「Noton」と一致するもの

Ben Frost - ele-king

 ベン・フロストとは何者か。新生スワンズ(本作『オーロラ』にはソー・ハリスが参加している)の“ジ・シーア”やビョークのリミックスを手掛けている? ティム・ヘッカーが本作のポスト・プロダクションを行っている? あれ、こないだの『WIRE』の表紙にもなっている? なぜ。惑星間レイラインの影響なのか(詳しくはビル・ドラモンド『45』参照)。本作からイメージされる宇宙チャネリング感を念頭におけば、それもあながち間違いではないかもしれない。惑星間レイラインはアイスランドからニュージーランドへ続くというし、メルボルンからそのメガ・パワーをたどることも不可能ではないだろう。この作品を聴くまで彼をほとんど知らなかった僕は、ググるたびに彼のセレブリティなプロフィールに圧倒されつつヒガミ根性をふつふつと沸き上がらせている。ベン・フロスト。オーストラリアはメルボルン出身、2000年代の初頭から活動をつづけ、現在はアイスランドのレイキャビクを拠点として北欧のエレクトロニカ・シーンを牽引するプロデューサーである。

 ヘソ曲がり全開なことを言えば、彼のバンドキャンプのページに記載されている「パンク・ロックやメタルとともにクラシックなミニマリズムに影響を受け云々」というくだりはやや不正確だ。モグワイやゴッドスピードのような、パンク・ロックやメタルに影響を受けたであろうポストロック、あるいはシガーロス等のシューゲイズは、逆にゼロ年代初頭のハードコアやメタルバンドへ甚大な影響を与えたのだ。あの頃は誰もがシンプルなリフで、センチメンタルかつやたらにドラマティックな楽曲を作っていた。ベン・フロストもその渦中にいたことは彼の過去作品を聴いても明らかである。個人的にはセンチメンタリストであることがパンクとメタルの本質ではないと強く思うゆえ、彼の音楽の根元にあるのはパンクとメタルじゃなくて、ポストロックやシューゲイズでしょう! というツッコミによって『オーロラ』のひとつの本質に迫っておきたいと思う。

 そして本作『オーロラ』ももちろん充分にセンチメンタル、かつドラマティックに展開される。ギターとピアノにかわり、硬質なエイベルトン・サウンドによる、映画『グラヴィティ』ばりの宇宙スペクタクルな世界観が聴者をブチ上げるだろう。新しいかといえばそういうわけでもないが、各音楽メディアの注目も含めてポスト・ハクソン・クロークな大ブレイクは間違いない。

Torn Hawk - ele-king

 「いつの時代でもないものをつくりたい」というのは、何をつくってもいずれかの時代のレプリカになってしまうという時代の健康な夢のようでもあり、レプリカをよしとしない思考をますます袋小路に追い詰めてしまう病理のようでもある。ブルックリンを拠点に活動するプロデューサー、トーン・ホークことルーク・ワイアットは、とあるインタヴューにおいて「いつの時代でもないものをつくりたい」という旨の発言をしていたが、一目瞭然、彼が参照するのは80年代のヴィデオ作品やポップ・ミュージックだ。とくに映像作家でもある彼は、自身の試みを「ヴィデオ・マルチング」と形容し、さまざまな音や思考や感情を、ふるいヴィデオのマテリアルによってやわらかくラッピングする。ドラマやB級ホラー映画、日本のアニメなどのコラージュが中心だが、映像中の音がトラック自体に同期、干渉することも多く、その意味では映像だけでも音だけでも成立しない表現領域で彼の実験は行われている。長い間触れていると、自分がその奇妙な映像の藁床に浸りながら、少しずつ、心地よく、窒息していくような幻想を抱く。
 ノスタルジーなのか、反ノスタルジーなのか、筆者はその手つきを眺めながら、ポスト・ヒプナゴジックが嫡流を残すとすればここだ、というふうに思う。たとえばヴェイパーウェイヴが版権物からフリーな音源・映像まで、ネット上の屑マテリアルを楽しげに加工している──ディストピックな情報社会のストリートで楽しんでみせている──のとは別の原理がそこには存在し、批評や遊戯とも異なる、刺せば血の出る生身がうしろに横たわっているという感じがある。「コンピューターで音楽を編集することにうんざり」してVHSなどの素材へと向かい、サンプリングを軸にしておきながら「運命づけられたものしか存在しない」として必然(inevitable)を創作上の重要な概念に据えるワイアットには、インターネットの無限のつながりを謳歌できず、そのストリートから外れた者の手を引くようなところがあるのかもしれない。その優しげな夢の半身浴体験に筆者は安心と信頼をもって誘われる。

 〈L.I.E.S.〉や〈ノー・ペイン・イン・ポップ〉など複数のレーベルから、あるいはルーク・ワイアット名義で、この1、2年の間にハイ・ペースにリリースを重ねている彼だが、本作は〈ノット・ノット・ファン〉からのリリースとなり、『ティーン・ホーク』(2013)のように、エメラルズからマーク・マッガイアへと抜けるような、クラウトロック・マナーなアンビエント作品と、『10・フォー・エッジ・テック』(2013)のミニマリズムとのあいだをとるような作風になっている。しかし、本作を新しく特徴づけているのはゲート・リヴァーブ全開なスネアやシンセ・ポップ、あるいはEBM的なビートやサウンドなど80年代的なモチーフだ。そのことが各トラックに、より馴染みやすさやポップス感、楽曲らしいシークエンスを与えているかもしれない。“ハッチソン”のようなメディテーショナルなアンビエント/ドローンが間に挟まれたり、後半には“ア・ノヴェンバー・ミッション”や“スルー・フォース・オブ・ウィル”のようなダークなインダストリアル・トラックのによる乱調もあるが、それもやがてエモーショナルなギターが挿入されて調和を取り戻し、終曲のシンセ・ポップではピースフルに、感動的にチルアウトする。“ブラインド・サイデッド”でダックテイルズのマシュー・モンデナイルのようなギターにとろけながら、彼が「必然」と呼ぶものは、偶然性を避ける……作り込んだり、熟考したりすることで得られるものではないのだろうと思う。ワイアットのトラックメイキングは、さまざまなネタを探して引っぱってきて構成するというよりは、落ちていたものをそもそもあったはずの場所へかえしてやるというような作業に近いのかもしれない。

Blood Orange - ele-king

 アーケイド・ファイアの“ウィ・イグジスト”のヴィデオに『アメイジング・スパイダーマン』のアンドリュー・ガーフィールドが女装して出演したことが話題になったが、フロリダのパンク・バンド、アゲインスト・ミー! のローラ・ジェーン・グレイスが「どうしてスター俳優を使って、本物の“トランス”の俳優を起用しないんだ」と批判したそうだ(彼女は自身がトランスジェンダーであることをカミングアウトしている)。わからなくもない。僕もヴィデオを観て、国際的大スターであるガーフィールドがアーケイド・ファイアのステージで自分を解放する姿に少しあざとさを感じもしたからだ。が、それでも僕がアーケイド・ファイアをどちらかと言えばかばいたいのは、あくまで彼らのメッセージが「わたしたちは存在する」だからだ。性の多様性を訴えることは、「本物」の当事者、少数派だけに許されることではないし、非当事者が入ってくることでこそ動くこともある。

 チル・アンド・ビーという暫定的なサブジャンルはいつしかインディR&Bと言われるようになり、そしてそれは昨年終りごろにブラッド・オレンジ『キューピッド・デラックス』が高く評価されることでピークを迎えることとなった。昨年暮れからの愛聴盤だというひとも多いだろう。そしてインディR&Bとは、男たちが自身のなかの女性性、あるいは性の多様性を発見する試みであった。と、断言したくなってしまうぐらい、このアルバムには青年シンガーによる悩ましいまでのフェミニンさ、あるいはポップに開かれたクィアネスがある。
 テスト・アイシクルズ、ライトスピード・チャンピオンズとコロコロと音楽性を変えてきたことが必ず言及されるハインズだが、僕にはブラッド・オレンジの音楽性においてもっとも自身を解き放っているように聞こえる。その生い立ちにおいて孤独を覚えることの多かったであろう黒人青年は、つねにゲイ・カルチャーが身近にあり、そして雑多なマイノリティたちの集まりのなかに自分の居場所を見出してきたという。NYに拠点を移し、まさに雑多な人間たちの力を借りて作り上げたどこか拙さの残る彼のR&Bはしかし、その歌のエモーショナルさ、狂おしさにおいて美しい官能性を帯びている。ため息交じりに女性ヴォーカルと交わる“チャマキー”における滑らかな肌触りのアンニュイさ、“イット・イズ・ホワット・イット・イズ”、“チョーズン”においてゆったり訪れるエクスタシー……。85年生まれの彼の幼少期の記憶にかすかに残っているのかもしれない、80年代~90年代初頭のR&Bにファンク/ソウル感覚もまぶされ、ここにはノスタルジックなムードも煌めいている。
 もっともダンサブルなファンク・トラック“アンクル・エース”ではホームレスのLGBTの日々が歌われているそうだが、ここで思うのは、それはハインズ自身ではないかということだ。家がないということ、普通にはなれないということ、疎外感とナイーヴさと、その孤独においてダンスするということ。ある意味ではアイデンティティが定まっているゲイよりも複雑な頼りなさがここにはあって、それがブラッド・オレンジの音楽の原動力となって聴き手の心の柔らかい部分に入ってくる。ここには「ウィ・イグジスト」と強く叫ぶような主張はなく、その代わりに、誰にも知られないようにこっそりと自分自身の官能を許すことの快感がある。セクシャリティとは数種類に分けられるものではなく、それぞれのなかでグラデーションを描きながら複雑に息づくものである。当事者/非当事者と線引きは、本当はできないはずなのだ。
 ラストのバラッド“タイム・ウィル・テル”のゆったりとしたビート、ピアノとコーラスの優しい響き、そしてハインズの変わらずイノセントな歌はアルバムの終幕をどこまでも感動的なものにする。「僕のベッドルームにおいで」、それは社会の規律に縛られない性を謳歌することを誘っているようだ。「僕のベッドルームにおいで/もう言葉はいらないだろう/僕たちは毎日年を取っていく/僕たちは誰かを愛さなきゃならないよ」。

Eddi Reader - ele-king

 エディ・リーダーで思い出すのは94年春、ロンドンに滞在していた時のことだ。ヒースロー空港に到着するとロビーでかかっていたのが“ペイシェンス・オブ・エンジェルス”。その後、タクシーに乗ってもカフェでお茶を飲んでいてもテレビをつけてもラジオをつけても、そしてもちろんレコード・ショップに入ってもとにかくひたすら流れてくるのは、エディにとって2作めのソロとなる『天使の溜息』に収められたシングル曲で、約10日間の滞在中にその8分の6拍子のバラードは見事に筆者の耳にこびりついてしまった。

 こういうこと自体はけっして珍しいことではない。だが、特筆したいのは、ブリット・ポップに沸いた年の春に町中でもっともよくかかっていたのがブラーでもオアシスでもないエディ・リーダーだったということ。さらに、エディが、若手……少なくとも地元スコットランドの連中からリスペクトされていたという事実にも驚かされた。「おもしろいバンドがインディから登場しているのにラジオではエディ・リーダーがかかっている。これについてはどう思いますか」。筆者からのそんな失礼な質問に対し、その年に会ったティーンエイジ・ファンクラブのノーマン・ブレイクはこう答えたのだ。「最高だよ! だってエディは僕らのミューズだもの。彼女のようなスタンダードがヒットしていないとだめだよ」。
 そんなエディの約5年ぶり10作めとなるスタジオ・アルバムには、彼女がヨーロッパ中をバスキングをした後にグラスゴーに戻ってきてフェアーグラウンド・アトラクションを結成した頃とほとんど変わらない、スウィング・ジャズ、トラッド・フォーク、ボサ・ノヴァなど古くからの大衆音楽への希求をベースにしたスタンダードな風合いのポップスが揃っている。曲はオリジナルだが(日本盤にはフレッド・ニールやスーパー・ファーリー・アニマルズなどのカヴァーが収録されている)、アコースティック・ギター、ピアノ、アコーディオンなどを用いた演奏、アレンジのスタイルも定番中の定番。録音場所は変わることなくグラスゴーで、ロイ・ドッズ、ブー・ヒューワディーン、ジョン・ダグラスら参加メンバーもお馴染み旧知の仲間が中心、いかに彼女の目線がブレていないかがわかる、言わば安定の一枚と言える。
 そうした定番路線にいささかの物足りなさを感じなくもないし、刺激があるかと問われれば答えに窮するだろう。だが、それこそノーマン・ブレイクが話していたように、エディのようなアーティストが日夜パブやカフェで人々の耳や心を潤しているからこそ、それを否定するような急先鋒の音楽が時代をかき乱すことに意味が生まれる。大衆音楽というのは得てしてそうした宿命を担わされているわけで、誰もが共有できるスタンダードな大衆音楽に憧れ、いつのまにか自分自身がスタンダード・ポップスになったエディ・リーダーというアーティストは、もしかしたら損な役回りになっているのかもしれない。

娘の家出 - ele-king

「いつか大きくなったら、わたしは美しい女になる/いつか大きくなったら、美しい少女に/だけどいまは、わたしはひとりの子ども/今日のところは、男の子」(“フォー・トゥデイ・アイ・アム・ア・ボーイ”)

 アントニー・ハガティが歌った少年の繊細な性の揺らぎを、日本のマンガ表現においてやってのけたのが志村貴子『放浪息子』だった。「女の子になりたい男の子」である修一の思春期の歩みは、「性同一性障害」や「トランスジェンダー」という言葉で括られることはなかった。ただ「未決定」であり、「今日のところは、男の子」である少年の日々を淡々と、しかし時折ぎくりとするほど生々しく描いた、この国における性的少数者を巡る傑作である。「この国における」というのは……たとえば似たテーマを持ったジョン・アーヴィング『ひとりの体で』と比べてみると、『放浪息子』には政治や社会への視点は希薄である。せいぜい家族や学校という最小の「外界」を通して修一は自分の内面と、それを受容する/しない社会の入り口と対峙していくことになる。つまり、日本には性的なはぐれ者が逃れられる場所がまだ見えにくい場所にあるということだろう。
 長い連載を経て修一は高校生になり、身体的にはむしろ「男」になっていく。最終話を読み終えた僕は少年の物語にこんな終わらせ方があるのかと驚いたものだ。何か決定的な成長があるわけでもなく、これからも性の境界をまたいでいくことが示唆されるばかりなのだが、しかし思春期の重大な問題はひとつの決着を見せている。逃げ場所はなくとも、少年は大人になるし社会は待ち受けている。ひとりの少年が「美しい女」になれたかどうかなど、関係なく。それでもその最終話には、修一はいつかきっと美しい女になるだろう……そう思わずにはいられなかったのだ。

 志村貴子の新作『娘の家出』もまた思春期の少女たちを描いてはいるが、『青い花』あたりと比べてみてももっとフツーの女子高生たちが主役となっている。ただ、1巻の中心となる少女まゆこの両親は父親が男の恋人を作って家を出たことで離婚しており、物語はまゆこの母親が再婚するのをきっかけに父親とその恋人の家に「家出」するところからはじまる。状況だけ書くと「フツー」ではないがしかし、ゲイであることを隠して結婚したものの年をとってからセクシャリティを隠し通せなかった人間など、じつは珍しくも何ともない。とくにこの国では。それは社会がカミングアウトを受容していないからと言えるかもしれないし、当事者であるゲイたちの社会を変えるために闘う覚悟がまだ足りてないともいえるのかもしれない。いずれにせよ、まゆこの父親は結婚と性の自己決定に一度は失敗した、この国の中年ゲイらしいサンプルである(そこには世代の問題も絡んでくる)。
 しかしながら興味深いのは、まゆこの父親(俊夫)とその恋人の家がある種の逃げ場所として機能していることだ。まゆこが家出するだけでなく、気がつけば俊夫の妹(彼女も離婚している)とその娘、さらにはまゆこの友人の少女たちもそこに誘われることとなり、いろんな人間が出たり入ったりしている。まゆこの友人たち3人の両親はみな離婚しており、それぞれ家庭の事情で悩んでいるのを見てまゆこは「こんどニーナやぐっちやきゃなこを パパたちの家に連れてってみようかな/あそこ へんな大人しかいないけど ふしぎと居心地いいから」と思ったからだ。俊夫が新たに生活している家は世間的には認められない場所であるはずだが、このマンガに出てくる人間たちにとってそこはたしかに、どこか心地いい場所になっている。

 松島直子『すみれファンファーレ』のすみれちゃんの両親も離婚している。大人の事情に振り回されているはずの小学4年生のすみれちゃんはしかし、とても素直で優しく可愛い女の子で、はじめこそ「こんなにいい子がいるだろうか」と思ったものの、読んでいるとこれは周りの大人たちの話なのだとわかってくる。過去に対する鈍い後悔、誰かへの後ろめたさ、他人への踏み込めなさ……といった主題がなんてことのない日常を描く各エピソードでなかで立ち上がっており、それは巻を重ねるごとにより定まってきているように見える。とくにピアノが得意なクラスメイト、ベンちゃんの父親がアルコール中毒であるとわかってからの彼の描き方が切なく、ケースワーカーや調査員といった社会的な「外部」は現れないまま、ベンちゃんは「お父さんは元に戻る」と幼い妹に言いきかせる。ただそのなかで、何かを信じるように周囲の人間の思いやりばかりが描かれている。そして『すみれファンファーレ』ではあくまでも、すみれちゃんを中心とした心温まるエピソードが丹念に、丹念に綴られていく。
 ひとつ気になるのは、すみれちゃんがいまのところ多くの児童マンガのお約束のように小学4年生をずっと続けていることだ。しかし僕は、(もしそう決めていたのなら)最初の設定を覆してでもすみれちゃんを成長させてほしいと思う。なぜならば、過ぎ去っていく時間こそ「どうにもならないこと」の最たるものであるはずだからだ。実際、4巻ではロシアからの転校生ソンチェフ君が期限付きでクラスにやってきており、そこでは過ぎ去っていく尊い瞬間というものが強く意識されているように思える。

 家族は壊れている、のだろう。しかしそれは旧式の家族を頑なに理想とした場合のことだ。『娘の家出』の少女たち、『すみれファンファーレ』の子どもたちの家族は少なからず問題を抱えてはいるが、しかし彼女たちは逞しい。そしてそのなかで、雑多な他人同士の繋がりやオルタナティヴな共同体が自然発生的に出現しているように感じられる。この国の男たちが作ったシステムがいつまで経っても硬直しているのとは対照的に、女性作家が描く子どもたちはなんだかとてもしなやかで、だから僕はこれらの物語の続きにとてもわくわくしている。

西森千明 - ele-king

 あらゆる歌曲がそうであるように、西森千明の音楽もまた、その固有の歌声によって独自の魅力を放っている。囁くようでありながら、しかし張りのある力強い歌い方によって、音が密やかに立ち上がる一方で、母音は生き生きと伸びていく。歌う言葉が意味するところを認識するためには、歌い手が微かに口を動かす一瞬に集中しなければならない。あるいはあえて散漫な聴取をすることによって、器楽にも似た歌声がピアノの音と溶け合うような音楽を体験することもできる。西森はメロディを、日本語がもつ自然体のイントネーションをなぞるようにして生みだすという。全編が日本語詞によって歌われる『かけがえのない』においては、語りと歌いが地続きとなることで、たとえ明瞭な言葉の輪郭を失おうとも、母音が主体となる日本語の、音程の変化による意味の喚起が、どこか記憶の底をよぎる。そうして音源と聴き手の距離が、あるいは聴き手の態度が、歌声のありかたを変化させていくことを可能にしている。

 西森千明は京都在住のシンガーソングライターで、ピアノと歌声というシンプルな、それがゆえにさまざまな人々に親しまれてきた形式を中心として活動を行う音楽家である。1998年にそのキャリアをスタートさせた彼女が、これまでにリリースしたアルバムの数は決して多くはない。しかし継続的に演奏の場を設けてきたことを考え合わせてみれば、それは音楽を生産のための生産に堕することなく、あくまで自身の歩みに沿って生み出していこうとする態度のあらわれだと思われる。前作『fragments』から10年、ミニ・アルバム『仄灯』からは7年の歳月を経て制作された、セカンド・フル・アルバムとなる本作品は、だから親しみ深さを湛えつつも、長い歩みを一挙に閉じ込めた濃厚な作品となっている。

 京都府にただ一つある村落の、木造の廃校で録音されたという。通常ならばメインとなるピアノのオン・マイク、つまりピアノのすぐそばに設置されたマイクを採用せず、離れた場所で録音された、周囲の音と一体となった音楽が強調されている。それはたとえば、ギターのヴァイオリン奏法のように聞こえる音が、よく聴くと言葉でありコーラスであることに戦慄を覚える、4曲めの“透明の光”という楽曲においてよくあらわれている。3曲めよりも空間のノイズが強く、それがジャジーなスローテンポのブラッシングにも聴こえ、風が窓を打ちつける音が、絶妙なアクセントにもなっている。ジャズの語法を駆使したピアノの演奏が、環境音とのセッションにゆたかな情景を与えている。

 音の響きを耳にして、それがなんであるかということを、人は知らずしらず考えているものである。フィールド・レコーディングの作品に、あえて何の音か明示しないというものがあるが、それは音の意味を消去して音それ自体を聴く試みというよりも、あらかじめ示された音の意味を剥ぎ取ることで、あらためて聴き手が音に意味を与えていく余白をつくる試みと言えるのではないだろうか。『かけがえのない』には、多くの物語が、多くの意味が詰まっている。しかしながら音と言葉の、響きと音楽の境目が曖昧なままにされていることによって、聴き手が意味を付与する場所へと開かれた作品にもなっている。廃校の思い出は、聴き手の記憶の場所でもあれば、響く音の妙味の中にも佇んでいるのではなかろうか。

「4分33秒」論──音楽とはなにか - ele-king

ジョン・ケージの核心に迫る!
「サイレンス」とは可能なのか、なぜ4分33秒なのか、そこでは何が起こっているのか? 刊行が待たれていた問題作、ついに登場!

世界でもっとも有名な「現代音楽」作品のひとつであるジョン・ケージ『4分33秒』。1952年の初演以来、60年以上を経てもなお新鮮に響く(否、響かない)この作品は、多くの音楽家たちにインスピレーションを与え続けている。
批評家・佐々木敦が全5回、10時間以上にわたり様々な視点から「4分33秒」について語り尽くした伝説の連続講義「『4分33秒』を/から考える」がついに書籍化! 1冊まるごと「4分33秒」という前代未聞の一冊です!

Ben Watt - ele-king

 たとえば4曲め“ゴールデン・レイシオ”のイントロを聴いて、『ノース・マリン・ドライヴ』に収録されている“サム・シングス・ドント・マター”を思い出した、という人もいるだろう。たしかにこの曲のボサ・ノヴァ調のアコースティック・ギターは、31年前にリリースされ、いまなお定番として聴きつづけられているあのファースト・ソロの2曲めの風合いによく似ている。結局ベンはジョアン・ジルベルトに魅せられてギターを手にし、ジャズ・ミュージシャンだった父の影響でコール・ポーターを聴くようになった第一体験に帰っていったのだ、という見方もやむなしだろうし、かつてロバート・ワイアットをゲストに呼んだ10代のマセた少年が、50代にしてこれまたかつてのヒーローなのかデイヴ・ギルモアを招いたりしている事実からは、エヴリシング・バット・ザ・ガールを中断させてまで心酔したここ20年ほどのDJ、リミキサーとしてのアグレッシヴな活動を打ち消しているかのようだ、という感想が聞こえてきても仕方がない。

 だが、クラブ・ミュージックなどとはいっさい縁のない、曲によってはフォーク・ロックのようでさえある本作が伝えているのは、決して原点回帰などではなく、むしろ年齢を重ねていくことの真理ではないかと思う。音の指向は変わっていなくとも、ベンの歌声には明らかな枯れがうかがえるし、メロディと歌に纏わっている特有のダークな色彩もどっしりとした重みが増している。これは成熟なのか? いや、そんな都合のいいもんじゃないだろう。単純に「老い」だ。もっと言ってしまえば「死」への道程だ。それならそれで、いっそ31年前の第一歩と同じスタイルでその老いを思いきり赤裸々に見せてもいい。音的な情報量の多くはないこの作品でベンがやろうとしたことは──それは無意識なのかもしれないが──そんなやや自虐的な行為、老いを恐れない勇気ある行為ではないだろうか。

 人はいつか死ぬ。実の妹を喪い、年老いた両親についての本を執筆、出版したことで時の流れを実感したというベンがたどり着いた結論がこうした厭世的なものなのかどうかはわからない。だが、50代を迎え、うぶな心持ちなど自然となくしてしまったベンの言うに言えない淋しさと、それゆえのしたたかさは間違いなくここから聴き取ることができる。そういえば、ベンは小津安二郎の『東京物語』を見て深く感銘を受けたという。日本人からも愛されているあの映画をパートナーのトレイシー・ソーンと見ていたのかどうかは知らないが、若い世代と接することで、いずれ訪れる死と別れをどこかで意識しながら、ベンはこの作品の制作に向かったのかもしれない。デイヴ・ギルモアだけではなく、後輩世代のバーナード・バトラーが本作に参加していることが、より一層、そんな気にさせるのだ。

Mr. Scruff - ele-king

 映画で描かれるクラブの場面といえば、いたって淫らで、不健康で、クラバーは、享楽を貪っているだけの、おおよそ道徳心などない人間として描かれる。そのお決まりの構図は、ある意味では当たっているが、まったくはずれてもいる。
 僕が20代後半のとき、この文化を好きになったのは、友だちとスピーカーや機材を運んでDIYのパーティをはじめたことが契機となっている。音楽好きが週末のフロアを借りてやっただけのことだった。ナンパもなかったし(内心はしたかったが、度胸がなかっただけのことだ)、暴力もなかった。純粋に音楽を楽しむ若い男女がいただけだった。
 そんな出自を持っている人間からすると、映画で描かれるクラブ・シーンは腹立たしいものだが、僕と同じ気持ちの人間はたくさんいて、たとえば音楽を作っている人なら作品によって「違い」を訴える。そうじゃない。これは、純粋に音楽に恋している音楽なんだ。マンチェスターのミスター・スクラフもそうした潔癖派のひとりである。
 
 6年ぶりの彼の新作『フレンドリー・バクテリア』は、ネオソウル系の、穏和な中年(といってもまだ40代とも言えるのだが)DJによる充実のダンス・ミュージック集である。ハウス・ミュージック界の大ベテランのロバート・オウエンズをはじめ、デニス・ジョーンズやヴァネッサ・フリーマンといった歌手を招き、大幅に生楽器(チェロ、サックス、ピアノ、トランペット、ダブルベース)を取り入れつつ、大人なダンス・ミュージックを展開している。
 僕の家の壁には、昔彼が来日した際に手書きで書いてくれたイラストが長いあいだ飾ってあった。よく知られた可愛らしい絵で、それはいままで彼のアートワークに使われてきたし、彼の音楽のユーモラスな側面を表象してもいた。が、『フレンドリー・バクテリア』に可愛らしさはまずない。明らかにダークだ。かつてはイアン・デューリーのパブ・ロックから古いジャズ/ブルースまでと、様々なレトロな音源をネタにしてきたスクラフだが、今回はその手のわかりやすいサンプリングもない。先述したように、生演奏を大きくフィーチャーしている。
 とはいえ、今回は微妙にスクウィーもどきのエレクトロが入っているし、ベース・ミュージックをまったく気にしていないとは言えないウォブルなベースラインも入っている。ちょっとずれている気もするが、若いトレンドも気にしているのかもしれない。
 それでも、2曲目の“Render Me”のように、ときには重たい雰囲気のなか、ジャズの響きと力強いビートをブレンドしつつミスター・スクラフらしいエモーションが顔を出す瞬間が『フレンドリー・バクテリア』の醍醐味だ。綺麗なアコースティック・ギターとピアノの演奏とキレのあるファンクのベースラインが重なる“Thought To The Meaning”も悪くない。雄大なトランペットが耳にこびりついて、たまらなくビールが飲みたくなる“Feel Free”も僕は好きだ。

 四十路を越えたDJがこの先どんな音楽を作るのだろうと考えたことがある。どんなに体調管理をしても、人間40も越えれば身体は動かなくなっていく。若い頃と違って身体を動かして音楽を楽しむことに無理を覚えるようになるのだ。それでもダンス・ミュージックは聴いていて楽しい、ということを50を越えた僕は知ったばかりである。ちなみに、当時は(宇川直宏調で)ヤバイ!!!と言われた、モダンDJの始祖であるフランシス・グラッソと彼の〈サンクチュアリー〉の光景は、1971年のジェーン・フォンダ主演の映画『コールガール』で見ることができるのが、いまの感覚では大人しく見える。本作とはぜんぜん関係のない話だが。
 

Thomas Ankersmit - ele-king

 トーマス・アンカーシュミット。ベルリンのサウンド・アーティストである。1979年生まれ。彼はサージ・アナログ・モジュラー・シンセサイザーを用いて音の運動/残響を作品として提示する音響作家だ。演奏活動をはじめる以前からインスタレーション作品を中心に創作してきたアーティストでもあった。しかも彼はサックス奏者でもある。

 録音作品としては、ジム・オルークとのスプリット盤『ウェールジン/オシレータズ・アンド・ギターズ』(2005)、ライヴ盤『ライヴ・イン・ユトレヒト』(2010)、人気レーベル〈パン〉からヴァレリオ・トリコリとの競演盤『フォーマII』(2011)などをリリースし、電子音楽家としても知る人ぞ知る存在であった。昨年、フィル・ニブロックとともに来日し、ライヴ演奏を繰り広げたことでも知られる。
 今回のリリースは、UKの実験音楽レーベルの名門〈タッチ〉から。ジョン・ウォーゼンクロフトによるクールかつ瀟洒なアートワークに包まれてはいるものの、音の方は極めてハードコアな電子音楽作品に仕上がっており、マニアには堪らない作品といえよう(今回は彼の演奏するサックスは入っていない)。その電子音の快楽は、ノイズ・ミュージック・ファンにも十二分にアピールできるはずだ。

 本作は、2011年から2012年にかけて、ロスアンジェルスのカルアーツ・エレクトロニック・ミュージック・スタジオに招かれたトーマス・アンカーシュミットが、完全復元されたブラック・サージなるシステムを用いることで演奏・録音された。よって、このアルバムには、サージ・アナログ・モジュラー・シンセサイザーの音しか(たぶん)入っていない。ここにあるのは電子音マニアを狂喜させるノイズの横溢だ。アルバムは計36分52秒、長尺1トラックのハードコアな構成となっている。
 この電子音・ノイズの運動/生成が、あるシステムに則ったコンポジションなのか、それともあるルールの上でのインプロヴィゼーションなのか、それはわからない。デジタル・エディットはされていないという。しかし音は複雑に変化と変形を重ね、いくつものノイズが折り重なっていくのである。まるでエディットされているかのように精密に、かつ大胆に。となれば、これはサージ・アナログ・モジュラー・シンセサイザーの機能をフルに活用し、生まれたサウンドだといえるはずである。

 では、この作品はサージ・アナログ・モジュラー・シンセサイザーのパフォーマンスを録音として凍結した一種のパフォーマンス・アート作品なのだろうか。音の実験・実験の音のように、である。だが、電子音楽の聴き手であればあるほど、本作を再生した瞬間から溢れ出てくる、鋭く、透明な電子音の横溢に、これは「ノイズ/音楽」であると確信するはずだ。
 ループされる電子音に、透明で強靭なノイズがレイヤーされ、その電子音が生成し拡張する。何かを握り潰すような音、早回しのモールス信号のような音、暴風のようなノイズ。砂の音のようなサラサラと乾いた音。静謐な響き。ノイズによる耳のマッサージ。さらに後半に差し掛かると、鏡に反射する光のようにさらなる電子音が生成しはじめる。ああ、これは単なる音の運動ではない、音響的聴取を目的とした「演奏」であり、その「録音」であり、「音楽」だ。即興の生成と音の構築が同時に行われているのだから。まさに、電子の「ノイズ/音楽」!

 デジタル・エディットを使わずに制作されたというが、その音の運動には圧倒的な情報量が圧縮されているように思えた。そして、これが重要なのだが、ポスト=デジタル・ミュージック以降の精密な聴取にも耐えうる密度と運動感を備えているのだ。
 そう、1979年生まれのトーマス・アンカーシュミットは、70年代のアナログ・シンセサイザーを用いながらも、2000年代以降の電子音響、つまりポスト=デジタル時代のエレクトロニクス・ミュージックを生み出している。本作が「現在進行形の電子音楽作品」たるゆえんはそこにある。その情報量の圧縮と速度感において(音楽のフォームはまるで違えども)、shotahiramaの『post punk』を思い出した。時代と共に疾走するような「音楽」を生み出すためには、即興と作曲が同時に巻き起こり、ノイズと速度が拮抗しあうような密度が必要になるからだろうか。私見だが、この2作品はまるで兄弟のように似ていると思う。
 もしかすると現在においては、「ノン・エディットによって生まれる情報の圧縮感覚」は重要なタームなのかも知れない。情報の圧縮と解凍の速度こそが、本作を旧来の電子音楽やノイズ・ミュージックを分け隔てる点ではないか。

 さらにはノイジーな音響に挟まれるように、静謐な響きへと変化するパートも素晴らしい。まるで澄んだ空気のような、もしくは美しく乾いた砂時計のような美しい高音の持続。もしくは虫の音のような響き。そしてアクセントのように鳴り響くノイズ。この時間が凝固と解凍を往復するようなクリスタル/ノイズなアンビエンスは、アルバム全体に横溢する電子音の中で特別なきらめきを持っているように思えた。
 同時にそのような持続感覚を楽曲=演奏の中盤に持ってくるトーマス・アンカーシュミットの音楽家=演奏家としてのセンスのよさにも唸らされた。また後半、サウンドがダイナミズムを再生する展開も、単なるノイズの暴発になっていない点はさすがだ。

 もしかすると本盤は、ここ数年の間に〈タッチ〉がリリースした作品の中で、もっともハードコアかつ重要なアルバムかもしれない。あのブルース・ギルバート&BAW『ディルーバイアル』(2013)に匹敵するほどに。つまりは本年のエクスペリメンタル・ミュージックの重要作という意味だ。実験電子音楽に興味をお持ちの方ならば絶対必聴の盤である。

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