Home > Interviews > interview with Toru Hashimoto - 30周年を迎えたFree Soulシリーズの「ベスト・オブ・ベスト」
私たちは皆、「Free Soul」以後のパラダイムにいる。何を大げさなことを、と思うかも知れないが、こればかりは確実にそうなのだ。音楽を楽しむにあたって、そこに聞こえているグルーヴや、ハーモニーの色彩、耳(肌)触りを、その楽曲なり作り手であるアーティストの「思想」や「本質」に先んじる存在として、自分なりの星座盤とともに味わい、愛で、体を揺らすというありようは、現在では(どんなにエリート主義的なリスナーだとしても、あるいは、当然、どんなに「イージー」なリスナーだとしても)多くの音楽ファンが無意識的に共有するエートスとなっている。だからこそ、その革新性にかえって気付きづらいのだ。しかしながら、そうした音楽の楽しみ方というのは、元々は1990年代に少数のトレンドセッターたちによって試みられてきた、(こういってよければ)「ラジカル」な価値転換によって切り開かれてきたものなのである。その事実を忘れてしまってもいまとなってはそこまで困ることはないだろうが、同時に、その事実を丁寧に噛み砕きながらリスニング文化のこれまでを振り返ってみる行為にも、思いの外に巨大な楽しみがあるものだ。
そう。Free Soulとは、あなたと私にとって、紛れもない「空気」なのだ。それも、いざ思い切り吸い込んで味わってみれば、その爽快感と美味が病みつきになってしまうたぐいの。
いまから30年余り前。Free Soulという「発明」は、いったいどうやって成されたのか。「発明家」橋本徹は、そのときにどんなことを考え、何を提案しようとしていたのか。そしていま、どんな思いでFree Soulという我が子と対面するのか。30周年を記念する「ベスト・オブ・ベストFree Soul」なコンピレーション・アルバム2作品=『Legendary Free Soul ~ Premium』(Pヴァイン)と、同『Supreme』(ソニー)の発売に際し、じっくりと話を訊いた。
マニアの狭いコミュニティの中での評価とかレア度とかで何を載せるのかを決めるんじゃなくて、どういうふうに紹介するか、もっといえばどういうふうに「見せる」かということをすごく意識していました。
■橋本さんは「Free Soul」というコンセプトを立ち上げる前に「Suburbia」のシリーズや同名のレコード・ガイドを展開されていますが、どういった経緯でFree Soulというコンセプトが生まれてきたんでしょうか?
橋本:Suburbiaでは、フリーペーパーの時代から、基本的にソフトでスマート、スウィートでソフィスティケートされた音楽――具体的には、フレンチやボッサ、カクテル感覚のジャズ、映画音楽、ソフトロックなど――を新しい感覚で楽しむことを提案していたんです。それで、渋谷のDJ Bar Inkstickでやっていたパーティや、TOKYO FMの番組「Suburbia’s Party」の集大成的なものとして、1992年末に『Suburbia Suite; Especial Sweet Reprise』という本を出したんですが、いろんな中古レコード・ショップが本に載っているタイトルを掻き集めて売るようになったり、各レコード会社から再発の相談を受けたり、とても大きな反響があって。まずはそれが前段階ですね。
■それまではあくまでメーカー側主導のリイシューが主流だったことからすると、リスナーの側が作ったカタログ本が再発のきっかけになったというのはかなり革新的なことですよね。
橋本:そうですね。業界からリスナーへと情報が降りてくる従来のルートとは反対の矢印だったんです。そしてそれは、1990年代のいろんなカルチャー・シーンで同時に起こっていたことでもありますね。ありがたいことにたくさんのリイシュー監修のオファーをいただいて、すごく充実した1993年を過ごしていたんですが、そもそもSuburbiaで紹介していた音楽というのは、僕の嗜好の中のあくまで一部分だったんです。次第に、自分がリスナーとして熱心に聴いていたUKソウルやアシッド・ジャズと共振するテイストと、一冊目のレコード・ガイドで提示した過去の音楽の新たな解釈とか、当時の東京ならではのリスニング・スタイルを合流させていきたいなと思うようになって。
■そこで、70年代のソウル・ミュージックとその周辺の音楽をFree Soulというタームとともに提案するようになった、ということですね。
橋本:はい。一冊目のSuburbia本の続編や縮小版みたいなものをもう一度やるよりも、そのときの自分の熱い気持ちを反映したコンセプトにしたいと思っていたんです。ある種のコントラストを見せたかったということですね。そこから、1994年の3月に「Free Soul Underground」というDJパーティをはじめて、翌月に二冊目の本『Suburbia Suite; Welcome To Free Soul Generation』と、Free Soulのコンピレーション・シリーズ第一弾である『Impressions』と『Visions』が出たんです。もともと、『Impressions』と『Visions』も、〈BMG〉のディレクターがサントラ~ラウンジ系のレコードの再発企画を持ちかけてきたのに対して、こちらから「次はソウルで行きませんか?」と逆提案したものなんです。
■周囲からの反応はどんなものでしたか?
橋本:最初の頃は「え? ソウル?」みたいな反応がかなりありましたね。けれど、NANAの小野英作くんがデザインしてくれたロゴやアートワークの魅力も大きかったと思うんですが、若い女性含めて、それまでソウル・ミュージックに馴染みのなかったリスナーがこぞって手に取ってくれたんです。
■まさに、「切り口」の勝利。
橋本:そういう意味では、僕が1992年に初めて手掛けたコンピレーション『'Tis Blue Drops; A Sense Of Suburbia Sweet』が好評だったというのも、前夜的な流れとしてとても重要でした。ウィリアム・デヴォーンとかカーティス・メイフィールドのメロウ&グルーヴィーな曲が入っているんですが、いかにもソウルっぽいヴィジュアルは避けて、スタイリッシュで洒落たジャケットにしたんです。
■それまで、ソウルやブラック・ミュージックのファンといえば、一方ではマニアックなおじさんたちが蠢いていて、片や六本木あたりのディスコでちょっとやんちゃな人たちが楽しんでいて……というイメージだったわけですよね。
橋本:そうそう。頑固なコレクター的な世界と、「ボビ男」くん的な世界がほとんど(笑)。そういうイメージが強固にあったからこそ、いわゆる渋谷系的なセンスと重なり合うヴィジュアル面での工夫がとても重要だったんです。
■その辺り、Suburbiaの活動と並行して出版社に勤めていた橋本さんならではのエディトリアルなセンスを感じます。
橋本:そういう感覚はフリーペーパーの時代から特に意識せずとも自然と大切にしていましたね。マニアの狭いコミュニティの中での評価とかレア度とかで何を載せるのかを決めるんじゃなくて、どういうふうに紹介するか、もっといえばどういうふうに「見せる」かということをすごく意識していました。だからこそ、当時ブラック・ミュージックの大御所の評論家の方から「まったく、重箱の隅をつついて……」みたいな小言も言われましたけどね(笑)。
日常の全てが幸せなわけではないけど、前向きなマインドになれたり、輝く瞬間があって。そういうありふれた日常を励ましてくれるのがFree Soulであり、『LIFE』だったんじゃないでしょうか。
■ご自身のソウル原体験はどんな感じだったんですか?
橋本:80年代前半にイギリスのインディ・シーンから出てきたアーティスト、例えばアズテック・カメラやペイル・ファウンテンズ、エヴリシング・バット・ザ・ガールなどの影響元を探っていくうちにっていう流れですね。いちばん大きかったのはスタイル・カウンシル。ポール・ウェラーはソウルからの影響を特に頻繁に公言していたし、実際にカーティス(・メイフィールド)をカヴァーしているので、高校生くらいから自然と興味を持つようになったんです。オレンジ・ジュースもアル・グリーンのカヴァーをやっていたりとか。そこからまずはマーヴィン・ゲイ、ダニー・ハサウェイ、スティーヴィー・ワンダー、ビル・ウィザース、スライ(&ザ・ファミリー・ストーン)あたりを好きになって。
■日本で言うところの「ニューソウル」系ですね。
橋本:はい。一応は当時出ていたブラック・ミュージック評論家の方たちの本も買って読んだりはしていたんですけど、激賞されているものがあまり刺さらなかったり、反対に、自分が素晴らしいと感じたものが軽視されたり無視されていたりして(笑)。やっぱり、物差しというか価値観が違うんだなとその時点から思っていました。
■レアグルーヴとの出会いはいつ頃ですか?
橋本:80年代後半、大学生の頃でした。ダンス・ジャズやアシッド・ジャズのムーヴメントもあまり時差なく日本に伝わってきて、自分と近い感覚だなと感じていましたし、フィロソフィー的にもシンパシーを抱くようになっていきました。
■DJという存在を意識するようになったのは?
橋本:少し後、1990年前後だと思います。大学3、4年くらいから渋谷や青山、西麻布あたりの小箱に遊びに行くようになって、徐々に意識するようになりました。けど、その頃は後に自分でもDJをするようになるとは思っていなかったですね。むしろ、〈アーバン〉とか〈チャーリー〉とか、UKのいろんなレーベルから出ているレアグルーヴ系のコンピレーションを通じて、コンパイラーという存在に先に興味を持っていました。もともとプライベートな選曲テープを作るのが好きだったので、それと同じ感覚で楽しんでいましたね。「これはバズ・フェ・ジャズっていう人が選曲していて、こっちはジャイルス・ピーターソンがやっているんだな」っていうふうに。
■ある種の統一的なセンスを元に、一見無関係そうな曲を並べるっていうコンピレーションのあり方自体が新鮮だったということですよね。
橋本:そうです。当時は、単純にビッグヒットを並べただけとか、単体アーティストのベスト盤にしても、律儀に年代順に並べたものばかりだったので。いちばんわかりやすいのがジェイムス・ブラウンのベスト盤ですね。既存のものは、ほとんどが「プリーズ、プリーズ、プリーズ」はじまりなわけですよ。こっちはもっとファンキーなものを聴きたいのに(笑)。だからこそ、クリフ・ホワイトがレアグルーヴ~ヒップホップ世代に受けそうな曲を中心に選んだコンピ『イン・ザ・ジャングル・グルーヴ』(1986年)が新鮮だったんです。後にFree Soulでアーティスト単体のコンピを出すにあたっても、そういった発想にはかなり影響を受けていると思います。
■音楽ファンの全員がそのアーティストのことをクロノジカルに研究したいと思っているわけじゃないですもんね。
橋本:まさにそうですよね。
■ロックを中心とした旧来の音楽ジャーナリズムやエリート主義的な音楽リスナーのコミュニティでは、それって「不都合な真実」でもあったわけですよね。それを、レコード好きの視点から鮮やかに提示してみせちゃったというのは、ある意味でパラダイム転換だったと思うんですよ。
橋本:評論的な観点から音楽を聴く人なんて、音楽好きの中でもごく一部だけでしょう。大勢の人はあくまで感覚先行で聴いているんですよね。Free Soulが大事にしてきたのも、まさにそういうリスニングのあり方なんです。
取材・序文:柴崎祐二(2024年8月27日)
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