現在はロンドンを拠点とするノイズ・ロック・バンドとして活動しているクソして輝け(Shit And Shine/$hit & $hine)は、いわばスリーフォード・モッズとパウウェルの溝を埋める存在だ。というには少しばかりスカムが入っているが……。
クレイグ・クローズを中心にテキサスで結成され、2004年から活動している$&$は、すでに15枚以上ものアルバムを出している。バットホール・サーファーズやメルツバウ、SUNN O)))やライトニング・ボルトなどの影響をおそらく受けながら、決して日の当たるところで活動してきたわけではないが、長年に渡って評価され続け、数年前からパウウェルの〈Diagonal〉と精鋭的な電子音楽のレーベル〈Editions Mego〉が手をさしのべたことで、より広く知られるようになった。
また、このふたつのレーベルと関係ができてからはエレクトロニック色が強まっている。2017年もこのふたつのレーベルから2枚のアルバムを発表しているが、先日出たばかりの〈Editions Mego〉からの『Some People Really Know How To Live』は、ポストパンクとIDMのニヒルな結合において、ナンセンスと、そしてこの狂った世界をどう生きていけばいいのかという観点においても興味深い内容となった。
さらにまた興味深いと思えるのは、ここに収録されたクラブ使用可のダンス・トラックが、陶酔に反発している点。“Notified”のような曲では、素朴なブレイクビートを使いながら、しかしジャングルのような高揚感を持たないし、暗さに耽ることもない。$&$の音楽は直接政治的というわけではないが、明白に今日の災いや人びとの不安や虚無といったものを反映している。ギャンスタ・ラップのパロディ、“Lil Wannabe Gangsta”でサンプリングされた口汚い言葉の断片は、ひどく歪められて、ハイプ・ウィリアムスの諧謔を横目に見ながらいくら腐っても臭うのことのない電子の裏通りを駆け抜け、ジャム・シティのデビュー・アルバムの廃墟の奥地にへと接続する。
彼らのセカンド・アルバムを現代の“シスター・レイ”だと評した人がいるというが、耳障りの良いメインストリームに対して$&$は完全に逆らっている。可能性とはこういうもののなかにあるのだろう。
「Sunn O)))ã€ã¨ä¸€è‡´ã™ã‚‹ã‚‚ã®
昨年末リリースされた戸川純の歌手活動35周年記念作品『わたしが鳴こうホトトギス』。その興奮冷めやらぬなか、年明けに開催されたリキッドでのライヴは胸に迫るものがあった。そんな戸川純 with Vampilliaは今夏、フジ・ロック・フェスティヴァルに出演することが決定しているが、このたび大阪と広島でワンマン・ライヴが開催されることが発表された。会場は、東心斎橋CONPASS (9月2日)と広島CLUB QUATTRO(9月29日)。詳細は下記より。
FUJI ROCK FESTIVAL '17の出演も決定している、戸川純 with Vampillia ワンマンライブが、2017年9月2日、9月29日に、東心斎橋CONPASSと広島CLUB QUATTROで開催される。
戸川純 with Vampilliaは、Vampilliaによるアレンジ&演奏に、戸川純の今の唄声を乗せる編成である。アーティスト画は、『HUNTER×HUNTER』、『幽☆遊☆白書』等で知られる冨樫義博が手がけている。
『戸川純 with Vampillia ワンマン LIVE』
●2017/9/2 (土) @東心斎橋CONPASS
OPEN 18:00 START 19:00
ADV ¥4,000 / DOOR ¥4,500 (前売、当日券ともに1drink ¥600 plus)
出演: 戸川純 with Vampillia
チケット発売日未定
●2017/9/29 (金) @広島CLUB QUATTRO
OPEN 18:30 START 19:30
ADV ¥4,000 / DOOR ¥4,500 (共にdrink別)
QUATTRO WEB先行: 7/22 (土) 12:00~7/27 (木) 18:00
https://www.club-quattro.com/
チケット一般発売: 7/29 (土)
ぴあ、ローソン、e+、エディオン広島本店プレイガイド、タワーレコード広島店、QUATTRO店頭、通販
■戸川純

女優、歌手。映画、ドラマ、舞台、CMなど出演作多数。CM『TOTOウォシュレット』(1982年から1995年)、映画『釣りバカ日誌』(1作目から7作目)、映画『いかしたベイビー』(1991年。監督・脚本・主演)、二人芝居『ラスト・デイト』(2006年)など。戸川純ソロ名義、ヤプーズとして音楽活動も行っている。作品に『玉姫様』(1984年)、『好き好き大好き』(1985年)、『昭和享年』(1989年)、自選ベスト3枚組『TOGAWA LEGEND』(2008年)など多数。2016年、歌手生活35周年を迎え記念アルバム、戸川純 with Vampillia『わたしが鳴こうホトトギス』、『戸川純全歌詞解説集――疾風怒濤ときどき晴れ』を発表。
■Vampillia

真部脩一(集団行動、進行方向別通行区分)、吉田達也(ruins)、竜巻太郎(turtle island)らも擁する真のジャンル越境音楽。国内では、大阪を中心としたライブ・イベント「いいにおい」シリーズを主催。また、様々な国内外のアーティストと共演している。現在、日本はworld's end girlfriend率いる〈Virgin Babylon Records〉、海外はエンペラー、opethをリリースする〈candlelight records〉と契約。過去エクスペリメンタル音楽の名門〈important records〉からも数作リリースするなど世界中のレーベルから作品を発表。2014年ben frostプロデュースでアイスランドにて制作されたアルバムをリリース。Nadja、The Body、Lustmord,Attila Csihar(Mayhem)、Sunn O)))らとコラボ作品を発表。2015年にはMogwai、The Pop Group、65days of staticと並びアデレード・フェスティヴァルでヘッドライナーをつとめ、2016年のアデレード・フェスティヴァルではGodspeed You! Black Emeperorと2マン。SXSWやヨーロッパ、オーストラリア、アメリカなどで数多くライブを行う他、東京女子流主演映画の音楽や、『Pitchfork』での高得点の獲得、lady gagaの衣装を手掛けるchristian dadaのショー音楽を手掛けることでも知られる。現在Pete Swanson(ex. Yellow Swans)、Extreme Precautions(Mondkopf)らと共にアート・ブラックメタル・テクノ・プロジェクトVMOを結成、1stアルバムがCONVERGEのレーベル〈Deathwish〉傘下の〈Throatruiner〉より発売。また、戸川純歌手生活35周年を迎え、戸川純 with Vampilliaとして記念アルバム『わたしが鳴こうホトトギス』を発表。
季節の即興音楽、あるいは形式に還元されざる余剰の響き
演奏の展開はいつも同じで、まず手探りのようにはじまり、まんなかで盛り上がり、静かにおわる。この曲線がかならずついてまわる。これ以上の形式がないとしたらまったく空疎だとしかいいようがない。 ――ギャヴィン・ブライアーズ
昨年の夏、とあるミュージシャンが率いるグループのライヴを観に行った話から始めよう。そこでは電子楽器とアコースティックな楽器が入り混じった7、8人ほどの演奏者たちによる、いくらか「決めごと」を設けられた即興アンサンブルが披露されていたのだが、演奏が開始したとき、もの凄く奇妙な体験をしたことをよく覚えている。まるでサイン波のような電子的な音を発する管楽器や声が、エレクトロニクスの響きと混ざり合い、どちらがどちらともつかないような、どの音がどの人間から発されているのかわからなくなるような、視覚的な風景と聴覚的な体験が撹乱されるような不可思議な音響空間が成立していたのである。「これはすごい! ここからどういうふうに展開していくのだろう」と思ってしばらくすると、しかしアンサンブルは、そのミュージシャンの音盤で経験したことのある「あの感じ」に近づきはじめていく。それぞれのプレイヤーが短いフレーズを繰り返すことで即興を織り成していくその演奏は、そこからは案の定「あの感じ」を追体験/再確認させるかのようにして、予想した通りの展開になっていった。探り探り始められたアンサンブルは盛り上がりをみせ、その後静かになっていき終了した。
もちろん、音盤と同じ展開をみせるのは、なにも悪いことではない。むしろそのミュージシャンの変わらぬ個性を聴くことができた、と言うこともできる。しかしその日の演奏で素晴らしかったのはやはり、最初の段階でみられた「聴いたことのない」サウンドだったのだ。そしてこと即興演奏に関しては、互いの探り合いから始まり、それがノってくると盛り上がり、そこから終わりへ向けて静かに収束していく、という展開は、このミュージシャンに限らず広くみられるものである。
こうした展開を前にして、即興音楽の形式の単調さに絶望し、作曲へと活動領域を移したのが、かつてデレク・ベイリーのもとでベーシストとして活躍していたギャヴィン・ブライアーズだった。たしかに言葉に還元してしまえば、多くの即興音楽はことほどさように単純極まりない形式をとっているようにみえる。じっさいに、こうしたある種の予定調和のような展開に安住する即興演奏家も少なからずいる。そのほうが展開を気にしなくていいぶん、より「自由」だとも言えるのかもしれない。だがしかし、同時に、言葉にしてしまえば単純だとしても、現実に鳴り響く音楽はより複雑で多様なありようをみせているものである。冒頭に書き記したライヴの体験でいえば、その展開と成り行きは「あの感じ」から逸脱するものではなかったのだとしても、少なくともその始まりの部分では、「探り探り」でありながら、この言葉には絡め取ることのできないようなサウンドに満ち溢れていた。そしてそうした言語化しえないような、還元された形式の外へと零れ落ちる響きを聴かせてくれるグループとして、たとえばここに、ザ・ネックスがいる。
*
オーストラリア連邦最大の都市であるシドニーを拠点に活動してきたザ・ネックスは、ピアノのクリス・エイブラムズ、ベースのロイド・スワントン、ドラムスのトニー・バックという3人のメンバーによって1987年に結成された。かつて90年代の初めごろ、トニー・バックは日本とも交流をもち、大友良英らとともにバンドを組んでいたので、そこから彼らの存在に辿り着いたという日本のリスナーも多いのかもしれないが、とりわけ昨年の暮れにザ・ネックスは活動30周年を前にして初めての来日を果たし、東京、大阪、滋賀の3箇所でツアーをおこなったので、そのことから彼らの存在を知るに至った人も多いのかもしれない。東京公演にはわたしも駆けつけ、1時間近くも続けられるトリオ・インプロヴィゼーションに圧倒された。しかしながら彼らの音楽は言葉にしてしまうともの凄く単純である。メンバーのそれぞれが短いフレーズをひたすら繰り返す。彼らはそのフレーズを即興でゆるやかに変化させていく。時折フレーズ同士が絡み合い、グルーヴする場面もみられるが、無関係に並走することもある。3人ともにフレーズの繰り返しをおこなっているため、通常の即興演奏におけるような丁々発止のインタープレイはみられず、まるで植物の生長のような、あるいは広々とした空に流れる雲のような、じっと耳を凝らしていないと変化していることにさえ気づかないような緩慢な移り変わりを聴かせてくれる。それは静かな演奏から幕を開け、中盤では盛り上がりをみせ、また静かになって終えられる。
ブライアーズが非難した単純極まりない形式である。けれどもそれは、予定調和と言ってしまうとちょっと違う。盛り上がった後に静まりかえって終わるのだろうなという予想はつく。しかし彼らの音楽は、その始まりからは予想だにしないような成り行きをいつも聴かせてくれるのだ。それはたとえば、緩慢な四季の移ろいが、春の後には夏が来て、秋の後には冬が来るとわかっていながらも、昨年の夏と今年の夏が異なっていることにも似ている。反復することが同じ結果をもたらすのではなく、繰り返すことが異なる結果をもたらすようなものとしての音楽。
そんな彼らの19枚めのアルバムがリリースされた。リリース元は、1994年以来ザ・ネックスの音源を発表し続けてきた彼らの自主レーベル〈フィッシュ・オブ・ミルク〉ではなく、エレクトロニカ/電子音響作品で知られる〈エディションズ・メゴ〉の傘下にあり、Sunn O)))のスティーヴン・オマリーが監修するレーベル〈イデオロジック・オルガン〉である。過去の大半のアルバムでは1時間近くの長尺の演奏が1曲だけ収録されているというパターンが多く、それは74分間もの長さを記録することが可能なCDというフォーマットが、音楽の流通手段として人口に膾炙し始めたのと同時期に、ザ・ネックスが活動を始めたことと無関係だとは思えないのだが、ならばなおさら本盤が、2枚組LPおよび音源配信のみで出されているということは興味深い。収録されているのは15分ほどの曲が2曲、20分ほどの曲が2曲の計4曲で、それらはちょうどLPの片面の長さに相当する演奏である。だがCDというフォーマットの栄枯盛衰を眺め続けてきた彼らにとって、これがLPでリリースする初めてのアルバムというわけではなく、過去に『Mindset』(2011)『Vertigo』(2015)と2枚のLPアルバムを出している。
ついでにザ・ネックスのこれまでの活動を音盤から振り返ってみると、彼らは1989年にファースト・アルバム『Sex』を発表し、同じフレーズが1時間近くも延々と続けられるその衝撃的な音楽を世界に提示した。しかし翌年にリリースされたセカンド・アルバム『Next』(1990)では早くもコンセプトをやや変えて、6曲の短い演奏(とはいえ、うち1曲は30分近くある)を、複数のゲストを迎えながら収めたものとなっている。続く3枚め『Aquatic』(1994)はそれから4年後にリリースされ、30分弱の、タイトルと同名の楽曲が2曲収録されているのだが、片方はトリオで、片方はハーディ・ガーディ奏者をフィーチャリングしたカルテットによる演奏。4枚めのアルバム『Silent Night』(1996)では1時間1曲というスタイルに戻り、しかしそれが2枚組アルバムとなって2曲まとめて発表された。その後は映画音楽を手掛けそのサントラ『The Boys』(1998)を出したり、ライヴ・アルバム『Piano Bass Drums』(1998)をリリースしながらも、スタジオ・アルバムとしては1時間1曲というスタイルが踏襲されていく(『Hanging Gardens』(1999)『Aether』(2001))。もちろん、同じスタイルとは言っても内容はそれぞれに異なるモチーフが扱われているためまったく別ものの演奏となっている。そして2002年にリリースされた4枚組のライヴ・アルバム『Athenaeum, Homebush, Quay & Raab』は、オーストラリアにおけるグラミー賞とも言うべきARIAミュージック・アワードにノミネートされた。続けざまにライヴ・アルバム『Photosynthetic』(2003)を出した彼らは、同年にリリースした『Drive By』(2003)でARIAミュージック・アワードのベスト・ジャズ・アルバムに選出されることになる。12枚めとなるアルバム『Mosquito / See Through』(2004)は2枚組で、木片が飛び散るような物音と力強いベースのグルーヴなどは、同じく1時間1曲の2枚組だった『Silent Night』を思わせもする。そしてさらに『Chemist』(2006)では2度めのベスト・ジャズ・アルバムに輝いてしまうのだ。同作品はそれまでのスタイルとは異なり、20分前後の楽曲が3曲収録されている。スティーヴ・ライヒmeetsロック・ミュージックな3曲め“Abillera”は、ポストロックにも通じるサウンドを聴かせてくれる。また、このあたりからドラムスのトニー・バックが積極的にギターも使用し始める。4枚めのライヴ・アルバム『Townsville』(2007)を挟んでからは、2曲収録されたLP作品『Mindset』(2011)を除いて、1アルバムに長尺の1曲というスタイルで『Silverwater』(2009)、『Open』(2013)、『Vertigo』(2015)の3枚の作品をリリースしていく。
ここまで振り返ってみて興味深いのは、ゼロ年代の終わりごろを境にして、彼らの音楽性がやや変化しているということである。それまでは「リフ」とも言うべきベースとドラムスの具体的/音楽的なフレーズの反復を基盤にして、その上で主にピアノが装飾的な彩りを加えていく、というアンサンブルの組み方がなされていたのだった。場合によってはベースとドラムスは徐々に変化するということもなく、『Sex』のように全く同じフレーズを1時間ひたすら続けるということもあった。しかし『Townsville』あたりからそうしたスタイルに変化の兆しが見え始める。ベースとドラムスはともに同じリズムを奏でるのではなく、それぞれが独立し各々のフレーズをゆるやかに変化させていく。そのフレーズも具体的/音楽的というよりは、反復されることで初めてリズムやパターンを見出せるような抽象的/音響的なものとなっていく。『Open』や『Vertigo』などに顕著だが、リズムを生み出す下部構造としてのベース&ドラムスに対して彩りを添えるウワモノとしてのピアノ、というのではなく、むしろ三者がそれぞれリズムもサウンドも担いながら三様に変化していき、それらが絡み合いときに衝突しあるいは共振するアンサンブルといったものになっていく。その時点でザ・ネックスは結成からすでに20年以上経っているわけだが、彼らの音楽がクラウト・ロックやミニマル・ミュージックとは全く異質な独自のインプロヴァイズド・ミュージックとなったのは、むしろここからのようにも思える。しかも彼らはあくまでピアノ・トリオという伝統的なジャズ・フォーマットを踏襲した上でそれをおこなっているのである。新たな音楽性へと突き進むためにメンバーが次々に楽器を持ち替えていくというわけではなく。
そして本盤『Unfold』はまさにそうしたザ・ネックスに独自の音楽が収められた現時点での最高傑作である。叙情的なピアノの旋律から幕を開ける1曲め“Rise”は、さらにオルガンの揺らめく響きとベースのアルコ奏法による持続音が漂うなかで、雨音のようにパラパラと叩かれるシンバルが絡み合い、終始穏やかな音の風景を聴かせてくれる。2曲めの“Overhear”では、アルコ奏法の持続音が鳴り響く一方で、ドラムスは速度感のあるパルスを刻んでいき、そしてそれらのサウンドの波に乗るようにしてオルガンは旋律を奏で続けていく。より「波」の形容が相応しいのは3曲め“Blue Mountain”だ。ベースは太い低音を出しゆったりとしたリズムを形成し、ドラムスは強くなったり弱くなったりするスネアやシンバルのロール奏法を聴かせ、そこにオルガンの揺らめきが加わるサウンドは、まるで打ち寄せては引き返していく浜辺の波のようでもある。だが後半では、ドラムスのリズムが速度を増していき、それに呼応するようにベースとピアノも変化することで、演奏の緊張感が高まっていく。その高まりを打ち破るかのように4曲め“Timepiece”は強烈な打撃音から幕を開ける。不規則なパルスがポリリズミックに絡み合うその演奏は、しかしながらしばらく聴いていると、ある周期で反復されているために一定のグルーヴを生み出しているのがわかるようになる。そこにオルガンが入ったサウンドは、どこかエレクトリック期のマイルス・デイヴィス・グループを彷彿させる。あるいはその揺らぎモタつくシャッフル・ビートは祭囃子のようでもある。それはいくつもの自動機械が置かれた工場のなかで、それぞれの機械が自らの周期で反復することから生まれる、空間全体のアンサンブルを耳にしていると形容することもできる。
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1時間に長尺の1曲だけが収録されたアルバムというのは、いかにも取っつき難そうに思えるかもしれず、その意味では本盤は、抽象化/音響化以降のザ・ネックスの音楽が、それぞれに特徴的な4つの楽曲として、LP片面というほどよい短さで収録された、彼らについて知るための導入口として打って付けのアルバムになっている。ちなみに余談だが、本盤に収録されている楽曲の長さを合計すると74分40秒弱になり、CD初期の収録可能時間74分42秒とほぼ一致する。それが偶然の産物なのか意図的に編集されたものなのかは定かではないものの、たとえLPというフォーマットでリリースされた「ほどよい短さ」の楽曲であったとしても、ザ・ネックスの音楽にCDのフォーマットが纏わりついているという事実は、基本的にはアコースティックなピアノ・トリオでありながら、多重録音やプログラミングにも取り組んできた彼らの、音響テクノロジーとの関わりを象徴的に示しているように思える。この30年はザ・ネックスの活動の軌跡であるとともにCDというフォーマットの栄枯盛衰の歴史でもあったのだった。生きた即興音楽を録音するとは如何なる行為なのか? それは避けられるべき演奏を殺す行為なのだろうか? 少なくともザ・ネックスにとってそれは、彼らの表現を成立させるための基盤になってきた条件のひとつであった。彼らの即興音楽はCDになることで死物と化するのではなく、むしろそのフォーマットによって生み出された身体感覚を備えることではじめて可能になるような特異性を内包している。それはLPでは短すぎ、音声ファイルでは際限がなさすぎるのである。そうした特異性の影が、「ほどよい短さ」であるLPの片面に収められた演奏にも、ひっそりと刻印されていると考えることはできないか。余談が過ぎたようだ。ともあれ、これまでとはレーベルを変えて出されたということも含めて、活動を始めてから30周年を迎えたザ・ネックスにとって、本盤のリリースが画期となる出来事であることはあらためて述べるまでもないだろう。
最後に付言しておくと、ザ・ネックスの音楽にじっくりと耳を傾けてみるならば、ここまで述べてきたような様々な発見と出会いと驚きがあるものの、かといってバックグラウンド・ミュージックのように聞き流すことができないものであるというわけではない。その点では、集中的聴取に耐え得る強度を備えた音楽でありながら、同時にその場の空間に溶け込んでしまうこともできるような特徴もあるという、「環境音楽」(ブライアン・イーノ)としての側面を備えている。聴感的にもアンビエント・サウンドやポスト・クラシカルな傾向と共振するものがあるとも思う。とはいえ、やはり彼らの音楽はあくまでも「即興音楽」なのである。少なくともこの側面なくして彼らの音楽は成立することはないだろう。なぜなら事前に音を配置しては決して得られることのないようなサウンドの移り変わりこそが、ザ・ネックスの音楽に特有の独自性であると言うことができるから。そしてそれはやはり、変わりゆく移ろいそのものの美しさというものであり、あるいはわたしたちが気づかぬ間にそこで生成し変化していき、ふと振り返ると美しく佇んでもいるような、迷路のように複雑に入り組んだ「季節」に似ている。
サンO)))、6年ぶりのスタジオ・アルバムである本作は、静寂な持続音から幕を開ける。それは現代音楽的な弦楽のようにも聴こえるし、極寒の風のように厳しく、もしくは乾いた大地のような過酷な音にも感じる。やがて、その硬い持続音は、大きく波打ちながら、サンO)))的な強烈な音響へと変化を遂げていくだろう。
アッティラ・チハーのハウリングするヴォイス、グレッグ・アンダーソンによる地響きのようなベース、スティーヴン・オマリーの空気を切り裂くような電気ギター、そして、オーレン・アンバーチ、スティーブ・ムーア、レックス・リッター、ランドール・ダンらによる生々しいアナログな電子音などが重層的に積み上げられ、鼓膜を、耳を、体を強く揺さぶる。まさに漆黒のドゥーム/ドローン、強靭なダーク・アンビエント、極限にして異形のヘヴィメタルである。ここには西洋音楽の極北とでもいうべき音楽/音響への嗜好性が強く刻み付けられている。音響。建築。空間。静寂。轟音。終局。メタル的な轟音が融解したノイズによって、ヘーゲル的な弁証法を音楽によって実現すること。そんな彼らのサウンドは、いわば西洋人の受難の旅の極北地点を思わせるもするものだ。
そして、その極北において西洋と東洋は交錯する。観音菩薩をイメージ/テーマとする本作は、「東洋」的(あくまでイメージとしてだが)な瞑想性を想起させる楽曲/音響になっているのだ。ヴォイスは絶叫から念仏のように変化を遂げ、静寂と轟音は、融解・反転し、建築と偶然は共存する。
たしかに本作にはある種の「瞑想性」がある。轟音と瞑想。いわば瞑想のためのドゥームだ。世界崩壊の予兆が表面化してきたこの時代に、西洋と東洋の交錯地点で「瞑想」すること。歴史と国境の境界では「無」になること。ノイズのむこうにある静寂=空虚=無の生成させること。とはいえ、急いで付けくわえておくが、その瞑想性は、サウンドのアンビエント性「だけ」で保障されているわけではない。そうではなく、本アルバムがわずか「30数分で唐突に、本当に唐突に幕をおろす」点が重要なのだ。この中断によって「無」が生まれる。まるで三島由紀夫『豊穣の海』の終局のように、あらゆるものが無に還る空虚が……。
1曲め“カンノン1”、2曲め“カンノン2”では多くの(にしておなじみの)ゲストが参加しているが、3曲め“カンノン3”はサンO)))の二人に加え、チハーを加えた3人だけの演奏で、その分、ギターとノイズ、ヴォイスがより生々しく感じられるトラックである。“カンノン1”と“カンノン2”が冥界から降り注ぐようなアンビエント轟音と比較すると、“カンノン3”の音はもっともっと生々しい、いわば地上世界の過酷な生死のさまを描写する煉獄(と救済)の音のように聴こえる。
そして、それは唐突に終わるのだ。プッツリとブラック・アウトするように。私などは、この「宙吊りの空虚感」こそ「無」を極限において表現しようとした彼らの創作的達成ではないかと考えてしまう。奔流から無へ。そこに広がる(無=)音は、わたしたちが生きる無常/無情の世界の音響であるのはいうまでもない。
そう、本作においては「轟音と無(=中断)」、「音楽と世界」、「冥府と現実」が反転するかのように繋がっているのである。そこにこそ『カンノン』というアルバムの本当の凄まじさ(恐ろしさ)があるように思えてならないのだが、どうだろうか……?
カナディアン・ブラックメタル・バンド、アキッツァ(Akitsa:正しい発音をご存知の方はご一報ください)による5枚めのアルバム。プリュリエントのドミニク・フェルノウによるブラックメタル・プロジェクト、アシュ・プール(Ash Pool)とのスプリット以来約2年ぶりの音源は、もちろんドミニクの〈ホスピタル・プロダクション(Hospital Productions)〉から。超パンキッシュなヴォーカルがフランス語なので当初はフランスのバンドかと思っていましたが、ケベックです。
アキッツァは、ドミニクによるアシュ・プールのサウンドからうかがえる彼のブラックメタルへの嗜好、クッソ劣化音質、D-Beat、クラストパンク的ブラックメタルを見事に具現化するバンドであり、ゼロ年代以降USアンダーグランドを中心に再燃した第二波ブラックメタル・ブームを代表するバンドとも言える。
それはたとえばこんな超アンダーグラウンドな文化をスタイリッシュに見せることに成功したサン(SUNN O))))のスティーブン・オマリーや写真家のピーター・ベステ(Peter Beste)、現代美術家/彫刻家のバンクス・ヴァイオレット(Banks Violette)といったマルチ・タレントなアーティストらによりヒップなサブ・カルチャーとして認知され、アイコン化された。そしてそれは、先日H&Mから架空のメタル・バンドのパッチが施されたクソダサいコレクションが発表されたことで完全に終わったのかもしれない。
相変わらずのアキッツァの『グランズ・ティランス(Grands Tyrans)』を聴きながらそんなことを考えていた。変わらないは言い過ぎか。クラストパンク色はより色濃くなり、USブラックメタル界のアイドルとなったボーン・アウル(Bone Awl)のマルコ・デル・リオが現在活動するラズベリー・バルブス(Rasberry Bulbs)の世界観と重複する。ローファイ・シンセ・ウェイヴのようなトラックも収録され、〈Not Not Fun〉以降のローファイ・インディ・ファンや、エッセティック・ハウス(Ascetic House)周辺をチェックするオシャレ・ゴス・キッズの耳にも届くかもしれん。ヒネくれて聞こえるかもしれんが、こりゃカッチョイイですよ。
そういえば、先日、いつだったかココに書いたバーザムTシャツを着るのがテクノDJの間でヒップなんてのはファック、という一文を往年のサージョン・ファンから指摘されたのだが、そのとき僕がイメージしていたのはサージョンではなく、スウェーデンはストックホルムのジョナス・ローンバーグことヴァーグ(Varg)である。ノルウェジャン・ブラックメタルからの影響を声高にアピールする彼の最新作『URSVIKEN』が先日発売された。寒々しい光景が広がるエクスペリメンタル・アンビエント・テクノにそのプロジェクト名、本人のノリからわかりやすすぎるほど直球に想起されるバーザムの獄中アルバム・ミーツ・テクノ。ディープ・ミニマルな心地よいビートを洗練された手つきで紡ぎながらも、グルーヴよりもサウンドスケープが際立つ雪山遭難テクノ。いや、わかります。僕もバーザム好きですし。だけどもヴァーグ・ヴァイカーネス本人はマジでいわゆるネトウヨかつ問題の多い人間だと思うから信仰するのはどうかと思うよ。
〈4AD〉といえば、最近はバウハウスでもコクトー・ツインズでも『ディス・モータル・コイル』でもない。それはすでにディアハンターであり、アリエル・ピンクであり、セント・ヴィンセントであり、グライムスであり、インクのレーベルである......というのは引用だけれども、そのアップデートはさらに途切れることなくつづいているようだ。レーベルとしてのカラーをまったく色あせさせないまま、しかしそこに加わっていく音とアーティストたちはより多彩により新鮮に変化している。
先日もピュリティ・リングの新譜が発表されたが、これを祝して〈4AD〉のA&R、サミュエル・ストラング(Samuel Strang)氏がレーベルのいまを伝えるミックス音源を届けてくれた。ele-kingのために提供してくれたもので、もちろんピュリティ・リングからはじまるセット。ギャング・ギャング・ダンスやチューンヤーズのエクスペリメンタリズムもくすまないが、グライムスにピュリティ・リングにドーターなど〈4AD〉らしい幽玄のヴェールをまとうエレクトロニック勢、アリエル・ピンクにディアハンターらのアウトサイダー・ロック、ソーンのインディR&B、ホリー・ハーンドンのテクノ、そして昨年大きな話題となったスコット・ウォーカー+サンのコラボレーションまで、未発表はないものの、「そういえば聴いていなかった」作品に気軽に触れて楽しめるいい機会なのではないだろうか。
Purity Ring - push pull
Gang Gang Dance - MindKilla
Ariel Pink - Dayzed Inn Daydreams
Deerhunter - Sleepwalking
Daughter - Youth
Grimes - RealiTi
Tune-Yards - Real Thing
SOHN - Artifice
Scott Walker + Sunn o))) - Brando
Holly Herndon – Interference
Selected by Samuel Strang(4AD)
ドローン・ゼロ年代を引率してきたと言っても過言ではない、米国ウィスコンシン州ミルウォーキー発〈ユーテック・レコーズ(Utech)〉の一幕を締めくくるにふさわしい漆黒のLP。
伝説として語り継がれる(あくまでドゥーム・メタル界で)シアトルのバンド、ソーズ・ハンマー(Thorr's Hammer)にて、また、後のサン(SUNN O))))であるグレッグ・アンダーソンとスティーヴン・オマリー、そしてジェイミー・サイクスから成るこれまた伝説的(あくまでドゥーム・メタル界で)なバンドであるバーニング・ウィッチ(Burning Witch)を母体とするバンド隊を引き連れ、当時ノルウェイから米国に留学中であったティーネイジャーのルンヒルド・ギャマルセターは、その類い稀な美貌からは想像を絶する狂気と断末魔のヴォーカルによって一躍アイドルとなった(あくまでドゥーム・メタル界で)。
あくまでドゥーム・メタルを愛する僕にとっても彼女はアイドルであるわけで、ソーズ・ハンマー解散後に彼女が発表した数少ない作品ももちろんチェックしてきた。カネイト(KHANATE)解散直後に、そのリズム隊であったジェイムス・プロトキンとティム・ウィスキーダとともに極短期間おこなったプロジェクトであるクライスト(KHLYST)の唯一の音源である“我が名は混沌(Chaos Is My Name)”を超える恐怖の浄化作用を僕はいまだに味わったことがない。こちらは最近ヴァイナルで再発されたので、未聴のカネイト・ファンにはぜひともお薦めしたい。
生物学者であり、またオスロ大学医学部の細胞生理学の博士号を所有する、そんなとんでもない肩書きも彼女のドス黒い内面性への想像を膨らませる。まさしくリアル魔女ヴァイヴスを感じているのは僕だけでなく、多くのメタル・ファンも同様で、スティーヴン・オマリーによるアート・ディレクションでも話題となったメタルとモード・ファッションをつなぐノルウェイ発、〈アンチ・デニム(ANTI DENIM)〉の広告モデルにも起用されていたりもする。ちなみにこのブランドのキャッチコピーは「トゥルー・ノルウェジャン・ブラック・デニム」。
さて、ドス黒いアイドル熱はそこそこに本作品をフォーカスしよう。まずこのレーベルはミルウォーキー在住のキース・ユーテックによるアート・ディレクション、完全ハンドメイドによるDIYレーベルである。自身によるデザインはもちろんのこと、写真家のマックス・アギレア・ヘルウェグ(Max Aguilera Hellweg)の作品を一連のジャケに起用したアーク・シリーズ(Arc Series)や、ペインターのステファン・キャスナー(Stephen Kasner)にディレクションを託したURSKシリーズなど、マルチメディアなアート・レーベルとして運営されてきた。不定期に開催されてきたレーベル・ショウケースである〈ユーテック・フェスティヴァル〉や、本作品もその一環であるレーベル10周年を記念して、長年のファンであるというヘンリー・ロリンズが自身のKCRW内の番組で特集を組む等、大きな影響力を各方面に与えていたことは想像にたやすい。
ルンヒルド嬢、そして〈ピカ・ディスク(Pica Disk)〉主宰でお馴染みのラッセ・マーハウグ(Lasse Marhaug)によるノルウェジャン暗黒エクスペリメント・コラボレーションによるこのレコードも、〈ユーテック〉の10年を総括するような、心地良さと禍々しさが共存する狂気の作品だ。ラッセの繊細なテクスチャーとダイナミズムに富んだノイズ/アンビエンスと、凍てつくようなルンヒルド嬢の美声が渾然一体となって聴者をどこまでも落としてゆく。昨今のノワール・ファイ系サウンドとは一線を画する、透き通るような暗闇がここにある。
SCOTTO))) なる筋書き
Side:Sunn O)))倉本諒
今年の春頃に「SCOTTO)))」とロゴのみのヴァイラル効果を狙ったウェブ・ページが〈4AD〉から表れ、音楽メディアを騒がせた。サンによる毎度スキャンダラスなコラボレーションは今回も大きな波紋を呼ぶのだろうか?
その時どきの時代性を射抜く先駆的なコラボレーションを企ててきたサンは、もちろんドローン・メタル/パワー・アンビエントのバンドであるわけだが、僕はそれ以上に彼らをある種のカルチャー・ムーヴメントの立役者として捉えてきた。
ヘヴィ、またはラウドと呼ばれるような音作りにおいて、その筋から絶大な信頼がおかれているアンプ──サン(sunn)だ──によって壁を築き、そのいまはなきメーカー・ロゴをそのままバンド名に冠し、カルトな垂れ流しドローン・ロック・バンド、アースへのトリビュートを謳うパロディ・バンドであったサン。彼らをはじめてコンテンポラリーな存在に仕立てたのは、2003年に発表したアルバム『White 1』でのジュリアン・コープとのコラボレーションだ。
バーニング・ウィッチ(Burning Witch)、ソーズ・ハンマー(Thorr's Hammer)等で、ひったすらに重い、遅いメタルやハードコアを追求してきたスティーヴン・オマリーとグレッグ・アンダーソンがたどりついた、「スピードは死に、それでも地を這うメタル・リフとフィードバッグが延々とアンプから垂れ流される」という境地をカンテラの明かりで照らすようなジュリアンの朗読が冴える“マイ・ウォール”はいまも秀逸な響きを放っている。
今回のスコット・ウォーカーとのコラボレーション『サウスト』を聴きながら、これまでのサンのコラボレーションに思いをめぐらせ、10年以上も前のジュリアンとの曲を振り返り見えてくるバンドの原点、それは舞台装置としてのサンだ。
圧倒的な数のヴィンテージ真空管アンプとスピーカーの壁から放射される、まさに振動としての音波、やりすぎなスモーク、全身に纏うローブ、ギター・ミュージックの究極形にあるアンビエント化したロック・サウンド。舞台装置としてのサンのコンセプトは完成されている。それは文字通りショウとしての、エンターテイメント/見世物としてのロック史の、黒いパロディのようでもある。
今回その舞台で披露された演目は、スコットとの、さながら『ファントム・オブ・パラダイス』のような悪夢のロック・オペラだ。フランスの舞台演出/美術家、『こうしておまえは消え去る』のジゼル・ヴィエンヌによるビデオ・クリップも発表され、ゴシックな舞台を彩っている。そもそもスティーヴンとピタによるKTLは当初ジゼルの演劇作品『キンダートーテンライダー(Kindertotenlieder)』の舞台音楽としてキャリアをスタートさせているわけだし、どうにも彼らはこういう方向性に強いようだ。
10年以上前の“マイ・ウォール”でジュリアンがスティーヴンとグレッグの紹介を読み上げるセリフから、今回のスコットとのコラボレーションまでが、サンによる壮大なバンド活動計画の脚本のうち、とすら思われてしまうほど説得力を感じてしまう。
過去のさまざまなアーティストたちとのコラボレーション同様、この作品が音楽のみならず、映画やファッション、現代美術など異なるフィールドを振動させてくれるのが楽しみである。
倉本諒
[[SplitPage]]ホラーと笑いのロック・オペラ
Side:Scott Walkerブレイディみかこ
お。ポップになったじゃん。
という表現が適切かどうかは不明だが、サンO )))と組んで聴きやすくなるアーティストというのもスコット・ウォーカー以外にそうはいないだろう。
異色のコラボと言われるが、UKでは「すごくわかる組み合わせ」「もう音が想像できる」みたいなことが何カ月も前から言われてきた。思えば、スコットの前作『ビッシュ・ボッシュ』にもへヴィでオカルトなメタルっぽい音色はあったし、でも肉切り包丁を擦り合わせてきーきー言わせてた音がギターの音に変わったのだから、それはやはりポップになったのだ。が、だからと言ってスコット・ウォーカーとサンO )))のコラボに、ルー・リードとメタリカの『Lulu』のようなものを期待してはいけない。本作に比べれば『Lulu』はワン・ダイレクションのベスト盤のようなものである。
わたしはだいたい音楽と名のつくものは何でも好きだが、一つだけどうしても駄目なのがメタルであり、のべつ幕無しギャーギャーわめくものが嫌い。という性格的なものだろうが、サンO)))の場合はわめくというより、唸ったり轟いたり歯ぎしりしたりという幅広い表現を追求しているのでスコットの声とは絶妙に合う。60年代には低音の魅力で売ったスコットも、前衛音楽に移行してからは妙な緊迫感のあるテノールを前面に出しており、本作は冒頭からまさにロック・オペラのようだ。
スコットの音楽は映画的とも言われるが、たとえば、彼の『ティルト』以降のアルバムがタルコフスキー的だとすれば、本作はケン・ラッセルのロック・オペラ『トミー』だ。あれももともとはザ・フーのアルバムだったのに、ケン・ラッセルが映画化した途端にイロモノになったというか変なことになったが、スコット・ウォーカーもサンO)))と組んだ途端に変なことになった。ここでの彼は難解で崇高な芸術家ではなく、いい感じに力が抜けてイロモノ化している。
歌詞にもそれは表れている。ああ見えて彼は以前からこっそり歌詞で笑わせることで知られていたが、『サウスト』ではそれが炸裂している。‟ブル”のソニック・ホラー風の緊迫した曲調でいきなり「leapin’ like a river dancer’s nuts(リバー・ダンスの踊り手の睾丸のように跳ね回っている)」などと歌われると、ぴょんぴょん跳ねながらアイリッシュ・ダンスを踊っている白タイツの男性を想像して吹きそうになったのはわたしだけではないだろうし、マーロン・ブランドが題材という‟バンド”でバシッ、バシッと鞭のパーカッションを使いながら「A beating will do me a world of good(ぶってくれたらとても僕のためになるのだけれど)」と劇的に歌い上げるのもナイスである。スコットは2008年にサンO)))からコラボの申し入れがあったときには断ったが、しっかりそれを覚えていてコラボ用の曲を書き溜めていたというのだから、きっとやりたくてウズウズしていたんだろう。
2012年の『ビッシュ・ボッシュ』のレヴューを読み返していて、「スコット・ウォーカーはコードとディスコードの間にあるもやもやとした部分を追求している。この未知の領域は人間を不安にさせる。この不安に比べると、恐怖はまだいい。ポップだからだ」と自分で書いていたことに気づいたが、まさに『サウスト』の彼は、さらなる「不安」の探究を休み、よりポップな「恐怖」をやっているように思える。きっと彼はサンO)))という、それを形にする最高のパートナーを見つけたのだ。
こうなってくると、気になることがある。それは、デヴィッド・ボウイやブライアン・イーノを羨望させたレジェンドが、このノリでつるっとステージに立ったりするのではないかということだ。そういうことを期待させるぐらい、本作のスコットは弾けている。そしてタルコフスキーよりケン・ラッセルのほうが100倍ぐらい好きなわたしにとり、本作は今年もっともチャーミングなアルバムだったと言ってもいいほど怖くておかしい。
ブレイディみかこ

チョルーラのレコード屋
ディスコフレニアを訪れたGoth-Trad
(Photo by Karenillo)
日本のDJ、プロデューサーのゴストラッドが、メキシコに来るというニュースを知ったのは、プエブラ州都プエブラの郊外の町、チョルーラのレコード屋、ディスコフレニアを経営するリカルド・グスマン(通称ニック)のフェイスブックの書き込みだった。何でも、ディスコフレニアの1周年記念と、彼が所属するプエブラのベース・ミュージック・コレクティヴ、アンダーベースのパーティで、ゴストラッドを呼ぶというのだ。
ゴストラッドは2014年8月に初のラテンアメリカ・ツアーで、ブラジル(リオ・デ・ジャネイロ、サンパウロ)、アルゼンチン(コルドバ)、米国(デンバー)、メキシコ(カンクン、メリダ、グアナファト、メキシコシティ)をまわり、それを締めくくるのが、プエブラ州都プエブラとなったわけだ。
私が住む首都メキシコシティの電子音楽シーンは、業界人のたまり場となるだけで盛り上がりに欠けるので、車で片道3時間かけても、ニックの仕切るプエブラのイヴェントへ行くと決めた。ニックはジャイアンのようなキャラで、突っ走り過ぎるのがタマにキズなのだが、その強引さと頼もしさでパーティを確実に成功させる。私はメキシコ在住8年目だが、記憶に残るほど楽しいイヴェントには、ニックが関わるものが多い。
ところで、ゴストラッドとメキシコというのに違和感を覚える人もいるかもしれないが、メキシコとベースミュージックは相性がいいと思う。たとえば、メキシコでは1970年代から存在するゲットーの路上サウンドシステム=ソニデロの発展により、低音を効かせたメキシコ独自のクンビアが根強い人気を誇っている。若者の間ではルーツやダブのレゲエ・イヴェントも頻繁に行われているし、ドラムンベースやダブステップも好まれている。日本の某音響メーカーの人がメキシコで売れるスピーカーは、音質よりもとにかく低音が響くものだと言っていて、その確信を深めたものだ。
イヴェント当日の8月30日。メキシコ人の私の夫を運転手に、メキシコ人の友人たち3人と、日本人の友人1人を含める計6人が、無理矢理自家用車に乗り込んで、プエブラへ向かった。
高速道路へ入るときに、メキシコ人たちは皆一斉に胸の前で十字を切って、道中の無事を祈る。かつてはその仕草に「大げさだな」と驚いたけど、カトリック教徒が人口の8割以上のメキシコでは一般的だ。物騒な話だが、メキシコの人びとは、いつ死んでもおかしくないと常に自覚している気がする。山間部では大雨でスリップして横転した車も見て、夫が再び十字を切った。
プエブラに着いたのは夜11時ごろ。会場の「アコピオ・ブラボー」は、世界遺産に登録される華やかなプエブラ中心部から少し離れた住宅街に位置するが、今回のイベントが、なぜかロードレースのゴール地点となっていて、たくさんの自転車乗りたちが入り口にたむろっていたので、すぐにわかった。
入場の際にガタイのいい警備員からボディチェックが入り、銃刀や、ドラッグ、酒を所持していないかチェックされる。だいたい、どの場所でもこのチェックは怠らないので、メキシコの夜遊びはハコに入ってしまえば意外と安全だ。
中に入ると、そこはクラブではなく、民家の中庭のようだった。ステージは、コンクリートの土台に簡素なテーブルが置かれているだけ。照明やスモーク、音響などは完備し、頭上には雨よけの大きなシート屋根も張ってあった。ドリンクを売るスペースでは、カクテルも販売している。ちょっと村祭りっぽい雰囲気だ。
すでにニックがDJをはじめていて、ルーツ・レゲエを中心にかけていた。音響もいい感じだ。続いてアンダーベースの代表のケインスターBが、ダブやダブステップをかける。ふたりともアナログを使っているのがいい。その後、地元のブレイクビーツのアーティスト、ルイドがライヴを披露する。彼は足下もおぼつかないほどラリっていたのだが、信じられないほど機敏に観客の反応を汲み取って、ラテン、レゲエ、ヒップホップ、ゲームミュージックを盛り込んだ演奏で楽しませてくれた。深夜1時をまわった頃には入場者数はさらに増えて、ゆうに500人は居る。
そして、いよいよゴストラッドの登場だ。前半はダブステップでもかなりノリのいい曲をかけていた。10年ほど前にゴストラッドの演奏を日本で見たが、当時はインダストリアルな轟音を操る印象があったので、そのギャップにちょっと戸惑う。
しかし、次第に、硬質な音が耳を刺激してきた。複雑なビートと、変化する太いベースで、みるみるうちに音像を作り上げる。この闇を求めていたんだ! と、私は心で叫んだ。数日前に行われたグアダラハラ公演の現地メディアのレポートでは、「骨や脳味噌をシャッフルする音響体験」と書かれていたほどの、ゴストラッドの奏でる強いうねりに合わせて、皆が身体を揺らしている。
会場には、学生も、おっさんも、おばちゃんも、ヘルメットを被った自転車乗りたちも、外国人も、金持ちのボンボンやピンヒールでこけそうになってる女も、フラフープのダンサーも、火を操るヒッピーな曲芸師たちもいて、ありとあらゆる人たちがごちゃ混ぜになって踊っている。一緒に来た夫や友人たちも心から楽しんでいるようだ。ジャンルや嗜好はもはや関係なく、この空間に響く闇を共有する人たちがいた。
会場内の写真を撮っていたら、スティーヴ青木みたいな男が、声をかけてきた。「ここの場所の名前知ってる? ここはアコピオ・ブラボー(日本語だと“歓喜の集積所”)っていって、いろんないいパーティやってるよ。へへ、実は俺ここに住んでるの。え? 取材しにきたの? 俺の家が日本のメディアに載るの? ヒャッホ〜!」......やっぱり、人の家だったのか。でも、メキシコシティのハイプなクラブより、確実に多くの人を満足させてるのだから、この民家パーティは凄い。
プエブラのイベント風景
Goth-Trad
(Photo by Miho Nagaya)
ゴストラッドの出演後には、米国のダブステップ・シーンを牽引するジョー・ナイスのDJがはじまり、フロア(というか庭)は歓喜の渦に包まれていた。ゴストラッドが、しばらくジョーのDJを楽しんでいたところを割り込んで申し訳なかったが、ラテンアメリカ・ツアーを終えての感想を語ってもらった。今回なぜツアーが決まったのだろうか?
「ブラジルのサンパウロのオーガナイザーから最初にやりたいという声が上がって、それからアメリカのエージェントがラテンアメリカ周辺に声をかけて、10本公演が決まった。サンパウロでは、俺がやっているような、プログレッシヴなベースミュージックのシーンは小さいみたい。他の国と同様に、コマーシャル寄りなブロステップやトラップは人気がある。
ダブステップを7、8年やってきて、その集大成的なアルバム『New Epoch』を2年前に出したけど、現在は自分が昔やってたノイズやインダストリアル寄りの音を振り返っている。今日の後半でやったような、インダストリアルとエクストリームなベース・サウンドとをミックスした音は最近の傾向。このところ以前に比べて米国からの依頼が多くて、ここ3年間は、年に2回ツアーを回って来た。米国ってブロステップのイメージが強いかもしれないけど、アンダーグラウンドのお客さんは、より新しい音を求めていると感じる。実際、今アメリカには、TriangleやType、Ghostlyなど面白いレーベルもたくさんあるしね。しかし、ラテンアメリカは初めてだから、ダブステップのDJという印象を持たれているだろうし、実験的な方向性を露にするときは、大丈夫かなーと思うんだけどね。でも今日は盛り上がって嬉しかった! ブラジルでも実験的なことやると、なんだ? 面白い! って反応があったし、皆新しいものを求めている気がする」
今回のツアーでは、メキシコでの公演が最も多く、計5都市を巡るものだった。
「メキシコは、まずリゾート地のカンクンへ行って、オーガナイザーはダブステップに興味はあるけれど、普段野外でサイケトランスのパーティをやってる子たちで。そんな感じだったから少々不安ではあったし、全然ダメなサウンドシステムだったけど、やれることはやった。客層はサイケトランスのイベントに来ている子たちだったと思うけど、結果的に盛り上がって良かったな。
メリダはアートギャラリーcvのクルーで、彼らは音楽に詳しくて、いわゆるベース・ミュージックだけじゃなく、日本のバンドやノイズ・シーン、GodfleshとかSunn O)))みたいなバンドの話でも盛り上がって、ダブステップ以外の新しいアプローチも受け入れられる。ただカンクン同様にシーンははじまったばかりで、サウンドシステムは不十分だったね。
グアダラハラはメキシコで2番目の都市だから、木曜だったけど300人くらい集まった。会場は昨年できたハコで、サウンドシステムはイマイチだったけど、他の場所よりは良かった。
しかし、首都メキシコシティは、ハコのサウンドシステムがモニターも外の音も全くダメで、フロアは埋まってたけど、基本的に自分が楽しめなかった。音がクソだったとオーガナイザーに伝えたけどね。メキシコシティよりも、グアダラハラのほうが盛り上がったのには、音質の問題がある。いいプレイしても音がショボかったら何にもならない。
たとえば、リオ(ブラジル)は千人以上、コルドバ(アルゼンチン)は800人以上のお客さんが入ったけど、両方とも良いサウンドシステム(のクラブ)を使ってるから人が集まってると思うんだ。
そこまでお金をかけれる事情もあるのかもしれないけど、音の設備は自分がやってるような音楽の要だから、ちゃんとしてほしい。
今回に限ってってわけじゃないけど、イベントをオーガナイズしてくれたプロモーターに対して、こういうネガティヴなことは正直あんまり言いたくないんだよね。ただ、自分の音のためにも言わなきゃいけないし、何よりシーンの発達には一番重要なことだから、過去の自分の経験して感じたことは素直に伝えるようにしている。
あとメキシコは、時間にとてもレイジー(苦笑)。アルゼンチン、ブラジル、デンバー(米国)はちゃんとしてた。でもメキシコは本当にユルい! メリダ、グアダラハラはしっかりしてたけど、メキシコシティはとくにひどくて、まず、約束時間から30分遅れそうって連絡がきた後に、そこから2時間近く待たされた。で、理由は『交通渋滞がすごくて』とか。それ言い訳にならないから(笑)。そういやカンクンの人たちも、メキシコ人の(あと5分)は30分の意味だから、って言ってたな(笑)。俺はそこでブチ切れたり、もうギグやらないとか言わないけど、なかには遅刻に厳しいアーティストだっているわけだしね」
欧米や日本で活躍しているアーティストにとったら、やはりメキシコの全般的ないい加減さは、ハンパないのだろう。では、良かった面はあったのか?
「お客さんの反応が良かった。とくにグアダラハラとメリダ 、そして今日のプエブラは本当に面白かった! しかし、この会場って、人の家らしいよね。なんか、それもよくわからないというか.....(笑)。今日のギグが良かったのは、後半の実験的な音の方で盛り上がったから。わかりやすいDJやるのは、パーティ的には無難でいいかもしれない。でも、その場所の音楽の偏差値を伺いながら、それに合わせてDJやるのは、見に来てる人たちに対して、すごく失礼だから。"GOTH-TRADがいわゆる「DUBSTEP」をプレーする"と期待されてるのは自分でもよくわかってるんだけど、やはり、自分が今一番新しくて最高だと感じるセットを、どんな場所でもやらなきゃ。今回のツアーでは、全部その姿勢でやりきった。新しい試みに対して受けがよかったり、反応がなかったりする場所もあったけど、今回10箇所ギグできて、強い手応えがあった。
総括したら、メキシコは良かったよ。ダメだな〜嫌だな〜ってことも全部含めて、すごく楽しい経験だった。あと、実際に訪れたことで、ラテンアメリカの見方が変わったね。ラテンだから陽気っていうよりも、ラテンだからこそ暗い部分が結構あると気づいた。意外に意外にエクスペリメンタルでダークな音/アートが好きな層も多いし。ラテンアメリカがヨーロッパとは違うのは、やはり侵略された歴史があるからかもなと思う。本当にまた、ぜひ来たいね」
今回のプエブラのイベントを仕切ったアンダーベースの代表のケインスターBと、ディスコフレニアのニックにも今日の感想をきいた。ゴストラッドの作品をリリースするUKのレーベル、〈ディープ・ミディ〉のことは好きだが、ゴストラッドのことはイベントをブッキングするまで知らなかったそうだ。プエブラは大学都市で、若者の熱気が常にある場所だ。音楽のイベントも頻繁に行われていて、レゲエやアフロビート、ベースミュージックのシーンもあり、ふたりはその中心にいる。
「ゴストラッドが才能あるアーティストだと理解していたけど、メキシコで認知度の低いアーティストを呼ぶのは大きな課題だった。でも俺たちはよくやったと思ってる。彼は凄いよ。とてもエネルギーにあふれ、観客をカタルシスへ誘いながら、自由に実験する術も知っている」(ニック)
「僕たちクルーは懸命に働いていたので、あまり楽しめなかったけど、ゴストラッドのセットは、素晴らしかったよ。皆を瞬発的にトランス状態へ導き、踊らせた。そのビートで魔法にかけたんだ。それが観客ひとりひとりの顔にも表れていたよ。ゴストラッドは最高の夜を作り上げていた」(ケインスターB)
宴は続いていたが、私たちメキシコシティ組は長旅のために、プエブラを後にした。運転手である夫は、また高速道路に入る前に十字を切り、車をかっ飛ばした。メキシコシティに着いたら、台風の接近でバケツをひっくり返したような大雨が降っていた。にも関わらず、町は目を覚まし、活発に蠢いている。メキシコシティは東京と同様に町のスピードが速い(時間にかなりユルいが)。ふと、東京の空気を懐かしく感じた。友人たちを家へ送り届けた後に、私たちは自宅のあるダウンタウンへ着いた。奇しくもメキシコシティ国際マラソン大会の開催日で、無数のランナーたちが、どしゃ降りのなかスタートを切ったところだった。「朝早くから、ずぶ濡れになって無茶するよなあ」と言ったあとに、「うちらも楽しむために相当無茶したよな」と、夫と笑いあった。疲れた身体を引きずりながらも、こんな充足感に満ちた朝を迎えたのは久々だった。
Agradecimiento a: Acopio Bravo,Underbass (https://www.facebook.com/underbasspuebla)y Discofrenia(https://www.facebook.com/Discofrenia)
RESONANT - GOTH TRAD from Resonant on Vimeo.
ノイズこそわがキャンバス──ノイズを生み出すことに目的があるのではなく、それをキャンバスとして空白のかわりにするというのが、イェニー・ヴァル(Jenny Hval)の音楽でありノイズ観だ。ハーシュ・ノイズを筆頭に、アルバムにはくまなくさまざまなノイズが敷き詰められている。ラーガ調のドローンに、ゴシックな世界観と女声二声によるエクスペリメンタルな歌唱が交差する“アイ・ハヴ・ウォークト・ディス・ボディ”は、そうした彼女の音楽のありようを冒頭において高らかに宣言する、素晴らしいトラックだ。なんて静かな、そしてなんと熱くたぎる……。
ノルウェーのシンガー、ソングライター、小説家としても活動する女流アーティスト、イェニー・ヴァル。昨年リリースのアルバム『イノセンス・イズ・キンキー』が高い評価とともに注目されたため、気になっていた方も多いだろう。しかし、今作は同じくノルウェーのシンガーであるスサンナを迎えたことでさらに水際立った存在感を放っている。これはヴァルが「異なるふたつの声がどのように互いをきたえ、溶けあうのかという実験」だと述べるように、十分に意識された取り組みであることがうかがわれる。
たとえばファースト・エイド・キットの、わがままで強気なロリータ・ヴォイス(妹)と優しい透明感をもったソプラノ(姉)との対照。ココロージー姉妹の妖しくゴシックなたたずまい。グルーパーの深淵を思わせるリヴァーブ感。俗っぽさを取り除いたプリンス・ラマ(といっては失礼だろうか)。遠くフリー・フォークの記憶をよみがえらせながら、新たな魔女たちがノイズの炎たつ原野に降り立った、そんな強烈なインパクトを持つコラボレーションだ。
まあ、「魔女」なんて符号をつけるのは乱暴で安直かもしれない。ある種のドレスに身をつつんで一丁あがりというようなゴシック趣味は、ジェンダー観においても進歩的なヴァル自身が否定している。しかし上品で正確な表現で紹介していてはつかまえそこねるような鋭く速い何かが彼女たちにはあって、筆者はむしろ誤りなき言葉によって彼女たちが埋もれてしまうことをおそれる。スタイルにおいて、スタンスにおいて、表現内容において、特別な力に通じているがゆえに、境界的な場所を見据えるがゆえに、迫害もされてしまいかねないような強烈な輪郭をヴァルとスサンナは見せてくれる。
サン(Sunn O))))にも比較され、プルリエントにも範を得るような彼女の音にはまた、2000年代を通じたノイズの流行も消化されている。そして「ノイズがキャンバス」であればこそ、ピアノとヴォーカルのみの“メドゥーサ”のような楽曲がむしろノイズの顕現であるようにも錯覚する。同曲中盤において彼女たちがめいめいに大きくブレスをおこなうとき、その息というノイズはもっとも印象的な乱調となってあらわれてくる。さながら、いくつもの世界を切り裂いてわたっていく風のようだ。つづく“ランニング・ダウン”がそれをさらに増幅させるだろう。
ヴァルはまだうんと若い頃にブラック・メタルのシーンにいたということだが、彼らの同胞がときおり召喚するような、ヴァイキングの亡霊たちが徘徊する世界、その冷たい海と廟から吹いてくる風に、彼女たちの呼吸は同調しているのかもしれない。ヴァルはまた、本作においてふたりの声の競合が、「人の精神と肉体が自然的なものの神秘とともに抱合するという近代の寓話になるかもしれない」とも語っている。
