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Debit - ele-king

 今年、2025年の〈Modern Love〉からのリリースは、どれも本当に素晴らしいものばかりであった。アブストラクトなシューゲイズ・ドローンを展開する MOBBS&Susu Laroche『ZERO』、マンチェスターの DJ Tom Boogizm の別名義 Rat Heart による、ギター音響を拡張したモダンなエレクトロニカの傑作『Dancin' In The Streets』、Shifted 名義で〈Hospital Productions〉や〈Avian〉から作品を発表してきた Guy Brewer による、ミニマル・ダブとアンビエントを混交したモダン・テクノの到達点ともいえる Carrier『Rhythm Immortal』などなど、いずれも先端かつ鋭利な作品群である。〈Modern Love〉がついに音楽の最前線へと帰還したかのような印象を抱かせた。

 その作品群の中でも、メキシコ・モンテレイにルーツを持ち、現在はニューヨークを拠点とする電子音楽家デビット(Delia Beatriz)による3年ぶりの新作『Desaceleradas』は、一際鮮烈であった。その夢と現実が交錯する音響は、南米のカミュとでも呼びたくなるような夢幻的サウンドスケープを形成している。
 アルバム『Desaceleradas』の根底には、モンテレイのストリート文化が生んだクンビア・レバハーダ(cumbia rebajada)の歴史的記憶が横たわっている(らしい)。クンビアとは南米コロンビア発祥のダンス・ミュージックであり、カリブ海沿岸地域で先住民、アフリカ系、スペイン系文化が融合することで生まれた。シンプルな2拍子リズムが特徴といわれる。
 「クンビア・レバハーダ」は、そのテンポを大幅に落とした派生形で、1960〜70年代に、カセットデッキの不安定な再生によって自然に速度が落ちたクンビアのサウンドが、若者たちに支持されたことがはじまりという。原曲よりも10〜30%遅いテンポと沈み込むピッチにより、重低音の揺らぎと粘性の高いグルーヴが際立つ。モンテレイの若者文化「チョロンビアーノス」(cholombianos)の象徴であり、地域のアイデンティティを支えた唯一無二のメキシコ産ダンス・ミュージックである。21世紀以降は NAAFI や DJ Python の活躍を通じて国際的評価を高めた。

 『Desaceleradas』を主導する音像は、クンビア/クンビア・レバハーダを象徴するアコーディオンの音の輪郭である。テープ・ヒスや電磁ノイズの霧の奥から断続的に立ち上がり、倍音構造のみが残されていく。特徴的なリズムはほぼ完全に消失し、テンポは固定点を欠いたまま漂流する。特に9曲目 “Gabriel Gabriela Dueñez” では、旋律そのものが崩壊の縁で揺らぎ、音と沈黙の境界が緩やかに溶解していく。劣化した録音媒体の断片と人工的処理が折り重なり、過去と未来の位相が消滅するような聴取体験をもたらす。その強烈な未聴感は、聴き手から言葉を奪うはずだ。
 デビットは本作で、民俗的素材と電子的処理の交錯を「音響的遺伝子操作」のように提示した。アコーディオンやリズム断片はアナログ・シンセによって変質させられ、テープ・ループとディレイによって時間軸が交錯・伸縮する。この音響合成は、AI合成声とマヤ神話的時間を接続した前作『The Long Count』の延長線上にあるといえよう。すなわち「歴史がテクノロジーによって再構築される」過程の探究である。
 『Desaceleradas』が提示する未知の聴取体験は、アンビエント的静謐を参照しながらも、その中心には「ひずんだ時間経験」の提示がある。音は歪み、時間は断絶し、身体感覚は宙づりにされる。デビットは音楽の享楽性を細かく解体し、アンビエント音響へ再構築する。クンビアの奥底に沈殿していた郷愁、孤独、断絶の残響を、彼女はアンビエントとして抽出していく。
 6曲目 “Cholombia, MTY” は、メキシコ北部都市文化特有のサウンドスケープが電子的腐食を受け、ゆっくりと溶解していく。南米的インダストリアル・アンビエントとでも呼びたくなるような楽曲だ。7曲目 “El Puente del Papa” では、アコーディオンの旋律がノイズの雲間から一瞬姿を見せ、すぐに消える。記憶の内部にしか存在しない旋律を徹底して音響化したトラックであり、ザ・ケアテイカーの手法とも通じる。11曲目 “Desaceleradas” では、全編に散在した残響がゆっくりと時間へ回収されていき、減退・縮減・遅延・消失といった音響的主題が見事に収束する。

 デビットが本作で突きつける問いは明快だ。「テクノロジーによって減速された身体は、どのように記憶を保持し得るのか」である。スロー化とは単なるテンポ変更ではない。そうではなく「経験の速度そのものの編集」だ。情報加速が感覚の空洞化を生む現代社会において、彼女は「減速」を抵抗と再生の手段として提示する。かつてモンテレイのストリートで生まれたスロウダウンしたリズムは、21世紀の情報社会における〈遅延の抵抗装置〉として再活性化されていくのだ。
 『Desaceleradas』は、クンビアの亡霊的残響とテクノロジー処理が交差する音響を描き出すわけだ。「減速」という操作がもたらすのは、音楽の文化的再配置であり、記憶の再編集なのである。アンビエントでもドローンでもなく、しかしアンビエントでもありドローンでもある。クラブ文化の記憶を遠く反射させながら、デビットの音は既存の系譜への回収を拒む。身体、時間、地域性、テクノロジー、電子処理。それらの境界線を曖昧化し、音楽/音響の定義を問い直していくのだ。
 速度を落とすこと。音を溶解させること。そして、沈黙を聴くこと。デビットの手にかかれば、それら一つひとつが文化的抵抗であり、過去と未来への「祈り」なのである。

Jonnine - ele-king

 オーストラリアのオルタナティヴ・ロック・バンド HTRK のメンバーでもあるジョナインの最新ソロ・アルバム『Southside Girl』が、UKの〈Modern Love〉からリリースされた。環境音とヴォーカルとベースと打楽器によるローファイ/サイケデリックなムードの楽曲をまとめたアルバムである。
 今年の〈Modern Love〉においては、デルフィーヌ・ドラ『Le Grand Passage』(傑作です)に続くエクスペリメンタルなフォーク/クラシカルな作品でもある。〈Modern Love〉にとってこれは意外な展開ではないのだ。例えば2022年のパロマ『Laila Sakini』もピアノとボーカルによるモダン・クラシカルな音楽性だったし、2023年のルーシー・レイルトン『Corner Dancer』もチェロの音響を追求した実験音楽だったのだ。重要な点はこのレーベルの「エクスペリメンタル」な音楽は単に先鋭的というだけではなく、どこか優雅さを称えていることにある。

 この『Southside Girl』は、そんな〈Modern Love〉の実験音楽方面のリリースでは、その極点(?)を示すような素晴らしい出来のアルバムである。実験と優雅、その交錯。つまり遊戯と記録。もしくは日常の中の実験と実践とでもいうべきか。いわば白昼夢のように浮遊感のある心地よいサイケデリアを展開していくのだ。もちろんゴリゴリの実験主義的な音楽でもない。むしろこれ以上ないほどにシンプルな音である。
 エクスペリメンタルでサイケデリックな音は HTRK の延長線上にある音ともいえるが、雑味を省いた本質的な音楽である。つまりシンプルな音だ。にもかかわらずとにかく豊穣な音楽なのである。なぜだろうか。「音楽と音の関係性に不用意な壁がないから」だとはひとまずはいえるだろう。音楽は音であり、音も音楽になりえる。フィールド・レコーディングは「音もまた音楽たり得る」という可能性を示す。環境音の録音が切り取られ、編集されたとき、その音が鮮烈な音楽の原型のように耳に響く。それは偶然と必然と意志によって生まれた音の音楽化だ。『Southside Girl』における環境録音もまた偶然と必然と意志によって選ばれた音がとても豊かに鳴り響いているのだ。
 同時にとてもパーソナルな音楽/音響でもある。間近にある音。記憶と生活。音と現実。その隙間にある幻のような感覚。内省的であるが暗くはない。このサイケデリックなアンビエンス感覚は HTRK のアルバムからの延長にあるといえるが、よりシンプルに、より濃厚になっているともいえる。じっと聴いているといつの間にか時間の感覚が溶け合っていくような恍惚とした感覚を得ることができた。レーベルがバンドキャンプ上でアナウンスしているように「郊外。海辺のアパート。海に行く約束。キャンディ。夜行列車」など、まさに過去の記憶が溶け合っていくような感覚を覚えるアルバムなのだ。「記憶」だけが持っている不思議な多幸感。桃源郷が「ここ」にあった。

 音楽的にみると重要なのは「ベース」と「環境音」の使い方にあると思う。一聴すれば分かるが、本作の編成にはギターがほぼ入っていない。環境音とベースと打楽器が本作の基調となっているのだ。もちろんジョナインのソロにおいてベースが重要な要素を占めるのは2023年にリリースされた前作『Maritz』の楽曲でもそうであったが、ほぼギターレスの本作は「ベースと歌声」による「二声の音楽」という可能性をさらに追求しているように思えた。加えて本作では「環境音」もアンサンブルのひとつのように扱っている。アルバム1曲目 “December 32nd” も環境音/フィールド・レコーディング作品だ。この日常の音の素朴な豊かさ。そして2曲目 “Spring's Deceit” では環境音とジョナインの美しい声が折り重なってくる。以降、3曲目 “Rococo” 以降、アルバム全編にわたりジョナインの透明で美しい歌声と環境音がセッションしているかのように折り重なる。

 本作はアルバム全11曲を通して環境音と声と打楽器とベースなどのアンサンブルをメインにしながら聴き手の意識を現実と幻の中間状態に誘うように展開する。だからこそ9曲目 “Shell Cameo” に不意に入ってくる素朴なピアノの音がとても新鮮に響くわけだ。また私がこのアルバムで特に惹かれたのは10曲目 “Sea Stuff” である。これまでひとつの演奏パートのように存在感のあった環境音が控えめになり、ベースとドラムと歌だけになる曲だ。もちろん環境音が消え去ったわけではない。微かに音が鳴ってはいる。いわば静寂になったのだ。
 そこで繰り広げられるシンプル極まりない演奏と彼女の声は不思議と、あらゆる感情が浮遊するような感覚に満ちていた。まるで日常の中に不意に訪れる空白のように。パーソナルな録音環境によって生まれた夢と幻のリアリズムとでもいうべきか。そう、このアルバムをじっと聴いていると、まるで環境音までも音楽を奏でているかのように聴こえる瞬間があるのだ。

 「記憶」というパーソナルな主題を、軽やかに展開するローファイ・サイケデリック・フォークの逸品といえる。聴き込むほどにこの日常が愛おしくなり、同時に失われた過去の記憶が結晶していく。天国を希求しつつも、この生きている世界こそが桃源郷だった。そんな感覚すら抱かせてくれるアルバムである。

Jonnine - ele-king

 オーストラリアのオルタナティヴ・ロック・バンド HTRK のメンバーでもあるジョナインの最新ソロ・アルバム『Southside Girl』が、UKの〈Modern Love〉からリリースされた。環境音とヴォーカルとベースと打楽器によるローファイ/サイケデリックなムードの楽曲をまとめたアルバムである。
 今年の〈Modern Love〉においては、デルフィーヌ・ドラ『Le Grand Passage』(傑作です)に続くエクスペリメンタルなフォーク/クラシカルな作品でもある。〈Modern Love〉にとってこれは意外な展開ではないのだ。例えば2022年のパロマ『Laila Sakini』もピアノとボーカルによるモダン・クラシカルな音楽性だったし、2023年のルーシー・レイルトン『Corner Dancer』もチェロの音響を追求した実験音楽だったのだ。重要な点はこのレーベルの「エクスペリメンタル」な音楽は単に先鋭的というだけではなく、どこか優雅さを称えていることにある。

 この『Southside Girl』は、そんな〈Modern Love〉の実験音楽方面のリリースでは、その極点(?)を示すような素晴らしい出来のアルバムである。実験と優雅、その交錯。つまり遊戯と記録。もしくは日常の中の実験と実践とでもいうべきか。いわば白昼夢のように浮遊感のある心地よいサイケデリアを展開していくのだ。もちろんゴリゴリの実験主義的な音楽でもない。むしろこれ以上ないほどにシンプルな音である。
 エクスペリメンタルでサイケデリックな音は HTRK の延長線上にある音ともいえるが、雑味を省いた本質的な音楽である。つまりシンプルな音だ。にもかかわらずとにかく豊穣な音楽なのである。なぜだろうか。「音楽と音の関係性に不用意な壁がないから」だとはひとまずはいえるだろう。音楽は音であり、音も音楽になりえる。フィールド・レコーディングは「音もまた音楽たり得る」という可能性を示す。環境音の録音が切り取られ、編集されたとき、その音が鮮烈な音楽の原型のように耳に響く。それは偶然と必然と意志によって生まれた音の音楽化だ。『Southside Girl』における環境録音もまた偶然と必然と意志によって選ばれた音がとても豊かに鳴り響いているのだ。
 同時にとてもパーソナルな音楽/音響でもある。間近にある音。記憶と生活。音と現実。その隙間にある幻のような感覚。内省的であるが暗くはない。このサイケデリックなアンビエンス感覚は HTRK のアルバムからの延長にあるといえるが、よりシンプルに、より濃厚になっているともいえる。じっと聴いているといつの間にか時間の感覚が溶け合っていくような恍惚とした感覚を得ることができた。レーベルがバンドキャンプ上でアナウンスしているように「郊外。海辺のアパート。海に行く約束。キャンディ。夜行列車」など、まさに過去の記憶が溶け合っていくような感覚を覚えるアルバムなのだ。「記憶」だけが持っている不思議な多幸感。桃源郷が「ここ」にあった。

 音楽的にみると重要なのは「ベース」と「環境音」の使い方にあると思う。一聴すれば分かるが、本作の編成にはギターがほぼ入っていない。環境音とベースと打楽器が本作の基調となっているのだ。もちろんジョナインのソロにおいてベースが重要な要素を占めるのは2023年にリリースされた前作『Maritz』の楽曲でもそうであったが、ほぼギターレスの本作は「ベースと歌声」による「二声の音楽」という可能性をさらに追求しているように思えた。加えて本作では「環境音」もアンサンブルのひとつのように扱っている。アルバム1曲目 “December 32nd” も環境音/フィールド・レコーディング作品だ。この日常の音の素朴な豊かさ。そして2曲目 “Spring's Deceit” では環境音とジョナインの美しい声が折り重なってくる。以降、3曲目 “Rococo” 以降、アルバム全編にわたりジョナインの透明で美しい歌声と環境音がセッションしているかのように折り重なる。

 本作はアルバム全11曲を通して環境音と声と打楽器とベースなどのアンサンブルをメインにしながら聴き手の意識を現実と幻の中間状態に誘うように展開する。だからこそ9曲目 “Shell Cameo” に不意に入ってくる素朴なピアノの音がとても新鮮に響くわけだ。また私がこのアルバムで特に惹かれたのは10曲目 “Sea Stuff” である。これまでひとつの演奏パートのように存在感のあった環境音が控えめになり、ベースとドラムと歌だけになる曲だ。もちろん環境音が消え去ったわけではない。微かに音が鳴ってはいる。いわば静寂になったのだ。
 そこで繰り広げられるシンプル極まりない演奏と彼女の声は不思議と、あらゆる感情が浮遊するような感覚に満ちていた。まるで日常の中に不意に訪れる空白のように。パーソナルな録音環境によって生まれた夢と幻のリアリズムとでもいうべきか。そう、このアルバムをじっと聴いていると、まるで環境音までも音楽を奏でているかのように聴こえる瞬間があるのだ。

 「記憶」というパーソナルな主題を、軽やかに展開するローファイ・サイケデリック・フォークの逸品といえる。聴き込むほどにこの日常が愛おしくなり、同時に失われた過去の記憶が結晶していく。天国を希求しつつも、この生きている世界こそが桃源郷だった。そんな感覚すら抱かせてくれるアルバムである。

Demdike Stare - ele-king

 2014年に野田努に同行して、代官山ユニットの楽屋でデムダイク・ステアのマイルズ・ウィテカーとショーン・キャンティ、それからアンディ・ストットにインタヴューをしたことがある。ウィテカーとストットによるユニット、ミリー・アンド・アンドレアがアルバム『Drop The Vowel』を〈Modern Love〉から出した直後のことだ。地元のマンチェスター近郊に住む寡黙なストットと日本の文系青年に似た雰囲気のキャンティ(同世代の近郷出身者にはジェイムズ・リーランド・カービーとサム・シャックルトンがいる。若手世代にはシンクロ、インディゴ、エイカーなど)、当時ベルリンに居を構えていた快活なウィテカーと過ごしたあの時間をいまもたまに思い出す(このインタヴューは「ele-king vol.14 」に収録)。ウィテカーはあの頃、ニーチェ『善悪の彼岸』に頭を悩ませていて、インタヴュー後(ファンだというDJノブがデムダイクのふたりに会いに来ていた)、ステージ脇ではイタリアの現代音楽家エギスト・マッチ(1928-1992)について熱く語ってくれた。
 あれから四年過ぎ、デムダイクのふたりは実に多くのことに挑戦してきた。2013年から2015年までに続けていた12インチの「Testpressing」シリーズでは、ジャングルからUKガラージ、さらにはグライムにいたるUKダンス史を俯瞰し、これまでのデムダイク・ステアのイメージを覆すような楽曲フォームを発表してきた。
 ここには機材における大きな変化もある。それまでハードウェア+エイブルトン+ロジックで進めていた作業環境から、エレクトロン社製のサンプラー、オクタトラックをメインに据えたセットに切り替えたのだ。2014年のライヴでも「これ、使うの難しいんだよね」と言いながら(この発言は謙遜ではなく、オクタトラックは操作を覚えるのが本当に難しい機材である。サンプラーというよりも、オシレーター(音を発生させる機能)が搭載されていないエイブルトンのようなDAWのハードウェア版、くらいに捉えてもらってよい。マニュアルも難しい!)、ウィテカーはステージ上でオクタトラックを手に、キャンティがセレクトするレコードをサンプリングし、華麗にさばいていた。
 これは非常に重要な転回である。シーケンサーを動かしながら(つまり、楽曲を止めることなく)リアルタイムでサンプリング/加工ができるこの機材から実に多くのフレーズが生まれている。ジャングルはリピートを極小細分化し(“Null Results”)、ソウルⅡソウルは裁断機にかけられガラージになり(“Rathe”)、象の嘶きがグライム空間から突発してくる(“Procrastination”)。
 もちろん彼らは以前にも『Voices of Dust』(2010)で“Hashshashin Chant”という最高のトライバル・チューンを生み出している。しかしオクタトラック導入後の「Testpressing」以前以後では律動的直感性の強度は異なるものになっている。彼らが愛すジャズ・ミュージシャンたちが、猛練習と苦楽を重ねて新たな音を獲得していくように、デムダイク・ステアのマシン・ミュージックは自身のOSを書き換えていったのだ。
 この変化への欲求が結実したのが2016年の大傑作『Wonderland』である。この年の9月、僕はロンドンへ渡った。その翌月の7日、ショーディッチのクラブ、ヴィレッジ・アンダーグラウンドで、彼らの〈DDS〉レーベルのパーティが開かれ、迷わず現場に向かった(DJのリル・モフォも来ていた)。ジョン・K、ステファン・オマリー、ミカチュー、イキイノックス、そしてデムダイク・ステア。そうそうたるメンツである。この年、同レーベルからは、2018年に『Devotion』を生み出したティルザがフィーチャーされたミカチューのEP「Taz And May Vids」が、そしてなんといっても10年代の名盤であるイキイノックスのアルバム『Bird Sound Power』がリリースされている。
 「最近はジャズ、とくにマル・ウォルドロン、それからイキイノックスの影響でダンスホールを聴いてるよ」、とフロアにいたウィテカーは教えてくれた。この時点で彼は長年拠点にしていたベルリンを離れ、故郷のマンチェスターに戻っていた(この時のウィテカーの読書リストはドゥルーズ『スピノザ:実践の哲学』と、アントニオ・ダマシオ『感じる脳:情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ(原題:Looking for Spinoza)』である)。
 『Wonderland』の主軸にもキャンティとの2台のオクタトラックのセッションがあり、それがイキイノックスを経由したダンスホールの影響下で、なんとも形容しがたい奇妙なビートを醸成した。昨年、英国のNTSラジオに出演した坂本龍一が同アルバムからセレクトした“Animal Style”が好例である(坂本はストットの“Tell Me Anything”もかけていた)。揺らぎつつ、芯のあるポリリズム。怯えながらもトラップをすり抜ける小鹿のように、どこまでも逃げていく華麗なシンセ。どこか笑える、頭をかち割るリムショット。
 筒井康隆はかつて山下洋輔のボレロを「脱臼したボレロ」と形容したが、その言葉がここにもしっくりくる。正常ではなく、不良な異常さを。停滞ではなくダイナミックな恒常性を。そして、シリアスさもいいけど、常に一握りのユーモアを。『Wonderland』のマシン・ミュージックは、多くのしがらみにまみれたジャンルの道徳をフォローするのではなく、それを脱臼し、前例のない自らの倫理の構築を呼びかけてくる(これは先のドゥルーズのスピノザ理解と重なる点でもある)。
 2017年にはフランスの音楽研究グループであるIna Grmの要請によって実現した、同団体が所有するアーカイヴ音源と音響システム、アクースモニウムを用いたライヴ・レコーディング盤『Cosmogony』を、さらに2018年に入ってからはローマの伝説的即興音楽集団「Gruppo di Imorivvisazione Nuova Cosonanza」(同グループにはかつて前述のエギスト・マッチが参加していた。伏線はあのステージ脇にもあった!)とのコラボレーション作『The Feed-Back Loop』をカセットで発表。「Testpressing」/『Wonderland』のセットアップで、即興/ミュージック・コンクレートを追求していく力作だ。
 そして2018年10月25日に〈Modern Love〉から届いたのが、9曲入りの新作『Passion』である(紹介媒体によってアルバムかEPで分類が異なっているが、ここではアルバムとして扱う)。この段階で僕が最後にデムダイクのふたりに会ったのは、2018年6月15日、イースト・ロンドンにあるクラブ、オヴァル・スペースで行われた、デムダイク・ステア、アイコニカ、リー・ギャンブル、アンディ・ストットらがブッキングされたイベント時である。この日、〈DDS〉からシンイチ・アトべの新作『Heat』が出ることをウィテカーからチラッと教えてもらっていたのだが、デムダイクのリリースについては何も言っていなかったので、今回のリリースは驚きだった(この時、ウィテカーはマーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』、ダン・ハンコックス『インナー・シティ・プレッシャー:グライムの物語』を読んでいた。最近興味が社会学系にシフトした、そうである)。
 このライヴは『Passion』の布石だった。ライヴのヴィジュアルを担当したデザイナー/ヴィジュアル・アーティストのマイケル・イングランドが今作のジャケットのデザインを担当している(彼のクライアントはBBCからソニー、ミュージシャンにはオーテカやボーラなどがいる)。濃い紅色に塗られた女性がこちらを睨んでいる。現代におけるソフトウェアの使用方法を探求し問い直すという手法から、今回のヴィジュアルは生まれたという。
 現実にポッカリ空いた非現実の落とし穴を拡大することを、イングランドは得意とする。あの日のライヴのヴィジュアルに現れたイメージたち:カナダのナイアガラの滝で自撮りをするレズビアンのカップル、蝋人形館、ニューヨークのヴォーグ・ダンス、ジャパニーズ・ホラーな白衣を纏った女性の暗黒舞踏的身体移動etc。これまでは、映画好きであるキャンティが選んだホラー映画などからの抜粋がライヴで使われていたが、今回、彼らの視覚を司るのはフィクションとノン・フィクションの境界を揺らぐ何かであり、異様な人間性たちである。それがこのジャケットや、リリース時に公開された以下の本作のトレーラーにも表れている(この映像はライヴでも使われていたと思う)。


Demdike Stare - Passion / Trailer by Michael England

 ここでアルバムを再生する。鋭く青光りするシンセが鈍いディストーションの渦巻きへと降下する “New Fakes”から、さらに粒の細かい歪みが覆ったメランコリアが徐々に出現し、強いトレモロ・エフェクトを経由しビートが緩やかにはじまる“At It Again”へと流れる冒頭。極小のキックの上に、制御不能気味に響くジャングルのビートが、速度の低下と上昇を経て次第に開花する。複雑性と単純性の両方が相互を包摂していき、その両方がノイズの海へと沈む。
 “Spitting Brass”では、時にウォブルする緩やかな周波数グラフを描くシンセが、幽霊のごとき声と重なり低速ガラージを奏でる。続く“Caps Have Gone”でビート・パターンはよりプリミティヴになり、FMシンセの流星が降り注ぎつつもダンスホールのビートが前進を続ける。
 ここでレコードが2枚目へと移行する。1曲目、“Know Where to Start”はBPM142、グライムである。「どこからはじめるか知っている」とタイトルが語るこの3分33秒から、初期のワイリーとディジー・ラスカルが想起され、タワーブロックから送信される海賊ラジオのトランスミッションのようにパーカッションは断片的に連打される。「Testpressing」でのUKダンス・ミュージックの地図を書き換える旅は、ここでも新たな作図方を展開していく(タイトルを「Nowhere to Start/スタート地点などない」と言葉遊び的に読みかえれば、何かの起源/パイオニアを特権化しない姿勢も読み取れる?)。
 C面2曲目、「お前ら人間はファックだ」(“You People Are Fucked”)という挑発のもと、人間は何か別の存在に中指を立てられる。ふたつの冷徹なヴォイスが右と左のチャンネルで相互に会話のやり取りをし、異様なポジティヴさを放つウォンキーなベースラインが、BPM120代中頃の相対的低速感でユーモラスに響く。続く“Pile Up”は同様のタイム・スピードながらも、「間」を強調し、2017年のミュージック・コンクレート修行で養ったサウンド・マテリア構築センスが惜しみなく披露されている。
 レコードは裏面へ。タイトルは“Cracked”(「ひび割れた」の意)。針が飛んだかと思わせるオープン・ハットの機能不全ビートに、深いリヴァーヴ(おそらくクナスのエクダール・モイスチャライザー〔Ekdahl Moisturizer〕を使用。バネを使ったナチュナルにエグい効果を生む。ウィテカーが長年愛用)が優雅にマシン・ヴォイスを包む。そして入り込む低音。このベースラインは間違いなく、ガラージの暗黒面におけるクラシック、ダブル99 の“Rip Groove”(04年)に由来するものである。書道のようにフォームを崩されたそれが、一服の絵画のようにトラックを貫き、モノクロームを基本色に、ドットのようなシンセの突出が細部から全体を書き換える。ビートが消えると、広大な花畑のごときドローン・ビートがこれまでの展開がジョークだったかのように広がり(曲名“Dilation”は「拡張」の意)、今作は幕を閉じる。
 ここで見てきたように、そしてプレス・リリースが語るように、『Passion』はUKダンス・スタイルをなぞった「アヴァンギャルドと、重低音のためにデザインされ洗練された、機能的なクラブ兵器の奇妙な構成物」である。たしかに前作『Wonderland』でイキイノックスのダンスホールを経由し到着した不思議の国から、上記のカセットのリリースで研ぎ澄まされた前衛センスを武器に、「Testpressing」シリーズで試みたUKダンス史へと再潜入していくのが今作である(だからこのレヴューは、ここ数年の出来事を詳述しなければならなかった)。
 だが、同時にそれ以上の何かがここにあるような気がしてならない———。去る3月、僕はマンチェスターのクラブ、スープ・キッチンで毎年開かれている、デムダイク・ステアのオールナイトDJセットを聞きに行った。そこで流れていたのは、ミュータント・ダンスホールであり、レヴォン・ヴィンセントの“Double Jointed Sex Freak”(09年)だった。彼らは新旧ジャンル問わずにしっかりと丁寧にレコードを聴き、映画を見て、本を読む勉強家&リスナー・タイプの作り手であり続けていた。
 いわゆる「型にはまらない系」の人々は、自身のスタイルを「オンリー・ワン」の名の下に特権化しがちだが、デムダイク・ステアにはそれがなく、偉そうに見えない。彼らは謙虚なリスナーであることと、過激な作り手であることを自由に行き来する。そこには主体性を保ちながら、対象と並列に寄り添う姿勢がある(DJセットでは影響元である対象をセレクトし、フロアから聴かれることによって、自身も対象と同化している)。自身の曲中でありながら、“Rip Groove”が見え隠れするように、デムダイク・ステアの奇妙なリアリズムは、常に何か別のものに開らきつつ生成する……(この感覚は、清水高志が『実在への殺到』(水声社、2017年)で論じているミシェル・セールの概念「準-客体」に近いものがあるかもしれない)。
 かつて阿木譲は放射性物質がバラまかれた「3.11以後の我々の生きる時代意識が最もリアルに反映されたもの」としてデムダイク・ステアのホラーに満ちた音楽を論じた。同意である。今回、僕は違った角度からそこに新たな意味を加えたい。政治的にも、文化的にも、あるいは環境的にも何かを特権化してしまいがちなダークエイジの価値観に、デムダイク・ステアの音楽はノーを突きつける。だから僕は彼らに吸い寄せられてしまう。スピノザもニーチェもフィッシャーも、似たようなことを書いてきた。
 『Passion』は作品単体として聴いても素晴らしいが、上記で述べたように、前作たちとの関連でも面白みを増す。なので、単体でベスト・ランキングの上位に入る大傑作、というわけではないかもしれない。だが、UKダンス系にフォーカスをした初のアルバムという意味では初の挑戦であるし、何よりビートと音質が文句なしにかっこいい(今回から彼らは24ビット・リリース、つまりハイレゾにも挑戦している)。そして、ここに表出している奇妙な姿勢は、絶妙な彼ら「らしさ」である。ダークな内容に対して、少し皮肉っぽく響く「情熱」というタイトルも面白い。
 次にウィテカーは何を読んでいるのか考えながら(ミシェル・セールだったら面白い)、僕はしばらくこの「情熱」に耳を傾けようと思う。きっと今作は年末のフロアでも最高に鳴る1枚になるだろう。

Millie & Andrea - ele-king

 1(800)999-9999は、ホームレス、自殺、家出、虐待など、アメリカで、緊急時に対応するフリーダイヤルの電話番号だ。ふたりの老人が座るバス停には、そして次のように書かれている。「何故なら、路上の生活とは行き止まりである(その先に人生はない)」
 先のない人生──この暗示的かつリアルな言葉、バスを待つふたりの老人──この暗示的かつリアルな場面は、見事にミリー&アンドレアのデビュー・アルバムの音楽に意味を与えている。無理もない、事態の深刻さは日本でも同じ。僕は、日本でロック・バンドをやっている連中の一部がよく口にする「ジジイ/ババア」という言葉を笑って言えるほど良い社会を生きていない。身内に高齢者がいる人にはよくわかる話だ。人生をデッドエンドにしているのは特定の世代ではないのだ。

 マイルス・ウィッテカー(デムダイク・ステア)とアンドレア(アンディ・ストット)のコンビは、しかし、この見事なアートワークに反して、「先」を探索している。

 『ドロップ・ザ・ヴォウルズ』は、純然たる新作というわけではない。既発の曲がふたつほど混じっている。ミリー&アンドレアは、Discogsを見ると2008年にはじまっている。マイルス・ウィテカーに紙エレキングが取材したのは2012年の初頭だったが、そのとき彼は、「自分たちの音楽はたぶん他の誰よりも正直なだけだ」と言った。
 また、彼は紙エレキングにおいて、自分のフェイヴァリット10枚の最初にナズの『イルマティック』を挙げている。
 あるいは、アンディ・ストットの来日時のライヴを思い出してもらってもいい。あのときもジャングル/レイヴ・ミュージックへと展開したものだが……

 昨年の、ミニマリズムをダーク・アンビエント的に咀嚼したマイルス・ウィテカーのソロ『Faint Hearted』(https://www.ele-king.net/review/album/003212/)もユニークな作品だったが、コンセプトとして「追い詰められた我らの時代を描く」ということを言えるなら──ウィテカーが言うところの正直な表現という意味において──、昨年のザ・ストレンジャー(ザ・ケアテイカー、ウィテカーが尊敬するひとり)のアルバムの世界観にも近く、しかもジャングル・リヴァイヴァル/ハウス・リヴァイヴァルと「リヴァイヴァル」続きの現代にあって、アントールドのアルバムと同様に、『ドロップ・ザ・ヴォウルズ』には、結局は後戻りできないという感じも良く出ている。
 まあ、アートワークの良さもたしかに大きい。『ラグジュアリー・プロブレムス』もあの写真でなかったら……と自分の耳を疑いたくなるほど、〈モダン・ラヴ〉はうまいことをやっている。また、本人たちは「正直……」と言うものの、ベタな日本人からすると、いかにも英国風のアイロニーも効いていて、アルバムには“Stay Ugly”すなわち「醜くくいつづけよ」などという曲がある。「stayなんたら」はひとつのモットーでありクリシェだが、スマートなのものは信じるなとでも言いたげな逆説的な曲名である。

 実際、これはスマートなジャングルではない。単純明快なグルーヴではないし、目から血を流している少女でもない。折衷的で、無残にも圧縮機で潰されたごときジャングルに喩えられる。“Temper Tantrum”(オリジナルは2009年)のようにレイヴ・ミュージックとして機能すしやすい曲もあるが、気持ちに突き刺さるのは“Stay Ugly”のような、奇妙極まりない曲だ。

 それでも、誰もがこのアルバムに秘められた享楽性を否定できないだろう。ミニマル・テクノ調の“Spectral Source”からはアンダーグラウンド・ダンス・ミュージックとしての楽しみの感覚が滲み出ている。ジュークめいたエレクトロ・スタイルの“Corrosive(腐食)”は、僕にはドレクシアへのオマージュにも聴こえる。近年のブリアルの支離滅裂さからすれば、ずいぶんと聴きやすい。
 ジャングルの新解釈(ニュー・スクール)とテクノとの結合という観点では、マンチェスターのアコード(Akkord)とも重なるところはあるのかもしれない。ジャングルというスタイルには、アンダーグラウンド・ミュージックが良かった時代の記憶があるばかりではなく、音楽的にもまだ開拓する余地があり、横断的に、そしていろんなアプローチを取り入れることができるのだ。
 とはいえ、ひとつの曲のなかの階層は、こちらがより深い。タイトル曲の“Drop The Vowels”は、装飾性のない、パーカッシヴなブレイクビートと低く暗い音響との掛け合いだ。マイルスの、デムダイク・ステアにおけるダーク・アンビエント/ドローンの実験と、そしてアンディ・ストットのダンス・ビートとが刺激的な一体化を見せている。
 つまり、全8曲というのは物足りないようにも感じるが、幸いなことに、事態の深刻さによって身動きが取れないほど圧せられているわけではないようだ。このアルバムには動きの感覚、リズムがある。いたずらに微笑みはしないだけだ、正直な表現として。

Felix K - ele-king

 5月末から『アンビエント・ディフィニティヴ』の編集に突入してしまったので......2ヶ月遅れの紹介です。ベルリンからドローンも取り混ぜたドラムン・ベースの新展開で、〈ハード・ワックス〉傘下に設けられた〈ヒドゥン・ハワイ〉を共同で運営するフェリックス・Kのデビュー・トリプル・パック(アナログはグレー・ヴァイナル)。先行した〈アルファカット〉やDブリッジの〈イグジット〉と同じくビートを強調せず、オフを多用し、ダブとして聴かせる要素が強いあたりはクルーダー&ドーフマイスターを思わせるものの、全体的にはもっとストイックで、さりげなくインダストリアル・ドローンへと流れていく部分はやはり旧来のものとは一線を画している。ベーシック・チャンネルとドラムン・ベースの融合は意外な広がりを見せているというか。

 〈ヒドゥン・ハワイ〉からは、もっと過激にドローンだかドラムン・ベースだかわからないほど融合しているものもリリースはされているけれど(ドローン・ベース?)、『フラワーズ・オブ・ディストラクション』ではそこは行ったり来たりの範疇にとどめられていて、いわばドローンはダンス・アルバムにおけるアンビエント・パートのような役割を果たしている。そこで煽られる雰囲気は不穏でありながらも、それに疎外されるようなものではなく、まるで沼から這い上がるかのようにしてダンス・ビートが立ち上がったかと思えば、再び、それが当然であるかのようにして暗く沈んだドローンへと戻っていく。曲名は"フラワーズ・オブ・ディストラクション1"から"フラワーズ・オブ・ディストラクション14"と続き、最後が"フラワー・オブ・ホープ"。しかし、これも、けっして明るい曲ではない。何かに耐えているような響きに終始する。

 エレキング9号のインダストリアル特集で、僕は同傾向のフィズ『ザ・コモンズ』を指して「踊れるスロッビン・グリッスル」というようなことを書いてしまった。しかし、その表現は『フラワーズ・オブ・ディストラクション』が世に出るまで控えておくべきだったかもしれない。90年代のドラムン・ベースが持っていた楽観性や高揚感はここには微塵もなく、個人的な閉塞感だけが宙を舞う。内向性と攻撃性が共存し、何度聴いてもヨーロッパの暗闇に引きずりこまれるだけである。ラース・フォン・トリーアーの磁場に。底なしのメランコリアに。ずぶずぶずぶずぶと......。

 あるいは、最後のところでリズムがもうひとつ納得がいかなかったけれど、やはりイグジットからリリースされたダン・ハーバーナムによるアンビエント・ドラムン・ベースの試み、『フロム・ザ・ノウン』にもかなり興味深いものがあり、ベーシック・チャンネルとドラムン・ベースの融合にはさらなるポテンシャルが感じられることも確か。ダブステップとドローンが境界線を失ったブリストルのエンプティセットやローリー・ポーターらとの共振も期待しつつ、行く末を気にしてみたい。

 似たようなテイストなので、さらに2ヶ月遡ってマイルス(・ウィッテイカー)名義のファースト・ソロも。デムダイク・ステアとして先に知名度を上げているものの、それ以前にミル&アンドリーとしてアンディ・ストットと共にダブステップのプロジェクトをやっていたウィッテイカーがストットのテクノ路線に刺激されたものかと思ったけれど、『ラグジュアリー・プロブレムズ』のようなソリッドでインダストリアルな仕上げにはこだわらず、トランスを思わせる生暖かいアンビエントまであって(現シーホークスのジョン・タイがやっていたMLOなどを思い出す)、『フラワーズ・オブ・ディストラクション』よりは柔軟性のある世界観を押し広げている。暗く波打つようなビートもどこかにファニーさがあり、全体に「夜は墓場で運動会」といったところだろうか(『君に届け』の肝試しみたいな?)。『フェイント・ハーティッド(=ぼんやりとした心)』にはデリック・メイが見え隠れするような曲まであって、それはそれで驚くというか。


Andy Stott - ele-king

 モーリツ・フォン・オズワルドにベーシック・チャンネルの原イメージがブライアン・イーノとジョン・ハッセルのコラボレイション『ポッシブル・ミュージック』から来ていると聞いた時は、まさしくなるほどだった。イーノはアンビエント・ミュージックのネクストとして「フォース・ワールド(第4世界)」という概念を立ち上げ、どこかスピリチュアルな響きを構想の核に据えていたのだろう。まだ商業ベースとは無縁だった時期のワールド・ミュージックがその背景には大きく広がっていたものの、そのシリーズに続きはなかった。ほどなくしてイーノはアンビエント・シリーズもストップさせてしまう。

 アレックス・パタースン(ジ・オーブ)はイーノの『オン・ランド』をしてイギリスの湿地帯を想起させる音楽だと話してくれたことがある。『ポッシブル・ミュージック』にもそれはダイレクトに投影されていた感覚であり、ベーシック・チャンネルの2人はこれにデトロイト・テクノを掛け合わせることで、現在ではダブ・テクノと称されるフォームを構築したといえる。デトロイト・テクノ、とりわけアンダーグラウンド・レジスタンスによるそれは90年代初頭のジャーマン・テクノに野火のように燃え広がり、ある程度、キャリアを積んでいるプロデューサーの過去には必ずといっていいほど修作が存在する。つまり、ドイツとデトロイトを結ぶだけなら誰にでも出来ることだったのかもしれないけれど、彼らはそれにイギリスの湿地帯という要素を加えることで、他のプロデューサーたちとは一線を画す存在になっていったのである。さらにはマーク・エルネスタスによるダブへのこだわりがベーシック・チャンネルの中期から後期にかけて、もうひとつの大きな役割を果たすこととなり、邪推ながら解散の原因にもなっていったのだろう。

 ベーシック・チャンネルのフォロワーというのは、本当に数え切れないほど出てきたし、いまでもそれは続いている。厳しいことを言えば、彼らが設立した〈チェイン・リアクション〉からデビューしたポーター・リックスやウラディスラフ・ディレイ、そして、マイク・インクと、これに触発されたというハーバート以外は物まねの域を出たものはいない。ロックン・ロールやファンクのフォロワーと同じく、物まねさえしていれば楽しいというような音楽になってしまったとさえいえる。当然のことだろうけれど、オズワルド本人はそのようなフォロワーの作品はまったく聴く気にもならないと言っていた(ロッド・モーデルさえ知らない様子だった)。オズワルドは広義のファンク・ミュージックに、エルネスタスはダブを経て現在はシャンガーンに夢中のようである。

 ベーシック・チャンネルを基調にしつつ、これに初期のアクフェンを思わせるカット・アップを組み合わせたのがアンディ・ストットだった。昨年5月にリリースされて大きな話題を呼んだダブル・パック「パスト・ミー・バイ」と、その続編にそれぞれ2曲づつボーナス・トラックを加え、彼にとっては2作目の編集盤となるCDヴァージョンもつくられた。06年にリリースされたデビュー・アルバム『マーシレス』ではこのようなアプローチはまったく試みられていなかったどころか、クラロ・インテレクトのカヴァーをやるような存在(IDM系?)だったのに、いつどこでスタイルを変えていたんだろう...という感じである。ベーシック・チャンネルをファンク・ビートで刷新したような"ウイ・ステイ・トゥゲザー"を聴いても、その骨太なプロダクションはかなりな圧迫感を覚えるほどである。

 まずはなんといっても"ノース・トゥ・サウス"。ガリガリととぐろを巻くベースに断片化された効果音が様々なニュアンスで襲い掛かってくる。たったそれだけのことだけれど、その臨場感はとても地震の直後に聴けるようなものではなかった。ソウル・ヴォーカルのカット・アップを加えた"ニュー・グラウンド"や"インターミッテント"も印象深い仕上がりで、ここでもやはり破片かされたストリングスが荒廃したムードを一気に覆してしまう手前で、あっさりと姿を消していく。その刹那が本当にたまらない。音が醸し出す文化的な意味合いに異常なほどのせめぎ合いを演出させているといった風である。もしかするとジェイムズ・ブレイクの影響なのかもしれないけれど、それを同質の場面ではなく、旧態としたテクノにフィードバックさせたところがむしろアイディアだった。大きな一歩ではないけれど、それほど小さくもない成果がここにある。

 驚いたのは上記したポーター・リックスのデビュー・アルバムを〈タイプ〉がリイッシューしたことである。メタル・ケースのみで売られたということもあるかもしれないけれど、時には1万円近い値段が付けられていた『バイオキネティックス』を、しかも、アナログでは初リリース。早くも限定のクリア・ヴァイナルには同じぐらいの値段が付き始めている(CDは2月中旬発売予定)。トーマス・ケナーのアンビエント諸作を再発してきた流れで決定したものだろうし、それこそイギリスの湿地帯を追求しまくってきたレーベルなので、不思議はない。ない......けれど、仮にもテクノの領域から出てきたマスターピースをタイプが再発するのである。ダンス・ミュージックではなく、ノイズ・ドローンという価値観のなかで再生される『バイオキネティックス』は一体、新たなリスナーたちに、どのような音楽として聴かれるのだろうか。僕には想像もできない。

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