Home > Regulars > 編集後記 > 編集後記(2018年6月29日)
こんな最悪な週末も珍しい。土曜日である。ぼくは玄関の水槽の砂利のなかに貯まった汚物(餌の食べ残しであるとか糞であるとか)を吸い取って、カルキを抜いた新しい水を入れ替えようとしていた。貧乏なクセに多趣味の自分は、つりも好きで、子供といっしょによく多摩川に行って魚やエビを採ってくるのだが、それら魚やエビの何匹かが家の水槽のなかにいるというわけだ。
ろ過装置をつけているとはいえ、水槽の水は定期的に入れ替えなければならない。家にはアクアリスト専用の汚物を吸い取るポンプ(灯油を入れるときに使うポンプに近い)があり、それを使ってまずはバケツに汚い水を溜める。それを洗面所に捨ててから新しい水を水槽に入れるのだが、その日もいつもと同じようにいっぱいになったバケツを持って、玄関から廊下を水がこぼれないように慎重に歩いていた。で、一歩、二歩、三歩進んだそのときだった。突如バケツの取っ手が折れたのである。バケツは落下し、悪臭漂う水は勢いよくその場にぶちまかれたのだった。
血の気が引いたとはこのことで、廊下の壁に設置してるCD棚の下の方はもちろん濡れている。が、このときはCDどころではない。まずは大量にぶちまかれた汚水をどうやって家のなかから出せばいいのだろうかと、途方に暮れた。
これから先の展開は、あまりにも生々しい家族の話になるので止めておくけれど、その最悪な週末は波乱に満ちた今週の不吉な前兆だったのかも……なんてことはないのだろうが、しかし。
日本とポーランドの試合後の居心地の悪さは、そのルールがイエローカードの枚数に起因することにあるのだろう。たとえば、人生においてイエローカードの枚数が多い人が、ある場面において蹴落とされるとしたら、決して気持ち良いの社会とは言えない。そもそもイエローカード自体が相対的なものだ。基準は審判や試合の流れにもよるし、フットボールにおいて、場合によっては味方にとっての勇敢なプレイに対する証ともなる。試合中、審判に激しく抗議してもカードは出されるわけだが、そんな役回りを絶対権力を行使する死刑執行人だと皮肉ったのはウルグアイの作家、エドゥアルド・ガレアーノである。そんな訳で、カードの枚数の少なさをもって勝負に出たアキラ・ニシノが世界中からブーイングされるのは当たり前であり、そうであって良かったとさえ思う。イエローカードの枚数が順位を決する世界など、ぼくも見たくはない。
しかし指揮官という立場のアキラ・ニシノは、ただがむしゃらに、自分のチームが決勝トーナメントに進める可能性の高いほうに賭けたわけで、昔からグループリーグのことに最終戦は、がちんこの真剣勝負ではなく、露骨な時間稼ぎや体力温存の塩試合、次戦の対戦相手を見据えた打算的な試合なんかはあるものなので、そういう意味ではやることをやったまでのことと言えるのだけれど、今回の場合はそれが意味してしまうところが悪かった。ぼくは明らかにイエローカードの多い人生を歩んでいる。素直に喜べるわけがない。
それでは最後にフットボールのための最高の音楽を紹介しよう。フットボール・ファンでもあるマイケル・ナイマン(ジム・オルークが若い頃に影響されたという本の著者でもありますね)の1996年の作品、『After Extra Time』。タイトルは「延長戦の末」にという意味。さて、いよいよ決勝トーナメントがはじまるぞ!