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今日の日本のDJカルチャーがたまに気の毒に思えるのは、大バコ中バコの多さと外国人DJの来日が多すぎるってところだ。それに準じてクラバー人口やDJの数が増加しているなら、産業的には成長していると言える。ただ、外国人DJの影に若い日本人DJの存在が霞んでしまっているきらいもあるし、円高の影響もあるのだろうが、毎週末のラインナップのあまりの豪華さに、バランスは取れているのだろうかとたまに心配になる。
その点、僕らの時代は恵まれていた。小バコ中心だったからリスクも少なく、シーンの行方は日本人のDJとオーディエンスにかかっていた。入場料も安かったし、年功序列もなかったし、わりと簡単にシーンの人たちと知り合いになれた。自由競争が激化する前だったので、経済的にはしょぼかったけれど、DIYだったし、仲間意識が強かったし、精神的にはまあ、とにかくお気楽だったわけだ。
外国人DJにはたしかに腕の良い連中がいる。新しいトレンドもほぼ海を渡ってやって来る。が、誇るべきシーンが自分たちになければ、そのいち部であることに強いアイデンティティなど持てやしないことも事実。およそ半世紀にもわたるUKのDJカルチャーの逞しさも、頻繁にアメリカ人やドイツ人のDJを招聘しているから生まれたわけではない。瀧見憲司はそのことを意識している少数派のひとりだ。
〈クルーエル〉は、今日でこそクラブ・ミュージックのレーベルとして認知されているが、20年前は渋谷系と括られたジャンルの震源地のひとつで、東京のインディ・シーンの中心的なレーベルだった。カヒミ・カリィのリリースでも知られ、コーネリアスとは音楽的な同盟関係にあった。要するに瀧見憲司は今日インディ・ダンスと括られるサブジャンルの草分け的な人物で、日本ではいまだ人気のあるネオアコと呼ばれるサブジャンルの火付け役でもある。最近は嬉しいことに若い読者も増えているので、いちおう、説明しておきましょう。日本で〈クリエーション〉にもっとも近いレーベルを探すなら〈クルーエル〉かもしれない。音楽性こそ違えど、純然たるインディ・レーベルが大ヒットを飛ばしたばかりではなく、影響力も発揮したという点では同じだ。
本作『Crue-L Cafe』は、『Post Newnow』以来2年ぶりのコンピレーション・アルバム、とはいえ前作はリミックス・シリーズの『vol.ll』だったから、新曲を中心としたコンピレーションとなると2006年の『Crue-L Future』以来となる。アルバムには、昨年発表のトラック、これから12インチでリリース予定のトラックも収められている。
言うまでもなく〈クルーエル〉は、「ごちゃ混ぜ」という意味においても、インディ・ダンスという意味においても、そのメロウな多幸感においても、バレアリックをコンセプトにしている。そして、12インチ・シングルのスリーヴをトロトロに溶けたキャラメルのようなデザインにしてから、その快楽路線をよりいっそう強めているように思える。今作『Crue-L Cafe』もその邁進の成果ではあるが、"カフェ"を名乗るだけあって家でのんびり聴くのにはもってこいの内容だ。
オープナーは神田朋樹による"Ride a Watersmooth Silver Stallion"。ルーカス・サンタナを彷彿させるラテン的郷愁のアコースティック・ギターとエレクトロとの心憎い融合で、早速、レーベルの洒落たセンスを披露している。続いてビーイング・ボーリング(瀧見憲司+神田朋樹)による"Love House of Love"。70年代的なエロティシズムの再解釈、テンポを落とした官能的なディスコ・トラックが展開される。
ディスコセッションの2年ぶりの新曲だという"Manitoba"は、えもいわれぬアンビエントを展開する。これはクラブ・サウンドによる、ほとんど極楽浄土の境地と言えよう。猫のあくびのように、曲の途中からはゆるいギターが響いている。新世代を代表する〈コズ・ミー・ペイン〉のザ・ビューティも、彼らに続かんとばかりに聴きごたえのあるチルアウトを打ち出している。
それからクリスタル、UKのティム・デラックスとア・ノイジー・ノイズ、ハウス・マネキン......らによるダンス・トラックが続く。アルバムを出したばかりのタッカーがファンキーなダウンテンポで惹きつけながらエディ・Cの温かいディスコへと繋げる。すっかり上機嫌になったところで、フランキー&神田朋樹による非凡なる穏やかさが広がる。クローザーは、クルーエル・グランド・オーケストラの"Barbarella"。60年代末のエロティックなSF映画として(そしていかにも渋谷系的な)『バーバレラ』のカヴァーだが、この曲のハウスのグルーヴからは太陽のにおいすら漂う。
ここ1~2年の欧米のクラブ・ミュージックのモードで言えば、ダブステップ/ミニマル/フットワーク/デトロイト、あるいはフライング・ロータス以降やチルウェイヴ以降がもうほとんど一緒になって騒いでいるような感じが僕には見受けられるけれど、そこにいっさいくみしていないことも、まあ〈クルーエル〉らしいと言えばらしい。このレーベルは昔からそうした欧米のトレンドを敢えて避けてるところがあるし、自分たちのセンス、方向性に揺るぎはないと思う。たしかに、どんなにサイケデリックになったとしてもエレガントさを失わない、それはこのレーベルの最大の魅力である。僕と同世代の人間は思い出して欲しい。1995年のクルーエル・グランド・オーケストラの最初の1枚にはこう記されている。「何がリアルやねん!」「やってられない、でもやるぜ!」「とりあえず飲みますか」......連中ときたら、まったく変わっちゃいない(笑)。
PS:とはいえ、いま日本から面白い作り手が出ているのも事実で、しかしそれをフランスのレーベルにフックアップされるのもなぁ......ちょっと悔しい。
女性ふたり、男性ふたりの4人組で、ステージ前方にはテレキャスターを持って歌っている女性(佐藤)、そしてカラフルな衣装に身を包んでギターを弾いている女性(あーちゃん)がいる。ナンバー・ガールを彷彿させる動きを見せるが、曲は内面の暗いドラマで張り裂けそうだ。痛ましい言葉が美しいメロディのなかでとめどなく流れてくる。「生ぬるい惰性で生活を綻ばす/ゴミ箱みたいな部屋のなかで、時が/過ぎるのをただただ待っている それだけ/眠れない夜更けに呼吸の音を聞く」"退屈しのぎ"
きのこ帝国というくらいだからゆらゆら帝国とどこか繋がっているのか思いきや、あんなふうな笑いは......まったくない。果てしない夜のなかでぼろぼろに傷ついている。悲しみと、そう、どこまで消えない悲しみと、生死をかけているかのような、内面の葛藤が繰り広げられる。「目が覚めたらすっかり夜で/誰かに会いたくなったよ/鍵もかけずに部屋を出て/夜の、夜の、空を歩く/最近は爪も切らず/復讐もガソリン切れさ/なんにも食べたくないし/ずっと考えている」"夜が明けたら"

きのこ帝国の演奏は、そして、潔癖性的な叙情によってリスナーをその世界に引きずり込む。ヴォーカルの佐藤は、言葉ひとつひとつを噛みしめるように丁寧に歌っている。ときおり、激しく声を張り上げる。地盤がガタガタに揺れているこの国の、信じられるものを失った世代が、豊かさとは何かを訴えているように聴こえる。
これは、涙の領域にまでに連れていかれるような美しいソウル・ミュージックである。並はずれた情熱があり、暗い予感のすべて吐き出し、さらけ出すことによる、ある種のカタルシスがある。はっきり言えば、魂が揺さぶられる音楽なのだ。
シューゲイザー......とも呼ばれているそうだが、もしそれをマイ・ブラッディ・ヴァレンタインやスペースメン3、スローダイヴなどの系譜と捉えるのであるのなら、きのこ帝国はシューゲイザーではない。この際言っておくが、そもそもシューゲイザーと言われる連中の音楽には、ミニマル/ドローン/ノイズからの影響がある。つまりシューゲイザーとはアンチ・ドラマで、聴覚における享楽性がある。自分でもたまに使っているので、こんなことを言うのも何だが、正直な話、シューゲイザーというターム自体が表層的で、無意味だと僕は思っている。だいたいきのこ帝国は、シューゲイザーと呼ぶには、どうにもドラマ(夢)に飢えているように思える。
が、きのこ帝国をそう呼んでしまう人の気持ちもわからなくもない。このバンドには、ジョイ・ディヴィジョンに端を発しているような、いわゆる「重さ」が、そして同時に〈4AD〉的な、あるいはモグワイめいた耽美があり、それがナンバー・ガール的なセンス(ないしはジャックス&早川義夫)と交わっていると言える。力強い演奏力、大胆な言葉、そして魅力的ヴォーカリゼーション......夢を見たくて見たくて仕方がないことの裏返しのように聴こえる。たしかにこのバンドには、実存的な苦行へ突き進んでしまいそうな危さもある。が、マジー・スターを彷彿するような、低空飛行のなかの素晴らしい煌めきもある。おそるべきメランコリー......"退屈しのぎ"は名曲だ。
面白いバンドが出てきた。数ヶ月後にはより多くの人間がこのバンド名を記憶するだろう。きのこ帝国のデビュー・アルバム『渦になる』は5月9日に発売される。

特集は「インディ・ミュージックのネクスト」です! エレクトロニック・ミュージックにおける最先端、ジェームス・フェラーロやデムダイク・ステア、そして新種のヒッピー・ヒップホップ、トッグ・レザー、ベッドルーム時代におけるゲイ・ポップの新星、パフューム・ジーニアスなどなど、そして最高に笑えるのが、〈ノット・ノット・ファン〉周辺とブロー・ステップ・シーン潜入体験というふたつのロサンジェルス・レポート。今年のゆくえをうらなう必読の特集です。また、中原昌也がマイク・ケリーへの追悼を話して、戸川純ちゃんのエッセイは町田町蔵、連載陣に粉川哲夫が加わり、磯部涼の「No Ele-King」は青葉市子。橋元優歩と三田格が性懲りもなくチルウェイヴで喧嘩していれば、誌面から唾が飛んできそうな宇川直宏とデリック・メイとの白熱対談もあります。もちろん、お馴染みの執筆陣も好調......でしょう!
お願いします、買ってください!
ele-king Vol.5 DOMMUNE BOOKS 0009
contents
●Special Issue on The Next Indie Music
マイク・ケリー/中原昌也
〈EKジャーナル〉
「僕と革3」セイジとセイギ◎shing02
ピーター・フック『ハシエンダ』/ele-king presents マーク・マグワイヤ ジャパン・ツアー/湯浅学『アナログ・ミステリー・ツアー』/中原昌也『悲惨すぎる家なき子の死』+個展
〈特集〉インディ・ミュージックのネクスト
Interview
トッグ・レザー(倉本諒)/デムダイク・ステア(野田努)/パフューム・ジーニアス(木津毅)/コズ・ミー・ペイン(野田努)/ギャング・カラーズ(野田努)/コウヘイ・マツナガ(クライヴ・ベル)/ジェームス・フェラーロ(野田努)/宇波拓_ホース(松村正人)/下山(松村正人)
Column
ゴシック&ホラー(三田格/水越真紀)/LAアンダーグラウンド(倉本諒)/ベッドルーム・ポップ(竹内正太郎)/ダブステップ2012(重康有策)/LAブローステップ体験記(カピパラNat39)/東京の現場(近藤チマメ)/90年代リターンズ(三田格)
Talk
ウォッシュト・アウトをイジめないで~対談:橋元優歩×三田格
インターネットとヒップホップ~対談:小林雅明×微熱王子◎磯部涼/西村ツチカ
〈新連載〉粉川哲夫「ネオ・ニヒリズム」
〈Eコラム〉二階堂和美について◎一色こうき
〈No Ele-King〉
青葉市子◎磯部涼/小原泰広
〈連載コラム〉
tomad「キャッチ&リリース」/牛尾憲輔(agraph)「私の好きな」/二木信「二木ジャーナル」/T・美川「編年体ノイズ正史」/戸川純/フェミニャン「ピーポー&メー」/こだま和文×水越真紀「水玉対談」
〈カルチャーコラム〉
EKかっとあっぷあっぷ◎松村正人/五所純子/小濱亮介/岡澤浩太郎/プルサーマル・フジコ
〈Tal-King〉
藤田貴大_マームとジプシー(九龍ジョー/菊池良助)/
ブラッドフォード・コックス(橋元優歩/小原泰広)/クラーク(木津毅)
〈Eコラム〉都市郊外のチカーノ・スタイル◎宮田信
〈連載〉
ミタイタルトライアングル(テーマ=公共圏)赤塚りえ子×平井玄×三田格
〈特別企画〉
「第四の波を超えて~今世紀的・テクノ・レベルズ・降臨」
~対談:宇川直宏×デリック・メイ◎野田努/小原泰広
表紙オモテ◎宇川直宏
表紙ウラ◎榎本浩子
ジョセフ・ナッシングやワールズ・エンド・ガールフレンドと同世代のブレイクビート・メイカーによる7作目は配信(と限定カセット)だけのリリースとなった。〈リフレックス〉や〈プラネット・ミュー〉の子分みたいなレーベルから98年にデビューし(パッケージには福岡の小さな町からやってきたごく普通の男とかなんとか書いてあった)、世界中の様々なレーベルと、日本では〈ファイル〉から4作目、〈マーダー・チャンネル〉から5作目と来て、DJオリーヴ・オイルのレーベルからは初となる(だんだんシフトが日本に寄ってきているということか)。
ジョン・ピール・セッションにも出演していて、遊び心が豊富でジャズと高速ブレイクビーツを絡ませたら右に出る者はいないとか、海外での評価は初期の『クリアー・ウイズアウト・アイテムズ』がもっとも高いようだけれど、未聴なので、ダブステップを取り入れるようになった最近のものと比較すると、ジャズ・ベースからはじまり、全体に跳ねるようなファンク・ビートを強調した『ヒア・アンド・ゼア』とはだいぶ様相を異にし、『アワー・タウン、エニータイム』は実に思わせぶりなムードで幕を開ける。そして、半分ぐらいの曲では重い腰をゆっくりと回転させるような官能的で、簡単にいえば黒っぽいビートに突き進んでいく。もしかすると同世代のブレイクビート・メイカーたちとは接点が薄くなりつつあり、表面的な派手さもそれほどわかりやすいかたちでは出てこなくなっているので、こうなるとカール・クレイグやヨーロッパのデトロイト・フォロワーに近い部分が今後のスタイルとなっていくのかもしれない。エイフェックス・ツインとジャズというテーマは、なぜか、三毛猫ホームレスのヒロニカや秘宝感の佐藤えりかなど、日本では多発しやすいテーマなのかも知れず、あるようでなかった融合点がここでは聴くことができるのではないだろうか。もちろん、従来通りの派手なブレイクビーツも力を失っているわけではなく、ビートが与える説得力が増している結果だということで。
アース・ノー・マッドやフラグメントなど、日本のヒップホップが好調ならば、それらのビートメイカーが波に乗らないわけがなく、なぜかフランスのネット・レーベルがその辺りをコンパイル(しかも、それがそのレーベルにとって初のフィジカル・リリースとは?)。
よくわからないけれど、ネットに上がっていた日本人の音源をフランス人があれこれと探索した結果、全17人、22曲の構成と決めたようで、その基準はよくわからない(そのうち二木信が取材してくるでしょう)。しかし、外国の耳を経由した把握の仕方はそれだけで示唆的で、まずは単純に構成力があって聴き応えがある。テンポがよく、何度も聴いてしまうし、聴くたびに発見がある......って、普通のことを書いてしまった。
可能な限り紹介すると、スカしたオープニングに続いて冒頭からもっさりと重く響くイル・ジ・エッセンスはロー・ファイ・クォンターズの名義でもリリースがあり(未聴)、四角四面を逆手にとったようなジャジムはどこかファニーな感触がとてもいい。もっと聴きたい。『ディスコトピア』にもフィーチャーされていたブンは二木信がいま、もっとも夢中になっているルーキーで、ヒムロと同じく〈オイル・ワークス〉からもリリースがあるダイナミックな展開(全体のマスタリングも彼がやってるらしい)。イルムラと組んだアグレッシヴなラップ・ナンバーも続けて収録されている。
バグシードはウィズ・カリファ(紙エレキング2号P99)とのあいだでひと悶着あったばかりで、簡単にいえば230万人がアクセスしたというカリファのミックス・テープ・サイトにバグシードの曲が使われていたにもかかわらず、クレジットがドープ・クチュールというL.A.のストリート・ブランドの名義となっており、当のデザイナー・ブランドも自分たちの名前が使われていることに戸惑いを感じ、ツイッターなどで、この曲はバグシードのものだと明言しているというもの(https://bmr.jp/news/detail/0000012861.html)。その後、どうなったかは知らないけれど、ここに収録されている曲はなるほどカリファが好きそうなスモーカーズ・ブレイクビート。続くブドリは大袈裟にいうとフライング・ロータスとベイシック・チャンネルを同時に聴いているような質感がかなりよく、アルバムはないのかなーと検索をかけたら、近所にある喫茶店が出てきた(は!)。いまとなっては少し懐かしいカット・アップ・スタイルを聴かせるリピート・パターンによるリミックスも収録され、ブンによるリピート・パターンのリミックスもなんといっていいのかわからない奇妙な仕上がり。
マインド・タッチによるモンド風の小品が折り返し地点を明確にし、このなかでは唯一、フルで(これもまた〈オイル・ワークス〉からの)アルバムを聴いたことがあるイチロー.も、同じような意味で変わった感覚を楽しませてくれる(この人はヘン!)。RLPが少しとぼけた風味を出したと思ったら、一転して、AZによる重いけれど明るく爽快なビートへと続き、クロージング・トラックは、このところダブステップにスタイルを変えたというKKによる濃密なダーク・ファンタジー。なんという充実作だろうか。
ここには日本だから......という感じはまったくない。最近でいえば、L.A.の『ロウ・エンド・セオリー・ジャパン・コンピレイション 2012』やデトロイトの『ビッグ3』とも互角だし、勝っている部分だってあると思える。それこそ同じフランスでTTCやラ・コウションなどを集めたアンダーグラウンド・ヒップ・ホップのコンピレイション『プロジェット・ケイオス』が11年前にリリースされた時、何かが起きるのではないかとそわそわしてしまったことを思い出してしまった。
そわそわ、そわそわ......
ミネアポリス出身のバンド、ハウラーの『アメリカ・ギヴ・アップ』(アメリカは終わる/降参する)という実に興味深いタイトルのデビュー・アルバムは、とりあえずは、ロックンロールが年寄りの感傷ではないことを証明している。19歳の青年、ジョーダン・ゲイトスミスは、ラモーンズめいたメロディに載せて、言いたいこと言って、歌いたいことを歌っている。アルバムは最初から最後までほとんどダッシュ、ダッシュ。およそ40分弱、スピードを上げて走り抜ける。
マルコム・マクラレンはセックス・ピストルズについて「音楽が面白いのではなく、姿勢が面白いのだ」と言ったものだが、ロックンロールという1950年代のスタイルはジョニー・ロットンがそれに"醒める"ことで蘇らせ、蘇生したそれはいまのところ情熱と信心深さによって生き延びている。ザ・クラッシュをはじめ、日本のブルー・ハーツ、ストーン・ローゼズからザ・ストロークスないしはアークティック・モンキーズまでみんながみんな情熱と信心深さを忘れない。「スタイル」もさることながら「姿勢」が面白いバンドもいくつもあった。ジーザス&メリー・チェイン、ザ・スミス、ザ・タイマーズ、それからまあストーン・ローゼズのデビュー・アルバムにも特筆すべき「姿勢」があった。「姿勢」とはセックス・ピストルズが言ったように「物事は見かけとは違う」ことを暴くこと、なかなか言えない少数派の意見をビビらないで言ってしまうこと。
もう試そうとも思わない
俺はビビッているし、俺はシャイ過ぎる
"Beach Sluts"
『アメリカ・ギヴ・アップ』のオープニング・トラックは、そうした「姿勢」の歴史、その重みに対するアイロニーのようだ。その慎重な入り方は、ロックンロールを取り戻すためのひとつのうまい手口かもしれない。またしても『NME』が過剰に持ち上げ、欧米では賛否両論を起こしているものの、他人の目を気にせずにやりたいことをやるのがロックンロールだ。いいんじゃないのか。僕は心情的には肯定できる。XTCを彷彿させる"Back To The Grave"やラモーンズ調の"This One's Different"や"Wailing"など、曲作りには巧さがあり、ジョーダン・ゲイトスミスの声はジョーイ・ラモーンとエルヴィス・プレスリー(たまにルー・リード)を彷彿させるような、いわば魅力的な低めの「ロックンロール声」を有している。
「今夜俺を連れて行って......墓場に」と歌う"Back to the Grave"は、ロックのクリシェの冗談めいた書き換えだが、彼らの反抗心と楽しんでいる感覚が伝わる。「腐敗したカネと親父のかすかな不安/いますぐに逃げ出せ」――ロカビリー調の"アメリカ"も面白い。母国への失望を皮肉めいた言葉で、そしてプレスリーのような歌い方で歌っている。「まっとうなアメリカ人になりたい/だけどダーリン、もう終わっちゃったんだよ」――パロディじみた曲のなかには否定の意志が見え隠れする。
否定における誠実さとは、いずれは政治的になることから逃れられない。セックス・ピストルズやザ・スミスは言うにおよばず、ザ・タイマーズ、ザ・ストロークスにも"ニューヨーク・シティ・コップ"がある。『アメリカ・ギヴ・アップ』は、そのタイトルに反して必ずしも政治的なアルバムとは言えない。社会よりも女の子への関心に占められている(当たり前の話、それは悪いことではない)。それでもこのやけっぱちな感じは、アメリカの凋落とは決して無縁ではないだろう。
ラモーンズのようなポップ・センス(とくにコーラスは見事)、8ビートの疾走感と時折見せるロマンティックな高揚感。そして、最初から最後までダッシュの連続――そんなスピード狂のなかにあって"Too Much Blood"の気だるいメランコリーが耳に残る。
「窓も床板もない部屋に暮らしている/いきなり真っ暗になるベッドで寝ている/外で風が空襲警報みたいに悲鳴をあげているあいだ/街で君に会うためにやって来た」――ジョーダンは、意味のない戦争で傷つき、不況を生きる思春期の代弁者のように見える。「誰を信じたらいいのかわかったらいいのにな/(略)俺は新しい街を見つける、新しい都市を見つける/それでも外で風が空襲警報みたいに悲鳴をあげている」
そういえばブルース・スプリングスティーンの新作が話題になっているけれど、まあとにかくこれ以上世界中の人たちに迷惑をかけず、アメリカ(ないしはアメリカン・ドリーム)には終わって欲しい。〈ラフ・トレード〉のジェフ・トラヴィスほどの人物がこのバンドのどこに惚れたのか、本当のところを知りたい。
倉地久美夫は福岡出身のシンガー・ソングライターで、ホロウボディのエレキギター(もしくはアコースティック・ギターを改造してエレキにしたもの、なのかも)を弾きながら歌う男性だが、その音は、おそらくこの説明からあなたが思い浮かべるどんな音楽とも似ていない。「倉地久美夫トリオ」のメンバーとして彼と長年共演している菊地成孔は彼をキャプテン・ビーフハートに喩えたことがあるけれど、それも音楽スタイルが似ているということではなく、その唯一無二な個性の強さを指していたのだと思う。
2010年に制作された倉地のドキュメンタリー映画『庭にお願い』において、菊地は「天才だからしょうがない」と言い、高円寺の特殊レコード店・円盤(本作のリリース元)の田口店長は「誰から見てもヘンってことは、みんなにわかるってことじゃないですか。それはやっぱり大衆性だと思いますよ」と言っている。実際、倉地の音楽はすごくヘンだが、けっしてとっつきにくいものではない。凡庸な表現だが、「どこにもない国の民族音楽」みたいに聴くことのできる、不思議に美しい音楽だ。
かつて「詩のボクシング」で優勝を勝ち取ったその詩世界と、朗々と発されているのにけっして明るくはない(だからといって暗いというわけもない)歌声に注意がつい向きがちだが、ギターもそれに劣らぬ個性とテクニックを持っている。ライヴではひとり異なる重力空間にいるかのようにゆらゆらと揺れながら、改造したカポを複数ネックに設置することで生まれる独特の音階を駆使して美しい音色を奏でるのを目撃できるだろう。
本作はそんな彼の初めてのギター・インスト集である。1曲目の"太陽光パネル"おそらくは親指で低音弦を弾いてリズムをキープしつつ、ほかの指で高音弦を弾きメロディを奏でるというスタイルで演奏されており、繊細なメロディの反復によるサイケデリアは人によってはマーク・マッガイアあたりを思いおこさせるかもしれない。続くタイトル曲"逆さまの新幹線"と"中央公園"も同様に低音弦でリズムをキープしながらゆるやかに寄せては引き、時に小さな爆発のように密やかに弦をかき鳴らす。いずれも指のタッチが聞き手に伝わってくる生々しい録音だが、ライヴでの演奏でしばしば聴かれるちょっとゴツっとした低音の響きはあまりなく、終始"か細い"とすらいっていい。
B面に入ると"アクセスポイントと風景"という(それにしてもなんというタイトルだ)プリペアド・ギターっぽい曲からはじまり、それに続くのは唯一の歌入りのトラックである"蘇州夜曲"のカヴァーだ。ギターはこのアルバムの中で最も激しく、時には叩きつけるようにピッキングしている。そういえば先日ライヴを観に行った際には一曲目にいきなり小田和正の"ラブストーリーは突然に"をカヴァーしていたのだが、それが完全に倉地の、あの空間をぐにゃりと曲げてしまうような音楽に聞こえるものだから驚いたものだ。
最後は"夜霧の嬉野"という曲で、嬉野というのは佐賀県にある温泉町らしい。他の曲もそうなのだが、倉地は九州出身・在住であるにもかかわらず、なぜか私にはむしろ東北的に聞こえる。ひょっとしたらそれは私の祖先が北の出身だからなのだろうか。どこでもない土地への郷愁を誘う音楽は、聞き手に自身のルーツを思い起こさせるのかもしれない。
そうそう、いまさらっと「B面」と書いたけれど、本作はアナログ10インチのみのリリースである。CD版は作られていないし、ダウンロードコードもない。これはもちろんレーベル側の「意志」によるものだ。個人的には変則サイズのヴァイナル(7インチと12インチ以外のサイズ。10インチとか8インチとか)というのは偏愛の対象だったりするので嬉しい。盤自体は厚みのあるしっかりした作りである。やっぱ同じアナログでもペラペラなやつとブ厚いやつとではモノとしてのありがたみが違ってくるというものじゃないですか。これが昂じると、よりよい盤を求めて各国版を集めたりするようになるのかもしれない。ボール紙のジャケットには倉地自身によるどこかの駅前風景を描いた絵が貼られている。このパッケージングもまた、簡素ながら本作に更なる「ものとしての魅力」を添えていると思う。
とまあ長々と書いてきたけれども、さすがにこれは倉地久美夫の音楽に初めて触れようというリスナーに無条件にオススメできるものではない。CDなら先述の『庭にお願い』のサントラや、目下の最新作『スーパーちとせ』などがいいだろう。映画のほうはまだソフト化されてはいないが、最近でも時折上映される機会はあるようだ。ミニライヴがつくような企画も多い。彼のことがある意味ではよくわかるし、ある意味ではより謎が深まっていく、そんな映画だ。
この際だから、昨年リリースだけど『庭にお願い』サントラのことも簡単に紹介しておこう。内容的には2006年に3日間にわたって行われたライヴから選ばれたテイクが収録されており、サントラといいつつライヴアルバムと言っていい。菊地成孔・外山明とのトリオや山口優をゲストに迎えた演奏を収録。コンセプト・メーカー的な役割を担わない純然たるプレイヤーとしての菊地の演奏が聴ける意外と珍しい機会でもある。すばらしいんですよ、これが。
これもまた発売元は円盤だが、蛇腹式にたたまれた厚紙を開いていくと倉地自身によるものを含むさまざまなイラストが現れ、最後にゴムの留め具で留められたCD本体が現れるという凝った作りになっている。CDには「ものとしての魅力がない」とはよく言われることだけれど、実際は作り手の工夫でどうにでもなるものだったりするのである(昨年発売されたテニスコーツの作品も愛すべき作りでしたよね!)。
ウォール・ストーリートの公園を占拠し、暴走する金融システムにアンチを唱えたオキュパイ・ムーヴメントは「我々は99パーセントだ」というスローガンのもと世界中に広がった。ムーヴメントは若者中心なので「親と同じ裕福な生活ができない世代」の氾濫と分析する向きもある。たしかにそうかもしれない。親と同じモデルで生活しようとすると、おもに経済的理由から挫折、やがて何故か後ろめたくなりブルーになる。一方、職場では理不尽な雑務に追われ、理不尽な残業を強いられる。疲労感が抜けきらない。暗闇のなかを生きているような閉塞感。でもいまだ、この国で若者の怒りは大きな叫びになっていない。
黒人の文化/運動を研究する学者ロビン・D・G・ケリーは、アフロ・アメリカンが苦役のなかで夢に描き表現してきたことを論じた好著『フリーダム・ドリームス』で「夜は好機である」というセロニアス・モンクの言葉を引く。そして「つまり、それは欲望をさらけ出しそして充足させる時間であり、夢を見る時間であり、未知なるものの世界、幻覚である」と説く。暗闇のなかを生きる僕たちにとってこの希代のピアニストの発言は重要だ。むろん人種差別が横行した頃のハーレムと、いまの日本を比べるべきではない。けれど共感はできる。僕たちにとっても夜は好機であり、そこに賭けるしかない。しかも夜にジャズはよく似合う。ニューヨークでも、東京でも、またパリであっても同じことだ。ジャズが見せてくれる夢は、昼間の気怠さを追いやり、束の間の解放感を与えてくれる。
前置きが長くなってしまった。本書『だけど、誰がディジーのトランペットをひん曲げたんだ?』は音楽評論家、鈴木孝弥の新訳本だ。原書は24時間ジャズのみをプレイするパリのラジオ局テーエスエフ・ジャズの開局10周年を記念して刊行された。副題には「ジャズ・エピソード傑作選」とあるが少しページをめくっただけで、ともすれば愛好家の内輪ネタに回収されがちなこの手の挿話集とはちょっと違う趣きに気付く。どちらかといえば狂った夜の匂いがするのだ。
本書を絶賛した菊地成孔がTBSラジオ〈粋な夜電波〉で朗読した一節を紹介しよう。
登場人物はディジー・ギレスピー。時は公民権運動が高揚した1963年。運動の支持者だった彼はなんと合衆国の大統領選挙に名乗りでる。掲げる公約が秀逸だった。ヴェトナム戦争からの撤退と人種差別政策の撤廃。ここまでは判る。でもアフロ=アメリカンを宇宙に派遣すること、ホワイトハウスの名称を〈ブルーズ・ハウス〉に変更すること......なんてことが宣言されていて胸をくすぐる。まあ、もちろんユーモアなわけでデューク・エリントンを国務長官に、ルイ・アームストロングを農務長官に任命する、であったり、選挙のキャンペーン・ソングがヒット曲"Salt Peanuts"にのせて「政治はイカしてないとダメ/だから、スウィングする素晴らしい大統領を選ぼうよ/ディジーに投票を! ディジーに一票を!」だったりいちいち洒落ている。こんな逸話を知るとそのセンスに共鳴し、ジャズ史上の"ビー・バップの王様"という称号だけじゃないトランペット奏者の可笑しみに満ちた姿がイメージできる。
本書のジャズへのアプローチはこの一節からも判るように、熱狂的だったり過剰だったりする側面を切りとる。本書の一挿話、ビリー・ホリデイの代表曲"Strange Fruit"が、黒人へのリンチ(殺害し木に吊るす)への苦渋に溢れた哀歌だった、というエピソードが伝える漆黒の時代から、公民権運動が活発化する60年代までがメインに描かれる。ルイ・アームストロング、チャーリー・パーカー、チャールズ・ミンガス、エラ・フィッツジェラルド、そしてマイルズ・デイヴィスといった錚錚たる巨人たちが的を射抜くエピソードで描かれる。楽曲では知ることのできないキャラクターに迫る、全59遍のドラマ。
ハーレムのクラブ〈ミントンズ〉に関してはもはや説明不要かもしれない。ビー・バップが産声をあげた聖地としてジャズファンにとって知られた場所だ。かの地の伝説を物語る一節はこんな風にはじまる。
「ジャズの古典はニュー・オーリンズの空の下、"赤線"ゾーンの路上で生まれ、ホット・ジャズはシカゴの高級ホテルで、スウィングはニュー・ヨークのダンスホールで生まれた。そして、ある革新的な少人数の集団がモダン・ジャズを産み出したのは、紫煙の充満したハーレムのクラブの中である」
革新的な小集団―すなわちセロニアス・モンクやディジー・ギレスピー、そしてチャーリー・パーカーらビー・バップの先駆者たち。彼らに共通していたのは「踊らせること以外に何の"野望"も持たない白人のジャズを演ることに疲れていたことと、高度な演奏技術、ハーモニーやリズムを、より高次のものに磨き上げたいと考えていること」だった。〈ミントン大学〉ではマイルズ・デイヴィスやアート・ブレイキー、マックス・ローチらが基礎的な経験を積んだ。やがてモダン・ジャズの宇宙を形成し、世界中にその音と自在な実験精神が散らばっていく。
パリにビー・バップが到来したときの様子はこう描かれている。
「その初演目である2月20日の夜、この、譜面なしで演奏しては、大胆なハーモニーと途方もないリズム感でソロのパートに突進していく"異常"なミュージシャンたちの演奏を耳にするために、誰もが会場に押し寄せた。〈略〉アフロ=キューバン・リズムが混じり合ったビー・バップの革命が、目の前で進行していた」
この日を境にジャズはフランス文化の一部をなすようになったという。モンクの言葉を思いおこそう「夜は好機である」...夜は、夢見る時間であり、ゆえに常識を逸し、狂気へといたる時間だ。ロビン・D・G・ケリーはモンクの楽曲を「西洋的な思想の多くを破壊するような音楽を作り、作曲、ハーモニー、リズムの伝統的規則をひっくり返した」と論じている。パリの人びとはおそらく伝統的な西洋音楽に飽き飽きしていた。そしてビー・バップに熱狂し、ジャズを受容した。フランスではインプロヴィゼイションのことを「牛ろうぜ!」というらしい。コクトーが書いた笑劇バレエにその根拠があるという。本書ではこんなフレンチ・ジャズのエピソードもいくつか収められている。
ジャズは黒人がその辛い現実のなかで描く夢だったのだろう。ジャズが見た夢はニュー・ヨークから飛び火し、東京やパリ、そして世界中に恩寵のごとく降注いだ。日本語に訳されたパリのジャズ本である本書の存在が、このことを如実に物語っている。そして、クラシックやロックにも影響を与えている。マイルズ・デイヴィスとジミ・ヘンドリックスの果たされなかったレコーディングのことや、アート・テイタムに陶酔したクラシックのピアニスト、ホロヴィッツが数ヶ月かけ有名な"Tea for Two"を採譜しテイタムに聴かせた、というようなエピソードも本書のなかで収められている。そのパッションと自由の気配はひときわ感染力が強かった。
「親と同じ裕福な生活ができない世代」。僕たちはそんな諦念をただ生きるしかないのだろうか。でも、もちろん音楽がある。ジャズの歴史を紐解くとそんな当たり前のことに気付く。そこには個性的過ぎるプレーヤーがいて、幾多の物語がある。本書を読めば、暗がりを笑い飛ばし跳躍する勇気を、ちょっとだけ貰えたような気になる。
最初に出てきたのはオウガ・ユー・アスホール。およそ20分にもおよぶ"rope"のロング・ヴァージョンからはじまる。まったく素晴らしい演奏。反復の美学、どんどん進んでいく感覚、クラウス・ディンガーのモータリック・サウンドをアップデートしたドライヴ感、出戸学のギターはリズムを刻み、馬渕啓はじっくりと時間をかけながら熱量を上げていく。やがて出戸学もアクセルを踏む。もうこのままでいい。このままずっと演奏し続けて欲しい。魅惑的な疾走感。もう誰にも邪魔されないだろう。ところどころピンク・フロイドの"星空のドライヴ"のようだが、支離滅裂さを逆手にとって解放に向かう『homely』の突き抜けたポップが広がっている。
なかば冷笑的な佇まいは、心理的な拠り所を曖昧にして、オーディエンスを放り出したまま、黙々と演奏を続けている。それでもエモーショナルなヴォーカルとバンドの力強いビートが心を揺さぶる。そして、右も左も恐怖をもって人の気を引こうとしているこの時代、"作り物"の胸の高まりは前向きな注意力を喚起しているようだ。それにしても......こんなに気持ちよくていいのかと、そばでガン踊りしている下北ジェットセットの森本君の肩を叩く。が、彼はもうすでに手のつけられないほどトランスしている。
オウガ・ユー・アスホールは、昨年の秋、赤坂ブリッツでのワンマンを見て以来だった。あのときも書こうと思っていたのだが、諸事情が重なり書けなかった。ようやく書ける。間違いない。90年代なかばのボアダムス、90年代後半のフィッシュマンズ、00年代のゆらゆら帝国、この3つのバンドの領域にオウガ・ユー・アスホールは確実に接近している。要するに、誰がどう考えても、彼らこそいまこの国でもっともスリリングなライヴ演奏をしうるロック・バンドなのだ。
ちょうどライヴの翌日、彼らの新しい12インチ・シングル「dope」がリリースされている。"rope"のロング・ヴァージョンもそこで聴ける。同シングルのA-1は"フェンスのある家"の新ヴァージョンで、いわばキャプテン・ビーフハート的賑やかさ。語りは英語のナレーションに差し替えられ、管楽器によるジャズのフリーな演奏で飾り立てている。コーネリアス風のコーラスが不自然な入りかたをして、曲を異様なテンションへと導いている。


オウガ・ユー・アスホールが終わると、ステージの中央にはいかにも重たそうなベース・アンプが置かれ、やがてドライ&ヘビーが登場する。向かって左にはドラマーの七尾茂大がかまえ、そして秋本武士をはさんで反対側にはキーボードとして紅一点、JA ANNAがいる。彼女は4年前、ザ・スリッツのメンバーとしてライヴをこなしつつ、バンドの最後の作品となったアルバム『トラップド・アニマル』でも演奏している。なんとも運命的な組み合わせというか、ドライ&ヘビーの鍵盤担当としてはうってつけだと言える。
再活動したドライ&ヘビーは主に1970年代のジャマイカで生まれた曲をカヴァーしている。この日の1曲目はジャッキー・ミットゥーの"ドラム・ソング"だが、その音は『ブラックボード・ジャングル』のように響いている。最小の音数、最小のエフェクト、そして最大のうねり。ダブミキシングを担当するのはNUMB。そう、あのNUMBである(そして会場にはサイドラムもいた)。
演奏はさらにまた黙々と、そしてストイックに展開される。ブラック・ウフルの"シャイン・アイ・ギャル"~ホレス・アンディの"ドゥ・ユー・ラヴ・ミー"......。ドライ&ヘビーの魅力は、ジャマイカの音楽に刷り込まれた生命力、ハードネス/タフネスを自分たち日本人でもモノできるんだという信念にある。その強い気持ちが、ときに攻撃的なフィルインと地面をはいずるベースラインが織りなす力強いグルーヴを創出する。気安く近づいたら火傷しそうだが、しかしだからといってオーディエンスを遠ざける類のものでもない。ドライ&ヘビーは、アウトサイダー・ミュージックというコンセプトがいまでも有効であること、"フェイド・アウェイ"や"トレンチタウン・ロック"といった名曲がいまでも充分に新しいということを身をもって証明しているのだ。
僕は彼らと同じ時代に生きていることを嬉しく思う。


追記:まとめてしまえば、オウガ・ユー・アスホール=クラウトロック、ドライ&ヘビー=ダブというわけで、『メタルボックス』時代のPILのようなブッキングだった。
シャンガーンという音楽を初めて聴いたのはちょうど30年前。マルカム・マクラーレンのデビュー・アルバム『ダック・ロック』からそれは聴こえてきた。「ブロンクスもソウェトーも同じストリートだ」というのが南アの音楽を取り上げた理由だそうで、それはフライング・リザーズやトーキング・ヘッズといったニューウェイヴ・バンドがワールド・ミュージックに手を染めた時期ともほぼ重なっていた。その頃はそれがシャンガーンと呼ばれる音楽だとは知らなかった。
シャンガーンに再び巡り合ったのは元ベイシック・チャンネルのマーク・エルネストゥスが南アに渡り、『シャンガーン・エレクトロ』と題したコンピレイション・アルバムを企画したからで、ベースが入っていないのにエレクトロを名乗る同編集盤はとにかくBPMが早く、のんびりとした曲調で扱われていたマクラーレンのそれとはまったく趣が変わっていた(なので、同じ音楽だとは気がつかなかった)。
〈ファインダー・キーパーズ〉がタイやインド、〈サブライム・フルクエンシーズ〉が途上国全域の音楽を掘り起こし、最近では〈アタ・タック〉がアフガニスタンや沖縄の音楽に目をつけるなど、先進国以外の音楽がどこもかしこも掘りまくられているなか、長らくダブにかかわってきたエルネストゥスもコンゴの変り種であるコノノNo.1との共作がきっかけなのか(リミックスを手掛けただけなのか)、唐突にアフリカに向かい、モードセレクターやロボット・コッチがケニアとの交流を深めているのと同じく、いつの間にかシャンガーンを広める立場になっているように見える。同編集盤は、昨年、イギリスではかなりの評判を呼び、その結果なのか、こうしてリミックス盤までつくられることに(コノノNo.1やスタッフ・ベンダ・ビリリをヨーロッパに紹介したのも、80年代からワールド・ミュージックにアンテナを張っていた〈クラムド・ディスク〉のマーク・ホランダーだった)。
この企画はとにかくリミキサーの人選が素晴らしい。シャンガーンがまったく原型を留めていないのは残念だとも思えるけれど、現在のダンス・カルチャーから新人もビッグ・ネームも問わずにフロントラインばかりが集められたことで、そのままフロア・ミュージックの最新カタログといえるようなものになっているし、ダブステップやチルウェイブはもちろん、ジュークやドローンからもエントリーがあり、クリック・ハウスやデトロイト・テクノといったスタンダードとも見事に調和させた堂々の仕上がりである。全16曲(2CD)。
オープニングとクロージングはマーク・エルネストゥス。ソロではイェリ-イェリ・ウイズ・ンビアネ・ディアタ・セーとモロにアフリカン・ミュージックの制作もはじめているエルネストゥスがここではBBCのオリジナルをあっさりとダブ・テクノに変換しているだけ。ふわふわと宙を漂う感じが彼なりにアフリカン・イメージを反映させたものなのだろう。シングル・カットもされている。
同じくドイツからザ・ナイフのメンバーとして知られるオロフ・ドライヤーの変名、オニ・アイフンはエレクトロクラッシュがどこかでコジれたような避暑地の落語モード(なんとなくなく伝わらない笑いのこと)。スミスン・ハックからMMMもかなりオーソドックスな仕上がりで、テシュハ・ボーイズから疾走感だけを抜き出した印象か。この辺りからスリーヴとインナーでクレジットが異なっているために、どっちが正しいのか心許ないものの、スリーヴの表記に従えば、ペヴァーリストも同じくテシュハ・ボーイズをダブステップとエレクトロの折衷作として展開し、DJラシャド&スピンもまた(いじりやすいのか)テシュハ・ボーイズをアグレッシヴなジュークにリ-モデルさせている。これはマクラーレンのいう「ブロンクスもソウェトーも同じストリート」というやつだろう。ジュークとシャンガーンはBPMも踊り方も似ているし、妙な符号であることはたしか。混沌としたアクトレス、ダブ色の強いオールド・アッパレイタスとダブステップが続き、前半の締めはセオ・パリッシュがマンサンゲラーニを丁寧に料理。このリミックスがもっともシャンガーンの原型を留めたものになっている(阿波踊りみたいではあるけれど)。
後半はもっと実験的で、デムダイク・ステアは(ナース・ウイズ・ワウンドがマンボのペレス・プラードに捧げたような )ドロドロとしたアブストラクト調、デトロイト・ヴェテランのアンソニー・シェイカーはエルネストゥスと同じくBBCをダンサブルなミッド・ファンクに、ジャズ寄りのバーント・フリートマンまで借り出されてザンヤ・フルンガニをごちゃごちゃとしたアフロ・ファンクにしたかと思えば、ジュークの開祖だとされるRP・ブーはスタンダードなジューク、2回目の登場となるアクトレスはシンセ-ポップ風ダブステップとでも言えばいいのだろうか、これもある意味でシャンガーンの本質を上手く抜き出したようなリミックスを完成させている。さらにハイプ・ウイリアムスはレイジーなシンセ-ポップ、リカルド・ヴィラロボス&マックス・ローダバウアーはお望み通りのクリック・ファンクと続く(ラマダンマンのミックスCDにも使われていたティアイセラーニ・ヴォーマシはその後のシングル展開もよかったのに、誰も取り上げていないのはちと残念)。
アメリカではすでにディプロやM.I.A.はまったく人気がないそうで、先進国と途上国をダンスフロアで結びつけるという試みもオーヴァーグラウンドでは有効性を失いつつあるのかもしれない。OWSが主張する通り、戦争と金融危機を世界中に輸出して、返す刀で自分たちも傷ついてしまったアメリカ人は『ツリー・オブ・ライフ』や『マージン・コール』といった映画でも観ながらしんみりとするだけで、またしても内向きを決め込んでいるわけだから、それも仕方がないといえるだろう。ヨーロッパとアフリカがその間に音楽で絆を強めようという展開は、90年代にDJカルチャーがアメリカ抜きで進んでいた姿を再現しているようにも思えなくはない。これは終わりなんだろうか、はじまりなんだろうか。