「Dom」と一致するもの

New Age Steppers - ele-king

 わりと最近、リアーナの『トーク・ザット・トーク』の1曲目に収録された"ユー・ダ・ワン"のPVが話題になった。映像のなかでリアーナが自慰行為をしているからである。例によって賛否両論を呼んだ。セクシャンな表現をそれなりに理解している人からもマドンナには到底及ばないようなことをするなという厳しい声があがった。ビヨンセと違ってバルバトス島出身のこの女性は、何かと非難の対象になる。リアーナは、アリ・アップがもっとも支持していたR&Bシンガーのひとりである。決して行儀が良いとは言えないけど、私がやりたかったことすべてをやっているとまでアリアップは言った。リアーナやR・ケリーのような大衆的な過剰さを屈託なく楽しみ、愛せるところがアリ・アップらしい。ポスト・パンクにおいてザ・スリッツが抜きん出ていたところも、男女同権主義や多文化主義というよりも、結局のところアンチ・エリートなその包容力、狭量な世間に反する寛容さにあったと言える。彼女は、ロンドンのパンク・ロックにおける男女関係が、フリーセックスでもじめじめした手に負えないものではなく、こざっぱりとした友情関係得にあったことを主張するひとりでもある。

 2007年10月、ザ・スリッツとして来日したとき、アリ・アップはエイドリアン・シャーウッドといっしょにニュー・エイジ・ステッパーズの新作にも着手していることを話してくれたが、周知の通り、2010年10月、彼女は乳ガンによって他界した。ゆえに本作『ラヴ・フォーエヴァー』はプロジェクトにとって28年ぶりのピカピカの新作であり、そして最後の作品でもある。なんにせよ、僕のようなファンにとっては、今月もし1枚だけ選ぶとしたらこれしかない、そう言い切れるほどのアルバムである。
 いくぶん感傷的なタイトルの付けられた本作は、スキップ・マクドナルドやスタイル・スコット(ともにダブ・シンジケート)、ゲットー・プリースト、ニック・コプロウといったシャーウッド率いる〈ON-U〉の仲間たちともに、ダンスホールの多様なリズムからドラムンベースのアーメン・ビート、ヒップホップ、そしてもちろんレゲエと......まあ、アリ・アップらしいと言えばらしいハイブリッドな音楽を展開しているわけだが、予想以上にいろいろやっている。とくに驚いたのはアダムスキーの参加で(彼はレイヴ時代にチャートを賑わせたポップスターで、落ちぶれてからマーク・スチュワートのバックとして来日もしている)、1曲、テクノまでやっている。

 ニュー・エイジ・ステッパーズは最初のアルバムこそダブの実験を――レゲエ純粋主義者が苛つくほど――試みているが、それ以降のセカンドとサードに関して言えばルーツ・レゲエのカヴァー集となっている。当時は僕のように、ジュニア・バイルス、ビム・シャーマン、ホレス・アンディなどといった名前を、それらの作品を介して知ったリスナーは少なくない。
 とはいえ、『ラヴ・フォーエヴァー』は、ファースト・アルバムに立ち返ったような作品である。復帰後のソロ・アルバム『ドレッド・モア・ダン・ドレッド』(2005)、ザ・スリッツの『トラップド・アニマル』(2009)、オーストラリアのダブ・バンド、ダブブレスタンダートとの『リターン・フロム・ダブ・プラネット』(2009)、ヴィック・ルジェーロとの『レア・シングルズ』(2011)などなど、この5年のいずれの作品よりも『ラヴ・フォーエヴァー』には予定調和を揺るがすところがある。新しいことをやってやろうという前向きさがあるし、ポール・クックの娘(復活後のザ・スリッツのメンバーでもあった)のソロ・アルバムが伝統的なレゲエを守っている作品だったのに対して、こちらはレゲエを拡張する作品である。シャーウッドもここぞとばかりにフリーキーなミキシングを楽しんでいる。結局死ぬまでキングストンのサウドシステム文化を深く愛したアリ・アップだが、しかしその音楽がレゲエの型(コピー)に終始することはなかったのである。

 ちなみに"ラヴ・フォーエヴァー"は、ルーツ・シンガーの故ビム・シャーマンの1970年代の曲。ニュー・エイジ・ステッパーズは他にも数曲シャーマンのカヴァーをしているが、この曲はファースト・アルバムのB面の3曲目に収録されている。そのときドラムを叩いたのはブルース・スミス(ポップ・グループ/ザ・スリッツ~リップ・リグ&パニック、PIL、そしてビョークの最初のソロ)、ベースがジョージ・オバン(アズワドほか)、ピアノがスティーヴ・バレスフォード(ザ・49アメリカンズ~フライング・リザーズほか)。その演奏は1980年10月に録音されている。

Various Artists - ele-king

 「カーネーション、コカイン、クンビア。1980年代から1990年にかけてコロンビアの経済を活気づけた3つの輸入品のうち、いちばんなじみが薄いのはおそらくクンビアだろう」、スー・スチュワードの有名な『サルサ』(1999)にはそう書かれているが、いまとなってはコカインに次いで有名なのがクンビアではないだろうか。クンビアのユニークなところは、アフリカとヨーロッパがアンデス山脈から流れるマグダレナ川に沿って混ざり合い、港町のバランキヤに集結した点にある。港から北に進めばキューバだ。キューバ人にとってバランキヤは奴隷の子孫(アフリカ系コロンビア人)が集まった「外国とは思えない」町であり、ゆえにその町のダンス音楽がキューバ音楽と類似するのは当然だった。
 クンビアを特徴づけるのは、アコーディオンとアフロ・パーカッションである。キューバ音楽よりもシンプルな構成であるがゆえ、ヨーロッパの民俗音楽のアコーディオンの官能的な旋律とアフリカ大陸から奴隷を通じて伝播した豊かなビートとの結合が際だって聴こえ、このクレオール文化の魅力がよりわかりやすく見える。僕はラテン音楽に関しては素人だが、この音楽に魅了されない人が信じられないほど、ひと言で言えば大好きなジャンルである。
 CDにして2枚組、LPにして3枚組のこのクンビアのコンピレーション・アルバムは、UKの〈トゥルー・ソーツ〉からの作品で知られるクァンティックことウィル・ホランドがコロンビアに滞在した4年間で集めたコレクションの成果である。そして、全55曲が音楽の宝石だ。サブタイルには「The History Of Colombian Cumbia & Porro As Told By The Phonograph」(レコードが語るクンビアとポロの歴史)とあるが、クァンティックは、78回転の音源から45回転の音源まで、博物学を好む英国人らしくコロンビアのレコード産業を懸命に掘ったのだろう。ちなみにポロとは、クンビアのサブジャンル。『オリジナル・サウンド・オブ・クンビア』には、曲によってはレゲエっぽいものもソカっぽいものもある。そのエクレクティックな様相も、カリブ海に面したコロンビアの北の音楽の特徴である。

 3.11以降の日本では、こんなときに音楽なんて......などという声が多くあった。その他方では、3.11以降の嘆き/悲しみと絡めて音楽を聴くことがあたかもリスナーの誠実さの表れのような風潮がある。その気持ちもわからなくもないし、日本政府や東電を許すわけではないが、マルクス派のゲリラと政府が絶えず内戦を繰り広げていたコロンビアにおいてレコード産業は、たとえば「音楽どころではない」精神状態によって撃沈していったかと言えば、とんでもない。それは「動乱の時期にも安定した存在」(前掲同)だった。ハードな日常のなかで、むしろコロンビアの音楽シーンは活気づいて、色めいていたのである。『オリジナル・サウンド・オブ・クンビア』はそれを知らしめる。ああ、そういえばディスコの青写真もナチスに占拠されたパリで生まれたんだっけ。

Graham Lambkin - ele-king

 そもそもホンダ・シビックを運転しながらアメリカ大陸の道路を走り、車内で録音された音楽がどんなものなのか、興味深い。それがどのように録音されたのか、知りたい。ともかく2010年から2011年のあいだ車内で録音されたグレアム・ラムキンによる『アマチュア・ダブルス』は、音楽に夢を見る人のための音楽として実に美しい作品となった。それは車の窓を閉め切って道路を飛ばしているときのノイズがやすらかに口ずさんでいるようだ。

 そういえば、それがリリースされてからだいぶ時間が経ってから本気で好きになれたアルバムのひとつにエイフェックス・ツインの『セレクティッド・アンビエント・ワークスvol.ll』(1994)がある。あの抽象性と独特の音響効果は、面白いとは思えても『vol.l』やポリンゴン・ウィンドウ名義の作品と比較して、当時は、再生回数は少なかった。ところがいま聴くと、再発すべきは『vol.ll』だったのではないかと思えてくる。『vol.l』と『vol.ll』との違いは、その抽象性にある。かつてアブストラクトと呼ばれた音楽は音数の少ないインストのヒップホップだっが、今日抽象的な音楽と言えば、多くの場合、アナログ/デジタル機材を用いたアンビエント、ドローン、フィールド・レコーディング、ミュージック・コンクレート、インプロヴィゼーション、ミニマルなどの混合で、それらはコンテンポラリーの手前でとどまっている。
 ラムキンはティム・ヘッカーのようにハードコアなアンビエント・リスナーを引き寄せ、他方ではアヴァンギャルド/コンテンポラリーの文脈でも熱狂的な支持を得ているようだ。イギリスのケント出身の彼は1998年からニューヨークを拠点にして、彼の評判の良いカタログを増やしている。イギリス時代にはザ・シャドウ・リングという前衛ロック・バンドのギタリストとして活躍して、ニューヨークのノー・ネック・ブルース・バンドとも繋がりを持っている(まあ、今日におけるレコメン系と言える)。バンド解散後は旧式のオープンリールなどを用いて抽象的で、魅力的な抽象音楽を展開している(ポエトリー・リーディングもしている)。2008年の『ザ・ブレッドウィナー』(2008)におけるフィールド・レコーディングやミュージック・コクレートはザ・KLFの『チルアウト』におけるサンプリング・コーラジュや『vol.ll』における抽象性をさらに深く追求した音楽としても聴ける。木のきしむ音、音の間、静寂......電子のポップ文化に戯れる我々にとってアプローチしがたいものではない。

 さて、自身のレーベル〈Kye〉からリリースされた『アマチュア・ダブルス』は、透明なヴァイナルのA面に1曲、B面に1曲が収録されている(この構成でありながらCDリリースがないところも良い)。それぞれの曲は、フランスにおける異端の電子音楽家、Philippe BesombesによるPole名義の1975年のアンビエント/サイケデリック作品、同じくフランスのPhilippe Grancherによるピアノとシンセサイザーを活かした同年のアンビエント作品『3000 Miles Away』をサンプリングしている。その2枚のCDは、ゲイトフォールドのジャケを開くと見える写真のなかの、車のフロントパネルの上に無造作に置かれている。
 『アマチュア・ダブルス』では、声、メロディ、電子音、そしてゴォォォォォ、心地よいノイズ、控えめだが多彩なノイズ、鐘の音、アナログ機材の温かい音......それらがどこか遠くで鳴っている。郷愁という意味ではない。ラムキンは彼のホンダ・シビックの後ろの座席に我々を座らせて、そしてハンドルを握りながら、つまみをいじっているようだ。ジョン・ケージはインプロヴィゼーションにおいて、ブラック・ジャズの文脈とは別の角度から、演奏しないことが演奏になる(すなわちすでにそこには音がある)ということを見せ、その後の音楽に巨大な影響を与えたが、同じようなコンセプトが路上で生まれたこのアルバムにもある。後半(つまりB面)では、汚れた風の音がクラスターのもっとも美しい瞬間に合流する。discogsによればラムキンはピンク・フロイドの"星空のドライヴ"をカヴァーしているそうで、ドライヴしている感覚が好きなのかもしれないが、これは"星空のドライヴ"でも"アウトバーン"でもない。

vol.29:星は天文学に無関心! - ele-king

 ナダ・サーフは青春。彼らを見るたびに、呟いてしまう。40代前半だというのに......。
 1月24日、ニューヨーク出身のナダ・サーフ(Nada Surf)のホーム・カミング・ショーだった。この日は彼らのニュー・アルバム『The Stars Are Indifferent To Sstronomy』(星は天文学に無関心)の発売だった。「このアルバムは、プラックティス・ルームにいるような感覚で、新しい曲のエネルギーを持ってレコーディングした。やり過ぎたかなと思ったけど、あえてそのままにしてみた」と、ヴォーカル&ギターのマシューは言っている。曲名もまた、希望と未来を感じさせる。"若かった頃(When I was Young)""(まっらな目と曇った心(Clear eye clouded mind)""10代の夢(Teenage dreams)""未来(The future)"......楽曲もみんなポジティブである。
 ポップとロックンロールをこよなく愛する3人から生み出される、ラッシュなビート、コード、美しく、ナイーヴな旋律。そして胸がキュンとなる甘いヴォーカル、ハーモニー。「10代の夢に遅すぎることはない(it's never too late for teenage dreams)」と歌うマシューは本当に10代のようにみえる。この言葉は、ナダ・サーフのすべてのレコードに共通する彼らの声明である。7枚目のこのアルバムで、彼らの経歴は20年目に突入する。

 バンドはこのアルバムを、ウィリアムス・バーグでレコーディングしていた。マシューは、私の家の近所に住んでいて、「いま、レコーディングをちょっと抜けてきたんだ」と言いつつ、よくカフェに現れ、ディナーをとって、赤ワインを飲み、最後にスイーツをテイクアウトして行く常連さんだった。音楽の話題になると話が止まらなくなった。仲間のパーティにも参加してくれた。気軽に話せる気の良いお兄さんである。
 このアルバムのレコーディングが終わって、彼はロンドンに引っ越し、あっという間に半年だった。彼の性格上、頻繁にコンタクトを取る人ではないので、彼らの近況はわからなかったが、何カ月か前に「ナダ・サーフが新しいアルバムをリリース。ツアー決定!」のニュースを知った。そして1週間ほど前に「来週からニューヨークに行くよ。ライヴに遊びにきて!」という彼からのメッセージがきた。見逃すことはできない。お祝いだ。
 ニュー・アルバムのアートワークの素敵なペインティングは、彼の友だちで、アーティストのグラハム・パークスが担当している。シルク・スクリーンのポスターについては、モンスター・アイランド(RIP)の住人だったカイ・ロックが10年も担当している。

 ショーはソールドアウトだったが、この日のショーは、彼らのYoutubeチャンネルでストリームされている。たまたま同じ日にYoutubeを見ていた友だちは、そのことに驚いて、私に教えてくれた。
 ライヴでは、リード・ギターにガイデッド・バイ・ヴォイシズのダグ・ジラードが参加した。ベースのダンとドラムのイラはネクタイ、マシューは黒のボタン・ダウン・シャツ。ふだんと同じスタイルである。ドラムは高いところにセッティングされていて、バスドラには黄色で「NADA SURF」を描かれている。
 演奏はほとんどが新曲だった。レコードをリリースできたことに感謝、関わってくれた人への感謝、2012年が良い年になるようになどとMCが入る。古い曲を演奏すると、会場は一緒になって歌う。アンコールでは名曲"Always Love"を演奏。最後はニュー・アルバムからの曲"Looking Through"。観客はナダ・サーフという10代の夢を心から応援する。絵に描いたような、素晴らしいロック・コンサート。

St. Vincent - ele-king

 厚い化粧と真っ赤な口紅、丈の短いドレスから覗かせた足元にはヒール靴、そして腕にはエレクトリック・ギター。数年前、US版『GQ』でのドレスアップしたインディ・ミュージシャンのフォトシュート企画で、デヴィッド・バーンとサンティゴールドとともにそんな姿でポーズをキメるセイント・ヴィンセントことアニー・クラークが自分のなかで強く印象に残っている。いよいよ彼女もアイコンめいたところにやって来たのだなとそのとき気づかされたのだが、と同時に、どこかがアンバランスなその立ち姿こそが彼女がひとの目を引きつける理由なのだと感じたのだ。それはそのまま複雑な形を持った彼女の音楽にも通じるところがあるのだが、演奏する姿はいったいどんなものなのだろう。その佇まいをどうしても見ておきたかった僕は、東京で一公演だけの来日に足を運んだ。

 ドラム、シンセ、キーボードをバックに携えたアニーはまさに、観客が期待していた姿で現れた。高いヒール靴とタイツにはどこか不釣合いに思えるエレキ、だが彼女自身はその両方が自分にとってのステージ衣装だと言わんばかりに落ち着き払っている。1曲目はスペーシーなイントロから"サージョン"。はじめギターにシールドを挿し忘れるミスがありヒヤッとさせるが、ひとたびギターのフレーズが差し込まれるとトリッキーな構造の楽曲が目の前で鮮やかに組み立てられていく。たとえばダーティ・プロジェクターズの名前がその比較に挙げられるような、やや少ない音数の絡み合い(あるいはすれ違い)の妙で耳を楽しませるセイント・ヴィンセントの楽曲だが、何よりもギターがその中心にあることが実際に目で見ると分かりやすい。曲の後半、捻じ曲がっていくシンセ・サウンドのなかでアニーによるギターが高音へとドライヴし、息を呑むテンションと高揚がもたらされる。
 続いて披露された"チアリーダー"の「でもわたしはもうチアリーダーになりたくないの」という歌詞が示唆的だが、他者(とくに男性からの視線)の期待に応えることのできない自分への葛藤がセイント・ヴィンセントの歌には内在しているように思える。だからと言って強く反抗的な態度を取ったり何かを強く主張するわけでもなく、ありがちな「等身大」の女性像にも逃げ込むこともない。いつもどこか居心地の悪そうな、「異物」としての存在感が彼女には備わっている。橋元さんがレヴューでミランダ・ジュライの名前を挙げていてなるほどと思ったが、たしかにジュライの監督作『君とボクの虹色の世界』にアニーが映っていてもおかしくはない。風変わりな人間が風変わりなままでお互いに折り重なっていく、そんな世界の住人の音楽であるように聞こえる。そうしたアニー自身の内側にある複雑さを、技巧を凝らしたギター・ワークやサウンドの多彩さで外側に軽やかに放り投げたのが『ストレンジ・マーシー』であったが、この日のライヴはまさに彼女自身のギター・プレイによっていくらかの生々しさを伴いながらその過程が再現されていた。
 曲間になると、バックでシンセを演奏するトーコ・ヤスダがMCの通訳をして観客を笑わせる場面もあった。そんな姿のアニーは紛れもなくチャーミングなのだが、艶っぽく流麗な歌声を聞かせたかと思えば突如として激しくギターをかき鳴らすし、ザ・ポップ・グループのカヴァー"シー・イズ・ビヨンド・グッド・アンド・イーヴル"ではドスのきいた声さえ聞かせてみせる。そこではアイコン的な完成度の高いクールさよりも、アウトプットがどうしても歪な形になってしまう危うさのほうが上回っていたように感じた。この日も演奏された"マロウ"における「ヘルプ・ミー」の呟きはおそらくは彼女自身の切実な悲鳴なのだろう。が、それがキッチュでごつごつした感触のエレクトロニック・ポップになってしまう回路のややこしさこそが、彼女から目を離せない理由だ。ライヴのハイライトのひとつであった"ノーザン・ライツ"で髪を振り乱しながらテルミンを荒々しく演奏し、そして終いにはブチ倒した彼女の内側の烈しさを、僕たちは歓声を上げつつもハラハラして見つめ続けるしかないのだ。
 だが、そこにはライヴならではの感情的な交感があったこともたしかだ。アンコールではアンニュイでドリーミーな"ザ・パーティ"で厳かな空気を作り上げ、ラストの"ユア・リップス・アー・レッド"でオーディエンスにダイヴしギター・ソロを弾くアニーを、東京の観客は文字通り「受け止めた」。アーティでカッコいい女、では済ませることのできないややこしさが彼女の音楽にはつねにあって、それと向き合うのは気軽なことではないだろう。だが、隠されたものが思いがけず外に飛び出してしまう様を目撃するようなスリルを伴ったその日のライヴは、どこか官能的な味わいすら含んでいたように感じられた。

Drexciya - ele-king

 ドレクシアとはデトロイトのゲットーで暮らす黒人が安物の電子機材を用いて紡いだ物語(ファンタジー)である。それは1992年からゼロ年代初頭にかけて、青年漫画の連載のように展開された。
 ときは大航海時代、暴風雨にさらされた奴隷船が大西洋のまんなかで揺れている。奴隷貿易の商人たちは病気持ちの妊婦と赤子たちを海に落とす。胎内の羊水で泳いでいた胎児たちは、海中へと押し出され、やがてドレクシアなる変異体となって生き延びた。
 彼らは深海を居住区として、海底に彼らの都市を造った。彼らはそして、彼らをドレクシアにした人類に向かって復讐を果たす機会を待っていた。1992年に〈UR〉傘下の〈ショック・ウェイヴ〉レーベルから最初の反撃がはじまった――。暗い憤怒に満ちたいち撃である。ドレクシアはそれから、彼らがどれほど人類を憎んでいるのかを、気色悪いヴォコーダーを用いながら数年間かけて話した。
 彼らは人間の強欲さの犠牲となった哀れな突然変異なのかい? 彼らがなぜこのような不気味な音楽を作っているのかわかるかい? 彼らの探索は何だと思う? これはおまえたちが知ることのない問いかけなのだ。1997年の2枚組のベスト盤『ザ・クエスト』にはそう記されている。

 音楽的な観点で言えば、ドレクシアの主成分はまずはクラフトワークに言及される。同時にサイボトロン(モデル500)やジョンズン・クルーといったオリジナル・ブラック・エレクトロの流れを汲んでいる。デトロイトにおいて、クラフトワークの退廃的なアンチヒューマニズムがファンクの好戦的な態度と結びついたことでこの神話は生まれたと言えるが、欧米のインディ系のメディアがこの機会をいいことにドレクシアに賞賛を送っているひとつの理由には、まずはこれがアフロ・フューチャリズム理論の代表例であること、そしてもうひとつにその音響――アナログ電子音の凄まじい広がりをエメラルズやOPNと繋げてみたいという抑えがたい欲望があるからだ。試しに"ウェルカム・トゥ・ドレクシア"のアルペジオをいま聴けば、なるほど、これはたしかにエメラルズ(とくにジョン・エリオット)である。

 しっかし......デトロイトは本当にしぶといなぁ。噂のノー・UFOズも早く聴いてみたいけれど、その名義があるというだけでもわくわくする。ドレクシアは、日本での人気はいまひとつだが、ヨーロッパでは絶大だ。再発やリリース量を見ればわかる。〈ワープ〉と〈リフレックス〉、そして〈トレゾア〉からも出ている。もっともドレクシアは、いわゆるDJフレンドリーな音楽ではない。DJには媚びていない......と言ったほうがドレクシアに関して言えば正確だ。昔、URが逆回転の溝のヴァイナルを出したとき、あるDJが「使いづらいじゃねーか」とケチを付けていたが、使いやすさという価値に支配されたくないからこそ彼らはわざわざそういうことをした。使いやすさはラップトップのDJスタイルへと結実したが、モーターシティのアナログ純粋主義はいまでも健在だ。
 そんなわけもあって、ドレクシアが存続していた時代に彼らが発表した唯一のベスト盤でありCDは『ザ・クエスト』のみだが、現在は廃盤であるがゆえに本作『ジャーニー・オブ・ザ・ディープ・シー・ドゥウェラー・1』は価値あるリリースとなった。1992年のデビュー・シングル「Deep Sea Dweller」、1993年の「Bubble Metropolis」、1994年の「The Unknown Aquazone」、1996年の「The Return Of Drexciya」(以上は〈UR〉からのリリース)、そして1995年に〈ワープ〉からリリースされた「The Journey Home」から選曲されている。要するに『ザ・クエスト』までのドレクシア......ふたり組時代の音源だろう。ドレクシアのふたりとは、故ジェームズ・スティンソン(最後までドレクシアを名乗った男)、そしてもうひとりはドップラーイフェクト名義やジャパニーズ・テレコム名義などで知られるジェラルド・ドナルドだ。

 彼らのベスト・トラックの"ウェイヴジャンパーズ"や"バブル・メトロポリス"をはじめ、そして「Deep Sea Dweller」に収録された大いなる"シー・クエーク"......不朽の名曲が揃っている。TR808による素晴らしいドラム・パターンの"ラードッセン・ファンク"のようなファンキーな曲を聴くと、この音楽が戦闘ばかりではなく、喜びをも表現していることを知る。
 いまここで彼らの神話性を無視する。論文向きのアフロ・フューチャリズムやブラック・アトランティックも頭から追い出す。ただ音のみに集中して、鼓膜のみを頼りにする。潜水してみる。『ピッチフォーク』は「今日ドレクシアを聴くことは、最初からやり直すことである」とまで言っているが、僕が思うのは、もしデトロイト・テクノがなんたるかを知りたければこれを聴けということ。デトロイト・テクノの本質とはナイーヴな叙情主義でも感傷主義でもなく、それはもっとハードなものだ。『1』というからには『2』もあるのだろう。ロッテルダムの〈クローン〉がどんな選曲するのか楽しみである。

おまえもドレクシアンの波跳人になるというのなら
まずはラードッセンの黒い波を浴びなければならない "Wavejumpers"

Andy Stott - ele-king

 モーリツ・フォン・オズワルドにベーシック・チャンネルの原イメージがブライアン・イーノとジョン・ハッセルのコラボレイション『ポッシブル・ミュージック』から来ていると聞いた時は、まさしくなるほどだった。イーノはアンビエント・ミュージックのネクストとして「フォース・ワールド(第4世界)」という概念を立ち上げ、どこかスピリチュアルな響きを構想の核に据えていたのだろう。まだ商業ベースとは無縁だった時期のワールド・ミュージックがその背景には大きく広がっていたものの、そのシリーズに続きはなかった。ほどなくしてイーノはアンビエント・シリーズもストップさせてしまう。

 アレックス・パタースン(ジ・オーブ)はイーノの『オン・ランド』をしてイギリスの湿地帯を想起させる音楽だと話してくれたことがある。『ポッシブル・ミュージック』にもそれはダイレクトに投影されていた感覚であり、ベーシック・チャンネルの2人はこれにデトロイト・テクノを掛け合わせることで、現在ではダブ・テクノと称されるフォームを構築したといえる。デトロイト・テクノ、とりわけアンダーグラウンド・レジスタンスによるそれは90年代初頭のジャーマン・テクノに野火のように燃え広がり、ある程度、キャリアを積んでいるプロデューサーの過去には必ずといっていいほど修作が存在する。つまり、ドイツとデトロイトを結ぶだけなら誰にでも出来ることだったのかもしれないけれど、彼らはそれにイギリスの湿地帯という要素を加えることで、他のプロデューサーたちとは一線を画す存在になっていったのである。さらにはマーク・エルネスタスによるダブへのこだわりがベーシック・チャンネルの中期から後期にかけて、もうひとつの大きな役割を果たすこととなり、邪推ながら解散の原因にもなっていったのだろう。

 ベーシック・チャンネルのフォロワーというのは、本当に数え切れないほど出てきたし、いまでもそれは続いている。厳しいことを言えば、彼らが設立した〈チェイン・リアクション〉からデビューしたポーター・リックスやウラディスラフ・ディレイ、そして、マイク・インクと、これに触発されたというハーバート以外は物まねの域を出たものはいない。ロックン・ロールやファンクのフォロワーと同じく、物まねさえしていれば楽しいというような音楽になってしまったとさえいえる。当然のことだろうけれど、オズワルド本人はそのようなフォロワーの作品はまったく聴く気にもならないと言っていた(ロッド・モーデルさえ知らない様子だった)。オズワルドは広義のファンク・ミュージックに、エルネスタスはダブを経て現在はシャンガーンに夢中のようである。

 ベーシック・チャンネルを基調にしつつ、これに初期のアクフェンを思わせるカット・アップを組み合わせたのがアンディ・ストットだった。昨年5月にリリースされて大きな話題を呼んだダブル・パック「パスト・ミー・バイ」と、その続編にそれぞれ2曲づつボーナス・トラックを加え、彼にとっては2作目の編集盤となるCDヴァージョンもつくられた。06年にリリースされたデビュー・アルバム『マーシレス』ではこのようなアプローチはまったく試みられていなかったどころか、クラロ・インテレクトのカヴァーをやるような存在(IDM系?)だったのに、いつどこでスタイルを変えていたんだろう...という感じである。ベーシック・チャンネルをファンク・ビートで刷新したような"ウイ・ステイ・トゥゲザー"を聴いても、その骨太なプロダクションはかなりな圧迫感を覚えるほどである。

 まずはなんといっても"ノース・トゥ・サウス"。ガリガリととぐろを巻くベースに断片化された効果音が様々なニュアンスで襲い掛かってくる。たったそれだけのことだけれど、その臨場感はとても地震の直後に聴けるようなものではなかった。ソウル・ヴォーカルのカット・アップを加えた"ニュー・グラウンド"や"インターミッテント"も印象深い仕上がりで、ここでもやはり破片かされたストリングスが荒廃したムードを一気に覆してしまう手前で、あっさりと姿を消していく。その刹那が本当にたまらない。音が醸し出す文化的な意味合いに異常なほどのせめぎ合いを演出させているといった風である。もしかするとジェイムズ・ブレイクの影響なのかもしれないけれど、それを同質の場面ではなく、旧態としたテクノにフィードバックさせたところがむしろアイディアだった。大きな一歩ではないけれど、それほど小さくもない成果がここにある。

 驚いたのは上記したポーター・リックスのデビュー・アルバムを〈タイプ〉がリイッシューしたことである。メタル・ケースのみで売られたということもあるかもしれないけれど、時には1万円近い値段が付けられていた『バイオキネティックス』を、しかも、アナログでは初リリース。早くも限定のクリア・ヴァイナルには同じぐらいの値段が付き始めている(CDは2月中旬発売予定)。トーマス・ケナーのアンビエント諸作を再発してきた流れで決定したものだろうし、それこそイギリスの湿地帯を追求しまくってきたレーベルなので、不思議はない。ない......けれど、仮にもテクノの領域から出てきたマスターピースをタイプが再発するのである。ダンス・ミュージックではなく、ノイズ・ドローンという価値観のなかで再生される『バイオキネティックス』は一体、新たなリスナーたちに、どのような音楽として聴かれるのだろうか。僕には想像もできない。

Chart by UNION 2012.01.26 - ele-king

Shop Chart


1

やけのはら

やけのはら Step On The Heartbeat NOPPARA REC / JPN »COMMENT GET MUSIC
2012年最初の注目作品!やけのはらIN THE MIX! TO THE HOUSE!!「Brilliant Empty Hours」や「Summer Gift For You」に続く、「スルメ的に聴き続けられる」ミックスCDがディスクユニオン限定で登場!!家で聴く音楽と言えば、ハウスミュージック!とばかりにセレクトした、BPM120のハートビートに染み渡るダンスミュージックたち。ジャズテイスト、サンバ、ラウンジ、サウダージ、R&B。それらの雑多なジャンルをライトに、あくまでもライトに陽の光を感じさせるフィーリングで束ねた一枚。

2

DELTA FUNKTIONEN

DELTA FUNKTIONEN Inertia // Resisting Routine ANN AIMEE / NED »COMMENT GET MUSIC
DELSIN傘下ANN AIMEEが送る、COSMIN TRG、PETER VAN HOESEN、LUCY等、現行アンダーグラウンド・テクノ・シーンの中核を担うアーティスト達が全曲エクスクルーシヴの新曲で参加する驚愕のMIXコンピレーションが到着!MIXを手掛けるのはレーベル看板・DELTA FUNKTIONEN!!一度ハマると抜け出せない中毒性を有するトラック・メイキングで知られ、またFABRIC、PANORAMA BAR等世界有数のクラブからオファーの絶えないDJでもあるDELTA FUNKTIONEN、まさにモダン・ディープ・テクノのエポック・メイキングとなりうる珠玉のミックス作品。

3

HELIUM ROBOTS

HELIUM ROBOTS Jarza EP RUNNING BACK / GER »COMMENT GET MUSIC
THEO PARRISHリミックス収録。DJ HARVEYやPRINS THOMASのプレイリストを賑わせたロンドンのレーベルDISSIDENTからのリリースの諸作がカルト的に支持されたHELIUM ROBOTSの新作がRUNNING BACKから登場!色鮮やかなシンセチューン"Jarza"を、B-サイドでTHEO PARRISHが2リミックス!荒々しくウネリをあげるベースラインにチープでスカスカのフレーズを絡めて展開されるマナー通りのスリージーなアシッド・トラック。

4

GAISER PRESENTS VOID

GAISER PRESENTS VOID No Sudden Movements MINUS / CAN »COMMENT GET MUSIC
MINUSの中核を担うプロデューサー・JON GAISERによるNEWプロジェクト・VOIDのファースト・アルバム。バウンシーなグルーヴィー・ミニマルで人気を博し、RESIDENT ADVISORの"TOP 20 LIVE ACTS OF 2011"の第6位に選出されるなど世界的にブレイクを果たした彼が取り組む次作は、なんとダウンテンポ/アンビエント/実験音響が混ざり合ったアーティスティックな作品集!ベルリンの暗く寒い時期に漂う自然の厳しさにインスパイアされ2年の月日を費やし制作、ゆったりとしたドローンとパルス音が静かに変化するM-1、ヘビーなベースとミッドテンポのキックが淡々と刻まれるM-5等、アルバム全体が深みあるトーンで統一された1枚。

5

ASC

ASC Light That Burns Twice As Bright SILENT SEASON / CAN »COMMENT GET MUSIC
QUANTEC、ATHEUS、MR.CLOUDYなどの良質な作品を限定CDやデジタルでリリースするカナダのSILENT SEASONから、なんと先鋭的なサウンドで注目を浴びるドラムンベース・プロデューサー・ASC(NONPLUS/EXIT)のアンビエント・アルバムが登場! 幾重にも重ねられたアンビエンスたっぷりのシンセが、得も言われぬ美しく壮厳な世界観を創り出す極上の1枚!! LTD 300、絶対にお見逃しなく!

6

OMAR S & OB IGNITT

OMAR S & OB IGNITT Wayne County Hills Cop's (Part.2) FXHE RECORDS / US »COMMENT GET MUSIC
突如として届いた最新シングルはOB IGNITTなるアーチストをフックアップした、OMAR Sとの合作。オリジナルとなるAサイドは"Plestsk Cosmodrome"や"Psychotic Photosynthesis"で見せた独創的なシンセリフが大胆にトラック全体を支配、80'sオールドスクールなダンスミュージックのいわゆる「BサイドDUB」のようなアレンジを披露。OMAR Sが煌びやかでドープなリミックスで仕上げたBサイドも揺るがないスタイルと個性を見せ付けています。

7

VEDOMIR

VEDOMIR Untitled DEKMANTEL / NED »COMMENT GET MUSIC
ウクライナの才人ことご存知VAKULAのニュープロジェクト!VEDOMIR名義でJUJU & JORDASHのホームレーベル、オランダのDEKMANTELより到着した2トラックス。ミステリアスな女性Voフレーズに誘われるドップリとハメられる危険なアンビエント・トラックA-1、生き物のように流動的に浮遊するフレージング、質感に富んだSEやキックの強弱、後半にはヒプノティックな展開が用意されたB-1と、多様な側面を見せる注目の別名義作品。クレジット、ジャケなしの超限定盤。

8

MUNGOLIAN JET SET

MUNGOLIAN JET SET Schlungs SMALLTOWN SUPERSOUND / NOR »COMMENT GET MUSIC
スマッシュ・ヒット作"Moon Jocks N Prog Rocks"を含む、ノルウェー・ニュー・ディスコの至宝MUNGOLIAN JET SETの待望の2ndアルバム。JAZZLANDを中心とした未来派ジャズ勢とも親交が深く、またLINDSTROMやPRINS THOMASら、彼の地ノルウェーのダンス・ミュージック・シーン中核のアーティスト達からもリスペクトされる彼ら。純粋なオリジナル・コンポジションとしては実は「初めて」となるアーティスト作品となる本作にはこの春フロアを席巻したアップリフティングなダンス・トラックB-1を筆頭に、華やかにオープニングを飾るシネマティックなスペース・ディスコのA-1、異次元へと誘われる奇天烈アシッドA-2等全8トラックを収録。

9

V.A.

V.A. Love Unlimited Vibes LOVE UNLIMITED VIBES / GER »COMMENT GET MUSIC
大スイセン!KDJワークスを感じさせる極上ビートダウン!!未だ謎めいた詳細不明のブートシリーズLOVE UNLIMITED VIBESからVol.4が例によって500枚限定プレスで登場。エモーショナルなフレーズや土着感を嫌味にならない絶妙な塩梅で絡めた柔らかで温かみのある3トラックを収録したVol.4も間違いない1枚。

10

A.MOCHI

A.MOCHI Black Phantom EP FIGURE / GER »COMMENT GET MUSIC
A.MOCHI & FIGURE、待望の新作!! このFIGUREをホーム・レーベルとしたアルバム「Primordial Soup」や一連のシングル作品、またMOTE-EVOLVER、WAVETEC等のリリースでも気を吐くご存知日本の誇る重厚テクノ・サウンドの雄A.MOCHI、2012年最初の12"が到着。猛烈な唸りをあげて鋭くタフに研ぎ澄まされたヘビー・サウンド、ダイナミックなブレイク、圧死寸前の超重量ベースがすさまじく強靭なグルーヴを形成しドライブする圧倒的キラー・トラック!

Sao Paulo Underground - ele-king

 90年代のUSアンダーグラウンドにおいて重要なムーヴメントといえば、ポスト・ロックだ。その流れはキャレクシコにも、そしてボン・イヴェールにも繋がっている。今回紹介するサンパウロ・アンダーグラウンドのロバート・マズレクは、ポスト・ロックの第一世代であると同時にポスト・バップなるサブジャンルの開拓者でもある。なんでもかんでも"ポスト"と付けるのは我ながら芸がないと思うが、便利だ。ポスト・ロックならびにポスト・バップの起源はもちろんトータスである。

 ステレオラブのマネージャーのレーベルからリリースされたトータスの1995年の12インチ「ゲメラ」は当時、多くの場面において〈ワープ〉系のテクノのネクストとして聴かれているが、あのシングルに感謝しているのは、おかげでジェフ・パーカーの『ザ・リテラティヴス』にたどり着けたということだ。"ゲメラ"の冒頭のギターの煌めきはそれこそ『TNT』でもなじみ深いけれど、ポスト・ロックはそれをロックと呼ぶには無理があるほどジャズに寄っている。このムーヴメントにはジェフ・パーカーやチャド・テイラーのようなインプロヴェイザーをフックアップしてきた一面もあって、ロバート・マズレクは、アイソトープ217名義での諸作もさることながら、シカゴ・アンダーグラウンド・デュオ(ないしはシカゴ・アンダーグラウンド・アンサンブルほか)においても彼のジャズを展開している。それらはしかし、彼が敬愛するオーネット・コールマンやドン・チェリーの作品とくらべるまでもなく、90年代のIDMとの親和性の高さにおいてモダンで、そして洗練されている。アヴァンギャルドというにはこざっぱりしていたし、陶酔的だが潔癖性的で、ポスト・バップというサブジャンル名もあながち的はずれに思えない。

 『トレ・カベカス・ロークラス』はマズレクが活動の拠点をシカゴからサンパウロへ移してからブラジル人、マウリシオ・タカラと結成したグループで、本作は彼らにとって3枚目のアルバムとなる。
 このグループへの興味とは、ラテン・ジャズにおけるポスト・ロック的な展開とはどんなものなのかという点に尽きるわけだが、本作はそれこそ『TNT』のラテン・ヴァージョンとでも呼べそうな、緻密さと大胆さのバランスの取れた力作となっている。彼のフリー・ジャズ志向はこれまで以上に抑制されている。奇数拍子におけるミニマリズムも効果的だ。1曲目の"Jagoda's Dream"はポスト・ロックとトロピカリズモの鮮やかな調和で、ドリーミーなアナログ電子音、雄大なトランペット、そして突然降り注ぐ陽の光のようなサンバのあたたかさ......舌を巻く演奏が聴ける。たっぷりと情熱が込められたリズミカルな"Pigeon"、ジョアン・ドナートが宇宙でフリークアウトしたような"Carambola"、アイソトープ217の最初のアルバムにおけるなかば催眠的で上質な静けさを彷彿させる"Colibri"......それから心地よいそよ風のなか平和的なトランペットの調べが流れるような"Just Lovin'"、反復するマリンバやヴィブラフォンには微笑みが注がれている。
 このアルバムにおけるサンパウロ・アンダーグラウンドは、活気溢れる変拍子の"Six Six Eight"のように、ラテン、ジャズ、ポスト・ロック/ポスト・バップという領域の境界線など気にも止めず、魅力的なメロディとリズムを創出し、自由に飛び回っている。日の照りつけるサンパウロで彼らは自分たちの音楽をぞくぞくするようなものへと押し広げた。拍手しよう。(ちなみこれ、昨年の作品です)

いつもの駅前 いつもの通りいつものビルの隙間に特別な星
うんざりするほど変わらない景色も
本当に何時までも同じわけじゃない
煌めきは一瞬 だから美しい
しっかりと目に焼き付けろ すぐに
JUST ONE DAY いつか思い出すかな
こんな日々を 意味を 夏の抜け殻 やけのはら"I Remember Summer Days"(2010)

 あなたにとって、音楽が鳴る「現場」とは、どこだろうか。行きつけのライブ・ハウス? お目当てのあの娘が通っているクラブ? 愛聴するDJが選曲するFM? 年に一回のフェスティヴァル? それとも、フリー音源がくそみそに散乱するウェブ? 都会の喧騒をシャットアウトするために装着したi-Podの白いイヤホーン? あるいは、地方生活の退屈を埋めるためのスピーカー? 磯部涼は......そのどれをも否定しない。「音楽の"現場"について、ずっと考えてきた」、そう語り始める現在33歳の著者は、ライフ・スタイルの変化などによって「ゲンバ」から離れてしまった人たちの選んだ「現場」の一切を否定しない。「"現場"という概念は、ライブ・ハウスやクラブといった狭い枠を飛び越えて、ポップ・ミュージック・カルチャーそのものであると言うことも出来るはずだ」、それが2010年4月時点での著者の結論である。

 少しだけ、個人的な話をするのを許して欲しい。
 いまでこそ、ライターの端くれとして活動の場を与えてもらっている私だが、音楽との距離感において、長いあいだ、ある種のコンプレックスを抱えていた。私に向けられる批判はいつも均質で、顔のないウェブ上の人びとは口をそろえて言ったものだった。「お前の音楽にはゲンバが足りない、もっとゲンバを知れ、知れ、知れ、ゲンバを」......しかし私は、音楽の受容スタイルに卑賤があるとはどうしても思えなかったし、仮に音楽が、私たちのうんざりするような人生を少しでも豊かにするために存在するのだとしたら、人生に幸福を感じた瞬間に、いっそ音楽と縁を切ってもいいとさえ思っていた。それを誰が責められる? ある意味でどんなに軽薄な思いであれ、人が音楽を求めることを寛容な態度でもってほぼ全肯定する磯部涼は、そんなわけで、個人的にだが、いつからかもっとも信頼を置くライターとなっていった。

病んだ町ではないものねだりさ
昨日から 今日から 明日追われながら
時の長さよりも瞬間 幸せ宿るそんな気が
soulも音楽も自由気まま 形取らないコトに素晴らしさが
奇麗事ばかりほざく日常に 嘘ばかりの世の中の流れに
取り付かれた自分 取り付かれた町 乗りつかれたぜ
町の影と光
SEEDA"Just Another Day"(2007)

 とはいえ、著者は私の「現場」を否定こそしないだろうが、私のナイーヴな作品評に関しては評価してくれないだろう。そう、本書において、著者が各所で書き散らしてきた従来型のディスク・レヴューは、居心地が悪そうな顔で、各章の終わりに窮屈そうに並んでいるのみである。「音楽を聴くということは、言葉を失うということである」、「言葉が浮かんでくるようでは、まだまだ、音楽を聴いたとは言えない」、このあたりの痛烈な序文・序章を何度も読み返していたために、私はなかなかその先を読むことができなかった。議論好きの著者は、ときに好戦的な態度を隠さない。が、その後の380ページは、読者を道連れにした、ゼロ年代後期をスリリングに駆け抜ける親密で情熱的なレヴュー(評論)であり、エッセー(随筆)であり、ダイアリー(日記)であり、インタヴュー(面会)であり、ルポルタージュ(報告)であり、かつ、そのどれでもない。それは、従来の音楽評論が敷いてきた滑走路からは大きく踏み外れている。『音楽が終わって、人生が始まる』は、いわば著者の人生そのものである。

 著者は、ポップ・カルチャーの社会的ポテンシャルにまで食い込む大きな問題意識を根底に抱えながら、しかし、巨視的な物言いを振りかざすよりは、パンク・ロッカーや、ハスリング・ラッパーや、ストリート・シンガーと同じ(少なくとも、限りなく"近い")視点で、街を、夜を、人びとの暮らしを、意識的に見つめてきたのだと思う。そして、音楽を前にしてすっかり失ってしまった言葉を埋め合わせるために、著者はミュージシャンの自宅に遠慮なく乗り込み、熱心に話し合い、ときに議論をふっかっけ、いくつかの客観的な事実を鋭い洞察でもって持ち帰り、そこに対する忌憚のない感想、自らの問題意識との整合、あるいは齟齬とを丁寧にマッシュ・アップしながら、その先に見える風景を、並々ならぬ愛情でもって活写している(当然、それはときとして批判的な指摘を含むものだ)。それはまるで、450グラムの重みを持つ本書を手にした読者に対して、自らの生き様をさらけ出すとともに、それぞれがそれぞれに見つけた「現場」への愛情を試しているようだ。

 もちろん、物語の解体を好むポスト・モダニティ・ライフを不可避に生きざるを得なかった著者にとって、そうした小さな現場から物語を拾い上げていく地道な作業は、ある種の痛みを伴ったに違いない。例えばそう、ゼロ年代の終わりに、マイケル・ジャクソンの死を象徴的に回想してしまうくらいには。しかし、だからこそ、著者の批評的な回り道は、いまやこの場所にたくましく結実している。〈RAW LIFE〉で砂まみれになった夢や希望、アンダークラスから吐き出される痛みの作文、街を鳴らす路上のうた。著者が目撃した音楽の産声、そのどれもが生々しい。いうなれば、何十年も昔に終わっているポップ・カルチャーの共同体幻想、もっと言えば、その社会的なポテンシャルが冷却・解体されていくなかで、例えば著者と同世代である鈴木謙介(35歳、社会学者)がかつて述べたような、「なぜ私たちは夢から醒めることができないでいる、あるいは醒めようとしないでいるのか」(『カーニヴァル化する社会』、2005)と相似した疑問を、「体力の限界まで踊って、理由の分からない涙を流して」、著者はある側面において解明したのだと思う。

まっぴらだ
できればおまえを 忘れていたい けれど
あきらめたくない
傷とともに 生きてゆくしかない
しかないなんて
踊り明かす 夜通し めちゃくちゃに
坂本慎太郎"傷とともに踊る"(2011)

 そして......音楽は終わらず、夢を引き裂くように現れた3月の、寒気がするような後ろ姿を視界にとらえつつも、私たちの人生はどうやら相変わらず続いている。そう、すべては通り過ぎていく。が、著者は、3.11以降におけるミュージシャンらの反応をレジュメする終章において、その日常の慣性に対して警告を発している。私たちはいまだ、音楽を捨てられずにいるが、ちょっとした行き違いで、それは手のなかからするりと抜け落ちてしまうのだと。そう、『音楽が終わって、人生が始まる』は、終わらない音楽の話だ。終わらない夢を、それでも見続ける人間の話だ。その先に開く未来も、きっとある。とはいえ、「いつまでこんな暮らしを続けていくのだろうか」、私もときどきそう思う。が、立ち止まるにはまだ早い。いつかの身が焦げるような恋を、もうすっかり忘れてしまったように、私たちの、音楽を強く欲する衝動のような想いも、もしかしたら少しずつ失われていくのかもしれないが、それでも、いつか音楽から解き放たれた場所で、音楽に振り回され、悩まされ、それでもわけの分からない涙を流した、こんな日々を、愛と笑いの、その意味を、きっと思い出すだろう。

 No Music, but Life goes on....

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159