Home > Reviews > Album Reviews > Mac DeMarco- Salad Days
だって最初から終わってるじゃん。でも、そこからしか何もはじまらないし、実際はじまるかどうかもわからないしな。いや、はじまらなくてもいいや、はじまったらはじまったで面倒くさいし、はじまらなかったとしても誰も困ることなんてないし。っていうか、はじまるっていっても何がはじまるの? はじまっていいことなんて何かあるの? はじまらなければ終わりもないんだから、はじまらない方がいいじゃん。そもそもはじまるって一体何? マック・デマルコの作品は、そうやって一人でブツブツ呟いているようなものだ、と言ってしまうと乱暴かもしれないが、そんな解決案の一つも持たない一人ごちがそのままカタチになったようなところがたしかにある。
チューニングがあやふやなまま音を出しちゃったようなヨレたギターのリフも、エフェクトをかけ過ぎてエコー酔いしてしまったような音処理も、どこから歌い出していいかわからなくなったから適当に歌いはじめたかのようなぼんやりとしたヴォーカルも……とにかくすべての音という音が伝えているのは、このカナダはモントリオール出身の、少年のような風体の男のやる気のなさ、というより、あらゆることに価値を見いだせずひたすらダルさしか感じられなくなったボヤきのようなものだ。ハッキリ言って、だらしない音楽である。
音楽性やスタイルだけ取り出せば、ビッグ・スターで挫折した後に、パンク時代の〈CBGB〉で歌い出したときのアレックス・チルトンや、モダン・ラヴァーズとしてのファースト・アルバムがなかったかのように、突如ユルいソロへの転じたときのジョナサン・リッチマンなんかを思い出す。要は、ネジを一つ二つ緩めることで真意を読まれまいとする“照れ隠しポップス”の系譜に連なるもので、これまた偉大なるその先達2名に倣うかのごとく曲調だけやたらとメロディアスで人なつこいのも、そうは言っても結局のところ構ってほしい気持ちのあらわれだと断言できる。
しかしながら、とりわけこの最新作における行き過ぎた諦念は、たとえばアリエル・ピンクが生涯のフェイヴァリットに挙げるR・スティーヴィー・ムーアのようなアウトサイダー・アートにも匹敵する枠外的な異物感そのもの。適当にコンフォタブルなのにヒューマニズムはほとんど感じさせず、むしろその聴きやすさがひたすら不気味さを醸しているのが今作の圧倒的なおもしろさだ。もちろん、そこに本人は果たして気づいているのかどうかはわからない。
ユルい音楽は総じて人間的だと思っている人には相当に衝撃的なポップスのはずだ。マック・デマルコはユルくてヘラヘラとしているのに表情がとぼしくひんやりとしている。救われるとか救われないとか、そんな解釈もきっと彼の前ではまったく意味を持たない。そこにただいて、ただはじまりも終りもない事実……かどうかもわからない事象を呟いているだけなのだから。
岡村詩野