「Noton」と一致するもの

Pains Of Being Pure At Heart - ele-king

 ギター・ポップは無期限に有効なカード。たとえば〈サラ〉や〈エル〉といったすばらしいレーベルの遺産が繰り返し参照されるように、それは時代と世代をまたいでもつねに一定数のファンをかかえ、「エヴァー・グリーン」という言葉の響きとともにずっと生きつづけていくのだろう。
 しかしそのエヴァーとははたして字義通りの永久を意味しているだろうか、グリーンはみずみずしさを象徴するだろうか。それはある「止まった時」を永続させるものであって、よくよく考えると死のグロテスクなヴァリエーションであり、虚無を愛する倒錯と耽美にふちどられたものではないかという気がしてくる。
 否定しているのではない。それこそがエヴァー・グリーンの原理であり、尽きせぬ魅力の源泉ではないかということだ。若い思い出はいまの活力になるが、そのなかにずっととどまっているのは危険なこと。そして危険と美は隣り合う。エヴァー・グリーンとはけっして安全で無害なものではない。安全で無害なものがあんなにキラキラと輝くはずがない。

 ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートは、そうした危険さを最大限の繊細さでもって音にし、未明の2010年代にあざやかなインパクトと存在感を残したバンドだ。バンドというフォーム自体がインディ・ロック・シーンにおいて説得力を失いかけた時期に、彼らはそれをもっとも美しいゾンビとして蘇生させた。他方には無邪気なガレージの盛り上がりがあり、ビーチ・ポップなどのヴィンテージ志向なサーフ・ロックや、あるいはシットゲイズといったローファイ再評価、ポストパンク的な感性やシューゲイズとも結びついた〈キャプチャード・トラックス〉などが、めいめいのやり方で過去のロックのアーカイヴと向かい合っていて、結果としてあの時期のUSインディには大きなバンド批評のうねりがあったのだなと思い返される。

 アナザー・サニー・デイ、ヘヴンリー、ロケット・シップ、ザ・スミス、ジーザス・アンド・メリー・チェインからマイ・ブラッディ・ヴァレンタインにプライマル・スクリーム……、ゾンビだと言ったが、ペインズの楽曲は、ある種のインディ・ミュージックに対する度外れの愛着とリスペクトを偲ばせ、コスプレイヤーにも見まごうほどの高い参照性と再現性を誇ってきた。前作『ビロング』のエンジニアとして、アラン・モウルダー(マイ・ブラッディ・ヴァレンタインやスロウダイヴなどを手掛けた)を起用していることなどにもそれは明らかだ。もちろん、彼ら自身が特定のアーティストを名指してその再現を標榜しているわけではないし、その比類ないソング・ライティングは、先達の遺産をなぞるだけではけっして得られない輝きとオリジナリティとを宿しているものだ。ポップで、繊細で、親しみ深く、耳に残る。しかしポップなソング・ライティングをして万人向けだと言うのは間違いだ。彼らのポップは、やはり前述のアーティストたちのアーカイヴを共有することで成立するものであり、「ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハート」……同じ「いたみ」をもつ者にしか触れられないというような、インティメットでクローズドな共感に支えられるものではないかと思う。そしてそこに漂ううっすらとした潔癖感が、彼らの音と佇まいに影と悩ましい魅力とを与えている。ファースト・アルバム『ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハート』のジャケットは、彼らの後ろにひろがる音楽的なアーカイヴと、そうした潔癖的なピュアリズムをこの上なく見事に象徴している。

 と、こんなに前置きをしておいてひっくり返すようだが、それから数年を経て3枚めのフル・アルバムとなった今作『デイズ・オブ・アバンダン』には、凍れるエヴァー・グリーンではなく、生きて流れる血を感じた。プロダクションもクリアでみずみずしく、オーヴァーグラウンドな洗練がある(キラーズなどの録音にも携わり、22年ぶりとなったマイブラの最新作『m b v』を手掛けたというアンドリュー・サヴールがプロデューサーとして迎えられている)。隔絶した世界ではなく、この世のポップ・シーンで鳴っているような、これまでにない強さ。曲にもヴァリエーションがある。バンドは大きな変革の時をむかえ、今回はソングライターであり中心人物であるキップ・バーマンひとりの編成となっているが、そのことは大きく関係しているだろう。

 “ビロング”のひずんだ音像が、“シンプル・アンド・シュア”のような分離のよいプロダクションへと変化している……この変化を快く思わない人ももしかするといるかもしれない。“ケリー”のジョニー・マー風のギターに、もっと時代の風合いをつけてほしいという人もいるだろう。それはそれでペインズを深く愛するファンなのだろうと思う。そう思う人は、アルバム後半、“マゾキスト”でちょっと安心し、“アンティル・ザ・サン・エクスプローズ”で歓喜とともにぶっ飛ばされるということになるはずだ。

 しかし、偉大な先人たちの美のくびきから逃れるような、おそらく聴けることはないだろうと思っていた種類の躍動を耳にして、バーマンがよい意味でスモールなバンドを組織できるアーティストであるのと同時に、万人に届き得る回路をもった人なのかもしれないと思い直した。どちらがいいというものではないけれど、“アート・スモック”から“シンプル・アンド・シュア”へと展開する本作は、ギター・ポップを骨董品にしない果敢な良作として、ひとつの未来を指し示しているのではないだろうか。いつかは老いて腐食するかもしれないエヴァー・グリーン、生きて息をするものの美しさが、わずかに、そして尊く顔をのぞかせたアルバムである。
秀逸なジャケットは、題材が日本ぽいけれども、韓国のアーティストの手になるものだそうだ。たて笛と学校机の表象は耽美的なモチーフにも思われるが、寝顔や植物、そして散らかった様子にはやはり生命の赤みが感じられる。

MANNERS - ele-king

 近代では、村に帰属できない漂泊民が定住する経済的トポスとして、都市は生まれ、発展した。貿易の拠点であり、人が自由に出入りするエリアであり、商業と文化に惹きつけられるように人が集まる場所だった……と。大企業が支配する今日の都市にはまた別の物語があるのだろうけれど、都会情緒はつねに音楽にとって大きな主題としてある。

 見汐麻衣(ex埋火)の新しいプロジェクト、MANNERSは、淡い都会情緒を煌めかせながら、大人びて洗練されたアレンジとグルーヴのなか、時折カンタベリー系さえ彷彿させるジャズ・ロックもちらつかせる。プロデューサーは石原洋、エンジニアは中村宗一郎。ゆらゆら帝国~オウガ・ユー・アスホールを手がけてきた黄金コンビの、新たなプロジェクトである。注目のデビュー・アルバムの発売は10月15日、タイトルは『Facies(フェイシーズ)』。続報を待とう。

MANNERS WEB:
https://srennam.wix.com/manners

J Mascis - ele-king

 J・マスキスよりもJ・マスシスと発音するほうがしっくりくる世代のものです。なので、ここではあえてJ・マスシス表記で統一させていただこうと思うのですが、いかがでしょう? ま、どちらでもいいんですが、なかなか思い入れもありまして。J・マスシスといえば、もちろんダイナソーJr.その人であり、個人的な話になるけれど、ダイナソーをリアルタイムで聴いた最初の作品が『ホエア・ユー・ビーン』(1993)なので、ハードコア上がりの疾走感と爆発力を携えた名作『バグ』(1988)、ゴージャスさを増したメジャー・デビュー作『グリーン・マインド』(1991)らに比べるとずいぶんレイドバックしたところから入門しているわけで……。が、しかし、トレードマークの轟音は健在で、翌94年の『ウィズアウト・ア・サウンド』リリース時の来日公演(@新宿リキッドルーム)では、高く積み上げられたマーシャルアンプから繰り出される音の壁に耳をつんざかれ、興奮状態で朦朧とした意識のなか、胸を焦がすこよないバラード“ゲット・ミー”に身をゆだねながら、当時はまだ止めていなかった煙草に火をつけて悦に入っていたものだ。

 そんな話はさておき、97年のダイナソーJr.解散以降、さまざまなバンド・プロジェクトのほか、J・マスシス+ザ・フォッグ、J+フレンズなどの名義でソロ作品をリリースしてきたJであるが、ずばり「J・マスシス」名義のものとなると特別である。前作『セヴェラル・シェイズ・オブ・ホワイ』(2011)では、全編アコースティック&ドラムレスという予想範囲内の(しかし、これまでにない歌のおセンチっぷりは、はるか予想外!)静かな作品を用意してくれたが、3年ぶりの本作も基本路線は変わらず。前作の1曲めには、“リッスン・トゥ・ミー”(俺の言うこと聞いてくれ)なんて謙虚な(?)タイトルをもってきていたが、本作1曲めでは“ミー・アゲイン”(もう一度俺を)などとさらに切実なタイトルからはじまる(Jの歌詞にはやたらと「Me」が出てくるんだな)。しかし、その内容に押しつけがましさなどまったくなく、前作において多分に含まれていた湿り気をいくらか運び去り、からっと晴れ渡る爽快さに満ちあふれている。“エヴリ・モーニング”では、J自身による跳ねまくる軽快なドラムも導入され、彼のトレードマークであるビッグマフ(ファズ)を踏みこんだ太っとく歪むギターソロも飛び出して耳を奪われる。“ヒール・ザ・スター”では、ティラノザウルス・レックスよろしく、Jが心酔するインド文化の影響が垣間見えるラガーでオリエンタルなギター&パーカッションの混沌が現れ、続く“ワイド・アウェイク”では、一変して広大無辺のアメリカーナな景色が広がり、ゲスト参加のショーン・マーシャル(キャット・パワー)の乾いた歌声とともに優しく静かに枯れ落ちる。さらにダイナソーの隠れた名曲“フライング・クラウド”を彷彿とさせるサイケデリック・フォーク“スタンブル”、刷毛でなすったような渋いファズ・サウンドがアコースティック・ギターの背後を薄雲のように流れる“カム・ダウン”など、ラフな作りのなかにも、思わず二度見、三度聴きしてしまう気の利いたアレンジが詰めこまれ——平均年齢80歳のコーラス・グループ=ヤング@ハートのメンバー、ケン・マイウリによる装厳なピアノ演奏もじつに巧妙——パンキッシュなパワーコードと複雑なアルペジオが織り成すリズミカルなギター、そして、なにより、しこたま気が抜けているのに不思議と力強い抑揚をもつ声&メロディの妙がいかんなく発揮されていて、ぐいぐいと惹きつけられる。

 「ダイナソーのアコースティック版」と言ってしまえば、じつにわかりやすくてそれまでの話になってしまうが、ここでは85年のダイナソーJr.デビュー以来、およそ30年に渡って繰り広げられてきたJ節がなんら変わらずに展開されている。しかし、ただのヴィンテージ趣味に終わらないこだわりの歪み、曲の緩急、リズム、声色の高低、ポジとネガ、ピッキングの強弱、ファズの軋みからノイズの取り扱いまで、やる気があるのかないのかまったくわからない感情の起伏に従って、ころころと変わる楽曲の表情の豊かさはこれまでの作品のなかでもピカイチであり、いつになく愛らしくもある。前作同様マーク・スパスタによるソフトでサイケな色づかいと、もふっとした質感の(得体の知れない)ゆるキャラが仲良くたたずむ幻想的なアートワークも、おとぎ話のように浮世離れしたJの音楽をうまく表していて、まるで、手に取りやすいのに捕まえにくい彼の生態そのもののようである。そして、緑と紫に発色し(ダイナソー時代からやたら好んで使われている色の組み合わせ)、苔のごとく生え広がる少しばかりの憂鬱もブレンドされ、そのメランコリアはじわじわと心のひだに沁み入り、胸の内奥をしっとりと濡らしてくれる。

第22回:フットボールとソリダリティー - ele-king

 夏休みにうちの息子を初めてフットボール・コースに通わせた。
 これはブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFCという地域のクラブが運営している小学生向けのコースで、夏休みとかイースター休みとかには必ずやっているのだが、働く親には送り迎えがたいへん不便な時間帯に行われているので、これまでうちの息子は通えなかったのである。

 が、今年はどうにか送り迎えの都合がつくことになり、フットボール狂のうちの息子は喜び勇んでコースに行ったのだが、初日からどんよりした顔つきで帰って来た。
 「どうしたの」
 「ジャパーンはシットだって言われた」
 ああ。と思った。グラウンドに彼を送って行ったときに、それはちょっと思ったのである。子供たちのほとんどは、ブライトン・アンド・ホーヴのキットを着ていた。地元クラブ運営のコースなので当前である。少数派として、チェルシーやマンUなどの定番人気クラブのキットを着ている少年たちもいたが、日本代表のキットなど着て行ったうちの息子はマイノリティー中のマイノリティーだ。しかも、そのチームがまた、どちらかと言えば強くないことで有名である。そりゃからかわれる標的にはなるだろう。
 「明日は日本代表のは着たくない」
 「ほんなこと言ったって、あんたブライトン&ホーヴのキット持ってないじゃん」
 「ウエストハムのキットを着る」
 「いや、それもブライトンじゃ超マイノリティーだよ。強いわけでもないし」
 「ウエストハムなら何と言われてもいい。“僕のチーム”だから」

               *****

 ある日、食事中にうちの息子が、妙に青年っぽく潤んだ瞳で言った。
 「こないだ、父ちゃんとロンドンに行った時、ウエストハムのリュックを背負って行ったんだ。地下鉄を降りて、プラットフォームを歩いていたら後ろから男の人がいきなり僕のリュックをパンチした。で、彼は言ったんだ。『ウエストハム・フォー・ライフ』って」
 わたしは黙って聞いていた。あれほど熱っぽく、しかし静かな息子の微笑は見たことがなかった。8歳児があんな顔するのかよと思った。

 またある時、息子は言った。
 「母ちゃんは実用的なことを教えてくれるけど、父ちゃんは人生について話してくれる」
 「例えば、どんな?」
 「僕たちは一度このクラブをサポートすると決めたら一生変えないんだとか、そういうこと」
 要するにフットボールである。
 うちの息子がウエストハムのサポーターである理由は、ロンドン東部で生まれ育った連合いのローカル・クラブがウエストハムだったからであり、彼の「ウエストハム・フォー・ライフ」はいわば世襲のものである。フットボールには「世襲」だの「帰属」だのといった風通しの悪いコンセプトがつきまとう。そもそも、「○○・フォー・ライフ」などという思い込みの迸りは限りなく愛国精神じみているし。フットボールがウヨク的と言われる所以だろう。

                *****

 『Awaydays』という映画があった。例によってこれも日本には輸入されていないようだが、『This Is England』のフットボール版と言われた映画で、1979年の英国北部の若者たちを描いた作品である。

サッチャーが政権に就いた年の灰色の北部の街で、ちょうど『This Is England』の主人公ショーンがナショナル・フロントに惹かれて行ったように、『Awaydays』の主人公はフーリガニズムに惹かれて行く。『Awaydays』もサブカル色が強く、ここに出て来る北部のフットボール・フーリガンたちは、いやにモッズである。アラン・マッギーが初めてグラスゴーのライブハウスでオアシスを見た時の印象を、「そこら辺を破壊して暴れ出しそうな不良のモッズが隅に陣取っていた。はっきり言ってビビった」と語っているのを読んだことがあるが、モッズにはどうしたって地方のヤンキーという側面がある。この流れを現代に汲んでいるいるのが、スリーフォード・モッズだろう。ああいうおっさんたちは、ブライトンの職安の前に行くとけっこういる。
 『Awaydays』はポストパンク・ミュージックをふんだんに使い、フーリガンたちがワイヤーやマガジンを聴いていたり、主人公の部屋にルー・リードのポスターが貼られていてたりするのだが、これは連合いの世代の人びとに言わせれば、「フーリガンはポストパンクじゃなくて、ディスコかジャズ・ファンクを聴いていた」という時代考証的な矛盾があるらしい。
 が、本作の主人公は、もともとおタクっぽいレコード・コレクターで、田舎のヤンキー文化には溶け込めなかった。そういう青年が何故かフーリガンたちの世界に憧れ、自ら飛び込み、やがてグループの中で最も凶暴なメンバーになるというのは、面白い構図だ。ポストパンクとフーリガンは相容れない世界だったとしても、その境界を飛び越えて行った人もいた筈だ。
 男子が暴れたくなる理由はホルモンの暴走とかいろいろあるんだろうが、この映画では、閉塞や孤独やノー・フューチャーな感じ、禁じられた同性愛などの対極にあるものへの渇望。が満たされない故に疾走する行為として描かれている。そして、あの徒党感。「族」を描く映画には欠かせない、「横並びに共に立っている」という感覚である。それはうちの息子が駅でウエストハムのリュックをパンチされた体験を語る時の、潤んだ微笑でもある。


              *******

 過日。
 若き左派論客オーウェン・ジョーンズがガーディアン紙ですすり泣いていた。この人はダイハードな左翼ライターとして有名で、左派のわりには全くヒューマニティーを感じさせないほど沈着冷静、皮肉屋で残酷。眉ひとつ動かさずにバサバサと右派を斬る人なのだが、その彼が『Pride』という新作映画を見て「僕はすすり泣いた」などと新聞に書いている。
 同作もサッチャー時代の話らしい。炭鉱労働者たちのストライキをサポートするために同性愛者コミュニティーが立ち上がる。という実話ベースの話だそうで、これを見てあのオーウェン・ジョーンズが泣いたというのである。
 「サッチャーが殺すことができなかった伝統がある。それは英国人のソリダリティーだ。どれほど彼女が個人主義の鉈を振り下ろしても、この伝統だけは殺せなかった」
 と彼は書く。うーむ。これも「横並びに共に立つ」というアレだよなあと思った。

 思えば、例えばこのアラフィフのばばあが育って来た時代から現代まで、西洋文化にかぶれた日本人にとっても、ソリダリティーというやつは最もダサいもので、憎むべきものであった。個人主義こそがクールで、おまえはおまえで俺は俺。群れる奴らは弱いとか、団結はおロマンティックなバカどもの幻想だとか言われてきた。わたしなんかも、すっかりその洗脳にやられて生きて来た老害ばばあである。

 最近、UKでは頻繁に「サッチャー」という言葉を耳にする。ひとつのキーワードになっていると思うが、この国で育った人間たちは今つらいのだと思う。組合は駄目、フーリガンは駄目、福祉国家は駄目(この駄目というのは、禁止という意味ではない。「もはやお話にもならないもの」ということ)、人間が結束することを全て駄目化する形で庶民は分割統治されてきた。自力本願が花開く上昇の時代ならそれでも良い。が、人が支え合わなければ生き残れない下降の時代になっても個人主義という基本は変わらない。それでもソリダリティーに惹かれてしまう者は、それこそ左から右にジャンプするしかないというか、ポストパンクからフーリガンに飛び込むしかなかったのだ。
 けれどもそこはやはり人間が繋がることが駄目化された社会なので、『Awaydays』でも主人公のひとりは自殺するし、もうひとりは「やっぱ結束なんてクソだよな」とフーリガンを抜ける。『Pride』のほうだって、炭鉱労働者たちが現実にどうなったかを考えると「勝利」みたいなハッピーエンドではないだろう。が、きっと人間のソリダリティーを否定しない形で終わった映画だからこそ、オーウェン・ジョーンズのような人まで泣いたのではないか。 
 ソリダリティーはいいことなんだよ。と言ってくれる人はこれまでいなかったから。

 サッチャーからはじまった個人主義の果てにあった修羅の如きブロークン・ブリテンに、きっとみんな疲れているのだ。だからちょっとソリダリティーとか言われたら泣いたりする。
 アホか。
 ゲット・リアル。
 とはわたしはもう思わない。
 次の時代は、意外とそういうところからはじまるかもしれないからだ。

Syro - ele-king

 ひとつには、UKのテクノが面白くなっているという背景もあるのだろう。テセラ、アコード、ラッカー、アクトレス、アントールド、スペシャル・リクエスト、アンディ・ストット、ダムデイク・ステア……等々、そしてここにベテラン勢も加わると。
 もちろん、彼は変わってはいない。アルバム・タイトルの『Syro(サイロ)』、いつものロゴマーク、エイフェックス・ツインの音楽に意味はない。曲名から極力物語性をはぎ取ってきたのも、彼の特徴である。“ Analog Bubblebath”、“Xtal”、“Tha”、“Quoth”、“Quino - Phec”……『アンビエント・ワークスvol.2』では、唯一の既発曲である“Blue Calx”以外は、綺麗なまでに曲名がない。
 ご存じのように、公表されているアートワークには、曲名と制作費用の内訳、そして、リチャード・D・ジェイムスのバイオが掲載されているが、よく読めばわかるように、バイオはメチャメチャだ(笑)。アー写に関しては、いつものリチャード・D・ジェイムスといったところでしょう。

Mac DeMarco - ele-king

 だって最初から終わってるじゃん。でも、そこからしか何もはじまらないし、実際はじまるかどうかもわからないしな。いや、はじまらなくてもいいや、はじまったらはじまったで面倒くさいし、はじまらなかったとしても誰も困ることなんてないし。っていうか、はじまるっていっても何がはじまるの? はじまっていいことなんて何かあるの? はじまらなければ終わりもないんだから、はじまらない方がいいじゃん。そもそもはじまるって一体何? マック・デマルコの作品は、そうやって一人でブツブツ呟いているようなものだ、と言ってしまうと乱暴かもしれないが、そんな解決案の一つも持たない一人ごちがそのままカタチになったようなところがたしかにある。
 チューニングがあやふやなまま音を出しちゃったようなヨレたギターのリフも、エフェクトをかけ過ぎてエコー酔いしてしまったような音処理も、どこから歌い出していいかわからなくなったから適当に歌いはじめたかのようなぼんやりとしたヴォーカルも……とにかくすべての音という音が伝えているのは、このカナダはモントリオール出身の、少年のような風体の男のやる気のなさ、というより、あらゆることに価値を見いだせずひたすらダルさしか感じられなくなったボヤきのようなものだ。ハッキリ言って、だらしない音楽である。

 音楽性やスタイルだけ取り出せば、ビッグ・スターで挫折した後に、パンク時代の〈CBGB〉で歌い出したときのアレックス・チルトンや、モダン・ラヴァーズとしてのファースト・アルバムがなかったかのように、突如ユルいソロへの転じたときのジョナサン・リッチマンなんかを思い出す。要は、ネジを一つ二つ緩めることで真意を読まれまいとする“照れ隠しポップス”の系譜に連なるもので、これまた偉大なるその先達2名に倣うかのごとく曲調だけやたらとメロディアスで人なつこいのも、そうは言っても結局のところ構ってほしい気持ちのあらわれだと断言できる。
 しかしながら、とりわけこの最新作における行き過ぎた諦念は、たとえばアリエル・ピンクが生涯のフェイヴァリットに挙げるR・スティーヴィー・ムーアのようなアウトサイダー・アートにも匹敵する枠外的な異物感そのもの。適当にコンフォタブルなのにヒューマニズムはほとんど感じさせず、むしろその聴きやすさがひたすら不気味さを醸しているのが今作の圧倒的なおもしろさだ。もちろん、そこに本人は果たして気づいているのかどうかはわからない。

 ユルい音楽は総じて人間的だと思っている人には相当に衝撃的なポップスのはずだ。マック・デマルコはユルくてヘラヘラとしているのに表情がとぼしくひんやりとしている。救われるとか救われないとか、そんな解釈もきっと彼の前ではまったく意味を持たない。そこにただいて、ただはじまりも終りもない事実……かどうかもわからない事象を呟いているだけなのだから。

Aphex Twin - ele-king

 勘のいい人は、もう気がついていたでしょう。リチャード・D・ジェイムス、エイフェックス・ツイン名義での13年ぶりのオリジナル・アルバム、『SYRO』が9月24日にリリースされます。
 2001年の『Drukqs』以来の(エイフェックス・ツイン名義での)アルバムですから、それはもう、ワクワクしますよね! 90年代リアル世代にとっては、テクノと言ったとき、クラフトワークより身近な存在でしょう。非リアル世代にとっても、初のリアルタイム体験に胸躍らせることでしょう。非ギークからも、ギークからも愛された、ベッドルーム・テクノ(非チルウェイヴ/非ヴェイパーウェイヴ)のヒーローの帰還。これを良いことに、すでにネット上では、偽AFXが「コレが新作だ」と自分の音源を発表しているようです(笑)。
 しかし……〈ワープ〉というレーベルは、10月8日(先に1日と表記されてましたが間違いです。申し訳ございません)にフライング・ロータスの果敢とも言える問題作のリリースを控えながら、その前にエイフェックス・ツインの新作リリースだなんて……無茶です。日本支部のビートインクにお盆休みはないようです。

Susanna / Jenny Hval - ele-king

 ノイズこそわがキャンバス──ノイズを生み出すことに目的があるのではなく、それをキャンバスとして空白のかわりにするというのが、イェニー・ヴァル(Jenny Hval)の音楽でありノイズ観だ。ハーシュ・ノイズを筆頭に、アルバムにはくまなくさまざまなノイズが敷き詰められている。ラーガ調のドローンに、ゴシックな世界観と女声二声によるエクスペリメンタルな歌唱が交差する“アイ・ハヴ・ウォークト・ディス・ボディ”は、そうした彼女の音楽のありようを冒頭において高らかに宣言する、素晴らしいトラックだ。なんて静かな、そしてなんと熱くたぎる……。

 ノルウェーのシンガー、ソングライター、小説家としても活動する女流アーティスト、イェニー・ヴァル。昨年リリースのアルバム『イノセンス・イズ・キンキー』が高い評価とともに注目されたため、気になっていた方も多いだろう。しかし、今作は同じくノルウェーのシンガーであるスサンナを迎えたことでさらに水際立った存在感を放っている。これはヴァルが「異なるふたつの声がどのように互いをきたえ、溶けあうのかという実験」だと述べるように、十分に意識された取り組みであることがうかがわれる。

 たとえばファースト・エイド・キットの、わがままで強気なロリータ・ヴォイス(妹)と優しい透明感をもったソプラノ(姉)との対照。ココロージー姉妹の妖しくゴシックなたたずまい。グルーパーの深淵を思わせるリヴァーブ感。俗っぽさを取り除いたプリンス・ラマ(といっては失礼だろうか)。遠くフリー・フォークの記憶をよみがえらせながら、新たな魔女たちがノイズの炎たつ原野に降り立った、そんな強烈なインパクトを持つコラボレーションだ。

 まあ、「魔女」なんて符号をつけるのは乱暴で安直かもしれない。ある種のドレスに身をつつんで一丁あがりというようなゴシック趣味は、ジェンダー観においても進歩的なヴァル自身が否定している。しかし上品で正確な表現で紹介していてはつかまえそこねるような鋭く速い何かが彼女たちにはあって、筆者はむしろ誤りなき言葉によって彼女たちが埋もれてしまうことをおそれる。スタイルにおいて、スタンスにおいて、表現内容において、特別な力に通じているがゆえに、境界的な場所を見据えるがゆえに、迫害もされてしまいかねないような強烈な輪郭をヴァルとスサンナは見せてくれる。

 サン(Sunn O))))にも比較され、プルリエントにも範を得るような彼女の音にはまた、2000年代を通じたノイズの流行も消化されている。そして「ノイズがキャンバス」であればこそ、ピアノとヴォーカルのみの“メドゥーサ”のような楽曲がむしろノイズの顕現であるようにも錯覚する。同曲中盤において彼女たちがめいめいに大きくブレスをおこなうとき、その息というノイズはもっとも印象的な乱調となってあらわれてくる。さながら、いくつもの世界を切り裂いてわたっていく風のようだ。つづく“ランニング・ダウン”がそれをさらに増幅させるだろう。
 ヴァルはまだうんと若い頃にブラック・メタルのシーンにいたということだが、彼らの同胞がときおり召喚するような、ヴァイキングの亡霊たちが徘徊する世界、その冷たい海と廟から吹いてくる風に、彼女たちの呼吸は同調しているのかもしれない。ヴァルはまた、本作においてふたりの声の競合が、「人の精神と肉体が自然的なものの神秘とともに抱合するという近代の寓話になるかもしれない」とも語っている。

Steve Gunn & Mike Cooper - ele-king

 夏が終わっちまう前に、ロマンティックな音楽を聴こう。厭世的で、嫌味なほど格好いい音楽を聴いてやろう。40歳以上も年が離れたアメリカ人とイギリス人のギター弾きが、ポルトガルの空港で出会い、リスボンで10日間のセッションを試みた。その結果生まれたのが本作である。
 〈Rvng Intl.〉は、この手の年の差コラボを得意とする。サン・アロウとコンゴス、アープとアンソニー・ムーア、ジュリアナ・バーウィックとイクエ・モリ……。「FRKWYS 」シリーズは、音楽的には近しい、親子ほどの年が離れた先達と若手、ときには民族も違った人を組ませる。

 スティーヴ・ガンは、マーク・マッガイアとほとんど同じ時期に脚光を浴びたギタリストだが、マッガイアとは別の方向性をもっている。ガンはブルースであり、カントリーだ。エフェクターは使わない。フィンガーズ・ピッキングで弾く。マニュエル・ゲッチングではなく、ジョン・フェイヒィの側にいる。
 ガンの2008年の出世作、〈Digitalis〉からのアルバムは、ジョン・マーティンのカヴァー曲で終わる。そう、ベン・ワットがもっとも影響を受けたブリティッシュ・フォーク・シンガーのひとりで、昔は「英国のボブ・ディラン」などと呼ばれた男だ。1973年の名作『ソリッド・エアー』の収録曲を演奏したガンのその作品のタイトルは『浮浪者(Sundowner)』。この言葉が、彼の音楽をよく言い表してはいるが、音楽が貧乏くさいわけではない。
 いっぽうのマイク・クーパーは、ジョン・マーティンと同様に60年代から活動している英国のミュージシャンだ。向こうの記事を読むと、ローリング・ストーンズへの誘いを断った男とも書かれている。最初はブルースとジャズを演奏していたが、やがてインプロヴィぜーションに傾倒した。ブルースを基本としながら、実験を好み、フリー・ジャズとサイケデリックに遊んでいる。昨年は、オーストリアのアンビエント/ドローンの作家、ローレンス・イングリッシュが主宰する〈Room40〉からアルバムを発表している。

 『Cantos De Lisboa』は、とても切ない気持ちにさせられると同時に、至福をももたらしてくれる。ブルースの音色は滑らかに流れながら、美しく破壊される。青い空の下で、ギター・アンサンブル以上の何かが立ち上がる。

Special Request - ele-king

 90年代はこまめにテクノを聴いていたけれど、2000年代になってからはどうもなー、いまひとつノリが合わず、ダブステップなんてようわからんし……などと開き直る人が僕のまわりにはわりといる。これは世代的もので、とくに庶民の分際で子供ができてしまったりすると、自分の趣味に使えるお金などほとんどないから無理もないのである。いかに家族にばれずにレコードを買うか、これは人生の深刻な問題だと、そんな話はまあどうでもいいのだが、とにかく90年代はテクノを聴いていたけれど、2000年代になってからはどうにもさっぱりという人に、僕はUKのポール・ウルフォードによるスペシャル・リクエスト名義のアルバム、『ソウル・ミュージック』を聴かせたいのである。
 〈ハウンズ・トゥース〉から昨年の暮れにリリースされた『ソウル・ミュージック』を簡単に説明すれば、ジャングル+“アナログ・バブルバス”+“ガール/ボーイ・ソング”+デトロイトのファンク。極論すれば、90年代初頭のエイフェックス・ツインとUKジャングルがこのアルバムではアップデートされている。90年代のテクノに思い入れがある人にとっては、おそらく感涙ものの作品だ。しかも、ゾンビーの92年復興運動と違って、『ソウル・ミュージック』はノスタルジーを感じさせない。このところ出すシングル出すシングルが話題になっている若手の注目株、テセラの思い切りの良いエネルギーとも確実に重なっている。

 CDは2枚組で、2枚目のCDは、そのテセラのヒット曲“ハックニー・パロット”のスペシャル・リクエストによるリミックスからはじまる。R&Bサンプルの、トゥー・マッチなエディティングと美的叙情性との奇妙な調和が印象的な“ハックニー・パロット”は、いちど聴いたら忘れられない曲で、今日のジャングルにおける大きな目印のひとつだ。〈R&S〉が引き抜きにかかるのも理解できる。
 2枚目のCDには、テセラに続いてラナ・デル・レイの曲のスペシャル・リクエスト自身による(ブートレッグ)リミックスも収録されている。このあたりの「やったれ」感、すなわち海賊文化的アティチュートも、UKジャングルのよき気風、一種のトレーマークとも言える。また、2枚目にはリミキサーとして〈ワークショップ〉のカッセム・モッセ、〈TTT〉のアンソニー・ネイプルス、デトロイトのアンソニー・シェイカー、〈PAN〉のリー・ギャンブル等々、魅力的な名前が記されている。
 いずれにせよ、今日のUKアンダーグラウンド・ミュージックの最良の部分が垣間見れる内容なのだが、それでも圧倒的なのはスリル満点の1枚目のほうだ。冒頭こそ“アナログ・バブルバス”直系のメロディアスなブレイクビート・テクノだが、アルバム後半にたたみかけるジャングルの、ジェットコースターめいた展開は迫力満点で、解体された音の断片(=ブレイクビート)が息つく暇もなく、シャープに、リズミックに再構築される様は、もう、ファンタスティックと言うほかない。ブリアルや「CMYK」、アンディ・ストットの次を探している人にも一聴の価値あり。

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