「IR」と一致するもの

interview with yahyel - ele-king


yahyel - Human
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 マウント・キンビーとの出会いが大きかったようだ。
  海外と日本とのあいだにある音楽的な乖離、それに対する苛立ち。そのギャップは何よりもまず音そのものによって乗り越えていくしかない、だからあくまでサウンドで勝負をかけること、そのために匿名的であること――1年前までのヤイエルを簡潔に言い表すなら、そうなるだろう。海外からは奇異なものと見なされ、逆にここ日本ではその音楽性ゆえに浮いてしまう。ヤイエルはその名のとおり宇宙人だった。そのような疎外感は本作でも1曲目冒頭の「I'm a stranger」という言い回しに表れている。しかし今回は少しばかり様子が違う。なんと言ってもタイトルが『Human』だ。宇宙人はいま、人間になろうとしているのだろうか。
  彼らのセカンド・アルバムを再生すると、まずはサウンド面での変化が耳に飛び込んでくる。もたつくように揺らぐリズム、ぶんぶんと唸りを上げるベース、研ぎ澄まされた音色/音響――それら鋭さを増した音の数々に耳を傾ければ、彼らが前回以上に貪欲にさまざまな種類の音楽を吸収してきたことがわかる。
  にもかかわらず、本作の核を成しているのはむしろ言葉のほうだ。実験的なサウンドのうえに乗る池貝峻のヴォーカルは、さまざまな葛藤や迷いを偽ることなく丁寧に歌い上げる。「私はよそ者」というフレーズで幕を開けたはずのこのアルバムは、そして、「愛する者たれ」というメッセージを放って幕を閉じる。自らが理解されない、あるいは周囲と異なっているという感覚それ自体はそれこそロマン主義の頃から脈々と続くものではあるけれど、彼らはそれを「愛」のレヴェルにまで運んでいく。
  最終曲“Lover”は、そのグランジのようなイントロからしてすでに他の曲と異なる趣を醸し出しているが、リリックはアルバム全体の流れを、とりわけ直前の“Pale”を踏まえた内容になっており、主人公は逡巡のループからの脱出を試みる。前へ進むためには選ばなければならない。選ぶためには捨てなければならない。だからこそ、そこで捨てずに選びとったもの、すなわち「生き残ったもの」を自信をもって愛さなければならない――それがヤイエルの呈示する「Human」の姿だ。
  この着想は、昨秋共演したマウント・キンビーとの交流のなかで芽生えたものだという。そういう意味でこのアルバムは、マウント・キンビー『Love What Survives』に対する最初の大きなリアクションと呼ぶこともできる。かつての宇宙人は「愛」を知り、いま人間になろうともがいている――逡巡に折り合いをつけたヤイエル第2章、その幕開けに盛大なる拍手を。


匿名性がうんぬんとか、音の部分でも海外の誰それに似てる/似てないとか、良い/悪いとか、ほんとうにどうでもいい部分だけが取り上げられちゃって、それがすごく苦しかったんですよ。

池貝さんはいわゆるふつうの仕事と並行して音楽活動をされていますが、音楽のほうは仕事ではないべつのものとしてやっている感覚でしょうか? あるいは、同じ仕事だけど質の違うものでしょうか?

池貝峻(以下、池貝):そこはそんなに考えたことはないかもしれないですね。逆に言えば僕はふつうの仕事も、そういうふうに(べつのものと)思ってやるのが嫌なんですよ。ただ、決定的に違うのは音楽は表現活動ですし、僕はそれがちゃんと支持を得て人に届くこと自体がすごく大事なことだと思っていて。仕事だとすごく客観的になりますよね。だから、社会のなかで個人が声を上げてそれを最大化させてもいいんだってこと自体がすごく意味があることなんじゃないかなと思いますし、むしろそれがなかったら意味がないし、それこそがやりたいことですね。結果的に仕事であるかないかは、二の次ではありますよね。

ふつうの仕事でも、クリエイティヴに頭を使わなければいけない場面はありますよね。

池貝:もちろんアイデアをひねることはあるんですけど、それは客商売なので。僕にとって音楽は客商売じゃないんです。というか客商売になったらつまらないなと思いますね。

聴いてくれる人たちのことを想定することはあまりない?

池貝:ないですね。僕は届く人を想定して書きたくないんです。そうやって客商売にしちゃうと、受け取り側の聴き方をこっちで定義しちゃうような気がして。それは僕らがやる仕事じゃないというか。でも、(聴いている人が)生きやすくなったらいいなと思って書くことはあります。僕は人間関係が希薄な状態がつらいんで。誰も本音で喋らなかったり、人が何かの都合で簡単に変わっていってしまったりとか、そういうことが嫌な人間なんですよね。だから自分の意思がちゃんと出せて、人間らしい生活を送れる世の中になったら良いなという思いはありますけど、でもべつに音楽でそれを変えてやろうとかは思ってないですね。

その話はまさに『Human』に繋がりますね。前回取材させていただいたときに強調していたのは、海外と日本との音楽的なギャップについてでした。だから『Flesh and Blood』ではあえて顔を伏せて音で勝負する、という形だったと思うのですが、今回の新作を作るうえでのいちばんの動機はなんだったのでしょう?

池貝:初作のときのフラストレイションはある意味では客観的だったかなとも思っていて。コンプレックスがある/ないって当たり前のことじゃないですか。まずそういう事実としてあることを客観的に提示することで、それを語らざるをえない状況にしたいと思っていたんですよ。たぶん「なんで誰もそれを話さないの?」みたいな視点でしたね。でも、僕らの顔を出すということはそれ自体がエゴだなと思っていたので、そういうことをせずにその問題だけを語るという状況になれば、その事実が変わるんじゃないかと思ったんですね。だからある種の怒りもあったと思います。
  ただ、アルバムを出したら逆に匿名性がうんぬんとか、音の部分でも海外の誰それに似てる/似てないとか、良い/悪いとか、ほんとうにどうでもいい部分だけが取り上げられちゃって、それがすごく苦しかったんですよ。自分とはまったく違うことが語られているような感じで。言いたいことは最初から何も変わっていなくて、僕の主観だったり僕が人間的な感覚を持っていることそれ自体がすごくユニヴァーサルな話だと思うんですよ。人種のステレオタイプとかコンプレックスとかそういうものを一回置いておいて、ふつうに人間的な感覚の部分に関して言えばどこの国だろうとそんなに変わらないと思うんですね。初作ではそういうユニヴァーサルな部分を出したかったし、それと同時に東京に生まれていまこの時代を生きている人の感覚はこうなんだよというところにフォーカスしたかったんです。
  でもそこまで行かなかった。それは僕らの実力不足ですね。単純に音が良くないから、そこまで訴えかけるものがないんだろうなと。僕らの音楽がほんとうに良いもので新しいもので「これしかない」と思ってもらえているんだったら、そもそもそういう話なんて出てこないですよね。だからその実力不足についての自責の念みたいなものがこの1年ずっとあって、そういう評価を受けるたびにちょっと傷ついていったというか。なので今回それにどうやって向き合うかとなったときに最初から決めていたのは、個人のことを話そうということでした。とにかく自分のことを突き詰められれば良いなと。そこに責任を持てて言い訳のないものを作ろうと思ったんですよね。だから『Human』には、ファーストを出して以降苦しかった時間のなかで、僕らがどういうふうにその人生と折り合いをつけてきたのかということが出ていますね。表現者としての立場を与えられて認知もされてきた自分たちの、当事者的なドキュメントみたいな側面が今回のアルバムにはすごくあるのかなと思っています。

孤独じゃないって状態はないと思うんですよ。だって最終的には自分しか自分の考えていることはわからないですし、他人と100%わかりあえるということはないですよね。連帯感みたいなものだって結局は自分の主観ですし。

リリックを1曲目の“Hypnosis”から順に追っていくと、物語のようになっていますよね。それがそのドキュメント性ということでしょうか?

池貝:そうだと思いますよ。そのときそのときの感情が出ているし、曲が進むごとにちょっとずつ選択していると思うんですよ。これを得たらこれを捨てないといけない、じゃあ何を選ぶのか、みたいな。そのなかで、「自分は一度こうやって逃げなきゃいけなかった」というような弱い部分も出ていると思うんですよね。前回のアルバムではつねにひとつの視点から怒っていたんですけど、今回は自分も含めて人間ってそもそも弱いものだし、結局この人の選択というのは自分の選択と表裏一体なんじゃないかという疑問も含めて、行ったり来たりしていると思います。その過程で何を見つけていくのかというのがちょっとずつ解き明かされていくというか、ようするにこの1年間の思考の流れがよく出ているなと思いますね。

1曲目“Hypnosis”は「I'm a stranger」から始まりますし、3曲め“Rude”の「あなたは正義で、私は愚かである」や、7曲目“Body”の「Who defies」などのフレーズから、このアルバムの主人公はすごく孤独に思えたんですが、池貝さんご自身は孤独ですか?

池貝:僕が孤独というより、結局みんな孤独なんですけど、そのなかでどう折り合いをつけるかなんじゃないですかね。孤独じゃないって状態はないと思うんですよ。だって最終的には自分しか自分の考えていることはわからないですし、他人と100%わかりあえるということはないですよね。連帯感みたいなものだって結局は自分の主観ですし。だから今回のアルバムは主語を「I」にしようと思って。前回のアルバムはけっこう「we」が多かったんです。というのも、そのときはすごく自信があったんですよね。さっきも言ったように、自分の感覚自体がファクトだと思っていて。

前提として他の人も感じているものだと思っていた?

池貝:はい。「みんな、わかってるでしょ?」みたいな感覚があったので、主語が「we」になっていた。でも初作を出してどうしようもない感覚を得た結果、そもそもみんながそう思っていることなんてありえないんだなと。事実があってもそれをごまかして生きていかないといけない人もいるし、それはそれで弱いと思う。結局みんなそれぞれの思想に従属するしかない。そこで「we」とか言っていてもしょうがないなと(笑)。ちゃんと「I」で語らないとなと思ったんですよ。

なるほど。僕は最初の「stranger」からカミュの『異邦人』を思い浮かべたんですよ。主人公は母親が死んでもなんとも思わなくて、最後は死刑になるんですが、周りから理解されないことを彼はとくに気にしていない。そういうじめじめした感じじゃない「理解されない私」みたいなニュアンスが、このアルバムにもあるのかなと。

池貝:それはあると思います。僕はけっこう人への期待値が高いんですけど、自分の感情は「どうでもよくね?」となっちゃうタイプの人で……いや、難しいのでわからないですね(笑)。

人への期待値が高いというのは、「これくらいはやってくれるだろう」とか「わかってくれるだろう」ということ?

池貝:なんですかね。みんなそれぞれ感覚があって、それに沿って生きていて、わかりあうことはできないけど、「あなたはあなたで意見があるでしょ?」という期待値がすごく高くて。「俺のことを理解できるわけがない」と思いつつ、「俺がどう思っているかが大事なわけじゃなくて、でも俺はこう思っている」というようなコミュニケイションを期待しがちなんですよね。みんな持っていると思っているんで(笑)。だからじめじめはしていないかもしれない。

篠田ミル(以下、篠田):前作と比べて池貝は、ポジティヴな意味で人への期待値を下げたと思うんですよ。さっきの「we」の話もそうなんですけど、自分の感覚が普遍的にみんなの感覚だと思っていたことに対して折り合いがついたというのは、つまり人への期待値の部分にも折り合いがついたということだと。傍から見ていて、池貝は自分の考えが相対的なひとつの考え方でしかないということに気づいたんだなと思ったんですよね。そのなかで「自分がどう思っているかも自分は自分で書くからいいよ」というスタンスになったんだなと思いますね。

前回は匿名性があったのに対し、今回はひとりの人間の思いに焦点が当てられていて、ある意味でポストモダンからモダンに回帰したという印象を抱いたんですが、どう思われますか?

篠田:逆だと思いますけどね。モダンって絶対的なイデオロギーだったり、何かしら「大きな物語」があったりして、それにみんなが誘導されているというものだから、それはガイ(池貝)の言う普遍的な価値観だったり「we」みたいなものがあるということだと思います。だとすると、セカンドのほうがみんなそれぞれに相対的な解があるという話になっているので、完全にポストモダンで、逆ですね。


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捨てたからには選んだものを自分の意志で愛さないと、残ったものを愛していかないと前には進めないんだなとそのときに思ったんですよね。


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サウンドに関して、今回は“Rude”や“Pale”、“Battles”の後半部分のようにリズムがもたつく曲が増えたと思うのですが、それはリリックの変化ともリンクしているのでしょうか?

池貝:どちらかと言うと今回は表現にフォーカスしていこうと思ったんですね。前回のときは、日本のすごくドメスティックな状況に、ふつうに海外のオンタイムな音楽を持ってこられるかどうかということ自体がある種のメッセージみたいになっていて、「やれないわけないじゃん」という思いがあったんですけど、今回はとにかく自分たちが言いたいこと、自分たちの正解を探そうというプロセスで音を選んでいますね。もちろん、あとから分析したら「あのときはあれを聴いていたな」とかいくらでも理由はつけられると思うんですけど、基本的に今回の制作では言いたいことにフォーカスしています。

今回はベースがぶんぶん鳴る曲も増えたように思います。“Polytheism”や“Body”、“Iron”とか。

池貝:そうですね。去年1年間はたしかにしんどかったんですけど、ヤイエルとしてはかなり濃密な時間を過ごしていたし、われわれが5人でやるとどうなるのか、やりたいことはなんなのか、われわれの色味はなんなのか、みたいなところをひとつひとつ5人で共有してきたので、映像も含めてそれがすごく強固になった、その過程でそういう音選びがされたということだと思います。

篠田:ベースとか音選びに関して言えば、やっぱりライヴから還元された部分がすごく大きくて。以前からライヴではわりと暴力性みたいなものが5人の共通認識としてあったにもかかわらず、『Flesh and Blood』にはそこがあまり落とし込められていなかった。そのとき聴いていたものの影響だとは思うんですけど、僕たちのなかでもインディR&B的なサウンドとベース・ミュージックとのあいだで揺らぎがあったと思うんです。自分たちがどこにいるのかわかっていなかったというか。それがライヴからの還元が入ることによって、R&B的なメロウやスムースみたいなものから離れていって、自分たちのアイデンティティがわかってきたということもあって。そういうライヴでやってきたような暴力性をいかに閉じ込めるかというところでの選択として、ベースがああいう音になったというのはありますね。

“Iron”は曲のなかで壊れていく感じがあって、もしかしたらこのアルバムのなかでいちばんの肝なんじゃないかと思いました。

篠田:それはほんとうにおっしゃる通りで、“Iron”は制作の初期段階でできた曲なんですよ。あの曲がわりと指標になっていて。


去年の夏にシングルとして出した曲ですよね。10月にマウント・キンビーとやったときにはもうアルバムはでき上がっていたんですか?

篠田:ほぼほぼでき上がっていました。

池貝:でもまだぜんぶはでき上がってなかったですね。最後の曲(“Lover”)はマウント・キンビーとのライヴのあとに書きましたよ。その曲にはマウント・キンビーのメンバーと話していたことがすごく反映されていますね。

最後の曲(“Lover”)はグランジっぽい感じで始まって他とは雰囲気も違いますし、9曲目の“Pale”と「ループ」という言葉で繋がっていて、9曲目では「戻れない」「諦めろ」だったのが、10曲目ではそこから脱出しようとしています。アルバムの最後にこの曲を持ってきたのには特別な意図があったのですか?

池貝:いや、“Pale”までやった時点で「そういうことか」と気づいたところがあって、結局逃れられないのって捨てていないからだと思ったんですよ。“Pale”はそういう曲なんです。取捨選択をしない状態ではループからは逃れられないというか。それで、先に進むためにはどうするのかという曲が“Lover”なんです。べつに愛情がどうこうみたいな話じゃないんですよ。単純に、残ったものを愛するしかない。マウント・キンビーの前回のアルバムは『Love What Survives』でしたよね。それとまさに同じことで、捨てたからには選んだものを自分の意志で愛さないと、残ったものを愛していかないと前には進めないんだなとそのときに思ったんですよね。
  マウント・キンビーとライヴをして、最後にメンバーと話したんです。「東京ってこういう街で」とか、ヨーロッパに対するコンプレックスとか、そもそも誰も本音を話したがらないからブレイクスルーがないとか、いまの「海外から来たものはなんでもいい」みたいな状況とか、日本人の海外の人たちへの丁寧な感じというのは見栄でもあり「ストレンジャー」としてのおもてなしみたいなものなんだ、というような話をして。「俺は、そういうこと自体がコミュニケイションを遮断しているから嫌で嫌でしょうがなくて、そこが制作の肝になっている」という話をしたら、カイ(・カンポス)が「それは俺らもわかっているけど、そもそも俺らは何もできないじゃん。でも俺らも同じような表現者としての壁があるし、イギリスから来たイギリスの音楽みたいなものへのステレオタイプもあるし。みんな出自みたいなものは持っていて、それを変えられないということは同じだし、折り合いをつけなきゃいけないときが来ると思うよ」と言って。僕はそれですごく納得したんですよね。
  この1年間オーディエンスに対するアティテュードの部分ですごく混乱していて、われわれに居場所を与えてくれている人たちのことがすごくありがたかった反面、彼らは俺らのことを話していないという感覚もあったので、どうしたらいいかわかんなくなっていたんです。だから、ステージに立つ側にいる人が同じような感覚を持って表現していたこと自体が僕にとってすごく救いだった。僕らはマウント・キンビーのことが好きで聴いていましたし、最初のアルバムの制作時には影響を受けていたと思うんですけど、じっさいに会ってみて、音だけで勝負できる媚びないアーティストってそういう部分をちゃんと掘っているんだなと思いましたし、自分のアウトプットに自信があるのはそれがちゃんとリンクしているからなのかなと。それで、自分たちも当事者としての責任と覚悟を持たないといけない、それはある意味では自分がいちばん大事にしているものを捨てなきゃいけないということだし、そのことにちゃんと自覚的になったうえで最期は自分の選択を信じないといけない、と思ったんですよね。だから最後の曲が“Lover”になったんだと思います。


しょせん音楽なので、それが表現としてあるということ自体がたいせつなことであって、音楽で影響を与えられるみたいなことっていまとなってはすごくくだらないと思うんですよね。

ではそこで捨てたものとはなんでしょう?

池貝:ちょっとまだわかんないんですけど、もしかしたら人を変えられるということ自体を諦めたのかもしれないですね。しょせん音楽なので、それが表現としてあるということ自体がたいせつなことであって、音楽で影響を与えられるみたいなことっていまとなってはすごくくだらないと思うんですよね。ちゃんと自分のことを言うことのほうが大事だと思いますし、コンプレックスみたいなものに対していつまでも怒っていてもしょうがないし、自分たちがちゃんとストイックになって良いものを作って、その先で開かれる扉みたいなものを見たいと思うんですよね。

アルバムを締めくくる「Be a lover」という言葉は、自分自身に対して言っているところもある?

池貝:自分自身に向けてでしかないと思います。自分ですよ(笑)。でもこれはちゃんとして行動の選択だと思っていて。

訳詞だと「愛せ」と動詞になっていますが、直訳すると「愛する者であれ」という感じですよね。愛する「人」であれ、というところがおもしろいと思いました。

池貝:ほんとうにそうだと思います。選択と行動をとる人間でありたいと思うので。

じつは編集長からひとつ質問を預かってきているんですよ。いまの時代ほど「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」(早川義夫)と思いませんか?

池貝:ははは。そうなんですよね。ほんとうにそうだと思います。ますます正直な人が損をする世の中ですよね。

それはたしかに感じますね。

池貝:このアルバムで人間って首尾一貫していないし、何かを選択しないといけないという結論を出しておいてなんなんですけど、僕は首尾一貫している人のほうがぜんぜん好きなんですよ。移ろっていく人って僕はなんかつらくなっちゃうんですね。だから苦しいわけで、そういう一貫したかっこいい人がいる時代もあったような気がするんですけど、僕らはもうそういう感覚のなかに生きられない。情報量が多すぎるし、個人的には言い訳が多すぎると思う。だからまさにおっしゃる通りで、結局かっこいいことがかっこ悪くなっちゃうんですよね。ファクトを言っちゃうとかっこ悪いみたいな(笑)。

篠田:難しいね。

ダサく見えちゃうということ?

池貝:言い訳がなくなるのが怖いんじゃないんですかね。でもそれも含めて「自分はそう思う」ということを選択していかなきゃ僕は無理だったんで、自己肯定も必要だとは思うんですよね。それがいかに宗教らしくなろうとも、自分が考え抜いて出した結論を愛するということしかできないんじゃないかなと。かっこ悪くなっちゃうというのもわかりますけど、それを捨てるというのもひとつの結論なんじゃないかと思います。でもすごくわかります(笑)。

首尾一貫している人のほうが好きというのはおもしろいですね。たぶん一般的には「不完全でダメだよね、だから人間って素敵だよね」みたいなことを言う人のほうが多いと思うんです。

池貝:僕はその弊害もあると思っているんですよ。「不完全であることが良いこと」みたいにフォーマットになってきちゃっているけど、それってあらかじめ定義されていることになりますよね。人間の自然な姿の結果があって、それが不完全だから魅力だよねという話ならわかりますけど、そこを目指すということの弊害はあると思いますね。

篠田:そうだね。不完全だから魅力的なんじゃなくて、完全にしようと目指しているんだけど結果的に不完全になってしまう、だからこそようやく魅力的になるんだという気がします。池貝も横で見ていてそういう感じがあるというか、俺は一貫しているんだよねって振りをしているんですけど、そんなことないし、『Human』にはそれが表れてしまっているところがおもしろいと思うんですよね。

Oneohtrix Point Never - ele-king

 昨年は映画『Good Time』の劇伴坂本龍一のリミックスを手がけ、最近ではデヴィッド・バーンの新作に参加したことでも話題となったOPNが、5月にNYで開催されるライヴのトレイラー映像を公開しました。これ、新曲ですよね。しかもチェンバロ? 曲調もバロック風です。この急転回はいったい何を意味するのでしょう。そういう趣向のライヴなのか、それとも……。

ONEOHTRIX POINT NEVER
5月にニューヨークで行われる大規模コンサートの
トレーラー映像を新曲と共に公開!

昨年、映画『グッド・タイム』でカンヌ映画祭最優秀サウンドトラック賞を受賞したことも記憶に新しいワンオートリックス・ポイント・ネヴァーが、【Red Bull Music Festival New York】の一環として5月22日と24日にニューヨークで行われる最新ライブ「MYRIAD」のトレーラー映像を公開した。ダニエル・ロパティン(ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー)自らディレクションを行い、その唯一無二の世界観が垣間見られる2分間の映像には、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー名義の新曲も使用されている。

Oneohtrix Point Never - MYRIAD
https://opn.lnk.to/MyriadNYC

Video by Daniel Swan and David Rudnick
Directed by Oneohtrix Point Never
Animation by Daniel Swan
Produced by Eliza Ryan
Videography by Jay Sansone
Additional Animation by Nate Boyce
Thrash Rat™ and KINGRAT™ characters by Nate Boyce and Oneohtrix Point Never
Engravings by Francois Desprez, from Les Songes Drolatiques de Pantagruel (1565)
Additional Typography by David Rudnick

本公演が開催されるパークアベニュー・アーモリー(Park Avenue Armory)は、以前は米軍の軍事施設だった場所で、ライブが行われるウェイド・トンプソン・ドリル・ホール(Wade Thompson Drill Hall)は航空機の格納庫のような巨大なスペースである。当日にはスペシャルゲストやコラボレーターも登場し、ここでしか体験することのできない特別なライブ・パフォーマンスが披露されるという。

ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー|Oneohtrix Point Never

前衛的な実験音楽から現代音楽、アート、映画の世界にもその名を轟かせ、2017年にはカンヌ映画祭にて最優秀サウンドトラック賞を受賞した現代を代表する革新的音楽家の一人。『Replica』(2011)、『R Plus Seven』(2013)、『Garden of Delete』(2015)と立て続けにその年を代表する作品を世に送り出してきただけでなく、ブライアン・イーノも参加したデヴィッド・バーン最新作『American Utopia』にプロデューサーの一人として名を連ね、FKAツイッグスやギー・ポップ、アノーニらともコラボレート。その他ナイン・インチ・ネイルズや坂本龍一のリミックスも手がけている。さらにソフィア・コッポラ監督映画『ブリングリング』やジョシュ&ベニー・サフディ監督映画『グッド・タイム』で音楽を手がけ、『グッド・タイム』ではカンヌ・サウンドトラック賞を受賞した。


label: Warp Records / Beat Records
artist: Oneohtrix Point Never
title: Good Time Original Motion Picture Soundtrack

cat no.: BRC-558
release date: 2017/08/11 FRI ON SALE
国内盤CD:ボーナストラック追加収録/解説書封入
定価:¥2,200+税

【ご購入はこちら】
beatink: https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=4002
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label: Warp Records / Beat Records
artist: Oneohtrix Point Never
title: Good Time... Raw

cat no.: BRC-561
release date: 2017/11/03 FRI ON SALE
国内限定盤CD:ジョシュ・サフディによるライナーノーツ
ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーとジョシュ・サフディによるスペシャル対談封入
定価:¥2,000+税

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tower records: https://tower.jp/item/4619899/Good-Time----Raw
hmv: https://www.hmv.co.jp/artist_Oneohtrix-Point-Never_000000000424647/item_Good-Time-Raw_8282459

コーネリアス - ele-king

 マタドール・レコードからアメリカで『Fantasma』がリリースされた1998年以来、小山田圭吾は、そのときどきのアルバムのリリースを記念して、ニューヨークの街にコーネリアスの素晴らしいライヴを届けつづけてきた。この街でコーネリアスは愛されている。圭吾もこの場所に多くのつながりをもっているし、いまでは友人も数多くいることだろう。バンドが最後にここでライヴをしてから10年以上が経っているにもかかわらず、3月9日にアーヴィング・プラザに集まった観客のなかの多くのファンたちは、確実に過去何年にもわたって、何回もコーネリアスのライヴを観ていた。だから観客の生みだす空気は、ちょうど仲のいい友だちが集まったような感じだった。コーネリアスの音楽は、たくさんの異なった影響を、思いがけないようでいて、しかしまったく自然な新しい結びつきのなかでひとつにする。それはライヴにやってくる観客についてもいえることだ。3月の寒さのなかから会場にやってきたのは、なにより年齢を問わない生粋のニューヨーカーたちであり、そこに国外に暮らす日本人たち、西海岸のいたるところからやってきた者たち、そしてその音楽に長くインスピレーションを受けてきた有名なミュージシャンたちが混ざりあう。初々しい大学生のキッズたちもいる。誰もがみな、彼の素晴らしいニュー・アルバム『Mellow Waves』を支持し、コーネリアスの10年ぶりのライヴを観るためにひとつになっていた。

 アーヴィング・プラザの階段を上っていくと、オープニング・アクトのアヴァ・ルナがすでにステージ上にいた。ユニオン・スクエアの近くにある1000人規模のその箱は、初期パンク/ポスト・パンクや、ニュー・ウェイヴの頃がとくにだが、長年にわたってニューヨークでの数多くの伝説的なライヴを主催してきた場所だ。──階段を上りながら友人が、シド・ヴィシャスが同じこの階段を顔から落ちていくのを見たときの、胸の痛くなるような話を聞かせてくれる。数ブロック北西に行ったところにあるチェルシー・ホテルで、彼のなにもかもが崩れ落ちてしまうのは、それから数週間後のことだったらしい。ともあれ、アヴァ・ルナの起用は、この日のライヴにぴったりとはまっていた。というのも、演奏こそまったくコーネリアスのようではないが(だけどいったい他の誰にそんなことができるというのか?)、ジャンルを捻じまげるような、とても一言ではいいがたいこのブルックリン出身の5人組は、ソウルフルなグルーヴと、唸りをあげるポスト・パンクのサウンド、さらにドリーミーなポップさを、新鮮でオリジナルなひとつの音のなかに組みあわせ、満杯のフロアを見事に揺せたのだ。メイン・アクトの前に、少しでもいい場所に陣取ろうと誰もが移動するなかで、キーボード奏者でありサポート・シンガーのベッカ・カウフマンは、観客にむけてシーア風の銀髪のカツラを最後にもう一度派手にふりみだしてみせ、ステージを後にしながらも彼らは、大きな歓声を浴びていた。

 コーネリアスのライヴはつねに、五感のすべてを刺激するマルチなメディア体験でありつづけている。そもそもこのバンドは、私たちの大半がいまだ家庭用ヴィデオ・レコーダーの便利さに驚いていたときでさえ、念入りに構築された映像が生の演奏と完全に同期する、厳密に演出されたライヴをやりつづけていたのだ。この20年間で、衝撃的で新しい映像と、ひとを魅了するステージングが組みあわさった、これほどまでのパフォーマンスを披露することのできるライヴ・バンドは、世界中のどこを探してもいまだに存在していない。

 ライヴは、ステージを覆う、黒く穴の穿たれた、日食したような太陽の律動とともにはじまった。時間が経つにつれ、その縁の部分の光は揺らぎ、あちこちに動きだしていく。観客がざわつきだすなかで、幕が落ちるまでずっと、スネア・ドラムの規則的な鋭い音が、欠けていく太陽に振動を伝えているように見えた。そしてバンドはいつのまにか、物憂げなグルーヴとともに『Mellow Waves』収録の“Sometime/Someplace”を演奏しだした。ステージには、まばゆいばかりのレトロフューチャリスティックな光を背景にして、キーボード、ドラム、そして組みあわされた電子機器が並べられていた。メンバーは、完全な白でその身を包んでいた。そして彼らが──音楽だけではなくそのスタイルにおいても──クラフトワークを効果的にコピーしつつ、観客にむけてクールに演奏しはじめると、アニメ化された『バック・ロジャース』のSFファンタジーが、完璧に音に組みあわさった映像の動きによって、リフやリズムのひとつひとを神秘的なまでに受けとりながら、背後にあるスクリーンに揺らめいた。

 演奏にあわせてカーブやターンをくりかえす公道の上の車が映しだされるなかで、2002年の素晴らしいアルバム『Point』からの曲、“Point of Point of View”が続いた。そこから彼らは、1980年代のテレビ・ゲームのような点滅する映像をバックに、“Helix/Spiral”によって新譜へと戻っていった。見事にスクリーンに動く映像と完全に組みあわさったまま、しかし音が硬くなったり、音に無理強いするようなことはなく、バンドはごく自然に、観衆を魅了しつづけた。これは、多くのバンドがむしろ照明を組織するために演奏し、音楽をぎくしゃくさせていたのとは似ても似つかないことだ。長くコーネリアスのドラマーを務めるあらきゆうこと、ベースとムーグ・シンセサイザーを担当するバッファロー・ドーターの大野由美子からなるリズム・セクションも、きっと彼女たちの耳のなかで鳴っていただろうメトロノームの音を感じさせることなく、リラックスしていて自然だった。

 やはり『Point』からの曲である“Drop”の演奏中、視点がズーム・インとズーム・アウトを繰りかえし、本当に幻覚を見ているような効果を生みだす、ボコボコと沸きたつ泡の映像を背景にして、圭吾が突然テルミンのソロをはじめると、驚きのあまり私は、大声をだして笑ってしまった。 それはまるで、スクリーンの上で泡を躍らせ、ほとんどそれに歌わせているように見えた。堀江博久は、ひとつのビートも逃すことなくファズ・ペダルを踏みつづけ、1970年代のカンフー映画の映像と、テレビの警察もののセピア調のモンタージュが、突然スクリーンに映しだされた。そしてバンドは「Fantasma」の“Count Five Six”を演奏しだし、“I Hate Hate”の激しく重いギターが続いた。2006年のアルバム『Sensuous』からの洗練されたファンク“Wataridori”は、急に飛びたつ鳥たちと、揺れうごく木々によって映像化され、複数のギターによる渦を巻くようなアルペジオは、マニエル・ゲッチングの『E2-E4』を思わせた。最近になって、いつまでも頭から離れないような、大きな手のひらの上でスキップをする小さな少女のすがたを映すMVが公開された、ニュー・アルバムからの最新のシングル、“The Spell of a Vanishing Loveliness”が続き、ゲスト・ヴォーカルの大野由美子との完璧な組みあわせのなかで演奏された。

 セットリストは、新譜からの曲である“Dear Future Person(未来の人へ)”のような曲から、ファンたちのオール・タイム・フェイヴァリットである“Star Fruits Surf Rider”まで、コーネリアスのヒット曲をそのキャリア全体にわたって要約するようにして続いていった。そして前者では、都市のなかをいそがしそうに歩きまわり、宙に浮かびあがっていく猫の、その白と黒のシルエットからなる映像がスクリーンいっぱいに映しだされ、後者では、もう10年単位で定番となっている、もやのかかったような銀河旅行の映像が、きらきらと輝く照明と、観客の頭上で回転する、いろんな色のミラーボールの光によってアップデートされていた。彼らは、『Mellow Waves』のオープニングナンバー“If You’re Here(あなたがいなければ)”でセットリストを終えた。それは最後まで観客を驚かせるものだった。圭吾の不規則なギターソロが、スクリーンの上で揺れうごく光の演出によって、完璧に模倣されていたのだ。

 バンドは雷のような拍手を残してステージを去り、アルバム『Sensuous』からの曲、やはりファンに人気の“Breezin”とともに戻ってきた。そのあと、誰もがもうこれで終演だと思ったところで、しかしバンドはふたたび動きだし、映像の厳密な構造から解放された、その夜唯一の曲を演奏しだした。聞こえてきたのは、“Chapter 8 - Seashore and Horizon”のリラックスしていながら堂々としたヴァージョンだ。その夜のどれもが、スリリングで感動的なパフォーマンスだった。それは素晴らしい演奏、最高の映像、それにかつてない選曲がそろった、真に革新的なアーティストが、その最高潮にいる瞬間だった。

 彼らのような素晴らしいミュージシャンが、 20年にわたって作りあげられてきた最先端な映像と完全に組みあわさったかたちで、一瞬たりとも休むことなく1時間のセットリストを演奏する、そのときの集中力や焦点化の度合いたるや、想像することさえも難しいものだが、ミュージシャンとしての彼らの仕事は、それで終わりではなかった。観客が会場から出ていくと、白い衣装を着たままのクールで冷静なすがたで、圭吾、ゆうこ、博久、そして由美子の全員が、物販のテーブルの後ろにあらわれた。すると何百というファンたちが、レコードにサインをもとたり、バンドと写真をとったり、あるいは圭吾と彼の最高のバンドに、彼らがその日までの月日をいったいどんな気持ちで待ちつづけていたかを伝えるために、列を作っていったのだ。だけどお願いだコーネリアス、ニューヨークに戻ってくるのに、また10年も待たせたりしないでくれよ!

East Man - ele-king

音とともに紡がれるロンドンの今

 アントニー・ハートがイースト・マン(East Man)名義で〈プラネット・ミュー〉から『レッド、ホワイト&ゼロ』を送り出した。長年ドラムンベースのシーンで活躍してきた彼だが、近年は140BPMを軸としたベーシック・リズム名義でグライム、ジャングル、テクノのサウンドスケープを発展させてきた。イースト・マン名義での今作では、ロンドンのグライムMCとのコラボレーションによって、さらにミニマルな音を追求し、硬質かつラフなグルーヴに溢れた一作を生み出した。
 彼が「ハイテック(Hi-Tek)」サウンドと名付けた自身の音は、ジャングルのブレイクビーツのリズムを、ミニマルなドラムマシンとベースで再構築したサウンドに聞こえる。緻密にプログラミングされたドラム、パーカッションとサイン波は、UKハードコアの長い歴史を感じさせながら、ときに緊張感、ときに静寂を生み出す。特に静寂を感じさせるタイミングには、独白的にスピットするグライムMCの声がより際立って聞こえる。
 アルバムでコラボレーションしているのは、ロンドンのあらゆるエリアのMCである。北ロンドンのグループYGGからセイント・ピー(Saint P)、リリカル・ストラリー(Lyrical Strally)など新世代のグライムMC、東ロンドンよりクワム(Kwam)、エクリプス(Eklipse)、南ロンドンからはキラ・ピー(Killa P)、アイラ(Irah)といった、長年シーンで活躍するMC。彼らはアントニー・ハートのサウンドに対して、明確なメッセージを与える。例えば、ダーコ・ストライフ(Darkos Strife)は日常の言葉で自分のアティチュードを表明する。

Trying to better myself, still need to make improvements,
So when it's that time there'll be no time for snoozin',
Life can be quite difficult, but I still keep it moving, stop myself from being useless,
Smooth sailing from here on, ima carry on cruisin'.

己を磨こうと心がけ、まだまだ足りない
時は来た、居眠りしてる暇はないんだ
生活はハードだが、動き続けよう
用なしのやつになるのはやめな、
ここからスムーズに帆をあげて、クルーズを続けよう

“Cruisin'”

 都市での生活はハードであり、「useless」=用なしの人間になることは容易い。都市のもうひとつのリアリティは、地下鉄でインタヴューに答える男のスキット“Drapesing(ドレイプシング)”で描かれる。「drapesing」とは、スラングで強盗という意味だと彼は説明する。彼は強盗を起こし、捕まったあと3ヶ月警察に拘留された。仕事も手につかず、週16ポンドの社会保障に頼っている。「週16ポンドじゃ生きていけない」と呟く。追い込まれた、あるいは自分自身を追い込んでしまった彼の疲れ切った話ぶり。つづいて、インタヴューワーは「仕事をしないのか?」と男に少しキツいトーンで聞く。ここで映し出される風景全体が、内面化された新自由主義的な自己責任の倫理、あるいはロンドンの空気を象徴している。「金払いがちゃんとしてて、楽しめる仕事なら。(お前らとは)住む世界が違うんだよ」、男は力なく答える。このスキットは、ポジティヴでアグレッシヴなMCが口にしなくとも、常に隣り合わせにしている人種や資本の問題が絡んだ都市の現実を巧みに描き出している。

 やけっぱちにすらなれないほどに疲れ果て、また追い詰められてしまう都市の苛烈さに身を置きながらも、いや置かれてもなお、グライムMCはビートの上で活き活きと自分を表現する。MCのユーモア、自己主張、そして自由さが感じられる。そして、音楽を拠り所にして、なんとか出口の見えない現実を生き抜こうとする姿が聞こえる。MCのクレバーで攻撃的な勢い、イースト・マンの静けさを感じさせるダンス・ミュージック、差し込まれるフィールド・レコーディングは物語を紡ぎ、アルバムを通してロンドンの一瞬を切り取っているのだ。

Young Fathers - ele-king

野田努

 アートワークに描かれている歪められた顔は、ちょっとだけPiLの『メタルボックス(セカンド・エディション)』のジャケを思い出させる。変型した表情は、変型させられた内面を表しているに違いない。なにせこのご時世だ。しかしながら……ヤング・ファーザーにとっての肝はまずはサウンドだろう。いかに人と違った/変わった/独特なサウンドを創出して、ポップにまとめあげることができるか。

 グラスゴーのエジンバラで結成されたこのグループは、その新作を聴いて思うに、つきなみな言い方をすれば、極端だがじつに“UKらしい”。広範囲にわたって、他からいろんな要素を柔軟に吸収し、そして活力を得ること。USブラック・ミュージックのエネルギーに共振しながら、模倣ではなく、その組み合わせの妙でオリジナルなものとして再編成させること。言うなれば結合術に長けていること。そしてそれが、社会の上層部からは見えない、大衆の気持ちの深いところにリンクすること。
ヤング・ファーザーズにとって3枚目になる『ココア・シュガー』は、基本的には前作の延長にある。要するに、ヒップホップ、R&B、ゴスペル、ドゥーワップのクラウトロック的(Canのような)プリコラージュがときにクラウトロック的(Neu!のような)リズムで展開される。2曲目“Fee Fi”の壊れたコラージュはクラウトロック史においてもっともつかみどころのないグループ、Fasutのようでさえある。
ヤング・ファーザーズが抱えるジレンマとは、これまたつきなみな言い方になるが、クラウトロック的ポップの遊び心ないしは実験精神を、ヒップホップとR&B(という階級差を越えて人気をほこるポップ・ミュージック)で育った世代の耳にまずはどう響かせるのかということだろう。彼/彼女らの耳をぐいっと広げ、感性をぱかっと開かせて、そしてきゃっほーと盛り上げる。そのことを彼らはうまくやっている。
『T2 トレインスポッティング』(この映画に関しては紙エレvol.21にコラムを書いた)を観てヤング・ファーザーズの音楽が思いのほか場面にハマっていることに、ぼくはちょっと感動した。いかにも90年代的なアンダーワールドの“ボーン・スリッピー”に対して、ヤング・ファーザーズの曲はじつにアクチュアルな響きを有している。当たり前のことだが、彼らの曲は今日のムードを反映しているのだ。今日性ということなら、Burialのサンプル・アートでも、あるいはアメリカ人のチーノ・アモービのサウンド・コラージュでも十二分に表現できると思うが、しかし彼らの音楽がコメディタッチの映画に向いているとはとてもじゃないが思えない。

 そういう意味で、ヤング・ファーザーズはインタヴューでも発言しているように、たしかにポップであることにこだわっている。彼らの音楽を耳障りだと思う人でも、さすがに“In My View”は受け入れるだろう。バラード調で、何気に教会音楽のフリをしながらゆっくりと爆走する“Lord”にも笑うかもしれない(歌詞を読むと、宗教は本作において重要な主題となっているようだ。まあ、そこはスコットランドであることが大きく関わっているのだろう)。
サウンド面に絞って言えば、全曲に渡って言えることだが、前作以上に小技が凝っているし、ヴァラエティに富んでいる。“Toy”はNYのポストパンク・バンド、スーサイドの安っぽいシンセ・ロックをソウル・グループがカヴァーしたかのようで、4/4キックドラムをもって展開する“Wire”は苦痛と絶頂のハード・テクノである──そしてこのようなペダンティックな解説をもつ音楽は、たいていの場合、ポップからは遠ざかるものである。
ゆえにここがヤング・ファーザーズの戦いだ。ポップのなかに実験性を持ち込むことは矛盾にはならない。レトロに惑溺するばかりの、実験をおそれる文化は衰退するだろう。少なくともヤング・ファーザーズはポップ・ミュージックはまだ拡張しうると信じているし、その必要性を強く感じている。そしていつの時代も若い人たちは、尖ったものに反応する。しかし『ココア・シュガー』は、過去2枚よりもさらにポップになった。オールド・ファーザーも一緒に楽しませてくれ。

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柴崎 祐二

 いきなり本論から外れた話になってしまうのだけれど、昨年公開された映画『T2 トレイン・スポッティング』について。
周りには賞賛する声が多かったのだけど、僕はどうもいまひとつ楽しむことが出来なかった。もちろん、捨て鉢的勢いをもった傑作青春映画たるあの一作目からは20年以上の時が過ぎ、経年の残酷が色濃く漂うものになるのだろうなという予感はしていたし的中もしたのだけれども。でもそれ以上に、その過去に対してどうも監督のダニー・ボイル自身もケジメをつけようとしているのになかなか叶わない、そういった藻掻きの息苦しさが、あの灰色にくすんだようなエディンバラの風景へ色濃く溶け込んでいる気がして、どうにもドンヨリした気分になってしまったのだ。
そして、その音楽の使い方。カウンター・カルチャーとポピュラー音楽の密接性を熟知しているダニー・ボイル(少なくとも一作目はそれが非常に有効に作用していた)だと思っていたのに、なんたる隔世の感! と思ってしまう自分がいた。というか、そもそもこの映画自体が先述の通り過去の呪縛をテーマにしている時点で、そういうライブリーなポピュラー・ミュージックの使い方を避けざるを得ない(というか出来ない)のは理解するんだけど、それにしたって、「ラスト・フォー・ライフのプロディジー・リミックス」、「ボーン・スリッピーのスロー・ヴァージョン」って……という。同窓会で久々に会った同級生が当人なりには若作りをしたつもりでSTUSSYの最新ウェアを着てきたときの感じ、みたいな……。いや、ごめんなさい。
だからこそ、とくに私と同年代かそれより少し上の(多分それが1作目のリアルタイマー世代でもある)観客が、わりと素直に「1と同じくぶっ飛んでて面白かったー!」や「相変わらずみんなクソで笑える!」や「やっぱりボーン・スリッピー最高!」みたいな感想を無邪気に投稿しているのをみて、結構な驚愕を覚えたりした。いやいや、わかるけど……そうじゃねえだろ! と。

 ──書いているうちに妙に映画を観た時の違和感が鮮烈に蘇ってきて前置きが長くなってしまったのだが……もちろん感心した点もあった。そう、それこそがこの『T2』で珍しく見出せる現代の新潮流との接点であるところの、ヤング・ファーザーズの起用だったと思うのである。Only God Knows“”はじめ彼らの提供した楽曲のインパクトは、他のコンサバティブなトラックの中にあって、圧倒的な存在感を放っていた。鮮烈なビート、挑発的なラップ、ヴォーカル、艶めかしいメロディーと音像……。一瞬の瑞々しさを提供することで映画を前方向に駆動させつつも、劇中で描かれるスコットランド〜エディンバラのダークな質感にストリート的リアリティを強く付与することとなっていたのだ。映画の舞台であるそのエディンバラで活動をはじめ、いまやファースト・アルバムのマーキュリープライズ受賞以来、UKでもっとも期待の置かれるアクトとなった感のある彼らが、このような仕事をこなした意味というのは、映画に与えた演出効果以上に大きいのかもしれない。つまり、彼らの作る音楽の持つコンテンポラリーな意義は、『T2』内で示されたような閉塞化しつつあるUK生活圏における写し鏡や、もしかしたら突破力としての役割が与えられているのかもしれない、ということにおいて。

 この最新アルバム『ココア・シュガー』は、極めて良質の、しかも粒ぞろいの(彼ら自身がそう表現するように)類まれな「ポップ・ソング」集となった。前作からあまり目立たなくなってきたラップはさらに後退し、それに引き換える形で、よりシンギング志向で、且つソング・オリエンテッドな意識が強くなっているように思われる。相変わらずそのビート・メイクはかなりトリッキーで、Aメロ〜Bメロ〜サビ型のポップ・チューン的常識からは浮遊した地点にいるのだけれど、全体の聴感としてはよりソング重視型となり、小気味よく曲がはじまっては3〜4分で次々に終わっていく。(本人たちはインタヴューで特定の作品からの影響を否定しているが)音楽的参照の射程はさらに広範になったと感じるし、同時代のR&Bやヒップホップ、グライム、またはかつてのクラウトロックやアンビエント〜ニューエイジミュージックからの影響も指摘もできるし、トライバルな感覚もより強化されている。
そしてさらには……いや、やめておこう。そうやってどんなに音楽的特徵を逐語的に挙げていってみたとしても、どうやらこのアルバムの持つ「ポップ・ソング性」そのものについて肉薄することは難しいように思われるからだ。それよりもむしろ、こうして様々な音楽要素が開陳されているのにもかかわらず、匂い立つある種の統一感や、もっといえば「中庸性」といったものについて言葉を尽くす方が良いかもしれない。たしかにビートとリリックは刺激物としてのエッジを備えているが、どうやら彼らは、かつてカウンター・カルチャーの中で継承されてきた、1回性のある突飛さ(それはより一般的な言葉で言えば「オリジナリティ」ということになる)を絶対視して礼賛する心性にはあまり関心が無いように見えるのだ。むしろ、デジタル・ネイティヴ的感性が生みだした数多のコンテンツの乱雑な林立を引き受けた上で、その「オリジナル」や「作家性」といったものさえも押し流されていくような氾濫のなかに、極めて鮮やかな構造分析的な手際で同時代的な価値を見出していくといった感覚を携えているように思う。
デジタル的異形が日々氾濫し、音楽の多様性が日々自己増殖していくなかで、そのことを引き受け前提としながらもなお、記名性を持った一個のアーティストとしてクラフトされたアルバムを作ること。その意味を探ることとは、いまこそ様々な音楽を知的に探求しバランスを取りながら「ポップ・ソング」を追い求めることである、と彼らは無自覚に気付くことになったのかもしれない。様々な色を混ぜ合わせれば一色に帰するように、多様な音楽要素を煎じ詰めてれば、すべからくユニヴァーサルな存在(=ポップ・ソング)になる。様々なスタイルが現れては消え、現れては消えするが、収められた曲同士に断絶感はなく、あくまで「ヤング・ファーザーズ」というバンドの体臭を伴いながら統一され、ポップ・ソング集としての風格を湛える。
そもそも、翻ってみるとポップ・ソングとは、ブリル・ビルディングやビートルズ、モータウンの古きからして、音楽的な多様性を滋養として成立してきたものでもあった。そういった意味でヤング・ファーザーズは、現代にありながら、かつてとアプローチの方法は異なれどポップスのマナーの伝統を引き受ける、いまもっとも「ミドル・オブ・ザ・ロード」でプロフェッショナルなアーティストなのかもしれない。

 いまUKは、EU脱退国民投票以来、その社会全体が閉塞感を募らせている。それは、イングランドに対するカウンターとして機能されるかと期待されているスコットランドにしても逃れられない趨勢であると言える。映画『T2』では、それまで比較的クリーンとされていた地域(エディンバラ)の荒廃が容赦なく描かれている。いや、この衰微や閉塞の感覚は、ミシェル・ウェルベック的にいうなれば、ヨーロッパ全体の通低音であると言えるし、より拡張的に、日本も含めた先進国圏に共通するものと言っても良いだろう。右派であるにせよ左派であるにせよ、すでにその疲弊に気づかないものは居なくなりつつあるこのいま、文明の衝突やグローバリゼーションの弊害などの議論を経て、多様性の保存こそを仄かな指針として信望する趨勢のなかにあって、音楽シーンにおいてもヤング・ファーザーズのような新しいポップスのつくり手が登場したということは必然であったのかもしれない。
この最新作には、その必然性を裏付ける成果が頼もしく詰まっている。彼ら自身はアルバム作りにあたって社会的なイシューをあまり意識していないとインタヴューでは語っているが、だからといって社会が彼らに要請したことが少なかったことは意味しないのだ。いつだって、優れたポップスの担い手は、社会が無意識に望むことを形にしてきたのだし、しかもその作品自体が度々社会に力強いフィードバックを投げ返すことだってしてきたのだから。

山口美央子 - ele-king

 山口美央子のオリジナル・アルバムは『夢飛行』(80)、『NIRVANA』(81)、『月姫』(83)が、ついにCDでリイシューされた。このほかにベスト・アルバム『ANJU』(85)があるが、今回リイシューされたのは、3枚のオリジナル・アルバムの方だ。

 最初の2作、つまり『夢飛行』と『NIRVANA』は、まるで『ソリッド・ステイト・サバイバー』などの初期YMOを思わせるオリエンタルな旋律とシンセ主体のバンド演奏による楽曲を多く収録したアルバムだ。いわば「YMO・ミーツ・女性歌唱の歌謡曲版」といった仕上がりで(当時は「シンセの歌姫」と宣伝されたらしい)、スーパーバイザー/アレンジャーは井上鑑、シンセサイザー・プログラミングは松武秀樹という鉄壁の布陣で制作されている。とくに山口のデビューを決めたという“東京LOVER”(『夢飛行』収録)は、まるで細野晴臣のエキゾチック三部作を80年のシンセポップ化したような曲で、初期の作風を象徴する楽曲である。一度聴いてしまうとサビのメロディが頭から離れなくなるほどの名曲だ。

 とはいえ単にオリエンタルムードだけではない。80年代初頭の「東京」のイメージが、山口美央子によって作詞・作曲された上質なメロディによって描写されているように思える。とくに山口と井上による作曲と編曲は、楽器の配置やコード感などは過剰にならずに実にセンスが良く、繊細な機敏を情景を上手く捉えている。“恋のエアプレイ”(『夢飛行』収録)など、いまならシティ・ポップ文脈での再評価も可能ではないか。じじつ『夢飛行』の演奏には、林立夫、斉藤ノブ、マイク・ダン、今剛とパラシュート、さらには海外レーベルから再発され話題となったマライアの土方隆行と山木秀夫、橋田”ペッカー”正人、ジェイク・コンセプション、砂原俊三らが参加している。
 セカンド・アルバム『NIRVANA』は、前作と同様にスーパーバイザー/アレンジャーは井上鑑、シンセサイザー・プログラミング松武秀樹と、『夢飛行』に参加したミュージシャンに加えて、田中章弘(鈴木茂&ハックルバック)、長岡道夫(ゼロ戦、ロスオノデラス)、岡沢章(吉田美奈子 & THE BAND)などの複数のベーシストや京琴の名手である山内喜美子らも参加し、より色彩豊かな演奏・編曲を実現している。伝説のファーストと傑作のサードに挟まれた『NIRVANA』だが、エキゾチック・ポップ“チャンキー・ツアー”、AOR/ディスコ調のキラー・チューン“風に吹かれて”が収録されているので、やはり聴き逃せないアルバムである。

 さて、サード・アルバム『月姫』だ。ファーストとセカンドの井上鑑に代わって、82年に“すみれ September Love”でヒットを飛ばしていた一風堂の土屋昌巳がサウンド・プロデュース/アレンジャーを担当している(コーセー化粧品のCMソング“恋は春感”のみ後藤次利が編曲を担当)。
 この土屋昌巳の仕事によって、『月姫』は明らかに前作二作とは違うサウンド・スケープを獲得しているように思えた。曲によってアンビエント・ポップとでも形容したいほどに独自の音楽性に仕上がっている(シンセサイザー・プログラミングは前2作から続いて松武秀樹!)。そのやわらかい電子音のシェルターに包まれたかのようなサウンドは、まるでデヴィッド・ボウイの『ロウ』のインスト・パートを日本的叙情でコーティングしたような音楽性に思えた(この場合、土屋昌巳=ブライアン・イーノ?)。
 むろん山口のメロディが異様なまでに素晴らしいことも重要である。繊細なテンションコードを用いた和声感覚が聴き手の耳と心に切ない感覚を残すのだ。アルバム以降、作曲家に転身し、今井美樹、CoCo、斉藤由貴、高井麻巳子、渡辺満里奈などの曲を提供し、作曲家として名を成す彼女のメロディメイカーとしての力量が前2作以上に十二分に発揮されている。
 風鈴のような音、夕立のようなサウンドからピアノの旋律が流れ、シンセと電子音によるサウンドに包まれた山口歌唱の日本的メロディが重なる“ 夕顔 〜あはれ〜”からして前作までとムードが違う。続く、日本の夏の記憶をシンセサイザーと少し湿ったボーカルで描き切った“夏”も屈指の名曲だ。
 とはいえ本作から1曲を挙げるとすれば、やはりクリスタルなシンセサイザーのドローンとオリエンタルなシンセとメロディが零れ落ちそうなほどに美しい“白昼夢”になるだろうか。この曲はどうやら海外音楽マニアにもアンビエント・ポップとして高い評価を獲得しつつあるようだが、サウンドの質感からして当然といえる。たとえばヴィジブル・クロークスや〈ミュージック・フロム・メモリー〉などの音源を追いかけているニューエイジ/アンビエントのマニアックなリスナ-にも訴求できる曲ではないか。

 もちろん、『夢飛行』『NIRVANA』ともに、リイシュー盤のリマスタリングも良好なので昔からのファンの方で、とっくにオリジナル・アルバムをお持ちもぜひとも手にとって頂きたい。作曲、編曲、歌唱など、完璧に磨き抜かれた日本の80年代ポップ音楽の宝石がここにあるのだから。

Belle and Sebastian - ele-king

 長いことベル・アンド・セバスチャンのファンでいたつもりなのに、実はごく最近までライヴを観る機会がなかった。まあ初期のベルセバはライヴはおろかメディアにもあまり出てこないバンドだったし、リスナーだって"Nobody's Empire"(フロントマンのスチュアート・マードックの過去の苦悩を歌った名曲)の歌詞のように人生いろいろなわけだからそこは気にしないでおく。
 それは2015年のフジロック・フェスティヴァルのことだった。およそ90分のあいだ、ギターのスティーヴィーやヴァイオリンのサラなどをはじめとしたバンド・メンバーの演奏に合わせて、スチュアートは皮肉な歌詞とは裏腹に滑稽なくらい愉快に踊り、客席の帽子を借りて次々と被ってみては誰かにマスカラをそっと塗ってもらったり、"The Boy With The Arab Strap"では数十人の観客をステージにあげて自由に楽しませる傍らで、ただひたすら幸せそうに終始笑顔でピアノを弾いていた。
 もちろんわかってはいたものの、デビュー当時の寡黙で陰のあるベルセバのイメージをまだ少しばかり引きずっていた自分はあまりの無邪気さに戸惑い、同時にそれまでの長い月日の流れの上で作り続けられた豊かな楽曲と、世の中の移り変わりやバンドの躍進を思い返して胸が熱くなった。目の前にはバギーの上ですやすやと眠る子供を連れた夫婦が、後ろの方にはまだ大学生くらいの若い男の子がステージを眺めていたのもなんだかグッときた。都会の喧騒から遠く離れ、そこだけが何故か静かで、小さな世界のゆっくりとした穏やかな時間に守られているような心地よさだけは、ずっと昔にひとりきりの部屋で『If You're Feeling Sinister』を聴いていた時のあの感覚とまったく変わっていなくて、安心した。

 最新作『How To Solve Our Human Problems』は昨年12月から3か月連続でリリースされたEPをひとつにまとめたアルバムで、これだけで済んでしまう手軽さも、1枚ずつ順番に揃えていけるマニア向けの遊び心もあって楽しい。計4枚のジャケットと歌詞カードにはインターネットで呼びかけて撮影されたファンの写真を使用していて、先述のライヴでの光景や、昨年10月の来日公演時に駅で出会ったファンを撮影した映像をライヴ中に流したというエピソードもある、ファンとのコミュニティを大事にしたベルセバらしい素敵な試み。そして年齢、性別、国籍の違う様々な表情を集めた写真は、ヴァラエティに富んだ楽曲を集めたこのアルバムの顔にとてもふさわしい。
 あらためて通して聴いてみると、前作『Girl in Peacetime Want to Dance』から引き続くシンセを効かせたダンス・ポップのあいだに初期の頃を思い出すようなアコースティックで優しい曲をちりばめ、前半に置いたダウンテンポのロマンチックなインスト曲に歌を乗せて後半に再び登場させるなど、EPの寄せ集めではない聴きやすさを作り上げているのはお見事。基本的にはセルフ・プロデュースで作られたようだが、ブライアン・イーノの作品にも関わっていたレオ・エイブラハムが3曲、ザ・クークスの4枚目のアルバム『Listen』を手掛けた若手ヒップポップ・クリエイターのインフローが2曲のプロデューサーとして共に参加、さらに"Best Friend"ではグラスゴーの4人組ガールズ・バンドTeenCanteenのカーラ・J・イーストンがリード・ヴォーカルを取っていて、そんな新たな交流もアルバムに隠された多彩な魅力を表している。
 なかでもブライアン・マクニールがプロデュースした"We Were Beautiful"はとくに素晴らしい。ドラムンベースのリズムにベルセバ節炸裂の哀愁のあるメロディとドラマチックなトランペットの音色が絡み合い、叙情的で繊細で。べ、ベルセバにドラムンベース⁉︎ と思ってしまうほどサウンド面で大胆な挑戦をみせた曲の邦題に「あの頃、僕らは美しかった」と付けられているのも印象的(是非はともかくベルセバにいまもまだ邦題が付けられているのは嬉しい)。

 大事な曲なので少し歌詞を引用したい。

 「僕らは最先端のシーンにいた
 そこではコーヒー豆を挽き
 女性たちは斜に構え
 男の子たちは薄っぺらで
 顎鬚を生やしてる
 僕らは外からそこを覗き込んでる」

 ここでサビの「We Were BeautiFul〜」に繋がればただのノスタルジックで詩的な曲にすぎないのだけれど、この後に

 「いまという時代を突き抜けて
 賑わう雑踏を高く越えて
 ありのままの君を見よう
 君の姿を見るんだ、星よ」

 と、いまの彼らは続ける。「あの頃」の面影を残しつつも、新しい美しさを身につけて。不思議なことに、曲調は違うけれど似たようにメンバー構成が変わりながらも20年もの間、コンスタントにずっと活動を続けてきたくるりの新曲「その線は水平線」を聴いた後にも同じような力強さと静かな感動があった。


 How Two Solve Our Human Problems。我々人間の問題を解決する方法。そんなものがあるのかはわからないけれど、いまのベルセバの楽曲やライヴでの姿に少しだけヒントが隠されているような気がする。そういえば日本盤のボーナス・トラック"Sometimes"の最後で繰り返し歌われているのは「自分の人生に関わる人びとを愛するんだ」という言葉だった。年齢を重ねていけばいくほど、不安定でナイーヴだった時を反対側から眺めることができるようになり、それはそれで複雑な感情が生まれて動けなくなったりすることもあるけれど、変化を恐れず知性とアイディアを持って音楽を続ける彼らの勇姿とあの笑顔を讃えながら、何度も聴いて、考えてみようと思う。もういなくなってしまった人たちのことを時々思い出しながら。

Various Artists - ele-king

 南アフリカからのGqomに続き、今度は東アフリカのタンザニアからとてもかっこいい新しい音楽がやって来ました。今回ご紹介するのはその新しい音楽Singeliの最新形態楽曲をウガンダのレーベル〈Nyege Nyege Tapes〉が編纂したコンピレーション・アルバムです。
 Boomkatのスタッフは「これは2017年に聴いた物の中でも、疑いなく最もトチ狂ったエキサイティングな新しい音楽だ」と、興奮気味にコメントしています。

 僕が知らないだけかもしれませんが、日本ではおそらくSingeliという音楽がほぼ認知されていないと思いますので、少しその背景を調べてみました。過去15年間に渡って東アフリカの中ではタンザニアの大都市ダルエスサラームが、最もエキサイティングなアンダーグラウンド・エレクトリック・ミュージック・シーンを形成してきたそうです。Mchiriku、Sebene、Segere(全て音楽形態の名称と思われる)などの星座のように点在する小さなシーンはやがて数年間のアンダーグラウンドでの潜伏期間を経て、最新の音楽形態Singeliとして爆発的に広まり、タンザニアの若者たちの間で人気だったBongo Flavaというジャンルに取って代わりメインストリームへ躍り出たという事です。

 ここでおそらく多くの人が疑問に思うのはBongo Flavaって何? という事だと思うのですが、これを調べてみるとちゃんと日本語のウィキペディア・ページがあり、YouTubeで検索すると「New Bongo flava songs 2017」「同2018」というプレイリストが出てきますが、レコード店でこの名称を用いて取り扱っているのはCompuma氏もお勤めのEL SUR RECORDSくらいのようですので、やはり日本での認知度は低そうです。

 Bongo Flavaは東アフリカにおける共通語であるスワヒリ語のLyricが特徴で、欧米のHIP HOPの大きな影響を受けていると同時にローカルな音楽(Taarab、Filmi、リンガラ音楽など)の要素がMIXされ、タンザニアンHIP HOPと呼ばれることもあるそうですが、Singeliを聴いた後では結構普通に聴こえてしまいます。ではSingeliとはどんな音楽なのかと言うと、日本語のウィキペディア・ページはまだありませんが、YouTubeで検索するとそれらしき物が出てきます。

 これなんかを見ますと日本との文化の違いを痛烈に感じます。経てきた歴史も土地の位置・風土も全く違うわけで当たり前なのですが、ウィキペディアで歴史を少し辿るだけで植民地、クーデター、エボラウィルスなどの単語が出てくるわけで、この音楽に漲(みなぎ)っているエネルギーはそうした歴史の中にあっても満ち溢れる生命力を示しているかのようです。

 タイトルにある「Sisso」というのはシーンの要となっているSISSO STUDIOというスタジオの名称のようです。それではそろそろ本題に入りたいと思います。

 とにかく全14曲すべてが高速で、BPMは遅いものでも170以上、200を超えるものも珍しくなく、ラスト・トラックのSuma“TMK”などは240近く、ということはBPM 120のものとMIXできる事になります。言語はおそらくBongo Flavaと同じくスワヒリ語でしょう。何を言っているのかは全く分かりませんが、歌唱法としてはRAPと言っていいと思います。RAPも乗せるトラックが高速なので勢いがあり、50centのようなDOPEさは出ないものの、ある種の催眠性のようなものがミニマル・ミュージックのごとく醸し出され、曲によっては呪術的なムードを湛(たた)えたものもあります。Lyricの内容は警官の汚職から別れた恋人とのいざこざまで、という感じらしく、彼らの日常を反映したもののようです。

 Dogo Suma Lupozi“Kazi Ya Mungu Haina Makosa26”(A2)はBPM 175くらいでミニマルに繰り返されるレイヴィなシンセコードに乗ってMCがひたすら休みなく声を出し続けます。時折スクリュード・ヴォイスがユニゾンで付き添う。シンセコードが小節頭のように感じるので、キックはBPM 175四分音符裏打ちで入っている(ように僕は感じる。速過ぎて混乱します笑)から、MIXするとちょっとややこしい事になりそうです。このミニマルに繰り返されるシンセコードが癖になります。スワヒリ語の語感や言い回しも独特な感触があり、こちらも面白い。TRAP風の引きずるようなベースラインも出てきます。以降もアルバム全体を通してスクリュード・ヴォイスは度々登場しますが、この音楽そのものがスクリューされたもののようでもあります。

 昨年リリースされたBullion“Blue Pedro”(名曲)〈TTT058〉のギター・フレーズを高速化したような旋律の上をMCが煽るように何か言い、スクリュード・ヴォイスが少年合唱団のごとく歌いあげて始まるDogo Niga“Polisi”(A3)。ベースラインも高速化されてバカテク・ベーシストの演奏のようになっていて、特にスライドを多用している部分なんかは面白い。陽気なメロディーが高速でミニマルに繰り返されていて、ベースラインに耳を傾けると少し笑ってしまいますが、聴いていると催眠的に幸福感が湧いてくるような曲です。しかし調べてみると「polisi」はスワヒリ語で「police」を意味するようなので、Lyricの内容は幸福感と真逆なものなのかもしれません。わざと対比させて皮肉っているのかも? もしそうなのだとすれば風刺的な1曲という事になります。

 MCのリフレインが癖になりそうな、少しダークでどこかGRIMEっぽい雰囲気が漂うMzee Wa Bwax“Mshamba Wa Kideo”(B2)に続き、物凄い勢いで迫りくるMCとレイヴィ・シンセ・フレーズが一丸となって繰り返されるDogo Niga“Kimbau Mbau”(B3)に圧倒されます。出だしは勢い余って、という感じでベースキックの音がブーストして歪んだりします。とにかくシンセ・フレーズが最高で、然(しか)るべきトラックに少しずつこの曲をMIXしていけば相当かっこいいのではと想像できます。時間も6分30秒あり、たっぷり。

 C sideが特に最高でお気に入りなのですが、Ganzi Mdudu“Chafu Pozi”(C1)は畳み掛けるようなRAPがかっこよく、タイトルだから聞き取れる「Chafu Pozi」というサビのフレーズの野太い声もかっこいい。重いキックの音にも痺れます。途中で速回しのような軽い音も入ってきたりしてメリハリも付いているし、デカい音で聴くと最高な予感。続くDogo Niga“Nikwite Nan”(C2)はダンスホールっぽくて、バックの音は細かく割られてはいますが、BPMは176でも88の感じでも聴けます。繰り返される三味線のような音のフレーズはアフリカの民族楽器なのでしょう。音のユニークな組み合わせを感じます。威勢の良いMCが最高にかっこいいMzee Wa Bwax“Mshamba Video Mster”(C3)はバックトラックも最高で、やっぱりレイヴィなんですよね。チープな感じの音のシンセ・フレーズに上がります。こういう曲たちがどんな風に聴かれているのかを想像してみるのも楽しい。

 煽るようなMCは声を出し続け、ひたすらタイトルを連呼する声はサンプリングされたものだろう、リズムトラックのごとく機能し細かく刻まれるリズムと同調、楔(くさび)のように裏に入りシンコペーションさせる音が相まって、全体的にダークなムードを醸し出しながら物凄い勢いで駆け抜けるDogo Niga aka Bobani“Tenanatena Rmx Cisso”。そして最後を締めるのは前述のSuma“TMK”。始まりは少し陽気なラテン・フレーバーも感じますが、すぐに何かに追われるかのような焦燥感が暗い感触を生み、MCは6分間言葉を発し続けます。この曲を実際に現場でMIXするのが楽しみです。

 このアルバムを評す際によく引き合いに出されているのはガバやブレイクコア、スピードコアなどのジャンルですが、僕はそれらのジャンルについてほぼ何も知りません。アフリカのローカルな音楽についても同様です(個人的には大石始さんのこのアルバムのレヴューがあれば読んでみたい)。そんな僕でもこの音楽のかっこよさはビンビン感じるし、レヴューを書くために何度も聴いていると無性にNozinjaが聴きたくなり、久しぶりに〈WARP〉のアルバムがターンテーブルに乗り、また新たな魅力を感じたりする事になるなど、音楽って本当に素晴らしいですね、と改めて、というか何度も何度も再確認している事を、また確認できました。多謝。

 このレヴューを書くに当たって、bandcampのテキストを参照しました。そのbandcampで全曲フル試聴ができます。元は限定版のテープで出ていたもので、ヴァイナル化に当たりMatt Coltonによるリマスタリングが施されています。Boomkatでは限定カラーヴァイナルも発売中。

Calexico - ele-king

 90年代からオルタナティヴ~インディ・ロックを牽引し、例えばダーティー・プロジェクターズやフリート・フォクシーズなどといった後進の世代の台頭以前から長く活動を続けてきたようなベテラン・アーティスト達にとって、今このように様々な「ポスト〇〇」が喧伝され、また、インディ・ロック自体の過渡期論が久しく語られる時代において新たな作品をなお発表するということは、一体どういった意義を孕んだことになるのだろうか。
 デビュー以来クオリティの担保された作品を数々リリースし続けその評価を獲得していく中で、品質とオリジナリティを保ち続けているからこそ(それは本当に尊く、多くのアーティストが成し得ないことでもあるのだが)、時には却ってマンネリズムの誹りを受けることもあったかもしれない。彼らの表現はそれぞれ爛熟期を迎え、岐路に立たされていると言っても良い。

 ここでご紹介するキャレキシコも、これまで既に8枚のアルバムをリリースするベテランであり、1996年のデビュー当時から、アメリカン・ルーツ・ミュージック、テックス・メックスやマリアッチなどのメキシコ音楽を融合させた表現を一貫して行ってきた。はじめここ日本では、当時隆盛していたオルタナティヴ・カントリー・シーンの一群のひとつとして認識されていた記憶があるが、その映像的音響センスや、ルーツ・ミュージックに留まらない音楽的射程の広範さなどから、ポスト・ロックの文脈でも盛んに受容されていくようになる。同時期のウィルコがオルタナティヴ・カントリーのシーンを越えて、ルーツ志向と先進性を両輪とする、アメリカのインディ・ロック・バンドの「正しきイデア」を作り上げたとき、キャレキシコもまた、その多様且つハイブリッドなルーツ・ミュージック志向とともに独自の音楽性を築き上げていた。
 そして昨今のウィルコが、そのソングライティングとプロダクションの精度をさらに突き詰め、ロックという形態の内奥へ迫る「偉大なる中庸」とも言うべき地平に至ることで、むしろそのマンネリズムを逆手に取るような戦略を選択し成果を上げていいるのに対し、キャレキシコは常にロック・ミュージック以外の(あえて言えば「非アングロ・サクソン的」)音楽からも多くその滋養を吸収してきたというスポンテニアスさゆえに、ある時期から却ってその達成自体よりも、「アメリカン・ロックとメキシカン・ミュージックを融合した音楽を演るインディ・アクト」、として、記号的に理解されてきてしまったフシがあったように思う。個々の作品性より、バンドに纏わされた総体としてのイメージこそがキャレキシコに付与された評価を牽引し、時には評価を抑えてしまったのではなかったか。「かつて見たアメリカ南部を舞台としたロードムービーのような世界観」「国境エリアで語られる架空のフォークロア」。そういった評価が獏と共有されてきた気がする。
 
 しかし、今作『ザ・スレッド・ザット・キープ・アス』で彼らは、これまで培ってきたそういったアメリカーナ的イマジナリズムともいうべき作法に、新たに極めて大きなトピックを持ち込んだ。作詞作曲を担当するジョーイ・バーンズとジョン・コンヴェルティーノの2人は、これまでも2006年作『ガーデン・ルーイン』でブッシュ政権下における状況を反映するなどその萌芽を見せてはいたものの、今回の作品ではトピカルな問題を扱うことについての躊躇をはっきりとかなぐり捨てることにしたのだ。
 前作リリースの2015年以降、アメリカ社会でもっとも大きなトピックといえば、いうまでもなくドナルド・トランプ大統領の誕生であることは論を待たない。アリゾナ州ツーソンというメキシコとの国境の街で活動をはじめ、ヒスパニック系のメンバーも抱えたバンドが、ドナルド・トランプの大統領就任以降に打ち出された国境や移民についての政策に鈍感で居続けるはずはなかった。ここで語られる国境エリア(周縁であり、政策推進側の見方からすればいわば「辺境」)での人間模様が織り込まれた様々なバラッドは、社会と経済が爛熟しまた分断する一方で、ボーダーを行き来し、ときにそこに屯する人びとがいかにハードな時代を迎えているかといったことについての、物語作家としての表明でもあるのだ。同時にそのような状況の中で、我々(彼らは登場人物を「辺境の第三者」と考えず「I」や「We」そして「You」といった人称で歌う)は一体どのような美しさをようやっと見つけていくことができるのか、といったことを問う。
 アルバム・オープナーにして、まるでデヴィッド・ボウイ「ヒーローズ」の荘厳なイントロを想起させるような極めて躍動的なロック・チューン“End of the World with You”で描かれる、終焉の中で生まれるかすかなロマンティシズムは、愛というものこそが、この2018年でも、いや、もっと大きな見取りを取るなら、ポストボダン以降の時代でも決して雲散霧消してしまうことのない価値であり美しさであるという、古くて、しかし同時に圧倒的に新しいメッセージを称揚するものになっている。辛苦と安らぎが複層的に語られることにより、痛烈なオピニオンであると同時に、我々への細やかな慰撫ともなっているのだ。
 また今作は、バンドの本拠地を離れ、北カリフォルニア沿岸の自然豊かな地区に建てられた家屋を改装した「パラミック・ハウス」というスタジオで制作されているが、そこでの制作体験も手伝って、彼らはエコロジカルな問題への意識も強く打ち出している。これまでに無いほどにルーラルでフォーキーな色香が薫る“Girl in the Forest“では、消費主義批判や環境保護、森林伐採抗議といったトピックも織り込まれるなど、アルバム全体を通して、現代社会へのトピカルな視線が様々に語られる。
 
 インディ・ロックの盛夏が過ぎようとしているかもしれないこの時代において、常に真摯に、丁寧に自らの音楽を作り続けてきたキャレキシコが、9枚目にしてこのような作品を世に問うたことの意味は、もしかしたら我々が考えている以上に大きいかもしれない。これまでと同様、アメリカ南部~メキシコ音楽の豊穣をハイブリッドに作品化するという手腕には一点の曇りもないし、相変わらず鋭敏な音響意識も冴え渡る。しかしながら、今作ではそれを上回るインパクトで、肉体的なドライヴ感が各曲に横溢している。ソフトフォーカスのカメラによってファジーに捉えられていたこれまでの世界が、そのフィクショナルな語りに増して、聴き手が感情移入することを厭わせないような堅甲な身体性を獲得した。
 今、明らかにキャレキシコは活動の新たな段階に入っていると言っていいだろう。そしてその新たなパラダイムは、おそらくはキャレキシコ以外の多くのベテランとされるインディ・アーティストたちも見据えていくことになるであろう、時代状況が要請するある種の必然と言えるのかもしれない。

 あのリーマン・ショック以降に、「アメリカ」という高度資本主義体制が緩やかな終焉を露呈しつつあったとき、ほとんど全ての人たちは、無気力と緩慢な諦念をもってそれを見つめていたはずだった。しかしまさかその後に、今直面している、真実(Truth)をも相対化してしまうような、このようにドラスティックな状況が控えているとは予想だにしていなかった。1976年にイーグルスが『ホテル・カリフォルニア』で気怠く描き出したアメリカ建国200週年の風景の後に、パンク・ロックが社会の風景をかき乱したように、ポピュラー音楽の世界でもそういった大きな胎動が再び控えているのかどうかはまだわからない。しかし、倦怠から突如としたカタストロフィを迎えているこの時代それ自体が、我々へ逆説的に見取り図を提示する形で、ポピュラー音楽にも変革を強いているということは紛れもない事実であろう。そしてそれはもちろん、インディ・ロックがこののちに歩んでいく道筋とも深く関連することでもあり、そういった時代状況下で「インディ」というひとつの価値が一体どのように変遷し位置づけられるのかといった議論に、荒ぶる風を吹き込み続けるだろう。

Klein - ele-king

 これは昂奮せずにはいられません。『Only』で圧倒的な存在感を示し、昨年は〈Hyperdub〉との契約~EPのリリースも話題となったクラインが、来る3月23日、ついに初来日を果たします。OPNやアルカの登場から時代がひと回りし、新たなエレクトロニック・ミュージックの機運が熟しはじめている昨今、ele-king編集部内でも「次の10年を決定づけるのは誰か」という議論が日々盛り上がっておりますが、その最右翼のひとりがクラインです。彼女の魅力を説明するのに、コード9でさえ言葉を失うほど。つまり、今回の来日公演は絶対にスルーするわけにはいかないということです(当日は〈PAN〉のフローラ・イン=ウォンやセーラーかんな子らも出演)。いやしかし去年のチーノ・アモービといい先日のニガ・フォックスといい、《Local World》はほんとうに良い仕事をしますな~。


Local 6 World Klein
2018/03/23 fri at WWWβ

時代を研ぎ澄ますアフロ最前衛の結晶 Klein 初来日! “フリーク・アウトR&B”とも形容される、サイケデアリにまみれたナイジェリアン・ルーツのミュータント・ソウル・シンガー/プロデューサーをロンドンから迎え、本ディケイドの電子音楽を革新する〈Hyperdub〉と〈PAN〉、そして中国、韓国、アイルランド、日本など、様々な背景が入り混じるエクスペリメンタル・クラブ・ナイト。

圧倒的にオリジナルな作品で時代を駆け抜けるアフリカン・ルーツの女性プロデューサー Jlin (Planet Mu)、Nidia Minaj (Principe)、Nkisi (NON Worldwide) などと同時期に、R&B/ソウル/ゴスペルを軸にサイケデリックかつゴシックなテイストでノイズ、インダストリアル、トラップ、UKガラージをコラージュで紡いだ怪作『Only』〈Howling Owl 2016 / P-Vine 2017〉で現代電子音楽の最前線へと躍り出し、昨年〈Hyperdub〉からデビューを果たし、Laurel Halo の最新作にも参加したサウス・ロンドンの異端 Klein が、ローカルかつワールドな躍動を伝える《Local World》第6弾へ登場。共演には元『Dazed』のエディターとしても活躍し、現在ベルリンの〈PAN〉の一員としても働く、ロンドン拠点のプロデューサー/DJ Flora Yin-Wong、ネット・カルチャーから現れ、新旧のアンダーグランドなクラブ・ミュージックと日本のサブカルチャーのセンスが入り混じる特異な存在 Sailor Kannako (セーラーかんな子)、日本とアイルランド双方にルーツを持ち、複数の言語と独自のセンスでその世界観を表現するプロデューサー/シンガー ermhoi、ロンドンの〈BBC AZN Network〉やアジアンなクリエイティヴ・コレクティヴ Eternal Dragonz にミックスも提供する韓国は釜山生まれ、現在は東京を拠点とする Hibi Bliss が登場。拡張されるアフロやR&B、躍進するアジア、そして女性アーティストの活躍など、今日のエレクトロニック/クラブ・ミュージックの躍動とモードがミックスされた最旬のエクスペリメンタル・クラブ・ナイト。

Local 6 World Klein
2018/03/23 fri at WWWβ
OPEN / START 24:30
ADV ¥1,500 @RA / DOOR ¥2000 / U23 ¥1,000

LIVE:
Klein [Hyperdub | Nigeria / London]
ermhoi

DJ:
Flora Yin-Wong [PAN | London]
Sailor Kannako
Hibi Bliss

https://www-shibuya.jp/schedule/008823.php

※未成年者の入場不可・要顔写真付きID / You must be 20 or over with Photo ID to enter.


■Klein (クライン) [Hyperdub | Nigeria / London]

ナイジェリアのバックグランドを持つサウス・ロンドン拠点のアーティスト。シアターやゴスペルのファンであり、楽曲制作の前に趣味でポエトリーを書き、Arca の勧めにより本格的にアーティスト活動を始動。自主で『Only』(国内盤は〈Pヴァイン〉より)と『Lagata』を2016年にリリース、UKの前衛音楽の権威である『The Wire』やレコード・ショップ Boomkat から大絶賛され、一躍シーンの最前線へ。2017年には Kode9 主宰の〈Hyperdub〉と契約を果たし、リリースされたEP「Tommy」は『Tiny Mix Tapes』や『Pitchfork』といった媒体で高い評価を受け、最近ではディズニー・プリンセスにインスパイアされたファンタジー・ミュージカル『Care』のスコアとディレクションを手がけ、ロンドンのアート・インスティテュートICAにてプレミア公開。
https://klein1997.bandcamp.com/

■Flora Yin-Wong [PAN | London]

ロンドン生まれのプロデューサー、ライター、DJ。「|| Flora」としても知られ、フィールド・レコーディング、ディソナンス、コンテンポラリーなクラブ・カルチャーを下地とした作品やミックスを発表。これまでにベルリン拠点のレーベル〈PAN〉の一員としてベルグハインやBlocのショーケース、アジアや欧州を軸に様々な場所でDJをプレイ、Boiler Room、NTS、Radar Radio、BCRといったショーへも参加。プロデューサーとしてはNYCの〈PTP〉からEP「City God」をテープでリリース、〈PAN〉のアンビエント・コンピレーション『Mono No Aware』、その他 Lara Rix-Martin の〈Objects LTD〉、Lolina (Inga Copeland) や IVVVO も参加の〈Caridad〉のコンピレーションへ楽曲を提供、Celyn June (Halcyon Veil) のリミックスやミランの〈Haunter〉やロンドンの〈Holodisc〉とのトラック共作を手がけている。
https://soundcloud.com/floraytw

■Sailor Kannako(セーラーかんな子)

1992年広島生まれ。2012年ごろから、ネット・カルチャーを軸にしたパーティ《Maze》に参加。現在は幡ヶ谷Forestlimit など、都内を中心にDJしたりしなかったり。SoundCloudでミックス音源をときどき更新中。
https://soundcloud.com/onight6lo0mgo

■ermhoi

日本とアイルランド双方にルーツを持ち、複数の言語と独自のセンスで世界観を表現する、プロデューサー/シンガー。2015年ファースト・アルバム『Junior Refugee』を〈salvaged tapes records〉よりリリース。以降イラストレーターやファッションブランド、演劇、映像作品への楽曲提供や、千葉広樹をサポートに迎えてのデュオ、吉田隆一と池澤龍作とのトリオの nébleuse、東京塩麹のゲストボーカル、TAMTAM やものんくるのコーラスなど、ジャンルに縛られない、幅広い活動を続けている。
https://soundcloud.com/ermhoi

■Hibi Bliss

DJ HIBI BLISS a.k.a Princess Samsung

https://soundcloud.com/hibi-bliss

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