UCDこと牛田(ラッパー)+4人の楽器奏者(ドラマー、ベース、ギター、鍵盤)という、5人の20代半ばの青年たちから成るバンド、ブルシットは、ジャズとヒップホップを養分としながら、おもいのたけの言葉とグルーヴィーな演奏によって人びとを鼓舞し、安部政権下におけるアンガーも露わにする。ブルースな側面もあるが、連中は何と言っても勇敢な怒れる若者たちである。SEALDs世代における音楽的成果のひとつといっていいだろう。
そう、そんな彼奴らが、賛否両論あろうが世界の見方を変えた奴らが、いよいよ本腰入れてアルバムを録音していると耳にしたので、牛田が眠っているあいだにスタジオに潜入した……と思いきや、写真を見ればわかるように、ブースのなかでノリノリでラップしておりました(ダハハハ)。
少しだけ聴かせてもらえたが、牛田のエモさとのバランスを取るように、演奏はクールでスムーズになっており(その逆の場合=牛田がクールで演奏がエモいこともあるそう)、とにかくこれは、ケンドリック・ラマーからの影響を全力で自分たちなりに解釈した素晴らしいアルバムになるのではないかと期待が高まった。リリースは10月の半ば予定とか? 牛田が泣いて牛田が暴れる、ブルシット只今アルバム録音中!
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歌謡曲の致命傷は本当の意味でのニヒリズムがないことだと言ったのは寺山修司だが、間章がニューヨークでスーサイドのライヴに涙したとき、アラン・ヴェガには“本当の意味でのニヒリズム”しかなかったのだろう。まあ、なにせ自殺者である。彼が昨年の7月16日に78歳で(自殺ではなく)眠りながら死んだとき、42歳にして最初のソロ・アルバムを発表し、身の毛もよだつほど天才的なまでに空回りしたロカビリーを歌った、他に類を見ない、圧倒的に特異なるこのアーティストの追悼文を書かなければ、書かなければ、書かなければ……と思いながら自分も病に伏してしまい、そして秋になったとき、ま、アラン・ヴェガほど感傷的な追悼文が似合わない人もいまいと自分勝手に納得することにした。
……にしても、考えてみれば、マーティン・レヴとのエレクトロニック・ミニマル・ロカビリー・ノイズ・バンド、スーサイドのフロントマンとして、マックス・カンサス・シティで“ロケットUSA”を歌っていたのが1976年だから、ヴェガはこのときすでに30代も後半どころか40手前。1938年生まれの彼はブルース・スプリングスティーンよりも11歳年上で、イギー・ポップより9歳も、ルー・リードより4歳も、ジョン・レノンより2歳も上なのだ。
本作『IT』はヴェガの最後の(11枚目の)ソロ・アルバムである。web上の記事を散見するところでは、2010年から2016年にかけて妻のLiz Lamereの協力のもとで録音されたそうだ。2012年、脳卒中で倒れたというヴェガだが、晩年は病苦に耐えながらの日々だったようで、彼もまた自らの死を予期しながらこのアルバムを録音していたのだろう。もっともここには、デヴィッド・ボウイともレナード・コーエンとも著しく異なるヴィジョンが描かれている。それはひとことで言えば「怒り」だ。彼の魂は平和に着地するどころか、狂暴で、挑発的で、激しく、そしてわめき散らしている。
“DTM”とは“Dead To Me(俺に死を)”の意味だそうで、そうなるとこれはたしかに自分の死を意識して作られた曲になる。すさまじいノイズも、スーサイドのアップデート版と言ってしまえばそれまでだが、70過ぎの老人の、この期に及んでの怒れるノイズ──まったく驚嘆に値する。“Screaming Jesus”なる曲では、電子ノイズをバックにアメリカを糾弾し、叫び続けているのだが、そうした政治性以前の、我らがアドレッセンスの問題として、思いだそう──かつて音楽にとって大切だったのは、夜も眠らぬむき出しの魂と、空しさと、烈火のごときパッションだったことを。
言うまでもなく、アラン・ヴェガは(そのときすでにいい歳でありながら)パンク・ロックの始祖のひとりであり、シンセ・ポップにおけるマイルストーンである。彼はもともとヴィジュアル・アーティストで、ヴェガが70年代にマンハッタンに開いたアート・ギャラリーは、当時のNYのパワフルなアンダーグラウンド・シーン(NYドールズ、テレヴィジョン、ブロンディなど)とリンクした。そのあたりは宇川直宏を彷彿させる彼だが、ギャラリーを通じてマーティン・レヴと知り合い、スーサイドを始動させた。突然変異的なブルース・ヴォーカルと極度にミニマルなエレクトロニック・サウンドをあり得ない姿で融合させた歴史的な1stとディスコ・パンクの青写真となった2ndを発表すると、ヴェガはロカビリーを基調にした美しくも空しいソロ・アルバムをリリースする。それは、ロカビリー全盛の夢の時代へのニヒリズムすなわちアンチ・アメリカン・ドリームの記録であり、彼の超越的なアンチ・アメリカン・ドリーム・バラード“ドリーム・ベイビー・ドリーム”はブルース・スプリングスティーンにもカヴァーされている。とはいえ、90年代以降のヴェガは、スーサイド再評価にかなうほどの作品を作れなかったかもしれない……が、本作『IT』によって、ボウイともコーエンともまた別の、これはこれでじつに強い意思による、なんとも凄みのある“最後”を見せつけたのである。
2000年代以降のクラブ・サウンドやエレクトロニック・ミュージックを中心に聴くような人にとって、アダム・ルドルフの名はビルド・アン・アークやヒュー・ヴァイブレーショナルなど、カルロス・ニーニョの関連プロジェクトで知ったケースが多いだろう。しかし、それよりはるか以前から長いキャリアを持つルドルフは、もともとシカゴのフリー・ジャズ・シーンやワールド・ミュージック畑で活躍してきたパーカッション奏者で、アメリカにおけるアフリカ音楽のパイオニア的存在のひとりである。1955年生まれの彼は、1974年にデトロイトの〈ストラタ・レコーズ〉から発表されたマラウィのアルバムが初めてのレコーディング参加作となり、それ以降はドン・チェリー、AACM、ファラオ・サンダース、ハービー・ハンコック、ビル・ラズウェルなど数多くのビッグ・ネームとの共演があるが、中でもマルチ・リード奏者の巨星ユゼフ・ラティーフとのコラボレーションが名高い。1970年代後半よりガーナやガンビアなどアフリカに移住し、グナワなど現地の音楽を学んでいたルドルフだが、同じくアメリカからアフリカに移住して演奏活動や音楽教育をしていたラティーフとの交流が生まれ、1988年よりラティーフが亡くなる2013年までコラボレーションを行ない、14枚もの共作アルバムを録音している(カルロス・ニーニョ、AACM出身のハミッド・ドレイクと組んだヒュー・ヴァイブレーショナルでも、ユゼフ・ラティーフをフィーチャーしたアルバム『ユニヴァーサル・マザー』を残している)。
ムーヴィング・ピクチャーズはルドルフのメイン・プロジェクトのひとつで、1992年に初レコーディングをおこなって以来、今回の新作『グレアー・オブ・ザ・タイガー』を含めて7枚のアルバムをリリースしている(『グレアー・オブ・ザ・タイガー』のリリース元の〈メタ・レコーズ〉は、ラティーフとの共作はじめルドルフの作品を数多く発表してきたレーベルである)。作品によってムーヴィング・ピクチャーズのレコーディング・メンバーは変わっているが、『グレアー・オブ・ザ・タイガー』ではサックスやフルートのラルフ・ジョーンズ(彼もビルド・アン・アークに参加していた)、ギターやエレクトロニクスのケン・ウェッセルといった常連メンバーに加え、ヒュー・ヴァイブレーショナルで一緒だったドラマー&パーカッション奏者のハミッド・ドレイク、かつて〈ブルーノート〉から『ダーク・グルーヴズ,ミスティカル・リズムズ』という優れたアルバムをリリースしていたキーボード奏者のジェイムズ・ハートが参加している。土着的で民族色の強いルドルフの作品の中にあって、新作『グレアー・オブ・ザ・タイガー』はアーバンなファンク色が濃いものとなっている。エレキ・ベースやエレピなどの楽器構成、いつもより多目のエレクトロニクスの導入がそうしたサウンド形成の要因となっており、それとルドルフの多彩なパーカッション群、ドレイクのドラミング&パーカッション・プレイの絡みが本作の醍醐味である。
13分を超す大作となった表題曲は、ジャンベなどのアフリカン・パーカッションが生み出すプリミティヴなリズムのうねりと、コズミックなキーボード群、シャープなホーン・アンサンブルなどが一体となったジャズ・ファンク。ソリッドなギター、ミステリアスなフルートなどによるシリアスなイメージの“シレスキュー”とともに、かつてのエレクトリック・マイルスを想起させる作品だ。一方、“エクスタティサイズド”はラテン色の強いナンバーで、ムーヴィング・ピクチャーズの開始時からずっと一緒にやってきたラルフ・ジョーンズのサックスが活躍する(この曲でもそうだが、彼は多種のサックス、フルート、クラリネットを多重録音し、ホーン・アンサンブルとして完成させる手法をとっている)。表題曲やジャズ・ロックの“ローテーションズ”がエレクトリック・マイルス、マハヴィシュヌ・オーケストラなどを彷彿とさせるのに対し、こちらはキップ・ハンラハンのディープ・ルンバに通じる作品だ。“レーラ”から12分超えの“ワンダーリングス”へと繋がる2曲は、アルバム中でももっとも神秘性を感じさせるパート。ずっと瞑想的な流れで進み、“ワンダーリングス”の後半でダイナミックなリズムが爆発するという展開だが、ジェイムズ・ハートの『ダーク・グルーヴズ,ミスティカル・リズムズ』にもこうしたスピリチュアルな音楽性が流れており、彼の参加が本作に果たす役割を物語る。カマシ・ワシントンのようなタイプとは異なるが、本作もまたもうひとつの現代のスピリチュアル・ジャズと言える作品だ。
コペンハーゲン出身、1989年生まれのローク・ラーベクは、レーベル〈ポッシュ・アイソレーション〉の主宰者であり、同レーベルからアルバムをリリースするエクスペリメンタル・ノイズ・ユニット、クロアチアン・アモール、ボディ・スカルプチャーズ、 ダミアン・ドゥブロヴニクのメンバーでもある。さらにはブルックリンのインディ・レーベル〈セイクリッド・ボーンズ〉からリリースしているエレクトロ・ポップ・ユニット、ラスト・フォー・ユースのメンバーとしても知られており、まさに現在のユース・サウンドを象徴する重要人物といえよう。
そのローク・ラーベクがソロ・アルバムを、ウィーンのエクスペリメンタル・ミュージック・レーベルの老舗〈エディションズ・メゴ〉から発表した。自身の名義が刻印されたアルバムは、2015年にピュース・マリーとの共演作『ザ・フィーメール・フォーム』を〈ポッシュ・アイソレーション〉からリリースしているが、単独でのソロ・アルバムは『シティ・オブ・ウーマン』が(公式には)初である。彼に目を付けた点は、さすが長年にわたってエクスペリメンタル・ミュージック界の先端的キューレーションをおこなってきたこのレーベルならではの審美眼ともいるし、自身のソロ・アルバムを〈ポッシュ・アイソレーション〉からのリリースにしなかったあたりにローク・ラーベクのセンスの良さを感じたりもする(まあ、このへんは結局、すべて繋がっているともいえるから一概にはいえないだろうが)。
それしても『シティ・オブ・ウーマン』は素晴らしい。現代的なモダン・ノイズ・アルバムでありながら、ノスタルジックな音楽の記憶の欠片が散りばめられているような音楽性で、イマジネーションが強く刺激される。ハードなノイズ、ノスタルジックなピアノなどの楽器音、消えかけた刹那の絶叫のような声の残滓、強く、しかし怠惰に打ち付けられる打撃音。その音のどれにも「血の匂い」がするのだ。不穏でもある。官能的でもある。構築と衝動が高密度に結晶しているとでもいうべきか。〈ポッシュ・アイソレーション〉のノイズ・アルバムがそうであるように、この作品にも繊細な知性と衝動性が同時に共存しているのだ。
アルバムはA面に4曲、B面に5曲、計9曲が収録されている。時間にして33分ほどだが、ノイズ/ミュージックは聴き手の時間感覚を失調させるものだから、実時間と音響作品の密度は(それほど)関係はない。ちなみにマスタリングはお馴染みのラッシャッド・ベッカーが手掛けており、録音作品としての品質をさらに上げている。
硬質なノイズによって始まる1曲め“ライク・ア・スティル・プール”のサウンド・レイヤーは、まるで波のように聴き手を本作の音響空間へと連れていく。音の波へと意識をダイブされた後は、2曲め“フェルメンテッド”で、深海を漂う意識/記憶のように静謐な音響空間の海に浸ることになるだろう。ここでは断片的なピアノの戦慄が鳴り、微かな環境音や楽器音が淡く交錯する。3曲め“シティ・オブ・ウーマン”は、ティム・ヘッカー以降の最先端アンビエント・ノイズ・ドローンが展開される。持続音をダイナミックに、繊細に変化させ、そこにノイズや変形したヴォイスのような細やかなサウンドを重ねていく。とてもドラマチックなアンビエント/ドローンだ。このトラックこそアルバム前半のクライマックスである。
4曲め“ア・メス・オブ・ラブ”は、何かをカウントするような音と、それとまったく関係ない静謐な持続音がレイヤーされ、やがてエレクトリック・ギターのようなコードと聖歌隊のように澄んだアンビエンスが交錯する。トラックの音響全体にどこか「非同期的」な感覚があり、坂本龍一の新作『アシンク』と共通するようなムードがある(これは興味深い偶然だ)。
そんな非同期的なムードのままアルバムA面は終わり、B面1曲め(5曲め)“パーム”になる。この曲は後半のオープニングを飾るに相応しい不穏なトラックだ。続く“イン・パイルズ・オブ・マガジンズ”では不規則な打撃音と硬いノイズ、衝動的に打たれるキックの音などがまたも非同期的にレイヤーされていく。楽曲は後半になるに従いノイジーになり、何か深い呼吸音のような音、過剰にエディットされた環境音のようなサウンドたちが不穏なムードを演出する。そして僅か50秒程度のインタールード的な“ア・ワード・ア・デイ”は、美しく静かなピアノ曲。短い曲だがアルバムを聴き終わると、この50秒間の音楽/音響の印象が強く残るのが不思議だ。その僅かな休息を挟んで、アルバムはラスト2曲“スウィムウェア”と“テイク・プレジャー・イン・ハビッツ”へと至る。硬く、過激で、硬質で、メタリック。まさにサウンド・オブ・ノイズ。そんなノイズの快楽に酔いしれているうちに、あっという間にアルバムは終わる。
同時期に〈ポッシュ・アイソレーション〉からリリースされた ローク・ラーベクとクリスチャン・スタッドスゴーアのユニット、ダミアン・ドゥブロヴニクの新作『グレート・メニイ・アローズ』(こちらも傑作)を聴いても分かるのだが、 ローク・ラーベク、〈ポッシュ・アイソレーション〉らコペンハーゲンのニュー・エクスペリメンタル・ノイズ・サウンドには、どこかアンビエント化したブラックメタルかのごときアトモスフィアを強く感じる。それは『シティ・オブ・ウーマン』でも同様だ。
崩壊しつつある「世界」への不満・不穏と、ロマンティックな「美」への憧れと衝動の交錯。欧米中心の世界が壊れていく21世紀初頭のユース・ノイズには、確かに、反抗的で、しかし美を強く希求するエモーショナル/ロマンティックな意志が強く刻印されている。だが、私などは、そこに、不思議と、まったく音楽性が正反対であるにも関わらず、どこか80年代のネオ・アコースティックな音楽と同様の匂いを感じとってしまうのだが、どうだろうか? そこにこそ彼ら特有の血の匂いの本質が隠されているように思えてならない……。
ある事情から、ドラムを叩くのではなくて、ドラムのことを書かないといけないことになって、つまりドラムのことを考えないといけなくなったら、少しドラムが上手くなった気がする。
これは意外なことだった。当たり前と言えば当たり前だけど、僕は書いている最中、つまり考えている最中、ドラムを叩く時間が少なくなっていることと、文章が全くものにならないことへのストレスに苛まれているだけだ、と思っていたのに、ドラムセットの前に座ると不思議と力が抜けて、クリアしたいと思っていたことや、今まで気付かなかったことができるようになっていたりする。時間を置くことによって、知らず知らずのうちについていた変な癖が自然となくなるということもあると思うが、考えること、それから、聴くことがこんなにも影響するのか、わかっていたつもりだが再確認させられた。

今までは、仮説を立ててそれを実践していくということが多かった。どんな仮説か大雑把に言うと、自分の平坦なリズムも、育った環境から鑑みると致し方ないこととし、ドラムを叩く前にパーカッションを叩きリズムの成り立ちに少しでも触れた後、ドラムに孵化させれば、ワールドワイドなリズムの感覚と、嫌でも付きまとう日本らしさが、ちょうどいいところに落とし込まれて、ちょっと違うドラマーになれるのではないか、と言ったところだ。10代の終わりから20代をフルに使っての実践の成果は当たらずとも遠からずといったところで、結果から言うと、いろんな打楽器をやってきてよかったけど、そんなに固く考えなくてもいいんじゃないか、というところ。そこまで、やっと来た。それは、これまでの否定ではなくて、段階だ。考えなくても、平坦でありきたりのドラムはもう叩けなくなった。それは嬉しいことだけど、それだけのことだ。これも仮説というか、妄想に近いが、やっと海外かどこかの子供くらいにはなった、といった感じ。J-POPのことなんて忘れ去ってしまいたかった。
そう思い返してみたものの、やっぱり今までだって聴くことに重きを置いていた。機材と同じ程には……いや、機材なんて学生時代に一生懸命集めたからバンドでもなんとかなったようなもので、レコードばかりに僅かのお金をはたいて来た。レコードはなかなかどうして、いい。アイデアが、逡巡の傷跡が、その時にしかなかったものが、密かに刻まれている。そのことを思ったら、自分なんて音楽に隠れてしまわないといけない。どうせ顔を出すときは出す。

所謂ドラマーとしての基礎を飛ばしてきてしまったので、少しは迷惑かけないようにしていかないといけないし、そこはそれこそ考えることでクリアしていかないといけないのだが、まだこんなことばかり思っている。最近は、USインディーのドラムが面白い。リズムの間が豊かで平坦ではないことはもちろん、アイデアが詰まっていて、聴いていて面白い。ステラ・モズガワ嬢、ジャスティン・サリヴァン、いいリラックス具合にシンプルに音楽を昇華させるようなアイデア、ジェイ・ベルロウズ、自由自在、断トツな実力を凌駕する湧き出るアイデア、やや、挙げるとキリがないのだが、リズムが大切にされている上でのアイデアという感じで面白い。ジョン・フェイヒーのリズムへの意志が伏流水のように上がってきたかのような浪漫も感じる。フリート・フォクシーズの新譜なんて音楽がドンと提示されまくっていて楽器のことなんて一回聴いただけでは覚えていません(A,B面でお腹いっぱい。長く聴いていくことが出来そう、というか必要……)。ハットがなくて、他の楽器がキープしているような、理に適った形のアレンジも多くて、聴きやすいし、かといって物足りなくない。
そういう音楽に触れていると創作欲求を刺激される。これからは仮説じゃなくて、実験だ。仮説を元にやったことは考え過ぎなくてよくなったから、考えるウエイトを少しアイデアに移すことができる。岡田のソロ・アルバムがもうすぐ出るはずだが、彼は僕のドラムのことをよく知っている上で、アイデアを投げてきたり、引き出させたりする作業が面白かった。僕には浮かばないこれをやらせたらどうなるかとか、こういう曲では僕はどうやるだろうかとか、「いままでやってきたことを全部忘れて」なんて言われて叩いた曲もあった。「やってやろうじゃないか」と奮闘するも、そこそこのところ以上は意識しても簡単に消えるものでもない。そこもバレていたのかどうか、まぁいいや。

今までやってきたことを止めるわけではない。まだ「どこかの子供」レベルだ。大分に拠点を移してからは、地元のアフリカンチームの練習に参加して、ジェンベやドゥンドゥンを叩くのが毎週の楽しみになっている。アフリカ帰りの大ちゃんに刺激ビンビン、できないとすごく悔しくて、質問攻めを食らわせるのが毎回だけど、とにかく楽しい。向こうも楽しそうだ。
忘れるということは、覚えること以上に難しい。やっと、忘れることじゃなくて覚える段階に来たような気がしている。
滅多にないことだけれど、電気グルーヴに興味を持ちはじめた人からどのアルバムがお勧めかを聞かれることが時々あって、嬉しい反面なかなか回答に困る。ライブの定番曲が入っているアレか、ヒット曲が収録されたアレか、ナンセンスな魅力が濃縮されたアレや、聴きやすいベスト盤のアレ、ジャケで選ぶとアレだし、いっそ初期から聴くならアレとか、いやいや企画ものアレこそお家芸じゃないか、とアルバムの数だけこちらも思い入れもあるわけで、どの部分を知ってもらいたいかという手がかりを探しながら、尚且つ誰よりもベストなチョイスをしたいという陳腐な使命感まで出てきて、頭はどんどんこんがらがっていく。
ならば逆に何を勧めても良いはずで、いまなら一番新しいアルバムの「TROPICAL LOVE」を迷わず差し出すことにする。前作「人間と動物」から4年ぶりとはいえ、その間の状態の良さは1昨年に公開された映画「DENKI GROOVE THE MOVIE?」と、昨年のフジロック・フェスティバルでのクロージングアクト、そして石野卓球のソロでもしっかり確認できているし、トレンドに構わずいっちばん面白い音楽を作るようになってからの電気グルーヴは強い。
アルバムの蓋を開けると、ピエール瀧の歌唱の裏で無駄にかっこいいkenkenのベースと動物の鳴き声が飛び交う「ど」が付くほど電気グルーヴ感丸出しの“人間大統領”や、ファンにお馴染みのまりんの声がサンプリングされたシュールな“東京チンギスハーン”など、はじまりこそ破壊力のある電気グルーヴのままで進んでいくけれど、聴いていくうちにいつしか新しいエレクトロニックな楽園に迷い込んでいく。それは艶々とした手触りのいいジャケットのようにエキゾチックな感触。清々しいほどリスナーの内面に全く響いてこない歌詞、なのに不思議と口ずさみたくなるようなメロディ。とくにじわじわとアシッドな余韻を残して消えていく4曲目“プエルトリコのひとりっ子”から軽めのブレイクビーツが堪らない“柿の木坂”、ベースラインを活かした“Fallin' Down”、インスト曲の“ユーフォリック”へと続く流れは、その名の通りに違う場所へと導いてくれる。
そして何と言っても素晴らしいのがタイトル曲の“トロピカル・ラヴ”で、チル・アウトなムードを漂わせたイントロから始まる南国テクノ・ポップのマイルドな中毒性に、脳がじわじわ蝕まれるよう。とある雑誌のアルバム発売時の特集で、グアムの海で満面の笑みを浮かべた水着姿の半裸の中年男性こと電気グルーヴの2人のはしゃいだ写真の上に
「GOサイン NOサイン 曖昧なサイン 始まりの気配? トロピカル・ラヴ…」
と、歌詞の一部が添えられたページがあって、それを見たとき、わ、これこそ電気グルーヴがやろうとしていることそのものなのではないだろうかと感心してしまった。一見触れただけではわからない、冗談と本気の境目をなくした、ポップで特殊なもの。スチャダラパーのBOSEは“今夜はブギーバック”の制作について「クオリティと契約の両方の責任を取った」と話していたけれど、電気グルーヴも“シャングリラ”で同じことをやり遂げたはずで、その後も大衆性を失わず、20年後のいまもこんなにフラットで心地よい曲に謎のエッセンスを注入して、カラオケ文化の廃れない日本にまだ落とし続けていることを思うと、さらに心を打たれる。
アルバムの終盤には夏木マリのヴォーカルとスパニッシュ・ギターが効いた大人っぽいハウスを披露し、そのまま美しくフェードアウトするのかと思いきや、最後に何とも不気味な曲をじんわり置いていく。「トラックは良いけど……」という気休めが通用しないほど言葉と音が密着して背後にこびりつき、なぜいま自分はエフェクトのかかったガマガエルの歌を聴いているのだろうか……? と湧き上がる疑問をどこにぶつけていいのかわからず終い。さっきまでの気持ちのいい流れを無かったことにするかのように終わるのが恐ろしくて、結局また始めからリピートしてしまう。“Stand By You”。齢50にしてこの言語センス。電気はリスナーを突き離さず、むしろ道連れにする。優しいんだか優しくないんだか。
7月26日には「TROPICAL LOVE」のインスト盤「TROPICAL LOVE LIGHTS」が発売されるとのこと。今年の電気は豊作らしい。ダンス・ミュージックとお茶の間のあいだの何も無かった場所に何年も畑を耕し続け、出来た土壌にいろんな種を蒔き、産地不明の謎の肥料を与えて、そこにたくさん実った奇妙な色の果実を、ここが一番美味いと私達はありがたく食べ続けている。きっともぎたてが一番美味しいはずだから、誰かに少し分けてあげようか。見えないくらい小さな文字で「毒入り注意」と添えて。
スケシンさんがデザインを手掛けるC.Eといえば、日本のクラバー御用達のブランドですが、ロンドンのWill Bankheadが主催するレーベル〈The Trilogy Tapes〉とも親交が厚く、これまでに何回もパーティを企画しています。その流れでC.Eのショップにはミックステープなども置いてあるわけですが、つい昨日から、「TTT MOUSE T」という名前のロングスリーブTシャツも売られているようです。C.Eのショップだけ((ウェブでの販売はなし)での販売だそうで、好きな人は早めに行かないとすぐに売り切れちゃいますよ~。
問い合わせ:C.E 03-6712-6688 www.cavempt.com
これはちょっとした事件かもしれない。これまで〈Pan〉から『Dutch Tvashar Plumes』や『Koch』といった尖った作品を発表し、また自身の主宰する〈UIQ〉から独創的なアーティストの数々を送り出してきたリー・ギャンブルが、なんと〈Hyperdub〉に移籍する。9月15日には新作『Mnestic Pressure』のリリースも決定しており、先行して新曲“Istian”が公開されている。やはり〈Hyperdub〉は目の付け所がいいというか、これはちょっとした事件かもしれない。
中古レコードショップじゃないところからこういう作品を探し出したかったという密かな希望は満たされた。久し振りに音楽のための音楽を聴いている気分にさせられるようなユーモアが、アルバムをしてベタつかせていない。だからといってただ軽いわけでもなく、ユーモアと不可分のバリエーションが耳を飽きさせない。キャリアからもよく伺えるブラジル音楽を基調とした音楽的説得力に裏付けされた圧倒的ユーモアと、それの独特なコミュニティでの共有によって作り上げられた作品は痛快そのものだ。
永い間、痛快ということは、民族音楽と言われるものやブルースの専売特許だと思っていた。いい意味での狭さの中の深さが誰しもをスカッとさせるような。『オルガンス山脈』を聴いてそれは古い考えだと気が付いた。
自国ブラジル音楽への尊敬は、ショーン・オヘイガンがプロデューサーとして参加しても、すでに言われているようにポスト・ロック的実験要素が加わっても、ブラジルらしさを損なっていないことからも伺えるが、リズムに目を向けると、ザ・ブラジルのリズムと言われているビートではない曲、例えば#2のUSインディーにあってもおかしくないようなビートでも、#3のショーン・オヘイガンらしいシンプルなビートでも、#8のカンドンブレのリズムにドラムが入っていても、#10のカシンらしいディスコ調のビートでも、ブラジル音楽から得たリズムの普遍性みたいなものを纏っていて、実に空間豊かである。そこに痛快さが残る余白があるし、ユーモアに説得力を与える一因にもなっている。
音の柔らかさや、圧倒的なユーモアという点では、ソフト・ロック的だと言えるかもしれないが、60年代後半のソフト・ロックがここまで全体を見渡せていたようには思えない。当たり前にあった自分たちの音楽が土台になってはいるが、その先は、偶然の産物みたいな曲やアレンジで、アルバムに1曲か2曲キラー・チューンがあって、他は退屈な曲で埋め尽くされている作品がほとんどだ(その1曲か2曲を探すのがエキサイティングなのではありますが)。
一方、『オルガンス山脈』は、必然の賜物だ。2006年にロンドンでの「ドメニコ+2」のショーで出会ったというショーン・オヘイガンのアレンジは、ドメニコのオーガニックなサウンドと相性抜群で、時にショーンの曲にドメニコがアレンジしたかのようにも思えてしまう(それがほんとに行われた時どうなるのかも楽しみだ)。実際、#13はショーンが歌詞、歌、演奏をすべて手掛けていて、ハイ・ラマズの新曲と聴き間違えるというか、そういっても過言ではない。2人の邂逅自体必然だろう。中原氏が指摘している「美しさの中にさりげない実験精神と遊び心と刺激がひそんでいる」という点も、作品をして飽きさせないバリエーションに繋がっている。そして、そのアイデアとセンスの共有の完成度たるや! 誰かが何か言い出して、誰かがそれに返して点とか、創作現場を想像するだけでも胸が躍る。そして、この作品のリズムの豊かさとユーモアに実際に踊る。
保守でもないけど、土台は必要だし、というか気持ちいい方がいいし、進歩でもないけど、土台を元に新しいものと出会う、と。そんな意志というか柔らかさみたいなものをドメニコからは感じる。
この機会に、カエターノの子供たちと言われているコミュニティの作品を色々聴き直してみたが、僕は、この作品が一番面白いと言いたい。確かに、ハイ・ラマズのファンということを差し引いているとは言えないが、まぁ差し引く必要もなく、2人の邂逅を素直に喜びつつ、ショーン・オヘイガン本人も言っている、彼らの「good vibes」に浸りたい。
聴くという行為は音が言葉で置き換えられなくても起こり得るということである。 (本書より)
先日多摩川に行ったら、鬱蒼と茂る土手の草むらのあちこちから、7月の上旬だというのに、早くも虫たちの声が大きく聞こえた。まさに立体音響。臨場感たっぷりのバイノーラル。バイオ・ミュージック。というか、これが自然音。聴かなければ聴こえてこない。ジョン・ケージ風に言えば、聴くことは創造的行為。
90年代に小山田圭吾はこう言った。作り手の想像力と聴き手の想像力が重なる領域で鳴る音楽を目指す。その領域をアンビエントと呼べるなら、『Mellow Waves』にも、ハウス・ミュージックにも、アンビエントがある。
この話は、90年代に某イギリス人ライターに言われたことともリンクしている。読者もいっしょに考えてもらえる文章を目指していると彼はぼくに言った。我こそはそのジャンルのプロパーなりという態度はしない。作品の作者は自分なのだから自分が言っていることが正しいなどと作品を作者の奴隷にしない。自然の音は聴く人が聴けば作品になる。芸術家を崇めることを止める代わりに、凡庸な日々こそが芸術になりえる。そもそも実験とは、“問い直し”を意味する。ゆえに実験主義とアンビエントは隣接し、ゆえに実験とは、保守的な社会への抗議にも結びつく。
デイヴィッド・トゥープの『音の海』には、こうした感覚が巧妙に描かれている。翻訳が出る数年前だったので、ぼくは自分の拙い英語力で苦労しながら原書で読んだものである。翻訳が出てからは、3人の友人に同書日本語版を買わせた。自慢ではないが、ぼくはトゥープをライターとして有名にした『The Face』誌の1984年の黄色い表紙のエレクトロ特集も所有していた。1993年の『The Face』誌の「Ambient Summer」の記事もリアルタイムで読んでいる(『Ambient Works Vol.2』リリース時におけるリチャード・D・ジェイムスのインタヴュー記事も)。影響を受けたと言えるほどトゥープの全著作物を読んでいるわけではないが、尊敬しているライターのひとりであることに間違いはない。
とはいえ、よくわからないところもあった。たとえば、元々はデレク・ベイリー以降に登場したインプロバイザーのひとりであり、イーノの〈オブスキュア〉からも作品を出しているトゥープは、何故いちはやくジャーナリストとしてヒップホップについて著した『Rap Attack』を上梓したのだろうか──。
本書には彼の音楽遍歴がこと細かく記されている。トゥープは前衛/実験音楽の徒である前に、ブルースやソウルといったブラック・ミュージックを幼少期から好んでいる。アカデミズムとも繫がる前衛/実験音楽界、とくにその書き手たちは、涙もろい人情的なソウル・ミュージックなどは本気で相手にしない傾向にある。生活のために書いたとトゥープは告白しているが、『Rap Attack』が気持ち良いのは、まだシーンがアンダーグラウンドだった時代(重要人物と会うのに、面倒な手続きを要しなかった時代)に立ち会えたという幸福が重要項目であるにせよ、テキストの根幹に、トゥープの無垢とも言えるブラック・ミュージックへの愛情があるからだろう。もちろん世のなかには、愛が言い訳にしかならない駄文は多々ある。が、音楽に関する経験と思考を重ねた成果を願わくば他者と共有したいと思うとき、結局のところはそこに行き着くものなのだ。
『フラッター・エコー』はデイヴィッド・トゥープの自伝である。まさかこんなものが読めるとは思わなかったので、嬉しくて、ページをめくるのがもったいない気持ちで本書を読んだ。長年読み続けていたライターの、労苦の絶えなかった人生を知ることができたという喜びも覚えた。とりわけ女性との別れ、そして貧困については赤裸々に書かれているわけだが、彼の人生を見ていると実験音楽やアンビエントといったマニアックな音楽が、知識偏重的でも、高年収専門の音楽でもない、ということがよくわかる。むしろそれは生き方の自由とリンクして、とくに、人生最大の苦境において、自分に残されたオプティミズムのすべてを注いで『音の海』が執筆されたという話は、ぼくを揺さぶるには充分過ぎた。
『音の海』を読んでいると、世界のいろんな“音”の場面が、人知れず接続して、ゆっくりとスムーズに拡がっているような感覚を覚える。それは音楽書の読書体験としては最高レベルのもので、と同時にそれは、聴くという行為が創造的行為であり、そしていまだ実験的かつ神秘的な体験であることを再認識させる。
ライターである私にとって事態をさらに複雑にしているのは、どのようにして言葉で置き換えられることなく音を聴き、その一方で言葉が不在の聴覚体験を言葉で説明するかという問題である。これは不可能に近い。私の一生の仕事であると言える。(本書より)
