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普通、通常、異常、一般、ヤハウェ・ネイルガンの2ndアルバムについて考えようとすると頭の中でそんな言葉が出てきてそれが耳の後ろに引っかかる。ヴォーカリストのザック・ボルゾーン、ドラムのサム・ピカード、シンセサイザーを操るジャック・トビアス、ギターのサグイヴ・ローゼンストックからなる4人によるNYのエクスペリメンタル・バンドのアクションは明らかに他のバンドとは異なっているのだ。いったいどれだけのバンドが〈4AD〉のような歴史あるレーベルに移籍した後に「よしそれではまず11分のアルバムをリリースしよう」という考えに至るのだろう? そんな状況に置かれた多くの人間はこれまでの実験性を維持したままある程度の聞きやすさをそこに加えてみようと思うものではないだろうか? たとえば荒々しい強烈なグルーヴを持った彼らのデビュー作『45Pounds』にもっとメロディアスなフックや浮遊感のあるシンセサイザーのフレーズを加えるといった具合に。
しかしそんな道が選ばれることはなかった。彼らが求めたのは1stアルバムの、たとえば “Pain Fountain” の機関銃の咆哮が作り上げたようなノイズまみれの道を裸足で進むことだったのだ。
確かに2026年のいま、短い音楽というのはある種のトレンドになっているのかもしれない。SNS的な目を引く派手な装飾を施された音楽は言うに及ばず、そこから離れた場所にあるレコード・ショップでヤハウェ・ネイルガンの隣に並べられていてもおかしくないグレート・エリア(インガ・コープランドのレーベル〈Relaxin Records〉に所属しているアーティストだ)の去年のアルバムは18分だったし、アルバムを出すごとに収録時間が短くなっていったブルックリンの実験的デュオ、ウォーター・フロム・ユア・アイズは最新作でついに30分を割り20分台に突入した。それは変化した時代が求めるものであり、アーティスト側が感じとるアルバムというフォーマットの中にある美しさのひとつの答えなのかもしれない。
しかしそんな状況においてもヤハウェ・ネイルガンのこのアルバムはいささか異なっている。イメージの余白を重ね短い曲の中に奥行きを生み出していたグレート・エリアのアルバムや音色のテクスチャーの断片をつなぎあわせて世界を作り上げていたウォーター・フロム・ユア・アイズのそれはある意味で外部接続の音楽であり、そこで鳴っている音以上の情報が重ねられ聞き手の中で混ぜられていた。つまりは断片をアクセスポイントにして頭の中の世界を広げる音楽だった。それに対してこのヤハウェ・ネイルガンの2ndアルバムの音楽はそうした類いのものではなく、いまこの瞬間に目の前で鳴り響いている音楽だという強烈な印象を与えてくるのだ。どこにも辿り着くことのない閉じられた興奮、あるいはそれはこの音楽がテクスチャー(頭の中の記憶)ではなくグルーヴ(身体的な衝動)によって繋がれているものだからなのかもしれない。
それは意図を持って作られた録音物というよりもライヴに近い。ドラムやヴォーカル、ギター、シンセの音すら空間を叩く打楽器として機能する。1stアルバムのリヴァーブがかったヴォーカルから膜が剥がされザック・ボルゾーンのうめきはより生々しさを持って近くで響く。再生ボタンを押し “Ghost of Love” がフェードインしてくると、すでに始まっているライヴに遅れて加わったかのような感覚におちいる。地下への階段を降り冷たい金属の扉を開けると刺激的な音のうねりが目の前に現れる。曲のどの段階かはわからないがそれは1分35秒で終わり、次の曲が演奏され始める。ヤハウェ・ネイルガンのこの2ndアルバムはある種の身体性があるように感じられる。パッケージングされたアルバムという仮想空間の中で音の塊が飛び交い、グルーヴがそれを次の時間へと押し流す。全ての曲は1分かそれに満たない秒数に終わるが高速で駆け抜けるようなものではなく、不思議と全体を通して聞いて物足りなさも感じない(ただ気がついたら終わりを迎えているだけだ)。スローに落とされた1分13秒の “Innocent Sigh” のような曲では観客を縦揺れの思索の旅に向かわせ (「それはドラムなのかもしれない/私がそれを叩くのを信じて」というヴォーカルが旅路へと誘う)このアルバムを決して一本調子にはさせない。
あまりに短く突然終わる、それらはしかし断片ではなく曲なのだ。ライヴで演奏されるようなはっきりとした区切りのある曲の集まりとして通常の意味においてのアルバム、だがそれはとてつもなく短い。なぜこんなにも短い時間で終わるのか? そう、ここにないのは反復なのだ。フレーズが繰り返されることはあっても展開として戻ってくることはない、それがこのアルバムを異質なものにしている。彼らは反復させないことで楽曲から物語性を奪い取っている。最初に提示された場所に帰ってくることを期待するリフレインやループ、あるいは伏線という慣れ親しんだ構造から離れたこの音楽はだから異様に感じられるのだろう。反復とは乱雑な意味を持たない現実を整理して理解しやすいものにするという手法なのだ。記憶を呼び覚ますこともなく前の展開を受けもしない、ただ現在だけが存在するという感覚。この一方向へのタイムラインは戻ってくることのない時間の不可逆性を意識させる(我々は現実が前触れなく突然終わるものだと知ってもいる)。物語を消し去ったヤハウェ・ネイルガンのこの音楽は生々しい身体感覚をともなった、繰り返されることのない現実として目の前に現れる。それはミームや定型文、最適化された形式がはびこる刺激が消えた日常を壊す衝撃としての意味を持つ。
だがポップ・ミュージックとは物語ではなかったのか? 現実を反映した夢のような仕組みの? ヤハウェ・ネイルガンはインディ・ミュージックのフィールドの中で我々に問いを投げかける。「普通」と認識されるアルバムの時間は何分なのか? リアリティのあるフィクションと混沌としたドキュメンタリーのどちらがより真に迫っていると感じられるのか? 反復のない音楽だが、この11分間を何度も繰り返す我々の行動に意味が生まれ、そこに物語が発生しているのではないか? 等々。この11分間という時間は嗜好するには短すぎるが、しかし忘れえない強烈な刺激を与えるのには十分な時間だ。頭の中にある既存の認識を揺るがす「異様」、繰り返しではないこれは明らかに異なった刺激なのだ。
Casanova.S