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- ele-king
1枚目があれほど鮮烈なデビュー作となったからには(そしてブリテンの音楽業界人、中年文化人たちから激烈に支持されたからには)、11月発売のジェイク・バグのセカンド『Shangri-La』に大いなる期待と危惧が寄せられるのは当然のことだ。
プロデューサーにリック・ルービンを迎えたことから、ジェイクは米国を意識した“ビッグになるため”のアルバム作りをしているという推測は、『NME』をはじめとするメディアが何ヶ月も前から書いてきたことだ。
「俺と俺のギター」の段階は終わった。これからが本番だ。みたいなことを業界の大人たちが書き煽るなかで、若き青年ジェイクのこころは不安定に揺れたりしていないのだろうか。
というおばはんの心配を粉砕してくれた、というか大笑いさせてくれたのが、新曲“SLUMVILLE SUNRISE”のPVである。このPVは、(遂に日本公開された『ザ・ストーン・ローゼズ:メイド・オブ・ストーン』でわが祖国の音楽ファンの涙腺を決壊させている)シェイン・メドウズが監督を務め、ベニー・ヒルを髣髴とさせるレトロ調ドタバタ・コメディの映像になっている。彼の代表作『This Is England』シリーズのロル(ヴィッキー・マクルアー)が“Two Fingers”のPVでジェイクの母親役を演じていたので、そのうちシェイン・メドウズも出て来るんじゃないかとは思っていた(実際、カメオ出演までしてジェイクが乗ったボートを担いでいる)が、「来たか」という感じのコラボである。
曲の終了後、『This Is England』シリーズのスメル(ロザムンド・ハンソン)とジェイクの掛け合いがあるのだが、ジェイクはアルバム・デビュー後こそストレート・ジーンズと黒シャツ、黒ジャケットのシャープなイメージでキメているが、実際このPVのようなヤバめのジャケットを着てChav色を漂わせていた時期もあったので、どこか初心に帰った感もある。また、吃驚したのが、ジェイクが俳優としても大変な逸材であるということで、このまま『This Is England』シリーズに出て欲しいような醒めた目つきの北部のChavっぷりを見せている。
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今夏、BBCが放映したワーキングクラスの歴史を辿るドキュメンタリーを見ていたら、英国で初めてワーキングクラスがクールになった時代として1960年代の映像がふんだんに出て来た。そのなかで、英国初のワーキングクラス出身モデルだったツイッギーが大きくフィーチャーされ、それまでは上流階級の子女に独占されていたメディア、アート、ファッションといった世界にワーキングクラスの若者たちが進出を果たし、それがスウィンギング・ロンドンに繋がった60年代は、労働者階級が史上もっとも格好よかった時代だと語られていた。
英国の現代のメディアやアート、ファッション(&ミュージック)といった分野は、60年代以前と同じようにミドルクラスの子女に独占されている。それはジュリー・バーチルなども指摘している点だ。そう考えれば時代は後退したのかもしれないが、そのなかで「恐るべき子供たち」と呼ばれているジェイク・バグやストライプスといった若者たちが60年代を髣髴とさせる音を奏でているのは興味深い。
が、しかし、60年代のクールなワーキング・クラスが英国に蘇ることはない。なぜなら、現代のワーキング・クラスは社会に忌み嫌われるアンダークラスに変貌を遂げているからだ。アンダークラスやChavは、英国の「クールでないもの」のすべてを象徴しているため、ジャージを着て公営住宅地をふらふらし、妊娠中の女と居間に座っている無職の青年をPVで演じて見せるアーティストなどいない。そんな低みにまでロック・ミュージシャンが降りていってはいけないのだ。なぜなら、ロックとはクールで高尚でアーティスティックで地べたの人間など反映しないものでなくてはならないからだ。
What the fuck are you talking about?(クソふざけんな)
という爽快な一撃をこのPVには感じた。わたしが大笑いしたのはその点である。喜ばしいことに、ジェイク・バグのセカンド・アルバムを心配する必要はまったく無さそうだ。
2000年代において「ウィッチなもの」はまずフリー(ク)・フォークの周辺に姿を現した。森ガールからさかのぼること5年前後。たとえばジョアンナ・ニューサムを、たとえばココロージーを取り巻くウィッチな――オカルトチックな雰囲気は、世を離るための装置として強烈な印象を持っていた。森へ、森へ。戦争のさなかでもあったアメリカ内部では、それはひとつの逃走でもあり闘争でもあっただろう。ドリーミーなどと甘いものではない、時期は少し後のものになるが、『イース』(2006年)の異様な肖像画に浮かんでいるのは、この世をつめたく切り離す微笑ではなかっただろうか。
フォレスト・ソーズの音楽は、すこし、その頃のドロドロとして危なげな森とウィッチネスを思い出させる。
UKはリヴァプールのプロデューサー、マシュー・バーンズによるユニット、フォレスト・ソーズ。2010年にリリースされた前作EP『ダガー・パース』を覚えている方も多いことだろう。ポカホーンテッドのようにずぶずぶなダブとギター・サイケデリック、クラムス・カジノの亡霊じみたスクリュー、またハウ・トゥ・ドレス・ウェルのR&Bやそのシミのように抜けにくく忘れ去り難い音像、などなどの印象に重なって、バーンズの音の世界はよどみ、滞り、ひたひたと現実の感触を腐食させていく。呪術的で間の多いビートとヴォーカル・サンプルもあわせて考えれば、ウィッチ・ハウスの傍流としてとらえられても当然だろうし、ファースト・フル・アルバムとなる今作は〈トライ・アングル〉からのリリースである。この線で現在もっとも充実したかたちを提示するための条件をずらりと揃えている。
一方、往時のブルックリンの実験主義的なムードに含まれていたようなトライバル志向も、バーンズの音楽にとって重要な要素だ。なかでも近世~近代日本の表象が好んで用いられていることは、彼のなかのトライバリズムを大きく特徴づけている。日本趣味というよりも小泉八雲趣味というか、逝きし世の面影に寄せる興味のようなもので、前作と今作のジャケットに色濃いのは、芸者富士山ネコミミではなくて、開国ののちさまざまに失われていこうとする、あるいは開かれていこうとする、小さく、あわれ(あはれ)な存在や風俗である。ウィッチはウィッチでも、名も無き髷の日本女性を立てたところに、なんとなくではあるけれどもバーンズの問いかけがある。大きなちからの陰に、あるいは大きな時代の流れの陰に消えていくものへまなざすことが、彼のサイケデリック・ミュージックでありウィッチ・ハウスの芯ではないだろうか。“オンワード”の乾いた打撃音を、その隙間の反響音を聴いていると、知らないはずの郷愁と、それがあるはずの、ここではない世への思慕に胸がしまってくる。そして“ギャザリング”で反復されるヴォーカル・サンプルが、どこか木挽き歌のような掛けあいを生みながらピアノの旋律とキック音を招じ入れるとき、彼のアルバムは架空の風土記のように、この世のネガとして光を透過させる。
半袖の季節が終わりきる前に、ある7月のイヴェントの強烈な印象について書いておきたい。スーパーボールの原色や蛍光が目の前を乱れ飛び、逆光のなかでカメラのシャッターがこちらに向かって切られたあの瞬間を、わたしはスローモーションで思い出すことができる。たくさん女子が笑っていた。いや、人数にすれば大したことがないかもしれないけれど、この日の記憶に焼きついているのはとにかく女子が笑っていたということで、どんな規模であれどんなトライブであれ女子が笑うところには天の岩屋戸を動かすエネルギーがある。黄色い声が飛び交うイヴェントはたくさんあるけれども、あのとき目にしていたのはちょっと予想外の感触。その感触を解きほぐせないうちから「“何かの瞬間”に立ち会っているかもしれない」感に心が躍った。ステージの上にいたのは嫁入りランドである。
見ようによってはちょっと文化系の女芸人とも解釈できそうなたたずまいの女性3人組。彼女たちはすでにシーンでは熱い注目を浴びる“噂の”ラップ・グループだ。彼女たちの存在をヒップホップの文化史に照らしたり、そのなかに位置づけたりする能力は筆者にはないが、「新世代のスチャダラパー」のように言われたり、日本の「歌謡ラップ」をスネークマンショーから説き起こす磯部涼の論考(「ニッポンのラップ」第四回、『エリス』収録)の末尾にもその名が登場するなど、語るべきエネルギーと検証すべき魅力が詰まったグループであることは間違いない。
だが、ひとまずそういうことは後回しだ。ぼんやりしているうちに彼女たちはリングにはやくも学祭のように賑やかなノリを引っ張ってきてしまった(〈月刊ウォンブ!〉なのでステージはリング。翌8月には実際にレスリングが行われた)。爪を見せ合って「見て、WOMB仕様。」「カワイイ。」なんてやっている。DJがついているわけではなく、ポチッと機材のボタンを押すだけのカラオケ・スタイルでトラックがはじまり、ラップがはじまる。
たとえばMARIAのようなスキルを持っているわけではないけれど、彼女たちには彼女たち一流の言葉のセンスがあり、その斡旋に長けている。そしてたたずまいそのものにもとてもスマートな批評性がある。なんとなく学校を出たわたしたち、というような学生とも社会人ともいえない時間感覚、かつそうした枠の外のワイルド・サイドとは縁遠い「平均的な」風貌に親しみを覚える人も少なくないだろう。実際のところ彼女たちがどういう境遇にあるのかは知らないが、そのパフォーマンスからは「平均」や「普通」ということが持つクリティカルな側面がなめらかに切り出されていて、とてもいまらしさを感じる。
「普通」問題は繊細だ。実際、「普通の女の子」というときの普通の水準はけっこう高い。「非モテ」から「貧困」まで、社会的文化的な関心が、より高いものではなくより低いものに向けられるようになってから、普通という言葉が示すところは揺らぎ、多様化したように思う。嫁入りランドのステージは、そんなバランスの上で成立する「普通」のひとつがおおらかに楽しげに歌われ謳歌されているようで、ぐっときた。そもそも“郊外の憂鬱”とか “嫁入りランドのLOCAL DISTANCE”“暮らしのジャングル”など、曲名だけをとってみてもかなり意識的に2000年代の風俗や社会感覚が切りとられていて、彼女たちがけっして若さや女子ユニットという華やぎに寄りかかる芸風でないことは明らかだ。そして批評的に機能する力を持ったそれらキーワードに寄りかかることもない。彼女たちは彼女たちの言葉を持っている。「ヤーマン越え 谷越え 川越~」という軽やかな言葉遊びのひとつから、ばーっと視界が開けていって、2013年の風景がみえる……そしてなぜだか女子がみんな楽しそう……そんなステージなのだ。
さて、「えんたけー」「えんもたけなわってヤツですね!?」とまた奇妙な角度からのMCがはじまり、どうやら宴もたけなわになった。「ここはヤグラなんですよ」「これは盆踊り大会なんですよ」「びっくりでしょー!?」とさらに急角度で設定が加えられて、〈WOMB〉は盆踊り会場になった。たしかに、オーディエンスには何か見たことのないものに触れる興奮のようなものが伝播していたけれども、そこに唐突に盆踊りというコンセプトが与えられたことで、一気にエネルギーが放出口を見出して流れ出した。
「ちょっと、目つむって!」「スゴーイ!!」「ヤグラじゃん!!」「ヤッター!」「ヤッター!」夏祭りのお囃子の音とともにリングはヤグラに変わり、この急展開のなかで〈月刊ウォンブ!〉も新しいステージを踏んだ……のだろうか。なんだか楽しくてヤグラにむかってへらへらしていると、今度は「ペンシルカルパス」と印刷された古ダンボールが引っ張り出されてくる。そしてこのレポートの冒頭へ場面は移る。ダンボールのなかから小さめのスーパーボールがバラバラとオーディエンスに向かって投げられはじめ、女子も男子もきゃあきゃあ笑ってそれを拾うというさらなる謎展開、そして舞台の上からカメラのシャッターが切られ、これまた唐突にわれわれの姿は無作為にフィルムのなかに収められることになる。彼女たちは自撮りにも余念がない。これは宴もたけなわというか、宴の底が抜けた瞬間で、その後また急に幕引きを迎えるまで不思議な恍惚状態がつづいた。アルコールでも薬物でもなく、また黄色い声援が生む熱狂でもなく、何かもっと透明なものを火元に燃えているこのヤグラの炎を、筆者は憧れとリスペクトの眼差しで見つめた。
言葉の達者だけれども言葉だけではない、音やビートの彫琢によってでもない、しかし芸というよりは生きた音楽として、嫁入りランドのライヴは際立った印象を残した。宴会芸や学芸会の出し物のようでいて、それは素人の起こした奇跡とは違う。青文字も赤文字もオタクもすり抜けて、職業意識からもアマチュア意識からも表現活動や芸術活動の使命感等々からも自由に、強いて言えばおもてなし感覚くらいを添えて……。
明確な計算のもとに行われたものではないだろうけれども、彼女たちは何かを描き、取り出しているということがはっきりと伝わった。そしてその根元を支える普通さの感覚にしびれた。それがダイレクトに女子を笑わせているところに感激した。ちょっと女子女子と言い過ぎだと自分でも思うけれど、だって、たとえば同じ年頃でも、140文字で必死に虚勢とカッコをつけあい、フォロワー増やしゲームに絡め取られるツイート男子たちが、彼女たちの言葉より女子を楽しくさせることができるだろうか、と考えると感じ入ってしまう。
ここで見たものが何だったのか、誰かもっとうまい言葉にしてくれたらうれしい。さわるとゴムがねちゃねちゃするこのスーパーボールが、未来の礎になることを期待して。
すっかり秋だなーと思いに耽っていたらいきなり台風、甚大な被害をもたらした26号が通り過ぎてくれたかと思ってひと息つけば27号。まるで『スローターハウス5』のように、あっち行ったりこっち行ったりと、不条理極まりないこの世界でいちばん大事なモノ、それは俺の自由。10月最終週のリキッドルームが熱すぎるぜ。
エレキングでは先日、WOODMANとKES(ペイズリー・パークス)との対談をやったばかり。シミラボのマリアちゃんのロング・インタヴューももうすぐUPされるであろう。大変な時代だが、面白い時代である。
▼10月23日(水曜日)
BLACK OUT SPECIAL@LIQUIDROOM + LIQUID LOFT + Time OUt Cafe & Diner
概要→https://www.liquidroom.net/schedule/20131023/16833/
▼10月26日(土曜日)
THE HEAVYMANNERS@LIQUIDROOM
概要→https://www.liquidroom.net/schedule/20131026/16006/
▼10月27日(日曜日)
Battle Train Tokyo -footwork battle tournament-@KATA + Time Out Cafe & Diner
概要→https://www.kata-gallery.net/events/btt/
*こちらは23日(水曜日)にDOMMUNEにて開催記念番組があります。
レトロフューチャリスティックという奇妙な時制を持つ言葉によって、ある種の「未来」は永遠にクラシカルなものとして留めおかれることになった。そもそもはとても素朴というか、空飛ぶ車とか空中都市のような、高い水準の工業技術を持った世界がその主なイメージだったのだろうけれども、『トロン』のような作品を指してそう呼んだりもするから、いつしかそれはサイバーパンク的な世界観もひっくるめた、かなり大雑把な概念になったのだろう。詳しい人からすれば単なる誤用なのかもしれないけれども。
レーベル最初の1枚であるフォード・アンド・ロパーティンの『チャンネル・プレッシャー』のジャケット・デザインが思いきりそうであるように、〈ソフトウェア〉にはそもそもこの意味でのレトロフューチャリスティックなコンセプトがある。シンセまたはエレクトロニックというゆるい共通項によって、ノイズやアンビエントからR&Bまで幅広い音楽性をカヴァーし、それでいて強いレーベル・カラーを誇るのは、このややディストピックでアイロニカルなロマンティシズムのためだ。物語ではなくタグでつながる現在の音楽シーンに、良質なフィクションやファンタジーをもたらしている稀有なレーベルのひとつである。一作一作がエッジイでありながら、OPNなどオーヴァーグラウンドでの成功例を生もうとしているところも得がたい。
さて、そんな〈ソフトウェア〉がインディーズ・ゲームと結びつくのも必然といえば必然である。オークランドを拠点に活動するコンポーザー、デヴィッド・カナガによる『ダイアード(Dyad)』のサウンド・スコアが素晴らしい。いや、彼がこのゲームのために準備したトラックももちろんだが、このゲーム自体がそもそもかなりの傑作らしく、カナガを目利きしたプロデューサーへの賛辞も惜しむべきではないだろう。ゲームの世界はひょっとしたら音楽以上にレヴュー・サイトが充実しているのかもしれない。音楽にかぎらず文芸・芸術一般は必ずしも聴き手読み手のために制作されていないという神秘化された側面があるが、ユーザビリティが制作者のエゴに優先されるジャンルでは、もちろんのことレヴューが果たす役割は大きくなる。ちょっと調べただけでおびただしいサイトが見つかり、インディーズ・ゲームの国際的フェスティヴァル〈Indiecade 2012〉でオーディオ・デザイン・アワードを受賞したという同作は、軒並み超高得点を獲得していることがわかった。そしてそのなかにはほぼ必ずカナガの音楽への言及と賛辞が見られる。筆者はゲームに疎いものでトレイラーを眺めるだけだが、なるほど、このゲームやヴィジュアルと切り離しては考えられない作品であろうことはうかがわれた。
ぐるぐると渦を巻きながら前方へ伸びるトンネルのなかを高速で進んでいくシューティング・ゲーム・・・・・・ということでおおよその理解ができているだろうか? どうやらかなりシンプルなものであるらしい。一見に如かずということでトレイラーを見てみていただきたいが、前から後ろへと果てしなく広がっていく光と幾何学模様、そのミニマルでサイケデリックなヴィジュアル要素と、前へ前へと止まらないし止まれないスリル、それが高揚へと変わっていくアディクショナルな効果が持つ魅力は想像に難くない。カナガのトラックは、このまさに飴のようにのびる無時間的な時間のなかをさまざまに変色しながら突き進み、主体の視点と感覚をリードしてくれる道しるべのようだ。トレイラーにも使用されている"スタート・マッシュ"は密林を思わせる鳥の鳴き声のサンプリングに縁取られた、ニューエイジ風のアンビエント・トラック。ビートレスのゆったりとした曲だが、サイバー空間、でなければこのトンネルの向こうにあるはずの遥かなる「どこか」へと深くもぐっていくための導線として、はかり知れないスピード感も内包している。
他方で、エイフェックス・ツインやブラック・ドッグ、ケトルに比較できる叙情性も憎いほど効いている。"トレイラー2"などは、アナログシンセのあたたかみある響きも手伝って、ノスタルジックな光を帯びている。デイデラスやバスなどのファンにもおすすめしたい。ここに挙げたようなプロデューサーたちの作品を新幹線で聴いたことのある方なら、あの高揚やときめきをやすやすと思い返してもらえるだろう。高速で流れる風景と彼らのドリーミーなダンス・ミュージックとはおそろしいほどの調和をみせる。"オロル"なども同様だ。アブストラクトなビート感覚がエモーショナルに消化されている。ルーツにはブレイクビーツも感じられる。時折アッパーなエロクトロ・ディスコも挿入されるが、それらが全体として統一感を失わない。
劇伴やゲーム音楽に必要なものは何か、という問いに答える準備は筆者にはないが、少なくともこの作品においてカナガが重要なパフォーマンスを担いそれを全うしていることは明らかだ。音楽の評価とゲームの評価とが分かちがたく結びつく、本作のようなハイブリッドが、現在形のエンタメ・コンテンツのリアリティを映しだしている。〈ソフトウェア〉はおもしろい。
言うべきことはとくにない。というか、われわれにとって用があるのはベイビーシャンブルズやそのn番めのアルバムではなく、ピート・ドハーティその人ではないだろうか。彼、彼のありかた、彼の物語。われわれが欲するのはそういうものであり、そういうものを提供できることが、彼をポップ・スターにしている条件だ。そしてそのひとつひとつを類なき歌と音楽に変えられるというところが彼の業である。下津光史やガールズのクリストファー・オウエンスと比較すればわかりやすいかもしれない(下津にはおそらく直接的な影響があるだろう)。それは削り節のように生身から歌(あり方・生き方)を剥がしていく行為であって、もう10年以上も肉を剥がしつづけ、なお求められるピート・ドハーティという人は、よっぽどの削り節である。彼があるところに歌がある。歌が服を着て歩いている。慈善でも身過ぎ世過ぎでもない、あるがままそのように生きている彼を、われわれは2013年も見つめている。
あるがままに在るという自由さ。それはあるがままにしか在ることができないという不自由さでもある......この統合されることのない自由のパラドクスが、ピート・ドハーティに魅力的な影を加えている。彼が動くさまを見ていると、筆者のごとき並の人間には自由も不自由もないのだと思われてくる。本来それらは、並の生には触れることのできないような、とても激しく過酷な言葉なのではないかと。絶え間なく供給されるゴシップ記事、積み重なる逮捕歴、解散再結成をめぐるドタバタ劇。彼の自由と不自由が引き寄せる悲喜交々は、だからこそ多くの人々にドラマを分け与えてきた。ひとつひとつの事件が持つ派手さのためではなく、その苛烈な自由さのために。
ジェイク・バグが「冷静」であり(野田)、アークティック・モンキーズがわざわざロカビリーっぽいスタイルをキメて21世紀におけるロックンロールの可能性と不可能性をクリティカルにあぶり出している傍らでは、もしかするとそれはずいぶんと古くさく、滑稽なことに映るかもしれない。しかし2000年代を通じて、何かを好きになったり共感したりするたびに「それは○○の縮小版焼き直しだ」と言われつづけてきたわれわれにとって、ドハーティの存在には度外れの忘れがたさがある。『リバティーンズ革命』でカール・バラーに支えられてやっと立っていたあの写真に胸を打たれるとき、われわれは一見彼がどんなに記号的なロック・レジェンドのクリシェに見えようとも、縮小版や焼き直しの時間を生きているわけではないということを知る。彼しか彼を自由にできない。彼しか彼の生を真似ることができない。誰もドハーティのように生き、歌うことはできない。彼にはなれなくてもそれはわれわれの個別的な生を勇気づける。
ベイビー・シャンブルズの、6年ぶりのフル・アルバム『シークエル・トゥ・ザ・プリクエル』がリリースされた。そういうわけだからもちろん世相もシーンの変遷も関係のない作品で、ただただ頭から尾まで削り節のようにピート・ドハーティである。彼のいるところに彼の音楽あり。ゆえに彼が歌うたびに彼の音楽は新しく生まれなおす。その意味ではふるいも新しいも、進化も後退もない。千鳥足のフォーク・ナンバーからパンク、レゲエ、スカ、ひと揃いあるが、とりたててジャンルを研磨・更新するようなものでもない。個人的にはリバティーンズのようにガレージ感をラフでソリッドに切り出すプロダクションが好みだけれども、必須条件ではない。はじまったらただその歌に耳を傾ければよい、というシンプルな音楽だ。
ただし、タイトル曲"シークエル・トゥ・ザ・プリクエル"において彼は「俺達にはセリフがもう一行必要だ」と付け加える。そして、いまは「その前編の続編」だとも。あくまで歌の一節だから、逐一彼の生き方に結びつけて語ることはできないけれども、その「もう一行のセリフ」というやつが見つかったときにおそらく彼の物語は完結するのだろう。というか、われわれもみなその「もう一行のセリフ」を補うべく生きているのかもしれない。ドハーティの生をわれわれの生につなぐ、強い普遍性を持った言葉である。そしていまはその半分。彼が完結させられないでいるものというのは、もしかするとリバティーンズのことかもしれない。それを終わらせる前編としてのベイビーシャンブルズ、6年をあけてのその後半。......図式的にすぎるだろうか? しかしさらにこの後に後半戦をイメージしているとすれば、まだまだ長い旅になりそうだ。ピート・ドハーティがその決定的な一行を得るときが、彼が擦り切れてしまうときでなければいいと思う。
いわく「チルウェイヴとソウルとの出会い」......チル&ビー、フューチャーR&B、エーテルR&B、インディR&B(ライはメジャーだが)、エクスペリメンタルR&B......等々、呼び名はいろいろあれど、猫も杓子もR&Bなご時世であることに間違いはない。アリーヤとティバランドの遺産は、今日、ドレイクを経由して、ウィークエンド、フランク・オーシャン、ハウ・トゥ・ドレス・ウェル、オウト・ヌ・ヴ~へと受け継がれ、更新され、拡張されている。クラムス・カジノはザ・ウィークエンドに曲を提供し、〈ハイパーダブ〉もR&Bに着手する。
で、ポスト・アリーヤの座にいまもっとも近いのが、先日〈フェイド・トゥ・マインド〉のパーティで来日したケレラである。本サイトのインクのインタヴューでも彼女の名前は出ているが、キングダム"Bank Head"でフックアップされている彼女のデビュー・ミックステープには、Nguzunguzuからジャム・シティ、ボクボクにガール・ユニットなど、〈ナイト・スラッグス〉一派の錚々たる顔ぶれが揃っている。ダウンロード・イット!
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アリーヤとティバランドは実験的な態度で作品に臨みながら、しかしバカ売れしている。先日〈ハイパーダブ〉からデビュー・アルバムを出したジェシー・ランザも、カリブーのレーベルから作品を出しているジェレミー・グリースパンのトラックで歌っているポスト・アリーヤのひとりだ。彼女がインディR&Bという言葉を好まないのは、それがR&Bの可能性を限定しているからに他ならない。アリーヤは大メジャーだった。ケレラもジェシー・ランザも精鋭的なトラックメイカーを起用しながら、ポップスとしてのR&Bに挑戦している。〈フェイド・トゥ・マインド〉のパーティに橋元を強引に連れて行った甲斐があったというものだ。
ケレラやジェレミー・グリースパンだではない。オッド・フューチャーのシド・ザ・キッドにも注目だし、他にもLAのキッドA、オークランドのフロ・フィニスター、RZAをもじったSZAといった新人にも注目が集まっている。
アルーナジョージを聴いていて僕が思ったのは、ポスト・ダブステップと呼ばれるフェーズは終わりを迎えたんだろうということで、"ユア・ドラムス・ユア・ラヴ"のよくできたポップスぶりを聴いていると、もしくは、僕は行けなかったがディスクロージャーと共演したライヴの盛り上がりぶりを思えば、文字通りダブステップの「ポスト」で起こったことは、ポップへと移行し消費される段階に来たのだろうと、と(もちろん、ダブステップはEDMとしてすでに消費されている)。それ自体は決して悪いことではないと思う。表舞台でガツガツひとを踊らせるアクトもいれば、たとえばマウント・キンビーのように、まだ名前のついていないその先を目指す探求者もいるからだ。移ろうときのなかで、それでも新しいものが出てくる可能性はいつでも潜んでいる......メディアがそれにうまく名前をつけられなくても。
そのタイミングで聴くマシーンドラムの通産10作目にして〈ニンジャチューン〉移籍後第1作となる『ヴェイパー・シティ』にはどこか、ポスト・ダブステップ時代を総括するようなムードがある。『ele-king vol.11』のインタヴューで「ポスト・ダブステップっていう呼び方はキライだ」と笑っていた彼、トラヴィス・スチュワートは優れた批評家でもあるのだろう。それは感覚的なものかもしれないが、ここからはダブステップ、ジューク、IDM、アンビエント、さらにはチルウェイヴやチル&ビーの反響も聞こえてくる。そして何よりも、それらの横断を滑らかな手つきで編集している。
本作のコンセプトはスチュワートが夢で見たという大都市であり、トラックのそれぞれがその都市の一区画を示しているそうだが、そのこと自体が現在のエレクトロニック・ミュージック・シーンのメタファーとして機能しているようだ。ハイブリッドなアルバムだが、トラックごとにとてもよく整理されている。まず、ジュークからの影響が色濃いリード・シングル"アイズドントライ"や、オープニングの"ガンショッタ"。アブストラクト・ヒップホップの出自を思わせる"ドント・1・2・ルーズ・ユー"。ビートレスのアンビエント"ヴィジョン"。そして、スペイシーなシンセ・トリップ"シーシー"......この耽美なまでの陶酔感はアルバムのなかでもハイライトだ。抜きん出てドリーミーな"ユー・スティル・ライ"があれば、クロージング"ベイビー・イッツ・ユー"ではジェシー・ボイキンス3世の歌声によってソウルにまで分け入っていく。夢というキーワードによるサイケデリアはたしかにあるが、それらはごちゃ混ぜにならない。この都市はきちんと区分けされている。
ここに彼自身の強い個性を発見するのはたしかに難しいかもしれない。が、特定のジャンルやムードに入り込んでしまわない慎ましさこそが、いくつもの名義を持ち、また、スキューバ主宰の〈ホットフラッシュ〉や〈プラネット・ミュー〉、〈ラッキー・ミー〉とさまざまな先鋭的なレーベルを渡ってきたスチュワートらしさと逆説的に言える部分もあるだろう。エレクトロニック・ミュージックの移り変わりの速さやジャンルの細分化は何かと好意的に見られないことが多いが、マシーンドラムの『ヴェイパー・シティ』においては、それらこそが内包されてひとつのコンセプトになっているように感じられる。そしてそれは、インターネット時代の21世紀のリスナーの感覚とスムースにシンクロしている。情報量の多さがしかし、洗練されて心地よいアルバムだ。
