術を再定義した華麗なスタイルが過去の幻影となったことのショックは小さくない。しかし、そもそも今回の代表にもうシャビはいなかったのだ。そして日曜日の夜(日本時間の月曜日の明け方)、決勝戦の舞台に立つ1チームは、ロシア、コロンビア、クロアチア、スウェーデン、スイス、イングランドのなかのどれかということが決まった。

 土曜日の試合は、素晴らしかった。選手入場前の表情をカメラがとらえたとき、いかにも重たいものを背負っている神妙な顔つきのメッシとは対照的に、エムバペ(※紙エレではムバッペと誤読しておりました)ときたらこれからサッカーすることに喜びを隠せない少年のようだった。フランスとアルゼンチンの一戦は、いまのところぼくのなかではベスト・ゲームだ。あの試合を観た人は、この先も忘れられないであろう、不滅のプレーを目撃した。一陣の風がフィールドを駆け抜ける。この試合のあとに悲しみがあるとしたら、つねにスタジアムを埋め尽くす12人目のプレイヤー(アルゼンチン・サポーター)が見れなくなること、そしていつになっても子供のようなマラドーナの喜ぶ姿が見れなくなったことだ。

 で、何を聴けばいいかって? まさかアストラッド・ジルベルトの“So Nice”というわけにはいかないので、ここはフレンチ・テクノの王様、ロラン・ガルニエとルドヴィック・ナヴァールによるアンセム、“アシッド・エッフェル”で決まりでしょう。

石田昌隆『JAMAICA 1982』 - ele-king

 『JAMAICA 1982』は、『ミュージック・マガジン』などで活躍中の写真家・ライターの石田昌隆の写真集。タイトルにあるように、1982年のジャマイカ(の主に音楽シーン)をとらえたもので、同年の7月7日から8月25日までの53日間滞在して撮影した写真が編まれている。サウンドシステム、スラム街、レコード店、ナイヤビンギ、人々……写真を見ているとベースの音が聞こえてくる。ハーブの香りも匂ってくる。この時期のジャマイカの音楽シーンの写真としては、世界的にみても貴重なものばかりじゃないだろうか。石田さんの撮り方/構図がじつにキマっているので、どの写真も格好良すぎるほど格好いい。石田さんの目には、ジャマイカがこのぐらい格好良く見えていたんだろう。貧しい、しかしこいつらは絶対に格好いい。なんにせよ、これで石田さんが見てきた風景のいちぶをぼくたちも共有できる。まったく嬉しい限り。発売は7月6日。石井志津男さんのオーヴァーヒートからのリリース。
 写真集の刊行に併せて、原宿のBOOKMARCにて写真展も開催される。この機会にぜひ、迫力満点の生の写真も見て欲しい。

【写真集】
■タイトル:JAMAICA 1982
■著者 :石田 昌隆
■ページ:64ページ(全フルカラー)
■サイズ:A4横開き(210mm×297mm)
■発売日:2018年7月6日
■定価:3,800円(税別)
■品番:OVEB-0004
■ISBN:978-4-86239-831-4
■発行:(株)OVERHEAT MUSIC / Riddim Books


【写真展】
■会場:BOOKMARC(ブックマーク)
東京都渋谷区神宮前4-26-14
TEL:03-5412-0351
■会期:2018年7月7日(土)~16日(月・祝)
・7月6日(金) オープニング・レセプション
・7月15日(日) トークショー


【石田 昌隆(いしだ まさたか)/ PHOTOGRAPHER】
著書に、『黒いグルーヴ』(1999年)、『オルタナティヴ・ミュージック』(2009年)、『ソウル・フラワー・ユニオン 解き放つ唄の轍』(2014年)がある。現在、アルテス電子版で『音のある遠景』を連載中。撮影したCDジャケットに、矢沢永吉『The Original 2』(1993年)、フェイ・ウォン『ザ・ベスト・オブ・ベスト』(1999年)、ソウル・フラワー・ユニオン『ウインズ・フェアグラウンド』(1999年)、『Relaxin‘ With Lovers』(2000~2018年 全15作品)、ジェーン・バーキン、タラフ・ドゥ・ハイドゥークス、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン、ズボンズ、カーネーション、濱口祐自、LIKKLE MAIほか多数。旅した国は56カ国。

【写真展 会場/BOOKMARC(ブックマーク)】
ニューヨーク発のファッションブランド「マーク ジェイコブス」が手がける新感覚ブックストア。
2010年9月にNYのBleecker Streetに第1号店をオープン。世界5店舗目となるストアとして、2013年10月、 東京・原宿にギャラリーを併設したストアをオープン。
『BOOKMARC』を作るきっかけとなったのはNYのWest Villageにあった本屋が閉店するニュースでした。
デザイナーであるマーク・ジェイコブス本人やブランドのCo-Founderであるロバート・ダフィーは共に本に 対して並々ならぬ情熱を持っており、元々マーク BY マーク ジェイコブスのストアでは厳選された本を 取り扱っていたが、West Villageのその本屋をありのまま引き継ぎ、本のバリエーションを増やすことで、マーク ジェイコブス ブランドのインスピレーション源を表現する新しい顔をつくることに成功した。そして、 『BOOKMARC』は、アートに関する書籍を中心として取り扱う小さな本屋の新規開店が少なくなった昨今、実際に本を手に取り、書籍の素晴らしさを再認識し、その場で購入できる場所を提供したいという願いが込められている。
『BOOKMARC』では芸術、写真、ファッションや音楽に関する書籍は勿論のこと、詩集や芸術論に至るまで、様々なジャンルの厳選された書籍を取り扱っている。またコレクターたちを虜にするヴィンテージ本やサイン本も多数揃えている。

住所:東京都渋谷区神宮前4-26-14 TEL:03-5412-0351
営業時間:11:00~20:00 定休日:不定休
ギャラリー併設:BOOKMARCの地下スペース


編集後記(2018年6月29日) - ele-king

 こんな最悪な週末も珍しい。土曜日である。ぼくは玄関の水槽の砂利のなかに貯まった汚物(餌の食べ残しであるとか糞であるとか)を吸い取って、カルキを抜いた新しい水を入れ替えようとしていた。貧乏なクセに多趣味の自分は、つりも好きで、子供といっしょによく多摩川に行って魚やエビを採ってくるのだが、それら魚やエビの何匹かが家の水槽のなかにいるというわけだ。
 ろ過装置をつけているとはいえ、水槽の水は定期的に入れ替えなければならない。家にはアクアリスト専用の汚物を吸い取るポンプ(灯油を入れるときに使うポンプに近い)があり、それを使ってまずはバケツに汚い水を溜める。それを洗面所に捨ててから新しい水を水槽に入れるのだが、その日もいつもと同じようにいっぱいになったバケツを持って、玄関から廊下を水がこぼれないように慎重に歩いていた。で、一歩、二歩、三歩進んだそのときだった。突如バケツの取っ手が折れたのである。バケツは落下し、悪臭漂う水は勢いよくその場にぶちまかれたのだった。
 血の気が引いたとはこのことで、廊下の壁に設置してるCD棚の下の方はもちろん濡れている。が、このときはCDどころではない。まずは大量にぶちまかれた汚水をどうやって家のなかから出せばいいのだろうかと、途方に暮れた。
 これから先の展開は、あまりにも生々しい家族の話になるので止めておくけれど、その最悪な週末は波乱に満ちた今週の不吉な前兆だったのかも……なんてことはないのだろうが、しかし。

 日本とポーランドの試合後の居心地の悪さは、そのルールがイエローカードの枚数に起因することにあるのだろう。たとえば、人生においてイエローカードの枚数が多い人が、ある場面において蹴落とされるとしたら、決して気持ち良いの社会とは言えない。そもそもイエローカード自体が相対的なものだ。基準は審判や試合の流れにもよるし、フットボールにおいて、場合によっては味方にとっての勇敢なプレイに対する証ともなる。試合中、審判に激しく抗議してもカードは出されるわけだが、そんな役回りを絶対権力を行使する死刑執行人だと皮肉ったのはウルグアイの作家、エドゥアルド・ガレアーノである。そんな訳で、カードの枚数の少なさをもって勝負に出たアキラ・ニシノが世界中からブーイングされるのは当たり前であり、そうであって良かったとさえ思う。イエローカードの枚数が順位を決する世界など、ぼくも見たくはない。
 しかし指揮官という立場のアキラ・ニシノは、ただがむしゃらに、自分のチームが決勝トーナメントに進める可能性の高いほうに賭けたわけで、昔からグループリーグのことに最終戦は、がちんこの真剣勝負ではなく、露骨な時間稼ぎや体力温存の塩試合、次戦の対戦相手を見据えた打算的な試合なんかはあるものなので、そういう意味ではやることをやったまでのことと言えるのだけれど、今回の場合はそれが意味してしまうところが悪かった。ぼくは明らかにイエローカードの多い人生を歩んでいる。素直に喜べるわけがない。

 それでは最後にフットボールのための最高の音楽を紹介しよう。フットボール・ファンでもあるマイケル・ナイマン(ジム・オルークが若い頃に影響されたという本の著者でもありますね)の1996年の作品、『After Extra Time』。タイトルは「延長戦の末」にという意味。さて、いよいよ決勝トーナメントがはじまるぞ!

水曜日のカンパネラ - ele-king

 出羽守という言葉がある。「でわのかみ」と読む。きっとあなたも一度は耳にしたことがあるだろう。「海外ではこうである、しかし日本ではそうではない」というような議論を展開する人びとを揶揄するための言葉だ。けれど、「海外では」という言い回しを使う人びとは必ずしも「ゆえに日本もそうすべきである」と主張したいわけではなくて、たいていの場合たんに参考例を挙げているだけなのではないか。海の向こうのケースを参照することで見えてくることだってあるんじゃないと、ちょっとした提案をしているだけなのではないだろうか。そこに悪意や攻撃性を読み込んでしまうのは、受け手の自意識が肥大しているからなのかもしれないし、あるいは「そんなこと言ったって、結局何も変わりゃしねえよ」というシニシズムが働いている可能性もある。なかには、閉鎖性を優位性へと置き換えたい人もいるのかもしれない。
 水曜日のカンパネラによる最新EPは、「ガラパゴス」と題されている。資料によるとそれは、いまの日本(の音楽)に対するメタファーなのだそうだ。たしかに、昨今のJポップのクリエイターのなかには、洋楽を聴かない人たちがそれなりに存在しているなんて話も聞く。ということはつまり、水カンはいま、日本(の音楽)の閉鎖性を憂い、歎いているのだろうか? それとも逆に、このアイソレイテッドで特殊な生態系を誇り、褒め称えようとしているのだろうか?

 冒頭“かぐや姫”の歌い出し、左右と中央に振り分けられた「アォ」という音の連なりを耳にした瞬間、彼らがこれまでとはまったく異なるステージに立っていることがわかる。弦と管によって緩急をつけられたヒップホップ・マナーのトラックも意外だ。zAkによるエンジニアリングの効果も大きい。そしてコムアイは、トレードマークとも言えるその独特のラップを手放し、大々的に歌っている。にもかかわらず、おもしろいほどにリリックの内容が頭に入ってこない。歌詞カードを確認しない限り、それが日本語であることさえ認識できない。同じタイミングで新作をリリースしたムードイドは、声もあくまで楽器のひとつと見なしているそうだけれど、その彼とコラボレイトした5曲目“マトリョーシカ”では、テープを逆再生したような奇妙な日本語とフランス語とのかけ合いが、言葉から次々とその意味を剥奪していく。
 水カンの音楽を評する際にしばしば用いられてきた術語に「ナンセンス」というのがあるけれど、僕はこれまでどうにもそういう評価のしかたに居心地の悪さを感じてきた。というのも、水カンの歌詞に「ナンセンス」という言葉をあてがってしまった時点で、不可避的にナンセンスというセンスが発生してしまうからだ。つまりナンセンスはナンセンスではなくなってしまうのである。「ガラパゴス」がおもしろいのは、コムアイの声をどんどん音へと近づけて歌詞性を引き剥がしていくことによって、ナンセンスというセンスを持ったナンセンスではなく、文字どおりのナンセンスが実現されている点である。

 そのことと対応するかのように、本作ではプロダクションの面でもこれまでとは異なる水カンが打ち出されている。中盤はダンサブルな曲が続き、一部では4つ打ちも導入されているものの、それがこのEP全体の雰囲気を決定づけているわけではない。“ピカソ”や“メロス”から聴き取ることができるように、各々の曲には今日のベース・ミュージックやコンテンポラリーR&Bなどの要素が細かく織り込まれている。“南方熊楠”や“見ざる聞かざる言わざる”のパーカッションのような聴きどころも多く、とにかくサウンド面での魅力が飛躍的に向上している。もちろん、これまでも彼らはフットワークやクワイトといったスタイルを参照してきたわけだけど、とはいえそのサウンドはあくまでJポップという枠組みのなかに収まるものであった。しかしこの「ガラパゴス」は、そのJポップの慣習を盛大にぶっちぎっているのである。

 だからこそ、アンビエント・ポップとでも呼ぶべき最後の2曲の違和感が際立つ。オオルタイチが作詞・作曲・編曲を手がけた“愛しいものたちへ”も、コムアイが作詞し彼女とケンモチヒデフミとzAkの三者が作曲を担当した“キイロのうた”も、シンセの持続音が静けさを演出する一方で、異様なまでにコムアイの歌が強調されている。この2曲からは日本語が聞こえる。彼らはここで、一度ぶっちぎったはずのJポップの慣習を意図的に呼び戻している。これまで基本的に人名(やユーマ)を曲名に採用してきた彼らが、この2曲に関してはそのルールを適用していないことも示唆的である(直前の“見ざる聞かざる言わざる”は、それを「猿」と捉えれば人やユーマの系列に所属させることができる)。ナンセンスでもなく、ナンセンスというセンスでもなく、ストレートなセンス。この2曲には、じつに意味らしい意味が蠢いている。

 Jポップという鎖からの解放を希求し、海外のポピュラー・ミュージックを参照することで一度はそれを否定しながら、最終的にはもとの枠組みへと帰ってくる――けれどもそのとき、もといた場所はすでにもといた場所ではなくなっている。これこそが、彼らがこの新作を「ガラパゴス」と名付けたゆえんではないだろうか。つまり、「では」によって一度「あちら」が切り拓かれるからこそ「こちら」の充実もまた望めるのである……と、あまりにも当たり前の結論に至ってしまったことに呆然としているが、しかし水カンが戦っているのはそういう「当たり前」のことを言っていかなければならない舞台だ。であるなら、言うべきことはひとつ。僕たちは遠慮なんかせず、がんがん「では」「では」と連発していけばいい。

フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法 - ele-king

 子どもが死んだというニュースを聞いていると、よく「明るい子だった」とか「リーダー的な存在だった」という説明が続く。「毎朝、元気に挨拶をする子どもだった」とか。「目立たない子だった」とか「普通の子だった」という補足はあまり耳にしない。そういう報道を繰り返し聞いていると「暗い子ども」や「人見知りをする子ども」は死んでも可という価値観が示唆されているような気さえしてくる。しかも、それが死んだ子と同じクラスにいた子どもの耳にも入っているんじゃないかと思うと、セカンド・レイプじゃないけれど、活発でもなければリーダー的な存在でもない子には二重のダメージがあるんじゃないかとまで考えてしまう。いろんな子がいていいし、いた方がいいと思うならば、このような「理想の人間像」があるかのように表現するのはどうだろうかと。死んだ子どもがどんな子どもだったかということは少なくとも公共のニュースで報道する必要はないのではないかと。
『フロリダ・プロジェクト』を観ている間、僕は活発でリーダー的な存在のムーニー(ブッルクリン・キンバリー・プリンス)はこのままいけば絶対に犯罪者になると思って観ていた。6歳という設定のムーニーは同じモーテルで暮らす子どもたちを率いて、毎日、いろんな遊びを考え出す。草木が伸び放題になっている原っぱで。あるいは、観光客が立ち寄るアイスクリーム・ショップで、どうすれば自分にもアイスクリームを買ってもらえるかを思案する。ムーニーたちが住んでいる安モーテルの近くにはディズニーランドがある。隠れホームレス(ヒドゥン・ホームレス)と呼ばれている彼女たちは、もちろんディズニーランドには行ったことがない。アトラクションから上がる歓声なども聞こえない。それどころかひっきりなしにヘリコプターの音が聞こえ、ただでさえ悪い想像をめぐらせやすい僕はヘリコプターが彼女たちの住むモーテルに落ちてくるという結末を頭の片隅に置きながら観ることになった。子どもたちが楽しそうにしていればいるほど悪い予感しか湧き上がってこない作品なのである。薄紫色に塗られたモーテルはとても綺麗な建物に見えるし、フロリダの天気がそもそも悲惨な雰囲気からは縁遠いにもかかわらず。

 「ディズニーランドのそばに住み、しかし、その中で遊ぶことができない子どもたち」。この映画を紹介する文章は大体、そんな風に書いてある。でも、どうだろう。僕が子どもの頃、日本にはディズニーランドはなかった。築地市場の向かいにある国立がんセンターの敷地内に住んでいた僕は都内にしては自然に恵まれた場所で育ったので、子どもの頃の遊びといえばムーニーと同じようなことしかしていなかった。観光客から金をせびるということはなかったけれど、想像力だけで遊んでいたという意味ではムーニーたちとまったく同じで、それが貧しい遊びだったとは思わない。世の中には経済的に裕福でも子どもをディズニーランドには連れて行かないという方針の親もいるし、ディズニーランドで遊ぶことが上だという考え方はむしろ歪んでさえいるといえる。子どもたちは遊ぶ。ただ遊んでいる。これ以上、ストーリーの紹介をしようがない映画なので、抽象的な文章になっているのはわかっているけれど、悪い想像ばかり巡らせながら『フロリダ・プロジェクト』を最後まで観た方は、ラスト85秒で(それこそOPNが言った「ブルーカラー・シュールレアリズム」を強烈に味わい)、しかし、その時にディズニーランドが持つ意味を誤解して捉えやすく、そのせいで「ディズニーランドのそばに住み、しかし、その中で遊ぶことができない子どもたち」という否定的な表現が導かれてしまったのではないかと思う。(以下、ネタバレ)ムーニーとジャンシーはディズニーランドに「行った」のではなく、母親と引き離される社会から「脱出した」と思った方がいいのではないかと僕は思う。ディズニーランドは手の届かない場所として設定されているわけではなく、ある種のシェルターだったのだと。想像力では補えない世界に居続けることはもはや不可能で、そこから逃れられるのであればどこでも良かったのだと。ラスト85秒、観客は誰ひとりとしてムーニーの表情を観ることはない。ムーニーたちは目を丸くしていたのだろうか、それとも無表情だったのだろうか。

 この映画は半年ほど前、本サイトでも通訳などでおなじみ坂本麻里子さんに勧められた。彼女はむしろラスト85秒以外の本編がブルーカラー・シュールレアリズムだろうと言っていた。そして、管理人役のウィレム・デフォーが出てきた時に「あ、これは映画だった」ということを思い出すほど、つくりもの感がなかったという。フロリダには1秒も行ったことがないので、そこは僕にはわからないけれど、デフォーの演技を含め引き込まれ方がハンパなかったことは僕も同じである。子どもたちが逃げ回ってデフォーの足元に隠れるシーンがある。仕事の邪魔をされたデフォーは怒りもしないし、子どもたちが出て行く時に、本当に優しい表情を浮かべる。彼は必要以上に住人たちに寄り添えば、クビになりかねない立場にある。どうにかしたいけれど、何もできない。変質者めいた男がひとり出てくる以外、悪人がひとりもいないことが、この映画を本当に出口のないものにしている。
 日本では目黒で起きた幼児虐待死以降、安倍政権や日本会議が主張する家族像から離れ、必要がある場合には親子でも引き離した方が良いという議論が少しは囁かれるようになった。アメリカでは養育能力がないと判断された親から子どもが取り上げられるというテーマは何度も繰り返され、『フロリダ・プロジェクト』でも同じ結論が示されている。個人が尊重される社会というのはそうならざるを得ないし、『プレシャス』(10)や『ローズ・イン・タイドランド』(06)と同じく、あの子たちは、その後どうなったんだろうと思うばかりである。そして、この先も日本では幼児の虐待死が続くのかなあと。


Kamaal Williams - ele-king

 今年に入ってサウス・ロンドンのジャズ・シーンが俄然注目を集めているが、それに至るきっかけにユセフ・カマールの登場があった。キーボード奏者のカマール・ウィリアムスとドラマーのユセフ・デイズによるこのユニットは、2016年末にファースト・アルバムの『ブラック・フォーカス』を発表するが、ジャイルス・ピーターソンの〈ブラウンズウッド〉からのリリースということもあり、ジャズ・サイドとクラブ・サイドの両面から支持を得ることになった。
 世界的な潮流となっているアメリカの新世代ジャズに対し、英国からの発信を行ったという位置づけがされるのだろうが、そこにロンドン、とくにサウス・ロンドンらしい特色を挙げるとするなら、ペッカムを拠点とする〈リズム・セクション・インターナショナル〉やテンダーロニアスことエド・コーソーン主宰の〈22a〉などのレーベルで見られるディープ・ハウスやビートダウン、ブロークンビーツなどのクラブ・サウンドのエッセンスを取り入れ、さらにそうしたサウンドの源泉となる1970年代のジャズ、ジャズ・ファンク、フュージョンのテイストを忍ばせていることだろうか。
 こうした温故知新で折衷的な手法は、古くはレア・グルーヴやアシッド・ジャズの頃からイギリス人アーティストに根付いているものであり、かつてのウェスト・ロンドンにおけるブロークンビーツ・ムーヴメントが盛り上がっていた頃の4ヒーローやバグズ・イン・ジ・アティックなどに、ユセフ・カマールのアーティストとしての在り方は近いのではないかという印象を抱いたのだった。

 しかしながら、ユセフ・カマールは間もなく解散してしまった。そもそもこのユニットは『ブラック・フォーカス』を作るためだけに立ち上げ、恒常的にライヴ活動を行なうようなグループを目指していたわけではなかったようだ。こうしたワンオフ・プロジェクトはブロークンビーツ・シーンでも多かったし、ジャズの世界でもひとりのプレーヤーがあちこちのバンドで演奏するなんてことは日常茶飯事である。カマール・ウィリアムスもヘンリー・ウー名義でディープ・ハウスを作ったり、K15ことキウロン・イフィルとウー15というコラボをやったり、そしてもともとはヒップホップをやっていたという経歴が示すように、いろいろな方向性に興味の対象を広げている。
 だから、そうした自由な創作活動の足かせにならないように、ユセフ・カマールをアルバム1枚で潔く終わりにしてしまったのかもしれない。『ブラック・フォーカス』のリリースと前後し、カマール・ウィリアムスはヘンリー・ウー名義でティト・ウンとの共作「27カラット・イヤーズ」、バントンとの共作「ディープ・イン・ザ・マッド」、アール・ジェファーズとの共作「プロジェクションズ」という数枚のディープ・ハウスの12インチを出し、ウェールズのDJユニットであるダークハウス・ファミリーのアルバム『ジ・オファリング』にキーボード奏者として客演していた。
 そうしたなかで〈ブラック・フォーカス〉を新レーベルの名称にして、ソロ作となる“キャッチ・ザ・ループ”をデジタル・シングルでリリースしたのが2017年末。ユセフ・カマールに近いタイプの律動的なブロークンビーツ+ジャズ・ファンクから、次第にヒップホップ的なビートへとスリリングに推移していくナンバーで、ユセフ・カマール以上にジャズのインプロヴィゼイションとリズムの面白さを追求した印象だ。この“キャッチ・ザ・ループ”を先行シングルに、ソロ・アルバムの『ザ・リターン』がリリースされた。

 アルバム名を「帰還」としているのは、もちろんユセフ・カマールの『ブラック・フォーカス』からカムバックしてきたという意味があるのだろう。カマールいわく、『ザ・リターン』は『ブラック・フォーカス』の延長線上にあり、もともとユセフ・カマールが彼のアイデアに基づくユニットだったので、『ザ・リターン』はカマールにとってセカンド・ソロ・アルバムに近いものだという。ただし、参加メンバーが違うので、そこが『ブラック・フォーカス』と『ザ・リターン』の差異になっているそうだ。『ブラック・フォーカス』はユセフ・デイズやその兄弟のカリーム・デイズほか、シャバカ・ハッチングス、イエルフリス・ヴァルデス、マンスール・ブラウン、トム・ドリースラーなどが演奏に参加していた。そのなかでカマールのキーボードやシンセとユセフのドラムスのコンビネーションがアルバムの柱となっていたわけだが、今回も鍵盤とリズムの関わり方がアルバムを決定づけていると言える。
 今回はギターのマンスール・ブラウンが“LDNシャッフル”の1曲に参加するのみで、あとはカマールとベースのピーター・マーティン、ドラムスのジョシュア・マッケンジーのトリオというシンプルな形。よりミニマルに贅肉をそぎ落とし、3人のコンビネーションを極限まで高めていったアルバムである。とくにカマールとジョシュアの出会いが重要で、それについては本誌のインタヴューでもなかなか面白く語ってくれているのだが、本作ではカマールとジョシュアの丁丁発止のやりとりがあり、それをピーターががっちりとサポートしつつ新たな導火線を引き、そうした3者の即興やインタープレイ、融合や離反の中から創造的な演奏が生み出されている。『ブラック・フォーカス』に比べて演奏が濃密で、自由度も上がっている印象だ。

 カマールのキーボードは、かつてのロイ・エアーズ・ユビキティの鍵盤奏者だったハリー・ホイテカーとか、ロニー・リストン・スミスあたりの影響が濃厚で、1曲目の“サラーム”の前半にそれはよく表われている。カマールは彼らやハービー・ハンコック、ドナルド・バードなどのレコードをいろいろと聴きこみ、コピーしながら独学でキーボードをマスターしたというから、そうしたフレーズは自然と出てくるのだろう。これと同系の“ハイ・ローラー”は、ブギーやオールド・スクールのヒップホップ的なリズム要素を持ち、オーケストラルなシンセとフェンダー・ローズでハーモニーを形成する。“リズム・コミッション”はエレクトロ・フュージョンとでも言えそうなナンバーだ。
 ただし、“サラーム”は中盤からアメーバのように変容を遂げ、緊張感に富む展開を見せるところが肝である。『ブラック・フォーカス』では割と一定したダンス・ビートに即した場面もあったのだが、『ザ・リターン』ではそうした配慮などは排して、グルーヴは保ちつつもアイデアを広げ、果敢にチャレンジしている。
 “ブロークン・テーマ”はカマールなりのブロークンビーツへのオマージュで、特に鍵盤奏者でドラムやパーカッションも扱うカイディ・テイタムからの影響が強いことが伺える。この曲も前半と後半では曲想が大きく変わり、後半はウェザー・リポートのように抽象的な展開を見せる。そして、“シチューエーションズ”はミラノでのライヴ録音で、より即興性が生かされたキーボードとドラム演奏。“メディナ”はモーダルな曲調のディープ・ジャズで、オルガンのコルトレーンと評された頃のラリー・ヤングに通じる。カマールの持つスピリチュアリティが表われた作品だ。
 “LDNシャッフル”はロンドンのストリートをイメージしたような疾走感溢れる作品。複雑な変拍子はマハヴィシュヌ・オーケストラなどのジャズ・ロックの影響が伺え、ジョシュア・マッケンジーの激しいドラミングに加え、マンスール・ブラウンのギター・ソロも火花を散らすアグレッシヴな展開。そしてアルバムは空間的なシンセによるアンビエントな“アイシャ”で幕を閉じる。
 ちなみに“アイシャ”はドラマーのマッコイ・タイナーが後に妻となる女性の名前を冠した作品で、彼も参加したコルトレーンの『オレ』(1961年)での演奏で知られる美しくモーダルなバラード。“メディナ”はドラマーのジョー・チェンバース作曲で、自身のアルバムでも取り上げたほか、ボビー・ハッチャーソンの『メディナ』(1969年録音)でスタンリー・カウエルらと演奏していた。どちらも同名異曲の作品で、偶然にタイトルが被ったのかもしれないが、あらためて聴いてみるとカマールがそれらの作品にインスピレーションを受けているのではないか、と思える節がある。そういった具合に、カマールのインスピレーションの源は、時代や空間を超えて世界のいろいろなところに広がっているのだろう。

Khruangbin - ele-king

 W杯はあいかわらずクソ面白い。まだまだグループ・リーグの途中だが、すでに大番狂わせがあり、名勝負があり、議論があり、波乱がある。日本が10人とはいえ南米の強豪相手に戦前の予想を覆したこともそうだ。しかしそれ以上に、当たり前にして当たり前のことだが、世界にはいろいろな国があるんだということをあらためて思い知ることの喜びというか。エジプトの健闘ぶりを見ながら(そして、サラーの悔しそうな表情を見ながら)、ぼくはリアーナの“Phresh Out the Runway”を聴かずにはいられなかった。これはエジプトのダンスのスタイル、通称マラガンを取り入れた曲である。もっともスウェーデンが勝ったからといってカリ・レケブシュを聴こうとは思わなかったけれど。
 紙エレキングの最新号でぼくは「ドイツをどこが倒すか」などと得意げに書いているが、スキなしと思われたこの優勝候補は初戦でメキシコに敗れた。この試合を観た人ならわかることだが、とにかく、メキシコが素晴らしかった。メディアではアイスランドの現実的で割り切った戦いが賞賛されているけれど、あれはメッシを神格化したアルゼンチンの自滅ともいえる試合だったし、ごめん、ぼくはフットボールは身長でやるものではないという考えなので、メキシコのような戦い方のほうが好きだ。本当に良いものを見せてもらったな。あとは、ドイツとブラジルがトーナメントの初戦で当たるようなことがないことを祈るばかりだ。
 音楽の世界はある意味では不公平かもしれない。ウルグアイのボサノヴァなんてよほどの物好きでなければ聴かないだろうけれど、フットボールの世界ではウルグアイは古豪として一目置かれている。しかし、いや、サウジアラビアやイランにも良い音楽シーンがあるのだから、一泡吹かして欲しい。もちろんポルトガルにもスペインにも紹介したいアンダーグラウンドな音楽はある。日本も国際的に評価されているミュージシャンは少なくないんだけどね。

 なんだかフットボールと音楽がごっちゃになっているけれど、W杯開催中に何を聴けばいいのかというテーマは、この両方が好きな人ならそのときそのときいつも考えることなんじゃないだろうか。じつは今年は、それに相応しいアルバムがある。クルアンビンというタイ語の名前を持つテキサスのバンドのセカンドは、基本はギターのインストをフィーチャーした、良い感じでゆるめのファンクだが、W杯のようにいろいろな国──イラン、タイ、キューバ、アフロなどなど──の音楽のミクスチャーでもある。インターネット時代にありがちな退屈なハイブリッドではない。さながら極上の煙をくゆらせながらの陶酔におけるミキシングであり、演奏である。こんな音楽を聴きながら感動の余韻に浸るのは最高だよ。血の気の多い人も平和な気持ちになれるだろう。アルバムのタイトルはスペイン語で、「全世界で」という意味。

Eartheater - ele-king

ロボットに人種はない ──マッド・マイク
コンピュータは無垢である ──アレクサンドラ・ドリューチン


 これはまた奇妙で、並外れたエレクトロニック・ミュージックのアルバムだ。作者の名前はアースイーター。NY在住のアーティスト、アレクサンドラ・ドリューチンのソロ・プロジェクトで、本作『IRISIR』が3枚目のアルバムになる。彼女はまたグレッグ・フォックスとガーディアン・エイリアンなるプロジェクトで〈スリル・ジョッキー〉などのレーベルから4枚のアルバムを出している。

 ダンスするのと、ダンスさせられるのではまったく意味が違う行為だが、彼女の音楽はダンスするよう感覚を引き起こす。初期ダンス・カルチャーの本当の素晴らしさのひとつは、広告看板が目に飛び込んでくる現代と違って、資本主義的洗脳から完璧に解放されることだった。もっとも、かつてはマトモスのフロントアクトを務めたことがあるアースイーターの音楽は、いわゆるクラブ・ミュージック的なダンスではない。それは聴いたことがあるようでない、まったく新鮮な響きによって病んだ心をみずみずしく再起動させる。2曲目“Inclined”はぼくが今年聴いた音楽のなかで最高の1曲だ。

 ファッキンな水が私の生命
 私はグローブを脱うとする
 分離したレイヤーたちを引き剥がそう
 私は私の身体をカスタマイズする
 営利目的ではない身体に

 美しさと激しさがせめぎ合う。哀愁を帯びたヴァイオリンのループとフットワークを崩したかのようなリズム、そしてアレクサンドラ・ドリューチンの透明な歌声。ケイト・ブッシュは彼女の英雄だが、この音楽をIDM版ケイト・ブッシュと言いたくなるのを抑えなければならない。ムーア・マザーがフィーチャーされた“MMXXX”では、彼女は破壊的なノイズと帰属的なわめき声そしてラップで空間をねじ曲げてみせている。また、“Curtains”ではハーブの音にジェフ・ミルズ流のミニマルがコラージュされ、“C.L.I.T.”では破片となったベース・ミュージックが再構成されているかのようだ。多彩なレイヤーを複合させることの妙は、評価された過去の2枚のアルバムですでに証明済みだが、『IRISIRI』には明確な主題が浮かび上がってくる。テクノロジー、身体、そしてジェンダー。生命と科学。その複雑性。最後の曲、“OS In Vitro(生体外のOS)”では、彼女は自分の詩をコンピュータのtext to speechになんども読ませている。最初は低い声で、そして甲高い声で、そして女性の声でなんどもなんども。

 この身体はケミストリー……ミステリー
 これらの乳房は副作用
 あなたは彼女を算出(コンピュート)できない
 あなたは彼女を算出(コンピュート)できない

 アレクサンドラ・ドリューチンは、歴史的に意味づけされた女性性というアイデンティティの神話を語り直そうとしているように見える。女性なら誰もが見てきた悪夢を振り払うかのように、彼女は自分の身体をあり得ない角度にねじ曲げながら、新しい抵抗の音楽を作り上げている。きっとそうに違いない。

[2019年1月9日編集部追記]
私たち ele-king はアースイーターのこの『アイリシリ』を「2018年ベスト・アルバム30」の第1位に選出しました。それを機に、急遽歌詞・対訳付きの日本盤CDもリリースされることに。紙版『ele-king vol.23』(https://www.ele-king.net/books/006651/)には彼女のインタヴューが掲載されています。非常に興味深い内容ですので、ぜひご一読を!
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