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(『パターソン』評からのつづき)
というのも、ダニエル・ロパティンのワンオートリックス・ポイント・ネヴァー名義の新作『グッド・タイム』はジョシュアとペニー・サフディ監督の同名映画のサウンドトラックであるところからの推測というか臆断というか邪推にすぎないが、アルバム唯一のヴォーカル曲にOPNはイギー・ポップを起用しているのである。ロパティンの映画音楽といえばソフィア・コッポラの『ブリング・リング』も記憶に新しいが、『グッド・タイム』は全面的に携わった2作目の作品となる、本作の詳細は三田格先生の目から血の出そうな鋭い評文をお読みいただきたいが、90年代までの細分化――ジャンル的なものであるとともに原理的な側面もあったそれへ――の反動のように電子音楽そのものを再定義する、というより、現代音楽からダンス・ミュージックからポップ・ミュージックまで、デンシノオトさん以外のおよそ電子と名のつくものをとりこみたがるきらいがある。むろんエレクトロニックな音楽ばかりかノイズでさえも、聖域たりえぬ現在の音楽の趨勢もそこには寄与しているにせよ、ロパティンの方法とセンスは頭ひとつ抜けている。その世代の旗手と呼んでさしつかえないが、おそらくそこには具体の音が具体であるがゆえに記名的であるのであり、したがって描写的であるという逆説も働いている。そもそも抽象としての音の反語だったはずの具体の音が時代をくだるうち情報になった。サンプリングなど、個別の方法との比較は本稿の任ではないが、21世紀の「音楽」はすべからく情報の付帯音楽であるなら、声(=ことば=意味)を主体としない音楽であるならなおさら映像喚起的である。OPNが映画音楽にとりかかるのもゆえなきことではないどころか、筋書きどおりとさえいえるが、かといって『グッド・タイム』は予定調和なのではない。私は本編は未見なので映画そのものには言及しないが、ゴブリンから神秘主義を減算することでポップにゴシック化したようなスコアにはロパティン印の多義性と柔軟性と、そこからくるB級趣味が聴きとれる。機能性を加味した本作をOPN名義にしたのは意外でもあったが、10年におよぶ活動が映画音楽のフォーマットでもロパティンは自由に腕を揮える確信をもたらしたのか、分岐した人格(名義)を統合する作家性をえたのか。いずれにせよ『グッド・タイム』はサウンドトラックとオリジナル・アルバムのおとしどころとしては絶妙である。
こと終盤にいたってはそうだ。
そこにやおらイギー・ポップがあらわれる。ピアノ伴奏による“The Pure And The Dammed”。ピアノの音は残響を加工してある、それにたいしてイギーの歌はナマである。ささやくようなイギー流のクルーナー唱法とでもいうべき深々とした歌いっぷりはレナード・コーエン化したスコット・ウォーカーのようであり、だれもが知るあのイギー・ポップではない。むろんイギーには、近作にかぎっても、ウエルベックの『ある島の可能性』に着想をえた深く沈静するトーンが支配的な『プレリミネール』(2009年)などもあるので、パブリック・イメージも一概ではないだろうが、であれば、イギー・ポップの公とはなにか。そのとき私性はどうふるまうのか。
© Byron Newman
ジム・ジャームッシュの『ギミー・デンジャー』はミシガン州マスキーゴンに生まれトレーラーハウスで幼少期をおくったジェームズ・ニューウェル・オスターバーグ・ジュニアが、たびかさなるトラブルの果てにいかにしてパンクのゴッドファーザー、ストゥージズのフロントマンとなり、いまなにを考えるのか、終の棲家であるストゥージズの来歴をたどりうかびあがらせる。原点となるのはストゥージズの誕生年である1967年。そこに、イギー・ポップ、ロンとスコットのアシュトン兄弟、デイヴ・アレクサンダーらの前史が集約されていく。
アナーバーのハイスクール・バンド、イグアナズのドラマー、ジム・オスターバーグと同郷でチョーズン・フューなるバンドをやっていたロン、弟のスコットにドラムを仕込んだのはジムことイギーだった。デイヴはアシュトン兄弟の妹のキャシーがたまたまみかけ誰だか声をかけてみたらといったのが縁になり、オリジナル・ストゥージズが出そろった。全員10代、最初はダーティ・シェームス(汚い恥)と名乗っていたが名乗っただけで満足したので音楽まで頭がまわらなかったが、一念発起し、共同生活――イギーは、俺たちは共産主義者だったと作中で主張するが、政治性を抜きにした原始共産制にちかい、つまるところコミューンであるそれ――をとおし、しばしばラリったりしながら切磋琢磨し、音楽経験を積んでいった。当時イギーはレコード屋に勤めていて、ジョン・ケージ、サン・ラー、クリスチャン・ウォルフ、ヴェルヴェッツ、ファラオ・サンダース――らのレコードを聴き影響を受けたが、なかでもハリー・パーチは別格だったという。パーチは平均律に疑義を唱え純正律に傾倒したのち、微分音による理論を完成しそれに基づく幾多の楽器を制作したことでもよく知られている20世紀音楽を代表する作曲家のひとりである。ダイアモンドマリンバ、バンブーマリンバ、クロメロデオン、キタラ、ハーモニックカノン、日本の箏をもとにしたKOTOなどもふくめ、パーチの自作楽器は風貌のみならず音までも野趣に富み、楽曲は荒野の石のように質朴で孤立している。ためしに、ウディ・ガスリーにジャド・フェアがバックをつけたような“Barstrow”を聴いていただければ、現代音楽といったときにひとが想起するものとの落差をご理解いただけるだろう。柿沼敏江は『アメリカ実験音楽は民族音楽だった――9人の魂の冒険者たち』(フィルムアート社/2005年)でパーチはじめ、ルー・ハリソンらを米国の風土のなかで読み解いているが、フォークロアに根ざした表現はかならずしも特定の価値観に収斂しない。日本の歴史が近代(明治)にはじまるわけではないのとおなじように、フォークロアの起点は無数にあり、歴史は単線ではないうえに主体の想像力の限界を意味するはずもないのに、そう考えたがるあんぽんたんがあまりに多すぎるというようなことを、私は『ユリイカ』の今年の1月号に書いたつもりだが、紙幅の都合で書けなかったことのひとつに、ハリー・パーチがホーボーだったことがある。ホーボー(hobo)とは貨物列車などにただ乗りし放浪生活をおくる、いわゆる「浮浪者、渡り労働者(ランダムハウス英和大辞典)」であり、上述の「Barstrow」はパーチのホーボー体験を下敷きにしたものだが、個々の視点の堆積としてのフォークロアは国民国家のなかに別様の地図を描かざるをえない。音楽にかぎらず、ことばや視覚表現や造形や行為そのものがネイションの無意識にフォークロアを潜在させる。おそらく詩がそうだ。私は拙稿でホイットマンを引いたが、ホイットマンにかぎらず、詩はその象徴性で歴史を超え現在を覆う。ジャームッシュが『パターソン』でやりたかったことのひとつもそれだろうし、私は先日アップした原稿で書き漏らしたが、主人公の妻がギターで“線路の歌”(日本では「線路は続くよどこまでも」の題の童謡になっているが、原曲は大陸横断鉄道にたずさわる線路工夫の労働歌であるこの曲を子ども向けにしたのも音楽を輸入品とみなし関税をかけるように骨抜きにする明治的近代的官僚的な教条主義のいったんではあるがここでは置いておく)を弾きがたる場面にはおそらく労働者と移動者の暗喩がある。ジャームッシュは終始漂白する人物を主題にする映画作家であり、パーチにフォーカスしたのにはそのような共感の裏打ちがあったのではないか。むろん共感はまずもって音楽においてはじまるが、ファースト『The Stooges』(1969年)で世に出る以前に彼らにこのような下地があったのは特筆すべきである。
それとともに彼らが拠点としたミシガン州アナーバーの状況も見逃せない。ニューヨークとサンフランシスコの中継点であるアナーバーは60年代末文化革命の先端にあった。実験的な音楽やフリーなジャズが騒々しいロックと混在していた。たとえば60年代末、ことに67~69年にかけてジャズ・クラブ以外へ活動の場を広げていたサン・ラーもそのひとりである。ラーにはストゥージズやMC5との共演歴がある、と湯浅学の『てなもんやSUN RA伝 音盤でたどるジャズ偉人の歩み』(ele-king Books/2014年)にある。仕掛け人はジョン・シンクレアである。
デトロイトでアーティスト・ワークショップ開催に尽力し、ジャズやブルースにかんする学究的貢献をし、アンダーグラウンドな新聞や雑誌だけではなく『ダウンビート』誌や『ヴァイブレーション』誌などへも音楽論や政治論や文化論をまじえて幅広く積極的に執筆活動を行い、グランデ・ボールルームを拠点のコンサートを運営し、ホワイト・パンサー党を主催していたジョン・シンクレアは、MC5のマネージメントを引き受けながら、ジャズ・ミュージシャンとMC5やストゥージズ、ファンカデリックなどのデトロイト周辺のアクの強いバンドとを同じステージにブッキングすることに積極的だった (同書)
© Danny Fields/Gillian McCain
69年8月のウッドストック、同年12月のストーンズのオルタモント――本作のタイトルはいわゆる「オルタモントの悲劇」をおさめた映画『ギミー・シェルター』が由来であるのはいうまでもない――、ジミ・ヘンドリックスが死の直前に出演した70年のワイト島など、この時期はみなさんが夏休みに出かけていく今日のフェスティヴァルの雛型ができあがった時期でもあった。上述の引用文につづく一文には、MC5のウェイン・クレイマーの以下の発言がみえる。「観客がサン・ラーを理解した様子を見せるまでは、このまま暴動になってしまうのではないかと思った」その場を渾沌が支配していた、行楽まがいのフェスではなかった。
『ギミー・デンジャー』には初期ストゥージズのライヴ風景もたっぷり入っている。ステージ上でのけぞり、手を叩き、足を踏みならし、でんぐりがえり、マイクを咥え、血をながし彷徨するイギー・ポップは渾沌を体現するというより渾沌に弾き飛ばされ正対しながら七転八倒する怒り狂った猿のようだ。舞台上から客を挑発し観客もむやみにそれに乗る。脂肪率の低い身体で決めるポーズは江頭2:50にも影響を与え――などというと熱心なファンの不興を買いそうだが、私とてそのひとりである。評判は口こみに伝わり、MC5をスカウトに来たダニー・フィールズの目にとまり、68年9月22日MC5とともにストゥージズはついにエレクトラと契約を果たすが、粗野で荒々しいロックンロールは、私がこれまでくどくど述べてきた状況を血肉化したものであるならまだしも、余剰を削ぎ落としシェイプしたものであることには、各自いまいちど思いを馳せるべきである。
むろんショービズの世界はなまやさしいものではない。まずロンがコメディ番組『三ばか大将(The Three Stooges)』のモー・ハワードに電話し、バンド名にストゥージズを使う許諾をとった。翌月には“アイ・ワナ・ビー・ユア・ドッグ”“ノー・ファン”、彼らを代表する2曲ができたらもう69年である。ニューヨークにおもむいた中西部の4人組はプロデューサーであるヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイルとともにスタジオに入った。グループ名を冠したファーストでは上述の2曲が印象的だが、デイヴ発案による我流マントラ“ウィ・ウィル・フォール”が2曲のあいだの消失点のようになり、アルバムは奥行きを増している。おりしもフラワームーヴメントの時代であり、ハッピーなヒッピーにたいする屈折した闘争心もストゥージズの面々にはあったようだ。70年代の幕開けとともに、バンドは「ラリったメイシオ・パーカー」役のスティーヴ・マッケイを迎えロスで70年の『ファン・ハウス』を、デイヴィッド・ボウイの招きでロンドンに渡ったイギーとジェームス・ウィリアムスンを中心にサード『ロウ・パワー』(73年)を録り、アメリカに舞い戻り、薬禍に苛まれ、ストゥージズであることの重みを支えきれなくなったように瓦解する。やがてデイヴが鬼籍に入り、ついで時代はくだり、ストゥージズは忘却の底に沈むかと思いきや、パンクの到来とともにその音楽は息を吹き返す。デッド・ボーイズ、ディクテイターズ、ピストルズ、ダムド、ソニック・ユース、ブラック・フラッグ、バッド・ブレインズ、ジャームス、スリッツ、ニルヴァーナ、ホワイト・ストライプス――ジャームッシュはストゥージズに影響を受けたバンドを胸いっぱいの愛とともに列挙していくが、その圏域はパンクにとどまるものではなかった、その理由のひとつはソロになってからのイギーの継続的な活動にあったのだろうが、ジャームッシュは『ギミー・デンジャー』をイギー・ポップ史観におとしこむのではなく、あくまでストゥージズの物語として語りきっている、『イヤー・オブ・ザ・ホース』(97年)がニール・ヤングではなくクレイジー・ホースのドキュメンタリーだったように。
© Low Mind Films
語り口はいたずらに伝説を鼓吹するものでもなく、かといってその前に跪拝するわけでもない。おそらく制作上の制約――ストゥージズ再結成の時期と撮影期間が重ならなかった――から本作は基本的にアーカイヴ映像とインタヴューとジェームズ・カーによるアニメーションで構成することになったが、ジャームッシュはそれを逆手に、かつて『イヤー・オブ・ザ・ホース』で試み、すでにドキュメンタリーの定番となっている密着スタイルを本作で相対化しようとする。『ホース』と『デンジャー』のあいだには20年ちかくの短くない時間がながれ、そのあいだ、冒頭に述べたように映像の位相も変化した。ノンフィクションとフィクションを分かつ「ノン」は「ノー・ファン」における「ノー」ほど強い否定性を帯びず、虚構のヴァージョンを意味するにすぎない。ペドロ・コスタしかり、アピチャッポンでもジョシュア・オッペンハイマーでも森達也でも松江哲明でも、形式の定義が作品の立ち位置を左右する昨今において、ジャームッシュはあたかも雑誌を編集するように、シームレスにアーカイヴ映像をつないでいく。その手捌きは、ストゥージズがそうであったようにスピーディでユーモラス(というよりコミカルといったほうがこの場合ふさわしいだろうか)でエモーショナル。ときにクリスチャン・マークレーの『ザ・クロック』を彷彿するほどテクニカルで唯物的かつメタフォリカル(『パターソン』を想起されたし)でもあり、両者の比較検討もまたことのほか興味深いが、それはまた別の話である。(了)
松村正人