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「以前、淡谷のり子が『80歳越してごらんなさい、1時間は10分ぐらいよ』と言っていた。 ものすごい説得力であった」
ナンシー関『ナンシー関の顔面手帖』(1991)
#OscarsSoWhite(アカデミー賞は白人ばかり)の典型的なサンプルとして挙げられたりもした『ストレイト・アウタ・コンプトン』が日本で公開されたのは冬もいい加減寒い時期で、画面の中でギラつくカリフォルニアの陽射しと何とも間抜けにズレる感じはするものの、4ヶ月遅れでも何でも公開されただけでも善し、としなくてはならない。それはこの作品が(リアルタイムで追いかけていた人を除く)日本人の「ラップ」への誤解を力強く解きほぐしてくれる作品だからで、ええとアメリカの黒人のチンピラがやってる音楽のようなもの、という認識は30年経っても大して変わっちゃいないのではないか、と自分を省みながらも気が付けば「R&B/Soul」と「HipHop/Rap」の境界線が済し崩し的に曖昧になって久しい中、そもそも「ギャングスタ・ラップ」はどういった土壌から立ち上がって来たのか、をN.W.A.(Niggaz Wit Attitudes)という一つのグループの始まりから終わりまでを中心に据えて、映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』は彼らの周辺に流れていた時代の空気を召喚する。
ロイ・エアーズの“Everybody Loves The Sunshine”がうっとりと流れる中、タイルのようにレコードが敷き詰められた部屋に寝っ転がる(駆け出し時代の)ドクター・ドレー登場シーンが象徴するように、例え「アメリカで最も危険な地域」にも音楽の喜びはあり、当然ながら日々の生活もあり、家族の問題もあり、そして黒人の若者は路上に立っていただけで警察に後ろ手に縛り上げられる現実もある、というのがひと続きの流れとして入ってこないと「ラップ」はいつまでたっても「不良の与太話」以上のものにはならないわけで、日本に住んでいて漫然と見聞きする情報の中で一番リアリティを欠いていたのはこの「生活」部分だったのかも知れない。
恐らく自分たちが予想できる以上に売れてしまった彼らが「金、酒、女、薬」をてんこ盛りにした「生活」の果てにエイズで死ぬ人があり、世界有数の富豪になる人があり、生き残った人の息子は映画の中で実父を演じる、などなど30年の間に育ったものと逝ったものが交錯する現在も「金、酒、女」という表象がスタイルとしてだけ残り、何故いまだ飽きもせずプールサイドでビキニの女の子が大挙してくねってるミュージック・ヴィデオが量産されるのか? と考えれば、スラム街という煉獄の中から一瞬の幸福な火花を散らしながら成金地獄に突っ込んで結構そのまんま(今に至る)、な現状を示すためにもこの映画はあるのではないかと思えてくる(もちろんN.W.A.のクロニクルなので「その後のサクセス」が描かれないのは妥当ではあるけれども、そこから2015年に至るまでの20年間をダイレクトに接続するのを慎重に避けている感じもある)。
米アカデミー会員に80代以上の人がどのくらい居るのかは知りませんが、もし淡谷のり子が言ったように「1時間は10分ぐらい」であるならば、30年はまあ5年で20年などは3年3ヶ月、アカデミー賞の中の人にとってはこないだ生まれた孫が小学校に上がった、くらいなもんでその間に起こった大体のことはかすりもしない。かつて「アカデミー賞」にも活き活きとしていた時代はあったのでしょうし、ギャングスタ・ラップが最も活きの良かった時代もとっくに過ぎ、中身が萎んだり流れだしたりしてがらんどうになった殿堂が残ったとき、そこに水を与えて蘇生させるのか、または全く別の何かで満たすのか、はたまた放棄するのか(どうすんだ?)、は今を生きる人間の前に投げ出されている──クリス・ブラウンが愛娘を抱いたジャケットの新作を発表した2015年の、その翌年の日本にも。
【追記】そういえばこの映画、「男が女に引っぱたかれる」シーン及び「男同士の乱闘」はありましたが「男が女を殴る」シーンはついぞありませんでした。でしたが反面「オカマ」といった蔑称は(当時の曲の歌詞としてではありますが「時代的背景と作品の価値とにかんがみ」と言う感じなのか)別に避けずに出してきたのでこれが今のアティテュードなのかなあ、と漠然としたラインも見えました。
文:岩佐浩樹