「Noton」と一致するもの

ストレイト・アウタ・コンプトン - ele-king

「以前、淡谷のり子が『80歳越してごらんなさい、1時間は10分ぐらいよ』と言っていた。 ものすごい説得力であった」
ナンシー関『ナンシー関の顔面手帖』(1991)

 #OscarsSoWhite(アカデミー賞は白人ばかり)の典型的なサンプルとして挙げられたりもした『ストレイト・アウタ・コンプトン』が日本で公開されたのは冬もいい加減寒い時期で、画面の中でギラつくカリフォルニアの陽射しと何とも間抜けにズレる感じはするものの、4ヶ月遅れでも何でも公開されただけでも善し、としなくてはならない。それはこの作品が(リアルタイムで追いかけていた人を除く)日本人の「ラップ」への誤解を力強く解きほぐしてくれる作品だからで、ええとアメリカの黒人のチンピラがやってる音楽のようなもの、という認識は30年経っても大して変わっちゃいないのではないか、と自分を省みながらも気が付けば「R&B/Soul」と「HipHop/Rap」の境界線が済し崩し的に曖昧になって久しい中、そもそも「ギャングスタ・ラップ」はどういった土壌から立ち上がって来たのか、をN.W.A.(Niggaz Wit Attitudes)という一つのグループの始まりから終わりまでを中心に据えて、映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』は彼らの周辺に流れていた時代の空気を召喚する。

 ロイ・エアーズの“Everybody Loves The Sunshine”がうっとりと流れる中、タイルのようにレコードが敷き詰められた部屋に寝っ転がる(駆け出し時代の)ドクター・ドレー登場シーンが象徴するように、例え「アメリカで最も危険な地域」にも音楽の喜びはあり、当然ながら日々の生活もあり、家族の問題もあり、そして黒人の若者は路上に立っていただけで警察に後ろ手に縛り上げられる現実もある、というのがひと続きの流れとして入ってこないと「ラップ」はいつまでたっても「不良の与太話」以上のものにはならないわけで、日本に住んでいて漫然と見聞きする情報の中で一番リアリティを欠いていたのはこの「生活」部分だったのかも知れない。

 恐らく自分たちが予想できる以上に売れてしまった彼らが「金、酒、女、薬」をてんこ盛りにした「生活」の果てにエイズで死ぬ人があり、世界有数の富豪になる人があり、生き残った人の息子は映画の中で実父を演じる、などなど30年の間に育ったものと逝ったものが交錯する現在も「金、酒、女」という表象がスタイルとしてだけ残り、何故いまだ飽きもせずプールサイドでビキニの女の子が大挙してくねってるミュージック・ヴィデオが量産されるのか? と考えれば、スラム街という煉獄の中から一瞬の幸福な火花を散らしながら成金地獄に突っ込んで結構そのまんま(今に至る)、な現状を示すためにもこの映画はあるのではないかと思えてくる(もちろんN.W.A.のクロニクルなので「その後のサクセス」が描かれないのは妥当ではあるけれども、そこから2015年に至るまでの20年間をダイレクトに接続するのを慎重に避けている感じもある)。

 米アカデミー会員に80代以上の人がどのくらい居るのかは知りませんが、もし淡谷のり子が言ったように「1時間は10分ぐらい」であるならば、30年はまあ5年で20年などは3年3ヶ月、アカデミー賞の中の人にとってはこないだ生まれた孫が小学校に上がった、くらいなもんでその間に起こった大体のことはかすりもしない。かつて「アカデミー賞」にも活き活きとしていた時代はあったのでしょうし、ギャングスタ・ラップが最も活きの良かった時代もとっくに過ぎ、中身が萎んだり流れだしたりしてがらんどうになった殿堂が残ったとき、そこに水を与えて蘇生させるのか、または全く別の何かで満たすのか、はたまた放棄するのか(どうすんだ?)、は今を生きる人間の前に投げ出されている──クリス・ブラウンが愛娘を抱いたジャケットの新作を発表した2015年の、その翌年の日本にも。

 【追記】そういえばこの映画、「男が女に引っぱたかれる」シーン及び「男同士の乱闘」はありましたが「男が女を殴る」シーンはついぞありませんでした。でしたが反面「オカマ」といった蔑称は(当時の曲の歌詞としてではありますが「時代的背景と作品の価値とにかんがみ」と言う感じなのか)別に避けずに出してきたのでこれが今のアティテュードなのかなあ、と漠然としたラインも見えました。

Fennesz - ele-king

 本作は、フェネスがグスタフ・マーラーの交響曲をリ・コンポジションしたアルバムである。もともとは2014年にフェネス自身のバンドキャンプからデータ配信されたアルバムだが、2016年になり、フェネスの『ヴェニス』(2004)や『ブラック・シー』(2009)などもリリースしている英国の老舗音響レーベル〈タッチ〉からダブル・ヴァイナル/データとしてリ・リリースされた。
 収録された音源自体は、2011年5月にウィーンのラジオ・クルトゥール・ハウスで行われたライヴ録音である(当日はベルリンのヴィジュアル・アーティスト・リレヴァンの映像とともに公演)。この「マーラー・リミックス」のプロジェクトはその後も継続され、ニューヨークのカーネギー・ホール、イスタンブール・ボルサン・アート・センターで公演・演奏された。また、2014年の新作アルバム『ベーチュ』収録曲“リミナリティ”のプロトタイプがすでにプレイされていることも聴き逃せないポイントといえよう。

 それにしても、フェネスの音楽は、いつも濃密なロマンティシズムに満ちている。ときにグリッチ・ノイズの向こう側に。ときにエレクトリック・ギターのコードの中に。それらは夏の夕暮れのような濃厚な芳香のような、もしくは真冬の凍てつく雪景色のようなサウンドなのである。
 その「響き」の源泉はどこにあるのだろうか。ひとつは、彼のルーツのひとつといえるプログレッシブ・ロックなどのロック・ミュージックとは容易に想像がつく(フェネスはピンク・フロイドの『狂気』をフェイヴァリット・アルバムに上げていたこともある)。しかし、いわゆる「クラシック音楽」由来のそれではないはずだ。では、このロマンティシズムの正体は何だろうか。私には、彼が生まれ育ったウィーンの地の影響が大きい気がするのだが……。
 ともあれ、彼の音楽は、たしかに「エレクトロニカ/電子音響時代の後期ロマン派」とでも形容したいほどの黄昏色の情感が鳴り響いている。まるでブラームスの「間奏曲集」のように。もしくはマーラーの交響曲の穏やかな部分のように。その意味で、この『マーラー・リミックス』プロジェクトは、フェネスの音楽性から考えれば、もはや必然ですらあったのだろう。

 もっとも、テクノやエレクトロニカ・電子音響・ポストクラシカルのアーティスト/音楽家とクラシック音楽(の演奏家など)とのコラボレーションは、マシュー・ハーバードやカール・クレイグ&モーリッツ・フォン・オズワルド 、マックス・リヒターやオーラヴル・アルナルズの例を振り返るまでもなく、現在まで活発に行われているプロジェクトであり珍しいことではない。
 しかし、本作は、そのどれとも趣が違っている。既存の音源のサンプルを用いてはいるのだが、交響曲などが丸ごと使われることはなく、演奏の中で断片的にサンプリングされ、音色も変化させられ、フェネス的なグリッチや演奏の中に溶け合うように存在しているのだ。フェネス的な音響の向こう側で、マーラーの黄昏色の響きが、ノイズまみれの記憶の層の中で不意に再生される音のように鳴り響く……。
 
 アルバムは、全曲“マーラー・リミックス”という曲名で統一され、全4曲が収録されている(曲ごとに1、2、3、4とナンバーがふられている)。どの曲もフェネス自身の演奏や楽曲もところどころに表出し、淡い音響の中で溶け合っていく構造になっている。とくに“マーラー・リミックス3”以降の淡い音響の連鎖は、フェネス×マーラーの個性・音楽が完全に融合し切っており、穏やかな音響ながら音楽のもっとも深い深遠へとたどり着いているように思えた。“マーラー・リミックス3の”終盤近くで展開するノイズと霧の中に解けたような交響曲の響き!
 そう、本作は、クラシック音楽の再解釈的演奏でも編曲でもない。マーラーとフェネスのロマンティックな響きが互いの境界線を溶かすように交じり合う「サウンドの再生成」なのである。「マーラーをリミックスすること」と「マーラーとリミックスされること」の実践とでもいうべきか。まさに「時空間を越境するコラボレーション」に思えてならない。
 同時に、2000年代末期以降、エレクトロニカがアンビエント/ドローン化していく中で、それらに内包されていたロマン派的な響きへの偏愛を、意識的にコンポジションした(ほとんど)唯一の成功例にも思えた。

 最後に私見をもうひとつ。2014年に〈エディションズ・メゴ〉からリリースされた『ベーチュ』がアフター『エンドレス・サマー』の系譜を継ぐ「豊穣な夏の記憶」とするなら、自主配信を経て〈タッチ〉からリリースされた本作こそ、アフター『ブラック・シー』とでもいうべき「冬の音響」の系譜を継ぐ作品ではないか。なにより『ブラック・シー』は彼のアルバム中、もっとも「ロマン派」的な作品であったのだから……。

酒井隆史 - ele-king

 ドラッグ中毒者というのは、なにか手に負えない危害を与えているのでなければ、基本、欧米では悪人ではなく病人として認識される。そして人が病人にならないためにも、まずはそれに関する知識の共有をうながそうとする。それがジャーナリズムというもので、日本はいつまで経ってももっとも重要であるはずの情報の共有を拒んでいる。これと同じように、ただ暴力を拒み、いっぽう的に暴力/反暴力という二元論でしか見れないうちは暴力はなくならないと、酒井隆史の『暴力の哲学』は勇気を持ってきわどい主題に切り込んでいく。2004年に刊行された本だが、去る1月に文庫化された。数年ぶりに読み返してみると、とくに前半が面白い。せっかくなので、そのいくつかについて書いてみる。
 暴力と括られるものの内側から、著者は、マーティン・ルーサー・キング牧師、フランツ・ファノン、マルコムX、ブラック・パンサー党らの思想の断片を並べながら、反暴力を導き出そうとする。まずはその手始めに、トゥパック主演のギャングスタ映画『Juice』(1992年)とパリ郊外の移民を描いた『憎しみ』(1996年)──あるいは『シティ・オブ・ゴッド』(2003年)──を紹介する。これら「アンダークラスの若者をめぐる暴力の物語」すなわちゲットーにおいてエスカレートする暴力の物語の背景には、もちろん90年代以降のネオリベラルなグローバリゼージョンがあるわけだが、『Juice』と『憎しみ』に共通して描かれているのは、「単純に道徳的に暴力を拒絶」するのではなく、「むしろ暴力をぎりぎりにまで内在して」「そのうえで暴力的な状況をなんとか乗り越え」ようとすることである。
 『Juice』の結末でトゥパック演じる主人公ビショップに対抗するQが、銃こそ放棄するものの、しかし本質的な意味において戦いを放棄してはいない、いや、それどころかギャング同士の殺し合い、ある種の「エディプス的ゲーム」を終わらせ、やられたら同じようにやり返せではない、そしてなにか別の次元の戦いへと移行させようとするのではないか……という指摘はじつに興味深く、それはなぜ直接行動やデモが必要なのかという根源的な問いに対するキング牧師の次の回答へと連なっていく。

  なぜ交渉というもっと良い手段があるのに、直接行動やデモをするのか、こうした問いに対してキング牧師は「非暴力的直接行動のねらいは、話し合いを絶えず拒んできた地域社会に、どうでも争点と対決せざるえないような危機感と緊張をつくりだそうとする」ものであり、「もはや無視できないように、争点を劇的に盛り上げようとするもの」だと答えている。     ──マーティン・ルーサー・キング(本書より)

 もちろん暴力は、ときにナルシスティックに陶酔できるものでもあり、短絡的にまとめてしまうことはリスキーこのうえない。そもそも本書は初版が刊行されたときから、実際さまざまな反論や疑問を喚起してきてもいる。〝暴力〟と言われただけで、敬遠してしまう人もいるだろう。ぼくも正直、マッチョな文化は得意ではない。あるいはまた、ブラック・ミュージックのメロウなところだけをすくい上げるのも悪くはない。
 だがしかし、大著『通天閣』において、町の猥雑なパワーをみごとに描いた著者の思索は、音楽ではケンドリック・ラマー、政治的なムーヴメントとしては#BlackLivesMatterに注目が集まる今日においては、ある意味では時代の空気感をともなってに入ってくる。また、ブラック・パンサー党の成功したこと/失敗したことのおさらいなど、社会運動とは何かを考えるうえでも、共有すべき知識が詰まっている(たとえば黒豹党が、なぜあんなクールなベレー帽を被ってあんなスタイリッシュな出で立ちで、あんなにフォトジェニックに登場したのか……などなど)。
 また、著者が文庫本の後書きで述べているように、今日の社会は、10年前よりもさらに露骨に暴力に囲まれた社会だ。そういう意味では、本書は予見的でもあった。

Anarchy in Japan !? - ele-king

 ブライトンから来日中のBradyみかこが、今週の日曜日(2/14)に新宿2丁目で、平井玄氏のトークショーに出演することが急遽決まった。〝生〟Bradyみかこの話を聞きたい人には、マストなイベントです!


▶Anarchy in Japan !?
 Bradyみかこ goes to ラバンデリア!
 with 平井玄
 
 2016年2月14日(日)17:30 open 18:00 start
 カフェ・ラバンデリア@新宿2丁目
 入場無料、投げ銭

ブリティッシュ・パンク&ビンボー・シーンからいきなり現れたBradyみかこさん。
その低い目線から怒りと笑いに満ちた言葉が炸裂する。
ブライトンのアンダークラス保育所では、生まれた瞬間からハードコアな女の子が
黒白黄色な餓鬼どもをかたっぱしから張り倒す。
こんなイギリス、見たことも聞いたこともない!
だから電気音楽が大好き。
極東のへたれな男も女もBradyさんと話そう。


El Vy - ele-king

 アメリカ映画を観ているとメジャー/インディ問わずしょっちゅうザ・ナショナルが流れている。なかでもギャビン・オコナーの『ウォーリアー』では劇中のいちばんいいところで主題歌的に使われているのだが、総合格闘技のガチンコバトルを描いたその映画でトム・ハーディは恐ろしく盛り上がった肩の筋肉を持ちながら、同時に捨てられた子犬のような目を見せてくれる。あの弱さを隠そうともしない目を持っているからこそ、彼はいまのアメリカにおけるアクション映画の主役を張れるのだろう。映画側からすれば「男と男が拳で分かり合う」マッチョな物語にある種の叙情性と知性を与えたかったからだろうけれど、逆側から見れば、そうした古めかしいタフな男の色気みたいなものをアメリカのロック・リスナーはいまマット・バーニンガーのバリトン・ヴォイスに見出しているということである。ゼロ年代後半にザ・ナショナルが浮上したのは当時のアメリカの斜陽とマットが歌詞に綴った疲労感が重なったからだが、ザ・ナショナルの功績はそれをハードボイルドな官能として表現したことである。『ラブ&ピース』、『日々ロック』、『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』辺りを観ると日本ではいまもロック音楽は童貞性との親和性を誇っているようだが、どうもアメリカではくたびれた中年のペーソスのほうが合いそうだ。どちらがいい悪いの話ではなくて、求められているものが違うということなのだと思う。

 エル・ヴァイはマット・バーニンガーと元メノメナ/ラモナ・フォールズのブレント・ノップフとのふたりユニットだが、言ってしまえばマットの声と言葉が持つ疲れた男のセクシーさを増幅させるための音楽である。ブラック・ミュージックを意識したゆるいファンクやソウルをロックにブレンドしたサウンドにはザ・ナショナルのような緻密さや重厚さの代わりに脱力感と音の隙間があるため、描かれる悲哀や孤独、閉塞感や厭世感といったモチーフにどこか諦念にも似たリラックス感が漂っている。卑猥な言葉を散りばめる“アイム・ザ・マン・トゥ・ビー”ではどうしようもないエロ中年を演じながら退廃的なファンクで腰を前後させるし、パブ・ロック調の“ニード・ア・フレンド”では錯乱そのものを妖艶な魅力に置き換えている。セルジュ・ゲンズブールのいくつかの作品やブライアン・フェリーを想起させつつ、音楽性以上に彼らが纏っていたイメージを衣装としてここでマットは羽織っているわけだ。セルフ・パロディだとする評もわからなくはないが、それにしても知的で気が効いている。「ハスカー・ドゥやザ・スミスが聞こえていた」時代を思い出す“ポール・イズ・アライヴ”において、オルガンをバックにしつつ低い音域をかすれ気味で歌うマットのヴォーカルの魅力が存分に発揮されているのは、年を取ることへの無条件降伏のように聞こえる。それが諦念なのかある種の肯定なのかは、実感として僕にはまだわからないが……。

 ザ・ナショナルを聴きながらマットの低い声とそれが紡いでいく退廃的な情景に惹かれていると、結局それは自分の趣味以上のものではないのではないかと思えてくることが僕にはある。中年の哀愁なんてものが恐ろしく受けないこの国にいるとなおさらだ。が、若くはないこと自体を上質な生地のガウンに仕立てようとするエル・ヴァイを聴いていると、それは老いていくロック音楽を味わうための叡智のようにも感じられてくる。迸るリビドーや青さをとっくに失ってしまった地点での悪あがきに、どうにも身体を揺さぶられてしまう。

Miki Yui - ele-king

 音楽とアートとの関係は、生活のただなかに生まれる「意識」とともにある。意識は変化と同義であり、生活とは、当然、生と同義である。変化と生。つまりはアート・オブ・ライフというわけだ。アートは高尚な芸術というだけではない。それは生きていることにまつわる表現=生産行為であり、もしくはその隙間に潜む過剰さでもある。だからこそ人が、それぞれさまざまな生き方をするように、アートもまた「違う方法」を考え、生み出されていかねばならない(同時に、それはただのスキャンダラスを意味しない。あのウォーホルも、何より別の手法と新しいコンセプトを生みだすことで世界を一新したのだから。スキャンダラスなだけの行動は、そのほとんどが凡庸である)。

当然、音楽というアートも同様だ。音を鳴らすこと。それはある意味、何かを叩けばいい。ではそこに表現としての自律性や浸透性や持続性を、どう付与すればいいのか。その方法を「考えること」が「アート」であり、それは人生において誰にも平等に与えられた「権利」にすら思える。生産=芸術にまつわる権利と言い換えてもいい。
その意味で、デュッセルドルフ在住のミキ・ユイの作り出す音たちは、アートそのものである。00年代初頭にマイクロ・スコピック時代の〈ライン〉からアルバムを2作リリースしていた彼女だが、最新作『オシラ』は、さらに高次の次元に移行している。1曲め“チャノ(Cyano)”がはじまった瞬間にそう確信をした。まるで、架空の生物たちが生まれ、舞い、蠢くさまが、幽玄で柔らかい音の連なりとして生成しているのだから。じつに見事な音響・音楽作品であり、しなやかな佇まいのアート作品といえよう。

 その「しなやかさ」の理由は、持続音や環境録音、ビートなどが、けっして固定されることなく、先行するいくつもの音楽とは「違う方法」でコンポジションされているからではないかと思う。そう、この作品は単なるアンビエントではない。音のフィギュールは、まるで透明な空間の中で分解され、宙に舞うように「違う方法」で再構成されていくのである(たとえば、3曲め“ボーデンフェルド(Bodenfeld)”から4曲め“オシラ(Osicilla)”へと連なる環境音とサウンドの交錯!)。その結果、アンビエントであっても安易な癒しではなく、ビートであってもありきたりな律動から離れ、ノイズであっても「しなやか」に再生成されていくのである。
 私は、そのような音響交錯=工作の手つきを、サウンド・アートならぬミュージック/アートと名づけたい衝動にかられる。柔らかいのに、たしかな存在感のあるその音たち。その生成。聴き込むほどに、耳に、体に浸透していく不思議な音の魅力。それはミキ・ユイの「人/生」から生まれた「方法=アート」によって鳴っているように思える。だから自然なのだ。

 そして本作は、5曲め“アニマトスコープ(Animatoscope)”など、ときにクラウトロック的なビートも聴かせてくれる。当然、そこに彼女とクラウス・ディンガー(ノイ!)の関係をつい読み取ってしまいたくもなるが(クラウス・ディンガーのパートナーでもあった彼女は、晩年のプロジェクトで遺作にもなった『ジャパンドーフ』に参加しており、没後、クラウス・ディンガーの作品集を編集・出版している)、やはり大切なことはクラウトロックと日本、音響実験とロックを「違う方法」で越境している点にある。なんという水の中でフローティングするようなモータリック・ビートなのだろうか。そのうえ、“アニマトスコープ”は途中でビートが(あたかも幽霊のように?)ミュートするのである。
 そう、何より大切なのは、その音たちが、とても自由な優雅な(個人としての)実験性を称えている点である。そもそもクラウトロックと呼ばれたドイツで生まれた実験性を伴ったロック・ミュージックは、そんなアート・オブ・ライフを象徴するような「自由さ」の象徴ではないか。だから「歴史」を背負っていても重くないのだ。

 商業音楽が巻き起こす猛威から抜け出し、真夜中に行う、もうひとつの、音の遊戯。実験とは何か、などと難しく考える必要はない。別の方法で/の音を楽しむこと。かのシュトックハウゼンだってワクワクしながら電子音を混成させていたはずだ。そこに大文字の芸術の歴史には回収されない実験/遊戯の系譜としてのミュージック/アート・オブ・ライフが生まれる。本作には、そんな見事な音のゆらめきがある。生活の中で、ひっそりと、そして、いつまでも鳴らしていたい音楽だ。

 最後に、本作のマスタリングを手がけたのは、ラシャド・ベッカーであることも記しておく。

Florist - ele-king

 その歌や録音について、「ヘタうま」と表現することはたやすい。あるいはちょっとふくみを持たせるようにして、「サイケデリックな」とか「アウトサイダー的な」と表現すると落ち着きがいいかもしれない。だけど、スキルでもアイディアでもない、おのれを張ってそのままの音が、ときおり世界をつき破ってわれわれの目と平凡をおびやかすのだということを──たとえばダニエル・ジョンストンを、たとえばディアハンターのブラッドフォード・コックスを──私たちは知っているし、その意味で、フロリストの『ザ・バーズ・アウトサイド・サング』もまた得がたいアルバムであるように感じられる。

 ほそぼそと、声帯のふるえもたよりなく紡がれる女の子の歌、そこにごくひかえめに伴奏するフォーク・ギター、テレコかなにかで一発録りしたようなローファイなトラック“ダスト・インサイド・ザ・ライト”などは、あまりに隙間が多くて心細い。何かに支えられてやっと立っているような、あるいは何かの支えを取られてからくも立っているような……そのくらくらするような揺らぎに、息も詰まるような緊張がある。

 マイクロフォンズに比較されているのもうなずけるし、〈K〉などオリンピアの2000年代黎明を彩った懐かしいバンドやアーティスト、あるいは先述のダニエル・ジョンストンなどに系譜づけても的外れではないようなローファイ・ポップだ。さもなければ、アワ・ブラザー・ザ・ネイティヴのようなエクスペンタリズム、グルーパーのような音のとなりに並べることもできる。一方で、現在ではくすんでしまったが、〈モール・ミュージック〉の中のインディ・ポップ・サイドや〈カラオケ・カーク〉のような温かみある音の中に、あるときはオルガンが、あるときはギターが、そして穏やかなノイズを含んだ静寂が溶け込んでいる。舌足らずというよりも、喉ができていないというようなヴォーカルのイノセンスが、そこにおそろしいほどのインパクトを加える。

 そこまで聴いて知ったことには、この歌い手エミリー・スプレーグは、ある悲しむべき事故のために若くして身体に障がいを負ってしまった人だという。そうすると、とたんに安易な比較は不適切な、なにか浅慮きわまりないものという非難を受ける気がしてくるし、同時にこの、いつぷっつり切れてしまってもおかしくないような、それでいて、たとえば信仰のように──いかに細くても無限に強くあるというような歌の姿に、「不幸な出来事が彼女にこうした作品をつくらせたのだ」と、すーっとわかりやすい説明をつけてしまいそうで、知らないで聴き終えたかったような気持ちにもなる。この音楽に崇高さを与えているものは、その境遇にすぎないのか──?

 つまり、スプレーグがこうした経験をもたなくても同じような歌を歌っただろうかという疑問だが、実際のところはそうした問いにはあまり意味がない。剥き出しの表現をすることは、境遇をあからさまにすることとは違うからだ。けれど、それでもジャケットのアートワークは裏書きするだろう。ベッド、窓、光、ドア、これはきっとそれだけでできた場所、つまり療養するための部屋に生まれた音楽なのだろうということを。好んでベッドルームに引き籠ったひとの音楽ではなく、ベッドルームに籠らざるを得なかったひとが外を眺めて歌った歌ではないかという想像を。そしてこの作品ににわかにもうひとつの表情をつけ加える。

 フロリストは、そのエミリー・スプレーグによるユニットで、17歳から作曲や作品の発表をはじめた彼女は、ブルックリンを拠点にバンドとともに自身の曲のレコーディングを進めていた。しかしデビュー・アルバムとなる本作がリリースされるには、不幸なことをはさんで2年の月日が要された。音をつくっているのは彼女だけではないが、“ア・ホスピタル+クルシフィックス・メイド・オブ・プラスティック”などの曲名や前掲のジャケットからは、彼女に起こったことが彼女の視点から歌われていることが率直に表れている。“1914”などのように、合唱というか唱導のように複数人のコーラスが入ってくるとき、スプレーグは主体でありながらその祈りの対象ですらあるように感じるだろう。

 文脈で聴かれるものではないがゆえに、野草のようにひっそりとした作品だけれど、とてもすばらしい作品だ。影送りの影のようにくっきりと、歌い手が見ていたはずの窓の光を感じることができる。それは彼女が彼女にとっての主人公であることを知らしめる光であり、当然、「ヘタ」も「うまい」も超えている。

METAFIVE - ele-king

 2015年も終わるころ、JBのトーキング・ヘッズ的な変奏とでも形容したいNWファンクな新曲“ドント・ムーヴ”のスタジオ・ライヴ映像が、突如としてインターネット上で公開されたときは興奮したものだ。高橋幸宏、小山田圭吾、砂原良徳、テイ・トウワ、ゴンドウトモヒコ、レオ今井ら、最高・最強の音楽たちによる「バンドの音」が、キレキレなサウンドで鳴らさせていたのだから。
 そう、単なる有名アーティスト同士の企画ものドリーム・バンドではないのである。ソリッドなのである。カミソリのように研ぎ澄まされていたのである。しかし単に若さだけ、もしくは勢いだけの稚拙さは微塵もない。十分なキャリアを持っている音楽家たちが成熟した演奏=技を聴かせてくれるのだ。オトナたちのカクトウギ・セッション? まさに新しいバンドの誕生を目撃したような驚きがあった。

 そして、2016年早々にリリースされたファースト・アルバム『メタ』は、期待通りの作品であった。6人の音楽家たちの個性がエゴから遠く離れた地点で、YMOという巨大な歴史に反発するわけでもなく、いや、むしろ安易な反発などかっこ悪いといった風情で、成熟したポップ・ミュージックを聴かせてくれたのだ。そのうえで「この曲のあの音はあのYMOの音かな?」など思いながら聴きこむと、さらに楽しいのである。なにしろ“ラヴ・ユー・トキヲ”の「トキヲ!」のヴォイスは、砂原が半日かけて録音し、なんと坂本教授に許可(!)をもらったというのだから。「遊ぶからには徹底する」。そんなこだわりがあるからこそ、聴き手もまたジョイフルな気分になるのだろう。本作を何度も繰り返し聴きながら、そのたびに『スターウォーズ フォースの覚醒』を観たときような感慨(興奮?)を持ってしまうのである。

 それにしても、濃いアルバムだ。むろん濃厚であってもしつこくはない。どれもポップで軽やかである。そのうえ徹底的に研ぎ澄まされている。大人の余裕すらある。6人のメンバーが2曲ずつ作曲を担当しているが、クレジットなしで聴いていると誰がどの曲がわからない点もまた楽しい。個性はあってもエゴは希薄とでもいうべきか。たとえば“ラヴ・ユー・トキヲ”のグっとくるサビメロはユキヒロさんによるものかと思いきや、そうではないのだ。
 だからこそ“ピュア・ジャム”のような“アルボーレ”や、砂原による(まるで『サービス』収録曲の2016年版のような?)エレガントなエレクトロニック・トラック“ホワイトアウト”などの魅力が、さらに際立ってくるといえよう。そう、YMOのエッセンスを消化した2016年型のサウンドは、「彼ら」だからこそ作り上げることができたのではないか、と。
 そして、テイのソロアルバム収録曲でもあった“レディオ”や、小山田圭吾=コーネリアスが手掛けた「攻殻機動隊」主題歌でもある“スプリット・スピリット”のメタヴァージョンもバンドの「定番曲」のようにきれいに馴染んでいるし、アルバムのトリを飾る高橋幸宏曲“スレッド”は彼特有のロマンティックなメロディが胸を打つ名曲であった(作詞がレオ今井であることの驚き)。とにかく、この曲、ユキヒロ・ファンなら涙ものだろう。
 個人的には3曲め“メイジーズ・アヴェニュー”や、7曲め“ディザスター・ベイビー”など、まるでニュー・オーダーのようなUKロックな曲にも注目したい。このメンバーがこのようにストレートなロックを演奏する機会などかなり稀な事態で、シンプルな曲調ゆえその熟成した演奏の味わいが横溢しているのだ。特に小山田圭吾のアメイジングなエレクトリック・ギターに耳が奪われてしまう。7曲めの間奏で鳴らされるアート・リンゼイばりのノイジーなギター!!

 このメタファイヴは「電子音楽とポップの融合と実験というYMO的なるもの」の継承のみならず、実力とセンスのある音楽家たちによる「サディスティック・ミカ・バンドの系譜」にあるバンドとはいえないか。そう考えるとメタファイヴにおいてヴォーカリストとしてのレオ今井の色気とエッジも分かってくる。彼の存在がバンドに新しい花=色気を添えているように思えるのだ。いや、彼だけではない。このバンドには不思議な色気がある。成熟した大人だからこそ醸し出せる演奏=遊びの華やかさ? 先日のライヴでは若い女性客が多かったというのも頷ける話だ。
 となれば、最後はスタイリト高橋幸宏の洗練されたバンドコーディネイトにあらためて唸らされてしまう。そう、このバンドの尽きない魅力は「この6人でバンドをする」と決めたときに決まっていたのかもしれないと……!

Diggs Duke - ele-king

 どこかつかみどころがない、というのがディグス・デュークの印象だ。これはネガティヴな批評ではなく、褒め言葉である(デヴィッド・ボウイがまさしくそんな存在だった)。まず、どのジャンルのアーティストかと尋ねられると困ってしまう。CDショップなどではR&Bやネオ・ソウルのコーナーに置かれることもあるようだが、これにはどうも違和感を覚える。むしろ、一般的なネオ・ソウルからするとずいぶんと逸脱したサウンドだ(同じことはハイエイタス・カイヨーテにも言える)。たしかにソウル・ミュージックの下地はあるが、同様にジャズの割合も強く、他にもポップス、フォーク、ロック、AORとかの要素もあるし、恐らくクラシックの影響も受けているのだろう。昨年リリースされた作品の中で、個人的に近いものを感じたのはモッキーとジェイミー・ウーンのアルバムだ。それぞれ今のメインストリームの音楽の流れからは外れ、○○風、○○的と安易に形容できないアルバムで、それはすなわち掴みどころがないということでもあった。しかし、そんなカテゴライズできないところ、比較対象を持たないことこそがアーティストとしての個性というわけだ。

 ディグス・デュークの本作『オファリング・フォー・アンクシャス』は2013年末の発表で、今回あらためて再リリースされる。インディアナ州ゲーリー出身で、現在はワシントンDCを拠点に活動する彼は、キーボード、ギター、ベース、ドラム、パーカッション、サックス、トランペットなど、あらゆる楽器を演奏するマルチ・プレーヤーにしてシンガー・ソングライターだ。作曲面ではスティーヴィー・ワンダー(とくに『シークレット・ライフ』あたり)やビートルズ、スティーリー・ダン、ダニー・ハサウェイなどの影響も伺えるが、ハービー・ハンコックに捧げた作品集も出すなどジャズの演奏にも通じている。2011年からbandcamp経由で作品を発表し、EPの『グラヴィティ』や『ブラック・ゴールド』などが耳の早いリスナーたちの間で注目を集めていく。2012年にEPの『マス・エクソダス』を発表し、その収録曲“ナイン・ウィニング・ワイヴズ”はジャイルス・ピーターソンのコンピ『ブラウンズウッド・バブラーズ』に取り上げられた。それをきっかけに〈ブラウンズウッド〉と契約を結び、ファースト・アルバムの『オファリング・フォー・アンクシャス』をリリースしたという流れだ。『オファリング・フォー・アンクシャス』は『マス・エクソダス』をベースに、サンダーキャットのカヴァー“イズ・イット・ラヴ”など既発曲と新曲を交えた構成だ。その後も〈ブラウンズウッド〉からは『ジ・アッパー・ハンド・アンド・アザー・グランド・イルージョンズ』というEPを出し、2015年より自身のレーベルの〈フォローイング・イズ・リーディング〉を設立。2015年の末には新しいアルバム『シヴィル・サーカス』を発表している。

 『オファリング・フォー・アンクシャス』は基本的に打ち込みのビートによるものだが、それを補う豊富な楽器群を盛り込み、感触としてはアナログなサウンドだ。ゲスト・ミュージシャンは必要最小限で、ほぼ独りで多重録音している。民族音楽的なモチーフをジャズ・ロックに織り込んだ“ハーシュ・ワーズ・ウィズ・ジ・オラクル”、アフロ・キューバン調のエキゾティックな“ライオンズ・フィースト”、レトロなオルガン/ピアノとハンド・クラップによるビートが不思議なムードを作り出す“スウィート・ライク・シーヴズ”と、冒頭でも述べたようにUSのネオ・ソウル的なサウンドとは一線を画す世界が広がる。ディグス・デュークはアメリカの黒人アーティストだが、どこか無国籍な味わいを感じさせる折衷的なサウンドだ。“サムシング・イン・マイ・ソウル”と“コーズ・アイ・ラヴ・ユー”は比較的ネオ・ソウル寄りの作品で、“マス・エクソダス”のビートはJ・ディラ的なヒップホップ感覚を有しているが、そうした中でも“マス・エクソダス”のコーラスが一瞬見せる聖歌風の和声や後半のメロディ展開などは風変わりで、どうもひと筋縄ではいかない。“クレイジー・ライク・ア・フォックス”でのスキャット・コーラスも印象的で、ラウンジ・ミュージックとソフト・ロックが出会ったような感覚を抱かせる。“イズ・イット・ラヴ”における弦楽器、木管楽器のアレンジなどにもそうした非黒人的というかヨーロッパ的なセンスは顕著で、そこがクラシック的な味わいを感じさせるところかもしれない。“ボーン・フロム・ユー”や“ナイン・ウィニング・ワイヴズ”でもオーボエやクラリネットなど木管楽器の音色が印象的で、彼の作品に温かみや柔らかさ、ぬくもりが感じられるのは、こうした楽器使いによるところも大きい。さりげなく高度で新しいこともやっているが、アナログでヒューマンな味わいがあり、時流などに流されることなく独自に育んできた、それがディグス・デュークの音楽だろう。

Tortoise - ele-king

 まずジャケットがいい。それはいまのトータスが、トータス以上でも以下でもないことを簡潔に言い当てる合成写真であり、そこには「ポストロックのオリジネイター」なる称賛あるいはレッテルをゆるりと剥がしてしまう絶妙な脱力感と余裕が漂っている。前作からの6年半のブランクの間に僕が何度か観たライヴでも同様で、メンバー5人が楽器を入れ変えつつハイレベルなアンサンブルを構築していく様はもはやたんなる前提であって、方法論自体は少なくともその場では大した問題ではなく、その瞬間に立ち上がる総体としてのトータスこそがすべてだというような説得力があった。何らかのメッセージもわかりやすいカタルシスもないが、ただ音が――緻密なアンサンブルの「結論」ばかりがおもしろいのである。

 ただ、トータスのライヴを観るたびに笑ってしまうのは、『スタンダーズ』収録の“セネカ”をメンバーがステージ前方に並んで手拍子を煽るのだが(いやべつに煽ってないのかもしれないが)、そのリズムが難しくて観客が即座にはついていけない瞬間である。何度か繰り返すうちに手拍子は揃っていくのだが、そうしたパフォーマンス、言い換えれば彼らなりの「サービス」がある種の複雑さだった時期はたぶんにあって、とくにリズムの実験とテクノロジーのより入り組んだ内面化に取り組んでいたゼロ年代のトータスないしはポストロックを、その受容において必要以上に敷居の高いものにしていたようにも思う。たとえばバトルスのようなバンドがゼロ年代後半にその「高度さ」を称賛されはじめたときにこそ、ユーモアを前面に出したことを思い出してもいいかもしれない。そして、トータスのそもそもの魅力とはけっして高度さだけではなかったはずだ。

 結果的には6年半のブランクがいい熟成期間となったのだろうか、『ザ・カタストロフィスト』にはトータスによるトータスに対する気負いはほとんど聞こえてこない。わたしたちはここで襟を正してポストロックをありがたがらなくてもいい。すんなりとジャズの要素が流れ出してくるタイトル・トラックのオープニングからして『TNT』の時代にワープすることができるし、リズムもずいぶんシンプルだ。もちろんバンドの20年に渡る音の冒険の成果はここで繊細に折り重なっているのだろうが、そうしたものがすっと奥に引っ込むような懐の深さがあって、たとえば“ザ・クリアリング・フィルズ”を聴くとミニマルなリズムのなかに奇妙な立体感を持ったダブ処理が聞こえてくるのだが、それ以上に時間間隔と平衡感覚が攪乱されるような陶酔感が心地いい。シンセやギターが柔らかな叙情を醸すメロディ、素朴にも思えるほどすっと流れていくドラミング。先行シングルの“ゲシープ”には彼ららしいクラウトロックに影響された緩やかなグルーヴ感覚があるし、ミニマルと彼らの重要な出自のひとつであるハードコアが奇妙に出会う“シェイク・ハンズ・ウィズ・デンジャー”の理知的な獰猛さにも痺れる。
 2曲のヴォーカル・トラックも現在のバンドの軽やかな姿勢が表れているのだろう。デイヴィッド・エセックス“ロック・オン”のカヴァーにおける思いがけないファンクと色気、そしてヨ・ラ・テンゴのジョージア・ハブレイがマイクを取る“ヤンダー・ブルー”のメロウなチルアウト……。メランコリックなラスト2曲へとアルバムが向かうときには、ただただそこに流れる緩やかな時間に身を任せることができる。

 すなわちそれこそがトータスらしさだと言えるだろう。トータスはおよそロックが持っていた大仰な意味性を解体したが、トータスそのものに強い意味、ある種の信仰を与えられつつあったいまだからこそ、それ自体を知的に異化してみせている。90年代のトータスを聴くときのように、リラックスしてここに何の物語性を見出さなくてもいい。ややこしい方程式を手放してもいい。トータスの音の結論にこそ没入することのできる、20年越しの見事な解がここにはある。

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