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インチキには合理性が大切なんです。インチキは即製であって、合理性がなければ、手間をかければかけるほど本格的になってしまう(笑)。ムダを省き、これだけあればそれに聴こえる、見える、相手を欺けるということですね。
NRQ - ワズ ヒア Pヴァイン |
■コンポステラでのときも、曲の要請から仕方なくやったんですか?
中尾:できるからやったんです。それでちょいちょいやっていました。トム・コラがメンバーだったスケルトン・クルーってあったじゃないですか? 篠田くんはあのバンドのようにメンバーが(楽器を)どんどんもちかえるのに憧れたていたみたいで、一度コンポステラで、3人の前にバスドラはじめ打楽器を置いてライヴをやったことがあるんですよ。そしたら、篠田くんと関島(岳郎)くんはぜんぜんできなくて(笑)、それはその1回でヤメになっちゃいました。私だけに残ったんです。
■それを今回録音の場で実践したと。
中尾:吉田くんの曲中の繰り返しフレーズは、コンポステラでの私の苦い経験を彷彿させるものでもあったのです(笑)。
■この前のインタヴューで吉田さんはコンポステラの影響は大きいとおっしゃっていましたね。
中尾:あるんでしょうけどね。私としてはイヤだけど、このほうがおさまるだろうと。それに、苦痛をおぼえる時間も最短で済む(笑)。
■スタイルから発想までたぶんに合理的ですね。
中尾:インチキには合理性が大切なんです。インチキは即製であって、合理性がなければ、手間をかければかけるほど本格的になってしまう(笑)。ムダを省き、これだけあればそれに聴こえる、見える、相手を欺けるということですね。
■練習や鍛錬はお好きではないですか?
中尾:それを意識しないことです。みずからなにかを追求する、それに時間を要するのは問題ないんです。いくらインチキでもやらないとできないからね。その結果、私自身笑えれば、うまくごまかせればいい。録音物としては「やり捨てゴメン」みたいなところは私にはありますよ。なにをやったのか憶えていない、レコーディングで「OK! ありがとうごうございます」といわれた瞬間に忘れてしまう(笑)。
■あえて忘れるように自分を仕向けていませんか?
中尾:ちがいます。一所懸命ではないから憶えてないんです。もちろんフと思い出すこともありますよ。私は真剣に音楽のことを考えてない。それはある一部のひとには伝わっている。そういう人たちは私を誘うまい、と考えているはずなんです。
■そういう方がいたとしても、私には音楽についての考え方のちがいとしか思えませんが。
中尾:それを音楽をマジメにやっていないと見なすんじゃないですかね。実際にマジメにやっていないですから、その評価はあたっていますけどね。
■その側面では当りだとしても、でもマジメにやらないことをマジメにやっていると思うんですよ。
中尾:たしかに、いい加減にやることに真剣とはいえるかもしれない。でもだったら「ちゃんと勉強すれば?」といわれるんです。
■その点を突き詰めたのは、中尾さんの独断場ともいえるかもしれない。
中尾:いや、そんなことない。このまえ、むかし録音したタモリの「オールナイトニッポン」を聴いたんですが、すごいですよ、あのひと。ニセ現代音楽とかね。タモリは30歳くらいで東京に出てきたときに、仕事がほとんどなくて暇でテープにラジオドラマとかを録音していたらしいんです。それで、そのテープを自分の番組で流しているのを私はエアチェックしていたんですけど、もうすごいんです。水を入れた瓶を吹いたり叩いたりしてニセ現代音楽をやっている上にデタラメなスペイン語でサルヴァドール・ダリが自作を語るナレーションが入るんです(笑)。
■ダリのモノマネされてもだれだかわかりませんよね。
中尾:最初に日本語で「サルヴァドール・ダリはこういった」っていうんですけどね(笑)。
■それはうまいですね。
中尾:さいきん新しくはじまった番組でも、フラメンコのギタリストとパーカッショニストの前でデタラメのファドを歌いあげていましたから私なんかぜんぜん敵わない(笑)。私は家で多重録音をニヤニヤしながら聴くくらいが関の山ですから上には上がいるということです。それがコンポステラとストラーダのせいで、マジメで真剣なひとだと思われてしまったので、そうじゃないということをね、死ぬ前にそのことをみなさんにお伝えしなければならない、自己開放をも兼ねたムーヴメントが私のなかに起こってきているのです。人前でデタラメに歌ったりするのも、そういうことに努めているともいえます。
コンポステラとストラーダのせいで、マジメで真剣なひとだと思われてしまったので、そうじゃないということをね、死ぬ前にそのことをみなさんにお伝えしなければならない、自己開放をも兼ねたムーヴメントが私のなかに起こってきているのです。
■コンポステラをシリアスに聴いていたお客さんのなかにはそれを聴いて引いてしまうひともいるかもしれませんね。
中尾:お客さんにも悩んでいただいたほうがいいんです。一面的なところで納得されても困るじゃないですか。「こんないい加減なやつがやっていたんだ」って思ってもらいたい。それで「なんであんなふうに聴こえたんだろう?」と考えてもらったほうがよいのではないでしょうか? これも前にいいましたが、コンポステラはイヤではあったけれども、やるからには真剣であったわけで、シリアスさにはウソはないんです。しかし一方では人間はシリアスではないと伝えなければならない。そうすると「中尾勘二は切り捨てる」ひともいると思いますけど、逆に「中尾はいい加減なやつだ」だと思っているひとにもそこから別の発想が出てくるかもしれない。そういうふうに影響し合えば面白いかなと思いました。
■ご自分の過去の活動に対する、自分なりの再定義を試みる時期なんでしょうか?
中尾:そうかもしれません。当時は「あー、終わってよかった」くらいの勢いでした。最後は篠田くんと絶交していましたからね。それがいまは、あれは何だったんだろうっていうのは考えます。ひとからいろいろ訊かれるたびに、いまの考えを含めて語るようになりました。そしてむしろ仲がおかしいときのほうが、なあなあのときよりもよかったのではないか、そういう話になってくるわけですよね(笑)。だからイヤななかで自分が何をするのかを考えるも、自分のためになるとは若いひとにいっているんですよね。「嫌いだからやらない!」というのは簡単ですけど、あえて嫌いなヤツのとこに入り込んで何をするのかというのも意義あることだと思います。私には「ゴキブリ共生論」というのがむかしからありましてね。
■ほう。
中尾:「ゴキブリは嫌だ、見つけたら殺す」という考えはわりとあるじゃないですか?
■普通ですよね(笑)。
中尾:でも全滅させるのはムリですよね。だったら嫌いなやつがうろちょろしていても、いいじゃないか、ともに地球で生きていけないだろうか。私はノンポリですけどね、宗教上の問題とかもそうやって考えればね。それにそう思えば、アジられて利用もされにくい。なびかないためにも、そういうゴキブリ思想をもっていたほうがいいんじゃないかと。
■そうかもしれません。
中尾:それは音楽にも全部繋がっていて、思うわけですよ、あれはイヤだから、と排除しても、同じ地球上にいるかぎりかかわらないとしたら、自分の領分がどんどん狭くなるだけなんです。
私は20代のときはすごく好き嫌いがはっきりしていましたから、イヤなら絶対にやらなかった。というより、イヤなことはまずできないし、拒否反応で体が動かなかった。音も出なくて、リハは行ったけど本番では逃げ出しちゃったこともあります。
■そういうなかでも自分で何かやる道筋みたいなものを見いだせるようになったということですか?
中尾:いや、逆に自分を呼ぶひとが選んでくれるようになったんです。まちがって呼んだひとがそういう目に遭う(笑)。そのなかで諦めるひともいるでしょうし、もうちょっと出てくるかもしれないって粘るひとも出てくるかもしれない。いまは粘っているひとだけが残っているんじゃないでしょうかね。でもそれもいつかは愛想を尽かすかもしれない。転換期がきたらそれでおしまいかもしれないわけですが、どうなるかはわかりません。私は「なんとかお願いしますよ」と頼んだことなんてないですから。
取材:松村正人 (2015年2月17日)