「鈴木孝弥」と一致するもの

Equiknoxx - ele-king

 電子機材で制作されたデジタル・ダンスホールは、ジャマイカ音楽における分水嶺であり、ルーツ&カルチャーにとって困惑の源でもあった。その起点となった80年代半ばの“スレン・テン”と呼ばれるリディムには、〈ON-Uサウンド〉が継承したような、マッシヴ・アタックが流用したような、1970年代に磨かれたダビーなベースラインはない。
 しかしながらそれは、ルーツ&カルチャーでは聞かれなかった、耳障りが良いとは言えない言葉をも表に出した。音楽スタイルの更新とともに、たとえばガントークなる芸風も生れたのだが、まあ、ジャマイカのダンスホールとUSギャングスタ・ラップとの関係性については他に譲ろう。ここで重要なことは、ゲットー・リアリズムに深く起因するダンス・ミュージック──シカゴのハウスやジュークもそうだが、激烈な快楽主義と、ときにはいつ死んでもかまわないというニヒリズムさえ感じるダンス・ミュージックは、サウンド面で言えば、革命的なスタイルだったりする、ということである。
 ジュークがそうであるように、デジタル・ビートはひとつのコーラジュ・アートでもある。ブレイクビーツも、最初はNYのアフリカ系/ラテン系が経済的制約のなかで創出したコラージュだ。欧米化された社会に生きる自分たちが、「アフリカ(という自分たちの居場所)」をでっち上げる/創造する、いわばディアスポリックなパワー。それは、カルチュアラルな土着性をいかにミックスするのかということであり、「お高くとまった文化へのカウンター」となりえる。OPNがAFXになれない大きな要因もここにある。シカゴのゲットー・ハウスを一生懸命にプレイしたリチャード・D・ジェイムスの感性を、むしろ理論的に乗り越えようとしているのは、2017年にジェイリンの『ブラック・オリガミ』を出したマイケル・パラディナスだ。

 2017年にリリースされたベルリンのマーク・エルネストゥスによるイキノックスのリミックス12"も、街一番のレゲエ蒐集家として知られるこのベルリナーが自分のレーベルを通じて紹介してきたのはルーツ&カルチャーのジャマイカだったことを思えば、興味深い1枚だった。もっとも、ダンスホールとルーツという二分法もいまでは古くさく思えるほどレゲエは前進しているという事実は、鈴木孝弥氏の訳で出たばかりの『レゲエ・アンバサダーズ』(DU BOOKS)に詳しいので、早くぜんぶ読まなければと思っているのだが、それとは別のところで起きていること、言葉ではなくサウンドのメッセージ、音によってキングストンの外に開かれていくこと、つまりアンダーグラウンド大衆音楽で起きていること──イキノックスがデムダイク・ステアのレーベルからアルバムをリリースし、レイムがスティーリー&クリーヴィーあたりの曲をミックスしたカセットテープを作り、そしてまた2017年の暮れにもイキノックスがデムダイク・ステアのレーベルから2枚目となるアルバムを出すことは、あまりにも面白い展開なのだ。

 ギャビン・ブレアとヨルダン・チャンを中心としたキングストンのプロデューサー・チーム“イキノックス”は、複雑にプログラミングされたそのリディム、鳥の鳴き声、そしてユニークな音響効果によって、こともあろうかイングランドのゴシック/インダストリアル系実験派たちとコネクトした(深読みすれば、この現象自体がプロテストである)。本作『コロン・マン』は、前作『バード・サウンド・シャワー』による欧州での大絶賛を得てからのアルバム──。
 そして欧州経験の成果は、ダブステップ以降の寒々しい荒野にもリンクする1曲目の“Kareece Put Some Thread In A Zip Lock”からはっきりと聴ける。ベースラインはない。美しいストリングスや瞑想的な音響、あるいは動物の声(?)を支えるジューク&ダンスホールを調合/調整したビート、野性と知性を感じる彼らのビートは、この1年でかなり洗練されている……わけだが、20世紀の初頭にパナマ運河を掘るために駆り出された9万人のジャマイカ人労働者をアルバム・タイトルにしているくらいだから、最先端のこのリディムがジャマイカの歴史とリンクしていることを強く意識して制作したのだろう。
 『コロン・マン』は、ステロタイプ化されたゲットー・ミュージックではない。しかしイキノックスは、ジャマイカが大きな影響力を持つ音楽の実験場であることをよく心得ている。リリースは1か月ほど前だったが、ぼくが2017年12月に最後に買ったアナログ盤はこれだった。ストリーミングでも聴けるんだけど、とくにこういう音楽は“盤”で聴きたいよね。じゃ、2017年のエンディングはアルバムのなかでとりわけオプティミスティックな“Waterfalls In Ocho Rios”で。

R.I.P. Prince Buster - ele-king

 今年2016年は、紫のプリンスに続いて、ブルーのプリンスまで逝ってしまった。“キング・オヴ・ブルー・ビート”に即位するも、最後まで鯔背な若大将の風情で肩で風切り、(眉唾ものを含む)数々の伝説と武勇伝に彩られながら飄々と人生を闊歩した味のあるスーパー・スター、プリンス・バスターのことだ。
 “ブルー・ビート”は60年代にジャマイカ音楽をUKに紹介したレーベル名であり、そこからスカ、ロック・ステディの異名となったわけだが、そもそも今もってスカ自体が懐古趣味とは馴染まない現代的な音楽であり続けている以上、その筋の偉人の客観評価が常にコンテンポラリーな感覚で為されるのは当然である。しかし、それにも増してプリンス・バスターには、その音楽ジャンルの花形である以上の規格外の魅力があったのだ、人間的にも、音楽的にも。

 〈芸術的センス〉、〈ビジネスの才覚〉、〈肉体的な闘争力〉。人間の持ち得る特性として考えると、これらは往々にして相反しがちな要素だが、プリンス・バスターは、幼少期に音楽に魅入られてダンスや歌やパーカッションを始め、一方でボクサーとなり(確かそこで“プリンス”と呼ばれるようになったはずだ)、その後、商売敵からの物理的な攻撃を防ぐためのこわもての用心棒(&セレクター)としてサウンドシステムに雇われた。独り立ちして自身のサウンドシステムを経営し、シンガー、エンターテイナーとなり、他アーティストもプロデュースし、レーベル・オウナー、音源のセールスマン、レコード・シャックの経営者にもなった。こうした音楽的独創性、ビジネス・センス、腕っ節の強さ(実力行使)、ある種の覇権主義、マチズムがジャマイカの大衆音楽の、そしてその土台、サウンドシステムの文化において意味深い要素であることを思えば、プリンス・バスターこそその道の典型的なジャマイカン・ダンディーである。ましてや、そのまるでアカデミック的でない歌唱法、ときにスポークン・ワード的だったり、曲にスキットを演じ込んだりしながら歌唱とサウンドシステム由来のディージェイ芸が同居したパフォーマンスに着眼すれば、彼の中に現代的なダンスホール・ディージェイ文化の、ひいてはギャングスタ・ラップの源流のひとつさえ見て取れる。もちろんプリンスとギャングスターを一緒くた(笑)にしてはならないが、バスター自身、名曲“Al Capone”で「オレをスカーフェイス(“古臭いギャング”の隠喩だろう)と呼ぶな。オレの名前はカポーンだ」と歌った(語った)ように、要は見得と矜恃の漢伊達の美意識なのであり、その種のこだわり、自己主張自体が、人間の“ひとつの類型”を形成している。彼がのちの80年代末にUKのトロージャンズを従え、伝説の反逆の黒人アウトローを歌ったスタンダード・ナンバー“Stack O' Lee (a.k.a. Stagger Lee)”を吹き込んでいることを思い出す人もいるだろう。あの曲が見事に似合ってしまうこと、まさにそれが、彼が誰なのかを実に雄弁に物語るのだ。
 同時に、列強にしてやられた“弱小国”ジャマイカの、特に男性市民がギャングスター映画や勧善懲悪のスパゲティ・ウェスタンを熱烈に愛した事実があるが、その、漢気溢れるタフな強者に対する彼らの抱く信仰めいた憧れ、プリンスはその姿を地で行ったという見方もできるだろう。彼が歌った“Hard Man Fe Dead !/タフマンは死なねえ!”というヤツだ(ジャメイカンがウェスタンに熱狂する様子が映画『ザ・ハーダー・ゼイ・カム』のいちシーンで描かれていたし、ちなみに同映画にはバスターも印象的な出演をしていた)。
 ついでに言えば、とりわけ前掲の“Al Capone”で炸裂するバスターお得意のパーカッション的スキャット、いわゆる“口チュク”をヒューマン・ビート・ボックスの一種の原始形と見たってあながち暴論ではないだろう。素直に戦後ポピュラー音楽史を俯瞰するとき、この輝けるスターが身に受けるべきものが、〈スカの偉人であり創始者のひとり〉という“偉大なるレッテル”1枚では明らかに不充分なのだ。ぼくの目には、現代的なストリート・ミュージックのひとつの潮流の最上位の一角に、この青のプリンスが屹立している。
 そもそもプリンス・バスターという名前からしてすこぶるチャーミングではないか。本名セシル・バスタマンテ・キャンベル。親が労働組合叩き上げの名政治家バスタマンテ(Bustamente)の名前をミドル・ネイムとして与え、〈Buster〉はその省略形と解することもできる一方で、“プリンス”の気品と、それと相反する“バスター(破壊者)”の粗暴性とが同居した名前でもあるわけだ。この“気高さ”と“粗暴さ”のコントラストこそが彼だ。それを許容するだけの懐の深さ、伝統的な音楽の美点を受け止めながら因習を破壊した革新性。
 この勇ましい“バスター”キャラは、数々のナンバーで率直に見て取れる。友人コクソン・ドッドのサウンドシステムの用心棒に雇われたくせに、それでも自分が独立して競争関係になると“Downbeat Burial(コクソン・ドッドのサウンド〈ダウンビート〉を埋葬してやる)”というようなマカロニ・ウェスタンのタイトルさながらの曲を出し(いわゆる“サウンド・クラッシュ”のはしりだ)、あるいは華僑プロデューサーのレスリー・コングを標的に“Blackhead Chineman”を書くなど、ライヴァルをキツくやりこめた。そもそも自身のサウンドシステム名に〈Voice of the People〉と名付けたり、レコードのジャケットに踊る〈Jamaica’s Pride〉とか〈National Ska〉といった文句もいちいち言葉が大きい。
 こうしたオレ様気質のビッグ・マウスは、現在まで続くある種の型のマイク芸のプロトタイプであり、それは“Judge Dread”で自身が悪を断罪する裁判官に扮するまでに至るのだが、その背景には、彼流の一貫した正義感を感じ取ることができる。モハメド・アリとの親交も知られるバスターだが、バプティストの家庭に生まれるも、アフリカ黒人の矜恃、その文化の独創性を主張するスタンスからネイション・オヴ・イスラム~ブラック・ムスリム・ムーヴメントに同調してイスラムに改宗し、セシル・キャンベルから〈モハメド・ユセフ・アリ〉となった。これはジャマイカにおける、アフリカンとしての尊厳を第一義に掲げるネグリチュード運動の流れとしては、音楽がラスタファリアニズムと緊密に結びついてゆく時代に一歩先んじていた(それに、クリスチャンのジミー・クリフがイスラムに改宗する10年以上も前の話である)。いくつか存在したバスターの運営レーベルの中には、少しあとにスバリ〈Islam〉という名のレーベルも登場するし同名の曲もあったが、少なくとも60年代前半から、単なるサウンド・クラッシュやヒット・チューン競争、あるいは62年の独立を経て沸き立つナショナリズムとは次元の違う思想、世界観を自身の音楽活動に投影していたわけである。しかしラスタがそうであったように、ブラック・モスレムとしてのバスターもジャマイカ政府から危険人物視され、何度も家宅捜索を受けてはイスラムの文献を没収されるという厳しい迫害に遭ったというが、それで信仰を捨てることはなく、権力の不当に屈しなかった。世界には、その彼のモスレム・ミュージシャンとしての生き様をリスペクトしているフォロワーも多いことだろう。
 しかしながら、その一方で、あからさまな下ネタでも人気を取ろうという芸人根性も隠さなかったのがバスターの一層味わい深いところだ。けしからん箇所に“ピー”音をかぶせないとレコードを発売できないような類いの露骨にナスティーな、いわゆるスラックネス・チューンの歴史にもプリンスはその名を残している。とにかく、あらゆる点で先駆的な人だったのだ。

 1989年は、日本のスカ・ファンにとって約30年分の盆と正月が一気に訪れたような大事件が起きた年だ。ぼくはちょうどその年、ひょんなことからタワー渋谷店に入社し、5年半ほどお世話になることになった(タワーレコード株式会社のことだ。まだ誰ひとり“タワレコ”などと略したりしなかった四半世紀以上前、渋谷店は井の頭通り沿い、東急ハンズの少し先の左手にあった)。ひょんなこと、というのも、アルバイト希望で応募したのに、面接に行ってみると、「嫌だったらいつでもバイトにしてあげるから社員にならない? 福利厚生もしっかりしてるよ」と説得され、つい出来心で入社してしまったのだ(バブル時代とはそういうものだった)。
 それで大事件の話だが、同社に対して、それじゃ社員になります、という返事をしたのとほぼ同時期に、スカタライツの初来日公演、フィーチャリング:プリンス・バスターというとんでもない興行が発表されていたのだ。日程は同年の4月29、30日の土日、会場は汐留PIT2(新橋駅から海側へ当時の殺伐たる空間をしばらく歩いた先、旧国鉄汐留駅跡地に期間限定で作られた大きなテント型のライヴ会場。現汐留シオサイトの一角)だった。
 しかし痛恨の極み。入社したばかりで土日に休みなど取れず、さらに両日遅番だったせいで、ぼくはその大事件を東京にいながらただの一瞬も目撃できなかった。社員なんかになったことを早々に後悔したものだ。その6月に発売された『レゲエ・マガジン』11号グラビアの菊地昇さんによる同公演の写真とか、同号の、気に障る質問でもして怒らせたら大変だということで荏開津広さんが来日時のプリンス・バスターにおそるおそる丁寧な質問を重ねていく素晴らしいインタヴュー記事なんかも、ショウをミスしたのがとにかく悔しくて、しばらくの間は直視できなかった。
 しかしながら、人生、ひどく残念なことが起きたあとには、そのうち、それを埋め合わせて余りあるうれしいことが必ず起きるものだ。
 同じ年の12月、早番で出勤し、開店した朝10時過ぎから、入荷した商品を良く晴れた朝日が差し込む3階の売場に並べていたときのことだ。「ヘイ! ちょっとこっちへ来てくれ」と言いながら目の前に突然現れた全身黒づくめの男、それはプリンス・バスター、その人だった。4月に見逃して悔やんでも悔やみ切れなかったその人が、向こうからやって来て、ぼくの目を見て話しかけているのである。彼は窓際のコーナーにぼくを連れていき、ある場所で立ち止まった。黒いベレー帽、プラチナか金色だったかのフレイムの眼鏡をかけ、黒の革ブルゾン、革パンツ、磨かれたサイドゴア・ブーツ。こんな恰好が似合うのはその世界ではトゥーツ・ヒバートとプリンス・バスターだけだが、プリンスのほうが着こなしの品格は上だ。陽射しを反射する眼鏡の奥の眼差しが鋭い。顔の下半分を覆う、丁寧に整えられた黒々としたヒゲ。唇を動かすと、前歯のメタルの縁取り、いわゆる〈開面金冠〉が光り、それだけで凄い迫力だ。向き合っていると、その只者ではないオーラが熱い。実際只者ではないのだから、本当は驚くにはあたらないはずなのだが。
 どうしてプリンスが日本にいたのかといえば、4月のスカタライツ公演のフロント・アクトを務めたスカ・フレイムスを絶賛したプリンスが、今度は彼らをバックにして日本で歌いたいと希望し、それがスピーディーに実現したのだった。その再来日公演の様子を交え、前掲の荏開津さんのインタヴューを踏まえながら、プリンス・バスターの功績と人となりをおそらく日本で最初にまとめた名テクストが、山名昇さんの(初版は91年『レゲエ・マガジン』別冊として刊行された)『Blue Beat Bop !』にスカ・フレイムスの宮崎研二さんが寄稿した「Prince Buster Is Staggerlee(バスター親分、登場だ)」だった。しかし、そのバスターの思慮深い、優れた人格者たる人柄が伝わる宮崎さんのテクストは当然ながらその時点でまだ書かれておらず、ぼくはとにかく恐くて凄い人、という単純なイメージしか持ち合わせないまま、ビビりながら親分の出現を受け止めるほかなかったのである。
 井の頭通りに面した北側の窓際にぼくを誘導した彼は、1枚のリーダーカードを指で弾いて言った――「Mongo Santamaria のCDはないのか?」。そのコーナーはその日、見事に空っぽで、プリンスは明らかに不満げな面持ちだった。ぼくは、少々お待ち下さい、と言い、足下のストックもゼロなのを認め、最新の入荷品の中にあるかどうかをバック・ルームに確認に行った。実際入荷していないだろうという予測は付いていたのだが、お客さまの名前を呼びかけて丁重に詫びるにせよ、そもそも“Prince”の前に、“Sir”はやり過ぎとしても、“Mr.”という敬称が必要なのかどうかから考える時間が必要だったのだ。想像して欲しい、“Prince”を名乗る人から、心の準備もないまま突然声をかけられる機会が、一般日本人の一生で、普通一度でもあるだろうか。落とすよりも付いている方が少なくともリスクは少ないだろうと考え、すみません、ミスター・プリンス・バスター、あいにくモンゴ・サンタマリアは現在1枚も在庫がなく、バック・オーダーも本日は入荷していないのです、と謝った(タワーの従業員は、その程度の英語での接客ができなければ仕事にならなかった)。
 するとプリンスは、「オレのことを知ってるのか?」と言い、予想外の、写真で見たこともない人懐こい表情で破顔した。そして、「今、モンゴ・サンタマリア(というのが素敵ではないか!)をCDで集めてるから探しに来てみたんだが」と言った。あとで思えば、きっと宮崎さんか、スカ・フレイムスの他の誰かが彼にタワーレコードの場所を教えたのだろう。ラテンのすぐ向かい側がスカ/レゲエ・コーナーだったが、幸いプリンスのアルバムは全く淋しくない程度に在庫があった。そこで調子に乗ったぼくは、「あなたの昔のアルバム、最近UKでリイシューが進んでますね」というようなレコード屋トークで水を向けると、快くいろいろな話を聞かせてくれたのだった。
 なんだかんだ15分くらいは話をしただろうか。結局、わざわざ向こうから来てくれたプリンスは、レコード屋の小汚い“なり”をした若造に貴重な話を聞かせてやり、サインもせがまれた上に、そいつと固く握手をし、所望のCDを買えなかったのに「サンキュー!」を言って帰っていった。あれ以降、モンゴ・サンタマリアを聴くたびに、「この曲の入ってるCD、どっかで買えたかな」と、プリンスを必ず思い浮かべる習慣になった。そしてそれはいまだに続いている。
 ぼくは、今よりずっとロマンティストだった若い時分、しばらくこの出来事を、まだ有給休暇がなかった悲しき正社員のもとに、その年の12月にサンタクロースが届けてくれたプレゼントのように考えては、その解釈を気に入ってひとり悦に入っていた。が、あるとき自分の不見識に愕然とするのだ――敬虔なイスラム教徒をサンタクロースになぞらえていたとは! と。でも、またしてもすぐに調子よく思い直したのだった――“サンタマリア(聖母マリア)”の愛好家の寛大なるプリンスは、そんなことで気を悪くしたりしないだろうと。
 それがぼくの、この宝物の話のオチなのだが、こんな悪くない自慢話を書く機会がこれまで一度もなかった。これがプリンスの追悼文でなかったら、書いていてもっと心楽しいのだが。

2016年10月 鈴木孝弥


パオロ・パリージ 著
アサコ・イシハラ 訳
コルトレーン

ele-king books

ComicJazz

Amazon

 2009年にイタリアで発表され、現在では、英、米、仏、デンマーク、ブラジル、アルゼンチンと計7カ国で翻訳版が出版されているスピリチュアル・ジャズ・コミック『コルトレーン』。今年2016年は、ele-king booksでも日本版をつくらせてもらうことになり、きっとすでにお買い上げくださった方もいらっしゃることと思います。ありがとうございます。

 誰もが知るジャズの巨人コルトレーンの、少年時代、軍隊時代、薬物依存、政治活動、そして恋愛と数々の伝説的レコーディングや時代背景にせまるこの評伝コミックの刊行を記念し、大谷能生さんと菊地成孔さんにご対談をいただくことができました。トークの模様はSPACE SHOWER NEWS「菊地成孔×大谷能生 ジョン・コルトレーンを語る」にて放送、このテキストはその全文を収めたものになります。日本人が漠然と抱いているコルトレーン像の虚実を切り分け、その全仕事へと誘われる、いつもながらに読みやめられないお話です。

 まだまだ大型書店さんでは平積みでご展開くださっているので、音楽書コーナーへお立ち寄りの際は、ぜひページをめくってみてください。

いまはグラスパー以降の時代が続いているわけだけど、それに先行するクラブジャズやサン・ラ再評価と連結して、クラバーはやっぱり、カマシ・ワシントンのようなピースフルなものが好きなんだってことがわかったでしょ? それで、その大元がコルトレーン。(菊地)

菊地成孔(以下、菊地):こういうものが出まして……パオロ・パリージ著『コルトレーン』。簡単に言えば、コルトレーンの伝記をイタリア人の若手、といっても30代ですが、イラストレーターが漫画化したものです。昔だったら『スイングジャーナル』(スイングジャーナル社)が出していたんじゃないかというところですが、時代は変わりましたね(笑)。

大谷能生(以下、大谷):意外と英訳もされているし、世界各国で出ている模様です。

菊地:鈴木孝弥さんが訳した、『だけど、誰がディジーのトランペットをひん曲げたんだ?』(2011年、うから)しかり、ジャズ本はスマッシュヒットするからね。で、この日本語版の解説を大谷君が書いているということもあり、これをネタにコルトレーンの話をするということですが、この『コルトレーン』はどうでしたか?

大谷:イタリア人の方が書いていますが、いわゆる定番の話です。要するにコルトレーンはジャズの殉教者(セイント)であると。そして非常に苦労して自分の技術を作っていったという話なわけですよね。それが時代にぴったりきているということも含めて驚きはなかったんですけど、丁寧には描かれているなと思いました。

菊地:そうだよね。いまは悪い時期じゃないというかね。世界的にね。

大谷:政治的にもそうだし。

菊地:それもあるし、いまはグラスパー以降の時代が続いているわけで、彼だけ見ちゃうと現在のジャズがR&Bとヒップホップに吸収されているように感じがちなんだけど、それに先行するクラブジャズやサン・ラ再評価と連結して、クラバーはやっぱり、カマシ・ワシントンのようなピースフルなものが好きなんだってことがわかったでしょ? それで、その大元がコルトレーン。

大谷:スピリチュアル・ジャズだよね。それはそうなんだけど、『ライヴ・イン・ジャパン』なんかCD4枚組なわけですよ。もともとはLPで分散していて、何枚あったかわかんないくらいなものだったわけで(笑)。迫力が違うっていうか、開けたら「マイ・フェイヴァリット・シングス」とだけ書いてあるっていう(笑)。この前の「文藝別冊」のコルトレーン特集(2012年2月)で、菊地さんは亡くなられた相倉久人さんと対談していますね。僕は違うところで、要するに「リキッドルームの夜だと思って聴くといいんだ」という話をしていたんですよ。産経ホールだと勘違いしちゃうんだけど、リキッドだと思えば、ジミー・ギャリソンのベース・ソロが途中で40分くらい挟まっても、あれはチルの時間であると。そのときは飲み物を買いに行けばいいんだっていう話になりましたが(笑)。

これを読んでいて思ったのが、俺が思っているコルトレーンの受容のされ方と同じだなと。イタリアでもそうなのかって思ったわけ。要するに自伝とかインタヴューとかの読み物を読むと全世界的にこうなるのかなと。(大谷)

コルトレーンって65歳くらいまで音楽を探求していたんじゃないかと漠然と思われているじゃない? 40歳で早死にしたとはあまり思われていないんじゃないかと。(菊地)

菊地:この間、慶応で簡単なジャズの話をする機会があって、そのときに一応作ってみたんだけど……。

マイルス
65年の生涯で現役は21歳から44年間(中央にカインド・オヴ・ブルー)

パーカー
34年の生涯で現役は21歳ぐらいから13年間

バド・パウエル
41年の生涯で現役は大体18歳ぐらいから26年間

コルトレーン
40年間の生涯で現役は20歳から21年間

ミンガス
58年間の生涯で現役は21歳から33年間

モンク
64年間の生涯で現役は25歳から30年間(晩年10年は無活動)

ギレスピー
75年の生涯で現役は18歳から57年間

マックス・ローチ
83歳の生涯で現役は20ぐらいから約60年

ロリンズ
現在86歳で存命 現役は19歳から67年目に

オーネット
85年の生涯で現役は20ぐらいから65年間

エリック・ドルフィー
36年の生涯で現役は15年間

アイラー
34年の生涯で現役は26歳から8年間

セシル・テーラー
現在87歳で存命 現役は27歳から60年目にサッチモ
69年の生涯で現役は19歳から47年間

エリントン
75年の生涯で現役は17歳から58年間


大谷:これだけで俺らならずいぶんと喋れますね(笑)。

菊地:あとでネットに上げますね(笑)。いわゆる「コルトレーン昭和」って聴き方があるじゃないですか? 「コルトレーン/昭和/ジャズ喫茶/念仏」という聴き方をするひとが、はたしてコルトレーンが40歳という若さで亡くなっているというイメージを持っているのかどうかって考えちゃうの。

大谷:40ってけっこう若いよね。

菊地:若いんだよ。パーカーが早死にしたのは、ジミヘンとか、後のロック・スターが亡くなるのに似てるんだけど。

大谷:モーツァルトとかキリストとかにも似てるね(笑)。だいたい36歳。

菊地:パーカーや、あとバド・パウエルみたいに頭が割れちゃって病気になったひとは別としてね(笑)。あるいは、ソニー・ロリンズというひとはいまだに現役だからね。そういうなかで、コルトレーンって65歳くらいまで音楽を探求していたんじゃないかと漠然と思われているじゃない? 40歳で早死にしたとはあまり思われていないんじゃないかと。まぁ、イメージは大切なんだけれども。

大谷:著者の住むイタリアでどう思われているのかも気になるよね。イタリアにはライヴハウスはあるけど、ジャズ喫茶がたぶんないわけ。だからこのパオロさんがどういう教育を受けてこれを書いたのか、多少気になるところだよね。おそらくジャズ喫茶でレコードを聴いていたわけじゃないじゃん?

菊地:ただYouTube時代ではあるからね。もちろんヴァイナルで聴いているだろうけど。クラブジャズくらいからはじまって、ロバート・グラスパー以降、日本では“今ジャズ”とも言われたりするニュー・チャプターが出てきた。その流れでジャズをレジェンダリーなものから聴くとなったときに、サッチモからってことにはならないんで(笑)。

大谷:瀬川昌久さんはそれをやろうとして、サッチモの音源を自分でまとめたやつを4枚出しているけどね(笑)。あれがまたすごくて。

菊地:パーカーのダイレクトな大元はルイ・アームストロングなんだっていう仮説ね。わたくしはこの間、サッチモが出ている映画を見ながら瀬川さんと対談しましたね。

大谷:その流れをコルトレーンからはじめるとして、これを読んでいて思ったのが、俺が思っているコルトレーンの受容のされ方と同じだなと。イタリアでもそうなのかって思ったわけ。要するに自伝とかインタヴューとかの読み物を読むと全世界的にこうなるのかなと。

菊地:俺たちの世代だとコルトレーンの伝記はJ・Cトーマスの『コルトレーンの生涯』一冊で決まりだったけど、もう少し精緻なものが出てきた。この本はそれに負っているとあとがきには書いてあるよね。伝記の第一接触というのは、大谷君が言っているようにロマンティックでカリカチュアされている。

大谷:ほとんどベートーベンとかといっしょなわけだからね。「そして、死」みたいなさ。

菊地:「雷鳴に拳を突き上げる」とかね(笑)。

大谷:降りてきたら「第九」ができていたみたいな、やはりそういうノリなのかなイタリア人はと。でも俺らが書いてもこうなるかもね。

極端にいうと、アフリカ世界、アジア世界、インド世界というような大陸との繋がりを、アメリカ国内の有色人種が掴まえていこうとする流れのなかにいたのがコルトレーンなんですよ。(大谷)

菊地:マイルスは65歳で亡くなったから比較的長く生きたと思うんだけど、コルトレーンもマイルスもジャンキー経験者でしょう? それでどっちも肝臓を壊すわけ。マイルスは持病で糖尿病だったけど、コルトレーンは肝臓ガンで41歳で亡くなる。生物学的、医学的にいうと、人生で一度ジャンキーを経験すると長生きできないんじゃないかというか。ソニー・ロリンズは例外だけどさ(笑)。ひとを死に至らしめる力は複合的であり、決定論的じゃないから証明できないんだけど、思うことがある。コルトレーンはラヴィ・シャンカールと4、5年文通して、精神世界にものすごく傾倒したけど、自分のグループをラヴィ・シャンカールに聴かせたらダメ出しされて心が折れたのも関係しているんじゃないかと。この漫画にも書いてあるけど、そのあとコルトレーンはオラトゥンジのアフリカ・センターに献金する。

大谷:感覚的にインドもアフリカも同じと思っちゃうくらい、宗教的で、アメリカじゃなきゃなんでもいいみたいな、イメージの「第3世界」のほうへいっちゃうわけですよね。シャンカールとオラトゥンジはぜんぜん関係ないじゃないですか? そういう大雑把なところがコルトレーンにはあるんだよね。

菊地:うちらが書いた『M/D』(『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究』2008年、エスクァイア マガジン ジャパン)を読み返してみると、……って言ってもみんな細部まで読んでくれないんだけど(笑)。

大谷:読みたいところにたどり着かないまま、迷宮に迷い込んで帰ってこれなくなる本なんで(笑)。

菊地:あれに書いたのが、コルトレーンの音楽には、中東ならびにアフリカ音楽の要素が『カインド・オブ・ブルー』のときからあったんだけど、インドへの傾倒という逸れ方をするってことなんだよね。アフリカとインドの音楽はだいぶ違うから無理がたたり、かつメンターにあたるラヴィ・シャンカールに厳しくダメだしされた。それから『コルレーン』にもあるように、最初の奥さんのナイーマさんとの子どもができず離婚して、のちに精神世界へコルトレーンを引っ張ることになったアリス・マクロードと再婚するわけだ。あと、この本にもちょっと触れられているんだけど、コルトレーンが亡くなる時期っていうのは、ブラック・パンサーとかが出てきたときで、ブラック・パンサーはアフロ・アメリカンなんだけどムスリムなんだよね。

大谷:マルコムXがネーション・オブ・イスラムを抜けて、1965年に暗殺されちゃうじゃないですか? ブラック・パンサーはそこから先の話なんですよね。そのあたりにテロ組織であるとか、白人のほうではウエザーマンが出てきたりという時期と重なっているという。しかも極端にいうと、アフリカ世界、アジア世界、インド世界というような大陸との繋がりを、アメリカ国内の有色人種が掴まえていこうとする流れのなかにいたのがコルトレーンなんですよ。

菊地:この本はさっき言ったようなコルトレーン聴きのひとたちが扱わないようなところにも着目してる。コルトレーンの晩年っていうのは公民権運動の嵐が吹いている時代であると同時に、ボサノヴァとビートルズっていう楽しいものがさ、音楽のマーケットを改革していった時期でもあるわけ。そのタイミングで後者の動きとコルトレーンを比べたときに、パブリック・イメージとしてはどっちかというと公民権運動のほうに近い。“アラバマ”って曲も出しているしね。

大谷:“ブラジル”って曲も出しているけどね(笑)。

菊地:うん。コルトレーンはね、最後はしっちゃかめっちゃかなんですよ(笑)。混乱のなかで死んだんだよね。

コルトレーンはね、最後はしっちゃかめっちゃかなんですよ。混乱のなかで死んだんだよね。(菊地)

大谷:アフリカとインドは混ぜると危険なんだっていう(笑)。音楽的にも相反するし、おそらく政治的にも混ぜちゃダメ。宗教的にもダメ。日本と朝鮮と中国を混ぜるくらいの危険度があるわけ。そのくらいインドとアフリカの相性は危険なのに、そのふたつを混ぜた音楽をアメリカの黒人がやっちゃったら混乱するよね。

菊地:ただそういう混乱があってもファミリー・プロットは大切で、奥さんとの離結婚が後を引いたり、ヴェトナム戦争に心を痛めたり。コルトレーンはナイーヴなひとだからね。ただ、それだけじゃひとは死なないだろうと。そこで最後にコルトレーンに覆いかぶさってきたのがラヴィ・シャンカールのダメ出し。

大谷:シャンカール、悪いやつだね。ジャズ界的には抹殺したいですね(笑)。

菊地:ラヴィ・シャンカールは悪人認定で問題無いと思う(笑)。

大谷:「セックスはいいぞ」とか言ってるんでしょう(笑)?

菊地:そうそう。でもラヴィ・シャンカールがコルトレーンに言った「音楽はこんなに苦しそうなものじゃない」っていう言葉は正しい(笑)。

大谷:「お前は混乱しているんだ」。ホント、その通りだっていう感じだよね(笑)。それで、結果的に混乱の最初の一歩になったのが“マイ・フェイヴァリット・シングス”だってのが私の見立てで。あれって要するに、もともとは『サウンド・オブ・ミュージック』じゃん? あの作品っていうのは、アメリカ人が作ったミュージカルで、ナチス直前のオーストリア付近が舞台の話じゃないですか? アメリカ人が作ったヨーロッパの話で、その時点でファンタジーなんだけど、“エーデルワイス”も“マイ・フェイヴァリット・シングス”もユダヤ系のリチャード・ロジャースが作っている。彼は軽くエキゾ入った歌曲作る天才で、非アメリカを舞台にした『南太平洋』とか『王様と私』とかの音楽も彼の筆で。そんなユダヤ人がニューヨークでミュージカル用に、勝手にウィーンの民謡みたいなものを作るわけ。で、それをコルトレーンがアフロでやる。この段階でかなりおかしいよね。ところがそれが音楽的にすごく成功しちゃうわけじゃないですか? リズムを6/8にして、ウィンナー・ワルツをアフロでやる。しかもそれが晩年まで使われる(笑)。この段階で文化的なポリってものすごいことになっているんだけど。

結果的に混乱の最初の一歩になったのが“マイ・フェイヴァリット・シングス”だと思うわけ。『サウンド・オブ・ミュージック』の文化的なポリってものすごいことになっているんだけど。(大谷)

菊地:さらに言えば、可愛く作られた童謡みたいなマイナーな曲を、Dドリアン一発でやってしまうというね。

大谷:それで成功しちゃって勘違いしちゃったんじゃないかと思うんですよね。実はいろいろ混ぜれるんじゃないかと(笑)。コルトレーンはアフロは出来てるんですよね。“グリーンスリーヴス”とかもアフロ解釈でやれてるし。

菊地:それから“チム・チム・チェリー”もやる。

大谷:『ザ・クラシック・カルテット』の箱を見ると、“グリーンスリーヴス”があって“トゥンジ”って曲があって、“ナンシー”ってスタンダードがあって、もう何がなんだかですよね。“アラバマ”はあるは、“ネイチャー・ボーイ”はあるはっていうね。そして“チム・チム・チェリー”がきて(笑)、“ディア・ロード”があって“ブラジル”もある。全部カルテットでアンサンブルが同じだから気がつかないけど、めちゃくちゃですよね。“ブラジル”から“サン・シップ”まで(笑)。だからラヴィ・シャンカールも「なんだ!」と思うかもしれないですよね。

菊地:ラヴィ・シャンカールが聴いたのは、もっと後期の、演奏がフリーキーなやつだけどね。この本ではラヴィ・シャンカールはひとコマ、レコードが出てくるだけで、彼のことはバッサリ切っているというか。その代わりに、コルトレーンものとしては、マルコムXの演説や、ブラック・パンサーが登場したことに触れているところが特徴。それは精神世界や政治も混ざっているという、60年代の良いところでもあり、悪いところでもあるんだけど。まぁ、ミュージシャンなので宗教的にも政治的にも適当なんだというか。「適当」という言葉が悪いのならば、ファンタジックなんだよね。

コルトレーンものとしては、マルコムXの演説や、ブラック・パンサーが登場したことに触れているところが特徴。それは精神世界や政治も混ざっているという、60年代の良いところでもあり、悪いところでもあるんだけど。(菊地)

大谷:コルトレーンはとくにそうですよね。ファンタジーとしての宗教だし、ファンタジーとしての政治だし。これがマックス・ローチになるとガチでいきますからね。

菊地:政治にも宗教にもガチになったミュージシャンもいる。でも、どんな音楽も宗教的であり、政治的でもあるわけなので、あえて音楽が政治だ、宗教だということを言わなくても、チャーリー・パーカーのようにふざけた曲をふざけた態度で演奏したとしても政治性や宗教性は入ってくる(笑)。逆に言うと、音楽はそのふたつからは逃れられない。なのに「本来は娯楽である音楽を宗教と政治に結びつけたひと」というイメージが固まりつつあるんだよね。コルトレーンだけじゃないんだけど、どんなつまんないミュージシャンでも、……と言ったあとに名前を出すのは悪いんだけど(笑)、たとえばいきものがかりみたいな音楽ですら政治と宗教は入っているわけ。

大谷:男性ふたり女性ひとりってだけで政治的だね。

菊地:いや、ホントそう。

大谷:だいたい途中で男と女のデュオになるじゃないですか? ドリカムしかり。

菊地:それで必ず第三項が入るっていうね。

1961年の『アフリカ/ブラス』ってタイトル、カッコよくないですか? (大谷)
カッコいい。(菊地)

大谷:まったく問題ない! ……で、コルトレーンはこんな状態で“アフリカ”って曲を作っちゃうわけだからさ。1961年の『アフリカ/ブラス』ってタイトル、カッコよくないですか? 

菊地:カッコいい。『至上の愛』ってちょっとベタだけど、それに対して、『アフリカ/ブラス』ってさ……

大谷:そのふたつを並べるの!? っていうさ(笑)。だって大陸の名前とブラスがいっしょになるって、意味がわからないじゃないですか。

菊地:ジャズ・オリエンテッドに言えば、エリック・ドルフィーのアレンジャーとしての腕前がものすごいってことがわかるアルバムだよね。

大谷:彼のアレンジした、木管が入った、あのアルバムのバックのアフリカ感って……何て言えばいいんだろうね。ギリギリ映画音楽にならない、完全なモダンなサウンドっていうか。もっとそのあたりは聴きたかったな。

菊地:この本にも出てくるけど、ドルフィーはコルトレーンよりも早くバーン・アウトしてしまった。

大谷:コルトレーンの周りを固めるひとたちもたくさん出てくるので、わりと個性は捉えられていると思います。マイルスが偉そうだとかね。

菊地:マイルスもメンターだけど、じつはコルトレーンと同い年なんだよね。

大谷:菊地さんが書いていたけど、コルトレーンは指導してくれるひとをずっと欲しがるタイプで、「あなた、もう先生はいらないでしょ!?」って言われるひとだよね(笑)。習わなくてもいいのに学校へ行きたいひとって多いじゃないですか? 指導期間が終わって、「あなたはもう卒業です」と言われた瞬間、途方にくれてしまうというか。コルトレーンは信者体質のミュージシャンの典型例なんですよ。日本には信者体質が多いのかな? そんなことはないと思うんだけど、「こいつのやっていることはわかる!」っていうある種の指導者がいて、その下で真面目にナンバー2を目指して成長する、みたいな話が好きなひとが多いように見えますよね。

コルトレーンは信者体質のミュージシャンの典型例なんですよ。(大谷)

菊地:コルトレーンは典型的な信者体質で、死ぬまでメンターを欲しがっていた。

大谷:そういう自覚がある方はコルトレーンを聴くといいと思いますよ。自覚がなくてもコルトレーンを聴いて「うぉー!」って興奮するひとは、基本的に信者体質なのかなとか。あと学生時分というか、若いひとにはそう時期があるから、ピンとくるかもしれない。真面目にやりたいひとっていうか。モダンの芸術ってさ、どうしても手数を減らすというか、ストイシズムじゃない? あんまりミックスド・メディアにしないっていうか。そういう意味でいうと、コルトレーンはクラシック・カルテットの同じメンツでどんどん進化していくんです。
 ちなみに今日遅刻した理由は、コルトレーンが死んだ月の『スイングジャーナル』を探してて……速報だったんですね。ページをばかっとめくると、いきなり「巨星墜つ」って出てくる。

菊地:これはすごいね。

大谷:表紙がこれで、「なんだこの写真は?」っていう感じなんだよね。松尾伴内に似ているっていう。

菊地:もう松尾伴内に似てないときだね。『至上の愛』のときが松尾伴内がピークだった(笑)。

大谷:これも似てるけど、コルトレーンじゃなくて、チャールズ・ロイドなんだよね(笑)。

菊地:いろんなやばいことが載ってるんだけど、ジャズのものを読みたいひとが読みたくないものばっかり載っているから。

大谷:このひととこのひとがのちにヤバくなるっていうね。(スイング・ジャーナルのグラビア・ページに、白木秀雄とジミー・ギャリソンの写真がある)。

菊地:これは言えませんよ(笑)。

大谷:どちらも死んだときは女装していたっていう話……。それで、コルトレーンの訃報が日本に入ったときに、日本で出た最後の日本盤は『クル・セ・ママ』だったんだって。ちょっと軽い驚きというか。これが最後だったら、やっぱり来日時の音にはビックリするよね。『至上の愛』のあとにはこれしか出てないってことで、まあ、ふつうに考えたら、一年に4枚もアルバムを出さないからね。これは大変なことですよね。ずいぶんと変わる。われわれが今日持ってきた盤にはコルトレーンの死後に出たものも多いよね。

菊地:俺はコルトレーン発掘音源3部作と呼んでいるものがあって、まずは有名な57年のセロニアス・モンクとのカーネギー・ホールでのライヴ録音。音源が物置にあったってやつ(笑)。それから、ファイヴ・スポットで演奏していたときの記録。あと2010年に出た63年のシュトゥットガルトのライヴ録音。これも1曲1時間コースで、死してなお、そういったものがどんどん出てくる(笑)。

大谷:格調高いと言われる『至上の愛』だけど、『アセンション』はめちゃくちゃ(笑)、『メディテーション』は過渡期(笑)、ライヴ盤、ヴォーカル入り、どんどんいろんなことをやっている。

コルトレーンは変わっちゃってから来日した。もとはハードバップをバリバリにモーダルに吹くひとっていうオーバーグラウンダーのイメージだったのに、アンダーグラウンダーになってから日本にやってきたので、みんな混乱しただろうね。(菊地)

菊地:66年にはビートルズの来日があって、それと逆相を取っているっていうかさ。コルトレーンと関係のない話だけど、ビートルズって、本当はあの段階では『サージェント・ペパーズ』とかを出すときだったんで、リチャード・レスターの映画の感じではなくなっている。でも来日公演ではギリギリ、映画に出てくるアイドルの格好でライヴをやったおかげで、日本人は混乱しなくてすんだんだよね。髭を生やすわインド音楽をやるわってタイミングと、コルトレーンは一手違いっていうかさ。コルトレーンは変わっちゃってから来日した。もとはハードバップをバリバリにモーダルに吹くひとっていうオーバーグラウンダーのイメージだったのに、アンダーグラウンダーになってから日本にやってきたので、みんな混乱しただろうね。

大谷:そうですね。それで、その一年後にはもう死去っていう。「信じがたいことではあるが、受け入れなければなるまい。しかし、時間がかかる」って書いてある。

菊地:ははは。親じゃないんだから(笑)。

大谷:「父の死を知らされたら、きっとこんなショックを受けるだろう」、そりゃそうだろうね。でもコルトレーンは40歳だから、そんな歳じゃないよっていう。

菊地:偉大なひとってイメージがあるからね。信者体質のひとって、作用反作用みたいな感じで教祖になってしまう。だけど、実際のところコルトレーンはメンターが欲しい信者体質なので、教祖として扱われたことも心身に大きな負荷がかかったと思うのよ。マイルスがセレブリティ扱いされることは、彼の心身には何の負荷も与えない。むしろ健康にした。だから、コルトレーンを引っ張っていくひとが常に現れることが、彼にとっていちばんよかった状態なんだよね。

大谷:意外と、ひとそれぞれに的確な配置ってものがあって、たとえば俺、先生をやっていると調子悪くなるんだよね。

菊地:俺は先生をやっていると調子いいね。

大谷:菊地さんは初等教育に対する情熱がすごいよね。

菊地:高等教育に対する情熱もすごいよ(笑)。

大谷:いやいや(笑)、そうだけど、初等教育って高等教育のためにあるって考えるひとが多いじゃない? 菊地さんそうじゃないからね。初等教育にはまったく違う喜びがあるんだっていうか。そういうのが向いているひとと、そうじゃないひとがいるし。あと、毎日同じ場所へ行くのが向いているひとと、向かないひとがいるし(笑)。

菊地:作業を一本に縛りたいひとと、バラバラにやりたいひとがいるし。

大谷:そういうものが体質か培ったものかはわからないですけれど、調子が悪いなって思うひとは自分の生活とか、指導者とかを見直してみるといいかも(笑)。

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簡単に言うと、また神格化が起こっているんだよ。(菊地)

菊地:それからこの本がele-king booksから出てくるってこと。もう死語だけど「クラバー」と呼ばれているひとたちがさ、やっとジャズをネクスト・レベルのものとして捉えるようになり、クラブジャズはハードバップのダンス・ミュージック形だということも知っちゃったいま、ピース系やフリー、スピリチュアルなものを聴いて高揚感を得ることがクラブの効用で、その源流にコルトレーンがあることから、この漫画が出たことは……

大谷:そうね。『スイングジャーナル』がないからあれだけど。もうジャズ・メディア最後の宝ですよね(笑)。

菊地:簡単に言うと、また神格化が起こっているんだよ。アリス・マクロードとくっつくのは必然的だから難しいけど。

大谷:一応ね、われわれの啓蒙活動もあり、ポリリズムの話もわりと通用するようになったじゃないですか? コルトレーンはアコースティック・サウンドで、ベースがあって、4ビートでいっしょだから、リズム構造がわからない状態で聴いているひとが多いでしょう? たくさんの作品があるんですけど、それぞれけっこう違う。いちばんアラブに寄っているものとか、けっこうめちゃくちゃになっているのとか(笑)。『ライヴ・イン・ジャパン』を聴いていて思うのは、混乱したまま進んでいるときと、スカッとやっているときがあったりとか。

菊地:メンターがほしいひとっていうのは、いつまでたっても弟子でいたいわけなので、言葉はあれだけど、ファザコンな娘さんがいつまでも小娘でいたいっていうかさ。比較的幼稚なことをコルトレーンがしているのを、昭和のコルトレーン聴きのひとは絶対に認めないっていうか(笑)。コルトレーンが“チム・チム・チェリー”にまで手を出していたことを見て見ぬふりをするっていうか。

大谷:「これはなかったことに」ってのがコルトレーンは多いんだよね。

菊地:「なかったことにする」っていう人間の心的営為はね、年々重要度を増していると思うんだよね(笑)。SNSが発達したりとか、過去のテキストを読んだりっていうときにね、見たくないものをなかったものにする。チャーハンのなかのネギやグリーンピースは取っちゃうみたいなさ(笑)。大人買いに対する子ども食いっていうかさ(笑)。
 あと、有名な話で、『ブルー・トレイン』のジャケットのコルトレーンはじつは飴を舐めていたっていう。これ、作者は気づいて書いてる?

有名な話で、『ブルー・トレイン』のジャケットのコルトレーンはじつは飴を舐めていたっていう。これ、作者は気づいて書いてる? (菊地)

大谷:これはね、気がついてないですね。描き方がそう。

菊地:あれは亡くなった中山康樹先生の卓見っていうかね。

大谷:あれは棒付きのキャンディを舐めているんじゃないかという説があって、その目で見ると随分と印象が変わって見える。実際に棒がちゃんと写っているんですよ。

菊地:哲学的な思慮深いジャケットってことになっているし、あと『ブルー・トレイン』っていうくらいだから、青いフィルターを通しちゃっているから見にくいけど、じつは飴食ってんじゃないかと(笑)。

大谷:そう思うと、この本の絵は目が点になってますけどね。

菊地:この漫画は作画上、全員の目が点になっていて、すべてのメガネが白になっている。で、ブラック・パンサーだけ黒いんだよね。俺は漫画評論なんかやるわけじゃないけれど、ひとつのフォーマットを置いてますよね。あと筆者自身があとがきで書いていますが、当たり前のことだけど、これは伝記としておもしろくするために多少のフィクションは自覚していると。たいしたことじゃないんだけどね。ボブ・シールの着任を1年ズラして書いているから、クリード・テイラーに〈インパルス〉へ引っ張られたというのが抜けるんだよね。マイルスにおけるテオ・マセロとは言わないけれど、ボブ・シールは大変なパートナーになっていくわけで、そこを史実よりも1年早く書いている。それを含めて、これはフィクションとして読んでほしいと。そんなこと言われても相当伝記なんだけどね(笑)。
 コルトレーンが意外と早く亡くなっていることと、その負荷になった理由は、昔麻薬をやっていたから体が弱かった、というだけではすまない。やっぱりストレスは大きい要素だからね。早婚の妻を捨てて、自分のメンターであるアリス・コルトレーンに向かったっていう。俺はアリス・コルトレーンが好きだけど、アリスをオノ・ヨーコさん扱いするひとがいるんだよね。オノ・ヨーコさんも俺は好きだよ(笑)。要するに、インテリでスピリチュアルな女性を、子どもっぽいアーティストが奥さんとしてメンターにしていくことの典型例というかね。それに対して、何度も言うけど、昭和マッチョのジャズ聴きたちは、あんまり問題にしていなかったというか。子ども聴きでそのことは抑えちゃう。でもこの本は、そこを丁寧に描いていて、それはさすがイタリアっていうかさ。

大谷:うん。恋人の影響は大事だよって。奥さんをメンターにするというか、アーティストにはそういうひとが多いですからね。マネージャーが嫁とか。

やっぱり、デザイン的にうちらはもっと知っているなと思うんだよね。〈ブルー・ノート〉や〈プレスティージ〉のトリミングの仕方とかね。タッチはいいとして、これを描くんだったら〈インパルス〉のデザインでやれよって思うところもあるわけ。(大谷)

菊地:でもアリス・コルトレーンとオノ・ヨーコさんはそれどころじゃないからね(笑)。ジョン・レノンとジョン・コルトレーンというふたりのジョンの人生を変えているわけで。ジャズはすごくホモ・ソーシャルな世界で、そこをまだぬけていない。ヒップホップですら現在柔らかくなってきたんだけどね。

大谷:付き合っている女で人間が変わるということを認めたがらないバンカラな感じだね。あと、漫画を読んでいて逆説的に気づいたのは、渋谷系はコンテンポラリー・プロダクションのデザインのパワーがすごくイメージ作りに大きくて、たとえば昔のレコード・ジャケットの名作をリアレンジしてカヴァー・イメージを作ったりしたじゃないですか。それがやはり秀逸だったんだなと。この漫画を見ると、基本的にコマはレコード・サイズで全面的にやってるんだけど、その二次創作具合が甘いっていうか、デザイン的には日本の方が全然進んでるなって。〈ブルー・ノート〉や〈プレスティージ〉のトリミングの仕方とかね。タッチはいいとして、これを描くんだったら〈インパルス〉のデザインでやれよとかって思うところもあるわけ。字をどこに置くかでも印象は変わってくるじゃない? でも残念ながら、イタリアには渋谷系はなかった(笑)。信藤三雄さんがいなかったから、そういうデザイン感覚がないのかなーとかね。キャラ化も含めて、日本の二次創作ってすごいじゃない? 日本で漫画化したら、コルトレーンもキャラ化しそう。そういう意味で日本は特殊なんだなと思いました。

菊地:さっき言ったけど、クラブへ行ったひとが、EDMは空虚だって思ったときに、何か空虚じゃないものを求める。俺はEDM好きだけど、たぶんそこで求められるのは、コルトレーンの精神性と同じものなんだよね(笑)。宗教的でもあり政治的でもあるということから、EDMとは違った、内実のある音楽としてコルトレーンを拝めていくということなのかなと。この作者は80年生まれでしょう? 95年に15歳だから、クラブ全盛期世代なわけだよね。日本だと野田努さんとかもさ、俺たちが東大に呼んでよせばいいのにジャズの話をした(笑)。「おれはジャズのことなんか何にもわからない」って言ってた(笑)。さらに、イギリスのクラバーにとってジャズなんか、ブラック・ミュージックのフィクションなんだってハッキリ言った人間が、いまはもうカマシ・ワシントンみたいなものにどっぷりっていうかさ(笑)。やっぱり人間、子どもができるとそうなるもんですか、みたいな。

大谷:野田さん、スタイル・カウンシルならわかるんだけど、って言ってたじゃないですか、とか。

菊地:一生デトロイト・テクノでいいって言ってたのにね(笑)。セオ・パリッシュが新譜を出したのはいいんですか? まぁ、俺が『ele-king』読んでないだけで、何か言ってるんだろうけど。

大谷:まぁ、ヨーロッパ経由のジャズっていうイメージがよっぽど変わるよね。

「私は聖者になりたい」は、真に受けるものではないっていうさ(笑)。

菊地:逆にアメリカだけにこれがないっていうか。アメリカの外側に広がる、クラブでジャズを聴くってひとたちに対して、いちばんストイックでいちばんスピリチュアルな役回りを負わされていて、本人も実際に負わされていたところがあるんだよね。だから、やっぱり負荷がかかっているよね。

大谷:みんなにそう言われたら、コルトレーンだったらそう答えるよね。

菊地:答えるだろうね。それに、このひとはモンクとやっているときがいちばんのびのびしてるんだよ。モンクがメンターだから。マイルスとやっているときもすごいんだ。あと、メンターじゃないんだけど、エリック・ドルフィーが隣にいてくれたときも相当心強かったと思うよ。『アフリカ/ブラス』もそうだし『オレ!』もそうだし。ところが先に死んじゃうからさ。モンクも頭がおかしくなってしまいますし。マイルスとはつかず離れずだったけどね。だから、自分の体質に合わないパブリック・イメージを背負わされ続けると、すごく負荷になる。自覚される誤解によって苦しむことは、逃げ出せるからそんなに負荷じゃないんだけど、コルトレーンはそれを自分で背負ってしまって、自分の体に向いていないことを、神輿に乗せられてやっちゃうっていうのがコルトレーンの最晩年だよね。だって4、5年ズレていたら公民権運動もこうなってはなかったし、第3世界の音楽がアメリカにとってどうのこうのってふうにもなってなかった。

大谷:あと4、5年生きていれば……たとえばチック・コリアが「永劫回帰(リターン・トゥ・フォーエバー)」とかって言い出すし、ショーターも入信するわけでしょう? その時代に突入していたら意外と大丈夫だったかもね。

菊地:あと藤岡靖洋先生がやたらと、自著やいろんなところで言いたがる、コルトレーンが来日会見で言った「私は聖者になりたい」は、真に受けるものではないっていうさ(笑)。「もう悪いことはやめます」って言っているだけだっていうさ。

大谷:あれは後ろに「(笑)」をつけるのがちょうどいいんだっていう。「私は聖者になりたい(笑)」。

菊地:そのことも漫画のなかには何もないよね。大谷君がキャンディ話とその話をあとがきで指摘しているけど。ただ、伝説を信じたいひとは、それを破壊されるのが怖いから、伝説破壊的な言説をすると、袋叩きに遭うじゃない? だからコルトレーンがメンターが欲しかった体質だったっていう、よく見ると誰でもわかる現実なのに、それを言うだけで特定のひとに嫌がられると思うんだよね。だからわざわざ嫌がられることをウェブに載せたり、スペース・シャワーTVで話してもね……(笑)。

大谷:だんだんそうなっちゃいますよね。最後に組んでいるドラマーなんてラシッド・アリだよ(笑)。みんなわかってんの(笑)?

マイルスはクールにモードになっていって、コルトレーンはホットにモードになっていった。それがフリー・ジャズと直結しちゃった。さらにはギャラクティック・ソウルというか、銀河に想いを馳せるてしまうというね。(菊地)

菊地:俺なんて2005年の時点で鈴に気をつけろってあんなに言ったのに、この漫画のはじまりはドラだからね(笑)。(※編集部注 ラシッド・アリとのデュオによる『インターステラー・スペース』では曲の冒頭に鈴の音が入る)

大谷:コルトレーンはドラは叩いてない。鈴まではいったけど(笑)。演奏の最後にドラをバーンって叩いたら面白いけどね(笑)。

菊地:そういうバンドは他にはいっぱいあったからね。

大谷:ディープ・パープルとかレッド・ツェッペリンと間違えてんじゃない(笑)? プログレ・バンドのドラマーのうしろにはなんでドラがあるんですかね。コルトレーンのバンドがやったら面白いけど。

菊地:ドラを叩きそうな勢いだったけどね。最後はバタドラムといっしょにやってるし(笑)。民族楽器を使ってワールドへ行くところだったんだよね。普通にエチオピアン・ジャズみたいなさ、「コルトレーンの影響なんて知らねえよ」って感じのファンクに毛が生えたみたいなアフリカのジャズって、いっぱいあんのよ。「エチオピアン・ジャズ コンピ160」とかさ(笑)。

大谷:しかもほとんど60年代後半でコルトレーンと同世代。

菊地:あんな感じでアフリカだって言いながらサックスを吹いていたら、もうちょっといけただろうね。

大谷:写真を見ればわかるわけで、コルトレーンはアルトも吹いていたからね。なのに意外とみんな子ども食い、子ども聴きしてしまう。どう考えてもジャケットにはアルトを吹いている姿が映っているでしょっていう。コルトレーンは「ヤマハからもらったアルトをずっと吹いていました」って言っているし。

菊地:来日ライヴね。もらってうれしかったんだね(笑)。

大谷:もらってうれしくて、その晩に使っちゃうっていうのも子どもっぽいね。コルトレーンを聴くときは、そういうところも確認してほしいんですよね(笑)。この写真なんて、「はい、先生」みたいな感じじゃないですか。はっきりと師匠と弟子の関係ができている。

菊地:この段階で学生みたいな顔ができるっていうね(笑)。あとは、ビーバップに対するモーダルみたいなものを、独力で身につけたでしょう? マイルスと手に手を取ってと言ってもいいんだけど。モードについて説明をすると、ものすごく時間がかかるからね。ジョージ・ラッセルやマイルスを含むモーダリストっていうかさ。バップを超えてモードへ行くっていうことの月と太陽っていうか。マイルスはクールにモードになっていって、コルトレーンはホットにモードになっていった。それがフリー・ジャズと直結しちゃった。さらにはギャラクティック・ソウルというか、銀河に想いを馳せるてしまうというね。

コルトレーンは宇宙船に乗らなかったことで、神話性が消えてないっていう。(大谷)

大谷:サックスの奏法の話でいうと、コルトレーンはダブルリップで、上を巻くじゃないですか? 歯が悪かったのかもしれませんね。この漫画ではそこは意識しているように見える。あとモードのサックスのタンギングをするのに、シングルじゃなくてダブルタンギングで切っていくやり方。マニアックな話ですが(笑)。

菊地:バップはハーフタンギングだからね。

大谷:昨日けっこう音源を聴き返していたんだけど、58年の時点でずいぶんとフレージングが違うなと。

菊地:元祖ワールド・ミュージックだよね。『カインド・オブ・ブルー』なんてまだまだジャズっぽいだろうと油断して聴くと、あの段階でエチオピア民謡みたいになっているからさ。相当モードだよね。

大谷:マイケル・ブレッカーの『ドント・トライ・ディス・アット・ホーム』の一曲めってさ、スコットランド民謡みたいなやつじゃん? EWI使って。ああいう方向もあったんだろうなっていうね。変なワールド・ミュージックという意味でいうと、ブレッカーはコルトレーンを受け継いでいるっていうか。

菊地:サキソフォンって楽器が新しいからね。いろんな奏法ができるから。擬似民族楽器としても使える。

大谷:アラブの笛や、ティンホイッスルみたいな、あんまりタンギングしないでも使えるっていうか。このあたり吉田隆一氏が詳しいですけど。

菊地:両巻きはチャルメラの吹き方と同じだからね。

大谷:そういう要素がサックスのなかに混ざっているので、けっこうやり散らしているなと。

菊地:早い段階から民族音楽的ではあったと思う。それはモードだから。パーカーはぜんぜんモードじゃないからね。そこからモードのやり方に向かっていく時点で、時限爆弾は仕掛けられていたというか。最後の方にやり散らかしのレリジョン・ミックス、もしくはエスニズム・ミックスみたいになっているというね。

大谷:簡単に言うと『スター・トレック』というかさ(笑)。「宇宙にはなんでもあるんだぞ?」っていう状態になっていく過程で、亡くなったようなところがあったもんね。

菊地:ミクスチャーされた状態を、なんとなく宇宙ってことでいいんじゃないかっていうふうに、コルトレーンはできなかったんだよ。リアルなので。その点では殉教の感じがあるし、リスペクトせざるをえないっていう。ギャラクティックな方向へ行っちゃうと、「お気の毒」っていう気持ちから「面白い」って気持ちになっちゃうからね(笑)。たとえば、サン・ラやジョージ・クリントンにはコルトレーンみたいなリスペクトは抱けない。違うリスペクトなら抱けるんだけどね。

大谷:コルトレーンは宇宙船に乗らなかったことで、神話性が消えてないっていうね。

コルトレーンは宇宙船が救いにこなかった。だからシリアスなんだよ。宇宙船がきちゃったら笑えるから。笑えるってことは素晴らしい癒しであり、赦しであるわけで。(菊地)

菊地:もうちょっと体調がよかったらコルトレーンが宇宙船に乗ったかどうか、誰にもわからないね。だけど、コルトレーンのすぐ後のひとたちは、宇宙船にも乗ったしね。アルバート・アイラーみたいにすぐに死んじゃったひともいるけど。アイラーなんてチャーリー・パーカーと同じで34歳で死んでいるんだから。現役8年間。コルトレーン以後のブラック・ミュージックが、アメリカ国内で迎えたレリジョン、エスニズムとポリティクスの混乱を、音楽家という本来は快楽的でバカなひとたちがなんとかまとめようとしたときに、宇宙にしてしまう(笑)。サン・ラの『サン・ソング』っていうさ、ハーマン・ブラントがサン・ラに変わった瞬間のアルバムとね、カール・グスタフ・ユングの絶筆『空飛ぶ円盤』って本が1年違いで出てるの。もうちょっとくっついていたら、ユングはおそらく臨床例として、サン・ラを挙げていたかもしれない。自分のことを土星人だと思っているんだから(笑)。『空飛ぶ円盤』は翻訳で読めるんだけど、やっぱ運命の糸を感じざるをえない(笑)。野田くんの『ブラック・マシン・ミュージック』(2001年、河出書房新社)の大きなテーマになっていくギャラクティカという問題はさ、レイヴから繋がっているじゃん? 要するに、大麻だとか、ドラッグを使って飛ぶのだと。それで山のなかで音楽を聴いて、クサを食って宇宙へ行った気がして現生から逃げるという欲望がさ、白人や黄色人種どころじゃなかったでしょうな、というね。

大谷:宇宙に行きかけたひととしてのコルトレーンだね。

菊地:鈴も鳴らしたし、お寺まで行ったからもう一歩だったんだけどね(笑)。ただ、コルトレーンの場合は宇宙船が迎えに来なかった(笑)。

大谷:これは死んだ後に出たやつだからな(「インターステラ・スペース」)。よく見るとここらへんに宇宙船が写っていたりして(笑)。

菊地:それは矢追純一イズムでしょう(笑)。写っていないものが見えてくる。……結論としてはコルトレーンは宇宙船が救いにこなかった。だからシリアスなんだよ。宇宙船がきちゃったら笑えるから。笑えるってことは素晴らしい癒しであり、許しであるわけで、ジョージ・クリントンがあんな格好をしてるよとか、サン・ラっていう土星人は泣けるよねっていうのは赦しがあるんだけど、コルトレーンは赦されなかった。

大谷:サン・ラとかアルバート・アイラーみたいな格好をして出てくればよかったのにね。それにも間に合わなかった。

宇宙まではあと一歩。(大谷)

菊地:アリスがしてあげればよかったのに、惜しいところだったよね。全部を一気にアウフヘーベンして、しかもギャラクティックではなく、ストリートなまま政治や宗教の混乱の負荷を受けてしまって、一種の殉教者みたいになって。いつまでたってもコルトレーンを神格化するひとがいる原因はそこにある。音楽のなかからそれが読み取れるなら、コルトレーンにとってはそれがいちばん幸せなんだけど、音楽の構造分析的には読み取れないんだよね。聴いた感覚ではわかるんだけど。そりゃ、1曲1時間もやったら誰でも飛ぶよ(笑)。

大谷:だからリキッドで立って聴くのがいいんだよ(笑)。

菊地:ジャズ・クラブで座って1時間聴いていたらたまったもんじゃないよね。産経ホールはやばかったでしょう。あの知的な相倉先生だとか、あらゆる知将たちがコルトレーンが聖人だって物語には乗っているからね。悪いというわけじゃなくて、ヒップなひともいたと思うの。コルトレーンの最後は若気の至りで、〈ブルー・ノート〉時代がいちばんよかったよなってひともいっぱいいたと思う。いまそうじゃなくて、円盤が迎えに来なかった殉教者としてのコルトレーンがクラバーにもてはやされているのが現状っていう。

大谷:もてはやされるといいな。

菊地:ははは(笑)。

大谷:まだ予断は許されない。この一瞬で消え去るかもよ。

菊地:でもみんなコルトレーンは聴かないんだよ。甥っ子であるフライング・ロータスを聴く。コルトレーンの血脈がラヴィまで含めていまのクラブ・シーンに繋がっているけど、それは全部ぶっ飛ぶ音楽だから、そういう意味で先駆だよね。

大谷:フラローのおかげでロスまでは来てるから、宇宙まではあと一歩。カルフォルニアには(UFOが)よく来ているからね(笑)。

 先日僕は、テレビの前で、録画放送でACミランとバルセロナの試合を複雑な思いで見ていた。試合は、ACミランが、いかにもイタリアらしいカテナッチオで、とにかくひたすら守って守って、そして相手のミスから幸運な1点(明らかにミランの選手のハンドだった)、後半にもショート・カウンターでもう1点追加と、UEFAチャンピンズ・リーグのベスト16のファーストレグをモノにした。試合中には、ベルルスコーニ名誉会長と現チーム・オーナーであるその娘の姿も映し出された。
 試合自体はそれなりに見応えのあるものだったが、ACミランへの投資がベルルスコーニの支持率アップに繋がったと聞けば、いっぽうでは醒めた自分がいたのもたしかだ。別に僕はバルセロのファンではないが、このときばかりは応援した。イギリスの有名な言葉で、「女房は変えられても好きなチームは変えられない」というのがあるが、これはもう、理屈で考えれば、洒落にもならないのだろう。が、しかし......、もし自分がミラニスタだったら、どうだったろう。かのアントニオ・ネグリでさえ、それがわかっていながらミラニスタであることを止めなかったのだから......(彼はその政治的矛盾を受け入れたのである)。

 311は、我々をずいぶんと慎重にさせた。僕は、かねてから自分をノンポリだと自覚していたものだが(自分ごときが政治的だとは言えない)、結局のところ、納税者として暮らし、現代の消費社会を生きているということが、実は否応なしに政治的な行為であるということを思い知っている。こと大企業の商品を買うとき(ないしは銀行への預金など)には気をつけたほうがいい。自分ががんばって働いて稼いだ金が、人殺しの道具開発のために使われているなんてことは珍しいことではないのだ。
 逆に言えば、世界を変えることは日常的な行為を慎重すれば可能だとも言える。マティルド・セレルの『コンバ』は、そうした日々の政治的なおこないに関する最新の金言集だと言っていい。

 マティルド・セレルは、パリのラジオ・ノヴァで朝の10時に番組を持っている女性だというが、ラジオ・ノヴァといえば、『リベラシオン』紙の系譜であり、我々音楽ファンには、フランスで最初にハウス・ミュージックを紹介して、そしてまだ若いロラン・ガルニエにチャンスを与えたラジオ局として知られている。
 それにしても、朝の10時から、ラジオで、シャンゼリゼ通りの広告への落書きや職場での昼寝、バイコット(不買)運動を賞揚し、昨晩の吸い残し大麻の寄付を勧めたかと思えば、どの企業が真面目に環境問題に取り組んでいるのかのランキングを発表するフランスという国は......コンピュータからメディアの常套句の削除の呼びかけ、家庭平和のための職場での罵り合いの奨励、反抗を表明するキーボードの打ち方まで、彼女は短い文章で簡潔に小気味よく、愉快な反抗のアイデアを話しかける。ラジカルなことを言っていても、洒落が効いているので、政治アレルギーの人も楽しめるだろう。
 テヘランのイスラム教導師カゼム・セディーギの「薄着を来た女性のために男を道を踏み外し、地震を引き起こす」という声明に抵抗するためにアメリカの女性生物学者が呼びかけた実験──敢えてみんなでセクシーな服装をする呼びかけ運動の紹介、あるいは女性のマスターベーションについて、あるいはマグロの漁獲高の数値とその繁殖力を比較しての「分別あるスシの食べ方」、路上のパーキングスペースに金を払って自由に私有化する話、同性愛カップルのキスの仕方などなど......本書は、今日的な問題提起を──環境問題、フェミニズム、そして新自由主義とゲイ問題──、洒落た言葉で解説して、それらに抗する実践の方法を紹介していく。僕が気に入った話のひとつは......というか、自分で実践しているのは、エスカレーターの話。あんなものに電力を使い、健康を気にするくらいなら、5~6階の階段は歩いたほうが良いに決まっている。

 訳者の鈴木孝弥は、信頼できるレゲエ評論家のひとりとして知られているが、彼はまた、デモ隊で打楽器を鳴らし、あるいはまた都内で暮らしながらラジオ・ノヴァを愛聴している珍しい人である。彼は、フランス語の言葉遊びの激しいこのエッセイ集に詳細な注釈を付けているが、なにげにそのなかに自分の意見まで入れてしまうところもフランスらしい。世界を見渡したとき、とにかく働かない国民はフランス人、次にカナダ人だそうだが、カナダには多くのフランス人が移住しているので、結局、「働かない遺伝子」の根源はここ、市民革命を実現した国の首都にあるのだろう。
 だいたい、シャンゼリゼ通りの広告板に落書きして、それが裁判所で「表現の自由」として犯罪にならなかったというのは、なんともフランスらしい良いエピソードだ......が、しかし、これを「フランスらしい」で終わらせるにはあまりにも面白い話なので、鈴木孝弥もがんばって日本語に変換したのだろう。たしかにこの本、面白いわ。笑った。笑いは健康に良い。

 ロンドンとパリは列車で結ばれている。ユーロスターで所用2時間。時差が1時間なので往路は3時間、復路は1時間という幻惑を誘うタイムラグ。しかも海底を抜ける。その途方もなさに、果たしてパリに無事辿りつけるのかという幼児なみの不安が頭をよぎる。住んでいるロンドンの自宅で予約はウェブ上で済ませる。当日、無事に起床することができた。出国手続きを終え、無事列車にも乗れた。なんてことはない。新幹線のような快適な乗り心地。いつの間にか海を越えていた。地上を走っている時間のほうが長い。フランスののどかな田園風景を走り抜ける。と、パリのターミナル駅に着く。最初の驚きは、駅舎の壁面に途切れることなく続くグラフィティ。その後、5日間の滞在でパリはロンドンをしのぐグラフィティの街だと知る。

 ウェブ・マガジン『ピッチフォーク』のフェスティヴァルがパリで開催されるというのでチケットをとった。ジェームズ・ブレイク、ファクトリー・フロア、アニマル・コレクティヴ、ジェシー・ウェア、ラスティー......と話題のアーティストばかり。7月にシカゴで開催された同フェスティヴァルの様子をウェブで見ていたので即決だった。正直、ちょっとパリにも行きたい気持ちもあったし、フェスティヴァルでパリジェンヌがどんな風に狂気するのか見てみたかった。  同じ歴史を感じさせる都市とはいえパリは明らかにロンドンよりも落ち着いた街だ。そして悦ばしいことに食べ物が美味しい。いずれもロンドンがうるさ過ぎ、食べ物が不味い、とも言える。フランス語ができればパリは日本人にとって住みやすい街なんじゃないか。とはいえ、たった数日の滞在では計り知れない。街中にグラフィティが溢れかえっている。この意味するところは何だろう。アートの街だから許容されている? 確かにお金を出しても惜しくない立派な作品にストリートで出合ったりする。そして、スリの腕は世界一だから気をつけるよう散々言われた。しかもよく考えると、2005年にこの街では暴動が起きている。表面的に落ち着いているように見えても、他の欧州各国と同様に煮えたぎるものがある? でも、いち早く左派政権になったし、この落ち着きは余裕をしめしているのか......。などと色々と頭の中を駆け巡った。だけど街中を歩く人びとがオシャレで似合っていて、ただただ魅了され雑念もふっ飛ぶ。たった2時間の移動でロンドンとパリでここまで違うのか、と当然のことかもしれないが改めて驚く(ロンドンのコモン・ピープルは必ずしもオシャレじゃないから)。

 会場はパリの北東部に位置する〈Grande halle de la Villette〉。大きな倉庫を改造したのか、ちょうどサッカー・コートぐらいの広さで天井がやたら高いホール。フランスで『ピッチフォーク』が扱うようなオルタナティヴなロックやダンス・ミュージックがどこまで人気があるのか知らない。しかも、ほとんどが英語圏のアーティスト。ピークでも会場の6割ぐらいしか埋まらなかったので、すごく人気がある訳ではなさそう。でも、その分、会場のなかに逃げ場があって過しやすかった。耳にイギリス英語が飛び込んでくる。とくに2日目はイギリス人が多かった。結局、僕のようにユーロスターでロンドンから来たオーディエンスが多数いる印象。

 パリに着き、ホテルにチェックインしてから会場に入った。言葉が通じないので終止緊張していたせいか、疲れが出てボーとアルーナジョージなんかチェックしていたアーティストも遠巻きに見る。ティンバランドとミッシー・エリオットの出会いがいまのロンドンで実現されたら、と評されるこの異色ユニット。アルーナの愛くるしい佇まいが微笑ましかった。
 さて、いまはとにかくフジ・ロックでのライヴも終え話題になっているファクトリー・フロアに備えよう。アルコール片手にリラックスして会場を歩き回った。ロンドンのラフ・トレードが大きな物販ブースを出している。オフィシャルのバックをここで買う。片隅でジュエリーや靴なんかのハンドメイドの作品を扱ったフリー・マーケットも開かれている。オシャレ! いちいち立ち止まって見てしまう。そうこうしているうちにファクトリー・フロアだ。終止ストイックに展開するミニマリズム。退廃美はスロッピング・グリッスルのそれに近いが、さらに渇いている。この渇きは諦念に近いのか......。打ち鳴らされる音の粒の快楽に酔いしれる。どうしようもない寄る辺なさに身をゆだねる。恍惚とする......。
 その後、バンクーバーを拠点にするJapandroidsという謎のふたり組のロックバンドを見てポカンとしたり、The xx やSBTRKTのレーベル〈Young Turks〉からリリースのあるJohn Talabotで身体をほぐしたりしながら、ジェームズ・ブレイクに備えた。
 パリのジェームズ・ブレイクは都市のもつ気高さに演出され、いっそう高貴なものに映った。ヨーロッパを覆っているであろう無力感を一歩進めて絶望に至り、そこからの救済を希求しているような...、というと大袈裟? 不安定なトラックと彼の中性的な声が心の襞に分け入ってくる。見たことのない世界を見せてくれそうな予感に包まれる。
 午前1時頃、この日のヘッドライン、フランスのポスト・ロック・バンド、M83のやたらとテンションの高いライヴを横目にホテルに向かう。

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 2日目。午後5時開始。遅い朝に貴重なパリの1日を怠惰に過す。ルーブル美術館の近くにあるビルごとアーティストのスクワットになっている59 RIVOLIというスペースに行く。たくさんのアーティストの制作現場になっていて展示も無数にある。どれも個性的で目を惹く。街中で見かけたグラフィティと同じアーティストの作品もあった。1999年にはじまったスペースらしい。ヨーロッパではスクワットが違法ではない国がある。ちなみにイギリスでは2ヶ月前に住むことが違法になった。が、不思議なことに空いている建造物を一時使用することは違法になっておらず、まだスクワット・パーティなんかがある。
 少し遅れて午後6時頃開場についた。その日は目的がたくさんあった。まずはジェシー・ウェア。彼女を最初に見たのは5月にKOKOロンドンであったベンガのリリース・パーティだった。日本では考えられないが、ロンドンではダブ・ステップでモッシュが起る。DJも応酬してアオりにアオる。この日もそうだった。そんな、どちらかというと男くさい匂いが漂うパーティで、ジェシー・ウェアが登場すると変わった。たった1曲歌っただけなのに会場がしっとりとした雰囲気に包まれた。その後、ずっと気になっていたらジョーカーやSBTRKTと楽曲制作をしている歌手だと判った。ニュー・アルバムが発売される頃には、レコード屋のみならず駅の掲示板などにもポスターが貼られ、ちょっと盛上っていた。新作『DEVOTION』はイギリスのエレクトロニック・ミュージック・シーンを背景にしながら、しかし耳ざわりのよいソウル作品だ。ブロー・ステップのように過激/過剰に行きがちなシーンに淡々と距離をとっているとも言えるし、ただ自分の好きな音楽を黙々と追求しているだけにも見える。最近ではディスクロージャーと絡むなど趣味のよさ、立ち位置のうまさを印象づける。僕は新作をどう聞いたかと言うと、決して雰囲気がよいとは言えない不景気のロンドンで、ゆらぐことのないイギリスのアーティストとしての誇りのようなものを感じた。エイミー・ワインハウスは......あまりにもいまのイギリスの雰囲気を暴きだし過ぎている、と感じることもあるから。「DEVOTION=献身」が彼女を育んだミュージック・シーンに対するものであったら、それは素晴らしいことじゃないか。

 可愛い言葉づかいのジェシー・ウェア。肩の荷を下ろし一曲終わるたびに何やら語りだす。可愛い。歌いはじめると一気にオーラを身にまとう。特に凝った演出もなかったがその分、歌に集中できた。まだキャリアが始まったばかりのアーティストにありがちな衒ったところもなく純粋な歌がそこにあった。ジーンとする。
 続いてワイルド・ナッシング。80年代風、イギリスのギーター・ポップ・サウンドは日本人にとって聞きやすいがもはや"カルト"と評されている。ジャック・テイタム──実質、彼ひとりのバンドみたい──が、アメリカ人なのも共感できる。シンセも相俟ってキラキラしたギター・サウンドを、他国の過去の音に想いを馳せながら作っている感じ。わかる。新作『ノクターン』を愛聴していたのでライヴも楽しめた。なんだかんだいっても現代の解像度の高いサウンドとフェスの大音響の効果は心地よく、快感だった。

 ピッチフォーク・ミュージック・フェスティヴァルは個性派ぞろいのフェスティヴァルで、まったくノー・チェックでも意外なアーティストに巡り合う。例えばザ・トーレスト・マン・オン・アース。ボン・イーヴェルのツアーのフロント・アクトを務め知られるようになったというスウェーデンのアーティストだ。ボン・イーヴェルやベン・ハワードなんかの極楽系フォーク・サウンド。だけど、どこかボブ・ディランぽい。まとめると、現代スウェーデンのボブ・ディラン兼ボン・イーヴィル、その名もザ・トーレスト・マン・オン・アース。謎だが、謎めいた魅力があった。次に、初めて知ったけど欧米では結構知られているらしいロビンも強烈なシンガーだった。エレクトロニック・サウンドにのせ歌われるポップ・ソング。彼女独特のコケティッシュな魅力に溢れたステージ。どこか振り付けが80年代のアイドルっぽい。どうしても日本のアイドルを思い出してしまうステージをパリで、しかもピッチフォークのイベントで目撃するという倒錯感がすごかった。

 2日目のヘッド・ライナーはアニマル・コレクティヴ。新作『センティピード・ヘルツ』がこれまでの作品と一変していたので、ライヴはどうかと興味深く観た。新作の楽曲中心に進んでいく。リズムとサンプリングのおもちゃ箱をひっくり返したような躁状態が続く。サイケデリックなデコが虹色に怪しく明滅するステージのうえでたんたんと演奏したり機材をいじっている。変拍子や過剰なサウンド・エフェクトを駆使しながら不可思議な物語を感じるステージ。終盤は、これまでのアニコレのイメージどおりアシッドにフォークに展開し陶酔する。深夜2時近く、この日のパリの夜は時空が捩じれたまま深けていった。

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 さて3日目だ。またも遅い朝。昼食にパリに在住していたレゲエ・ライターの鈴木孝弥さんに教えてもらったアフリカ料理を食しに出向く。パリの南に位置する大通りブルヴァール・バルベス周辺はアフリカ人の街。その北側にあるセネガル料理屋シェ・アイダ。しかし...一向に見つからない。しばらく漂う。パリのアフリカ人街はヨーロッパ大陸に突然アフリカへの入口が出現したかのようで軽く混乱する。結局、見つからない。たぶん閉店したのだろう。何度か鈴木孝弥さんがこの店のメニューをお手本にして創った料理を東京で食して期待が膨らんでいたので、泣く。そのあと、ロンドンからの友人と落ち合い3日目のフェスティヴァル会場に向かう。

 この日、まずはプリティ・リングという4AD所属のユニットに度肝を抜かれる。声だけでなく佇まいもビヨークっぽいメガン・ジェームズと、均整のとれた体つきなのにラップトップに向かってひたすらヘッドバンギングするコリン・ロディックの男女二人組。クリック系のサウンドに浮遊感ただよう歌声。聴いているだけでひたすら気持ちいい。小さい体のメガンが時おりドラを打ち響かせるのでハッとし、ニヤっとする。
 3日目だけオール・ナイトだったのでお客さんも若く、オシャレ。ロンドナーだったら無造作にアーティストTシャツなんかで済ますところ、やっぱりパリッ子は違う。マフラーの巻き方や靴の合わせ方ひとつ違う。もしかして日本のクラバーに近いのかもしれないが、まあ、なんというか絵になる。パリッ子のファッションに憧れても、絶対に真似できない。さすが本場、なんて常套句を思わず心の中でつぶやく。ロンドナーよりも踊らないけれど、踊る姿が美しい。見惚れる。そして、この人たちのなかで踊っている自分はなんてオシャレなんだ、なんて自己満足。
 さて、このフェスティヴァルで一番楽しみにしていたグレズリー・ベアーだ。新作『シールズ』はバンド・サウンドの完成度と、楽曲としての先進性が同居する近年では希有な作品として聴いていた。これがいわゆるロックなのかどうかもはやわからないが、ロック編成の音楽の可能性みたいなものさえ感じていた。
 いたってクールに進んでいくステージ。サウンドに対して忠実でストイックな印象さえ受ける。しかし、だからこそ時おりサイケデリックに、またゴシックに展開するとき、音の渦に吸いこまれる。アンサンブルに酔い痴れ、コーラスワークの虜になる。
 しかしハイライトはグレズリー・ベアーではなかった。演奏が終わると、間断なくデェスクロージャーがはじまる。ピンとした空気が暴発して一気にパーティ・ムードへ。まだ20歳そこそこの兄弟のデュオ。"Tenderly"のようなUKガラージから、"Latch"のようなハウスまで気の利いたグルーヴが会場全体を覆う。うまい......と油断していたらジェシー・ウェア"ランニング"のリミックスが投下される。まるでドナ・サマーを初めてクラブで聴いたときみたいに、我知らず全身で踊っていた。

夜は長かった。トータル・エノーモス・エクスティンクト・ダイナソーズの変態的なエレクトロ・ポップに嵌ったと思ったら、グラスゴー出身のラスティーのDJセットにも終止引き込まれ、何度も雄叫びをあげる。このとき、客席前線の熱狂度はすごくて、オシャレなパリジェンヌが乱舞。なんというか、世界中どこにいっても変わらない。結局は、そういうことだ。

 ウォール・ストーリートの公園を占拠し、暴走する金融システムにアンチを唱えたオキュパイ・ムーヴメントは「我々は99パーセントだ」というスローガンのもと世界中に広がった。ムーヴメントは若者中心なので「親と同じ裕福な生活ができない世代」の氾濫と分析する向きもある。たしかにそうかもしれない。親と同じモデルで生活しようとすると、おもに経済的理由から挫折、やがて何故か後ろめたくなりブルーになる。一方、職場では理不尽な雑務に追われ、理不尽な残業を強いられる。疲労感が抜けきらない。暗闇のなかを生きているような閉塞感。でもいまだ、この国で若者の怒りは大きな叫びになっていない。
 黒人の文化/運動を研究する学者ロビン・D・G・ケリーは、アフロ・アメリカンが苦役のなかで夢に描き表現してきたことを論じた好著『フリーダム・ドリームス』で「夜は好機である」というセロニアス・モンクの言葉を引く。そして「つまり、それは欲望をさらけ出しそして充足させる時間であり、夢を見る時間であり、未知なるものの世界、幻覚である」と説く。暗闇のなかを生きる僕たちにとってこの希代のピアニストの発言は重要だ。むろん人種差別が横行した頃のハーレムと、いまの日本を比べるべきではない。けれど共感はできる。僕たちにとっても夜は好機であり、そこに賭けるしかない。しかも夜にジャズはよく似合う。ニューヨークでも、東京でも、またパリであっても同じことだ。ジャズが見せてくれる夢は、昼間の気怠さを追いやり、束の間の解放感を与えてくれる。

 前置きが長くなってしまった。本書『だけど、誰がディジーのトランペットをひん曲げたんだ?』は音楽評論家、鈴木孝弥の新訳本だ。原書は24時間ジャズのみをプレイするパリのラジオ局テーエスエフ・ジャズの開局10周年を記念して刊行された。副題には「ジャズ・エピソード傑作選」とあるが少しページをめくっただけで、ともすれば愛好家の内輪ネタに回収されがちなこの手の挿話集とはちょっと違う趣きに気付く。どちらかといえば狂った夜の匂いがするのだ。
 本書を絶賛した菊地成孔がTBSラジオ〈粋な夜電波〉で朗読した一節を紹介しよう。
 登場人物はディジー・ギレスピー。時は公民権運動が高揚した1963年。運動の支持者だった彼はなんと合衆国の大統領選挙に名乗りでる。掲げる公約が秀逸だった。ヴェトナム戦争からの撤退と人種差別政策の撤廃。ここまでは判る。でもアフロ=アメリカンを宇宙に派遣すること、ホワイトハウスの名称を〈ブルーズ・ハウス〉に変更すること......なんてことが宣言されていて胸をくすぐる。まあ、もちろんユーモアなわけでデューク・エリントンを国務長官に、ルイ・アームストロングを農務長官に任命する、であったり、選挙のキャンペーン・ソングがヒット曲"Salt Peanuts"にのせて「政治はイカしてないとダメ/だから、スウィングする素晴らしい大統領を選ぼうよ/ディジーに投票を! ディジーに一票を!」だったりいちいち洒落ている。こんな逸話を知るとそのセンスに共鳴し、ジャズ史上の"ビー・バップの王様"という称号だけじゃないトランペット奏者の可笑しみに満ちた姿がイメージできる。
 本書のジャズへのアプローチはこの一節からも判るように、熱狂的だったり過剰だったりする側面を切りとる。本書の一挿話、ビリー・ホリデイの代表曲"Strange Fruit"が、黒人へのリンチ(殺害し木に吊るす)への苦渋に溢れた哀歌だった、というエピソードが伝える漆黒の時代から、公民権運動が活発化する60年代までがメインに描かれる。ルイ・アームストロング、チャーリー・パーカー、チャールズ・ミンガス、エラ・フィッツジェラルド、そしてマイルズ・デイヴィスといった錚錚たる巨人たちが的を射抜くエピソードで描かれる。楽曲では知ることのできないキャラクターに迫る、全59遍のドラマ。
 ハーレムのクラブ〈ミントンズ〉に関してはもはや説明不要かもしれない。ビー・バップが産声をあげた聖地としてジャズファンにとって知られた場所だ。かの地の伝説を物語る一節はこんな風にはじまる。

「ジャズの古典はニュー・オーリンズの空の下、"赤線"ゾーンの路上で生まれ、ホット・ジャズはシカゴの高級ホテルで、スウィングはニュー・ヨークのダンスホールで生まれた。そして、ある革新的な少人数の集団がモダン・ジャズを産み出したのは、紫煙の充満したハーレムのクラブの中である」

 革新的な小集団―すなわちセロニアス・モンクやディジー・ギレスピー、そしてチャーリー・パーカーらビー・バップの先駆者たち。彼らに共通していたのは「踊らせること以外に何の"野望"も持たない白人のジャズを演ることに疲れていたことと、高度な演奏技術、ハーモニーやリズムを、より高次のものに磨き上げたいと考えていること」だった。〈ミントン大学〉ではマイルズ・デイヴィスやアート・ブレイキー、マックス・ローチらが基礎的な経験を積んだ。やがてモダン・ジャズの宇宙を形成し、世界中にその音と自在な実験精神が散らばっていく。
 パリにビー・バップが到来したときの様子はこう描かれている。

「その初演目である2月20日の夜、この、譜面なしで演奏しては、大胆なハーモニーと途方もないリズム感でソロのパートに突進していく"異常"なミュージシャンたちの演奏を耳にするために、誰もが会場に押し寄せた。〈略〉アフロ=キューバン・リズムが混じり合ったビー・バップの革命が、目の前で進行していた」

 この日を境にジャズはフランス文化の一部をなすようになったという。モンクの言葉を思いおこそう「夜は好機である」...夜は、夢見る時間であり、ゆえに常識を逸し、狂気へといたる時間だ。ロビン・D・G・ケリーはモンクの楽曲を「西洋的な思想の多くを破壊するような音楽を作り、作曲、ハーモニー、リズムの伝統的規則をひっくり返した」と論じている。パリの人びとはおそらく伝統的な西洋音楽に飽き飽きしていた。そしてビー・バップに熱狂し、ジャズを受容した。フランスではインプロヴィゼイションのことを「牛ろうぜ!」というらしい。コクトーが書いた笑劇バレエにその根拠があるという。本書ではこんなフレンチ・ジャズのエピソードもいくつか収められている。

 ジャズは黒人がその辛い現実のなかで描く夢だったのだろう。ジャズが見た夢はニュー・ヨークから飛び火し、東京やパリ、そして世界中に恩寵のごとく降注いだ。日本語に訳されたパリのジャズ本である本書の存在が、このことを如実に物語っている。そして、クラシックやロックにも影響を与えている。マイルズ・デイヴィスとジミ・ヘンドリックスの果たされなかったレコーディングのことや、アート・テイタムに陶酔したクラシックのピアニスト、ホロヴィッツが数ヶ月かけ有名な"Tea for Two"を採譜しテイタムに聴かせた、というようなエピソードも本書のなかで収められている。そのパッションと自由の気配はひときわ感染力が強かった。
 「親と同じ裕福な生活ができない世代」。僕たちはそんな諦念をただ生きるしかないのだろうか。でも、もちろん音楽がある。ジャズの歴史を紐解くとそんな当たり前のことに気付く。そこには個性的過ぎるプレーヤーがいて、幾多の物語がある。本書を読めば、暗がりを笑い飛ばし跳躍する勇気を、ちょっとだけ貰えたような気になる。

Lee Perry & the Upsetters - ele-king

 リー・ペリーが自宅の裏庭に計画したブラック・アーク・スタジオが完成したのは、1973年の終わりだった。配線を考えたのはキング・タビーで、実際に配線を施したのはエロール・トンプソンだったという。当初は4トラックしかなかったそのスタジオで録音された曲のなかで、商業的に成功した初めての曲が、ジュニア・バイルスの"カリー・ロックス"(1973年)である。本作の1曲目のリディムが、まさに"カリー・ロックス"であると、鈴木孝弥さんによる恐ろしく詳細な各曲解説(https://bit.ly/a9Nna7)に記されている。
 
 ダブと呼ばれるスタイルにおいて、ブラック・アーク時代のリー・ペリーの音源はキング・タビーやエロール・トンプソンら同時代のオリジネイターたちとは確実に一線を画している。"X線音楽"と呼ばれるような骨組み(ドラム&ベース)が強調されたシンプルなものではなく、ディレイやエコーを使ったよくあるアレでもない。それは音の断片化とその再結合の、流動的な試みである。何かカタチあるモノをいちどぶっ壊して、その無数の破片をいろいろくっつけては面白がる、完成型を目指すのではなく、そのときどきのカタチを流動的に楽しむ、それがブラック・アーク時代のペリーのミキシングだ。音のリサイクルという意味では、実に過剰なリサイクルをしているのがペリーで、それはかの有名な『スーパー・エイプ』によく表れている。そう、あれは既発の音源の使い回しだが、しかし"オリジナル"に対する"ヴァージョン"ではない。ペリーは音の断片の廃墟のなかからそれらを再結合し、明らかに新しい音を創造しているのだ。
 
 ブラック・アークは1970年代末から、ペリーの精神バランスの不安定さと比例するように荒廃していき、1983年の火事によって破壊されている。そのあいだに録音されたレア音源は、すでに多くの編集盤によって紹介されている。驚くのは、そうした秘蔵作のどれもがユニークで、魅力的であるということだ。そして、それら編集盤によって、ジャマイカ国内よりも海外で評価されてしまった当時のペリーの強い実験精神をあたらてめ窺い知ることができる。ペリーの多彩なミキシングは、"ヴァージョン"を目指すものではなく、創造を目指していたのだ。だいたいレア音源や未発表音源などというと、多くの場合は"オリジナル"盤の副産物であり、熱心なファンか研究者でもなければそうそう面白がれるものではない。が、ペリーの場合は違う。リアルタイムで広く知られている作品よりも明らかにユニークな作品だって少なくない。
 
 『サウンド・システム・スクラッチ』はブラック・アーク時代のダブプレート音源を編集したものだという。ダブプレートというのは、多くの場合はサウンドシステム(野外ディスコ)のために作られるもので、だからペリーのダブプレート音源という情報を最初に知ったとき意外に思った。キング・タビーは自分のサウンドシステムを所有していたほど、その大衆文化に深く関わっていたひとりとして知られるが(というか、ダンサーたちの興奮とともにタビーのダブ・ミキシングは開発されている)、しかし、もともとアート志向の強いペリーはこのブラック・アーク時代、むしろそうした大衆性とは距離を置き、ひたすらスタジオに籠もってはつまみをいじりながら石を叩いたり、テープを土に埋めたり、機材に小便をかけたり......とにかく音の実験を繰り返していた......とモノの本はよく記されているからだ。たんに僕の知識不足かもしれないが、まあ、こうした編集盤が出ているわけだから、タビーほどではないにせよ、実は関わりがあったということなのだろう。ダブプレートとはミキシング・アートにおける流動性の極みであり、だから『サウンド・システム・スクラッチ』は当時のブラック・アークの自由な発想のドキュメントでもある。
 まあ、なんにせよ、ブラック・アーク時代のペリーがあらたに掘り起こされて、こうして聴けるのは幸せなことだ。ペリーとは、救いようのないほどの実験主義者だったのだとあらためて感心する。網羅している時代も幅広く、1973年から狂気の時代へと突入する70年代末まである。CDには実に20曲も収録されているが、すべてがいちいち面白い。

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