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RIP

R.I.P. Prince Buster

鈴木孝弥 Oct 12,2016 UP

 今年2016年は、紫のプリンスに続いて、ブルーのプリンスまで逝ってしまった。“キング・オヴ・ブルー・ビート”に即位するも、最後まで鯔背な若大将の風情で肩で風切り、(眉唾ものを含む)数々の伝説と武勇伝に彩られながら飄々と人生を闊歩した味のあるスーパー・スター、プリンス・バスターのことだ。
 “ブルー・ビート”は60年代にジャマイカ音楽をUKに紹介したレーベル名であり、そこからスカ、ロック・ステディの異名となったわけだが、そもそも今もってスカ自体が懐古趣味とは馴染まない現代的な音楽であり続けている以上、その筋の偉人の客観評価が常にコンテンポラリーな感覚で為されるのは当然である。しかし、それにも増してプリンス・バスターには、その音楽ジャンルの花形である以上の規格外の魅力があったのだ、人間的にも、音楽的にも。

 〈芸術的センス〉、〈ビジネスの才覚〉、〈肉体的な闘争力〉。人間の持ち得る特性として考えると、これらは往々にして相反しがちな要素だが、プリンス・バスターは、幼少期に音楽に魅入られてダンスや歌やパーカッションを始め、一方でボクサーとなり(確かそこで“プリンス”と呼ばれるようになったはずだ)、その後、商売敵からの物理的な攻撃を防ぐためのこわもての用心棒(&セレクター)としてサウンドシステムに雇われた。独り立ちして自身のサウンドシステムを経営し、シンガー、エンターテイナーとなり、他アーティストもプロデュースし、レーベル・オウナー、音源のセールスマン、レコード・シャックの経営者にもなった。こうした音楽的独創性、ビジネス・センス、腕っ節の強さ(実力行使)、ある種の覇権主義、マチズムがジャマイカの大衆音楽の、そしてその土台、サウンドシステムの文化において意味深い要素であることを思えば、プリンス・バスターこそその道の典型的なジャマイカン・ダンディーである。ましてや、そのまるでアカデミック的でない歌唱法、ときにスポークン・ワード的だったり、曲にスキットを演じ込んだりしながら歌唱とサウンドシステム由来のディージェイ芸が同居したパフォーマンスに着眼すれば、彼の中に現代的なダンスホール・ディージェイ文化の、ひいてはギャングスタ・ラップの源流のひとつさえ見て取れる。もちろんプリンスとギャングスターを一緒くた(笑)にしてはならないが、バスター自身、名曲“Al Capone”で「オレをスカーフェイス(“古臭いギャング”の隠喩だろう)と呼ぶな。オレの名前はカポーンだ」と歌った(語った)ように、要は見得と矜恃の漢伊達の美意識なのであり、その種のこだわり、自己主張自体が、人間の“ひとつの類型”を形成している。彼がのちの80年代末にUKのトロージャンズを従え、伝説の反逆の黒人アウトローを歌ったスタンダード・ナンバー“Stack O' Lee (a.k.a. Stagger Lee)”を吹き込んでいることを思い出す人もいるだろう。あの曲が見事に似合ってしまうこと、まさにそれが、彼が誰なのかを実に雄弁に物語るのだ。
 同時に、列強にしてやられた“弱小国”ジャマイカの、特に男性市民がギャングスター映画や勧善懲悪のスパゲティ・ウェスタンを熱烈に愛した事実があるが、その、漢気溢れるタフな強者に対する彼らの抱く信仰めいた憧れ、プリンスはその姿を地で行ったという見方もできるだろう。彼が歌った“Hard Man Fe Dead !/タフマンは死なねえ!”というヤツだ(ジャメイカンがウェスタンに熱狂する様子が映画『ザ・ハーダー・ゼイ・カム』のいちシーンで描かれていたし、ちなみに同映画にはバスターも印象的な出演をしていた)。
 ついでに言えば、とりわけ前掲の“Al Capone”で炸裂するバスターお得意のパーカッション的スキャット、いわゆる“口チュク”をヒューマン・ビート・ボックスの一種の原始形と見たってあながち暴論ではないだろう。素直に戦後ポピュラー音楽史を俯瞰するとき、この輝けるスターが身に受けるべきものが、〈スカの偉人であり創始者のひとり〉という“偉大なるレッテル”1枚では明らかに不充分なのだ。ぼくの目には、現代的なストリート・ミュージックのひとつの潮流の最上位の一角に、この青のプリンスが屹立している。
 そもそもプリンス・バスターという名前からしてすこぶるチャーミングではないか。本名セシル・バスタマンテ・キャンベル。親が労働組合叩き上げの名政治家バスタマンテ(Bustamente)の名前をミドル・ネイムとして与え、〈Buster〉はその省略形と解することもできる一方で、“プリンス”の気品と、それと相反する“バスター(破壊者)”の粗暴性とが同居した名前でもあるわけだ。この“気高さ”と“粗暴さ”のコントラストこそが彼だ。それを許容するだけの懐の深さ、伝統的な音楽の美点を受け止めながら因習を破壊した革新性。
 この勇ましい“バスター”キャラは、数々のナンバーで率直に見て取れる。友人コクソン・ドッドのサウンドシステムの用心棒に雇われたくせに、それでも自分が独立して競争関係になると“Downbeat Burial(コクソン・ドッドのサウンド〈ダウンビート〉を埋葬してやる)”というようなマカロニ・ウェスタンのタイトルさながらの曲を出し(いわゆる“サウンド・クラッシュ”のはしりだ)、あるいは華僑プロデューサーのレスリー・コングを標的に“Blackhead Chineman”を書くなど、ライヴァルをキツくやりこめた。そもそも自身のサウンドシステム名に〈Voice of the People〉と名付けたり、レコードのジャケットに踊る〈Jamaica’s Pride〉とか〈National Ska〉といった文句もいちいち言葉が大きい。
 こうしたオレ様気質のビッグ・マウスは、現在まで続くある種の型のマイク芸のプロトタイプであり、それは“Judge Dread”で自身が悪を断罪する裁判官に扮するまでに至るのだが、その背景には、彼流の一貫した正義感を感じ取ることができる。モハメド・アリとの親交も知られるバスターだが、バプティストの家庭に生まれるも、アフリカ黒人の矜恃、その文化の独創性を主張するスタンスからネイション・オヴ・イスラム~ブラック・ムスリム・ムーヴメントに同調してイスラムに改宗し、セシル・キャンベルから〈モハメド・ユセフ・アリ〉となった。これはジャマイカにおける、アフリカンとしての尊厳を第一義に掲げるネグリチュード運動の流れとしては、音楽がラスタファリアニズムと緊密に結びついてゆく時代に一歩先んじていた(それに、クリスチャンのジミー・クリフがイスラムに改宗する10年以上も前の話である)。いくつか存在したバスターの運営レーベルの中には、少しあとにスバリ〈Islam〉という名のレーベルも登場するし同名の曲もあったが、少なくとも60年代前半から、単なるサウンド・クラッシュやヒット・チューン競争、あるいは62年の独立を経て沸き立つナショナリズムとは次元の違う思想、世界観を自身の音楽活動に投影していたわけである。しかしラスタがそうであったように、ブラック・モスレムとしてのバスターもジャマイカ政府から危険人物視され、何度も家宅捜索を受けてはイスラムの文献を没収されるという厳しい迫害に遭ったというが、それで信仰を捨てることはなく、権力の不当に屈しなかった。世界には、その彼のモスレム・ミュージシャンとしての生き様をリスペクトしているフォロワーも多いことだろう。
 しかしながら、その一方で、あからさまな下ネタでも人気を取ろうという芸人根性も隠さなかったのがバスターの一層味わい深いところだ。けしからん箇所に“ピー”音をかぶせないとレコードを発売できないような類いの露骨にナスティーな、いわゆるスラックネス・チューンの歴史にもプリンスはその名を残している。とにかく、あらゆる点で先駆的な人だったのだ。

 1989年は、日本のスカ・ファンにとって約30年分の盆と正月が一気に訪れたような大事件が起きた年だ。ぼくはちょうどその年、ひょんなことからタワー渋谷店に入社し、5年半ほどお世話になることになった(タワーレコード株式会社のことだ。まだ誰ひとり“タワレコ”などと略したりしなかった四半世紀以上前、渋谷店は井の頭通り沿い、東急ハンズの少し先の左手にあった)。ひょんなこと、というのも、アルバイト希望で応募したのに、面接に行ってみると、「嫌だったらいつでもバイトにしてあげるから社員にならない? 福利厚生もしっかりしてるよ」と説得され、つい出来心で入社してしまったのだ(バブル時代とはそういうものだった)。
 それで大事件の話だが、同社に対して、それじゃ社員になります、という返事をしたのとほぼ同時期に、スカタライツの初来日公演、フィーチャリング:プリンス・バスターというとんでもない興行が発表されていたのだ。日程は同年の4月29、30日の土日、会場は汐留PIT2(新橋駅から海側へ当時の殺伐たる空間をしばらく歩いた先、旧国鉄汐留駅跡地に期間限定で作られた大きなテント型のライヴ会場。現汐留シオサイトの一角)だった。
 しかし痛恨の極み。入社したばかりで土日に休みなど取れず、さらに両日遅番だったせいで、ぼくはその大事件を東京にいながらただの一瞬も目撃できなかった。社員なんかになったことを早々に後悔したものだ。その6月に発売された『レゲエ・マガジン』11号グラビアの菊地昇さんによる同公演の写真とか、同号の、気に障る質問でもして怒らせたら大変だということで荏開津広さんが来日時のプリンス・バスターにおそるおそる丁寧な質問を重ねていく素晴らしいインタヴュー記事なんかも、ショウをミスしたのがとにかく悔しくて、しばらくの間は直視できなかった。
 しかしながら、人生、ひどく残念なことが起きたあとには、そのうち、それを埋め合わせて余りあるうれしいことが必ず起きるものだ。
 同じ年の12月、早番で出勤し、開店した朝10時過ぎから、入荷した商品を良く晴れた朝日が差し込む3階の売場に並べていたときのことだ。「ヘイ! ちょっとこっちへ来てくれ」と言いながら目の前に突然現れた全身黒づくめの男、それはプリンス・バスター、その人だった。4月に見逃して悔やんでも悔やみ切れなかったその人が、向こうからやって来て、ぼくの目を見て話しかけているのである。彼は窓際のコーナーにぼくを連れていき、ある場所で立ち止まった。黒いベレー帽、プラチナか金色だったかのフレイムの眼鏡をかけ、黒の革ブルゾン、革パンツ、磨かれたサイドゴア・ブーツ。こんな恰好が似合うのはその世界ではトゥーツ・ヒバートとプリンス・バスターだけだが、プリンスのほうが着こなしの品格は上だ。陽射しを反射する眼鏡の奥の眼差しが鋭い。顔の下半分を覆う、丁寧に整えられた黒々としたヒゲ。唇を動かすと、前歯のメタルの縁取り、いわゆる〈開面金冠〉が光り、それだけで凄い迫力だ。向き合っていると、その只者ではないオーラが熱い。実際只者ではないのだから、本当は驚くにはあたらないはずなのだが。
 どうしてプリンスが日本にいたのかといえば、4月のスカタライツ公演のフロント・アクトを務めたスカ・フレイムスを絶賛したプリンスが、今度は彼らをバックにして日本で歌いたいと希望し、それがスピーディーに実現したのだった。その再来日公演の様子を交え、前掲の荏開津さんのインタヴューを踏まえながら、プリンス・バスターの功績と人となりをおそらく日本で最初にまとめた名テクストが、山名昇さんの(初版は91年『レゲエ・マガジン』別冊として刊行された)『Blue Beat Bop !』にスカ・フレイムスの宮崎研二さんが寄稿した「Prince Buster Is Staggerlee(バスター親分、登場だ)」だった。しかし、そのバスターの思慮深い、優れた人格者たる人柄が伝わる宮崎さんのテクストは当然ながらその時点でまだ書かれておらず、ぼくはとにかく恐くて凄い人、という単純なイメージしか持ち合わせないまま、ビビりながら親分の出現を受け止めるほかなかったのである。
 井の頭通りに面した北側の窓際にぼくを誘導した彼は、1枚のリーダーカードを指で弾いて言った――「Mongo Santamaria のCDはないのか?」。そのコーナーはその日、見事に空っぽで、プリンスは明らかに不満げな面持ちだった。ぼくは、少々お待ち下さい、と言い、足下のストックもゼロなのを認め、最新の入荷品の中にあるかどうかをバック・ルームに確認に行った。実際入荷していないだろうという予測は付いていたのだが、お客さまの名前を呼びかけて丁重に詫びるにせよ、そもそも“Prince”の前に、“Sir”はやり過ぎとしても、“Mr.”という敬称が必要なのかどうかから考える時間が必要だったのだ。想像して欲しい、“Prince”を名乗る人から、心の準備もないまま突然声をかけられる機会が、一般日本人の一生で、普通一度でもあるだろうか。落とすよりも付いている方が少なくともリスクは少ないだろうと考え、すみません、ミスター・プリンス・バスター、あいにくモンゴ・サンタマリアは現在1枚も在庫がなく、バック・オーダーも本日は入荷していないのです、と謝った(タワーの従業員は、その程度の英語での接客ができなければ仕事にならなかった)。
 するとプリンスは、「オレのことを知ってるのか?」と言い、予想外の、写真で見たこともない人懐こい表情で破顔した。そして、「今、モンゴ・サンタマリア(というのが素敵ではないか!)をCDで集めてるから探しに来てみたんだが」と言った。あとで思えば、きっと宮崎さんか、スカ・フレイムスの他の誰かが彼にタワーレコードの場所を教えたのだろう。ラテンのすぐ向かい側がスカ/レゲエ・コーナーだったが、幸いプリンスのアルバムは全く淋しくない程度に在庫があった。そこで調子に乗ったぼくは、「あなたの昔のアルバム、最近UKでリイシューが進んでますね」というようなレコード屋トークで水を向けると、快くいろいろな話を聞かせてくれたのだった。
 なんだかんだ15分くらいは話をしただろうか。結局、わざわざ向こうから来てくれたプリンスは、レコード屋の小汚い“なり”をした若造に貴重な話を聞かせてやり、サインもせがまれた上に、そいつと固く握手をし、所望のCDを買えなかったのに「サンキュー!」を言って帰っていった。あれ以降、モンゴ・サンタマリアを聴くたびに、「この曲の入ってるCD、どっかで買えたかな」と、プリンスを必ず思い浮かべる習慣になった。そしてそれはいまだに続いている。
 ぼくは、今よりずっとロマンティストだった若い時分、しばらくこの出来事を、まだ有給休暇がなかった悲しき正社員のもとに、その年の12月にサンタクロースが届けてくれたプレゼントのように考えては、その解釈を気に入ってひとり悦に入っていた。が、あるとき自分の不見識に愕然とするのだ――敬虔なイスラム教徒をサンタクロースになぞらえていたとは! と。でも、またしてもすぐに調子よく思い直したのだった――“サンタマリア(聖母マリア)”の愛好家の寛大なるプリンスは、そんなことで気を悪くしたりしないだろうと。
 それがぼくの、この宝物の話のオチなのだが、こんな悪くない自慢話を書く機会がこれまで一度もなかった。これがプリンスの追悼文でなかったら、書いていてもっと心楽しいのだが。

2016年10月 鈴木孝弥

鈴木孝弥

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