Home > Interviews > interview with NRQ - 音楽の真似ごと
2014年12月29日午後8時過ぎ、インタヴューを終え、服部将典とともに宴もたけなわの階下に戻ると居間のソファの上でおくれてきた中尾勘二が牧野ジュニアともつれあっていた。嬌声をあげ激しく対等に遊んでいる。場のムードはだんだんによいよいで、敏腕ディレクターである〈Pヴァイン〉の安藤氏はほかに担当するバンドのライヴがあるので辞去され、取材を終えた吉田さんの頬はほのかに赤らみ、ホストの牧野氏はもてなしに忙しい。私はビールを2、3杯飲んだけれど酔うほどではない、というか取材なのでベロンベロンになるわけにいかない。ゆえに素面、シラフのMCなのであった。
このインタヴューを読まれる前に、昨年初秋に出たエレキング別冊第1号をお持ちであれば、そのなかの中尾勘二と牧野琢磨の記事にお目どおし願いたい。コンポステラやストラーダでハナからジャンルにおいそれと括られなかった中尾勘二の多才、異才の一端をそこには記しており、本稿はそれを承けつつ、ひとまわり以上年の離れたバンドのなかで、打楽器および管楽器奏者あるいは作曲者として何を目論見、また初志というよりも音楽の本能というべきものを貫くことの楽しさと難しさについての彼の考えを補遺するものとなれば幸甚である。
とまれ、ここで私がながながと書き連ねるのもヤボであろう。話のつづきにさっそくとりかかりたい。
もっともっと遊んでほしそうな牧野くんの愛息に断って、二人は階段をあがり中尾勘二はこういった。
「あのひと(牧野ジュニア)は自分の意見を通したい、一度何かを思いついたら変えたくないんですよね。非常によくわかります。その発想も組み方まで私と似ている。思いつきなんですよ」
NRQ - ワズ ヒア Pヴァイン |
■その思いつきを完遂するんですよね。
中尾:思いつきでいってみようって感じなんですね。
■外部から説得されて考えが変わることはありませんか?
中尾:まったくないです(笑)。
■それは説得の仕方如何ではないですか?
中尾:それだけの力量あるひとがついぞ現れなかったということでしょうね。
■いまに至るものもありませんか?
中尾:協調性に関しては、小学校の5、6年のときの先生が多少は軌道修正をしてくれました。4年生までの先生は完全に私にお手上げだったんですが、その先生にはその感じはありませんでした。お陰で若干協調性は芽ばえました。若干ですよ、若干。
■先生たちの対応から大人を観察していたのかもしれないですね。
中尾:私のオヤジは教育者だったんですが、ああいうので先生が務まるのだろうかとつねづね思っていたんですよ。親子関係が悪かったわけではないですけどね。趣味は合うんです。山に連れていかれても山は嫌じゃないし、音楽も演歌とロックのレコード以外はたいがいあってそれが毎日のようにかかっていて、それはいいんです。だからちょっといびつでした。
先生のアレは職業病なんですかね? 何かと絡んでくるんですよ。オヤジは家でも自習時間に回ってくる先生みたいな感じで、何か悪さをしているんじゃないかと監視するんですね。そのときの録音の記録が残っていますよ。
とにかく録音でした。ラジオが好きで。中波、短波ラジオを録音していました。
■中尾さんが監視を録音されたということですか?
中尾:はい。オヤジが様子を見に来たところを録音したんです。いま聴いてもあれはゾッとします。足音が恐いんですよ。ドン、ドン、ドン、ドンとしだいに大きくなって、最初は小声ではじまるんです、九州弁で「何しよっとや?」って。それを4回繰り返すたびに声がだんだん大きくなり、最後は「何やってんだ!」と大声です。私はビビりながら「あっ、ちょっと録音を試している」というのに対して「ひとが喋っているのを録るんじゃない。このバカ野郎」みたいな返答をしているのが録音に残っています。恐怖政治のなかで私は録音に勤しんでいたんですね(笑)。
■録音が世界との接点だったのかもしれないですね。
中尾:とにかく録音でした。ラジオが好きで。中波、短波ラジオを録音していました。昨日も聴き返したんですが、その頃に録ったものはいまもおもしろいですね。北朝鮮の70年代のアジ番組とかね。
■朝鮮語だと何をいっているかわからないですよね。
中尾:日本人を洗脳するための日本語放送なのでわかるんです。私はそれでプロレタリアートとかブルジョアとか帝国主義ということばを憶えました(笑)。
■北朝鮮からことばを輸入したんですね。
中尾:裏切り者集団とかね。当時のソ連のことなんですけど。フルシチョフとかブレジネフは裏切り者集団で、資本主義をとりいれているとかね(笑)。
■でもそれはただの演説ですよね?
中尾:その喋り方が面白いと思ったんですよ。日本人はこんな喋り方はしないなと。NHKの喋り方ともちがうけれども、調子は日本語と似ているんですよ。当時は韓国の日本語放送も聴いていました。『玄界灘に立つ虹』とかね。それもテープが残っているんです。北朝鮮とは内容がだいぶちがいます。つまりスピーカーとか、マイクとか、電波を介していろんなことをやるということですね。録音をしてしまえば、そのなかに入っていけるような気がしたのかもしれないですね。
■ご自分を音素に還元する感じなのでしょうか?
中尾:というよりラジオのマネがしたかったんでしょうね。そんなに高尚な考えではなかった。
■テレビではなく、あくまでラジオなんですね。
中尾:ビデオが普及する前だったので映像をつくるのは現実的ではなかったし、テレビの画面のなかにはどうやっても入ることができなかった。ウハハハハハ。でもラジオはがんばればトランスミッターでFM音源を飛ばすことも当時はできたし、そこまでしなくてスピーカーから出ている音自体を、これは放送だと自分にいい聞かせれば、それは放送なんです。ただ再生して聴いているだけでも、これは放送だっていう設定の自分がそこに居れば、放送になりえるわけですよね。そこがテレビとはまったくちがいます。
■中尾さんはインターネットのような現在のメディア環境に興味はありますか?
中尾:ないですね。
■それは当時のメディアとまったくの別物ということでしょうか?
中尾:いや、延長線上にあると思いますよ。
■じゃあなぜ興味をもたれないんですか?
中尾:自分のキャパを超えているんです。ネットを引くにはお金が要る。これはマジメにそうなんです。携帯を持たないのと同じで、経済的な理由ですよ。いまはだいぶ安いのがあるらしいですけどね。私は通信費は3000円までと決めています。
■その上限はどこに由来するんですか?
中尾:NTTからくる請求書がだいたい2500円くらいから携帯のひとと長電話をしたときは3000円くらいだから。
■なるほど(笑)。
中尾:それ以上は払いたくないですね。それに携帯ではファックスが受けられない。
■携帯をもつ代わりに家の電話をやめなければならない?
中尾:経済的にはそうせざるを得ない。どっちを選ぶのかってなると、まだまだ家電いえでんとファックスでいけるだろうと。明日仕事があるかどうかわからない人生を歩んでいるので、とにかく、いまあるお金を大事に大事にしていかなきゃいけないわけです。
取材:松村正人 (2015年2月17日)