「S」と一致するもの

パターソン - ele-king

 私はパターソンに足を運んだことはないが、ニューヨーク州の隣のニュージャージー州の北部、パサイク郡の郡庁所在地であるかの地は、それがオールロケであってもなくても、画面に映りこんだ街並みから空想するに、都市の喧騒に遠い、いくらかとりのこされた、緑の多い住みよい街のようである。郊外に向かう電車の窓に映る景色がごみごみした都心を抜けた途端にひらけるあの感じ、あるいは金沢とか仙台とか札幌とか、涼しげな土地を連想してしまうのはおそらく、街の情報以上に映像にとらえられた光と空気のせいである。光の差す位置は低く事物の陰影は深い。デジタルでありながら、その色彩感覚はきわめて写真的、ことに70年代のニューカラーを髣髴したのはイメージがエグルストンやショアに似ているからではなく、この世界における映像イマージュの階層が変質したなかにあってこの映画の映像の位置関係がニューカラーが写真史にもたらしたそれに近似するからである。フィルムに色を感光する行為はモノクローム基調の写真史の飛躍のひとつだったが、初期のニューカラーの写真には表現と技術の不安定さからくる、色彩を得ることと同時に喪失することのゆらぎがあった。色はあらかじめ褪せることを含意し、イメージはそれが過去のものであるという形式がもたらす事実以上に圧倒的に非在だった――と思わず間章っぽくなってしまうほど、3DやCGやVRやARやMRがはびこるイマージュによる象徴界で、ジム・ジャームッシュの80年の『パーマネント・バケーション』から数えて12作目の劇映画『パターソン』のフレーム内の色彩と陰影と構図は端正であり、つまるところそれは古典的である。

Photo by MARY CYBULSKI ©2016 Inkjet Inc. All Rights Reserved.

 筋書きはいたってシンプル。ジャームッシュはパターソンを舞台に、街とおなじ名前の主人公パターソン(アダム・ドライヴァー)とその妻(ゴルシフテ・ファラハニ)、そこに暮らすひとたちの一週間を淡々ときりとっていく。撮影監督はフレデリック・エルムズ――ジャームッシュ作品では『ナイト・オン・ザ・プラネット』(1991年)をかわきりに、2003年の『コーヒー&シガレッツ』を担当した人物だが、古くはリンチの『イレイザー・ヘッド』(1976年)を撮っていた。彼との直近の仕事は2005年の『ブロークン・フラワーズ』といえば、『パターソン』のトーンをご理解いただけるだろうか。あの作品のビル・マーレーはジャームッシュ作品では比較的クセのないほうだったが『パターソン』でのアダム・ドライヴァーはそれに輪をかけて淡泊である。午前6時には目をさまし朝食をとり仕事にでかけていく。あとにする自宅は、私はアメリカの住宅事情に詳しくないが、おそらく子どものいない若夫婦と犬一匹が暮らすには広すぎず狭すぎない、典型的な物件である。職場までは徒歩でゆく。職場についたパターソンは出発前のバスの運転席でノートになにやら文字を書きつける、そこに同僚がやってきて手は止まる、バスは発車しパターソンの市街を横切っていく、フロントガラスに映る市街地の風景は構図のなかの消失点に吸いこまれるかのよう。古い街なみ。その街にまつわる話を、乗客がする声が運転席のパターソンの耳にとどく。ある日のそれはひとを殺したボクサーの話でありべつの日にはドーナツ屋のいかした女のこともある、パターソンに住んでいたアナキストについて話す学生たちが乗り合わせることもあるだろう。仕事が終わった食後には愛犬マーヴィンの散歩の途中でなじみのバーによることもある。そこで交わす会話は音楽ネタとユーモアをちりばめたいかにもジャームッシュらしいものだが、80~90年代諸作とくらべると、かつて編集がもたらしたオフビートな感覚が役者の演技の間に置き換わっており、いくぶんゆったりと、とてもまろやかである。彼らとの出来事ともいえない出来事がパターソンを触発するともなく触発する、月曜から次の月曜までくりかえす日々にふれられることでパターソンは詩人になる。

Photo by MARY CYBULSKI ©2016 Inkjet Inc. All Rights Reserved.

 うかつな私は書きもらしましたが主人公パターソンはバスの運転手であるとともに詩人でもある。すてきというしかないこの設定が『パターソン』の奥行きである。私は詩については門外漢だが、詩が最初の一行のイメージにはじまりついでイメージをイメージへ橋渡すものなら、『パターソン』の構造そのものが詩である。ところがそれは詩的といったときに、私をふくめ多くのひとが思うような感傷とは無縁であり、作中にコインランドリーのラッパー役でワンシーンだけ登場するメソッド・マンが、詩人としてのパターソンのモデルになったウィリアム・カルロス・ウィリアムズの詩作哲学を借りてつぶやくように、「事物からはじまる観念」なのであり、マッチ箱や靴箱などとわかちがたい、現実に潜ったイメージの群れのようなものを、かつて詩を学んだジャームッシュは映画という、やはりイメージの連なりである形式のなかでたどり直している。むろん映画は詩であるという命題は蕪雑にすぎるが、きりとる視点によっては現実は映画になり文学になり音楽になる、つまりアートになる――などというそっくりかえった言い方をしなくとも、私たちのおくる日々には一日たりともおなじ日はない、とジャームッシュは『パターソン』で種々のイメージをいつくしむようにとらえていく。ときにそれはパターソンの名勝であるグレイトフォールズの水のイメージのもたらす広大無辺さであり、ポール・ローレンス・ダンバーやフランク・オハラやエミリー・ディッキンスン、パターソン生まれのアレン・ギンズバーグやウィリアム・カルロス・ウィリアムズといった米国の詩人の命脈である。それらは符牒となり作品全体に交響していくのだが、そこには桂冠詩人の厳かさや壮麗さに遠い、自由(律)の(オフ)ビート感覚がある。一節ひいてみよう。

「冷蔵庫のスモモを食べた
たぶん君の朝食用だね
許してくれ
おいしかった
甘くて
よく冷えてたよ」
(ウィリアム・カルロス・ウィリアムズ「言っておくよ」)

 作中後半でパターソンは妻ローラに彼女が好きだというこの詩を朗読する。うかつな私は詩にうといので詩と散文のちがいも定義できないが、このような唯物観は、広津和郎の散文性とはいわぬまでも、たとえば谷川俊太郎の「コカコーラ・レッスン」とか田村隆一の諸作とか、ある種の韻文が散文にひらかれるさいにはらむ質朴な力感と余白を思わせるだけでなく、『ダウン・バイ・ロー』でのホイットマン、『デッドマン』でのウィリアム・ブレイクら、ジャームッシュがこれまでの作品で言及してきた詩人の諸作と響き合い、ことばとイメージがアメリカのみならず世界に波及しやがて覆い尽くすジャームッシュのヴィジョンの根拠にもなっている。むろんブルースマンとロッカーとラッパーの列席も欠かせない。その意味でノーベル財団は40年はおくれている。と書きながらいまふと思ったのだが、上述のW・C・ウィリアムズの詩の一節に出てくるスモモ(plums)は『ミステリー・トレイン』(1989年)で永瀬正敏と工藤夕貴のカップルが持参し、ホテルのフロントにいたスクリーミン・ジェイ・ホーキンスが丸呑みしたスモモの暗喩なのではないか。この詩を読んだ翌日、あることで失意の底に沈んだパターソンはグレーとフォールズの前で日本人の詩人(永瀬)と束の間の出会いをはたす。この「浄化」を思わせる場面、なんなら「癒し」といってもいいこのシーンでしかしジャームッシュは感情を昂ぶらせない、それを押しつけないのはこの映画を彼自身「解毒剤」とみなすからだろう。なんにとっての? スペクタクルとしての映画がはびこる昨今の状況にとっての。むろんこの一文の映画はあらゆる文言と置換可能であり、おそらく現在のアメリカの政治/状況とも無縁ではない。タッチは禁欲的で円熟も感じさせる。ロン・パジェットの手になる作中の三編の詩も見事である。音楽はジャームッシュがその一員であるSQÜRLが担当している。アンビエントを思わせつつもパターソンの思考に同期したようなゆるやかな起伏をもつサウンドトラックは当初「著名なエレクトロニック・ミュージシャンのアーティストのトラックを集めて、映画音楽にする予定だった」というのだが、私はそれがOPNではなかったかと邪推している。というのも―― (以下『ギミー・デンジャー』評につづく



Photo by MARY CYBULSKI ©2016 Inkjet Inc. All Rights Reserved.

Throbbing Gristle - ele-king

 問答無用のインダストリアル帝王、コンセプチュアルなエクスペリメンタル集団……そうか、もうそんなに経つんですね。スロッビング・グリッスルがファースト・アルバム『The Second Annual Report』をリリースしてから40年。それを記念し、〈Mute〉からかれらの全カタログがリイシューされることが発表されました。まずは11月3日にそのファースト・アルバムと、かれらの代表作である『20 Jazz Funk Greats』(“Hot on the Heels of Love”は必聴です)、そしてベスト盤の『The Taste of TG』の3タイトルが発売されます。ボーナス・ディスクには当時の貴重なライヴ音源が付属、さらに日本盤はHQCD仕様となっております。これを機にスロッビング・グリッスルの偉大なる遺産に触れておきましょう。


スロッビング・グリッスル、デビュー作発売40周年を記念し全カタログをリリース!
リイシュー・シリーズ第1弾として、デビュー作と、歴史に燦然と輝く金字塔
『20 ジャズ・ファンク・グレーツ』、そしてベスト盤の計3作を11/3にリリース!
日本盤はHQCD(高音質CD)仕様。収録曲音源公開。

インダストリアル・ミュージックのオリジネーターであり、今なお現在の音楽シーンのみならず、カルチャー /アート・シーンにまで絶大な影響を与え続けているスロッビング・グリッスル。彼らのデビュー・アルバム『ザ・セカンド・アニュアル・レポート』の発売40周年を記念して、〈MUTE〉より全カタログがリリースされることとなった。

そのリイシュー・シリーズ第1弾として、新たなる音楽の可能性を切り開いた衝撃のデビュー・アルバム『ザ・セカンド・アニュアル・レポート』、彼らの代表作としてだけでなく『ピッチフォーク』で10点満点を獲得するなど歴史的名盤『20 ジャズ・ファンク・グレーツ』、そしてベスト盤『ザ・テイスト・オヴ・TG』の計3タイトルが11月3日(金)にリリースされる。なお日本盤のみHQCD(高音質CD)仕様でのリリースとなる。また、彼らの代表曲“United”が公開された。この曲は1978年に7インチ・シングルとしてリリースされ、今回リイシューされる『20 ジャズ・ファンク・グレーツ』と『ザ・テイスト・オヴ・TG』に収録される。


■“United”試聴リンク
https://youtu.be/5XpqCxJZdGs

全カタログは以下のスケジュールでリリースされ、また未発表曲などが収録されるボックス・セットも来年中にはリリースの予定となっている。

[2018年1月26日]
『D.o.A. The Third And Final Report』
『Heathen Earth』
『Part Two: Endless Not』

[2018年4月27日]
『Mission Of Dead Souls』
『Greatest Hits』
『Journey Through A Body』
『In The Shadow Of The Sun』


■商品概要(11月3日発売/3タイトル)

『ザ・セカンド・アニュアル・レポート』(2CD)

「産業社会に生きる人々の為の産業音楽」という風刺を効かせたキャッチコピーと共に、インダストリアル・ミュージックというジャンルを作り出し、新たなる音楽の可能性を切り開いた衝撃のデビュー・アルバム。1977年11月発売。アルバム発売40周年。
CD-1は、スタジオ&ライヴ音源、そして前身のパフォーマンス・アート集団クーム・トランスミッション時代の映像作品のサウンドトラックの全9曲を収録。
CD-2は、当時のライヴ音源6曲、シングル「United」とそのカップリング曲の全8曲を収録。

・アーティスト:スロッビング・グリッスル / Throbbing Gristle
・タイトル: ザ・セカンド・アニュアル・レポート / The Second Annual Report (2CD)
・発売日:2017年11月3日(金) *オリジナル発売:1977年
・価格:2,650円(税抜)
・品番:TRCP-218~219
・JAN:4571260587199
・紙ジャケット仕様
・HQCD(高音質CD)仕様(日本盤のみ)
・解説付
・Tracklist:https://bit.ly/2wJhDfO
[amazon] https://amzn.asia/1jXuNhD
[Spotify] https://spoti.fi/2vnmZZH


『20 ジャズ・ファンク・グレーツ』(2CD)

1979年発売の3rdアルバム。燦然と輝く歴史的名盤。
インダストリアルの代表作としてのみならず、その後のエレクトロニック・ミュージックへ与えた影響は計り知れない。ジャケット写真の撮影場所は、自殺名所で有名なイギリスのビーチー・ヘッド。
CD-1は全曲スタジオ録音。CD-2は当時の貴重なライヴ音源9曲を収録。

・アーティスト:スロッビング・グリッスル / Throbbing Gristle
・タイトル: 20 ジャズ・ファンク・グレーツ / 20 Jazz Funk Greats (2CD)
・発売日:2017年11月3日(金) *オリジナル発売:1979年
・価格: 2,650円(税抜)
・品番:TRCP-220~221
・JAN:4571260587205
・紙ジャケット仕様
・HQCD(高音質CD)仕様(日本盤のみ)
・解説付
・Tracklist:https://bit.ly/2x5qw38
[amazon] https://amzn.asia/1A1zYlw
[Spotify] https://spoti.fi/2vnmZZH


『ザ・テイスト・オヴ・TG』(1CD)

ビギナーからマニアまで納得のベスト盤。全15曲収録。2004年作品。
リイシューにあたり、“Almost Kiss”(アルバム『Part Two: Endless Not』収録曲/2007年)を追加収録。

・アーティスト:スロッビング・グリッスル / Throbbing Gristle
・タイトル:ザ・テイスト・オヴ・TG / The Taste of TG: A Beginner's Guide To The Music Of Throbbing Gristle (1CD)
・発売日:2017年11月3日(金) *オリジナル発売:2004年
・価格:2,300円(税抜)
・品番:TRCP-222
・JAN:4571260587212
・紙ジャケット仕様
・HQCD(高音質CD)仕様(日本盤のみ)
・解説付
・Tracklist:https://bit.ly/2vrXQSd
[amazon] https://amzn.asia/2uwdQZH
[Apple Music / iTunes] https://apple.co/2g3paPU
[Spotify] https://spoti.fi/2vnmZZH


■スロッビング・グリッスル(Throbbing Gristle)

クリス・カーター(Chris Carter)
ピーター・クリストファーソン(Peter 'Sleazy' Christopherson / 2010年11月逝去)
コージー・ファニ・トゥッティ(Cosey Fanni Tutti)
ジェネシス・P・オリッジ(Genesis Breyer P-Orridge)

インダストリアル・ミュージックのオリジネーターであり、今なお現在の音楽シーンに絶大な影響を与え続けている伝説のバンド。バンド名は直訳すると「脈打つ軟骨」、男性器の隠語。1969年から1970年代のロンドンのアンダーグラウンドにおいて伝説となったパフォーミング・アート集団、クーム・トランスミッション(Coum Transmission)を母体とし、1975年にバンドを結成。彼らのライヴは、クーム・トランスミッションから発展したパフォーミング・アートが特徴で、イギリスのタブロイド紙でも取り上げられるほど過激なパフォーマンスを繰り広げた。1977年、衝撃のデビュー作『ザ・セカンド・アニュアル・レポート』を発売。その後彼らの代表作『20 ジャズ・ファンク・グレーツ』(3rdアルバム/1979年)を発売するなど精力的に活動をしていたが1981年に一度解散。その後、各メンバーはサイキックTVやクリス&コージーとして活動するも、2004年に再結成し2010年10月まで活動を続けた。同年11月、ピーター・クリストファーソン逝去。彼はアート集団ヒプノシスのデザイナーとしても活動し、ピンク・フロイド『炎~あなたがここにいてほしい』、ピーター・ガブリエルの初期3作など歴史に残る作品を手がけた。またセックス・ピストルズ初の宣伝用アーティスト写真の撮影、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンなど数多くのプロモーション・ビデオを制作し、自身の音楽制作のみならず革新的な作品を数多く生み出した。

www.throbbing-gristle.com
www.mute.com

ECD - ele-king

 だってまだ始まったばっか21世紀 “LUCKY MAN”

 『21世紀のECD』を聴くと、いろんなECDを思い出す。記憶がまざまざとよみがえる。イラク反戦のサウンド・デモでサックスを吹くECD、君津の〈RAW LIFE〉のステージ裏で円陣を組んで大声を張り上げるMSCをほほえみながらみつめるECD、こぎれいな視聴覚室でのライヴ中にターンテーブルの上で暴れるillicit tsuboiの横で壊れかけの鍵盤のサンプラーを叩くECD、駅前に集まった群衆との“言うこと聞くよな奴らじゃないぞ”のコール&レスポンスの渦の中心にいるECD、あるいは公道を走るトラックの上でラップしダンスするアディダスのセットアップ姿のECDやライヴハウスで酒をかっくらい大騒ぎする人びとのそばでぽつねんとたたずむECD、抗議のシュプレヒコールを誰よりも大きな声で発するECDやいまはなき青山のMIXで歪むほどの出音でDJするECD……、これらはまったく個人的な記憶であり、すこし昔の話も多くなってしまい恐縮だが、まぎれもなくすべて21世紀に起きたことだ。

 『21世紀のECD』の話をしよう。この作品は2000年代以降のECDの楽曲(客演曲含む)をみずから編集した2枚組のベスト盤である。ディスク1は00年代、ディスク2は10年代という構成で、基本的に楽曲は時系列に並べられている。ラッパーたちとの共作も多く収められているし、未発表曲やこの作品だけで聴けるエクスクルーシヴやリミックスもある。ディスク1とディスク2の冒頭にラジオのジングルのようなサウンド・コラージュが配されているのだが(ディスク2の“LUCKY MAN”の冒頭でもその一部が聴ける)、それがまた示唆的だ。

 「21 Century Show!!」という歌詞が叫ばれるある曲からラン・DMCのブレイクへと展開する、つまりプログレ(ロック)とオールドスクール・ヒップホップの古典がコラージュされた数十秒で、ECDがどこからやって来たのかを端的に伝えようとしている。「ADDITIONAL ELEMENTS BY ILLICIT TSUBOI」というクレジットがあるから、illicit tsuboiの仕事だろうか。曲間によってはDJミックスのように曲と曲がつながっている箇所もある。選曲はみずからおこなったそうだが、長年の相棒であるDJ/プロデューサーのillicit tsuboiが制作に深くかかわっていると考えて間違いない。

 ECDは本当にさまざまなタイプの曲を作ってきた。その創作意欲だけでも並外れている。欲望に抑制を効かせるようなラップとワンループが不穏なムードをかもし出す“Freeze Dry”、TR-808がうなりを上げるエレクトロ・ファンク “MIZO”、イラク戦争を受けて戦場を日常生活に引きつけようとする“東京を戦場に”、当時吹きはじめたサックスをフィーチャーした“CD”、ECD流のアシッド・ハウス“A.C.I.D”などがあり、ハードコア・パンク・バンド、U.G.MANとの共作“セシオン”もある。自身がライナーノーツでも触れているように、とくに00年代のECDはヒップホップの型式から解き放たれ、オルタナティヴに向かい、その表現を拡張していく。ただそのことを実験的とか革新的とかアヴァンギャルドとか、そういうありていの言葉で説明するのもどこかはばかられる。なぜだろうか。

 何度か通して聴きそんな考えを巡らしているなか、ひさびさにECDの著書『いるべき場所』のページをめくってみた。すると、ある一節が目に止まった。それはこんな一文だ。「『ロッキング・オン』の思想にかぶれ、マニアックな音楽にのめり込み、ロック喫茶に出入りしたりするようになっても、それでラジオのヒット・チャートでかかるような曲を軽蔑するようなことはなかった」。ハッとした。ECDの音楽がユニークであり続ける、そのルーツの一端が記されている、そう思ったからだ。

 1960年生まれのECDは小さいころからアニメ音楽や歌謡曲に親しみ、10代に入るとフォークやロックやプログレ、さらにレゲエやソウル・ミュージックにもその触手をのばし、そしてパンクとヒップホップに出会い、われわれの知るラッパー、ECDへと生成していく。もちろん90年代にも多くの作品を残しているし、言うまでもなくいまも語り継がれる日本語ラップ史における重要イベント、〈さんピンCAMP〉を主導した人物である。それ以前、80年前後の吉祥寺マイナーでの経験もある。

 そのあたりの個人史、音楽遍歴については『いるべき場所』に詳しいが、『21世紀のECD』もまたこれまでの音楽人生の現時点での総括として聴ける。というよりも、ECDのルーツとは何かを考えさせられる作品だ。もっと言うと、ECDの個人史にとどまらず、日本のヒップホップやラップのルーツについて考える契機にもなる。例えば、“BORN TO スルー”と“天国ロック”はいま聴いても興味深く、とくにロックンロールとアシッド・ハウスとラップが混然一体となった後者は素晴らしくユーモラスだ。思わずECDの和モノのミックス・シリーズ『PRIVATE LESSON』まで引っ張り出して再生してしまった。ECDの曲のなかには、そこでセレクトされているような歌謡曲やいまで言う“和モノ・レアグルーヴ”といったジャンルの音楽への欲求を強く刺激してくるものも多い。そのことも『21世紀のECD』を聴くなかで、僕なりに再発見したことだった。

 そもそも、キング・クリムゾンやイギー・ポップやデヴィッド・ボウイ、あるいはラン・DMCやエリック・B&ラキム、じゃがたらや町田町蔵、はたまた松本隆や阿久悠などをリアルタイムで体験してきて、実際の音や歌詞にもそういった表現からの直接的、あるいは間接的な影響を感じさせるラッパーなんてECD以外にはいない。ECDを聴くことは、そのままこの国の音楽文化の豊饒さに触れる経験であるようにも思える。すこし大仰な言い方になってしまうけれど、ジャズからはじまる戦後の日本の大衆音楽とアンダーグラウンド・カルチャーと輸入文化(洋楽)をこんなかたちで血肉化して表現できているのは、間違いなくECDが“ヒップホップの人”だからである。

 それでも“ヒップホップの人”になりきれない。それもまたECDではないかと思う。ヒップホップ・ファッションの定番や流行との距離感を歌う“憧れのニューエラ”(12inch versionを収録)にしても、“トニー・モンタナ”(未発表のKM Remix)やギャングスタ・ラップの独自解釈あるいは戯画化である“ラップごっこはこれでおしまい”(soakubeatsのビート)にしても、そこにはヒップホップ、トラップ(ECD流にいえば“南部産音楽”)にたいしてケジメや落とし前をつけていく姿、別の言い方をすれば、最新の流行やモードに価値観や感性を揺さぶられ、そのたびに新たなスタイルを模索してきたベテラン・ラッパーが自分なりの回答を出していく真摯な姿がある。この2枚組のベスト盤は、いちばん最後は時系列を無視して、2010年に発表した“ECDECADE”という曲でしめくくられる。その曲順にした意図は明確だ。聴いてみてほしい。僕は中平卓馬の言葉を思い出した。ECD、いまだ現在進行形である。

日々を生きるということは、つまり日々自らを新たなる自己として表現し、実現し続けてゆくということなのではあるまいか。すくなくとも、表現とは、予め捕えられたなにがしかの観念なり、イメージなりを図解して見せることではない。表現するということ、それは日々みずからを創造するということである。 中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』より

Hatsune Miku 10th Anniversary - ele-king

 エイフェックス・ツイン――この数ヶ月のあいだ、何度その名を耳にしたことだろう。たしかに、旧譜のリイシューもあった。コルグとのコラボもあった。フジへの出演も話題となった。しかし、仮にそれらすべての出来事がなかったとしても、この夏は何度もエイフェックス・ツインの名を聞くことになっていただろう。というのも、この本のために取材を申し込んだ方がたの多くが、まるで打ち合わせでもしていたかのように、揃ってエイフェックスの名を口にしたからである(ちなみにその次に多く挙がったのは、石野卓球とスクエアプッシャーの名だった)。エイフェックスと初音ミク――さて、これはいったいどういうことだろう?
 かつてエイフェックスは、何よりもまずそのサウンドの強度(荒削りなテクスチャー、ぶっ飛んだアシッド、美しいメロディ、レイヴ以降のアンビエント感覚、ドリルンベース、プリペアド・ピアノ、等々)をもって多くのリスナーに驚きと衝撃を与えた。そのことに間違いはない。けれど、彼の功績はそれ以外にもある。まるでダンスフロアから逃走しているかのように見えるその佇まい――そのイメージの影響力の大きさを無視することはできないだろう。もちろん、彼の生み出したトラックがフロアから完全に切り離されていたわけではない。だが、かつての「ゲームボーイ世代」や「ベッドルーム・ボアズ」といった蔑称が物語っているように、彼はいまで言う「引きこもり」や「ぼっち」的なるものの表象を引き受けていたように思う。
 リチャード・Dが自身のベッドルームに大量の機材を持ち込んで、おそらくはニヤニヤと不気味な笑みを浮かべながら、たったひとりでそれらを徹底的にいじくり倒すことによって証明してみせたのは、連れなんかいなくても優れた音楽を生み出すことは可能である、ということだ――なんて言ってしまうと、いや、リチャード・D本人はトム・ジェンキンソンやマイク・パラディナスやルーク・ヴァイバートといった連中とつるんでいるじゃないか、という反論が飛んできそうだが、重要なのは彼の実生活ではない(と言うと今度はルフェーヴルやシチュアシオニストたちからお叱りを受けそうだが)。「ぼっちでいいじゃん」「連帯なんかくそくらえ」というイメージを、その圧倒的なサウンドの強度をもって世界中に散布したこと、それもまたエイフェックス・ツインの成し遂げた偉勲のひとつだろう。じっさい、彼のトラックからダンスそれ自体への欲動を聴き取ることはできても、クラブで顔なじみとじゃれあったり騒いだりしている人びとの風景を思い浮かべることはできない。たとえ社交性を欠いていたとしても、たとえ学校や職場で口をきく相手が皆無だったとしても、人びとの度肝を抜いて誰かを感動させる音楽を作ることはできる――要するに彼は、世界中の「ぼっち」たちに勇気と希望を与えたのである。
 それと同じことを、それとは違う形で実現してみせたのが初音ミクだった。ミクが取り払ったのは、「ウェーイ」というノリや「社交的じゃないと音楽はできない」という壁だった。その意味で初音ミクは、エイフェックス・ツインのまっとうな後継者である。だから、今回取材に応じてくれた多くのクリエイターたちの口から揃って彼の名が発せられたのも、けっして偶然ではないのだ。
 つまり初音ミクは、「異端」としてと同時に「正統」としてもエレクトロニック・ミュージックの系譜に連なる存在‐現象‐出来事だったのである。じっさい、この本に収められた佐々木渉のロング・インタヴューを読めばわかるように、あるいは彼と大友良英が旧知の間柄であったという事実からもうかがえるように、初音ミクの背後にはどっしりとエレクトロニック・ミュージックやアヴァンギャルドの文脈が横たわっている。しかし、なぜか(とあえて言うが)ミクやボーカロイドの音楽は当初、そことは異なる場所で大きな盛り上がりを見せることになった。おそらくその大きな理由のひとつに、ミクたちに付与されたキャラクターがあるのだろう。たしかに、10年前ほどではないとはいえ、いまでもミクのイラストを目にしただけで敬遠してしまう「音楽ファン」が多数存在するだろうことは想像に難くない。いまなおミクに対する偏見や先入観は「音楽ファン」たちのあいだに根強く残っている――少なくとも僕の目にはそんなふうに映っていた。
 だから、繋ぎたかった。ちょっとしたボタンの掛け違いで疎遠になってしまったふたつの世界を、改めて接続し直したかった。ルート(route)は違ってもルート(root)は同じはずだと、そう確信していたから。でもそれはたぶん、佐藤大の言葉を借りて言えば「映像端子に音声端子をぶち込む」ようなことなのだ。ぶっ壊れてしまうかもしれない。爆発してしまうかもしれない。じっさい、この本の制作を進めているあいだも、「そんなことは不可能だ」という厳しい意見を頂戴した。でも、だけど、やっぱり、だからこそ、繋ぎたかった。橋を架けたかった。だって、もし僕たちが何かを為さねばならないのだとしたら、その為すべき唯一のこととは、けっして為しえぬことであるはずだから。僕たちは、あらかじめ不可能だとわかっていることをこそ遂行すべきだと思うから。
 そんなわけで、学校や会社のような過酷な「戦場」でたったひとりサヴァイヴを続けているあなたに宛てて、あるいは、どこかの薄暗い一室でモニターと向き合いながら鬱屈した日々を送っているあなたに宛てて、そして、膨大な量のレコードに囲まれながらコアでエッジイな楽曲を流しつつ「アニメっぽいものは勘弁」と食わず嫌いを決め込んでいるあなたに宛てて、この本を送り出す。この本には、そんなあなたにとってこそ大きな意味を持つ何かが潜んでいる、と、そう信じている。

 最後に。あまりに慌ただしくて編集後記を書くことができなかったため、この場を借りてお礼を申し上げておきたい。初音ミク10周年で超絶多忙のなか取材に応じてくださり、全体のコンセプトや内容のバランスを勘案してくださり、また多くの方がたを紹介してくださった佐々木渉さん。さまざまなクリエイターや楽曲、その背景などを教授してくださり、構成を練り上げ、多数のレヴューを執筆し、いろんな取材の場でサポートしてくださったしまさん。べつの案件を抱えながら多くの取材をこなしてくださり、またそのキャリアに支えられた頼もしい観点からいくつかの興味深い原稿を執筆してくださった上林将司さん。この3人のうち誰が欠けてもこの本は完成しなかった。3人の尽力に心よりお礼を申し上げる。そして、この本には映像や音声以外の端子もたくさん仕込んであるのだけれど、それらを見事にデザインに落とし込んでくださった鈴木聖さんにも記して感謝を申し上げたい。(小林拓音)


contents

------------ Chapter 1
Hatsune Miku 10th Anniversary 初音ミク10周年

佐々木渉 ロング・インタヴュー ▶初音ミクの過去・現在・未来
大友良英 × 佐々木渉 対談 ▶初音ミクが変えたもの――20年ぶりの再会
佐々木渉 × しじま 対談
▶手塚治虫×冨田勲×初音ミク――狂気のコラボ作品がリリース!
伊藤博之 インタヴュー ▶クリプトン・フューチャー・メディア代表が思い描くクリエイティヴのあり方

------------ Chapter 2
Expansion and Deepening of Vocaloid Music ボーカロイド音楽の深化と拡張

■how to sing like human
[dialogue] Mitchie M × 佐々木渉 ▶もしもボカロが使えたなら
[interview] ピノキオピー ▶「ボカロでしょ?」という壁をぶっ壊す
[catalog] 人間のように歌わせる技術
[column] 上林将司 ▶ヴォーカル・シンセサイザーの変遷
■electronica
[dialogue] ATOLS × きくお / ばぶちゃん × 廻転楕円体 ▶電ドラ四天王、降臨!
[interview] Super Magic Hats ▶ヒューマンなものを作りたい
[dialogue] 曽根原僚介 × Yuma Saito ▶追悼 椎名もた(ぽわぽわP)――『生きる』は死ぬために作ったんじゃない
[catalog] エレクトロニカ
[comment] Laurel Halo
[critique] 仲山ひふみ ▶ミクトロニカから遠く離れて
[comment] Oneohtrix Point Never
■future bass
[column] しま ▶Future Bassとボーカロイド
[dialogue] 遠山啓一 × 米澤慎太朗 ▶物産展やろうぜ!――フューチャー・ベースの隆盛を経て
■rap / hip hop
[dialogue] 松傘 × でんの子P ▶ボカロにしかできないことを
[catalog] ラップ/ヒップホップ
[comment] Big Boi (Outkast)
[critique] 吉田雅史 ▶ジルとミクの出会うところ
■alternative / rock
[interview] DECO*27 ▶メロディをメロディにしていく作業
[critique] さやわか ▶ボカロの本丸としてのVOCAROCK
[catalog] オルタナティヴ/ロック
■classical
[critique] 八木皓平 ▶「模倣」と「解体」~冨田勲と初音ミクについて~
[critique] デンシノオト ▶〈光〉のオペラ/『THE END』論
■various styles
[catalog] 様々な歌唱のあり方
[catalog] R&B、レゲエ、ジューク/フットワーク、ジャズ、etc.

------------ Chapter 3
Various Views Surrounding Hatsune Miku 初音ミクをめぐるあれこれ

上林将司 ▶「初音ミク」というMMORPGを始めて10年経った話
かんな ▶MikuMikuDanceの文化と歴史
佐藤大 ▶映像端子に音声端子をぶち込むように
辻村伸雄、片山博文 ▶歌う惑星――初音ミクのビッグ・ヒストリー的意味
HAPAX ▶初メテノ音、未ダ来ラズ――絶対的な孤独への道標

 ライアーズがニュー・アルバム『TFCF(Theme From Crying Fountain)』をリリースした。アーロン、ジュリアンが抜け、アンガス一人になった今作は、抑圧ヴァージョンだが、明らかにライアーズである。何作もライアーズを聴き続けているが、ライアーズはいつも違って、いつも同じなのだ。あまりにも独特で、いまだにファンを惹きつけている。

 初期2000年代のアート・パンク/ノイズ・パンクから、そしてグリッジー、そしてダンサブルな変態エレクトロ・ポップを経ての今作は、ある意味ライアーズ史において一番おとなしい。とはいってもライアーズなので、1、2曲聴いただけでは全体の物語はつかめない。まずはライアーズのお得意の、急き立てられるダーク・エレクトロあるいはフォーキーなサイドが耳に入る。

 8月最終月曜日の夜に、グリーンポイントのブルックリン・ナイト・バザーで、『TFCF』のリスニング・パーティがあった。アルバムのカヴァー・アートのテーマを踏襲して、会場は赤白の風船とウエディング・ケーキ、白鳥の花瓶などが飾られていた。アンガス自らがフロントで、ウエディングドレスとベールを着てのDJをはじめる。

 アンガスのセットはハイパーな折衷主義で、キンクス、クリス・クロス、ファクトリー・フロア、グレゴリアン・チャンターズ・エニグマ、ジョン・ホプキンズなどをプレイ。自分の曲もかけていたが、DJ中は真剣な顔で画面に向かい、ニコリともせず、そして10時ぴったりに最後の曲を終えると、何も言わず会場を去った。
 お客さんは、フロアで踊っている人もいたが、ほとんどがウエディングドレス姿のアンガスを、ウエディング・ケーキのお裾分けを食べながら凝視しているという、なんとも奇妙な光景だった。招かれざるウエディング・パーティに足を踏み込んだ感じで、その居心地の悪さがじつにライアーズらしい、と笑ってしまった。会場には、今回のツアー・バッキング・バンドであるバンバラのメンバーや音楽ブログのエディターなどが勢ぞろいしていたが、みんなこの奇妙な状況を面白がった。いかにもいまの時代らしいね、と。

 ライアーズは、数週間前(ヨーロッパツアーの前)にアルファヴィルという小さな会場でシークレット・ショーをしたばかり(その時は満員!)。この後は、アメリカを周り、ブルックリンには9/21に帰ってくる。会場のワルシャワは、以前アンガスが怪我をして、座りながらショーをした事も記憶にあるが、ライアーズにはお馴染みの会場である。新メンバーでどういったショーを見せてくれるか、いまから楽しみである。

Portico Quartet - ele-king

 昔からUKではエレクトロニック・ミュージックとジャズの融合が盛んで、1990年代後半から2000年代にかけてのクラブ・シーンでも、カーク・ディジョージオ、イアン・オブライエン、ジンプスター、イアン・シモンズ、スクエアプッシャー、マックス・ブレナン、ハーバート、フォー・テット、シネマティック・オーケストラ、トゥ・バンクス・オブ・フォーなどの作品にそうした傾向が見られる。現在でそうした融合を引き継ぐアーティストというと、シネマティック・オーケストラ、ホセ・ジェイムズ、フライング・ロータスとも共演し、最近はセカンド・アルバムの『ザ・セルフ』を発表したばかりのドラマー、リチャード・スペイヴンが思い浮かぶ。昨年アルバム『ブラック・フォーカス』を発表したユセフ・カマールもそうだし、フローティング・ポインツの作品の一部にもエレクトリック・ジャズの要素は見られる。また、形態としては純粋なピアノ・トリオのゴー・ゴー・ペンギンも、最新作『マン・メイド・オブジェクト』においてはロジックやエイブルトンを用いて作曲するなど、エレクトロニック・ミュージック的なアプローチも取り入れている。ゴー・ゴー・ペンギンはマシュー・ハルソール主宰の〈ゴンドワナ・レコーズ〉からデビューしているが、このたびその〈ゴンドワナ〉から新作『アート・イン・ジ・エイジ・オブ・オートメイション』を発表したのがポルティコ・カルテットである。

 東ロンドン出身のジャズ・バンドのポルティコ・カルテットは、ゴー・ゴー・ペンギンよりもキャリアが長く、2007年にファースト・アルバムを発表している。今までにメンバー交代があったが、現在はジャック・ワイリー(サックス、フルート、キーボード、エレクトロニクス)、ダンカン・ベラミー(ドラムス、パーカッション、エレクトロニクス)、マイロ・フリッツパトリック(ダブル・ベース、エレキ・ベース)、キア・ヴェイン(ハングドラム、キーボード)という編成である。彼らの特徴はハングドラムという特殊な楽器(スティールパンを逆さにしたような形で、音色もそれに近い金属的なものがある)を用い、その音色も含めてジャズに民族色を持ち込んでいる点で、楽曲にはミニマルや現代音楽、ポスト・ロックの要素を感じさせるものが多い。2009年から2013年にかけてはピーター・ガブリエル主宰の〈リアル・ワールド・レコーズ〉に所属し、3枚のアルバムを残しているが、その中の1枚の『ポルティコ・カルテット』(2012年)ではプログラミングと生演奏をシームレスに繋ぐなど、エレクトロニック・ミュージックの比重がかなり高まったものとなった。そのリリース・ツアーをライヴ・アルバム化した『ライヴ/リミックス』(2013年)は、そうしたエレクトロニック・ジャズが最高のパフォーマンスで発揮されると共に、SBTRKT、LV、DVAなどポスト・ダブステップ~ベース・ミュージックのアーティストによるリミックスで、ジャズをまた新たな領域へ導いていた。その後、2015年には〈ニンジャ・チューン〉に移籍し、ポルティコ名義で『リヴィング・フィールズ』を発表。この移籍は大いに期待を膨らませたのだが、実際にはジャズの要素は後退し(と言うより、ほとんどなくなってしまっていた)、ジェイミー・ウーンやジョノ・マックリーリーなどのシンガーをフィーチャーしたダブステップ寄りのアルバムとなっていた。この変化については、ハングドラム担当のキア・ヴェインがバンドを抜け、3人となってしまったことも関係していたようだ。結果的にあの特徴的なハングドラムの音色も聴けず、正直なところ『リヴィング・フィールズ』はエレクトロニック・ミュージックとしては凡庸なアルバム、という域を出ていなかった。

 その『リヴィング・フィールズ』から2年経ち、キア・ヴェインがバンドに復帰し、〈ゴンドワナ〉へと移籍してリリースしたのが『アート・イン・ジ・エイジ・オブ・オートメイション』である。ゴー・ゴー・ペンギン以外でも、ママル・ハンズ、ジョン・エリスなど、エレクトロニクスをジャズに取り入れた意欲作を出す〈ゴンドワナ〉なので、この移籍はポルティコ・カルテットにとっても本来の音楽をやる場を獲得したと言えよう。4名のバンド・サウンドに立ち返ると共に、ヴァイオリンなどストリングスを加え、アコースティックな生演奏とエレクトロニクスの融合に再び挑んでいる。なお、一部アディショナル・ベースでトム・ハーバート(ジ・インヴォジブル、ポーラー・ベアーなど)も参加している。エスニックな響きを持つストリングスとサックスによる“エンドレス”は、ダブ効果やエフェクトの残響音によって深遠なムードを高めたジャズ・ロック調の作品。UKならではのダークで陰影に満ちた音像は、続くダウンテンポ調の“オブジェクツ・トゥ・プレイス・イン・ア・トム”へと引き継がれる。この曲は途中でリズム・チェンジし、ブロークンビーツ調の躍動的なドラミングが披露される。全体的にシンセが効果的に用いられたアルバムだが、たとえば打ち込みのハウス・ビートと生ドラムをシンクロさせた“ラッシング”では、人工のコーラスのように聴かせたりする。硬質なジャズ・ロックの“ア・リムジン・ビーム”は、生演奏のダイナミズムとエレクトロニクスによるコズミックな質感を融合させ、フローティング・ポインツにも通じるような作品となっている。“RGB”も同系の作品で、こちらではジャック・ワイリーの電化サックスが活躍する。“ビヨンド・ダイアログ”はハングドラムの浮遊感に満ちた音色から、ダブステップを取り入れたような変則的なビートも導入されるダビーな作品。“カレント・ヒストリー”や“ラインズ・グロウ”は、変則ビートながらもミニマルなグルーヴを備えた曲。生ドラムとプログラミングの融合だからこそ生み出せるものだろう。“アンダーカレント”はゴー・ゴー・ペンギン同様に叙情的なピアノと律動的なドラムがリードし、シンセによるレイヤーが壮大なサウンド・スケープを形成していく。かつての『ポルティコ・カルテット』でも、プログラミングが生演奏へとシームレスな移行する様を見せていた彼らだが、『アート・イン・ジ・エイジ・オブ・オートメイション』ではさらにその融合が高度となり、またバンド・アンサンブルや楽曲の完成度もより洗練化されたと言えよう。

寺尾紗穂 - ele-king

 たとえば出稼ぎにやってきた外国人労働者を描いた“アジアの汗”、愛や他人への無知や無力を歌い上げ、それが原発作業員の労働環境へと接続される“私は知らない”。寺尾紗穂は、こうした世界に黙殺される小さな声に耳を傾け続けている人だ。彼女はそれをビッグ・イシューのサポートによるフェス「りんりんふぇす」の主催や、ノンフィクション・エッセイの執筆など、多角的に、かつ継続して行ってきた。

 特にここ数年の寺尾は音楽と並行して精力的に執筆活動をこなしており、近年の著作は3冊。2015年には原発作業員への聞き取り調査をもとに構成された『原発労働者』と、長い歳月をかけて南洋をめぐりながら戦争の痕跡を書き留めた『南洋と私』の2冊。そして今年の8月には、パラオを訪れ、日本の植民地下だった1920年代のこの島国の当時を知る老人たちに話を聞きながら探っていく『あのころのパラオをさがして』を上梓した。連載をまとめたものもあるとはいえ、かなりのハイペースだ。そしてどれもいわゆるアーティストが自身の感性を頼りに書いたようなタイプの本ではなく、「シンガー・ソングライター」という肩書きからは切り離されて存在している。寺尾自身がそういった肩書きを特に標榜していないので、こうした観点がそもそも野暮かもしれないが、それでも「自分はどういう人なのか」を決めず、ひとつを選ばない寺尾のスタンスは、その活動を考える上で重要な視点になるのではないかと思う。

 前作『楕円の夢』もそうだった。第二次世界大戦中・戦後に活躍した評論家、花田清輝の『楕円幻想』にインスパイアされてできたというこの作品で、彼女は楕円というモチーフを「1や「真実」を否定するもの」と話している

 円には中心がひとつしかないが、楕円には中心となる焦点がふたつある。花田は他を無視してひとつの中心だけを見て円を描くのではなく、ふたつの点を焦点に楕円を描くことが、矛盾しながらも調和した社会に必要だと暗示した。寺尾はその「楕円」を多様性の象徴としてアルバムのテーマに据え、路上生活者をメンバーに擁する舞踏グループ「ソケリッサ!」のMV起用やツアーでの共演を行い、その存在を表舞台に引っ張り上げた。

 昨年発表された『わたしの好きなわらべうた』も、各地のわらべうたをリアレンジして、忘れ去られようとしているわらべうたの中に残る人びとの暮らしの跡をすくい上げようとしたものだった。これもまた過去のものを過去のものと決めつけず、そこに息づく手触りの確かさを信じた試みだったといえる。

 一方で、こうした活動は彼女を通好みの存在にしてしまっている側面もあるかもしれない。たとえば前作“楕円の夢”のMVを見て、ごく普通のおじさんが街中でゆらゆらと舞踏を踊る姿に、戸惑いを覚えた人もいるだろう。コンセプチュアルな『わたしの好きなわらべうた』に、食指が動かなかった人もいるかもしれない。熱心な原発や外国人労働者についての活動も、聞く人に選択を迫る。その真面目な姿勢は、近年の彼女を絶賛する声を増やす一方で、間口を狭くしてしまっていた。

 活動初期の彼女にはこうした社会派ともとれる表現は少なく、時にエキセントリックながら情熱的な恋愛模様を歌い上げるシンガー・ソングライターだった。もっと個人的で、内省的に歌を歌ってきた人だ。しかしながらその個人的な考えが社会的なメッセージ性を身にまとった時にこそ、寺尾の歌はより強く輝いた。“アジアの汗”や“私は知らない”が聴く人の胸を打つのは、寺尾が何かを告発するようにではなく、ただ自分にはこう見えている、というような純粋さで歌うからだ。その視点に異物感を覚える時、私たちは自分たちの暮らしがどれだけいびつに歪められているかを思い知る。しかし近年の彼女の活動は、そうした純粋な視点が見えにくくなっていたところがあった。それは寺尾自身が変わったというよりは、扱われ方の問題でもあると思うのだけど。

 その寺尾が2年ぶりに発表したオリジナル・アルバムのタイトルは『たよりないもののために』。いかにものように思えるタイトルだが、今作には直接的に労働者や路上生活者など「小さな声」の主は登場しない。その代わり、これまで以上に普遍的な強度を持ったポップ・ソングが、寺尾らしい凜とした佇まいで並んでいる。

 様々なミュージシャンと共演して楽曲を深化させる方法はこれまで通り。蓮沼執太やゴンドウトモヒコ、柴田聡子、マヒトゥ・ザ・ピーポーなどが名を連ね、アルバムに彩りを添えている。中でも変化を感じるのはオープニングを飾るナンバー“幼い二人”だ。これまでの寺尾の作品では、自身の音楽性を印象づけるようにピアノと歌が前面に出ている曲がオープニングに選ばれていたが、この曲はあだち麗三郎のドラムと伊賀航のベースが刻む素朴なリズムで幕を開ける。さらに、寺尾がピアノではなくエレクトリック・ピアノのウーリッツァーを弾いているのも特徴。エレクトリック・ピアノは前作『楕円の夢』でも何曲か使われているが、オープニングに配置されたことで、これまで寺尾のアルバムを聴いてきた人は新鮮に感じたのではないだろうか。新たに公開されたMVでは新バンド・冬にわかれてを寺尾と結成したことがアナウンスされたあだち麗三郎、伊賀航との3人での演奏がフィーチャーされており、洗練された映像からは寺尾の新たな一面を見ることができる。他にも疾走感のあるポップ・ソング“雲は夏”や、尾崎翠の歌詞に曲をつけた郷愁を誘うメロディの“新秋名果”など、ピアノと歌というアイデンティティを大切にしつつ、様々なアプローチが試みられている。賑やかというのではないが、明るく、生命力に満ちた1枚になっている。それは大森克己が手がけた鮮やかな草花のジャケットが示す通りだ。

 しかし、寺尾は小さな声に耳を傾けるのをやめたわけではない。タイトル・トラックの切実さはやはりどこか、そうした存在を想起させる。今作で社会的な事柄は具体的に描かれてはいないが、それは意図的というより、必ず登場させようと意気込んでいるわけではないということなのだろう。このことからは、路上の生活にも都市の恋愛にも同じように情熱を傾ける彼女の姿勢が浮かび上がる。その結果、『たよりないもののために』は聴き手に開かれた作品になった。

 たよりないもののために
 人は何度も夢を見る
 ぼろぼろになりながら
 美しいものを生む
“たよりないもののために”

 今作の英題は「For the Innocent」。“たよりないもの”の訳語に“イノセント”を持ってきたところに寺尾の現代社会へのスタンスがあらわれているが、とても多様性のある表現だと思う。たよりなくて、イノセントなもの。それは信念だったり、誰かの未来だったり、まったく別の何かであったりするだろう。前作のモチーフになった「楕円」よりさらに曖昧で、しかし誰もが何かを思い浮かべるもの。

 “たよりないもの”は、誰の日常にも息づいている。私にも、あなたにも、路上生活者のおじさんにも。ゆるやかに束ねられて気づく普遍。寺尾が放つ美しい最大公約数の言葉は、多様な生に向けられる眼差しを塗り変えていく。

Xth Réflexion - ele-king

 本作はシカゴを拠点とするレーベル〈chained library〉からリリースされたXth Réflexionのファースト・アルバムである。〈chained library〉は、カセット・レーベル〈Aught〉のヴァイナル専門のサブ・レーベルで、このアルバムは〈Aught〉から2015年に発表されたXth Réflexionの「/\\05」と「/\\06」をコンパイルしたものだ。

 〈Aught〉は2014年あたりから作品のリリース/発表を始めた超少部数プレスのマニアックなカセット・レーベルであり、Xth Réflexionに加えて、Elizabethan Collar、Topdown Dialectic、De Leon、ACI_EDITSなど謎度の高いウルトラ・マニアックなアーティストたちのスーパー・ミニマルなカセット/音源を送り出してきた。その成果を受けて〈chained library〉は2017年初頭から運営を開始し、Agnes『012016002001』とXth Réflexion 『/\\05-06』の2作をリリースする。両レーベルともにサウンド、アートワークなどが徹底的にミニマルな美意識で統一されており、00年代的な電子音響以降の新ミニマリズムを追及しようとする意志を感じる(アナログ盤はクリア・ヴァイナル仕様)。

 じじつ、彼らは完全に匿名のプロジェクトなのである。情報による先入観を可能な限りなくすことで、完全なミニマリズムの実現を遂行しているかのようだ。それは彼らの上の世代、つまり〈raster-noton〉や〈Editions Mego〉などの電子音響/グリッチ・レーベルが既に失ってしまった要素ともいえよう(むろん仕方がないわけだが)。つまり〈Aught〉/〈chained library〉は、意図的に、歴史も相互影響も情報によって作用しない環境・空間・状況を生みだそうとしているわけだ。リリースにあたっての情報がほとんどない点などからもそれは分かってくる。いわばレーベルの活動・運営自体が一種のアノニマス的なメディア論思想に貫かれているのだろうか。じっさい〈Aught〉はアルバム名がすべてナンバーで統一されていたし、〈chained library〉のアルバム名が数字であることからも、記号性/匿名性へのこだわりが理解できる。

 さて、Xth Réflexion『/\\05-06』は、1トラックめから4とラックめまでが「/\\05」(レコードだとA面・B面)、6トラックめから10トラックめ「/\\06」(レコードだとC面・D面)という構成となっている。ミニマル・マシン・アンビエント的な「/\\05」と、よりリズミックな要素が全面化している「/\\06」という流れになっており、対比的な構成ともいえる。さらに深いダブのかかったミニマリズムはどこか蒸気機関車の音のようでもあり、21世紀以降のポスト・ヒューマン的な響きのようである。つまり、このユニットのトラックは聴き飽きたグリッチでもなく、ありきたりなミニマル・テクノでもない。このダブとミニマリズムの交錯は20世紀と21世紀の歴史性を消失させてしまうだろう。この歴史の「消失」感覚にこそ、2017年以降の「新しいミニマリズム」を感じる。レーベル特有の匿名性や記号性を抜きにすれば、同時代的なサウンドとして、N1L、ZULI、DJ Sinclair、Assel、Dale Cornish、Mumdance & Logos、Machine Woman、Yann Leguayなどの分断的エクスペリメンタル・ミニマル・テクノ・トラックへと繋げてみることも可能である。つまり2017年以降の先端的な「新しさ」の系譜だ。これらのアーティストのトラックを聴くと、今という時代のサウンドには、どこか「壊れたミニマリズム」が炸裂しているように思えてならない。ポスト・ミニマルでもアフター・ミニマルでもない。いわばブロークン・ミニマルの時代を感じてしまう。破壊されたミニマリズムの破片が高密度かつ高速に再生/生成している。新しい音の快楽原則が生まれているように思えてならない。

 本作は、リマスタリングをベルリンのRashad Becker(Dubplates & Mastering)が行っており、サウンドの質感・クオリティが一段と向上している点にも注目したい。

[編集部註:タイトルおよび文中に登場する「​\​」は、正しくは反対向きのスラッシュ(「\」の半角)です]

DJ KRUSH - ele-king

 『軌跡』というアルバムに対峙して考えさせられたこと。それは、DJ KRUSHの音楽がダンス・ミュージックではない可能性、より正確に言うなら、ダンス・ミュージックでない可能性に潜んでいる、もっと別の可能性についてだった。

 iOS用の「hibiku」というアプリがある。文字通り、現実の音に「響き」を加えるアプリで、仕組みはシンプルだ。イヤフォンを装着してこのアプリを立ち上げると、イヤフォン付属のマイクを通した現実の身の回りの環境音に、残響音が付加されてイヤフォンに帰ってくる。この残響音により、ユーザは大聖堂や、洞窟にいるかのような聴覚体験をする。例えば電車の中でこのアプリを立ち上げれば、走行音や周囲の話し声、車内アナウンスなどが、全て遥か遠くから響いてくる。いわば、残響音が加えられることで自身が映画の登場人物になったかのように演出され、世界の捉え方が完全に一変する。異化効果を司るアプリ。

 そして、KRUSHのビートも、まさにこのような効果を齎すところがある。イヤフォンで彼のビートを聞きながら街を闊歩するとき、MCたちが描こうとする風景に、異化効果を齎すのだ。そしてこのような世界の眺め方は、何もMCたちに限定されるわけではない。リスナーたちが漫然と眺める風景にも、同様に適用される。

 だから冒頭の問いに戻るならば、DJ KRUSHのビートは、ダンスのためというよりも、街を彷徨い歩く、つまり彷徨のためのサウンド・トラックとでも言うべき側面を持ち合わせているのではないか。

 というのが「ダンス・ミュージックではない可能性」についてのスケッチなのだが、少し結論を急ぎ過ぎたかもしれない。まずは改めて、このアルバムを再生してみよう。

 冒頭、その煙の中から立ち上がるようなアブストラクトなSE。続いてディレイに彩られた「2017」「DJ KRUSH」というコールが、このアルバムの立ち位置を表明する。重いキックがウーファーを揺らし、スピーカーは自分の本来の役割を思い出したようにリスナーの腹へ低音を届ける。このイントロがわずか43秒間しかないこと、そしてインスト曲が中盤の「夢境」のみであるのは、今回のラップ・アルバムとしてのコンセプト通り「ラップの言葉」に語らせようという明確な意志が感じられる。

 イントロに導かれたラップ曲のオープナーは、OMSBによる“ロムロムの滝”。琴を思わせる弦楽器的な音色によるフレーズのループがくぐもった呟きを洩らす。小節単位でカウントされるループ。1、2、3、4、、、そして満を持して200Hz中心に叩きつけられる重心が低く粒子の粗いスネア。そして3拍目の3連のタメが効いているブーミンでファットなキック。キック、スネア、ハットと一緒に録音されている空気感(=アンビエントなホワイトノイズ)もロービットで汚され、コンプでブーストされ、そのざらついた存在感を主張している。

 ビート・ミュージックのリスナーたちは、たった1発のスネア、キックに身を捧げるため、スピーカーの前に集結する。曲の開始と共に、イントロでリスナーは焦らされる。そして自分が焦らされていることも分かっている。やがて満を持して叩きつけられる、1音のスネア、あるいは1音のキックがもたらすカタルシスを、息を止めて待ち焦がれる。それは、ビート・ミュージックの持つ最も幸福な瞬間のひとつだ。そんな瞬間のために、DJ KRUSHは最高のスネアとキックの一撃を追求してきた。彼はビートによって、動物の本能がつかさどる領域に踏み込み、欲望を露わにし、さらなる衝動を突き動かす。彼が長年キックとスネアとの対話を通して探究してきたのは、ある問いの答えだ。人は、なぜビート・ミュージックを、求めるのか。

 DJ KRUSHのようなビートメイカーと共演するということは、ビートの側から自己を見つめ直すことに等しい経験だ。自身のスキルの限界はどこか。太いビートに埋没しないフロウをどのように発揮するのか。その曲がワンアンドオンリーのクラシックとして残るようなリリックとは、等々。そのような試行錯誤を経て、彼のキックとスネアに対し、ときに正面からぶつかり合い、ときにその間を縫うように流れていく8つのヴォイスたち。OMSBがまき散らすのは、ビートを棍棒で叩くような即物的なフロウと、ビートの太さに挑み掛かる強靭なヴォイス。チプルソは“バック to ザ フューチャー”において、ビートボックスを拡大解釈し、打楽器と金管楽器双方を兼ねる楽器としてのヴォイスを駆使する。そのスキャット的なフロウは、子音でスタッカートを乱打し、母音を引き伸ばして音階を上下する。5lackは粘つくモタりをクールな表情で処理し、これまでのKRUSHのラップ曲史上類をみない粘度の高い“誰も知らない”グルーヴを生み出している。そして、かつて重力を無視して遥か上空から東京の街を見下ろすように言葉を泳がせたRINO LATINA II(“東京地下道”)は、地に足を着けた今もなお揚力を失わないフロウで、20年以上前の記憶の軌跡を“Dust Stream”で辿る。

 一方、リリック面はどうか。R-指定によるメタ視点が効いたリリックで、これまで散々語られてきたMCのステイト・オブ・マインドについて、“若輩”の視点から新たなページを加える。そして前半のラストを飾る“裕福ナ國”では、アルバム随一の抒情的な旋律を感じされるビートの上、Meisoの絶妙な角度から社会の陰部にメスを入れる視線がここでも健在だ。MCとしての自意識よりも、監視社会の構成員の一員として世界を俯瞰する視座から、2017年現在のディストピア的な日本に生きる肌感を伝える。一方、呂布カルマの“MONOLITH”を貫通するのは、MCバトルで鍛え上げられたメタファーとユーモアに彩られたバトルライムだ。ボディブローのようにじわじわと効いてくる、無自覚な同業者たちへの痛烈な警鐘。それが、KRUSHも一目置く独特な抑えられたトーンでデリヴァーされるのだが、ビートの前景と後景の間に貼り付くような良い意味で籠り気味の声質は、逆にリスナーにリリックの一言一句に聞き耳を立てさせる効果をもたらしている。

 そしてこれらのフロウとリリックの双方を綜合するかのように、10曲目に鎮座する志人の“結 –YUI–”。志人はここでも彼にしか示せない世界との関わり方を提示している。そのフロウもリリックも、古典芸能からの連続性のうちに捉えられるような「和」の表現を展開しており、特に同曲の後半においては、自然に満ち溢れたほとんど人外境を舞台にする様は白眉だ。これは従来のヒップホップにおいては支配的なステレオタイプである、「アメリカ産」「都会の音楽」といった属性とは見事に真逆だ。にもかかわらず、彼の表現はヒップホップ的にも「ドープ」としか言いようのないものとなっている。そして、このような異形のヒップホップが存在し得る土壌を開拓したのも、他でもないDJ KRUSHだと考える。どういうことだろうか。

 1990年代中盤以降、彼のビートはそれまでになかった表現として欧米を中心に世界に受容されたが、その音楽性は、同時代的に活躍したポーティスヘッドやマッシヴ・アタック、そして何よりも盟友と言ってもよいDJシャドウらと共に「トリップホップ」や「アブストラクト・ヒップホップ」としてカテゴライズされた。「トリップホップ」は頭に働きかけるダンス・ミュージックとも言われ、アメリカが独占状態のヒップホップに対する、ブリストルのシーンを中心とするUKからの新たなる可能性の提示でもあった。「トリップホップ」という命名はアーティストからの不評も買ったが、ここで注目しておきたいのは、その代替として使用されることも多かった「アブストラクト(ヒップホップ)」という呼称である。なぜDJ KRUSHやシャドウのサウンドは、「アブストラクト」と形容されたのか。

 ここでは、大きくふたつの理由を考えたい。ひとつめは、彼らは、ラップとビートのセットではなく、ラップ抜きのインストだけでそれが成立することを示したことだ。MCたちの直面するリアリティを「具体的」に示す言葉を持たないインストのヒップホップは、「アブストラクト」ヒップホップと呼ばれた。簡単に言えば「ラップという〈言葉〉による表現=具象」と「〈音のみ〉の表現=抽象」というわけだ。つまりこの場合の「アブストラクト」は、ビート自身が音で語りかけるインストゥルメンタル・ミュージックの別名である。

 そしてふたつめの理由は、ビートのサウンド自体の特性にある。「抽象的」なサウンドとは何かを考えることは、反対に「具象」とは何かという問いにつながる。例えば1950年代にフランスで勃興したミュジーク・コンクレートにおいて、「コンクレート=具体」としてのサウンドは、自然音、人や動物の声、インダストリアルな環境音、電子音などを指していた。では、ヒップホップのサウンド面における「具象」の条件とは何か。ひとつには、ビートを構成している音を「具体的」に指し示すことができること。その音は、何の楽器で奏でられているのか。どのような音階やリズム、つまりフレーズとして奏でられているのか。そしてもうひとつ、サンプリング・ミュージックとしてのヒップホップにおける「具象」とは、参照先を「具体的」に特定できることも指すだろう。このブレイクビーツは、このレコードのこのフレーズからのサンプリング。この上ネタのエレピとストリングスは、あのレコードのサンプリング、というように。

 であるならば、逆に「抽象的」な音とは、例えばピッチを下げることで音程もリズムも失ったサウンドだ。かつてエドガー・ヴァレーズは、テープレコーダーの誕生に伴い再生スピードを変化させることや音の順序を組み替えることが可能になったことで、レコードの時代には困難だった様々な音響実験を加速させた。同様に、ビート・ミュージックによる抽象表現も、まさにサンプラーやデジタル・エフェクターというテクノロジーの発明によって実用化されたと言える。元は何の楽器から発された音なのかも判然としない。同様に、短く断片化されたり、ディレイやリヴァーブが深くかけられたり、ロービットでサンプリングされたりと、様々な理由でソースを特定できないサウンドの断片たち。あるいは、一部のフリー・ジャズやドローンにおいて聞かれるような、元々リズムやフレーズ感の希薄なサウンドたち。それを鳴らしている楽器も、リズムも音階も具体的に指し示すことが困難であり、さらにどのレコードからサンプリングしているのかも不明なサウンドの断片たち。

 こうして考えてみれば、アブストラクトの定義のうち前者、インストとしての「アブストラクト・ヒップホップ」の展開を背負ったのはDJシャドウであろう。そこにはMCの言葉はなく、ビートが物語を代弁する。1996年リリースのファースト・アルバム『Endtroducing.....』は、物語性をまとったビートが描く一大絵巻物だった。

 一方、後者の「〈アブストラクトなサウンド〉のヒップホップ」を体現したのが、他でもないDJ KRUSHではなかったか。このことは、例えば〈Mo' Wax〉から1994年にリリースされたDJシャドウとDJ KRUSHのスプリット盤の収録曲“Lost And Found (S.F.L.)”と“Kemuri”を聞き比べてみればよく分かる。シャドウの“Lost And Found”は実に彼らしいスクラッチと「You said to me, I'm out of my mind」というナレーションからスタートし、ブレイクビーツとエレピのループをベースに、次々とギター、トランペット、人の声といった「具体音」が入れ替わり立ち替わり現れる。いわゆる各パートの「抜き差し」によってダイナミズムを伴う楽曲展開を見せてくれる、約10分にわたる従来の物語構造を持つ「短編映画」のような作品だ(対するKRUSHのビートも決して映画的/映像的でないということではなく、映画に喩えるならヌーヴェル・ヴァーグ的ということになるだろうか)。ここには「ラップの言葉」は一切表れないが、聞き手が物語を読み込んでしまうようなサウンドスケープが展開されるのだ。

 対するDJ KRUSHによる“Kemuri”はどうか。紛うことなき彼の代表曲であるこの曲は冒頭から、ブレイクビーツの上に乗る不穏なノート、ディレイで左右に飛ばされるノイズ、ターンテーブルから発せられるスクラッチ混じりのサウンド、そして管楽器風のサウンドのメインフレーズ、その背後のサイレンなど、全ての音が、どのようなジャンルの音楽の、どのような楽器の、どのような演奏からサンプリングしたのか計りかねるような、出自不詳のサウンドたち。それらが、まさに「煙」のように輪郭が曖昧で互いに混ざり合いながら、粛々と驀進するブレイクビーツに寄り添い漂う。DJ KRUSHのトレードマークである、ディレイで左右に飛ばされる音は「煙」なのだ。これらの「抽象的」なサウンドで描かれたビート群は、KRUSH自身の出自も相まって、当時の聴衆に非常に新規性のある音楽として映ったのは想像に難くない。DJ KRUSHは、ヒップホップから派生したビート・ミュージックに、ブラック・ミュージックとは異なる系譜の「煙たさ」を持ち込んだのだ。

 そのような抽象的なインストのみで成立する、あるいはインストが語りかけるようなビートに、改めてラップの言葉を乗せてみようというのもまた、DJ KRUSHやシャドウ(U.N.K.L.E)の試みのひとつだった。そのようなアブストラクトなビートの上に、MCたちはどのようなライムを乗せようとするだろう。例えば1995年にリリースされた『迷走』からのタイトル・トラックで、初期のKRUSHラップ曲を代表する1曲でもある、ブラック・ソートとマリク・Bをフィーチャーした“Meiso”。冒頭のハービー・ハンコック(ジョー・ファレルのカルテットに参加)によるエレピのフレーズは、KRUSH愛用のAKAI S1000によって低いビットレートでサンプリングされ、その輪郭を失った「抽象音」と化している(同じハービー・ネタで言えば、「具象」という意味で対極にあるのがUS3の「Cantaloop (Flip Fantasia)」だろうか)。そしてクオンタイズの呪縛から脱出するように僅かにつんのめるブレイクビーツ。両者のヴァース間、1分32秒以降KRUSHが擦るのは、ジャズのライヴでプレイヤーたちのインタープレイの一瞬の間隙を抜き取ったような「キメ=空白」のサウンドや、あるいはこれもジャズのレコードからと思しき、輪郭が曖昧なベースラインだ。通常のDJ的な感性に倣えばスクラッチ映えするアタックとハイが強調されたサウンドを選ぶのだろうが、彼の独創性が、敢えてビートに滲み、埋没するサウンドを選ばせた。しかしこれらの曖昧で歪なパーツたちが織り成したのは、途轍もないグルーヴだった。JBネタのビートたちとは全く異なるアプローチで現前せしめられるファンクネス。聴衆たちは、この衝撃への興奮を包み隠さずぶちまけ、狂乱のフロアに沈み込んだ。

 だから当然ブラック・ソートことタリークも、最高のライムをぶちまけた。しかしKRUSHのアブストラクトなグルーヴに誘引されたのは、いつもとは異なるボキャブラリーのライムだった。例えば「俺はイラデルフ(フィラデルフィアとイルの合成語)出身、そこじゃお前の健康は保障できない/この惑星を一周するサイファーの中、赤道ほどの熱を持つ場所/あるいは普通じゃない、王宮の正門から現れた奴らがお前の魂を要求する/八仙の七番目をコントロールする者/この終わりのない迷宮の中で、夜が昼に戦いを挑む場所で」という中盤のライン。注目すべきは、1行目から2行目、そして2行目から3行目への跳躍。このような路線のリリックは後にザ・ルーツの“Concerto of The Desperado”のような曲に引き継がれることとなるが、このとき既にリリースされていたザ・ルーツのファースト・アルバムの彼のライムとは明らかなギャップがある。ザ・ルーツのファースト・アルバムの独自性とは、ジャズ的なインプロヴィゼーションを重視するバンドがビートを演奏することであり、ブラック・ソートもそれに合わせるように、即興性の高い、フリースタイルの延長のようなライムを披露していたが、その内容は良くも悪くもラップのゴールデンエイジのテンプレートを脱するものではなかった。であるならば、タリークからこのようなエキゾチックで抽象的なライムを引き出したのは、KRUSHのビートが生みだした異形のグルーヴだったのだ。

 アブストラクト。音楽以外の抽象芸術に目を向ければ、例えばカンディンスキーの抽象絵画は、音楽の視覚化の試みでもあったことが知られている。共感覚を持っていたがゆえの発想かもしれないが、そもそもこのような音楽の視覚芸術による翻訳=置き換え(あるいはその逆)は多くのアーティストたちの表現の核心を担ってきた。さらには、音楽や視覚イメージの「言語化」の試みが、多くの作家や詩人、あるいは批評家たちによって、時には通常の言語で説明的に、時には「詩的言語」を駆使して為されてきた。

 例えば『迷走』のUK版のアナログのジャケットのアートワークは、抽象的なグラフィティで知られているFutura 2000によるものだが、アメリカの詩人のロバート・クリーリーが、「Wheels」と題された次のような詩をFutura 2000に捧げている。「ひとつ その周りに ひとつ/あるいは内側、限界/そして飛散/外側、その空虚/縁のない、丸く/空のように/あるいは見つめる眼/過ぎゆく全て/沈黙のにじみの中で」と、言葉少なげに探るような一篇。ここにはFutura 2000の抽象的な作風に呼応するように、抽象的な「詩的言語」との格闘の痕跡を認めることができるが、同様に、DJ KRUSHのアブストラクトなビートにMCたちがライムを乗せようとする場合も、彼のビートの「抽象性」が「詩的言語」に類するワードプレイを誘引する。そこでは、少なからずそのビート自体の「言語化=言葉による描写」がリリックに混入する。MCたちが一人称で自己の姿とリアルな日常を描くとしても、描かれる自己とは、そのビートを聞いている自己であるからだ。KRUSHの抽象的なビートを聞きながら街を彷徨い、見えるものを描く。異化される街並み。異化される日常。

 そう考えてみれば、KRUSHのビートこそが、MCたちの言語世界の新しい扉を開いたと言える。そして結果的に、アブストラクトと呼ばれる類のビート・ミュージックにライムを乗せることで立ち上がる、原風景を示すことになったのだ。

 そしてこの原風景は、一方ではカンパニー・フロウやアンチコンらの世界観(従来「黒い」と形容されるヒップホップに精神的にも音楽的にもカウンターとして成立した)に、他方ではTHA BLUE HERB(そして流の“ILL ~BEATNIK”でBOSS THE MCが到達した極北)や、降神やMSCらの世界観の通奏低音として、常にその影を落としていた(そう考えてみれば、KRUSHと彼らとの共演も必然だったのだろう)。グローバル規模で展開するアンダーグラウンドな「異形」のヒップホップが共有するライムとビートの関係性における「ドープ」という概念は、KRUSHが持ち込んだ「抽象性」と、それが誘発する「抽象」と「具象」のギャップ(抽象的なビートにストリートを描くライムが乗る、MSCやキャニバル・オックスの世界観)にこそ、宿るのだ。その通奏低音が、再び前景化するこのアルバム。DJ KRUSHの25年の営み。僕たちが目撃しているのは、アンダーグラウンド・ヒップホップの生成と隆盛であり、もっと言えばその生き死にの「軌跡」なのだ。

 では、MCたちのライムに表れるKRUSHのビートの「抽象性」の影響とは何だろうか。『軌跡』において、それらは具体的にどのような形を取っているのか。それを確かめるために、近年のKRUSHのビートの抽象性を確認しておこう。

 『覚醒』(1998年)までと『漸』(2001年)以降、2000年を境にサンプラーによるサンプリングから、PCとDAW上の打ち込みのサウンドに上ネタが変化しても、KRUSHの一貫性が保たれているのは、あくまでも重心がかけられている太いビートと、上ネタが保持する「抽象性」によるものだ。『軌跡』のビート群においても、この「抽象性」を担保しているのは、残響音だ。深いリヴァーブ。ロービットで太くドライなブレイクビーツと、比較的高解像度の残響音を湛えるシンセ・サウンドがメインの上ネタは、強いコントラストを成している。

 残響音は、サウンドとリスナーの距離感も示している。ビートは、ダンスフロアで、いつでもリスナーの側で、寄り添うことで、ダンスを誘引する。ビートは、心臓の鼓動のように、身体の中心で、鳴り続ける。その意味で、ドライな音場を持つ音は、非常に身体的だ。一方の深い残響を有するサウンドは、その残響を生み出す空間的な広がりを意識させ、それがある種の想像力へ接続されるだろう。世界の広がりへ向けて、無機物の沈黙へ向けて、あるいは宇宙の静謐さへ向けて、駆動される想像力。幼少期にトンネルで声が響くことを発見し、何度も声を上げた経験があるなら、その響きのために、見知っているはずの世界の表情が少し違って見えたのではないだろうか。

 残響音が示し得るものは多様だ。深い残響音を得るためには、室内の場合は残響音を生みだす空間や壁といった環境が必要だ。1970年代のデジタル・リヴァーブの誕生以降、DAWを用いるビート制作に至るまで、これは実際にはデジタル処理で再現された人工的な響きなのだが、プラグインソフトのリヴァーブのプリセット設定に「ルーム」「ホール」「トンネル」等の名称が一般的に付与されているように、それは一定の「広さ」の音が響く空間が存在し、そのように「遠く」まで「深く」響くことを示している。だから自然とこの深い残響音が聞き手に想起させるのは、「広さ」「遠さ」「深さ」などと結びつくようなイメージだろう。

 であるならば、MCたちのリリックにも「広さ」「遠さ」「深さ」を翻訳したイメージが忍び込むに違いない。例えば、自身の目の前のリアルから「遠く」離れ、どこか別の場所の出来事を描くこと。狭い現実世界とは異なる「広がり」を持った視点で「遠い」風景を物語化すること。MCとしての自分自身から抜け出す、三人称の視点で、それらを寓話化すること。あるいは演出された残響音を擁する舞台装置であるビートの上で、自身をその物語を生きる映画の主人公のように描くこと。

 このことを踏まえれば、このアルバムにおいてまず目に付くのは、物語性を押し出した、寓話的なリリックたちだ。チプルソの“バック to ザ フューチャー”は、歌詞カードの最初に「-Storytelling-」と記されていることでも明らかなように、タイトル通り映画的物語が展開される。そのスペイシーな残響音をまとった上モノのシンセは、リリックにもある通り「部屋の煙」の中で「迷宮の出口」を探している自身の過去、2006年という11年前の記憶を物語化する距離感=「遠さ」の象徴のようだ。RINOもまた、「BACK IN DA DAY」と歌う90年代の日本のヒップホップの現場の記憶を「遠い」物語としてライムしている。また、Meisoが「土砂降りの時代」と歌う現代の日本の状況は、その寓話的な描き方もあり、どこか別の時代の「遠い」場所の物語とも響き合うような、普遍性を獲得しているようにも聞こえる。例えば「外じゃ戦争 中じゃ崩壊/ここじゃジョーカーが王様となる/やるかやられるか環境の産物/天使に生まれて化け物に変わる」というフックに顕著なように。抒情的な旋律を包み込むような残響音が詳らかにするのは、日本の陰部の広大さ、そしてその深淵だ。

 そして志人による“結”においては、「我」とその片割れである人類の「遠さ」がまさに主題となっている。志人は超越的な「我」という「遠い」視点に憑依し、地球規模での人類の蛮行を俯瞰する。ここでKRUSHが提出しているビートは、志人のリリックの深さをも収納できる、深い器であり、彼のフロウが演舞する舞台装置だ。削ぎ落とされた音数の少なさと、その分耳に入ってくる打楽器の残響音の深さ。志人のフロウの音程に場を譲るように、ビートは旋律を規定することもなく、そこに器として全身を差し出している。

 一方で、「駅前」「神奈川座間」「平常運転な日常」といった言葉が頻出するOMSBの“ロムロムの滝”や、MCが日々直面しているスキルやスタイルへのマインドが表明される5lackによる“誰も知らない”は、大雑把にいえば、日常の現実を相手取っている。そしてそのような「具体」性を持つ現実が、「抽象」的なビートに重ね合わせられたときのギャップ=異化効果が両者の組み合わせの醍醐味だ。あるいは「遠さ」の象徴としての残響が深いビートと、「近さ」の象徴として日常を描くリリックのギャップ。かつてブラック・ソートが「迷宮」と言い表した地元フィラデルフィアの街並みと同様、OMSBがそこに棲息する人々を描写しながら闊歩する地元の街並みは、どこまで行っても果てのないラビリンスと化す。そしてそのリリックの傍に現れる、例えば34秒からのシンセ音や、46秒に響くヴォイス・サンプルの残響音の深さは、街の雑踏の深さや、闊歩するOMSBに視線の前を通過する時間の経過を示しているようだ。残響音の深さは、何よりもリリックの光景を映像化する装置として、効果的に機能している。

 これらの残響音が、OMSBのリリック自体に与えている影響。その証左は、ヴァースでは地元の街の極めて具体的な日常の姿を描写しながらも、フックで「現実かどうかはどうでもいい」「見慣れたデジャヴを、常に行き来」と歌っている点にある。なぜならこれは、残響音という演出の施されたビート越しに眺める日常の景色が、非現実的なもの、あるいはデジャヴに映ってしまうという、まさに異化効果への言及だと理解できるからだ。このことに呼応するかのように、KRUSH自身が中盤のインストに「夢境」と名付けているのは、それがアルバムの前半と後半を区切る境でありつつ、個々の楽曲が「現」と、それを異化するような「夢」を行き来する本作において、同曲がその境でもあることを示してはいないか。

 サイエンス・ライターのマーク・チャンギージーが指摘したのは、音楽を特徴付けるのは、音の高さの変化ではなく、「拍=ビート」であることだった。そしてそれは、人間の動作に起源を持っており、具体的には「足音」の似姿であると。この指摘は、ヒップホップというビート・ミュージックには殊更当てはまるように思える。90年代に西海岸という車社会でヒップホップが興隆する以前、ニューヨークのヒップホップのビートとBPMは、颯爽とストリートを歩行する速度とシンクロするBGMだった。“Walk This Way”という例を引くまでもなく、ウォークマンと共に街を闊歩しながら、あるいは彷徨いながら受容されるビート・ミュージックという側面が確かにあったのだ(今やウォークマンなど遠い昔の話に聞こえるかもしれない、ストリーミング・サービスの普及でスマホとイヤフォンで音楽を聞くのが日常となった今こそ、アクチュアリティを取り戻してきているのもまた事実だ)。ラン・DMCのニューヨークから、ブラック・ソートのフィラデルフィア、そしてOMSBの座間へと続く彷徨の「軌跡」を追うこと。そしてそれらのラン・DMCのニューヨークに比べ、KRUSHのフィラデルフィアと座間が、どのような景色をMCたちとリスナーたちに見せてしまうのか。KRUSHのビートは、そのギャップを伴う景色を、残響音を媒介にして示しているのだ。

 しかし本作の解釈はそれだけでは終わらない。都市での彷徨と対置されるべき、“結 –YUI–”における、志人による森林を歩行するBPMは、遅い。それは「追われたてた物の怪や除け者の獣達」の歩みだ。「未来こそ懐かしいものに」することを目指す彷徨だ。「お前だけが良しとされる」都市に対置される自然の歩みにシンクロするBPMをも射程にするのが、KRUSHが提示した異形のヒップホップのドープさであり、その器となるビートであった。同曲は、90年代から加速し続けるヒップホップの商業主義化の中で、2017年現在最もエッジイな異形さを顕現させている楽曲のひとつだ。『軌跡』という作品が到達した地平のラストを締める1曲。この25年という年月でKRUSHの抽象的なビートという器が、どれだけの具象性=言葉を熟成させて来たのか。このアルバムに象られているのは、その「軌跡」でもあった。

 DJ KRUSHにとって、ビート・メイキングとは、スネアの1音、キックの1音の追求とは、何よりも日々の歩行であり、彷徨に準えられる営みだ。KRUSHが次々に踏み出す右足、そして左足としてのキックとスネアの響き。そのことはこれまでの彼のアルバムのタイトル群にも表れていた。それは「迷走」であり、その状態からの「覚醒」であり、継続して少しずつ「未来」へ、そして「深層」へ進む「漸」進であり、この25周年という月日の蓄積が示すものこそが、その「軌跡」だった。

第1回:アメーバの記憶をとりもどせ - ele-king

いくぜ共謀、キャッツアイ
ビール、ビール、ビール、ビール、ビールー!!!

 おひかえなすって。栗原康ともうします。こんかいは連載の1発目なので、おもに自己紹介を。わたしは単細胞だ。いまハヤリのミドリムシを食べているとか、そういうことじゃない。たんに細胞レベルでバカなのだ。なにか好きなことができると、サルのようになんどもなんどもおなじことをくりかえしてしまう。それこそおぼえたてのオナニーのように、無闇やたらとおなじことをくりかえしてしまうのだ。たとえば、ずっとハマっているのがドラマをみることだ。毎日、昼すぎにおきて、朝ドラの再放送をみて、テレ東の海外ドラマをみて、午後のロードショーか、相棒の再放送をみて、フジテレビのドラマの再放送をみて、ちょっとだけ夕寝をして、夜ごはんを食べて、また9時からのドラマをみる。それでフロにはいって、ビールを飲んで、深夜ドラマをみて、睡眠をとって、また昼すぎにおきるのだ。毎日、毎日、おなじことのくりかえし。日々精進だ。
 もちろん、はじめからのぞんでそうしたわけじゃない。15年くらいまえからだろうか。大学院にはいって、授業数もすくないので大学にいく機会もへり、しかもカネがないので、外であそぶこともできやしない。埼玉の実家にひきこもった。大学院をでてからは、ほとんど仕事もなくて、奨学金で借金まみれになったので、なかなか東京にでることもできなくなって、ひきこもりに拍車がかかった。それでなにをしたのかというと、ドラマだ、ドラマをみまくったのである。正直、しんどいときもあった。親からもかの女からも友だちからも、おまえそろそろはたらけよ、成長しろよ、大人になれといわれて、ヘドがでるぜとおもいながらも、グッタリしてテレビをつけたら、再放送でみたことのあるドラマがまたやっているわけだ。なんか成長どころか、過去にもどったというか、どうあがいても先へはすすめないとおもわされる。オレの人生、ずっとこのくりかえしか。あたまがグルグルまわって、めまいがする。いきぐるしい。
 でもおもしろいもんで、これをさらにくりかえしていると、きもちよくてしかたがなくなってくる。ドラマが現実になるというのだろうか。いっとき深夜になると、宮藤官九郎脚本のドラマがひたすら再放送されているときがあったのだが、これがまたいい具合に郊外の若者をえがいていて、それこそ『木更津キャッツアイ』(2002年)なんかは、なんどみたのかおぼえてないくらいだ。ちょっとだけあらすじを紹介しておくと、主人公・岡田准一が演じるぶっさんは、20代前半にして無職、地元の木更津でただブラブラしていた。でも、とつぜんガンで余命半年の宣告をうけてしまって、生きかたのみなおしをせまられる。ガーン。こりゃもう死んだつもりで生きるしかない。ということで、やりはじめたのが窃盗団だ。オレ、キャッツアイにあこがれてたんだよといって、地元の野球仲間をあつめて、じゃんじゃかじゃんじゃか、金持ちのものをかっぱらい、ビールを飲んではしゃいでおどる。ビール、ビール、ビール、ビール、ビールー!!! ひゃあ、サイコーだ。とちゅう、ホームレスの友だちがチンピラにゴミみたいにぶっ殺されて、検死にきた警察にもゴミみたいなあつかいをうけて、ぶっさんが猛烈にブチキレたりと、ド迫力のシーンもあったりするのだが、とはいえ全体としてはコミカルで、ぶっさんが死ぬ、死ぬといって、なかなか死なないというのが肝のドラマだ。死ぬまえにいちどはといって、ぶっさんが東京にいく回もあるのだが、うごく歩道に驚愕して、なんじゃこりゃあ、ウキャキャキャッとサルみたいにはしゃぎまくったりもする。そういうのもみどころだ。くりかえすと、テーマは死んだつもりで生きてみやがれ。ぶっさんの心意気が友だちの心をうって、みんなに伝播していく。そんなものがたりだ。いくぜ共謀、キャッツアイ。ニャア。

過去にむかって進撃せよ
アメーバの記憶をとりもどせ

 そんなドラマをみつづけていたら、いつしか自分もぶっさんの生きかたがあたりまえになっていた。オレもおまえもキャッツアイ、友だちだ。というか、だれだっていま死ぬかもしれないのに、成長だ、成長だ、かせげ、かせげ、もっとかせげと、そんなことやらなきゃいけないなんて意味がわからない。ああ、めんどくせえ。そうおもったら、パッと体がかるくなっていて、この先どうこうじゃない、いまつかえるものをつかって、なんでも好きにやっちまえばいいんだとおもうようになった。親のSuicaをかっぱらって東京にでたり、友だちがやっている大学の授業にもぐらせてもらったり、ゴミ箱からなのか本屋からなのか、どこからともなく友だちが本をひろってきて、それを借りてむさぼりよんだりした。カネがあったらビールを飲んで、なければないでビール、ビール、ビール、ビール、ビールー!!! とはしゃいでいると、だれかがかならずおごってくれる。こんどはそのくりかえしだ。ムダなことしかマジになれない。無闇やたらと本をよめ。
 きっとドラマをみるというのは、そういうことなんだとおもう。もじどおり、単細胞になるといってわかるだろうか。ふだん、わたしたちは時間のながれを、未来にむかって上に、上にすすんでいかなくちゃいけないとおもわされている。成長、進歩、あめあられ。子どもから大人へ、野蛮人から文明人へ。もっと文明的に、もっと文明的に。いそげ、いそげ、カイゼン、カイゼンといわれて、そのスピードがどんどんはやまっている。いまだったら、スマホから片時もはなれずに、時間のムダなく情報をつめこんだり、たれながしたりするのが文明的というところだろうか。かせいで、ホメて、ホメられて。自由だ、自由だ、リベラル、リベラル。情報に情報で着飾っていく。
 もはや人間はスマホのデータみたいなもんだ。これ冗談じゃなくて、マジでそうおもっている連中がふえているからこそ、役たたずというか、ずっと街でブラブラしていたり、はたらこうとしなかったり、はたらけなくてグッタリしていたりしたら、つるしあげられたり、襲撃されてぶっ殺されたりするようになっているのだ。家にもいられず、公園にもいられず、ネットにもいられず、施設にいてもやられてしまう。有害なデータは消去せよ。みんなに迷惑かけるから。いそげ、いそげ、ムダをはぶいて、カイゼン、カイゼン。文明社会を防衛しよう。データをとって、不穏分子を事前にハイジョ。抑圧、抑圧、いきつく先はファシズムだ。どうしようもねえ。
 で、はなしをもどすと、単細胞だ。アメーバでもなんでもいいが、単細胞はチマチマなにかをたくわえて成長するんだとか、上昇するんだとか、そんなことは考えていない。だって、なんかグニャグニャうごいているとおもったら、体がバンッとはじけて、ふたつのアメーバに分裂してしまうのだから。しかもひとつの母体から、もうひとつがうまれるわけじゃない。まえのアメーバは消滅してしまって、まったくべつのアメーバがうまれているのだ。そこには、上昇もカイゼンもありゃしない。いつだって、ゼロからはじまるいまこのとき。死んだつもりで生きてみやがれ。ぶっさんだ。ぶっさんが死ぬまえに窃盗団をつくりてえといったのとおなじである。よく考えてみると、むかしもいまも革命や暴動がおこったとき、群衆は自分の命をかるがるとなげすてて、警察や軍隊とバトルしているが、それもおなじことなんじゃないかとおもう。そうだ、人間の身体には、太古から単細胞の記憶がやどっている。あとは、それを覚醒させればいいだけのことだ。きっと、ドラマにはそれをよびさます力がやどっている。ビール、ビール、ビール、ビール、ビールー!!! リベラルもファシズムもクソくらえ。そもそも文明社会なんていらないんだ。過去にむかって進撃せよ。子どもだ、サルだ、野蛮人。アメーバの記憶をとりもどせ。ドラマをみるということは、文明人の皮をひっぺがすのとおなじことだ。1枚、1枚、ゆっくりとやろう。細胞レベルでさけんでみせる。ドラマバカ一代。ニャア。

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 218 219 220 221 222 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247 248 249 250 251 252 253 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 264 265 266 267 268 269 270 271 272 273 274 275 276 277 278 279 280 281 282 283 284 285 286 287 288 289 290 291 292 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315 316 317 318 319 320 321 322 323 324 325 326 327 328 329 330 331 332 333 334 335 336 337 338 339 340 341 342 343 344 345 346 347 348 349 350 351 352 353 354 355 356 357 358 359 360 361 362 363 364 365 366 367 368 369 370 371 372 373 374 375 376 377 378 379 380 381 382 383 384 385 386 387 388 389 390 391 392 393 394 395 396 397 398 399 400 401 402 403 404 405 406 407 408 409 410 411 412 413 414 415 416 417 418 419 420 421 422 423 424 425 426 427 428 429 430 431 432 433 434 435 436 437 438 439 440 441 442 443 444 445 446 447 448 449 450 451 452 453 454 455 456 457 458 459 460 461 462 463 464 465 466 467 468 469 470 471 472 473 474 475 476 477 478 479 480 481 482 483 484 485 486 487 488 489 490 491 492 493 494 495 496 497 498 499 500 501 502 503 504 505 506 507 508 509 510 511 512 513 514 515 516 517 518 519 520 521 522 523 524 525 526 527 528 529 530 531 532 533 534 535 536 537 538 539 540 541 542 543 544 545 546 547 548 549 550 551 552 553 554 555 556 557 558 559 560 561 562 563 564 565 566 567 568 569 570 571 572 573 574 575 576 577 578 579 580 581 582 583 584 585 586 587 588 589 590 591 592 593 594 595 596 597 598 599 600 601 602 603 604 605 606 607 608 609 610 611 612 613 614 615 616 617 618 619 620 621 622 623 624 625 626 627 628 629 630 631 632 633 634 635 636 637 638 639 640 641 642 643 644 645 646 647 648 649 650 651 652 653 654 655 656 657 658 659 660 661 662 663 664 665 666 667 668 669 670 671 672 673 674 675 676 677 678 679 680 681 682 683 684 685 686 687 688 689 690 691 692 693 694 695 696 697 698 699 700 701 702 703 704 705 706 707 708 709 710 711 712 713 714 715 716 717 718 719 720 721 722 723 724 725 726 727 728 729 730 731 732 733 734 735 736 737 738 739 740 741 742 743 744 745 746 747 748 749 750 751 752 753 754 755 756 757 758 759 760 761 762 763 764 765 766 767 768 769 770 771 772 773 774 775 776 777 778 779 780 781 782 783 784 785 786 787 788 789 790 791 792 793 794 795 796 797 798 799 800 801 802 803 804 805 806 807 808 809 810 811 812 813 814 815 816 817 818 819 820 821 822 823 824 825 826 827 828 829 830 831 832 833 834 835 836 837 838 839 840 841 842 843 844 845 846 847 848 849 850 851 852 853 854 855 856 857 858 859 860 861 862 863 864 865 866 867 868 869 870 871 872 873 874 875 876 877 878 879 880 881 882 883 884 885 886 887 888 889 890 891 892 893 894 895 896 897 898 899 900 901 902 903 904 905 906 907 908 909 910 911 912 913 914 915 916 917 918 919 920 921 922 923 924 925 926 927 928 929 930 931 932 933 934 935 936 937 938 939 940 941 942 943 944 945 946 947 948 949 950 951 952 953 954 955 956 957 958 959 960 961 962 963 964 965 966 967 968 969 970 971 972 973 974 975 976 977 978 979 980 981 982 983 984 985 986 987 988 989 990 991 992 993 994 995 996 997 998 999 1000 1001 1002 1003 1004 1005 1006 1007 1008 1009 1010 1011 1012 1013 1014 1015 1016 1017 1018 1019 1020 1021 1022 1023 1024 1025 1026