「志人」と一致するもの

なのるなもない × YAMAAN - ele-king

 00年代に降神として頭角をあらわし、ソロでも活動をつづけているラッパー、なのるなもない。その新作は、かねてよりコラボを重ねてきたトラックメイカーのYAMAANとの共作アルバムに。アルバム単位でがっつり組むのは今回が初めてだという。題して『水月』、10月10日リリース。YAMAANによるニューエイジ~アンビエント・タッチのトラックのうえで、なのるなもないによる独特のことばが流れていく……いや、このマッチング、相性ばっちりなのではないでしょうか。ダンサブルな曲もアリ。CDは特殊パッケージで、モノとしてのよさも堪能できそうだ。ぜひチェックしてみて。

https://linkco.re/1cnUB1Tg

ラッパー・スポークンワーズアーティストのなのるなもないと、プロデューサー・トラックメイカーのYAMAANが共作アルバム『水月』を10月10日(火)にリリース。

ラッパー・スポークンワーズアーティストのなのるなもないと、プロデューサー・トラックメイカーのYAMAANが共作アルバム『水月』を10月10日(火)にリリースする。
なのるなもないは2002年頃から志人とのユニット「降神」として活動。日本語のヒップホップの言語表現の枠を大きく拡張してきた。ソロでは「melhentrips」「アカシャの唇」などの作品を発表し、日常の中にある小宇宙を詩的な感覚ですくいあげて、ラップやスポークンワーズという形で表現してきた。
YAMAANは降神や多彩なアーティストが在籍するクルーTemple ATSのメンバーとして活動を開始。アンビエントやヒップホップ、ハウスなどを行き来しながら活動し、’20年に『幻想区域EP』 を発表。’21年にはアンビエントとメンフィスラップにインスパイアされたCHIYORIとの共作「Mystic High」を発表した。
なのるなもないとYAMAANは2005年の”melhentrips” 収録の“shermanship” をはじめとして多くの楽曲を生み出してきたが、今回が初の共作アルバムとなる。タイトルの「水月」から想起されるように、しなやかで静的なムードも漂うトラックの上で、なのるなもないの小宇宙が展開する作品となった。
瑞々しいニューエイジアンビエント的なサウンドと真夏の白昼夢のようなリリックでアルバムの幕をあける『空よりも青く』や、躍動的なビートの上で生命や時間についての考察、死生観をも感じさせる詩が力強く歌われる『Beacon』。ディープハウストラックに官能的なリリックとスクラッチが心地よく刻まれる『優しくして』、不条理で暴力的な社会に対するリリックをトラップサウンドの上で綴った『Criminal Spirituals』など、なのるなもないとYAMAANの様々な側面が表現された8 曲入りのアルバムとなっている。
アルバム中の2曲にはTemple ATSのメンバーでもあり、数々のDJバトルでも実績を残してきた DJ SHUNがスクラッチで参加。楽曲の世界観に呼応した音楽的でスキルフルなスクラッチを演奏 してくれている。
アルバムのオリジナルアートワークは尾道在住の画家、白水麻耶子。深い緑の森や水辺のような不思議な心地良さを持った絵画が「水月」の世界観を押し広げている。
そしてオリジナルアートワークをもとにデザイナーTakara Ohashiがディレクションを担当。今回モノとしてリリースする面白さを大切にしたいという意向を汲み、箱庭型に組み立てが出来るジャケットを監修してくれた。
本作は自主レーベル「studio melhentrips」からの記念すべき第一作。フィジカルはCD、デジタルはBandcamp、ストリーミングにて発表となる。


なのるなもない x YAMAAN
"水月"

1. 空よりも青く
2. Beacon
3. Bloom Rain
4. 優しくして feat.DJ SHUN
5. モールスコード
6. Criminal Spirituals
7. VIBLE feat.DJ SHUN
8. 物語をはじめよう

レーベル : studio melhentrips
発売日 : 2023年10月10日(火)
フォーマット : CD
品番 : SMT-001
販売価格: 2,200円(税込)

daydreamnation - ele-king

 京都のレーベル〈iiirecordings〉が12月下旬にdaydreamnationによるアンビエント作品の7インチ「DAYDREAM_STEPPERS EP」をリリースする。7曲(1曲が1分〜1分半ぐらい)の、美しい無重力状態(ウェイトレス)を体験できるというわけだ。
 daydreamnationはハードコア・シーンで活動する.islea.のメンバーでもあるseiyaの別名義で、これまでにBushmind、DJ Highschool、StarburstによるBBHのアルバムや〈Seminishukei〉のコンピレーションへの参加をはじめ、福岡Genocide CannonのラッパーInnoとの共作『Funky Response』や、降神や志人のライヴ・トラックなども手掛けている。注目です。
 

.daydreamnation.
DAYDREAM_STEPPERS EP (7inch+DL)
7inchレコード/ダウンロードコード付
限定250枚プレス/ナンバリング入
¥1,540 (税込)
https://iiirecordings.com/main/

 ちなみに、BushmindまわりではChiyori×Yamaanによる『Mystic High』(もう売り切れだが、配信で聴けるし、CDは再プレス)もかなり面白い。真の意味でのヴェイパー、すなわち水パイプ的な陶酔とユーモアを求めている方には推薦したい。なお同作には、Bushmindの4/4ビートのハウス・ミックスも収録されている。

日本語ラップ最前線 - ele-king

 端的に、いま日本のヒップホップはどうなっているのか? ヴァイナルやカセットテープ、CDといったフィジカルな形態はもちろんのこと、配信での販売や YouTube のような動画共有サイトまで含めると、とてつもない数の音楽たちが日々リリースされつづけている。去る2019年は舐達麻や釈迦坊主、Tohji らの名をいろんな人の口から頻繁に聞かされたけれど、若手だけでなくヴェテランたちもまた精力的に活動を繰り広げている。さまざまなラップがあり、さまざまなビートがある。進化と細分化を重ねる現在の日本のヒップホップの状況について、吉田雅史と二木信のふたりに語りあってもらった。

王道なき時代

トラップやマンブル・ラップのグローバルな普及で、歌詞の意味内容の理解は別として、単純に音楽としてラップ楽曲を楽しむ流れに拍車がかかっている感がありますよね。(吉田)

いまヒップホップは海外でも日本でも、フィジカルでもストリーミングでも、次々と新しいものが出てきていますが、初心者はいったい何から聴いたらいいのでしょう?

二木:いきなりかなり難しい質問ですねぇ……、では、すこし長くなりますが、まず国内のヒップホップについて大掴みで大局的な話をしますね。例えば、PUNPEE が星野源の “さらしもの” に客演参加、さらにNHKの『おげんさんといっしょに』に出演して日本のポップスの “ど真ん中” に現代のラップとブレイクビーツを持ち込んだ。それは画期的というよりも、2人のキャラクターもありますが、ナチュラルに実現しているように見えるのが、いまの時代の日本のラップとポップの成熟を示す出来事だなと感じました。一方でストリート系の DOBERMAN INFINITY や AK-69 らも作品を発表して変わらず存在感を示している。Creepy Nuts は作品の発表と並行してラジオ・パーソナリティとしても大活躍で、お笑いやアイドルの世界と接点をもって独自の立ち位置を確立している。R‐指定は般若から引き継いで、『フリースタイルダンジョン』の二代目ラスボスにもなった。他方で、2019年は自分のまとまった作品は発表しませんでしたけど、全国各地をライヴで回りつづける沖縄・那覇の唾奇のようなラッパーがいる。唾奇は新しい世代のインディ・シーンの象徴的存在だと思います。テレビやラジオで目立たっていなくても、全国各地のライヴハウスやクラブでのステージで腕を磨いて着実にファンを増やしていますね。彼のライヴは本当に素晴らしいのでぜひ観てほしいです。
 視点をすこしうつせば、鎮座DOPENESS と環ROY が U-zhaan、そして坂本龍一と “エナジー風呂 (Energy Flo)” を発表しました。あの教授と、です。曲名から察することができるように、“energy flow” を U-zhaan がタブラでアレンジしたラップ・ミュージック。シンプルに良い曲ですし、日本のヒップホップ史という観点でみると、ラップしているのは細野晴臣ですが、1981年にこの国の初期のラップである “RAP PHENOMENA/ラップ現象” を発表したYMOの教授と後続の世代との共作でもある。RHYMESTER は岡村靖幸と「岡村靖幸さらにライムスター」として “マクガフィン” を共作した。RHYMESTER が岡村靖幸とコラボすることそのものが彼らの日本のファンクの先駆者へのリスペクトの表明としてうつる。それら2曲は、そういう “ヒップホップ史” のような視点で見ても興味深い。それでもこれらは氷山の一角ですね。サブスクの浸透も大きいですし、単純にリリース量も尋常ではない。仮に『フリースタイルダンジョン』放送開始(2015年9月)をひとつの起点とすると、そこからのここ約4年ちょっとは、日本のヒップホップ史においても急激な変化の時代として記憶されるはずです。いろんな出来事が同時多発的に起きている。そういった数多くのアーティストの注目に値する楽曲や現象や動向を念頭に置いた上で、僕と吉田さんが2019年を振り返り、2020年に突入したいま、国内のヒップホップ、ラップについて語るといったときに、何に着眼するかということになりますね。どうでしょうか?

星野源 “さらしもの (feat. PUNPEE)”

吉田:そこでひとつの着眼点として、やはりサウンド面が挙げられると思うんですよね。ちょっとこれも長くなりそうですが(笑)、2019年の日本のヒップホップもUSと同様にざっくり、ブーム・バップ的なものとトラップ的なものの違いがまずは目に入ってきますよね。見立てとしては、前者については90年代からどうやって日本語で韻を踏むかという格闘の歴史があって、いまもその延長線上に括弧付きの「日本語ラップの歴史」的なものが続いていると。そのフィールドにトラップ的なものが新たに加わってきたとする。2019年の日本語のトラップ的な表現においては、もはやかつてのように日本語がフィットするのかしないのか、というような議論が出てくる段階にはないですよね。これはひとつには今日ラップ・ミュージックがいかにグローバルな言語となっているかということを示しているし、トラップの BPM70 にオンビートで言葉を置いていくスタイルが日本語ともいかに相性が良いかということも示していると思います。例えば LEX の『!!!』にしても、OZworld の『OZWOLRD』にしても、英語にちゃんぽんされている日本語含め、海外の人が聞いても、この曲って英語も聞こえてくるけど別の言語も少し入ってるよね、くらいの感覚で聞けるというか。トラップやマンブル・ラップのグローバルな普及で、歌詞の意味内容の理解は別として、単純に音楽としてラップ楽曲を楽しむ流れに拍車がかかっている感がありますよね。そもそも日本は90年代以前から必ずしも英語リリックの意味を理解することなしにUSヒップホップを楽しんできたという意味でも、ヒップホップ/ラップ・ミュージック先進国と言えると思いますが。

二木:ビートに関してはどうですか?

吉田:ビート面で言えば、先ほど挙げた LEX や OZworld がUSメインストリーム的な音で勝負する一方、トラップと一概にいっても、サウンドには相当の多様性があるわけですよね。USメインストリームのビートといったときに思い出すのが、2000年前後のティンバランドやネプチューンズの当時日本では「チキチキ」と呼ばれることもあったサウスのサウンド。それらがチャートを席巻したとき違和感を覚えた人たちがいた理由のひとつは、そのビートが非常にキャッチーで商業的な楽曲やアーティストと結びついていた点だと思うんです。当時のそういった新しいビートのモードを伴う商業化への反発を最近のトラップへの違和感と重ねる見方があるのはすごく理解できる。でもトラップというプラットフォームが面白いのは、かつてのホラーコアをルーツとするようなフロリダ勢のダークで激しく歪んだ表現や、トラップコアやトラップメタルと呼ばれるエクストリームなサウンドも同時に生み出していることです。例えば Tohji 『Angel』では MURASAKI BEATZ がアルバムのゴシックなムードと違わずダークで叙情的かつ歪んだビートをぶつけているし、Jin Dogg の『MAD JAKE』ではキラーチューン “黙(SHUT UP)” に象徴的なようにタイプビートを活用しながらトラップコアを展開しているし、MonyHorse の『TBOA Journey』の3chのビートも、メロウ寄りもダーク寄りもシンプルながら耳に残る異形のループを追求しているように聞こえる。

Jin Dogg “黙(SHUT UP)”

商業化への反発を最近のトラップへの違和感と重ねる見方があるのはすごく理解できる。でもトラップというプラットフォームが面白いのは、ダークで激しく歪んだ表現やエクストリームなサウンドも同時に生み出していることです。(吉田)

二木:MonyHorse といえば、MONYPETZJNKMN の “Gimme Da Dope” はやたら気持ち良い曲でした。これぞ快楽至上主義といった感じです。

吉田:一方でトラップ的なもの以外ではどうだったかというと、全編ビートを担当する Illmore がブーム・バップを再解釈する Buppon の『I’ll』、シングルですけど相変わらずぶっ飛んだ Ramza と Campanella の “Douglas fir”、全編アトモスフェリックなテクノ・サウンドの Hiyadam の『Antwerp Juggle』、田我流の『Ride On Time』も自身のビート・メイキングが満を持してすごく面白いところに到達したし、かと思えば釈迦坊主の『HEISEI』もそれこそカテゴライズを拒絶するようなサウンドで、少し前ならエレクトロニカと呼ばれたかもしれない。そういう状況だから MEGA-G のブーム・バップが超目立つわけですよね。そこには英語を内面化するトラップとは違って、これまでの日本語におけるライミングの格闘の蓄積をベースにさらにそれを突き詰めようとする、いわば良い意味でガラパゴス的な日本語ラップが追求してきた日本語のライムが乗る。例えば THA BLUE HERB、ZORN、田我流、舐達麻らが、それぞれブーム・バップを基軸にしたビートで、それぞれの日本語表現を追求する作品をリリースした。こうやってみると、王道と言われるようなサウンドは存在しないといっても過言じゃない。というか、日本のヒップホップが王道なき時代に突入していることを確認させられた2019年ですよね。

Campanella “Douglas fir (Prod by Ramza)”

二木:王道なき時代だからこそ、Campanella と Ramza の曲とかはもっと騒がれてほしい。2019年のこの国で、あえて言えば、菊地成孔の言う “ヒップホップはジャズの孫” をもっとも先鋭的に提示した曲のひとつではないでしょうか。ちなみにこの曲のMVを撮っている土屋貴史は、先日公開され話題となっている SEEDA の伝記映画『花と雨』を撮った監督でもあります。ところで、吉田さんがおっしゃった “ガラパゴス的な日本語ラップ” の追求で忘れてならないのは、Creepy Nuts ですよね。R‐指定がライターの高木 “JET” 晋一郎を聞き手にして日本語ラップについて語りまくった『Rの異常な愛情──或る男の日本語ラップについての妄想──』(白夜書房)がとても面白い。この本の Mummy‐D との対談を読むと、R‐指定の “日本人のヒップホップ” へのこだわりが内包するアンビヴァレントな感情が彼のラップのアプローチや方法論に直結しているのがわかる。『よふかしのうた』収録の表題曲は、「オードリーのオールナイトニッポン10周年全国ツアー」のテーマソングということもあると思いますが、フックのメロディには “ラップ歌謡” 的な側面がある。一方 “生業” ではトラップでセルフ・ボースティングを展開するわけですが、吉田さんの言葉を借りれば、これぞ “日本語におけるライミングの格闘の蓄積” の賜物。2019年時点でその最高峰のひとつと言って間違いないと思います。彼の、まさに異常ともいえる日本語ラップの知識量を考えれば、いろんな引用やオマージュが散りばめられていると推測できますが、ひとつ、イントロの「アカペラでも聴けるラップだぜ」というリリックは Maccho の「アカペラで聴けねえラップじゃねえぜ」(“24 Bars To Kill”)のオマージュだと思われます。
 そして、“日本人のヒップホップ” という課題にたいして、R‐指定とはまた異なる角度からアプローチをしていたのが、2018年2月に惜しくもこの世を去った FEBB ではないでしょうか。去年、GRADIS NICE & YOUNG MAS (FEBB)名義の『SUPREME SEASON 1.5』が出ています。この作品は、『L.O.C -Talkin' About Money-』(2017)に連なる作品です。『L.O.C』に収録された “THE FIRST” で FEBB は日本語を英語の発音に近づけたり、英語を日本語の発音に近づけるようにするのではなく、ふたつの言語を同居させて、おのおのの発音の特性を素直に活かして明瞭にフロウしている。言い換えると、ガラパゴス的な日本語ラップと英語を内面化したラップを1曲のなかで共存させている。彼がこの曲で歌う「引けを取らない日本人のヒップホップ」を体現したクラシックだと思います。

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ブーム・バップとトラップ

いまでもブーム・バップとトラップはどこかで対立するものとして語られたり、捉えられがちだけど、そういう二元論で思考していると聴き逃してしまうものがあまりに多くてもったいない。(二木)

吉田:USでは、ミーゴスやフューチャーのマンブル的な楽曲に加えて、毎年新人の注目ラッパーを紹介する XXL のフレッシュマンのサイファーの2016年版に、21サヴェージ、コダック・ブラック、リル・ウーズィ・バートらが登場してそのスキルが疑問視されたりした。5人もいてまともなのはデンゼル・カリーしかいないじゃないか!って(笑)。それでどうしても「マンブル・ラップ対インテリジェント・ラップ」のような図式が生まれて、ベテランのスキルフルなラッパーがマンブルを否定するというような対立構造になっていますよね。日本でも、両者が完全に異質なもの、相容れないもののように見えている感がある。でも、USでも、そもそもクリエイティヴな表現を追求しているアーティストは、いろんなスタイルでラップしたいと思っているはずですよね。エミネムの『Kamikaze』(2018)のように、トラップという文法に対して自分ならどうアンサーするかっていうのかっていうのがモチベーションになる。例えばケンドリックもリッチ・ザ・キッドとの “New Freezer” (2018)で俺だったらこう乗りこなすぜって感じの圧巻のフロウを披露しているし、フレディ・ギブスなんかも『Shadow of a Doubt』(2015)の頃から一枚のアルバムのなかにマーダ・ビーツとの曲もありつつ、ボブ・ジェームスネタのブーンバップでブラック・ソートと一緒にラップしちゃう(笑)。J・コールにしても、あからさまなトラップらしいビートはなくても、BPMがトラップ並みに遅い曲を挿入してブーム・バップ曲とのメリハリをつけている。BPM 90や100のブーム・バップでフロウするのと、60や70のトラップビートで三連符や32分音符でやるのはルールの違うゲームみたいなものだから、アーティストとしては自分でも試したくなるだろうと。

二木:そのようなルールの違いを認識していたからこそ、GRADIS NICE は “THE FIRST” について「トラップについていけない人たちのためだったりもする」とCDジャーナルの小野田雄のインタヴューで発言したのだと思います。FEBB とも共有されていたその目的意識のもとに作られたのが、『L.O.C』、そして『SUPREME SEASON 1.5』だったと考えられます。つまり、ブーム・バップとトラップというある種の “分断” をこえる、あるいはビートにしてもラップにしても両者の良さを融合してオリジナルのヒップホップを作る、そういった明確な目的のもとに作られているのではないか。後者では “THE FIRST” とは異なり、たとえば “skinny” という曲では日本語と英語の切り替えを短い尺のなかでより頻繁にくり返して、ガラパゴス的な日本語ラップと英語を内面化したラップを融合させようとするような高度なフロウを披露してもいる。そのように FEBB はとても短い期間のなかでいろんな試みを凄まじいスピードでやっていた。この連作からは、FEBB と GRADIS NICE の高い志が強く感じ取れます。

吉田:ブルックリンのアンダーアチーヴァーズやフラットブッシュ・ゾンビーズなんかも、特に初期の音源はトラップと同様の遅いBPMでブーム・バップを再解釈して、マンブル・ラップではないスキルを見せることがひとつの特徴になっている。プロ・エラとも組んでいる彼らは、ブーム・バップ・ルネッサンスを単に原点回帰だけではなくて、トラップとのハイブリッドという方法論で表現しようとしているところがあると思います。だから、FEBB が志向していたことと、共通する部分もあるんじゃないですかね。

二木:たしかに。僕もそう思います。たとえば、それこそプロ・エラのジョーイ・バッドアスも参加したスモーク・DZAの『Not for Sale』(2018)というアルバムもそういう文脈で聴くとより楽しめる作品ですね。また、さきほど名前が出た MEGA-G は素晴らしいソロ・アルバム『Re:BOOT』収録の “808 is coming” で彼なりのユニークなトラップ解釈を披露している。ビートは I-DeA です。タイトルが暗示していますが、オールドスクール・ヒップホップとトラップを直結させる試みですね。ぜひ聴いてほしいです。だから、これは自戒も込めて語りますが、いまでもブーム・バップとトラップはどこかで対立するものとして語られたり、捉えられがちだけど、そういう二元論で思考していると聴き逃してしまうものがあまりに多くてもったいない。さらに、それによって世代間対立みたいなものまで不必要に煽られてしまうのはネガティヴですよね。そういう定着してしまったジャンル分けや言語を使うことで耳の自由が奪われるときがある。そういう分節化はとても便利だし、もちろんこの対談でもそういう分節化に頼って語らざるを得ない側面はあります。ただ、ときにそれによって失うものがあったり、分断させられてしまう現実の関係があるというのは常に注意しておきたいなと。

吉田:日本でもそういう表面的な二元論とは別に、現場では様々な面でクロスオーヴァーが見られるのかなと。たとえば Red Bull の「RASEN」のフリースタイル。1回目は LEX、SANTAWORLDVIEW、荘子it (Dos Monos)、 Taeyoung Boy で、2回目は Daichi Yamamoto、釈迦坊主、dodo、Tohji。両方とも素晴らしいクオリティとセッションの緊張感で無限に繰り返し見ていられるんですが(笑)、この中だと荘子it や Daichi Yamamoto、dodo が日本語ラップ的なフロウをしているように聞こえる。確かに荘子it はエイサップ・ロッキーではなくて元〈デフ・ジャックス〉のエイサップ・ロックが好きだそうで、彼のインテレクチュアルなスタイルに照らすと頷けるけれど、SANTA はいわゆるトラップよりもフラットブッシュ・ゾンビーズとか、スキー・マスク・ザ・スランプ・ゴッド、レイダー・クランへのシンパシーを口にしていたり、釈迦坊主は志人から影響を受けたそうなんです。彼らのようにオリジナリティが際立っているアーティストたちは、一見全然別のことをやっているように見えるけど、結局はそんな風にエッジィな表現に惹かれていて、互いにコネクトするんだなと。だから、分断して考えたくなるのは外側だけなんだと改めて感じました。こういう風なメディアでの語りにしても、ある程度ジャンル分けしないと整理できないし、大きな潮流も取り出せないけれど、自分の好みはどのジャンルなのか線を引きやすくなってしまう弊害もありますね。あるサブジャンルを代表するいくつかのアーティストが肌に合わなかったときに、そのサブジャンル全体を否定的に見てしまうことのもったいなさがある。

LEX/ SANTAWORLDVIEW/ 荘子it/ Taeyoung Boy – RASEN

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ラップ~ビート~音響、それぞれの変質

マンブル・ラップの多様性もそうですし、そうやって自分のスタイルやイメージを規定せず、自分のなかに多様なスタイルを持つのもいまのラッパーのあり方だと思うんです。(二木)

二木:今年の1月に入ってから SANTAWORLDVIEW が出した『Sinterklass』も良かったですね。YamieZimmer のビートのヴァリエーションも面白かった。

吉田:それから SANTA や Leon、あと Moment Joon も “ImmiGang” で披露しているトラップビート上の32分音符基調の早口フロウにしても、Miyachi の『Wakarimasen』収録の “Anoyo” や JP The Wavy らが乗りこなす三連フロウにしても、近年のトラップとの格闘を通じて再発見された、日本語のラップ表現にとって大きな財産だと思います。オンビートの早口は子音と母音がセットになるいわゆる開音節言語の日本語とすごく親和性が高いし、Leon はサウンド重視と自分でも言っているけど、例えば『Chimaira』収録の “Unstoppable” なんかは早口であっても非常にメッセージが伝わってくる楽曲になっている。これは90年代の終わりにチキチキビートが世を席巻したときに、日本語でどうやって倍速の譜割でラップを乗せるか格闘した時期にもダブるものがありますね。

二木:わかります。TwiGy が『FORWARD ON TO HIP HOP SEVEN DIMENSIONS』(2000)というアルバムでいち早くサウス・ヒップホップにアプローチしたのとも被りますね。“七日間”、“GO! NIPPON”、“BIG PARTY”、“もういいかい2000”、特にこの4曲は TwiGy の先駆性を如実に示している。彼は日本のトラップ・ラッパーのパイオニアですね。スリー・6・マフィアなどのサウスのラップだけではなく、倍速/早口ラップの参考にしたのは、『リズム+フロー』にも登場していたシカゴのトゥイスタやUKのダンスホールのディージェー、ダディ・フレディだったという主旨の話も ele-king のインタヴューでしてくれました。もうひとつ、Leon Fanourakis の『Chimaria』から、自分のような世代の人間が個人的に連想するのは、DABO の『PLATINUM TONGUE』(2001年)でした。それは Leon が DABO を意識しているとかそういう意味ではなくて、セルフ・ボースティングの手数の多さで猪突猛進するスタイルという点において、ですね。DABO の “レクサスグッチ” を久々に聴きましたけど、この曲が20年前に切り拓いたものってでかいなとあらためて痛感しました。

吉田:当時 DABO のバウンスビートへのアプローチは早かったし、地声ベースの低音ヴォイス中心のアプローチも共通するところはありますよね。

二木:SANTAWORLDVIEW、Leon とともに、YamieZimmer がプロデュースを手掛ける Bank.Somsaart も素晴らしいラッパーですよね。さっき GRADIS NICE & YOUNG MAS “THE FIRST” について日本語と英語の発音のそれぞれの特性を活かして同居させていると話しましたけど、『Who ride wit us』の Bank はむしろ日本語と英語それぞれの発音やアクセントの境界線を消滅させて、ウィスパー・ヴォイスで呪文のようなフロウをくり出していく。さらに彼のルーツのひとつであるタイ語も含まれるということなのですが、正直に告白すれば、タイ語の部分がどこなのかまだ自信をもって聴き取れていない側面もあります。ただ、こんなにささやくようにラップしてリズミカルなのがすごいな、と。

吉田:Bank もまさにそういう境界を曖昧にするスタイルですよね。彼のラップがマンブル的かどうかという問題は別としても、マンブル・ラップの解釈もすごく多様になってきている。「日本語」ラップといっても、例えばブッダ・ブランドの頃から英語をミックスするラッパーたちは、もともとマンブル性というか、何を言っているかわからないところがあった。バイリンガル・ラップの系譜に Bank のようなラッパーもいるとして、日本語を徹底的に崩すという点では、釈迦坊主もそうですよね。最初は脱構築された日本語の発音に阻まれて、全然言っていることが分からないんだけど、歌詞を見ると間違いなく日本語だし、意味が途端に入ってくるという。かつて LOW HIGH WHO? 時代の Jinmenusagi や Kuroyagi がやっていたことにも近くて、曖昧母音を多用したり、あるいは開音節から母音を引いて閉音節にしてしまったりと、子音や母音のレヴェルで発音を英語的なものに近づけているわけですよね。5lack や冒頭で触れた LEX もそのような系譜にあると思います。でも釈迦坊主がとてもユニークなのは、日本語のアクセントや子音母音の仕組みを壊しているけど、だからといって個々の語の発音自体を英語に近づけているわけではないところです。日本語には聞こえないけど英語に空耳するわけではないという、まるで架空の言語を創造しているような。Tohji が “Hi-Chew” で聞かせるようなマンブル的発語なんかとも合わせて、これまでの日本語と英語の対立軸を超えているし、それは釈迦坊主が時々見せるインドへの目配りやエスニックなサウンドやスケールの導入ともリンクしている。最新EP「Nagomi」でも独特のメロディセンスが突き抜けてるのは勿論、ラップの声が持つパーカッシヴな側面をそれこそミーゴス並みに引き出してると思います。

釈迦坊主「NAGOMI」

二木:僕は釈迦坊主の「NAGOMI」のなかで、UKブレイクス×ラップ・シンギン×ニューエイジと言いたくなるような “Alpha” がとても好きでした。でも全曲良いですよね。ここですこし補足しますね。マンブル・ラップをざっくり定義すれば、歌詞の意味よりもリズムやノリを重視するラップとなります。それゆえに、マンブル・ラップは一部では否定的な意味合いを込めて使われる。これは FNMNL の記事で知りましたが、チーフ・キーフが自分がマンブルを発明したと主張する一方、ブラック・ソートのようなベテランまで自分が元祖だと主張したりもしているという。ただここで僕と吉田さんはマンブルだから良いとか悪いとかそういう価値判断をしたいわけじゃない、そういうことですよね。Bank が去年の11月にサンクラにアップした “you're not alone” という曲はこれまでとガラリとスタイルが異なり、前向きなメッセージを日本語の発音を明瞭にすることで伝えようとしていた。マンブル・ラップの多様性もそうですし、そうやって自分のスタイルやイメージを規定せず、自分のなかに多様なスタイルを持つのもいまのラッパーのあり方だと思うんです。

吉田:じゃあそういうマンブル的な状況でラッパーがどう表現していくかというと、やっぱりフレージングが重要になりますよね。先ほどの「RASEN」のサイファーでいえば Tohji や LEX が顕著ですが、フリースタイルでいかに2小節や4小節の印象的なフレーズを次々と繰り出すかということを競っている。従来のフリースタイルは2小節ごとに踏む韻を変えながらひとつの物語を作っていった。でもいまは2小節ごとに異なったリズムやメロディのフレーズを切り替えて、それでいかに耳をひけるかを追求する。韻ではなくてフレーズが牽引するという。USのトラップ以降のラップ・ミュージックは、いかにこのフックでリスナーを掴めるかの戦いですよね。かつてのヒップホップ・ソウルの時代はフィーチャーしたR&Bシンガーがコーラスを歌ったけど、ドレイク以降はラッパーが自分で歌う。より音楽的になったとも言えるし、メロディだけじゃなくてリズムの解像度も高くて、トラップのような隙間の多いビートを彩る新しい解釈が求められる。

従来のフリースタイルは2小節ごとに踏む韻を変えながらひとつの物語を作っていった。でもいまは2小節ごとに異なったリズムやメロディのフレーズを切り替えて、それでいかに耳をひけるかを追求する。韻ではなくてフレーズが牽引する。(吉田)

二木:“USのトラップ以降のラップ・ミュージック” というラインが出ましたが、Leon、SANTAWORLDVIEW、Bank.Somsaart、そして YamieZimmer にふたたび話を戻すと、彼らは FNMNL の磯部涼のインタヴューで特に YamieZimmer がサウス・フロリダのヒップホップを熱心に聴いていると語っていましたね。ただ、その発言ももう2年前ぐらいのことですから、そのあいだに本人たちのなかにもいろんな変化があったとも推測できます。それはそれとして、僕が最初に彼らの音楽に惹かれたのは、ダーティ・サウスのファンクネスを継承する音楽に通じるものを感じたからなんです。彼らの音楽を聴いて2000年前後の TwiGy や DABO を連想したのもそういうことかもしれない。ちなみに、スモークパープが昨年出した『Dead Star 2』というアルバムに入っていたデンゼル・カリーとの “What I Please” のMVが今年に入って公開されましたね。

吉田:スモークパープがようやくアングラから浮上してまるで新人のように扱われていることに複雑な思いもありつつ(笑)、フロリダはアトランタと比較しても洗練されていなくて、歪んでいて、ときに不穏で、ときにユーモラスという、ダーティ・サウスになぜ「ダーティ」という形容詞がついていたかを体現しているようなサウンドですよね。スキー・マスクやデンゼル・カリーは、トラップコア的な冷たい暴力性や、ウィアードな音を多用するところに作家性を感じます。Leon のアルバムはロニー・J 的というか、BPMもトラップ以降の遅さで統一されてるけど、一方で Bank のアルバムはドレやマスタードのファンクをもっとダーティでロウなサウンドで更新するようなBPM速めのビートも多くて、YamieZimmer の懐の深さを感じますよね。

二木:実際に、Leon の『Chimaria』に収録された “Keep That Vibe” はサウス・フロリダのベース・サンタナのビートです。ここから語るのは多少強引な極私的解釈ですが、スヌープ・ドッグとファレルの大名曲 “Drop It Like It's Hot” をサンプリングしたスキー・マスクの『STOKELEY』(2018)収録の “Foot Fungus” は、少ない音数と音色でファンクを捻り出すいわば “ミニマル・ファンク” です。そして、そういうファンクの源流にはスライ&ザ・ファミリー・ストーン『暴動』(1971)があるのではないかと。YamieZimmer が作り出すファンクの律動とグルーヴはその最先端を行っているのではないか。そんなことを考えたりしました。ちなみに彼は Bank の “Who ride wit us” という曲では、80年代後半のマーリー・マールを彷彿させる原始的なブレイクビーツ、それこそブーム・バップと言ってもいいようなビートを作っています。そういう柔軟性も YamieZimmer の魅力だと思います。彼が前述したインタヴューで Budamunk について言及していたのがまた印象的でした。「今の日本語ラップは全く聴かない」と前置きした上で、Budamunk のビートを称賛している。そういう日本のヒップホップの聴き方もある。例えば、Budamunk が90年代、00年代のヒップホップやR&Bのインストをミックスする『Training Wax』というミックス・シリーズが昨年2枚出ましたよね。

吉田:あれめっちゃいいよね! 完全に音響の世界に行ってて、元のハイファイ寄りの音源をいかにかっこよくローファイに汚せるかということをやっている。「あの曲がこういうふうに聞こえるのか!」という驚きがある。

二木:まさにそう! 吉田さんがあのミックスを聴いているのが、めちゃうれしいですし、信頼できます(笑)。フィジカルでこっそり流通していただけですもんね。あまりにもあの音響が衝撃的で、Budamunk 本人に「あの音響はいったい何なんですか?」って訊いたんですよ。これは、僕の記憶が間違っていたら謝るしかないんですけど、「EQをいじっているだけですよ」って答えてくれたと記憶しています。EQいじるだけでこんなにも独創的な作品を作れるのかとさらに驚いた。

吉田:当時多かった「ヒップホップ・ソウル」とも呼ばれていたような、ヒップホップマナーのサンプリングループでビートが作られたR&B曲を、単にDJミキサーのEQでモコモコにフィルタリングするだけで彼の色にしてしまうという。ヒップホップ的な価値転倒が全編で表現されていて最高です。

二木:そう。ヒップホップ・ソウル色が強かった『Training Wax VOL.1』も素晴らしかった。たとえば、セオ・パリッシュのDJが好きな人にはぜひ聴いてもらいたいし、絶対気に入ると思う。それと、これは、僕のいささかロマンチックな歴史認識のバイアス込みで語りますが、『Training Wax』は Budamunk のオリジナルのビートではないものの、DJ KRUSH の『Strictly Turntablized』のリリースから25年つまり四半世紀のときを経た2019年のビート・ミュージックのひとつの成果を示している、それぐらい重要な作品だと感じています。

吉田:Budamunk は基本サンプルを使うんだけど、ミニマルで音数が少ないから、空間が多くて、リズムと同じく一音一音のテクスチャーというか、音質にも凄く耳がいきますよね。2019年は仙人掌の『Boy Meets World』の傑作リミックス盤が出たけど、そのなかの “Show Off” の Budamunk リミックスは音響的にかなりこだわっていて、中央で鳴るサブベースにリヴァーブの効いたコードのスタブに、ざらついたスネアが少し右のほうで鳴っている。このスネアは中央で鳴るハットと位相がズレていて、さらにそのスネアの残響音は左の方から聞こえるという確信犯的な立体感。終盤ではさきほど話した得意のEQフィルタリングも聞こえてきます。ミニマル・テクノやアンビエントを聴く耳で、細かい音の肌理やテクスチャーを追うと全然違う楽しみ方ができると思います。ひとつひとつの音の追い込み方と、その結果生まれている快楽がずば抜けている。

仙人掌 “Show Off - Budamunk Remix”

日本という地域のローカルな言語で表現されるラップ。その2019年の代表格である舐達麻が、グローバルに耳を刺激するビートメイカーと組む。こういうことがいま起きている。(二木)

二木:『Boy Meets World』のリミックス盤の制作の相談役が Budamunk でしたからね。彼はLA、ニューヨーク、中国のヘッズにも知られていると聞きます。SoundCloud や Bandcamp を通したビート・ミュージックの世界的なネットワークのなかにいる、日本のビートメイカーの先駆的存在じゃないでしょうか。

吉田:Bugseed にしても GREEN ASSASSIN DOLLAR (以下、GAD)にしても海外のオーディエンスがたくさんついてますよね。Bugseed は『Bohemian Beatnik』の衝撃からもう10年なのか……ウィズ・カリファにビートを使われた事件で脚光を浴びたりしましたが、SoundCloud でワールドワイドに認知度を上げて Bandcamp で作品を販売する日本のビートメイカーの先駆けとなった感がありますよね。

二木:いま GAD の名前も出ましたが、彼が2019年に大躍進した埼玉・熊谷のグループ、舐達麻の作品における主要ビートメイカーである事実は忘れてはならないですよね。彼はドイツのレーベルから作品を発表していますね。対談の冒頭で吉田さんから、ガラパゴス的な日本語ラップという言葉が出ました。つまり日本という地域のローカルな言語で表現されるラップということですね。その2019年の代表格である舐達麻が、グローバルに耳を刺激するビートメイカーと組む。こういうことがいま起きている。この話の流れで付け加えておくと、冒頭で触れた星野源が PUNPEE を客演にむかえた “さらしもの” のトラックを作ったのは、チャンス・ザ・ラッパー “Juke Jam” (『Coloring Book』収録)のビートを手掛けたり、『ブラック・パンサー』のサントラに収録された “I AM” という曲にもクレジットされているドイツ人のプロデューサー、ラスカルでした。ということで、次は舐達麻の話からはじめましょうか。

(後編へ続く)

BLACK SMOKER × Goethe-Institut Tokyo - ele-king

 今年は2019年。つまり、ベルリンの壁崩壊から30周年である。これを機に〈BLACK SMOKER〉が動いた。オペラだ。KILLER-BONGを筆頭に、ものすごい面子が集まっている。ソノカベハ、ナンノタメニアル? 何が起こるのか予測不能。11月中旬、ゲーテ・インスティトゥートにて。詳細は下記を。

DJ KRUSH - ele-king

 『軌跡』というアルバムに対峙して考えさせられたこと。それは、DJ KRUSHの音楽がダンス・ミュージックではない可能性、より正確に言うなら、ダンス・ミュージックでない可能性に潜んでいる、もっと別の可能性についてだった。

 iOS用の「hibiku」というアプリがある。文字通り、現実の音に「響き」を加えるアプリで、仕組みはシンプルだ。イヤフォンを装着してこのアプリを立ち上げると、イヤフォン付属のマイクを通した現実の身の回りの環境音に、残響音が付加されてイヤフォンに帰ってくる。この残響音により、ユーザは大聖堂や、洞窟にいるかのような聴覚体験をする。例えば電車の中でこのアプリを立ち上げれば、走行音や周囲の話し声、車内アナウンスなどが、全て遥か遠くから響いてくる。いわば、残響音が加えられることで自身が映画の登場人物になったかのように演出され、世界の捉え方が完全に一変する。異化効果を司るアプリ。

 そして、KRUSHのビートも、まさにこのような効果を齎すところがある。イヤフォンで彼のビートを聞きながら街を闊歩するとき、MCたちが描こうとする風景に、異化効果を齎すのだ。そしてこのような世界の眺め方は、何もMCたちに限定されるわけではない。リスナーたちが漫然と眺める風景にも、同様に適用される。

 だから冒頭の問いに戻るならば、DJ KRUSHのビートは、ダンスのためというよりも、街を彷徨い歩く、つまり彷徨のためのサウンド・トラックとでも言うべき側面を持ち合わせているのではないか。

 というのが「ダンス・ミュージックではない可能性」についてのスケッチなのだが、少し結論を急ぎ過ぎたかもしれない。まずは改めて、このアルバムを再生してみよう。

 冒頭、その煙の中から立ち上がるようなアブストラクトなSE。続いてディレイに彩られた「2017」「DJ KRUSH」というコールが、このアルバムの立ち位置を表明する。重いキックがウーファーを揺らし、スピーカーは自分の本来の役割を思い出したようにリスナーの腹へ低音を届ける。このイントロがわずか43秒間しかないこと、そしてインスト曲が中盤の「夢境」のみであるのは、今回のラップ・アルバムとしてのコンセプト通り「ラップの言葉」に語らせようという明確な意志が感じられる。

 イントロに導かれたラップ曲のオープナーは、OMSBによる“ロムロムの滝”。琴を思わせる弦楽器的な音色によるフレーズのループがくぐもった呟きを洩らす。小節単位でカウントされるループ。1、2、3、4、、、そして満を持して200Hz中心に叩きつけられる重心が低く粒子の粗いスネア。そして3拍目の3連のタメが効いているブーミンでファットなキック。キック、スネア、ハットと一緒に録音されている空気感(=アンビエントなホワイトノイズ)もロービットで汚され、コンプでブーストされ、そのざらついた存在感を主張している。

 ビート・ミュージックのリスナーたちは、たった1発のスネア、キックに身を捧げるため、スピーカーの前に集結する。曲の開始と共に、イントロでリスナーは焦らされる。そして自分が焦らされていることも分かっている。やがて満を持して叩きつけられる、1音のスネア、あるいは1音のキックがもたらすカタルシスを、息を止めて待ち焦がれる。それは、ビート・ミュージックの持つ最も幸福な瞬間のひとつだ。そんな瞬間のために、DJ KRUSHは最高のスネアとキックの一撃を追求してきた。彼はビートによって、動物の本能がつかさどる領域に踏み込み、欲望を露わにし、さらなる衝動を突き動かす。彼が長年キックとスネアとの対話を通して探究してきたのは、ある問いの答えだ。人は、なぜビート・ミュージックを、求めるのか。

 DJ KRUSHのようなビートメイカーと共演するということは、ビートの側から自己を見つめ直すことに等しい経験だ。自身のスキルの限界はどこか。太いビートに埋没しないフロウをどのように発揮するのか。その曲がワンアンドオンリーのクラシックとして残るようなリリックとは、等々。そのような試行錯誤を経て、彼のキックとスネアに対し、ときに正面からぶつかり合い、ときにその間を縫うように流れていく8つのヴォイスたち。OMSBがまき散らすのは、ビートを棍棒で叩くような即物的なフロウと、ビートの太さに挑み掛かる強靭なヴォイス。チプルソは“バック to ザ フューチャー”において、ビートボックスを拡大解釈し、打楽器と金管楽器双方を兼ねる楽器としてのヴォイスを駆使する。そのスキャット的なフロウは、子音でスタッカートを乱打し、母音を引き伸ばして音階を上下する。5lackは粘つくモタりをクールな表情で処理し、これまでのKRUSHのラップ曲史上類をみない粘度の高い“誰も知らない”グルーヴを生み出している。そして、かつて重力を無視して遥か上空から東京の街を見下ろすように言葉を泳がせたRINO LATINA II(“東京地下道”)は、地に足を着けた今もなお揚力を失わないフロウで、20年以上前の記憶の軌跡を“Dust Stream”で辿る。

 一方、リリック面はどうか。R-指定によるメタ視点が効いたリリックで、これまで散々語られてきたMCのステイト・オブ・マインドについて、“若輩”の視点から新たなページを加える。そして前半のラストを飾る“裕福ナ國”では、アルバム随一の抒情的な旋律を感じされるビートの上、Meisoの絶妙な角度から社会の陰部にメスを入れる視線がここでも健在だ。MCとしての自意識よりも、監視社会の構成員の一員として世界を俯瞰する視座から、2017年現在のディストピア的な日本に生きる肌感を伝える。一方、呂布カルマの“MONOLITH”を貫通するのは、MCバトルで鍛え上げられたメタファーとユーモアに彩られたバトルライムだ。ボディブローのようにじわじわと効いてくる、無自覚な同業者たちへの痛烈な警鐘。それが、KRUSHも一目置く独特な抑えられたトーンでデリヴァーされるのだが、ビートの前景と後景の間に貼り付くような良い意味で籠り気味の声質は、逆にリスナーにリリックの一言一句に聞き耳を立てさせる効果をもたらしている。

 そしてこれらのフロウとリリックの双方を綜合するかのように、10曲目に鎮座する志人の“結 –YUI–”。志人はここでも彼にしか示せない世界との関わり方を提示している。そのフロウもリリックも、古典芸能からの連続性のうちに捉えられるような「和」の表現を展開しており、特に同曲の後半においては、自然に満ち溢れたほとんど人外境を舞台にする様は白眉だ。これは従来のヒップホップにおいては支配的なステレオタイプである、「アメリカ産」「都会の音楽」といった属性とは見事に真逆だ。にもかかわらず、彼の表現はヒップホップ的にも「ドープ」としか言いようのないものとなっている。そして、このような異形のヒップホップが存在し得る土壌を開拓したのも、他でもないDJ KRUSHだと考える。どういうことだろうか。

 1990年代中盤以降、彼のビートはそれまでになかった表現として欧米を中心に世界に受容されたが、その音楽性は、同時代的に活躍したポーティスヘッドやマッシヴ・アタック、そして何よりも盟友と言ってもよいDJシャドウらと共に「トリップホップ」や「アブストラクト・ヒップホップ」としてカテゴライズされた。「トリップホップ」は頭に働きかけるダンス・ミュージックとも言われ、アメリカが独占状態のヒップホップに対する、ブリストルのシーンを中心とするUKからの新たなる可能性の提示でもあった。「トリップホップ」という命名はアーティストからの不評も買ったが、ここで注目しておきたいのは、その代替として使用されることも多かった「アブストラクト(ヒップホップ)」という呼称である。なぜDJ KRUSHやシャドウのサウンドは、「アブストラクト」と形容されたのか。

 ここでは、大きくふたつの理由を考えたい。ひとつめは、彼らは、ラップとビートのセットではなく、ラップ抜きのインストだけでそれが成立することを示したことだ。MCたちの直面するリアリティを「具体的」に示す言葉を持たないインストのヒップホップは、「アブストラクト」ヒップホップと呼ばれた。簡単に言えば「ラップという〈言葉〉による表現=具象」と「〈音のみ〉の表現=抽象」というわけだ。つまりこの場合の「アブストラクト」は、ビート自身が音で語りかけるインストゥルメンタル・ミュージックの別名である。

 そしてふたつめの理由は、ビートのサウンド自体の特性にある。「抽象的」なサウンドとは何かを考えることは、反対に「具象」とは何かという問いにつながる。例えば1950年代にフランスで勃興したミュジーク・コンクレートにおいて、「コンクレート=具体」としてのサウンドは、自然音、人や動物の声、インダストリアルな環境音、電子音などを指していた。では、ヒップホップのサウンド面における「具象」の条件とは何か。ひとつには、ビートを構成している音を「具体的」に指し示すことができること。その音は、何の楽器で奏でられているのか。どのような音階やリズム、つまりフレーズとして奏でられているのか。そしてもうひとつ、サンプリング・ミュージックとしてのヒップホップにおける「具象」とは、参照先を「具体的」に特定できることも指すだろう。このブレイクビーツは、このレコードのこのフレーズからのサンプリング。この上ネタのエレピとストリングスは、あのレコードのサンプリング、というように。

 であるならば、逆に「抽象的」な音とは、例えばピッチを下げることで音程もリズムも失ったサウンドだ。かつてエドガー・ヴァレーズは、テープレコーダーの誕生に伴い再生スピードを変化させることや音の順序を組み替えることが可能になったことで、レコードの時代には困難だった様々な音響実験を加速させた。同様に、ビート・ミュージックによる抽象表現も、まさにサンプラーやデジタル・エフェクターというテクノロジーの発明によって実用化されたと言える。元は何の楽器から発された音なのかも判然としない。同様に、短く断片化されたり、ディレイやリヴァーブが深くかけられたり、ロービットでサンプリングされたりと、様々な理由でソースを特定できないサウンドの断片たち。あるいは、一部のフリー・ジャズやドローンにおいて聞かれるような、元々リズムやフレーズ感の希薄なサウンドたち。それを鳴らしている楽器も、リズムも音階も具体的に指し示すことが困難であり、さらにどのレコードからサンプリングしているのかも不明なサウンドの断片たち。

 こうして考えてみれば、アブストラクトの定義のうち前者、インストとしての「アブストラクト・ヒップホップ」の展開を背負ったのはDJシャドウであろう。そこにはMCの言葉はなく、ビートが物語を代弁する。1996年リリースのファースト・アルバム『Endtroducing.....』は、物語性をまとったビートが描く一大絵巻物だった。

 一方、後者の「〈アブストラクトなサウンド〉のヒップホップ」を体現したのが、他でもないDJ KRUSHではなかったか。このことは、例えば〈Mo' Wax〉から1994年にリリースされたDJシャドウとDJ KRUSHのスプリット盤の収録曲“Lost And Found (S.F.L.)”と“Kemuri”を聞き比べてみればよく分かる。シャドウの“Lost And Found”は実に彼らしいスクラッチと「You said to me, I'm out of my mind」というナレーションからスタートし、ブレイクビーツとエレピのループをベースに、次々とギター、トランペット、人の声といった「具体音」が入れ替わり立ち替わり現れる。いわゆる各パートの「抜き差し」によってダイナミズムを伴う楽曲展開を見せてくれる、約10分にわたる従来の物語構造を持つ「短編映画」のような作品だ(対するKRUSHのビートも決して映画的/映像的でないということではなく、映画に喩えるならヌーヴェル・ヴァーグ的ということになるだろうか)。ここには「ラップの言葉」は一切表れないが、聞き手が物語を読み込んでしまうようなサウンドスケープが展開されるのだ。

 対するDJ KRUSHによる“Kemuri”はどうか。紛うことなき彼の代表曲であるこの曲は冒頭から、ブレイクビーツの上に乗る不穏なノート、ディレイで左右に飛ばされるノイズ、ターンテーブルから発せられるスクラッチ混じりのサウンド、そして管楽器風のサウンドのメインフレーズ、その背後のサイレンなど、全ての音が、どのようなジャンルの音楽の、どのような楽器の、どのような演奏からサンプリングしたのか計りかねるような、出自不詳のサウンドたち。それらが、まさに「煙」のように輪郭が曖昧で互いに混ざり合いながら、粛々と驀進するブレイクビーツに寄り添い漂う。DJ KRUSHのトレードマークである、ディレイで左右に飛ばされる音は「煙」なのだ。これらの「抽象的」なサウンドで描かれたビート群は、KRUSH自身の出自も相まって、当時の聴衆に非常に新規性のある音楽として映ったのは想像に難くない。DJ KRUSHは、ヒップホップから派生したビート・ミュージックに、ブラック・ミュージックとは異なる系譜の「煙たさ」を持ち込んだのだ。

 そのような抽象的なインストのみで成立する、あるいはインストが語りかけるようなビートに、改めてラップの言葉を乗せてみようというのもまた、DJ KRUSHやシャドウ(U.N.K.L.E)の試みのひとつだった。そのようなアブストラクトなビートの上に、MCたちはどのようなライムを乗せようとするだろう。例えば1995年にリリースされた『迷走』からのタイトル・トラックで、初期のKRUSHラップ曲を代表する1曲でもある、ブラック・ソートとマリク・Bをフィーチャーした“Meiso”。冒頭のハービー・ハンコック(ジョー・ファレルのカルテットに参加)によるエレピのフレーズは、KRUSH愛用のAKAI S1000によって低いビットレートでサンプリングされ、その輪郭を失った「抽象音」と化している(同じハービー・ネタで言えば、「具象」という意味で対極にあるのがUS3の「Cantaloop (Flip Fantasia)」だろうか)。そしてクオンタイズの呪縛から脱出するように僅かにつんのめるブレイクビーツ。両者のヴァース間、1分32秒以降KRUSHが擦るのは、ジャズのライヴでプレイヤーたちのインタープレイの一瞬の間隙を抜き取ったような「キメ=空白」のサウンドや、あるいはこれもジャズのレコードからと思しき、輪郭が曖昧なベースラインだ。通常のDJ的な感性に倣えばスクラッチ映えするアタックとハイが強調されたサウンドを選ぶのだろうが、彼の独創性が、敢えてビートに滲み、埋没するサウンドを選ばせた。しかしこれらの曖昧で歪なパーツたちが織り成したのは、途轍もないグルーヴだった。JBネタのビートたちとは全く異なるアプローチで現前せしめられるファンクネス。聴衆たちは、この衝撃への興奮を包み隠さずぶちまけ、狂乱のフロアに沈み込んだ。

 だから当然ブラック・ソートことタリークも、最高のライムをぶちまけた。しかしKRUSHのアブストラクトなグルーヴに誘引されたのは、いつもとは異なるボキャブラリーのライムだった。例えば「俺はイラデルフ(フィラデルフィアとイルの合成語)出身、そこじゃお前の健康は保障できない/この惑星を一周するサイファーの中、赤道ほどの熱を持つ場所/あるいは普通じゃない、王宮の正門から現れた奴らがお前の魂を要求する/八仙の七番目をコントロールする者/この終わりのない迷宮の中で、夜が昼に戦いを挑む場所で」という中盤のライン。注目すべきは、1行目から2行目、そして2行目から3行目への跳躍。このような路線のリリックは後にザ・ルーツの“Concerto of The Desperado”のような曲に引き継がれることとなるが、このとき既にリリースされていたザ・ルーツのファースト・アルバムの彼のライムとは明らかなギャップがある。ザ・ルーツのファースト・アルバムの独自性とは、ジャズ的なインプロヴィゼーションを重視するバンドがビートを演奏することであり、ブラック・ソートもそれに合わせるように、即興性の高い、フリースタイルの延長のようなライムを披露していたが、その内容は良くも悪くもラップのゴールデンエイジのテンプレートを脱するものではなかった。であるならば、タリークからこのようなエキゾチックで抽象的なライムを引き出したのは、KRUSHのビートが生みだした異形のグルーヴだったのだ。

 アブストラクト。音楽以外の抽象芸術に目を向ければ、例えばカンディンスキーの抽象絵画は、音楽の視覚化の試みでもあったことが知られている。共感覚を持っていたがゆえの発想かもしれないが、そもそもこのような音楽の視覚芸術による翻訳=置き換え(あるいはその逆)は多くのアーティストたちの表現の核心を担ってきた。さらには、音楽や視覚イメージの「言語化」の試みが、多くの作家や詩人、あるいは批評家たちによって、時には通常の言語で説明的に、時には「詩的言語」を駆使して為されてきた。

 例えば『迷走』のUK版のアナログのジャケットのアートワークは、抽象的なグラフィティで知られているFutura 2000によるものだが、アメリカの詩人のロバート・クリーリーが、「Wheels」と題された次のような詩をFutura 2000に捧げている。「ひとつ その周りに ひとつ/あるいは内側、限界/そして飛散/外側、その空虚/縁のない、丸く/空のように/あるいは見つめる眼/過ぎゆく全て/沈黙のにじみの中で」と、言葉少なげに探るような一篇。ここにはFutura 2000の抽象的な作風に呼応するように、抽象的な「詩的言語」との格闘の痕跡を認めることができるが、同様に、DJ KRUSHのアブストラクトなビートにMCたちがライムを乗せようとする場合も、彼のビートの「抽象性」が「詩的言語」に類するワードプレイを誘引する。そこでは、少なからずそのビート自体の「言語化=言葉による描写」がリリックに混入する。MCたちが一人称で自己の姿とリアルな日常を描くとしても、描かれる自己とは、そのビートを聞いている自己であるからだ。KRUSHの抽象的なビートを聞きながら街を彷徨い、見えるものを描く。異化される街並み。異化される日常。

 そう考えてみれば、KRUSHのビートこそが、MCたちの言語世界の新しい扉を開いたと言える。そして結果的に、アブストラクトと呼ばれる類のビート・ミュージックにライムを乗せることで立ち上がる、原風景を示すことになったのだ。

 そしてこの原風景は、一方ではカンパニー・フロウやアンチコンらの世界観(従来「黒い」と形容されるヒップホップに精神的にも音楽的にもカウンターとして成立した)に、他方ではTHA BLUE HERB(そして流の“ILL ~BEATNIK”でBOSS THE MCが到達した極北)や、降神やMSCらの世界観の通奏低音として、常にその影を落としていた(そう考えてみれば、KRUSHと彼らとの共演も必然だったのだろう)。グローバル規模で展開するアンダーグラウンドな「異形」のヒップホップが共有するライムとビートの関係性における「ドープ」という概念は、KRUSHが持ち込んだ「抽象性」と、それが誘発する「抽象」と「具象」のギャップ(抽象的なビートにストリートを描くライムが乗る、MSCやキャニバル・オックスの世界観)にこそ、宿るのだ。その通奏低音が、再び前景化するこのアルバム。DJ KRUSHの25年の営み。僕たちが目撃しているのは、アンダーグラウンド・ヒップホップの生成と隆盛であり、もっと言えばその生き死にの「軌跡」なのだ。

 では、MCたちのライムに表れるKRUSHのビートの「抽象性」の影響とは何だろうか。『軌跡』において、それらは具体的にどのような形を取っているのか。それを確かめるために、近年のKRUSHのビートの抽象性を確認しておこう。

 『覚醒』(1998年)までと『漸』(2001年)以降、2000年を境にサンプラーによるサンプリングから、PCとDAW上の打ち込みのサウンドに上ネタが変化しても、KRUSHの一貫性が保たれているのは、あくまでも重心がかけられている太いビートと、上ネタが保持する「抽象性」によるものだ。『軌跡』のビート群においても、この「抽象性」を担保しているのは、残響音だ。深いリヴァーブ。ロービットで太くドライなブレイクビーツと、比較的高解像度の残響音を湛えるシンセ・サウンドがメインの上ネタは、強いコントラストを成している。

 残響音は、サウンドとリスナーの距離感も示している。ビートは、ダンスフロアで、いつでもリスナーの側で、寄り添うことで、ダンスを誘引する。ビートは、心臓の鼓動のように、身体の中心で、鳴り続ける。その意味で、ドライな音場を持つ音は、非常に身体的だ。一方の深い残響を有するサウンドは、その残響を生み出す空間的な広がりを意識させ、それがある種の想像力へ接続されるだろう。世界の広がりへ向けて、無機物の沈黙へ向けて、あるいは宇宙の静謐さへ向けて、駆動される想像力。幼少期にトンネルで声が響くことを発見し、何度も声を上げた経験があるなら、その響きのために、見知っているはずの世界の表情が少し違って見えたのではないだろうか。

 残響音が示し得るものは多様だ。深い残響音を得るためには、室内の場合は残響音を生みだす空間や壁といった環境が必要だ。1970年代のデジタル・リヴァーブの誕生以降、DAWを用いるビート制作に至るまで、これは実際にはデジタル処理で再現された人工的な響きなのだが、プラグインソフトのリヴァーブのプリセット設定に「ルーム」「ホール」「トンネル」等の名称が一般的に付与されているように、それは一定の「広さ」の音が響く空間が存在し、そのように「遠く」まで「深く」響くことを示している。だから自然とこの深い残響音が聞き手に想起させるのは、「広さ」「遠さ」「深さ」などと結びつくようなイメージだろう。

 であるならば、MCたちのリリックにも「広さ」「遠さ」「深さ」を翻訳したイメージが忍び込むに違いない。例えば、自身の目の前のリアルから「遠く」離れ、どこか別の場所の出来事を描くこと。狭い現実世界とは異なる「広がり」を持った視点で「遠い」風景を物語化すること。MCとしての自分自身から抜け出す、三人称の視点で、それらを寓話化すること。あるいは演出された残響音を擁する舞台装置であるビートの上で、自身をその物語を生きる映画の主人公のように描くこと。

 このことを踏まえれば、このアルバムにおいてまず目に付くのは、物語性を押し出した、寓話的なリリックたちだ。チプルソの“バック to ザ フューチャー”は、歌詞カードの最初に「-Storytelling-」と記されていることでも明らかなように、タイトル通り映画的物語が展開される。そのスペイシーな残響音をまとった上モノのシンセは、リリックにもある通り「部屋の煙」の中で「迷宮の出口」を探している自身の過去、2006年という11年前の記憶を物語化する距離感=「遠さ」の象徴のようだ。RINOもまた、「BACK IN DA DAY」と歌う90年代の日本のヒップホップの現場の記憶を「遠い」物語としてライムしている。また、Meisoが「土砂降りの時代」と歌う現代の日本の状況は、その寓話的な描き方もあり、どこか別の時代の「遠い」場所の物語とも響き合うような、普遍性を獲得しているようにも聞こえる。例えば「外じゃ戦争 中じゃ崩壊/ここじゃジョーカーが王様となる/やるかやられるか環境の産物/天使に生まれて化け物に変わる」というフックに顕著なように。抒情的な旋律を包み込むような残響音が詳らかにするのは、日本の陰部の広大さ、そしてその深淵だ。

 そして志人による“結”においては、「我」とその片割れである人類の「遠さ」がまさに主題となっている。志人は超越的な「我」という「遠い」視点に憑依し、地球規模での人類の蛮行を俯瞰する。ここでKRUSHが提出しているビートは、志人のリリックの深さをも収納できる、深い器であり、彼のフロウが演舞する舞台装置だ。削ぎ落とされた音数の少なさと、その分耳に入ってくる打楽器の残響音の深さ。志人のフロウの音程に場を譲るように、ビートは旋律を規定することもなく、そこに器として全身を差し出している。

 一方で、「駅前」「神奈川座間」「平常運転な日常」といった言葉が頻出するOMSBの“ロムロムの滝”や、MCが日々直面しているスキルやスタイルへのマインドが表明される5lackによる“誰も知らない”は、大雑把にいえば、日常の現実を相手取っている。そしてそのような「具体」性を持つ現実が、「抽象」的なビートに重ね合わせられたときのギャップ=異化効果が両者の組み合わせの醍醐味だ。あるいは「遠さ」の象徴としての残響が深いビートと、「近さ」の象徴として日常を描くリリックのギャップ。かつてブラック・ソートが「迷宮」と言い表した地元フィラデルフィアの街並みと同様、OMSBがそこに棲息する人々を描写しながら闊歩する地元の街並みは、どこまで行っても果てのないラビリンスと化す。そしてそのリリックの傍に現れる、例えば34秒からのシンセ音や、46秒に響くヴォイス・サンプルの残響音の深さは、街の雑踏の深さや、闊歩するOMSBに視線の前を通過する時間の経過を示しているようだ。残響音の深さは、何よりもリリックの光景を映像化する装置として、効果的に機能している。

 これらの残響音が、OMSBのリリック自体に与えている影響。その証左は、ヴァースでは地元の街の極めて具体的な日常の姿を描写しながらも、フックで「現実かどうかはどうでもいい」「見慣れたデジャヴを、常に行き来」と歌っている点にある。なぜならこれは、残響音という演出の施されたビート越しに眺める日常の景色が、非現実的なもの、あるいはデジャヴに映ってしまうという、まさに異化効果への言及だと理解できるからだ。このことに呼応するかのように、KRUSH自身が中盤のインストに「夢境」と名付けているのは、それがアルバムの前半と後半を区切る境でありつつ、個々の楽曲が「現」と、それを異化するような「夢」を行き来する本作において、同曲がその境でもあることを示してはいないか。

 サイエンス・ライターのマーク・チャンギージーが指摘したのは、音楽を特徴付けるのは、音の高さの変化ではなく、「拍=ビート」であることだった。そしてそれは、人間の動作に起源を持っており、具体的には「足音」の似姿であると。この指摘は、ヒップホップというビート・ミュージックには殊更当てはまるように思える。90年代に西海岸という車社会でヒップホップが興隆する以前、ニューヨークのヒップホップのビートとBPMは、颯爽とストリートを歩行する速度とシンクロするBGMだった。“Walk This Way”という例を引くまでもなく、ウォークマンと共に街を闊歩しながら、あるいは彷徨いながら受容されるビート・ミュージックという側面が確かにあったのだ(今やウォークマンなど遠い昔の話に聞こえるかもしれない、ストリーミング・サービスの普及でスマホとイヤフォンで音楽を聞くのが日常となった今こそ、アクチュアリティを取り戻してきているのもまた事実だ)。ラン・DMCのニューヨークから、ブラック・ソートのフィラデルフィア、そしてOMSBの座間へと続く彷徨の「軌跡」を追うこと。そしてそれらのラン・DMCのニューヨークに比べ、KRUSHのフィラデルフィアと座間が、どのような景色をMCたちとリスナーたちに見せてしまうのか。KRUSHのビートは、そのギャップを伴う景色を、残響音を媒介にして示しているのだ。

 しかし本作の解釈はそれだけでは終わらない。都市での彷徨と対置されるべき、“結 –YUI–”における、志人による森林を歩行するBPMは、遅い。それは「追われたてた物の怪や除け者の獣達」の歩みだ。「未来こそ懐かしいものに」することを目指す彷徨だ。「お前だけが良しとされる」都市に対置される自然の歩みにシンクロするBPMをも射程にするのが、KRUSHが提示した異形のヒップホップのドープさであり、その器となるビートであった。同曲は、90年代から加速し続けるヒップホップの商業主義化の中で、2017年現在最もエッジイな異形さを顕現させている楽曲のひとつだ。『軌跡』という作品が到達した地平のラストを締める1曲。この25年という年月でKRUSHの抽象的なビートという器が、どれだけの具象性=言葉を熟成させて来たのか。このアルバムに象られているのは、その「軌跡」でもあった。

 DJ KRUSHにとって、ビート・メイキングとは、スネアの1音、キックの1音の追求とは、何よりも日々の歩行であり、彷徨に準えられる営みだ。KRUSHが次々に踏み出す右足、そして左足としてのキックとスネアの響き。そのことはこれまでの彼のアルバムのタイトル群にも表れていた。それは「迷走」であり、その状態からの「覚醒」であり、継続して少しずつ「未来」へ、そして「深層」へ進む「漸」進であり、この25周年という月日の蓄積が示すものこそが、その「軌跡」だった。

Run The Jewels - ele-king

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エル・Pとキラー・マイクの出会いは、ボム・スクワッドとアイス・キューブが出会って作り上げた『AmeriKKKa's Most Wanted』にたとえられたりもしますね。 (二木)

ふたりは、人種、出身地、スタイルの違いを越えて、ラップ・ナードであるという共通点によって奇跡的にベスト・パートナーになったと。 (吉田)


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Run The Jewels 3

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吉田:今回のビートもクラブ・ミュージックの文脈が色濃いですが、エル・Pがソロで2012年にリリースした『Cancer 4 Cure』ってアルバムからスタイルや音像が変わっていて。最初はずっとサンプラーを使っていたじゃないですか。で、『Fantastic Damage』からシンセとか使い出すんですよね。だけどその頃はまだローファイなサンプル・ベースの音像で、それにシンセの音を合わせていく感じ。で、その後ソロがもう1枚あって、そこまではまだ全体のトーンとしてはローファイな印象です。それで2012年のソロ・アルバムからラン・ザ・ジュエルズの3枚にかけて、このローファイとハイファイの融合を図っているというか。もちろん全体的にはハイファイ側に寄ってきているんだけど、初期のエル・Pの特徴はやっぱりローファイなので、持ち味を崩さずどのようにこの二層のレイヤーを重ねるかを考えたのかもしれません。それから近年はリトル・シャリマーとワイルダー・ゾビーという楽器ができる兄弟ふたりとビートを共作しているんですよね。

二木:あー、そうなんですね。『I'll Sleep When You're Dead』から楽器演奏者が参加するようになってその路線を推し進めて到達したのが『Cancer 4 Cure』ですよね。

吉田:今回のアルバムは特にそうかもしれないですけど、音楽的じゃないですか。ビートが効いていてグルーヴが楽曲を引っ張るんだけれど、フックになると楽器の音が入ってきて、カマシ・ワシントンがサックスを吹いている曲もそうですけど、フックがコード感や旋律のある展開になっているんですよね。見方によっては楽器の生演奏をサンプリング・コラージュしているとも取れると思いますが。しかし特徴的なのは、その音楽的というのがR&Bやソウル的なものではないじゃないですか。曲によってはもろにナイン・インチ・ネイルズっぽいと思うけど(笑)。

二木:まさにインダストリアル。

吉田:だからそこも逆に日本の従来のラップ・ファンにはいまいち受けづらいのかもしれないですね。音数も多いし、たとえばいまトラップが好きという人にこれを勧めようとすると……。というかこれは磯部涼氏も言っていたんだけど、音数多そうだし、言葉も多いし、言っていることも密度がありそうだし、いまはそういう雰囲気じゃないんだよねぇ、いまはミーゴスで踊っていたいんだよ、みたいな(笑)?

二木:例えば、『Run The Jewels 3』の“Call Ticketron”ではリン・コリンズの“Think”をサンプリングしているけれど、その声ネタによるリズムのアクセントの付け方はまさにロブ・ベース&DJ E-Zロック“It Takes Two”ですよね。で、ブーストしたプリミティヴなベースとキックがぐいぐい引っ張ってその上でスピットしまくる。だから、オールドスクール/ミドルスクール・マナーを継承しながらいまのダンス・ミュージックをやっていますよね。さらに音楽的という点では、本人たちが意識していたというのもありますし、エル・Pとキラー・マイクの出会いは、ボム・スクワッドとアイス・キューブが出会って作り上げた『AmeriKKKa's Most Wanted』にたとえられたりもしますね。サンプリングやスクラッチや演奏が騒々しく、しかも緻密にアレンジされているという。それと彼らのもうひとつの大きな特徴はなんと言ってもバトル・ライムじゃないですか。まずはセルフ・ボースティングありきなんですよね。バトル・ライムがポリティカルなメッセージと下品なジョークやFワードを共存させていると言えますよね。最終的にバトル・ライムによるセルフ・ボースティングに昇華していきますよね。あるアメリカ人の友人が『I'll Sleep When You're Dead』ってタイトルも洒落が効いていて面白いと言うんですよ。どういうことかと言うと、一般的には「I'll Sleep When I’m Dead」と表現して「俺は死んでから、寝る」みたいな意味になるけど、それを「I'll Sleep When You're Dead」とすると、「お前が死ぬまで、俺は眠らねえから」という攻撃的な意味合いになると。あと、『Cancer 4 Cure』も「Cure For Cancer」つまり「ガンの治療」という意味を逆転させているところとかどこか皮肉っぽい(笑)。

吉田:たしかに、最初のソロの『Fantastic Damage』というタイトルもそういう意味で皮肉めいてるし、やはり滅茶苦茶ヒップホップ思考ですよね(笑)。

二木:滅茶苦茶Bボーイ・スタンスを感じますね(笑)。

吉田:だからこそこれだけ評価され続けているんだと思うんですけど、その基本が揺るがないんですよね。要するにビートはローファイとハイファイの融合、サンプラーとシンセの融合、ブレイクビーツとTR-808のダンス・ビートの融合に成功して、進化したと。じゃあ従来の「ロー」なバトル・ライムをどんな「ハイ」コンテクストなボキャブラリーとデリバリーで進化させられるんだろう、みたいなことをヒップホップ・メンタリティでずっと考え続けているみたいな(笑)。

二木:そうそう。

吉田:ヒップホップの外側から考えたんじゃなくて、内から考えているんだと思うんですよね。

二木:まさにそうですね。日本に置き換えて考えてみると、エル・Pのラップに関していえば、例えばの話ですけど、降神の志人が攻撃的なBボーイ・スタンスに軸足を置きながらスピリチュアルなタームやヒッピー的な思想、寓話的なストーリーテリングをバトル・ライムでスピットするような感覚に近い気もしますね。スピリチュアリズムやヒッピー・カルチャーに軸足を置きながらラップするんじゃなくて、ヒップホップに軸足を置きながらそういった文化や思想をシェイクしてラップするような感じですかね。それか、SHING02が“星の王子様”をセルフ・ボースティングとしてラップする、みたいな(笑)。いずれにせよ、エル・Pがヘッズを唸らせ続けることができるのは、そのアグレッシヴなBボーイ・スタンスゆえですね。

吉田:SFというのも具体的にはアーサー・C・クラークとか、ディストピア繋がりでジョージ・オーウェルとかも引用していたりするんですけど、やっぱりフィリップ・K・ディックはデカいと思うんですよね。ディックの小説に特徴的なパターンとしてあるのが、いま目の前の現実に見えている世界は、実は何らかの装置や権力が見せている偽の現実、幻影みたいなもので、その現実だと思っていた世界が崩れていくみたいな話じゃないですか。例えばこのアルバム(『Run The Jewels 3』)も前半は直接的に現実の近さで歌っていて、だんだん寓話とともに世界のほころびが入ってきて、最後にすべてを裏で牛耳っている権力が目の前に現れて「支配者を殺せ!」と叫びながら世界が崩壊するというような流れになっている。そういう構造を取り出すと、ディックの小説をなぞっているようにも見えて、やはりエル・Pにとってディックの影響力は大きいと思うんですよね。ディストピアと言っても描き方が色々あると思うんですけどね、例えばカンパニー・フロウの“Tragedy Of War (In III Parts) ”や“Population Control”なんかは戦争をトピックにしていますが、SFの歴史改変モノのように見ることもできる。

二木:あと、僕はそれこそGen(ocide)AKtionさんの『探求HIP HOP』の記事で曲の意味をより深く知ることができたんですけど、エル・Pの“Stepfather Factory”の資本主義批判もSFモノですよね。

吉田:そうそう。あとはこのようなエル・Pのやり方が後世に与えた影響力も大きいと思うんです。まず直接的には〈デフ・ジャックス〉のアーティストであるキャニバル・オックスとかエイソップ・ロックに出たじゃないですか。キャニバル・オックスはジャケットからしてわかりますがSF的な世界観にストリートを歌うラップを乗っけたらどうなるかっていう、ある意味実験ですよね(笑)。で、エイソップ・ロックはエル・P以上に難解で詩的なライムで、SFと言うよりは寓話的なところがありますが、シニカルな視線も持ち合わせていて、それはそれこそ西海岸のアンチコン以降の流れにもつながるという。実際にエル・Pとアンチコンのソールのビーフも有名ですが。しかしともかく絶対エル・Pがいなかったら「ここまで自由にやっていいんだ」ってことになっていなかったと思うんですよね。その辺は当時の日本ではリリックの翻訳があまりなかったこともあって共有されていなかった印象ですが。

二木:さっきも少し話しましたけど、エル・Pや〈デフ・ジャックス〉、〈ローカス〉の日本での受容のされ方は、パフ・ダディを象徴とするようなメインストリームのヒップホップへのアンダーグラウンドからのアンチテーゼとしてまずあったと思います。彼らこそが“ヒップホップの良心”だと。1999年のDJ KRUSHとMUROが表紙の『ele-king』で「パフ・ダディは表現者? ビジネスマン?」というテーマでDJヴァディムとアンチ・ポップ・コンソーティアムのメンバーが激論を交わすという記事があって、当時はそういうメインストリームとアンダーグラウンドの対立構造が産業的にも表現的にもいまよりも明確にあった気がしますね。そういう90年代後半に、モス・デフとタリブ・クウェリのブラック・スターもいたし、DJスピナのジグマスタズ、ショーン・J・ピリオドとかもいたじゃないですか。そういう中でカンパニー・フロウも聴かれていましたよね。

吉田:当時は、〈ニンジャ・チューン〉なんかを中心にアブストラクト系も盛り上がっていましたからね。

二木:そう、アブストラクト系みたいな括りの中で聴かれていましたね。僕の知るかぎりエル・Pの言葉や思想を深く掘り下げた当時の記事とかはあまり思いつかないです。

吉田:ですよね。だから当時DJ KEN-BOが……(笑)。

二木:KEN-BOさん!

吉田:KEN-BOさんが『FRONT』誌で10枚の12インチを紹介するコーナーで「Eight Steps To Perfection」を紹介していて、俺もそれをシスコで買ったんですよね。KEN-BOさんはRZAの変則的な感じが表れているとコメントしています。たしかにそのときはとにかくちょっと変わっているって感じで、ビートがダークでぜんぜんキャッチーじゃないし、ネタも怪しげなノイズみたいなのが入っているしで。

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彼らのもうひとつの大きな特徴はなんと言ってもバトル・ライムじゃないですか。まずはセルフ・ボースティングありきなんですよね。バトル・ライムがポリティカルなメッセージと下品なジョークやFワードを共存させていると言えますよね。 (二木)

従来の「ロー」なバトル・ライムをどんな「ハイ」コンテクストなボキャブラリーとデリバリーで進化させられるんだろう、みたいなことをヒップホップ・メンタリティでずっと考え続けているみたいな(笑)。 (吉田)

二木:さきほど吉田さんが『Run The Jewels 3』が、「最後にすべてを裏で牛耳っている権力が目の前に現れて『支配者を殺せ!』と叫びながら世界が崩壊するというような流れになっている」という話をされていたじゃないですか。そこで今日話そうとしていたことを思い出したんですけど、最近炎上したペプシのCMのことなんです。ペプシが近年のいわゆる「ブラック・ライヴズ・マター」のデモを連想させるようなCMを作って公開したんですよね。そのCMでモデルのケンダル・ジェンナーという女性が群衆の前に立ちはだかる警官にペプシを渡してそれを警官が飲むと、群衆と警官隊が歓喜の渦に包まれてみんなが仲良くハッピーになるというようなものなんです(笑)。それに対して、キング牧師の娘をはじめ、いろんな人から批判の声が上がったんです。キング牧師の娘は「父もペプシの力を知っていればよかったのにね」みたいな皮肉めいたツイートをしたんです。このCMに対する批判のポイントはおそらくいくつかあって、「デモや政治活動を商業利用するな」という批判から「デモ隊と警官隊がペプシを飲んだくらいで和解するわけがないだろ」という批判まであると思う(笑)。

吉田:それはベタなツッコミですよね(笑)。

二木:結局ペプシはCMを取り下げることになったんですけど、実はこのCMのパロディ映像があって、ジョン・カーペンターの『ゼイリブ』風に仕立てられているんです。ある特殊な眼鏡をかけると、権力者や支配者の座につき地球を支配するエイリアンの姿が見えるというあの有名なSF映画です。要は警官隊がエイリアンだったという10秒ぐらいのパロディ映像があるんです。で、その映像にエル・Pのラップが使われているんですよ。

吉田:へえ、それはハマってますね。

二木:その映像がエル・Pの知るところになったんですよ。そこで、あるアカウントが「これはあなたの許可取ってんの?」みたいなメンションをエル・Pに飛ばしたら、「許可は取っていない。でもこのケースはOKだ」みたいなことをツイートしていて。

吉田:「俺のことよくわかってるな」みたいな(笑)。

二木:そうそう。で、そのリリックは『ラブル・キングス』っていう1960年代後半から1970年代初頭のニューヨークのギャングを描いた日本未公開のドキュメンタリー映画にRTJが提供した“Rubble Kings Theme”っていう曲のエル・Pのあるラインなんです。で、吉田さんだったら正確に訳せるんじゃないかなと思って、そのリリックを持ってきたんですけど(笑)。

吉田:(リリックを見ながら)やっぱり権力に対するプロテストみたいです。「悪いがオレたちはお前らの賛歌は歌わない/誓約にもノラない/クズの中から現れる/落ち着きのない人々の支配者たちよ/オレらを試しても無駄だぜ」みたいな感じですかね。

二木:だいぶ詩的ですね。

吉田:さっきの話で言うと、これが警察権力みたいなこととも言えるし。このアルバム(『Run The Jewels 3』)の中心に据えられているのは、資本主義批判で、権力者批判であり、そこはエル・Pもキラー・マイクも足並みが揃っているところだと思うんですが。キラー・マイク目線では警察権力に対する視線もありつつ、やはり格差の問題ですね。1%の人間がすべてを支配している世界で、その支配者たちを“Kill Your Masters”と繰り返し言っていて、それもバトル・ライムのマナーで「Kill」と強い表現で。またコー・フロウの話になっちゃいますけど、コー・フロウのときに“Bladerunners”って曲があったじゃないですか。あれはマイク・ラッドの曲にフィーチャリングされるという形でしたが、当時はSF的な想像力でディストピアを描いていた。今回のアルバム(『Run The Jewels 3』)は、ザック・デ・ラ・ロッチャのヴァースで最後締められる“Kill Your Masters”って、別の世界の話じゃなくてこの現実の世界の話なんだけど、彼がかつてSF的想像力で書いていたディストピアといまの現実が重なっちゃったというところにアイロニーがあるなと思って。

二木:なるほど。ディストピアといまの現実が重なっちゃったアイロニーという話で言うと、DJシャドウがRTJをフィーチャーした“Nobody Speak”のPVを思い出しますね。ダーティな言葉が散りばめられたキラー・マイクとエル・Pのライムを、どこかの議会かサミットに集まった、ビシッと背広を着た各国の代表者か政治家に扮した出演者に口パクさせて、円卓を挟んで罵り合わせて最後は大乱闘になるという作りになっている。しかもその中のひとりがアメリカの国旗を振り回しながら大暴れするという(笑)。このPVを一緒に観ていたNYの友人が隣でゲラゲラ笑いながら、「でも、これっていまのトランプ以後の世界っぽいよね」って言うんですよ。キラー・マイクとエル・Pの下ネタやキワドイ言葉を織り交ぜた政治批判、社会風刺のライムは、コメディアンからの影響もあるんだと思いますね。彼らは、インタヴューでレニー・ブルースやリチャード・プライヤー、ジョージ・カーリン、ビル・ヒックスといったコメディアンの名前も挙げてます。だから、彼らのライムってブラック・ジョークなんですよね。そういういわゆるメタ視点があるところが、同じようにNワードやFワードを連発するトラップやギャングスタ・ラップとの違いでもあると思いますね。吉田さんが言うように、ディストピアではないですけど、戯画化して描いていた世界がそのまま現実と重なってきているというのはありますよね。

吉田:そうですよね。シャドウとやったのもタイミングが絶妙で。

二木:うん、この曲はかっこいいですよねー。DJシャドウやってくれた!って感じです。

“Kill Your Masters”って、別の世界の話じゃなくてこの現実の世界の話なんだけど、彼がかつてSF的想像力で書いていたディストピアといまの現実が重なっちゃったというところにアイロニーがあるなと思って。(吉田)

彼らのライムってブラック・ジョークなんですよね。そういういわゆるメタ視点があるところが、同じようにNワードやFワードを連発するトラップやギャングスタ・ラップとの違いでもあると思いますね。 (二木)

吉田:そういう意味だと、シャドウもいままでのやり方に安住しない男じゃないですか。だからちょっとエル・P的な進化をし続けるんだけど、昔の様式美として何度も同じものを求めるファンからすると「変わってっちゃうから今回のどうなの?」と言う人たちもいると思うんですが、そこはやはり自分の革新的な音楽への探究心にすごく誠実でいるというか。昔のエル・Pのビートに対してのラップのしかたってひたすら詰め込むスタイルで、オフ・ビートというか、ビートに対してスクエアじゃなかったと思うんですよね。最初の“Eight Steps To Perfection”はオーソドックスなビートにジャストのラップなんだけど、“Vital Nerve”なんかになると急激にビートの隙間を埋めたり外れたり複雑なライムで、いわゆるエル・Pらしいものになっている。で、今回はビート自体はもうグリッドに対して変則的な打ち方、ヨレるとかズレるってことはなくて、打ち方は変則的だけれど完全にクオンタイズされた世界じゃないですか。そんなビートの上に乗るライムもグリッドにすごく合っているじゃないですか。それってある意味では後退にも見えるし、90年代にもシンプルなライム回帰みたいなものってあったと思うんですよね。例えばブラック・ソートとか、後はOCなんかも僕の中ではそうだったんですけど、最初に出てきたときはけっこう複雑なライムをしていて、韻を踏む場所もけっこう凝っていたり、でもそれがシンプルにただケツで踏むだけのスタイルに近付いたりと。それがオールドスクール回帰みたいな良さもあった一方で、物足りなさもあったと思うんですよね。RTJではエル・Pもある意味ではそれに近いような原点回帰でケツで踏んでいて、あれだけビートから外れて言葉を詰め込みながら中間韻で複雑に踏んでいたのに、それをある種捨てているようにも見える。でも言葉の密度は相変わらず高くて、ぜんぜん物足りなくないじゃないですか(笑)。

二木:ぜんぜん物足りなくないですね。『Run The Jewels 3』の“Everybody Stay Calm”のエル・Pとキラー・マイクのラップの掛け合い、それとこの曲のスペーシーな上ネタは、ボブ・ジェームスの“Nautilus”をサンプリングしたラン・DMCの“Beats To The Rhyme”を彷彿させますよね。ビートの打ち方は変則的で、ここでもオールドスクールを継承しながら、また新たな試みをしようとしていると思いました。

吉田:なるほどね。あとはやっぱりそうは言ってもトラップ的な流れのスタイルも無視できなくて、トラップのBPMが70だとして、今回はもうちょっと速いのが多いですけど、ハイハットの32分音符が意識される作りになっていて。トラップのラッパーたちはその32分音符が意識されるビートに16分音符や3連符を多用して速度でなくてフレージング重視で乗せるけれど、昔のそれこそフリースタイル・フェローシップ周辺の奴らなんかだと普通にスキルフルに倍速で乗せるじゃないですか。例えばボンサグとかの世界になるんですよね。

二木:倍速で乗せるか、あるいはBPMを半分に落としてビートの合間を縫うような発想でラップをするかってことですよね。

吉田:そうそう。それでラン・ザ・ジュエルズも今回は倍速とか3連の磁場がすごく効いていて。その中で先ほど「物足りなくない」と言ったのは、リリックの内容の話は一切抜きにしてただ音楽として聴いたときに、倍速とか3連のフレージングでケツで踏むっていうオーソドックスなスタイルにも関わらず音楽的に素晴らしいという。それは彼らの絶対的なスキルに支えられていて、それがまたさっきのヒップホップの話になると思うんですよね。やっぱりヒップホップのスキル至上主義、バトル・ライム/ボースティング至上主義というのがあって、これだけ作品を出している中で、エル・Pって今回もつねにそこがマックスなんですよね(笑)。

二木:まったく衰えていない。というか、年齢を重ねてレイドバックするどころか、 バトル・ライムにしろ、スピットにしろ150キロの剛速球を投げ続けている感じですよ。

吉田:そうそう(笑)。だからそこの徹底した美学というか、本当にヒップホップの人なんだなという。年も食って人間としては丸くなっている感じがあるし、ライヴでもにこやかなんだけど、ラップしはじめたら絶対誰にも負けないという感じ(笑)。キラー・マイクとエル・Pのふたりの馴れ初めも、キラー・マイクがエル・Pに1曲やってもらったときにめちゃくちゃ惚れて「アルバムもやってくれるってことなんだよね?」って毎日電話して口説いて、エル・Pが「しょうがねえな」って言って(笑)。

二木:やってやるかと。

吉田:それでマジックが生まれたみたいなことを言っていますけど、さっきの対照的なことは色々とあるにせよ、例えば〈ローカス〉繋がりで言うと(笑)、昔タリブ・クウェリが「絶対クルーはちゃんと選べ。ワックな奴とやるとお前もワックになるぞ」と言っていましたけど、そういう意味でベスト・パートナーですよね。だってラン・ザ・ジュエルズももう3枚も続いているし、けっこうああいうふうに見えてふたりの仲には「やったらやり返す」みたいな関係性も絶対あると思うんですよね。「あいつやばいヴァース出してきたな、オレも絶対負けられない」みたいな(笑)。そういうことが裏には絶対あると思うんですよ。

二木:それはありますね。さっき例に出した“Everybody Stay Calm”の掛け合いもまさにそうですしね。だからエル・Pもキラー・マイクもお互いすごくいいパートナーを見つけたってことですよね。エル・Pはキラー・マイクに対して、自分が言えないことを言ってくれているという頼もしさも感じていそうですし。これがザック・デ・ラ・ロッチャとエル・Pで成立するかと言われたら絶対に成立しないですよね。

吉田:そうそう(笑)。ビッグ・ジャスとの関係もかなり面白かったんですけどね。ビッグ・ジャスはビッグ・ジャスで相当ぶっ飛んでいたというか、ソロやオルコ(・エロヒーム)とのユニットでもかなりアヴァンギャルドなアルバムを出していました。内容も社会批判系からスピリチュアル系、陰謀論系まで。

二木:ラップ・ミュージックで社会批判を生真面目にやりすぎると陰謀論になってしまうというパターンもあったりしますからね。90年代のモブ・ディープやアウトキャストにもそういう側面が多少ありました。

吉田:そう。そういう意味だとキラー・マイクはアウトキャスト文脈で出てきているけど、あんなちゃんとしている人っていう(笑)。めちゃくちゃ真っ当なことを言うという。

二木:キラー・マイクはお父さんが元警察官だったんですよね。

吉田:そうなんですよね。警察権力についてはRTJの前作の“Early”って曲でもすでに歌っているから、そこはすごく問題意識としてあったんでしょうね。しかしコンシャスな曲にしても今作と前作でもまた取り上げ方が違いますね。同様に彼のソロとRTJでも違う。

二木:なるほど。南部のアトランタのキラー・マイクとNYブルックリンのエル・Pが一緒に共作している面白さもありますよね。

吉田:いまだとサウス、特にトラップの世界を考えたときに、ニューヨークとはいちばん相容れないというか、いちばん遠い存在だとすると、それが90年代だと西と東が同じような距離の状態だったわけじゃないですか。だから、キラー・マイクとエル・Pの出会いをボム・スクワッドとアイス・キューブの出会いに重ね合わせるのは本当にその通りだと思いますね。そしてふたりは、人種、出身地、スタイルの違いを越えて、ラップ・ナードであるという共通点によって奇跡的にベスト・パートナーになったと。もちろんニューヨークと南部でもラッパーとしてコラボするみたいなことはあるわけですが。

二木:そうですね。キラー・マイクとエル・Pみたいにここまでがっつりタッグを組んで立て続けにアルバムを3作も出すことはなかなかない。RTJは間違いなく素晴らしいので、あとは聴いてたしかめてください!ってことですね(笑)。

Masaki Toda - ele-king

 本作は、1980年生まれの画家、戸田真樹によるアンビエント・ミュージックである。戸田は降神や志人などのアートワークを手がけた人物としても知られているが、音楽家としての才能も素晴らしいものだ。

 彼は、自分の部屋で流す理想のアンビエント・ループを求め、調整に調整を重ねて、本作の楽曲を作り上げた(だからこそ『室内アンビエント』なのだろう)。完成当初は、ごく一部に配布されたのみであったが、一度、その楽曲に触れたものは、その正式なリリースを望んだという。それほどに素晴らしい音楽であったのだ。その意味で、このCD化は、まさに僥倖といえよう。彼の絵画作品を収録した小さなブックレットも、紙質・印刷ともに素晴らしいものだ。
 
 私は、このCDを入手してから気がつけばえんえんと流している。そう、誇張抜きで「ずっと聴けてしまう」作品なのだ。なぜだろうか。そのループのテンポ、レイヤー、音色が人本来のリズム感覚と絶妙にシンクロしているからだろうか。どのような状況でも、ごく自然に、体に入ってくるのだ。まるで絵画の色彩のような音。私は本作を聴きながら、戸田の絵画作品のように空間に溶け込んでいく色彩感覚を感じたものだ。

 もちろん、本作は単純なループものではない。水の音、淡いピアノ、透明なギター、声、微かなノイズなど、さまざまな音が繰り返され、重ねられていく。その音の連鎖は心を鎮静化する。暮らしの中の空気を変える。しかし大袈裟に主張するわけでもなく、時間の中に溶け込んでいくのだ。
 
 アルバムは傷だらけの、しかし親しみ深い古いレコードを再現するかのような淡いピアノの音色を反復する“始まり”から幕を開ける。つづく2曲め“なだらかな丘”では、ぐっと音像が広がり、厳しさと心地よさを兼ね備えた水の音にピアノの音色が折り重なり、桃源郷のようなアンビエンスが展開されていく。3曲め“ライト”では木琴のようなカラカラと乾いた音に、ときに深い響きを与えて反復させていく。

 そして4曲め“理想夢”。この曲こそ、アルバムを象徴するトラックに思えた。微かな声、水の音、アコースティック・ギターの旋律の差異と反復。まさに白昼夢的な音響空間が耳と身体と空間に浸透していく。以降、“スペース”“前世1 Part2”と、深い音の領域へと潜るように音楽が紡がれ、最後の曲“ミッド・ピアノ”では、再び夢の中で聴いたようなピアノが鳴りはじめるだろう。そこに不意に介入するような声と電子音が、現実と夢の関係を反転する……。
 こうして全曲を通して聴いてみると、音色やループの絶妙さもさることながら、アルバムとしての構成が非常に練られていることがわかってくる。1曲めからラストまで、ひとつの(複数の)時の流れが見事に織り上げられているからだ。それは「物語性」というよりは、記憶の表層をやさしく刺激し、より深い意識の領域の光を当てる……そんな「時間」の生成だ。

 断言しよう。このアルバムはアンビエント・ミュージックの傑作である。だが急いで付け加えておくと、このアルバムに傑作という大袈裟な言葉は似つかわしくない。慎ましく、繊細で、しかし、大胆な試みが、そしらぬ顔で遂行されているアルバムなのだ。そう、永遠に聴けるアンビエントを目指すこと/実現すること。

 私はここに10年代初頭からひさしく失われていた「ひとりのための音楽」という大切なアティチュードを感じた。ひとりからひとりへ届く音。ある部屋から生まれたアンビエントが、また誰かの部屋のアンビエンスを満たすこと。永遠に聴ける孤高のアンビエント。そんな「ひとりのための音楽」を求める音楽(アンビエント)愛好者にぜひとも届いてほしい。そう心から願うアルバムである。

interview with Back To Chill - ele-king


Various
GOTH-TRAD Presents Back To Chill "MUGEN"

Back To Chill/Pヴァイン

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 バック・トゥ・チル(BTC)が誕生して8年、そう、8年……、ようやくここにそのレーベルが誕生した。いままでバック・トゥ・チルにレーベルがなかったことが不自然なほど、ゴス・トラッド、100マド、エナの3人は、国内外のレーベルから作品を出しているわけだが、晴れてここにクルーのプラットホームが生まれ、彼らの音が結集したことは、日本のシーンにとってたいへん喜ばしいことである。
 昨年リリースされたコンピレーション『MUGEN』がその第一弾となる。ここには、ダブステップ以降の、ケオティックで、ある種何でもアリ的な今日のシーンにおける、彼らなりの姿勢がよく表れているし、それぞれ違ったバックボーンを持つクルーのそれぞれの個性もまったくもって、よく出ている。彼ららしく、先走ろうとしているところも、収録された興味深い楽曲に結実している。今後のクラブ・カルチャーを占う意味でも、興味深いアルバムだ。
 以下、レーベルのコンセプトやヴィジョンについて、ゴス・トラッド、100マド、ENAの3人が話してくれた。

「なぜ、いまレーベルをはじめたのか」


Goth-Trad

ネットでいくらあげても、いまは誰もがやっていて、たくさんあり過ぎるから、人に聴いてもらうには何かしらのキッカケはやっぱり必要だと思うんです。レーベルをはじめたいなとはみんなで言っていました。2012年にアルバムを出したら新しいことをやりたいと思うようになったんです

パーティとして〈バック・トゥ・チル〉が2006年に開始してから8年目にして、コンピレーション『ムゲン』の発売と同時にレーベルがはじまりました。なぜいまになってレーベルをはじめることになったのでしょうか?

ゴス・トラッド(Goth-Trad、以下GT):レーベルをはじめる時間がなかったというのはありました。

考える時間は必要だったんですか?

GT:やっぱりある程度の曲が揃わないと出したくないと思っていました。競争率というか、ダブステップという言葉とレーベルが過渡期だったというか。レーベルの量もハンパなかったし。2006〜11年くらいは〈バック・トゥ・チル〉のアーティストもダブステップを中心にプレイしていました。だから、その時期にダブステップというイメージを付けてレーベルをはじめるのは果たして良いのかと思っていたし。

うん。

GT:いずれはレベル・ファミリアだったりとか、もうちょっと幅広いことをやりたいなというのもあったので。あとは自分のアルバム『ニュー・エポック(“NEW EPOCH”, 〈DEEP MEDi Musik〉, 2012)』をリリースして、ツアーもひと段落したというのもあるし。

具体的に理想とするレーベル像はあったんですか?

GT:何年も一緒にやってきたアーティストや、日本で良いものを作っているひとを中心に出したいなとは最初から念頭に置いていて、それにプラス・アルファで自分が繋がってきたアーティストにリミックスなどで参加してほしいとは思っていましたね。

〈バック・トゥ・チル〉には8年の歴史があるけど、コンピレーションを出すのが今回が初めてって、ちょっと意外ですよね。もっと早くやってても良かったんじゃないかと思ったりもして。

GT:単純に自分はUKの〈ディープ・メディ〉にどっぷり所属してやっていたというのもあったと思うし。みんなダブステップが共通項にありつつも、ちょっとずつ変わっていっている面もあって、エナくんや100マドくんや自分自身もそうだし。最初の〈バック・トゥ・チル〉からのその変化の過程をレーベルとして打ち出していきたかったんです。そのタイミング的にいまかなと。コンピレーションの曲にしても納得のいくものが1年前とかだったら揃わなかったと思うし。勢いに乗ってやっちゃえばいいというノリではできないとも感じていて。

いつかはやりたいという気持ちはあったんだ?

GT:もちろんありました。基本的に焦ってやりたくないなというのがあって。

『ニュー・エポック』もなかなか出なかったもんね。ゴス・トラッドは〈バック・トゥ・チル〉をはじめる前くらいからそうやって言っていた記憶がある。「ダブプレートを作って12インチを交換するのが良いんだ」みたいな。そういう意味では本当に時間はかかったという気がする。

GT:それと、みんなダブステップを聴いてダブステップをはじめたってアーティストでもないから、この幅広さっていうのもこのレーベルに残したいなと。ダブステップというイメージは強いと思うけれども、それだけじゃない部分もレーベルにコンセプトとして入れていきたかったんです。

以前、100マドさんに「レーベルはじめないんですか?」と尋ねたら、「〈バック・トゥ・チル〉はゆるいから良いんだよ」と言っていたのが印象に残っています。

GT:ハハハハ。

他のメンバーともレーベルについては話し合っていたんですか?

GT:レーベルをはじめたいなとはみんなで言っていました。自分自身、この6年くらいは年間に4、5ヶ月はツアーでヨーロッパ、アメリカ、アジアとかを周って、帰ってきてまたちょっとホッとして、また次のツアーやリリースのために曲を作っての繰り返しで。さらに毎月自分のパーティをやりつつブッキングを考えて。ある意味「回している」感があって、そのなかでなんとかアルバムを作ってリリースしたんです。だから、落ち着いて音楽を幅広い目で見られない時期だったんですね。例えばその流れのなかでレーベルを開始することになったら、たぶんすごく狭い視野で「よし、ダブステップのレーベルで!」ってなっていたかもしれないけど、2012年にアルバムを出したらダブステップもあるけど新しいことをやりたいと思うようになったんです。

『MUGEN』のリリースを考えはじめたのはいつなんですか?

GT:3、4年前から良い曲をメンバーが作っていたら「その曲は〈バック・トゥ・チル〉で出したいな」とは言っていたんですよ。実際にパッケージにしようとなったのは2014 年の春くらいからですね。

今回、レーベルをここ日本ではじめたことによって、ダブトロさんのように特定のレーベルに所属していなかったアーティストに居場所を作ることができたように思います。そう考えると、エナさんには〈セブン・レコーディングス(7even Recordings)〉や〈サムライ・ホロ(Samurai Horo)〉という海外レーベルにすでにホームがあったわけですよね?

エナ(ENA、以下E):海外にはあったけど、やっぱり日本にはなかったから。それと日本にはいろんなプロデューサーやDJがいるけど、心底納得できるのはひと桁くらいしかいなくてゴスさんはそのなかひとりだから、そういうひとがホームを作ることは日本にとって大事だと思うし、クオリティのコントロールに関しても、ゴスさんの性格も知っているから変なものを出すこともないだろうから。 そういう面がブランドや信頼に繋がっていけば良いなと思っていました。

ダブトロ(Dubtro)さんやカーマ(Karma)はレーベルがはじまるまで曲を出さないようにしているって話も聞きました。

GT:インディペンデントのレーベルって曲をシヴにしたがるんですよ。とくにダブステップのシーンを何年か見てきて、「こいつ、あっちからもこっちからも出して……」って揉めてリリースがなくなったこともあって。俺はそこまで縛りたくもないし、音楽のジャンルも縛りたくなくて、ただ質の良いものを出していきたいと思っています。例えば、アーティストが自分の好きなレーベルから出せることの良さや嬉しさもわかる。それに名前があるアーティストを出したいわけじゃなくて、地方で良い曲を作っている子とかを巻き込みたいなというのもあって。やっぱり地方の子ってなかなかそういう機会がないから。

ネットを活用するひとはあんまりいないの?

GT:ネットでいくらあげても、いまは誰もがやっていて、たくさんあり過ぎるから、人に聴いてもらうには何かしらのキッカケはやっぱり必要だと思うんです。この間も岡山のDay Zeroって子が〈バック・トゥ・チル〉に来ていて、デモをもらったんですけどなかなか良かったんですよ。ちょうどツアーもそのとき組んでいて、「今度岡山にきたら僕がやります」って言ってもらったりとか。あと、〈バック・トゥ・チル〉って曲の作り方とかもみんなでディープに話すんですよ。どのソフトが良いとか、どのプラグインでこのベースを作ったとか。アドバイスして曲がよくなったら次のパーティに出てもらったり。こじんまりとしているけど、そういうサイクルを現場でやってきたんですよね。やっぱりその積み重ねでみんな良くなってきている。例えば〈グルーズ〉のドッペルゲンガーだったりとか、そのまわりのクルーだったりとか。

ドッペルゲンガーとも繋がっているんだ。

GT:ドッペルゲンガーは〈バック・トゥ・チル〉にしょっちゅう来てたし、音楽の話もみんなとしているから。

プラグインの話までするって、なんかすごい具体的な話になるんだね。

GT:ヨーロッパでも、みんなでそこまで話すんですよ。ネット上にそういう情報はいくらでもあるけど、英語でわかりにくい部分もあって調べる気にならないひとが多くて。日本語でそこまで説明しているサイトもないんです。
 もともと2006年に〈バック・トゥ・チル〉をはじめたきっかけもそこに関係しています。俺がマーラたちに出会って、自分はそれまでライヴしかやりたくないタイプでDJはひとの借り物をかけてるっていうイメージだったのが、UKのダブステップ・プロデューサーたちが1枚1万円くらいかけてダブプレートを100枚くらいプレイしている姿勢を見て、これはライヴに匹敵するものだなって思ったんです。DJ=プロデューサーという公式がいままで日本にはなかったから、ここでもやらなきゃなと思って、トラックを作っていた100マドくんに声をかけたんです。〈バック・トゥ・チル〉は曲を作っているアーティスト同士ではじめたものだから、曲の作り方について話すこともこのプロジェクトの重要な部分なんです。

ひと世代前のテクノのアーティストだと、機材やプロダクションに関しては手の内を見せたがらない人も多かったけど、いまの話を聞いているとかなりオープンになってきているんだなと。

E:やっぱり、いまは作るひとの数が多いですからね。

GT:本当にベーシックな情報はインターネットで誰でも調べられるから。

そうか、もう隠しても意味がないと。

GT:それに良いものを作るアーティストにはもっと良くなってほしと俺は思うし、そういうひとにパーティに出てほしいし、俺もその曲をかけられるわけですからね(笑)。そういうとこまで考えると良くなったほうが確実に良いんですよね。それから先はそれぞれのセンスとかの問題なので。

クレジット問題でも、ひと昔前だったら例えばゴス・トラッドが〈ディープ・メディ〉から出していたら、ゴス・トラッドの名義は他のレーベルでは使えなかったじゃない? みんなレーベルによってわざわざ名義を変えていたからさ。そういう面も現在はオープンになってきているんだね?

GT:いまはひとつの大きいレーベルが力を持っているんじゃなくて、小さいインディペンデントなレーベルがたくさんあるなかで、たくさんリリースをすれば良いわけじゃないけれど、「あっちにも、こっちにも顔がある」ほうがアーティストにはメリットがあると思う。レーベル側も他で出してくれることによってまた違う層にも広がると考えるし。

ジェイムス・ブレイクがメジャーと契約したときに、他のレーベルからもリリースができるっていう条件だったらしいからね。また〈1-800ダイナソー〉からのリリースも決定したし。

GT:そのアンダーグラウンドさっていうのはアーティストをかっこよく見せる要素のひとつだと思うんですよね。

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「『ムゲン』のコンセプトについて」


100mad

レコードをひたすら集めるか、自分でレコードを作るかの違いですよね。そこで「コイツ、ハードコアだな」って思ったり。ダブステップをディグりはじめたのって100マドくんのほうがたぶん早いんですよ。


Various
GOTH-TRAD Presents Back To Chill "MUGEN"

Back To Chill/Pヴァイン

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コンピレーションの中身についても訊いていきたいんですけど、いま話したように自分が本当に良いと思える曲を選んだのでしょうか? 具体的な選曲基準があれば教えてください。

GT:日本でトップ・クラスの曲を作っているアーティストが〈バック・トゥ・チル〉でプレイしていると俺は自負していて、そのなかから選んだと思っていて。

最終的な選曲のゴー・サインはゴスさんが出したんですよね?

GT:この曲は出したいっていうのは4年くらい前から言っていたよね?

E:ハハハハ、そうそう。

じゃあ古い曲とかも入ってるんだ?

GT:ふつうにありますよ(笑)。たぶん、100マドくんの “ヘヴィー・ウェイト・ステッパーズ”が一番古いんじゃないかな?

100マド(100mado以下、100):これ2006年とかの曲なんですよ。

●▲おー!

100:逆に“グライミー(Grimmy)”は一番新しいです。

“グライミー”では100マドさんが85BPMをやっていて意外でしたね。

GT:そこもさっき触れたように、ダブステップを一歩出たところをやろうよって3人で話して、俺とエナくんと100マドくんの曲は85BPMになっているんです。だからその3人の曲は比較的新しい。

聴いてみて、2006年の曲があるとは思わなかったな。

GT:例えば、1曲目のイントロっぽいダブトロの曲とかも去年できた曲で。ほかにも候補はあったんだけど、コンピレーションっていう感覚で集めたくはなくて。

一貫してストーリー性を持たせたかったということですね。

「コンピレーションという感覚で集めたくなかった」ってどういうこと?

GT:良い曲をひとりのアーティストから2曲集めてコンパイルしたというようにはしたくなかったんです。ダブトロの1曲目とカーマの最後の曲は、他にも良い曲はあるけどイントロとアウトロはこの曲でというふうに決めたんですよ。

E:ダンス・ミュージックのコンピレーションはシングルの寄せ集めというか、ツール的なトラック集というか。アルバムを作品として考えていないパターンがけっこう多いんじゃないかな。

どうして『MUGEN』というタイトルにしたんですか? 

GT:ハハハハ。それは軽い感じなんですけど、「8周年でTシャツ作んなきゃな〜」って夏前に考えていたら、「8って無限(∞)に見えんな。しかもムゲンってタイトルなかなか良いな」って思い浮かんで。英語でインフィニティってするよりもアルファベットで「MUGEN」のほうが良いなって思ってコレにしたんですよ(笑)。

E:そうなんだ、そこだったんだ(笑)。

GT:この3人ってバックグラウンドがちがっていて、いろんな音楽を通ってきているから、どっちの方向に進むのかわからない面もあって。例えば、パーティの最後にバック・トゥ・バックをやることになって、全然違うテクノをやろうってなっても対応できたりするんです。いろんなことができる面白みもあって、可能性も無限というか。

「ムゲン」はいろんな意味付けができる言葉でもあります。ジャケットのアートワークも夢幻の境地のようなテイストです。

GT:そのアートワークを手がけたのはパリのアーティストなんです。2014年の頭にツアーでパリの〈グラザート〉っていうハコでやったときに、イベントのプロモーターの彼女が俺のライヴ・セットを良かったって言ってきて。話を聞くと彼女はタトゥーの絵を描いているらしくて、絵も見せてくれたんです。それがすごく面白くて今後のために連絡先を交換したんですよ。それで今回のコンピのために描いてほしいとお願いしたら、「いまある絵はお店のストックだからあげられないけど、新規で書ける!」ということでやってくれたんですよね。彼女の絵には和の雰囲気がすごくあるのも興味深くて。

たしかに。

三田さんはこの作品を聴いてみてどうでした?

何回か聴いているうちに、「おっ、これなんだろう?」って必ず思うのが5曲目の100マドさんの“グライミー”なんですよ。正直、1、2曲目にはジャーマン・トランスの雰囲気があるなって思って。

GT:へー(笑)。

だから3曲目から聴きはじめるとかいろいろしてみたり。でも「ダブステップからはみ出したい」と言われてみると納得するところあって。いまってUKのシーンでも90年代のブレークビーツ・テクノをやり直したりとか、ダブステップがいろんなところを見ているでしょ。雰囲気はいろいろあるけど、でもイギリスのものだってわかるし。100マドさんに教えてもらって買ってみたポクズ&パチェコの『ザ・バングオーヴァー(Pocz&Pacheko,“The Bangover”,〈Pararrayors〉, 2009 ) 』とかは、ベースとかは軽いんだけど、ヴェネズエラって言われれば「そうか」と。フェリックスKのドイツっぽさもわかる。そういう意味で、『ムゲン』を聴いたときはひと言で言えば「日本っぽい」と思った。だから日本特有のジャーマン・トランス解釈じゃないんだけど、ダブトロさんの後半に入っている曲では、今度はレイヴっぽい音使いをしていたりするじゃないですか?  あの感じが他にはないと思うから特徴としてはそうかな。自分的には5曲目から入って6、7曲目といく流れがすごく好き。

GT:俺は、UKのやつらがやっているのばっかりを聴いていると飽き飽きとしてくるんですよ。

そうなんだ!

GT:日本って世界で各地から離れているから、アメリカもドイツのシーンも見るし。それと日本ってパーティにしてもヒップホップやって次の日はドラムンベースやってエレクトロをやるやつはたくさんあるけど、海外ってテクノはテクノ、ドラムンベースはドラムンベースってなっていて、雑多なイベントは存在しないじゃないですか? それは日本のすごく良いところだと思うんですよ。自然とみんないろいろ聴いて育ってきているし。それもあって今回のコンピレーションはこういう選曲になったんだと思いますね。

俺はゴス・トラッドがダンス・ミュージックにいった時点でびっくりしたからね。「えっ、ノイズじゃないの!?」みたいな。

GT:そうですよね(笑)。でも、2012年にアルバム『ニュー・エポック』を出してから自分のやってきたことを振り返って、いま、また昔のノイズのサンプルを引っ張りだしてきてそれで曲を作ったりしてるんですよね。

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「ノイズ/アヴァンギャルドとBTC」


ENA

俺はトラップはヒップホップだと思うから、ベース・ミュージックだとは言いたくないんですよね。ベースありきなのかもしれないけど、トラップはベースありきじゃなくていいというか。俺が思うかっこいいベース・ミュージックっていうのは、ベースがあってグルーヴがあって踊れるものというか。そこが重要だと思っているんですよね。

100マドさんとエナさんはダブステップにくる前は何をしていたんですか?

100:僕は京都でノイズ・グループのバスラッチなどでインプロをやっていましたね。京都って当時そういうカルチャーが根付いてたんですよ。

えっ、そうなの?

100:〈メゴ(Mego)〉とかの音響ブームのときに、大阪とかよりも京都の方が盛り上がってたんです。パララックス・レコードというお店があって、いわゆるアヴァンギャルド系はもちろん、ダブのレコードでもそういう観点で面白いものを聴いてみたりとか。初期の2ステップもジャングルも面白かったらなんでも聴い ていましたね。そういうところでバイトしていて、音楽の聴き方に20歳くらいのときにすごく影響を受けたんですよ。

じゃあ京都出身なの?

100:生まれは金沢で、大学で京都に出てきて5年くらいいました。自分の音楽遍歴をあえて言うなら、アヴァンギャルドとジャングルを並行してずーっと聴いていた感じです。東京に出てきたのは10年くらい前で、ちょうどそのときは自分のなかでダンス・ミュージック熱が下がっちゃっていて。当時代々木にあった伊東(篤弘)さんがやっていた〈オフサイト〉ってギャラリーとかに行っていて、当時流行っていた微音系を聴いていました。ホント鳴るか鳴らないのかわからない音を(笑)。

じゃあ現代音楽のほうにもいっていたんだ。

100:三田さんが『スタジオ・ヴォイス』に書いた「ひと通りシュトック・ハウゼンとかフルクサス系とか聴いたけど、入れこみ過ぎて離れていった」とかそういう記事も読んでましたよ。

全然憶えてない(笑)。

100:ダンス・ミュージックとアヴァンギャルド系ってけっこう聴き方は近い気がします。

GT:あったね。俺がガンガンにノイズやってたのってそのときだもん。ヒップホップのパーティとかでね。〈ノイズのはらわた〉ってイベントとか『電子雑音』って雑誌とかがあったときだよね。

100:そんな中2002年くらいって日本にオールミックス・ブームみたいなのがあって、シロー・ザ・グッドマンとかが出てきて。あとはヒカルさんとか、ケイヒンくんもそうだし、タカラダミチノブとか。あのへんはいかに違うジャンルのレコードを混ぜるかってチャレンジしてい 。ブレイクコアの次に演歌がきて、演歌の次にサーフロックがきて次にテクノいきますみたいな(笑)。そんなときにデジタル・ミスティックズとかスクリームのミックスをネットで聴いたら、全曲がBPM140で、しかも自分と友だちの曲しかかけてなかったんです。すっごく狭い感じがしたんですよ (笑)。日本では、ディグる&混ぜるセンス競争みたいなものがあって、それに対してむこうで起きていることは正反対というか、点でしかないっていう(笑)。

そうだよね。

100:それが逆にすごくショックで。最初のときは、「このひとたち音楽を知らないのかな?」って思いました。

スクリームが来日したときにまったく同じことを聞いたら、テクノを聴いたことないって言ってたな。本当に知らなかったみたいだね。

100:ピンチとかはテクノなど幅広く聴いていて、マーラはレゲエに詳しいけど、シローくんみたいなごった煮感は誰も持っていなかった。けど逆にそこが面白かったんですよ。

めちゃくちゃ詳しいか全く知らないかのどっちかだよね。

GT:さっき俺が言った、レコードをひたすら集めるか、自分でレコードを作るかの違いですよね。そこで「コイツ、ハードコアだな」って思ったり。ダブステップをディグりはじめたのって100マドくんのほうがたぶん早いんですよ。100マドくんはブラックダウン(Blackdown)とかを日本に呼んでいたもんね。

ブラックダウンが日本に来たときに100マドさんとゴスさんが初めて絡んだんですよね?

GT:ちょうどそのときにパーティをはじめようと思っていて、日本で同じことをやっているやつはいないのかとネットを探しているときに100マドくんを見つけたんですよ。それで俺が連絡して、「今度DJするから会おうよ」って。

彼のレーベル〈キーサウンド・レコーディングス(Keysound Recordings)〉がはじまったのが2005年なのでかなり早くから注目していたんですね。

100:その来日が2006年です。そのときブラックダウンはダブステップに詳しい音楽ジャーナリストみたいな感じだったんだけど、ブログに「日本に旅行に行くから、ジャパニーズ、誰かブッキングしてくれって」って書いていたんですよ。それで「僕がやる!」って返事をして。

GT:当時100マドくんとは「このレアなやつ知ってる?」「知ってる!」って話をしたりね(笑)

レアなやつをちょっと挙げてみてくださいよ。

100:よくノイズの話をするときは、ザ・ニュー・ブロッケイダーズですね。

GT:ニュー・ブロッケイダーズやばいよね。

なるほど。その話は掘り下げなくていいです(笑)。

GT:ハハハハ。「〈ワードサウンド(WordSound)〉のサブレーベルの〈ブラック・フッズ(Black Hoodz)〉の10インチのやつ知ってる?」とかね(笑)。

なるほどね。ではエナさんは?

E:俺はアブストラクト・ヒップホップですね。ヒップホップからアブストへいきました。でも90年代にはジャングルとドラムンベースがあったので、そこからUKのほうを聴きはじめて。俺はどっちかっていうとドラムンベースなんですよ。

じゃあ唯一ずっとダンス・ミュージックなんですね?

E:もちろんIDMとか音響みたいなものは好きでしたけどね。

そこは作品からも感じる。

E:だからダブステップへの入り方が違うかもしれないですね。2005、6年とかにペンデュラムとか〈サブ・フォーカス〉とか商業的なドラムンベースが 出てきて飽き飽きしていたときに、UKアンダーグラウンド直球のデジタル・ミスティックズやスクリームを聴いて興味を持った感じです。

ドラムンベースからダブステップへ乗り換えた意識が確実にあるわけだ。

E:ずっと並行してやっているんですけどね。ダブステップと同時に、2008、9年にロキシー(Loxy)とか〈オートノミック(Autonomic)〉とか面白いドラムンベースも出てきたので完全に乗り換えたつもりは全然ないんですよ。

また最近ダブステップとドラムンベースが近づいた印象がありますけどね。ダブ・フィジックス(DubPhizix)とかサム・ビンガ(Sam Bingaを聴いていると近寄ってきたかなって。

E:どうなんですかね。でもあれはFootwork的なアプローチだと思うし、だからダブステップのひととリンクしている感じはないんじゃないかな。

GT:ドラムンベースのあとにできたダブステップがあって、ドラムンベースのひとも別名儀でダブステップを作るし。

エイミットはややこしくて、ドラムンベースでトロニック名義を使ったりしてるしね。

GT:ですよね。でもそのへんってUKのベース・ミュージックの根本的なところになっちゃったし、アーテイスト間の繋がりも強いからそのふたつを分けている感はないというか。

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「ベースであってベースでない」

「EDMほど俺はバカ騒ぎしないぜ! でもダブステップは男塾すぎる。俺はもうちょっとハウスなんだよね」みたいなひとがベース・ミュージックって言っているのかなって。


Various
GOTH-TRAD Presents Back To Chill "MUGEN"

Back To Chill/Pヴァイン

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さっきゴス・トラッドが「UKのものばっかり聴いていると飽き飽きとしてくる」って言っていたけど、ゴス・トラッドが出てきたのはUKじゃないですか?

GT:はい。

それはUKのシーンに対するアンビヴァレンスな気持ちがあるからなんですか? それとも本当にいまのUKはダメということ?

GT:いや、そういうわけじゃないです。例えば、UKダブステップがあって、「次はブローステップだ!」っていうとこのアンサーみたいな感じでダンジョ ン・スタイルと言われるダブステップがバーンと出てきて。 またみんな似たようなダンジョンの曲を作っちゃって。 そういう状況が、俺からしたらどっちも同じみたいな。さっき言ったのはUKだからってわけでもなくて、ひとつのものに一瞬火がつくとみんな作っちゃうっていうね。そうなっちゃうとつまんないなと思うというか。

それだけ出せるのがすごい気がしちゃうけどね。

GT:そうなんですけどね。そういう意味で、「ドラムンベースがつまんなくなった」ってエナくんが言っていたけど、自分もジャングルからドラムンベースを聴いていて、初期は面白かったけどだんだん型にはまっていって、なんかつまんなくなったなと思っていたのもあるし。アブストラクト・ヒップホップもはじめは歌モノが出てきたりとか、インダストリアルっぽいものが出てきたりとか面白かったけど、だんだんみんなコピーするのが上手になってきちゃう。最終的にはアブストラクトなSEが鳴っていて、そこにロー・ビッドなビートが入ってくれば良いみたいな雰囲気になったじゃないですか? それで「あー、面白くないな」って思ったんですよね。

同じことをいま、ダブステップに感じているってことなの?

GT:そう感じている部分もあるんだけど、やっぱり信用できるアーティストは面白いものを作るんですよね! 去年のクロアチアでの〈アウトルック・フェスティヴァル〉で〈ディープ・メディ〉のステージとかでやっても、カーンとかコモドとかはすっげえ変な曲を作っていて、「良いアーティストは面白い曲作んなー!」って思うんですよ。

そうだよね。去年〈ディープ・メディ〉から出たKマンの“エレクトロ・マグネティック・デストロイヤー”とか買おうか本当に迷ったもん。

GT:そうですよね。だからシーンそのものがっていうよりも、アーティストによる話だと思うんですけど。

最初の質問の「なぜいま〈レーベル〉なのか?」という質問に関連するけど、シーンを俯瞰してみるとやっぱりダブステップも紆余曲折があって、そのなかで〈バック・トゥ・チル〉が目指した良い音楽がここにあるとは思う。だけど、そういう意味ではみんながいろいろやっているじゃない? 例えばピンチは〈コールド・レコーディングス〉をはじめてテクノをやってみたりとか、さっき言った90年代回帰してバック・トゥ・ベーシック的になってみたりとかね。そういうシーンのなかで、何を思ってレーベルをはじめたんですか?

GT:俺が思う本物のベース・ミュージックをやりたいんですよね。

その「本物」って?

GT:ベース・ミュージックとかEDMとか言葉が出てきてごちゃーとしちゃって、いまってそれをさらにシュレッダーにかけた状態じゃないですか。で、俺はテンポ感覚とかって関係なくなっちゃっていると思っていて。パーティとしてはジャンルを付けたいのかもしれないけれど、〈バック・トゥ・チル〉に関しては関係なくやりたいと思っているんですよね。本当に良いベース・ミュージックというか。
 例えば、俺はトラップはヒップホップだと思うから、ベース・ミュージックだとは言いたくないんですよね。ベースありきなのかもしれないけど、トラップはベースありきじゃなくていいというか。俺が思うかっこいいベース・ミュージックっていうのは、ベースがあってグルーヴがあって踊れるものというか。そこが重要だと思っているんですよね。

あんまり跳ねるの好きじゃないでしょ? トラップもそうだし。

GT:うーん。トラップって雰囲気の低音なんですよ。ベース・ミュージックというよりは低音が鳴っているだけというか。

100:ベースラインがないんだよね。

GT:そうそう! 俺はやっぱりレベル・ファミリアで秋本(武士)くんのダブのベースを聴いてきて、ダブを通過したひとの奥深さがやっぱり自分にフィードバックされているんです。UKの子たちのすげえ曲って、レゲエとかを通過しているというか。日本のプロデューサーが持ってくる曲を聴いて感じるのは、やっぱりそこのセンスがちょっと足りていないように聴こえるんです。雰囲気の低音は鳴っているし、上もちゃんとプログラムされてメロディもちゃんと乗っているんだけど底がないというか。そこってすごく重要だけど、一番わかりづらいんです。

日本で行われている〈アウトルック・フェスティヴァル〉で〈バック・トゥ・チル〉のクルーを見ていると、他の日本のアーティストのなかで、レゲエっぽさが全面に出ていないという意味で、浮いている印象があります。でも、そのレゲエっぽさがあまり感じられないから、僕は〈バック・トゥ・チル〉が好きだと感じる部分もあるんですよ。

GT:俺が秋本くんとレベル・ファミリアをやっていて考えていたのは、わかりやすいレゲエっぽいベースのところを一番聴いてほしいわけじゃないんですよ。例えば、いわゆるレゲエのベースラインのところじゃなくて、一番ドープなところはワンコードで「ドゥー、ドゥー、ドゥー、ドゥー」って潜って行くところだったり。実はそこが一番ヤバいダブのベースっていう認識ですね。テクノでいう盛り上がってからキックとベースだけに戻ってくるところが一番かっこよくて、「うぉー! きたー!」ってなるじゃないですか?

おー、なるほど。

GT:レイヴとかでも、「わー」ってなって、上モノが一切なくてキックとベースだけになったスッカスッカなところが一番グッとくるんですよ。

俺はS-Xの“ウー・リディム(“Woooo Riddim”,〈Butterz〉,2010)”みたいにリズム・トラックだけで成立する曲がすごく好きなんですよ。そういうところか聴くと、〈バック・トゥ・チル〉は上が多いと思う。雰囲気を作る曲というか。

100:ジャーマン・トランスだ(笑)。

だからもっとリズムだけで勝負できる曲があってもいいと思う。

GT:たしかに今回のコンピレーションはそうかもしれないですね。ただ、アルバムとして考えたときに、やっぱそういうアップ・ダウンが欲しかったんですよ。

全体的にイントロっぽい曲が多いなと思ったんですよ。1曲目のもつイントロとしての感じもわかるけど、8曲目でもどこから入ってもはじめられそうな気がするので、いまいったようなリズムだけで攻められる曲があったら嬉しいなという感じはあります。

GT:なるほど。でも自分はそういう意味でドラムとベースの良さが出ている曲をやりたいんですよ。

そこは日本人が一番理解していないところだと思うんだよね。

GT:やっぱり日本人って上モノのキラキラさとか、前に出ているドラムとかに反応しやすいんですよ。だから音数が多くなったりするから、余分なパーカッションを減らして、その隙間のグルーヴをベースで動かしたりしたほうがいいんじゃないと思うことが多いので。

Jポップを聴いていても本当にリズムが関係ないと思うしね。そこを聴いているひとがいないというか。俺は日本からあるリズムのジャンルが出たら絶対にすごいと思う。なんだかんだ言ってもいままではお手本があってやってきたでしょ? ダブステップやジュークもそうだけど、日本発のリズムってないじゃないですか? これはやってほしいよね。

E:この前話していたんですけど、ゴスさんも最近やっている85とか170のドラムンベースのテンポで、ダブステップとかけ離れた感じの曲をヨーロッパでDJとして現場でやっているひとがけっこう少ないんですよね。

GT:BPM85の遅い4つ打ちってある意味、ヒップホップのテンポなんだけど、ドラムンベースのグルーヴにもノれるし、隙間もあるからダブステップ的な良さもあるというか。だけどテンポ的には全然違うというか。それでミニマル・テクノみたいなアプローチもできつつっていうのがこの3人で流行っていて(笑)。

E:そういう曲を海外でかけているひとが少なくて、ゴスさんと「ヨーロッパで実際にかけてみてどう?」っていう話をしていたんですよ。反応はよくも悪くもイベント次第なんですけどね。ゴスさんと俺がヨーロッパで出るパーティって全然違うフィールドでのブッキングだからそこでの反応も違うけど、去年の10月のヨーロッパ・ツアーでは「どうやって踊るかわからないけど楽しかった!」っていう良い意見があったんですよ。

おっ! 日本発いくか?

GT:そういうことをパーティを毎月やっているわけだから、試しながらできるわけですよ。

なるほど。そのリズムが〈バック・トゥ・チル〉のテーマだということはベース・ミュージックのひとつの解釈として面白い話だと思います。

GT:それが日本発になるのかわからないけど、やらないとどうしようもないというか。そういう意味で現場があるのはありがたいです。それを作ってキープしていかなきゃいけないし、それを裏で話していくことはやっぱり大事だなと思います。若い子たちも「ゴスさん、最近変なテンポやってますよね? 僕も最近作ってみてて」っていうひとがけっこういるんですよね。狭いながらそういうコミュニティも作っていきたいから。

その小さいコミュニティがもっと大きくなってほしいとは思いますか?

GT:もちろんそうですね。まずは、実際に作品をリリースしなきゃいけないと思うから、今新しいアルバムも作っているんですよ。「こういうBPMで、こういう曲をやってみんなで楽しんでいます」って文章にして書きたくもないとうか(笑)。

そりゃそうでしょ(笑)。

E:でもいまみたいな感じになったときに、最初にこれをやろうって相談があったわけじゃなくて、基本的にみんな勝手にやってるだけなんですよね。この3人も音楽的に共通する部分があるようでないのかもしれないから、自由にやっていて面白いと思っている部分がリンクしただけというか。

GT:100マドくんとかはBPM100の曲をずっと作っていて、それを「85まで落としてみたら?」って薦めてできた曲が“グライミー”なんですよ。

100:そうそう。これはもともとBPMが100だったんですよ。

さっき秋本くんの話も出たけど、ジャマイカの音楽ってたとえ実験的でも大衆音楽じゃないですか? キング・タビーを誰が良いかって言ったというと、まずはそこで踊っているファンであって。

GT:それはすごくあると思うけど、それをわかり易くするために自分のやりたくないことやるかってなると別なんですよ。さっき言った遅いビートにイケイケのドラムンベースをミックスしたらわかってくれるんじゃないかとか(笑)、そこまではやりたくないんですよ。でも、何かしらのきっかけみたいなものは自分でセットを作っていますけどね。チルな部分とアガる部分をイメージしながらやっています。でも、日本の場合だと作品を出してからなのかなと。

〈バック・トゥ・チル〉は、高橋くんの世代にもちゃんと伝わっているの?

ひとつ言えることは、僕は〈バック・トゥ・チル〉は先鋭的なことをやっていて好きだけど、日本のベース・シーンと言われるもののなかで、他に良いと思えるものがあまりないというか。それはベース・ミュージックという言葉の使われ方にも表れていると思います。〈バック・トゥ・チル〉で使われているような意味とは別に、「ベースが鳴っていればOK」みたいな解釈でその言葉を捉えているひとも多いですからね。深い解釈も安易な解釈もあるから、僕は文章を書くときは「ベース・ミュージック」って鍵括弧付きで使うんですよ。

『ベース・ミュージック・ディスクガイド』というカタログ本も、ダブステップもマイアミ・ベースも同じ「ベース」という解釈だったよね。そういう認識なの?って思ったけど。

100:ベース・ミュージックって言葉が出てきたとき、ゴスは最初っから批判的だったよね。「ベースがない音楽ってなくない?」みたいな。

GT:いま適当に思い付いた名前だけど、〈ベース・アディクト〉みたいなパーティってたくさんあるじゃないですか(笑)? そういうパーティって4つ打ちのエレクトロとかもベース・ミュージックに入っちゃうんですよね。

100:いままでだって低音がない音楽がなかったわけじゃないもんね。

GT:そうそう。だから、「これをベース・ミュージックっていうと全部じゃん」ってね。

現在のタームでいえば、「ベース・ミュージック」って言葉はイギリスから広まったんだよね。ダブステップっていう言葉を使いたくなくなったときに、その言葉が出てきた感じがしたな。俺はダブステップよりもグライムが好きだったんですよ。そういうときに「ないまぜ」というか、ベースって言えば済むかなってなった気もしますね。

GT:それはあるかもしれないですけど、ひと括りになりすぎている感じもあって。

100:言葉として便利すぎるというか。ダブステップからディープで暗いところを切り離したいひとたちが言葉を広めた印象が当時はありました。ブローステップだったりトラップも同じ感じで、ダブステップのアンダーグラウンド感が自分たちには違うなってアーティストが使いたがっているんだろうなと思いますね。

逆にダブステップがEDMみたいなものになっちゃったから、アンダーグラウンドのひとたちが前向きにベース・ミュージックって言葉を使っているのかと思っていたな。

100:もちろんそういう前向きな意味がある一方、「EDMほど俺はバカ騒ぎしないぜ! でもダブステップは男塾すぎる。俺はもうちょっとハウスなんだよね」みたいなひとがベース・ミュージックって言っているのかなって。でも、そういう〈ナイト・スラッグス(Night Slugs)〉とか〈スワンプ81(Swamp81)〉みたいな格好いいレーベル以外のひとも、ベース・ミュージックって言葉をトレンディに使いやすくなっていて意味がわからい状況になっているんじゃないですかね。

GT:いまとなってはベース・ミュージックもなくなってきたんじゃない? UKの俺も周りのやつとかはサウンドシステム・ミュージックって呼んでますね。

100:それはベース・ミュージックと線引きしようとしてるんじゃないの(笑)?

GT:なるほどね。でも、実際に〈バック・トゥ・チル〉はサウンドシステムを入れてやっているからね。

まぁでも、秋本くんとゴス・トラッドが揃うと男塾っぽくなるよね(笑)。

GT:ハハハハ!

このコンピレーションにも女性はいないんでしょ? わりとドラムンベースでは踊るのが好きな女のひとが多いじゃない? そのなかから作るひとが出てこないんですかね。

GT:あんまりいないですね。

100:いてもやめちゃうケースが多いかな。

E:まぁでも作る側のひとはどのジャンルもそうじゃないですか?

海外は女性で作るひとが増えてきたよね。

日本でも何人かいますよね。

GT:最近はソフトウェアからアナログに戻っている感じがあるじゃないですか? パソコンでプラグインを使ってやる作業が苦手な女のひとって多い気がするんですよ。でもドラムマシンで打ち込んでいくのはできると思う。エレクトロ・パンクのピーチズはローランドのMC-505一台で作ったって言ってましたね。

E:キョーカさんはわりとアナログ派ですよね? 年明けのライヴもものすごく良くて。いままでのメランコリックな部分がなくなって、〈ラスターノートン(Raster-Noton)〉で一番暴力的な感じになったというか。

彼女はリズムが弱いかなと思っていたから、ドローンをやればいいと思ってた。

E:そっちじゃなくてまさに暴力的な感じにいきそうな気がしましたけどね。年明けのハッピーな雰囲気をぶち壊してましたよ。

ダイヤモンド・ヴァージョンの影響なんじゃない?

GT:いまはインダストリアルの音がすごくきている感じがあるから、ダブステップでもそっちっぽいやつがあるんですよ。いまのコモドもバキバキな音ですよね。ディープなダブステップなんだけど、鳴っている音はインダスっぽいっていうか。この前マーラがかけていたダブもフランス人って言っていたけど、昔の〈ワードサウンド〉みたいにダークなんだけど鳴っているキックとスネアがインダストリアルみたいで、さらに音がスカスカというか。

エンプティセットみたいなではなく?

GT:ああいうパキパキな感じの音じゃなくて、音に丸みはあるんだけど歪んでいるみたいな。

タックヘッド(『テクノ・ディフィニティヴ』P95)とか?

GT:雰囲気的にはそういう感じはしますね。マーク・スチュアートのようにハードコアなんだけれども、アナログ的な丸みがあるというか。

ダブが現代的にちゃんとアップデートされている感じなんだ?

GT:うん、そうれはありますね。

去年〈トライ・アングル〉からリリースされたSdライカ(Sd Laika)の『ザッツ・ハラキリ』は、ゴスさんがノイズをいまも続けていたらこうなっていたかもな、と思わせるような作品でした。いろんな音がサンプリングされたノイズ音にBPM140のビートが入ってきたりするんですよ。

GT:エイフェックス・ツインがこの何年かで面白いと感じたのはSdライカって言ってたね。

そうなんですよ。ガンツもそのアルバムを評価していました。Sdライカとゴスさんの曲を比較してみると、Sdライカにはビートが少しリズムとぶれたり、音がチープな感じになっていたりと「軽さ」みたいなものがあるんですよ。これはゴスさんの曲などではあまり見られないと思うんですが、こういう表現にも興味はありますか?

GT:うーん、「軽さ」ね……(笑)。

俺が最初にジャーマン・トランスっぽいと思ったのは、2013年に〈ディープ・メディ〉からでたゴス・トラッドの“ボーン・トゥ・ノウ(Born To Knoow)”ですよ。あの盛り上がるところにジャーマンっぽさを感じたんですよ。「軽さ」ではないかもしれないけどね。

「軽さ」のイメージでいうと、アントールドが〈ヘッスル・オーディオ〉から“アナコンダ”を出した感じに似ていますかね。

E:シリアスさが薄いというか、そこの微妙なバランスだよね。

ちなみになんで“ボーン・トゥ・ノウ”だったんですか? 気になるタイトルですよね。「何かを知るために生まれてきた」って何なんだろうって思って(笑)。

GT:もう雰囲気ですよ。まず最初に、他にはないタイトルをつけようと思っているから、「ボーン・トゥ・ノウ ダブステップ」で検索して出てきたらナシなんですよね(笑)。

あと、さっきのパチェコ(※ヴェネズエラ出身、スペイン在住のアーティスト)のコンピレーション・ミックスにエナさんと100マドさんが入っている理由も気になりました。

GT:このきっかけは100マドくんとパチェコが出したスプリット・アルバムを2009年に出して繋がっていくんだよね。

E:俺はその作品でリミックスとマスタリングをやってるんですよ。それで自分の曲がミックスで使われたのはパチェコとやりとりしていた縁ですね。

100:それで僕らの曲が入った感じです。もういまはこのパチェコもポクズもスペインにいて。

E:ヴェネズエラは治安が悪すぎてって言ってましたね。

チャンガトゥキ(※アルカも影響を受けているヴェネズエラのゲットー音楽)やクドゥロ(※アンゴラのダンス音楽)のコンピを買ってもこのひとたちは入っているから。ワールド系とダンス・ミュージックが混ざったところには必ずいるっていう(笑)。

100:もういまは名前も変えちゃって、昔のクリアーみたいなエレクトロをやっているんですよ。あそこまではビート感はないですけどね。

でも彼らの曲ってベースが薄いんだよね。

100:そうなんですよ。いまはより一層ベースがない感じです(笑)。

E:そのコンピに入っているカードプッシャー(Cardopusher)はいまは〈スワンプ〉っぽいエレクトロみたいな感じなんですよ。

GT:けっこうみんなどっかに行っちゃった感があるよね。なんか俺はさっき言ったような曲を去年はずっと作ってたけど、もう一度いわゆるダブステップというものを見直して年末くらいに1曲作っていました。それを送ったら反応が良くて、こんど〈ディープ・メディ〉からまた12インチを出すことになったんですよ。自分のなかで6〜7年はどっぷりで、時間もなかったからとりあえずBPM140のダブステップを作って、リリースに備えて、ツアーに出てという繰り返しで他を見る感覚もなかったんです。おととしくらいからまたいろいろ聴き出して面白くて別のテンポのものを作りはじめたというのがあって、また一周してダブステップが作りたくなったというか。ベースはそこにあるから、そこを進化させたかったというのもあるし。ダブトロとかはそれ一本で作っているし、海外の〈アウトルック〉とかに行くとやっぱり面白いものは生まれているって感じるんですよ。そこで曲を送って繋がったりっていうのをこれからも続けなきゃなと思いますね。

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「ハードかつゆるくやりましょう」

これからも本当に面白いものが出てくると思います。自分的にはすげぇ多くのことに興味があるんですが、生の音楽の音自体にすごく興味があって。この前、ドライ&ヘヴィーのミックス・ダウンをやって、やっぱこれが自分のダブだなっていうのをすごく感じたし。ロック・バンドのミックス・ダウンもやったりしたし、いまはノイズ・コアのバンドのリミックスをやっていたり、そっちも面白いなって思っているんですよね。


Various
GOTH-TRAD Presents Back To Chill "MUGEN"

Back To Chill/Pヴァイン

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ちなみにレーベルとしての今後の予定はありますか?

GT:ダブトロや100マドくんは最近リリースがないから、できたらEPみたいなものを出していきたいなというのもあるし、自分のアルバムを〈バック・トゥ・チル〉から出したりとか。レンチのドラマーのムロチンさんとやっているバーサーカーや、あと今年はレベル・ファミリアでも曲をつくっていこうと思っています。
 みんな個人でたくさん動いているけれど、さっき言っていたみたいに、ここに居場所を作るっていうのは良い目標になるというか。ダブステップのダブプレートを作ってそれをかけることは面白いけれど、じゃあその行き着く先は何なのかっていうのがなきゃいけないというか。もちろん現場があることも大事なんだけど、その先にリリースという目標がパッケージを作っていく方がアーティストにとっても良いことだし。そういうものを「場」として作れたらなと思うんですよね。

じゃあ、12インチのリリースも考えているの?

GT:そうですね。いまアナログはむずかしいけど、少ない数でやりたいですね。

昔からそれは言っていたもんね。アナログは売れてるっていうニュースが入ってきたり、その逆の情報が入ってきたりどっちにいくんだろうとは思うけど。

GT:UKの大手流通会社のSTホールディングスもなくなりましたもんね(※ele-king Vol.15 P92参照)。〈ディープ・メディ〉もそことやっていたから一時期は浮いちゃって、結局はクドス(KUDOS)っていうところが動いてくれて落ち着いたんですが。

E:STのひとが、いまアンアースド(Unearthed Sounds LTD)を立ち上げてそこの引き継ぎをやってはいますけどね。

イギリスもアメリカも5年連続でアナログ盤の売り上げは増えているらしいからね。だから配信とアナログが伸びているから、分が悪いのはCDなのかなって気はするけど。

E:まぁ、レコードの売り上げが伸びているって言っても、売れているのはクラシック・ロックの再発とかですから。

100:ダンス・ミュージックは300枚とかのプレス量だもんね。

E:そうそう。メジャーがたくさん出すから、プレス工場が忙しくなって小さいレーベルの発売が遅れそうになったりでみんな文句を言っているのが現状なんですよ。

ビートポートの発表によると、同サイトのなかでダブステップは全ジャンルのなかで一番売り上げが少ないというのが発表されましたけど、それは単純にリリース量が少ないからですよね?

E:それはビートポートではテクノはEDMやエレクトロとかも指しているしね。だからそういうのに比べたら少なくて当然なのかなと。

そういう状況を反映して何が起こるのかと言うと、リリース量が少ないからみんな買うものが似てくるじゃないですか? 自分で曲を作れるひとは、オリジナル曲で自分のDJセットに幅を作ることができるけど、そうじゃないひとのセットが似通ってつまらなくなる傾向があると思います。〈バック・トゥ・チル〉のように曲が作れるひとが多いパーティでも、イプマン(Ipman)の“パーシステント・ドレッド(Persistent Dread)”がリリースされたときに、ちがうひとが2回かけていたこともありました。

GT:ハハハハ。それはある意味初期に戻っちゃっているよね。最初はリリース量が少なすぎて、みんな同じ曲を3、4回かけるっていう(笑)。

そういう状況のなかで別ジャンルの曲とダブステップを混ぜられる、もしくはひとつのジャンルの曲をしっかりと紹介できるスターDJ的な存在がいないことが日本のベース・シーンの弱さなのかなと思います。UKにはベンUFOのようなアーティストもいるわけですが、ゴスさんはそういう存在にはなりたいとは思わなかったんですか?

E:要するにジャイルス・ピーターソンみたいな存在ですよね。

GT:そういう存在がUKにはいるよね。ダブステップならばヤングスタやハッチャがそうだし……。さっきも言ったように、俺はずっと自分の曲でライブをやってきて、DJを本格的にはじめたときもまずは自分の曲を中心にかけたかったから、100枚のリリースを聴くよりもまずは曲を作ろうと思ってきたかな。

〈バック・トゥ・チル〉で曲を作らないDJをひとり育てたらどうですかね?

GT:DJをやっていて自分では曲を作らないけど周りに曲を作っているっていう子とかには、友だちの曲を使いながらDJをする宣伝役的な立ち位置になったらいいんじゃない、とかアドヴァイスしますけどね。そこで「曲を作らなきゃダメだよ!」とまではDJには役割があるから俺も言いたくはないですから。実際UKには、曲はあまり作らないDJ職人みたいな存在がいて、彼らの元にはどんどん新譜やダブプレートが送られて来るんです。ラジオや現場でいち早くプレーしてくれるから、すごく良いプロモーションにもなる。そういうDJは、UKのアンダーグラウンドシーンでは重要な存在になってますね。

〈バック・トゥ・チル〉は変わっているんだよね。日本ではテクノもハウスも、作るひとが少なくてDJが多いから、逆に言えばシーンをプロモートしていくことには長けていたのかも。〈バック・トゥ・チル〉はみんな曲を作るからさ。それはゴス・トラッドの意向なの?

GT:パーティをプロモートするためにオーガナイズをしているんじゃなくて、新しいことをやっているひとを集めることが目標というか。そういうのって常に作っているひとじゃないと持ってこれないじゃないですか? 「買う」っていう手段はあるけど、もっともっとエクスクルーシヴなものになるには、作っている側が集まってそれをプレイする空間を作りたいんだけど、その考えって一般のひとからするといきすぎちゃっているのかなって(笑)。

E:でも〈メタルヘッズ〉の〈ブルー・ノート〉での〈サンデー・セッション〉の例もあるし、あれも90年代にみんなプロデューサーがその日のためにダブプレートを切ってやってましたからね。

GT:そうだね。そこが基本的にはコンセプトだけど、たださっき言ったみたいに幅の広いDJがひとりいてもいいかなとは考えます。だからはじめの3年とかハードコアにそのへんにこだわってたよね?

100:うん。こだわってた。

GT:だけどこの3年くらいは本当に良いDJだったら入れたいって考えてるかな。

100:会場を〈サルーン〉から〈エイジア〉に移した2008年くらいからダブ(プレート)とかじゃなよねって言うようになったよね。

GT:そういうのを言っていたら100マドくんとかに「出たいひとはたくさんいるんだけど、そういうところが厳しすぎる」って言われて。

E:〈エイジア〉に移ってから、ケイヒンくんとかリラくんとか出てたもんね。

GT:そうだよね。曲は作っていなかったけど通ずるものはあったからね。

パーティの歴史を見ていると、〈サルーン〉時代は鎮座ドープネスや志人などのヒップホップMCが出ていていまよりも幅があったと思うんですが、それは方向性が定まっていなかったからですか?

GT:あのときは単純に俺やSKEはルミのアルバムをプロデュースしたりとか、スカイフィッシュもダブステップを作っていた数少ないプロデューサーのひとりだったから。

最初は試行錯誤をしていて、次第に男塾的な厳しさが出てきてしまったわけでしょ?

GT:はじめのほうが逆に厳しかったんですよ。でもそのときはダブステップに興味を持っているひともあまりいなかったから、近いアーティストに出てもらっていたんです。ルミや鎮座ドープネスは近かったしMCものせられて良い意味でブッキングしやすかったというか。

100:結果的にごちゃ混ぜ感が出たのが初期だよね。

GT:〈エイジア〉に移った2008年くらいからは、ダブステップを意識して入ってきた良いDJもいたし、曲を作るひとも増えてきたんだけど、2010年くらいにはみんな飽きてやめちゃうんですよね。「ファンキーのほうがモテる」とかさ(笑)。だからブッキングできるひとも減っていったんです。

飽きるのが早いよね。

E:音楽のスタート地点がダブステップという世代も出てきて、そこで寿命が短かったというのはあるよね。

GT:そこで踏ん張ってやるやつとやらないやつが出てきて、ダブトロとか踏ん張ったよね。あいつは〈バック・トゥ・チル〉に出たくて大阪から上京してきた んですよ。俺とマーラが最初に大阪にツアーで来たときに初めて観たらしくて、そこからダブステップも作りだして。初めてデモを貰ったときも、「まだクオリティは低いけど、なんか光る部分はあるよね」みたいな。このふたりは「うーん」って言ってたけど(笑)。

100:めちゃくちゃゴスっぽい曲があったのを覚えてる(笑)。

GT:でもみんなアドバイスしていったら、だんだんと良くなってイギリスで12 インチをリリースしたりとか。それの積み重ねでいまがあるから、1年や2年でできるものじゃないですからね。

そうこうしていたらモーニング娘。や氷室京介もダブステップやってるもんね。

GT:飛行機に乗っているときに邦画が観たいなぁと思ってたらやっていたんですよ。

同じやつだな。エンディングでしょう?

GT:そうそう!

ダブステップだと思って聴いてたら歌が入ってきたから(笑)。しかも歌い方が演歌だからさ(笑)。

GT:まさに同じですよ(笑)! なんて映画だったかな……(※三池崇史監督『藁の楯』主題歌:氷室京介“ノース・オブ・エデン”)。

100:野田さんと三田さんはテクノのシーンをずっと見ていたわけじゃないですか? ダブステップとかだと、ダブステップから入ったひとが、ブローステッ プへいってファンキーとかも気になりつつ、ムーンバートンへいってトラップへいって、ジュークへたどり着きいまはヴォーグかなっていうパターンがあったりするんですよ (笑)。鞍替えしまくって、「最新のキーワードを持っているのは俺だぜ!」みたいな所有感競争というか。テクノとかハウスってそうやってス タイルを変えてきたひとって黎明期にいたんですか?

いたけど残ってないよね。いまコアなシーンに残っているひとはやっぱりみんな同じコンセプトを続けているんじゃないのかな。

ケン・イシイなんかはイビサDJになっちゃったけど。随分最初とちがう、みたいな。

ころころ変えて、商業的に成功している人はいるよね。

どんなジャンルを見ていても思うのが、だいたいどんなジャンルでも15年目で迷うひとが多いよね。ボブ・ディランとかもそうだけど、10年は勢いで揺るがないでやるんだけど、15年目に流行のものを追っかけて失敗するひとが多いなって。だけど、20年続けたひとは頑張って元に戻った感じがある。

GT:俺はちょうど15年ですね。

じゃあいままさにだね(笑)。

どんなひとでも15 年から20年が正念場かなぁと。ボブ・ディランの例とか見ていると、ジョン・レノンは1980年に殺されていなかったとしても、乗り切れなかったんじゃないかなって気もするし。『ニュー・エポック』を出す前に印象だったのが、ゴスさんはダブステップに本当にハマっていたじゃない? そのときはポスト・ダブステップが出てきて、ダブステップが迷っているときに出したくないから、ダブステップが最初のダブステップに戻れたときに出すって言ってたよね。それで本当にその通りになったから納得したんだよ。さっきもすごくダブステップっていう言葉にオブセッションを感じるくらいだから、そのこだわりはずっとあるんだろうなって感じるね。

GT:そうですね。これからも本当に面白いものが出てくると思います。さっきのSDライカみたいなアプローチもあるしね。自分的にはすげぇ多くのことに興味があるんですが、生の音楽の音自体にすごく興味があって。この前、ドライ&ヘヴィーのミックス・ダウンをやって、やっぱこれが自分のダブだなっていうのをすごく感じたし。打ち込みを散々やってきたけど、音の厚みとか生のベースの音圧ってやっぱりちげえなとか、去年の後半とかは感じなおしたりしました。ロック・バンドのミックス・ダウンもやったりしたし、いまはノイズ・コアのバンドのリミックスをやっていたり、コラボレーションの話もいろいろあったりとか。そっちも面白いなって思っているんですよね。

僕もノイズはいまも聴いているけど、昔よりも呼吸が短くなってきていると思うのね。ジャーってなっているときにそれに合わせて呼吸をしていられなかったんですよ。でも最近は切れ方が早くなったんだよね。アンビエントをやっている伊達伯欣とかの話を聞いていると、ダンス・カルチャーを通ってからアンビエントをやっているから、どこかで踊りのセンスがあるんだよね。踊らないひとがアンビエントをやると身体性が全然ちがうからキツイっていう(笑)。

GT:ノイズとかインプロの世界って、一時期は本当にクローズドマインドだったじゃないですか? 「お前ダンス・ミュージックを通過してんの?」みたいな。自分はそれを通過してノイズをやっていて、当時そういうのを感じてたけど、逆にいまは、そういう雰囲気は無くなったよね。

ギリシアから出てきたジャー・モフは、ビートがないのに踊りを感じさせるから俺はすごいと思った。しかもギリシアは経済的に破綻したのにアルバムのタイトルが『経済的に裕福』っていうタイトルで(笑)。

GT:最近友だちから教えてもらった、ファルマコンっていうデス・ヴォイスの女の子が「ドーン、グワー」ってやっているやつがありますよね。

彼女はたしかニューヨークだよね。それをもうちょっとポップにしたガゼル・ツインってひとがいて、俺は『MUGEN』を聴いたときにそれをちょっと思い出したんだよ。彼女はレディオヘッドの『キッドA』を更新したって言われてて。子供っぽくて、インダストリアルな雰囲気のあるポーティスヘッドみたいな感じのひとで、『キッドA』も子供が飛びついた感じがするじゃない? なんかその感じをコンピを聴いていると思い出すんだよね。

GT:そういう風潮がいまアメリカであるような気がするんですよ。打ち込みとエクスペリメンタルな感じがごちゃっとした感じ。さっきの〈トライ・アングル〉とか、いままでのダンスミュージックを通過して取り込んだものをリリースしているというか。

今度日本に来るD/P/Iとかそのへん直球だよね。

E:今度来日の時に一緒にやるんですけど、D/P/Iはカットアップっぽいですよね。

彼は生バンドもやっているから、その方向で縛っているみたい。いろんなプロジェクトをいっぱいやっていてよくわからないけど。インタヴューしたら過去の音楽も詳しくて、ピエール・アンリに影響されていたり。

ジャングルが好きなんだよね。

いまのようなアーティストを〈バック・トゥ・チル〉から出したいと言ったらOKを出しますか?

GT:ジャンルであまり縛りたくはないから、正直に言えばかっこよければ出したい。あと、いまはカセットで出したりとかいろんな方法があるでしょ? そういうフォーマットを使うのもありかなと思ったり、エクスペリメンタルなライヴをカセットにして50本限定で出したりとか。そういうのもレーベルで自由にできるのを考えているから、そのくらいニュートラルに考えているんですよ。

じゃあそろそろ時間なので、三田さんにまとめてもらいましょう。

50を過ぎるとクラブがキツいのでパーティに実際に足を運べていないんですが、ユーチューブで動画を見るととても自分が混ざれる場所ではないなと思います(笑)。この8年間でグラフにするとお客さんにどういう推移がありましたか?

GT:去年の1月は〈デイ・トリッパー〉から出しているイードン(Eadonmm)に出てもらったんですけど、早い時間でお客さんもいたんだけどちゃんとみんな聴いていた感じもあるし、そのあとのDJでもしっかり盛り上がっていましたよ。この前もエナくんがエクスペリメンタルなノンビートなライヴ・セットをやっても、お客さんがしっかり聴いていて。平日だからすごくひとが入っているわけじゃないけれど、けっこう来ているお客さんはそこをわかっていてくれているのかな。聴いているひとは聴いてくれているし、盛り上がりたい子は前の方に来てくれるから。

E:俺は個人的に去年はテクノ系のパーティにもけっこう出ているんですよ。〈ルーラル〉や年末には〈フューチャー・テラー〉にも出たし。実際にやってみると、ジャンルの壁はそれほどないなと思いますね。〈フューチャー・テラー〉もルーシー(Lucy)の裏でやっていたんですけど、俺のときもいっぱいだったし。もちろんそのときもテクノじゃなくてBPM170をかけてたけれど、みんな踊ってましたよ。

GT:〈バック・トゥ・チル〉に来ているひとは耳の幅や聴き方は広いかもしれないね。

次の8年くらいで対抗馬的なパーティやレーベルが出てきたら良いですね。

この3人が決裂して別々のパーティやるとかね(笑)。

GT:なんで〈バック・トゥ・チル〉を8年やっているかといえば、やっぱり日本でやりたいからなんだよね。日本で全てを完結させるのが良いのかもしれないしね。それで作品を向こうに投げるというか。ツアーをやるっていうのはやっぱり体力仕事だし。海外に行けるからやるっていうのは、日本がダメって言っているような気がしてなんか嫌なんですよ。海外だから良いっていうのもなんかアレだし。日本でもすごい耳を持っていて、すごく良いもの作って、すごく良いプレイをするひとっているわけじゃないですか? その絶対数が少ないだけで。

何か最後に言い残したことはありますか?

GT:うーん、じゃあ100マドくんで(笑)。100マドくんは本当に初期からいるから。

100:えっ、俺で締めんの(笑)? 絶対におかしいでしょ(笑)?

E:まぁ、今日はいろいろハードコアに言っておいて、100さんの「ゆるくやろうよ」っていうのがコンセプトでもあるわけだから(笑)。


interview with Nanorunamonai - ele-king

まばらな星 半分の月
降ろされたシャッター
絵にならない絵を描く芸術家
彼らはとてもアンバランスを保つのが上手で
お日様にも見つからないほど遠くへ
波乗りのリーシュ
笑えないジョーク 人づてに聴く文句
まわりくどい皮肉 一人よりも孤独
焦げ付いた記憶 手のひらに食い込む 油汗と蝋燭
遠のく永遠なるスローモーション

赤い月の夜 何もない空を漂う
赤い月の夜 ひび割れた鏡を叩き割る
赤い月の夜 重力を振りほどく 
赤い月の夜 俺は俺を殺す
赤い月の夜

 12月某日。なのるなもないの取材から数日後。〈タワーレコード渋谷店〉の4階のフロアの一角には人だかりができていた。なのるなもないのインストア・ライヴを観ようと集まった多くのファンで埋め尽くされていたのだ。ファンたちの熱い視線が、蛍光灯のまぶしい灯かりの下で、幻想的な詩をメロディアスにフロウするラッパー/詩人に注がれる。このイレギュラーなシチュエーションで、しかし、なのるなもないもファンも素晴らしい集中力だ。そこには甘美で、濃密な小宇宙が発生していた。そして、ライヴ後のサイン会には長蛇の列ができた。僕は試聴機でブリアルの最新作を聴き、久々に会う友人や知人とおしゃべりをしながら、その光景を感慨深くながめていた。


なのるなもない
アカシャの唇

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 降神のなのるなもないが、昨年12月にセカンド・アルバム『アカシャの唇』を発表した。ファースト『melhentrips』からじつに8年ぶりとなるアルバムだ。8年という歳月は長いようで短く、短いようで長い。『アカシャの唇』は、まとまった作品を完成させるのに8年という歳月が必要だったことを証明する素晴らしい出来栄えとなった。降神の作品や前作『melhentrips』の延長線上にありながら、なのるなもないは詩とラップに確実に磨きをかけ、次のステップに進んでいる。詩とラップが不可分に結びつき、ひとつひとつの曲の世界観に明確な方向性を与えている。

 初期の降神の毒や狂気、抵抗を好んだ僕のようなリスナーには、その点に関しては欲を言いたくなる気持ちもある。だが、なのるなもないのように、幻想的で、空想的な詩を書き、メロディアスに、ハーモニックにフロウできるラッパーは他にはいない。そのラップをこうして堪能できることをまず喜びたい。
 “宙の詩”という曲では、ことばにジェット・エンジンを装備させて、宇宙の彼方に飛ばすような凄まじいフロウを魅せつけている。ことばと音のめくるめくトリップだ。谷川俊太郎や宮沢賢治、稲垣足穂といった作家の文学に、なのるなもないが独自の現代的な解釈を加えられているように感じられるのも『アカシャの唇』の魅力だ。ここには、童話とSFとラップが混在している。

 サウンド的にいえば、ポストロックやエレクトロニカとラップの融合という、00年代初期から中盤にかけて、アンチコンを中心に盛んに行われた試みの延長にある。そして、今作の共同プロデューサーであるgOと、ビートメイカーのYAMAANから成るユニットYAMANEKOがトラックを制作した“めざめ”と“ラッシュアワーに咲く花を見つけたけど”は、その発展型と言えるかもしれない。この2曲は、ギャング・ギャング・ダンス流のトライバルな電子音楽とラップの融合のようだ。後者に客演している女性シンガー、maikowho?の透き通る歌声には病みつきになる不思議な魅力がある。アルバムには盟友である志人、toto、tao、sorarinoといったラッパー/シンガーたちも参加している。

 前置きが長くなっているが、ここでもうひとつだけ言いたいことがある。『アカシャの唇』をきっかけに、00年代初頭から中盤に独創的な音楽を創造したオルタナティヴ・ヒップホップ・グループ、降神と彼らのレーベル〈Temple ATS〉の功績にあらためて光が当たってほしいということだ。この機会に、ファースト『降神』とセカンド『望~月を亡くした王様~』を聴き直し、降神の不在の大きさをいまさらながら痛感している。彼らのフォロワーはたくさんいたが、そのなかから彼らの独創性を凌駕する存在が生まれることはなかった。なのるなもないと志人というふたりのラッパーが中心になり、彼らは“降神”という音楽ジャンルを作り上げたのだ。時の流れが気づかせてくれる発見というものは、示唆的である。

 さて、これ以上書くと話が脇道にどんどん逸れて行きそうだ。2013年の年の瀬も迫る12月中旬のある寒い夜、渋谷でなのるなもないに話を聞いた。

結婚して、子育てをしながら、ライヴをしたり……要約しちゃうと、もう超簡単ですよ。

今日はなのるなもないの人となりにも迫りたいですね。

なのるなもない:人となりって言われると、別に語るべきことが俺にはよくわからないんだよね。

いきなりインタビュアーをがっかりさせるようなこと言わないでくださいよ(笑)。

なのるなもない:だってさ、自分を客観視するのは難しいし、そういうドキュメンタリー的なところで語るべき言葉がわからない。

大丈夫ですよ。

なのるなもない:秘すれば花っていうか、なんでもかんでも言うことがいいとは思ってないよ。訊きたいことがあれば答えるけどさ。

前作『melhentrips』から8年経ちましたよね。8年をざっくり振り返るというのはそれこそ難しいですけど、どうでした?

なのるなもない:結婚して、子育てをしながら、ライヴをしたり……要約しちゃうと、もう超簡単ですよ。

ははは。まあそうですよね。お子さんも大きくなったんですよね。

なのるなもない:うん。

『アカシャの唇』、興味深く聴かせてもらいました。00年代前半から中盤ぐらいは、たとえば〈アンチコン〉を筆頭に、ポストロックやエレクトロニカとラップの融合みたいな試みが盛んだったと思うんですね。本人がこういう言い方を喜ぶかはわからないですけど、音楽的にいえば、『アカシャの唇』はその発展型という側面もあると感じました。

なのるなもない:ふーん。

言うまでもなくこの作品で詩は重要な要素ですけど、変幻自在なラップのメロディとフロウが、とにかく圧倒的だな、と。

なのるなもない:ああ。

僕がいまのところいちばん好きで聴いている曲は、“宙(チュウ)の詩(シ)”ですね。

なのるなもない:あはっ(笑)。あの曲はね、“宙(ソラ)の詩(ウタ)”って読むの。

あ、そうなんですか。これは読めないや。

なのるなもない:まあ、これは読めないよ。

“宙の詩”は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』や稲垣足穂の言語感覚を彷彿させるSFラップですよね。

なのるなもない:ああ、そうかもねぇ。

この曲、すごいカッコ良かったですよ。この曲について解説してもらえますか?

なのるなもない:最初にこの曲のトラックから宇宙的なものを感じて、「宇宙ってなんだろう?」っていう疑問から出てくる言葉を連想して書いていったんだよね。光とかロケットとか、自分の宇宙観から想起するものをフロウで表現しようとした感じかな。

とても映像的ですよね。言葉の意味に引っ張られるより先に、映像的なイメージが広がっていくんですよね。

なのるなもない:フロウに関しては、「風になったらいいのかな」とかそういうイメージで考えたりするね。人でない人っていうもので考えるときもあれば、もちろんリズムで考えるときもある。でもまあ言葉ありきだとは思ってるけど、両方だよね。どちらかに引っ張られることはあるかもしれないけど、両方とも捨てきれない。

なのるなもないのラップにおいて言葉の意味も重要な要素ですからね。『アカシャの唇』は、渋谷にある本屋さん〈フライング・ブックス〉がリリースしていて、インナースリーヴもパッケージも読み物として丁寧に作られていますよね。どうしてこういう形にしたんですか?

なのるなもない:前から本は作ってみたかったんだよね。だから、これはひとつの夢でもあったっていうことなんだよね。

でも俺はCDで出したかったんだ。CD屋に行ってCDを手に取って、開いてみて、買うっていう楽しさを伝えたかった。

詩集を作りたかった?

なのるなもない:うーん、詩集を出そうって気持ちで出してるわけではないんだよね。いまの時代にCDで出すっていうことはそんなに求められてないような感じもあるでしょ。

まあたしかに。

なのるなもない:でも俺はCDで出したかったんだ。CD屋に行ってCDを手に取って、開いてみて、買うっていう楽しさを伝えたかった。詩を書いてはいるけれど、ラップとしてアウトプットしてると思ってるし、ラップという表現じゃないときだってあるかもしれないけど、言葉があって、音があるというのが終着地点だと思うからさ。

『アカシャの唇』ってタイトルはどこからきたんですか?

なのるなもない:今回のアルバムはgOってヤツが半分ぐらいの曲で関わってくれてるんだけど。

共同プロデューサーの方ですよね。

なのるなもない:そう。お互いの分野にいろいろ入り込みながら、ああだこうだ言いつつ、よく遊んでもいたからね。ほとんど遊ぶ時間もなくなってきてるけど、gOとはよく遊んでもいたね。

gOさんとは何して遊ぶんですか?

なのるなもない:ドライブしたり、友だちのライヴを観に行ったりとか、まあいろいろだよ。でもすべては音楽を作る方向に向かっていて、そういう過程で、gOがアカシックレコードにアクセスしたみたいな話をしてきてね。

アカシックレコード?

なのるなもない:アカシックレコードは人類の魂の記録の概念のことで、そこにアクセスすれば、過去も未来も全部わかるという考え方があって、たまたま俺たちはそういう類の本を読んだりもしてたのね。まあ、「ルーシー・イン・ザ・スカイ」みたいな気持ちなのかな。

なはははは。“アカシャ”はサンスクリット語で“天空”も意味するんですよね。このタイトルについて、資料には、「人間のいろんな感情、聖者のような時も、毒々しい時も、無味乾燥なこともあると思うし、そういうの全部含めて話したい」と自身の言葉が引用されていますけど。

なのるなもない:自分は曲を書いているときの感覚が、そういうところにアクセスしようとしてるんじゃないかなっていうのが強くあって。自分で書いているんだけど、すでにそれがあったような感覚があって、そこに行き着くというかね。

そのアカシックレコードにアクセスする感覚や体験は、リリックを書くときとラップしてるときの両方にあるんですか?

なのるなもない:両方あるね。

制作はいつぐらいからはじめたんですか?

なのるなもない:制作期間がけっこうまばらなんだけど、“アイオライト”と“silent volcano”はけっこう前で、他の曲はここ2、3年だね。

『アカシャの唇』は、オーソドックスなラップ・ミュージックやヒップホップからは逸脱していると思うんですけど、いまでもラップやヒップホップは聴きます?

なのるなもない:聴くよ。なんでも聴くからね。

たとえば最近はどんな音楽を聴いてます?

なのるなもない:なんだろうなあ、昔のジャズとかまた聴いたりもしてるし、そんなに最近の音楽はわからないけど、まわりの友だちが教えてもくれるから、そういうのを聴いたり。中古のフロアを掘って、「なんじゃこりゃあ?」みたいな驚きだったり、そういうのを面白がる感覚は、昔より少なくなってきたかもしれないね。

なのるなもないさんは、ラッパー、詩人として表現に貪欲であると同時に、音楽を聴くことにも貪欲な人だと思うんですよ。ジャンル関係なく幅広く音楽を聴いて、それを自分で独自に解釈して、吸収して、表現として吐き出しているじゃないですか。たとえばの話ですけど、降神がファーストを出した00年代初期あたりに、ザ・タイマーズとかも熱心に聴いてたでしょ。僕はあの突き抜けた過激さみたいなものが降神の音楽にもあったと思っていたし、そういう意味でいまどんな音楽を聴いてるのか気になるんですよね。

なのるなもない:そうだなあ、特別にこの音楽が今回のアルバムに影響しているというのはないと思うけど、ボノボとかハーバートとかノサッジ・シングだって面白いと思ったし、ヒップホップだったらブラッカリシャスやマイカ・ナインとかブラック・ソートとかもやっぱり面白いなって思うよ。現行のラッパーだったら、タイラー・ザなんとか、とかさ。

タイラー・ザ・クリエイターですね。

なのるなもない:そう、ああいうのも気持ち悪いかっこいいなーって思ったりするよ。いやー、でももっと聴かないとね。俺さ、あんまり四つ打ちを聴かなくて、ある先輩に「もうちょっと深く聴いて」って言われたりもしたよ(笑)。四つ打ちって言い方も悪いか(苦笑)。でも、トライバル・ハウスとか、チャリ・チャリとかかっこいいなって思って買ったこともあるよ。

ダンス・ミュージックにどっぷりハマってレイヴに行ったりとか、そういう経験はなかったんでしたっけ?

なのるなもない:行ったことはあるけど、俺はそっち側にはガチに行かなかったんだよね。

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俺は俺なりの「on and on」を言うまで、ここまで時間がかかったってことかもね。

いまでも自分がヒップホップをやっているという意識はありますか?

なのるなもない:スタンスとしてそれはあるよ。いろんな表現があるなかでよく「これはヒップホップじゃないね」とか言う人がいるけど、「その考え方がヒップホップじゃない」と思うときもあるよね。そもそも破壊と再生をくり返して、吸収して進化を続けるものだと思ってるからね。それに自分はジャンルの区切りとかなく音楽を聴いてきたし、現行のシーンらしい音でそれっぽいことをやるっていうのは、自分にとってはすごくどうでもいいっていうかさ。自分なりの本当のところを追求したいと思ってるよ。

冒険のススメ”で「on and on and on and on and on」っていうリリックを独特の節回しでセクシーに歌ってるじゃないですか。あの歌い方がすごく面白いと思って。「on and on」って熟語は、ブラック・ミュージック、R&Bやヒップホップの常套句じゃないですか。

なのるなもない:うん。

その常套句をこんな風に解釈して歌うんだって。そこがすごく面白かった。

なのるなもない:あはははは。

僕はあの歌い方になのるなもないのBボーイズムを感じましたよ(笑)。

なのるなもない:だから、やっぱりそういうことだよね。タカツキくん(ベーシスト/ラッパー。スイカ/サムライトループスのメンバー)が、「チェケラッ!」って言葉を言えるまでに10年はかかるみたいなことを冗談かも知れないけど言っていて、でもそうかもなとも思ってさ。俺は俺なりの「on and on」を言うまで、ここまで時間がかかったってことかもね。

降神の初期や前作『melhentrips』のころと比べると、毒々しさは薄まりましたよね。

なのるなもない:そうだね。でも意味ある毒を与えたいとは思う。ただ、自分のなかから出てきた毒を無責任に放つことはしたくないよね。

吐き出す毒に、より責任を感じるようになったということですか?

なのるなもない:うん、それはある。吐き出した毒で(リスナーを)どこへ連れて行きたいのか?ということには意識的になるべきだし、(表現者は)みんなそうなんじゃないのかな? わかんないけどさ。キレイ過ぎてもしっくりこないときもあるし、毒っていうものはどうしても潜んでしまうと思う。皮肉や毒がない世界で生きられたらいいけどね。

降神の魅力のひとつに、狂気と毒があったと思うんですよ。不吉さと言ってもいいと思います。社会や人間の矛盾を生々しく体現するグループだったと思うし、そこに魅了されたファンも多かったと思うんですね。表現の変化とともに、なのるなもないのファンも変遷しているだろうし、表現者としてリスナーやファンを裏切りたくないか、あえて裏切りたいか、そこについてはどう考えてますか?

なのるなもない:金太郎飴みたいなスタイルってすごいとは思うんだけど、俺はわりと良い意味で裏切りたいって気持ちを持ってるね。でも、いまでも降神のころのようなスタイルも持っているし、スタイルが特別変化したとは思ってないかな。ただ、いまは社会や政治、時事的なことについて吐き出すべき時期ではないという感覚はある。そういうものは、もっと溜めて溜めて、自分の意志を固めてから表現したい。べつにそういうことはラップで表現しなくてもいいかな、とも思うしね。具体的に行動したいっていう気持ちが強い感じかな。そうやって自分のなかでいろいろ思うことがあるのに、なかなか動けていない自分についても含めて語るっていうのもありかもしれないけど。

ここ最近世の中で起きていることで関心のあることは?

なのるなもない:社会や政治の問題をひとつひとつ検討して、結論を導き出すレヴェルに俺はいないと思うから、それを手にした上で語りたいとは思う。そりゃあさ、東電の対応とか、当たり前に「おかしいでしょ」「本当に大丈夫なの?」って思うことはある。政党が変われば疑問に思うこともあるよ。でも10年、20年やらせてみて、それから判断するのもひとつの真実だとも思う。でも、もちろん誰が見ても「これはおかしいだろ」っていうことはたくさんある。そういうところで闘ってる人は応援してるし、力を貸したいなとは思ってる。

学生だって、仕事やっている人だって、それとは別に夢を持って頑張ってる人だって、その世界のなかで思い切り遠くに飛んでしまえば、人からしたら現実逃避って言われてしまうかもしれないけれど、その世界のなかでは成立しちゃうことでしょ?

降神のセカンドに入ってる“Music is my diary”って曲で、「現実逃避も逃げ切れば勝ちさ」というリリックがあるじゃないですか。厭世的といえばいいのかな、そういう感覚はいまでもあります?

なのるなもない:若ければ若いほど、世の中に対して「クソヤロウ」って思うこともあるし、降神でそういうこともラップしてたけど、人からすれば「お前に言われたかねーよ」っていうのもあったかもしれないよね。なにが現実で、なにが現実逃避かは一概に言えないよね。犬猫じゃないから、子どもはほっといたら死ぬからさ。いまは子育てという現実も常にある。そこからは目を背けられない。でもやっぱり、自分のやりたいことにも向かっているしね。「現実逃避も逃げ切れば勝ちさ」ってリリックには、学生だって、仕事やっている人だって、それとは別に夢を持って頑張ってる人だって、その世界のなかで思い切り遠くに飛んでしまえば、人からしたら現実逃避って言われてしまうかもしれないけれど、その世界のなかでは成立しちゃうことでしょ? だから、そうなったら勝ちじゃねえかという意味があったの。

現実逃避とつながる話だと思うんですけど、降神や〈Temple ATS〉は、活動がはじまった当初から一種の共同体みたいなものでしたよね。なのるなもないさんは、当時〈Temple ATS〉の事務所兼スタジオのような高田馬場のマンションに一週間ぐらい寝泊まりしてた時期もありましたよね。部屋に行ったら、ソファで気だるそうに寝てる、みたいな(笑)。

なのるなもない:いや、もっと長かったね。なんだろうね。自分がいっしょになにかを成し遂げたい仲間たちがそこにいたんだよね。あのころは、そこから離れたらいけないという強迫観念があった。だから、マサ(onimas。降神のトラックメイカー。〈Temple ATS〉の一員)の部屋に転がり込んで自分の家に帰らなかったりしたんだろうし。東京に住んだり、東京の近くに住んだりしているほうがやりやすいことはあるし、物理的な距離が関係ないとは言わないけど、自分がしっかりやっていれば、いろんなコミットの仕方があって、本当になにかをやろうとしたらできるといまは思うね。

降神と〈Temple ATS〉のメンバーの関係はかなり濃密でしたし、あの濃密な共同性があったからこそ降神の音楽が生まれたと思いますね。なのるなもないも志人もフリースタイルでしか会話しない、みたいな時期さえありましたよね。お互い、激しく、厳しく切磋琢磨してましたよね。

なのるなもない:そうだね。志人が「真の友は影響し合う」みたいなことをなにかに書いていたけど、その通りだなと思う。

最近は志人には会ってますか?

なのるなもない:このアルバムのリリース・ライヴ(2013年11月10日に〈フライング・ブックス〉で行われた)のときに会ったね。

アルバムに一曲ゲスト参加してますしね。今後、降神としてはやったりしないんですか? 気になっている人は多いでしょう。

なのるなもない:やりたいよね。でも、うーん、俺だけの気持ちじゃないから。あいつ(志人)の気持ちもあるからさ。俺が言える想いもあるけど、まだ公で話すような感じじゃないかな。とにかく、俺はあいつの表現が好きだし、尊敬しているし、いつも挑戦して成し遂げてきたヤツだと思うね。いっしょにやりたいけど、お互い忙しいってのもあるよね。

降神で作った曲でリリースされていない曲はある?

なのるなもない:けっこうあるよ。

本人たちは望まないかもしれないけど、未発表曲だけで一枚アルバムできちゃうんじゃないですか?

なのるなもない:「作れ!」って言われたら、できるかなっていうのはあるけど、それぞれやりたいことがあるからね。ふたりの伝えたいメッセージも必ずしも同じではないからね。

でも、それは最初からそうなんじゃないですか?

なのるなもない:昔はもう少し散文的だったというか、お互いのメッセージや世界観、リリックの方向性が違っても曲が成立したというか、びっくり箱の中身を作ってるみたいな感覚だったんだよね。

ああ、なるほど。『アカシャの唇』はひとつひとつの曲に明確な方向性と主題がありますよね。僕は、『アカシャの唇』はジャンル云々以前に、とにかく美しい音楽だなと感じましたね。

なのるなもない:自分のなかでの様式美を追求しつつ、息苦しさや喜びや気づき、そういうものはぜんぶ詰め込みたかったね。音楽を作っている人はみんなそう思っているかもしれないけど、前よりもっといいものを作りたいとは思うよ。聴いた人が前より良いとか、悪いとか思うのはまた別だけど、そういう気持ちはある。

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NHKの「みんなのうた」じゃないけどさ、みんなのうたを歌いたいというのはあるよね。みんなが存在している世界について歌わないとやっぱりウソだと思う。でも目に映るすべてをそのまま伝えるべきとも思わない。

リリックはどんな風に書いてるんですか?

なのるなもない:描くように書いたり、外郭を描くことで、言いたいことが発見されていく、そんな作り方をしてると思う。それからその画を動かすことで、より鮮明になっていく感じだね。

SF的でもあり、童話的でもありますよね。

なのるなもない:NHKの「みんなのうた」じゃないけどさ、みんなのうたを歌いたいというのはあるよね。みんなが存在している世界について歌わないとやっぱりウソだと思う。でも目に映るすべてをそのまま伝えるべきとも思わない。

さっき毒の話をしましたけど、アルバムのなかで心の暗部を描いていて、しかも他の曲よりも生活感が滲み出ている曲があるとすれば、“赤い月の夜”ですよね。それこそ、「くそったれ/てめえなんて死んじまえ/出かけたセリフをあわてて飲み込む」というリリックは、さっきの吐き出す毒とその責任の話に通じるなと。

なのるなもない:この曲には不幸の前兆みたいな要素があるよね。仕事とかで擦り減りまくって、自分がどんどん無くなっていくのに、それでもヘラヘラしてる。それは逆に狂気だと思うし、そういう現実が狂ってるなというのはあるよね。いわゆるヒップホップ的な“リアル”とは違うけど、自分のなかの魂の記憶にアクセスしたいんだよね。そこで描き出されるヴィジョンみたいなものを表現したい。そこには怒りだって絶対ある。怒りっていうものをそのまま吐き出すことはいけないって思ってる部分もあるんだけど、どんなときでも怒らないっていうのも非現実的だと思うし、“赤い月の夜”に関しては、あえてそういう怒りを表現したかった。

『アカシャの唇』を聴いて真っ先に思い浮かんだ作家が、谷川俊太郎と宮沢賢治、あと稲垣足穂だったんです。ここ最近で、好きな作家や印象に残ってる作品はありますか?

なのるなもない:いまの3人の本を持ってはいるけど、今回の作品に彼らからの直接的影響があるのかは、自分ではちょっとわからないなあ。“アルケミストの匙”に関していえば、パウロ・コエーリョの『アルケミスト』にインスパイアされた部分はあるね。というか、あの小説のなかに好きなエピソードがあるんだよね。

どういうエピソードですか?

なのるなもない:幸せに生きるにはどうしたらいいか? という問いに対するひとつの答えを描き出しているエピソードがあるんだよね。ある賢者が少年に油を入れたスプーンを持たせて、油をこぼさずに宮殿を歩いてくださいと命じるの。で、少年は最初、スプーンの油に集中し過ぎて、宮殿をまったく見なかった。そこで賢者はもういちど宮殿を見てくるように命じる。今度は、少年は宮殿を見てくるんだけど、スプーンの油はなくなっていた。でも、幸せというのは、スプーンの油をこぼさないようにしながら、宮殿の美しさも見渡すことなんだと。

だからあの曲に、「二人の旅は日々の営み/アルケミストの一匙さ/こぼしてはいけない日々の営み」というリリックがあるんですね。

なのるなもない:その一方で、ものすごい印象的な一夜だったり、そういうものを求めてる自分がいる。

特別な体験を求めてる?

なのるなもない:俺は今日どこまで行けるだろう、みたいなことは求めてる。

あはははは。なるほどー。

なのるなもない:ははは。それも幸せだと思う。

いわゆるヒップホップ的な“リアル”とは違うけど、自分のなかの魂の記憶にアクセスしたいんだよね。そこで描き出されるヴィジョンみたいなものを表現したい。

音楽を聴いていてもそれは伝わってきますね。じゃあ、聴いている人にぶっとんでもらいたいという気持ちもある?

なのるなもない:あるよね。

やっぱりあるんですね。そういう音楽ですもんね、この作品は。

なのるなもない:なんだよ、その質問! ははははは。

いやいや、音楽の重要な要素のひとつじゃないですか。

なのるなもない:二木のなかでそのプライオリティが高いということだね(笑)。まあ、“ぶっとぶ”って言葉はすごい抽象的だけど、理路整然としているところはしていたいし、そのレールからはみ出してどこにたどり着くんだろうっていうスリリングさも表現したい。で、たどり着いた場所がここなんだって納得できる音楽を作りたいね。

では、なのるなもないにとって、そういうスリリングさを味わわせてくれる音楽にはどんなものがありますか?

なのるなもない:それはもう、それこそジャンルとかじゃなくて、出会ったことのない感覚に尽きるよね。あれだよ、ブランコを漕いでいて、高く舞い上がって、臍のあたりがうーってなる感覚があるじゃん。わかる?

わかりにくい(笑)。

なのるなもない:フライング・パイレーツとかで急にぐーっと上げられて、臍がぐううーってなるでしょう。で、「これ、大丈夫かな?」って一瞬思うんだけど、「やっぱり大丈夫だった」って戻ってくる。それでまた乗りたくなる。そういう感覚に近いかも。

最近、具体的にそういう音楽体験で記憶に残っているのはありますか?

なのるなもない:うーん、ちょっと思い出せないけど、それぞれのジャンルが発展していくときってそんな感じなんじゃないの? ダブステップをはじめて聴いたときも、「すげぇ空間が曲がってるぞ」って思ったし。ダブだったらさ、俺には子宮がないけど、子宮に響いているみたいな感覚があった。ジミヘンが逆再生をやり出したときだって、はじめて聴いた人は「なんだよ、これ?」ってなったと思うし。

『アカシャの唇』は、グッドとバッドの両方の旅の境界線が曖昧な音楽ではありますよね。バッドな状況も楽しんじゃうタイプなんじゃないですか?

なのるなもない:そのときに楽しめるかどうかは別でさ、苦しいけどね。嫌な思いもそのときしかできない体験だし、それだけ心が動いたってことだからさ。

最後は戻ってこれたと。

なのるなもない:そう。俺はこんなことを考えていたんだって感心するときもあるし、バカだなあと思うときもあるよね。で、小さいかも知れないけど、自分なりの未知な世界の終着地点までを表したい。いちど出したものは、俺のものじゃなくて、その人のものだから。聴いてくれる人が楽しめる状況にしておくのがやる側の責任……とかいうとイヤだけど、当たり前のことだよね。そのレヴェルにつねにたどり着きたいと思ってやってるよ。

アムネジアの風に吹かれても忘れてしまうわけない
アクエリアス 溢れてしまう 生きたシャンデリア
飛ばすレーザー 静かなるエンターテーナー
ラフレシア アモルフォファルスギガスへ今届けておくれ
うまくできた? 完璧じゃなくても笑っていたいならやってみな
SL1200のターンテーブル BPM66星雲で
33回転する 記憶にないものまで再現する
あなたならこの景色をなんていう その海どこまでもふくらんでく
一つの愛my name is ビビデランデブー
宙の詩

Kendrick Lamar - ele-king

 数ヶ月前、ある人から「あんたがやっていることはアンダーグラウンドで、マイナーで、負け組だ」と言われたが、12月16日の夜、自分は本当に「アンダーグラウンドで、マイナーで、負け組だ」と痛感した。自民党の勝利が予想されていたとはいえあそこまでの圧勝とは......。

 これは、なんだかんだテレビの影響が大きいんじゃないかと思っている。僕はほとんどテレビを見ない人間だが、スポーツとニュース番組はたまに見ている。3.11のときもそうだったが、今回の選挙報道に関しても、日本の報道番組の軽さには見ていて憤りを覚える。民主党3年間への批判、あるいは失われた20年というキャッチコピー、そして中国の台頭による日本経済の相対的な低下への不安(ないしは領土問題)などなどが今回の結果をうながしたのだろう。
 が、相対的に見たときに、南ヨーロッパの失業問題、アメリカの激しい格差社会などと比べれば、日本にはまだマシなところがそれなりにある。そもそも経済的な衰退に関しては日本だけの問題ではない。それでも、自分たちはまだまだイけるんだという幻想が、昭和時代への回帰という妄想と結びついて、ちょっとあり得ない選挙結果になったんじゃないだろうか。
 そんな暗黒時代を迎え、僕は水越真紀とともに、年明け刊行予定の、二木信という金玉ライターの単行本の編集を手伝っていた。『しくじるなよ、ルーディ』というタイトルで、二木信がこの10年、主に日本のヒップホップについて書いた原稿やラッパーへのインタヴュー記事をまとめたものである。
 僕は、300ページもある金玉ライターの原稿を2回以上も繰り返し読みながら、本のなかで紹介されているラッパー/トラックメイカーたち──キラー・ボング、シーダ、SHINGO★西成、環ロイ、MSC、田我流、スラック、マイク・ジャック・プロダクション、ビッグ・ジョー、ザ・ブルー・ハーブ、シミラボ、ハイイロ・デ・ロッシ、PSG、鎮座ドープネス、志人などなどの気持ちの持ち方、表情の豊かさにずいぶんと気持ち良くさせられた。彼らの、野性的な知性、自らの身体感覚を頼りに生きているさまがとても魅力的に思えた。

 25歳のロサンジェルスのラッパー、ケンドリック・ラマーの『グッド・キッド・マッド・シティ』は、ある意味興味深い接合点を作っている。昔ながらの、つまりドクター・ドレ(ギャングスタ)が好きなヒップホップのリスナー、その対極にあるとも言えるチルウェイヴ(気休め)とリンクするクラウド・ラップ系のリスナー、その両側を惹きつけていると下北沢のレコード店で説明されて、「それじゃあ」と買った。1ヶ月以上前の話である。
 なるほど、たしかに『グッド・キッド・マッド・シティ』にはドクター・ドレが参加しながら、ツイン・シャドウやビーチ・ハウスがサンプルのネタに使われている。ドレイクも参加しているが、ウィーピーではない。Gファンク、そしてここ数年のUSインディ・ロックのメランコリーが混在しているようだ。
 『グッド・キッド・マッド・シティ』は、まず1曲目が最高だ。不気味なシンセと変調された声で構成されるイントロは、ジェームス・ブレイクめいている。スクリューの効いた"スウィミング・プール"や"ポエティック・ジャスティス"も格好いい。ドレの代表作『クロニック』に捧げた"コンプトン"という曲もある。ボーナス・トラックの、とくに"ザ・レシピ"も良かった。
 アルバムは、『ピッチフォーク』がべた褒めするほどの歴史的傑作とは思えないけれど、魅惑的なラップとモダンなテイストが入ったクールな作品であることは間違いない。ミックステープ『セクション80』収録の"ハイパワー"のPVが示唆するように、ナズの『イルマティック』の孤独な叙情詩(ブルース感覚)も感じることができる(そして、ラッパー特有の、肌で感じ取って生きている人間の動きを見ることができる)。

 先日のエレグラのフライング・ロータスのライヴ&DJのセットにおいて、彼がケンドリック・ラマーをプレイしたとき、二木信と一緒に盛り上がってしまった。フライローが出演する前から我々はケンドリック・ラマーについて互いの意見をぶつけ合っていた。僕は、フライロー周辺にはない感覚がケンドリック・ラマーにはあると主張した。逆に言えば、デイダラスからフライローへと展開するロサンジェルスには、ラマーのような痛みが前面に出ることはない。そして......、しかしそれを大観衆の前でプレイするフライローはやっぱり素晴らしいですよ。「アンダーグラウンドで、マイナーで、負け組」の気持ちをわかっている。


 経済にしろ原発にしろ年金にしろ、ろくな改善も出来なかった「あの」自民党が単独過半数とはクラクラする。(中略)勇ましい政権の勇ましさに、せめて熱狂しないことがこれから数年の「我々」の忍耐になる。
   水越真紀「勇ましさに惑わされるな」(『ele-king vol.8』より)

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