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Album Reviews

New Residential Quarters

New Residential Quarters

オールド・ゴースト・タウン

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松村正人   May 10,2010 UP
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 子どもを寝かしつけた9時近くにたまたまアクセスしたドミューンの五所純子さんの番組でかかった小室哲哉がまだ初々しかった時期の曲を聴きながら、そういえば私の妻も小室哲哉の曲が主題歌だった映画を小学生のころ見たと言っていた。私の妻は五所さんやChim↑Pomのみなさんと同年かすこし年長のはずだが、小室哲哉は彼らが過ごしてきた年月の一部だった。番組は終わった。私はそのまま、私と同郷で(たしか)同学年のヒカルくんのDJを見続けたのだが、10時を過ぎたころにヴィラロボスのトラックに、私の故郷の島では誰もが知っている、坪山豊が作曲し、島の最大の娯楽である闘牛のアンセム(?)でもある「ワイド節」がピッチをあげてミックスされたのを聴き、4月に入ってから普天間基地(の一部)の移設問題で島が揺れてきたのを考えはじめた、というか、この1月はそのことばかり考えていてele-kingの原稿を全然書いてなかった! ここから基地問題について書きはじめるといくら字数を尽くしても終わりそうにないので止めますが、私は忘れてならないのは、沖縄と沖縄周辺をめぐる基地の問題は歴史、政治、地政学(ポスト冷戦構造とか現実問題としての東アジアとかアメリカとか)、地方の振興策とか地域間の格差とか、複数の力学が入り組んだ"問題の系"であるがゆえに政治的であることは当然としても、鳩山がいう「公平な負担」というのは、この前の戦争(というのは1945年に敗戦した戦争だ)で沖縄と同じくアメリカに統治され53年に日本へのクリスマス・プレゼントとして(本当なんですよ)返還されたその島にも当てはまるのかということだ。美辞麗句として吐かれた「公平」の言葉は少数の記憶を曖昧に覆い隠そうとする――逆進税である消費税が新自由主義の残滓としてでもまだ議論されるのはその見せかけの「公平」さのせいだろう――が、記憶はある者の身体を通して他者の身体に伝達される――それは語りでも歌でも記された言葉でもいい――ことで、53年はおろか沖縄の本土復帰の日にも間に合わなかった私がヒカルくんのDJから考えたように、歴史修正主義の隠蔽をこえる広がりを持ちうるのではないか。

 私は長くなりましたが、なにを言いたいのかというと、音楽をめぐる記憶の仕組みです。90年代の手法だったサンプリング~リミックス~カットアップ~コラージュ(はちがうか)、つまり編集文化にはセンスやリスペクトの裏書きがあり、方法に自覚的なかぎり改竄や盗用といった言葉さえ、ラディカリズムに落としこまれてきたが、「ネタ」は濫用されることで背景にある体系から独立し、「ネタ」というより情報のようにふるまいはじめ、アーカイヴは10年前よりずっと味気なくなった。私はメディアの問題は無視できないと自戒しないわけにいかないが、アーカイヴはもうエントロピーの上限に達してしまったのだろうか? それともバベルの図書館のように際限はないのだろうか? 私はいまの時点ではどちらともいえないけど、USTREAMのリアルタイム性はアーカイヴの座標に時間という新しい次元をもちこみ、そこに流れてくる膨大なテキストデータは共有の概念をSNSのようにコミュニティ内に蓄積させず、タイムラインに沿って離合集散することでコミュニティの舞台であるアーカイヴをも活性化させてはいるのだと思う。いまさらだが、私はTwitterのユーザーではないのでおもしろさはよくわらかないが、つぶやくよりつぶやかれることで主体の時間に他者の時間が割りこんでくることのおもしろさがある気がする。それは動物化の別の局面かどうかを検証するのは他稿にゆずるとしても。

 音楽のアーカイヴは時間を取り戻して音楽的になった、と書くとまるっきり同語反復なのだが、音楽はほかのどのカルチャーよりも時間(時空)がフォーマットに密着したものだからこの変化は原点回帰のようにも思える。しかしそれはたんに戻っただけではない。

 NRQをご存じだろうか?
 ギターの牧野琢磨に、二胡とマンドリンを担当する吉田悠樹とコントラバスの服部将典、ドラム、クラリネット、アルト・サックスの中尾勘二からなるインストゥルメンタル・クァルテットでNRQは新興住宅地を意味するニュー・レジデンシャル・クォーターズの略称である。ネット・メディアにはあるまじき遅さで恐縮ですが、彼らは今年のヴァレンタインにファースト・アルバム『オールド・ゴースト・タウン』を〈swi〉からだした。彼らはセッションや別バンドでも活動するミュージシャンたちで、吉田悠樹は前野健太とデヴィッド・ボウイたちの一員だし、服部将典はこのサイトの読者によく知られているであろうShing02の歪曲バンドでの活動をあげればよいだろうし、中尾勘二はコンポステラやストラーダでポピュラー音楽史に足跡をのこしてきた。牧野琢磨は私もメンバーの一員である湯浅湾のギタリストでもある。なんて書くと「また身内でテキトーに褒めあって!」とけなされそうなのだが、私がここまでムダともいえる冗舌を弄してきたのは、いいものはいいと言いたいからだけじゃなく、彼らは私を考えさせるからだ。彼らの音楽はブルースやジャズや軽音楽などの古き良き時代の音楽のエッセンスを抽出したものと思われがちだがそうではない。いや、そうでないことはないかもしれない。NRQの音楽には過去への憧憬がたしかにあるが古典の再解釈ではない。大谷能生はそれをライナーノーツのなかで「あたらしい過去」と呼んでいる。私は前段に書き忘れたが、ゼロ年代までの激化したリヴァイヴァル・ブームは近過去を消費して古典へ接近することになったが、その時点で古典を音楽にとりいれるのはそれまでのリヴァイヴァルの手法も超えなければならなかった。私なりに大谷能生の言葉を煎じ詰めると、「あたらしい過去」には2種類あって、HOSEやcore of bells――関係ないがこの前のライヴには感動した――のように形式の外から形式を操作するメタフィジカルなやり方と、あくまで音楽の内側で音で語る方法があって――もちろんこれは明確に線引きできるものではなく、あくまで比重の問題だ――NRQは後者だと思う。NRQというか、牧野琢磨といいかえてもいい。牧野琢磨は厳密にギタリストであり、彼の言語はギターである。ギターとシールドと数個のエフェクターとアンプと振動する空気があれば牧野琢磨は語るだろう。その語り口にはギターを習得するうちに彼の身体に流れこんだ数多のブルースメンの記憶が介在しているはずだ。彼のファースト・ソロの『イン・ザ・サバーブス』(grid)にすでに兆候はあったが、「古いゴースト・タウン」と名づけたNRQのファーストに作曲と演奏と録音の形であらわれている。編曲と作曲をメロディに溶けこませた吉田悠樹の二胡であるとか、服部将典の強くて味わい深いコントラバスとか、NRQとHOSEとふいごにもいる中尾勘二については長い別稿が必要なほど、それぞれが音楽のゆたかな記憶をもつひとたちだから、『オールド・ゴースト・タウン』を聴いているいまこのときも、「NRQが『ワイド節』をカヴァーしたらおもしろいかもな」とか「私も楽器練習しようかな」とか「5月14日の彼らのレコ発(@マンダラ2)はどうなるのかな?」とか、私は触発され考えはどうどうめぐりするようでいて、彼らの音楽がそうであるように、螺旋を描き、あたらしい場所にたどりつきそうだった。

松村正人