現代の私たちは、手のひらにある四角いガラス板の上で指を滑らせるだけで、あらゆる情報に触れることができる。だが、それはシステムの「表面」をなでているに過ぎない。
パーソナル・コンピュータの父であるアラン・ケイがかつて、コンピュータを「粘土」に例えたのは、単なる操作感の話ではない。ユーザー自身が内部構造(プログラム)に手を突っ込み、骨格から作り変える──そんな自由を理想としたからだ。
2026年現在、アルゴリズムが未知との遭遇すら「計算可能なレコメンド」として差し出す、この無菌化されたデジタル・グリッドの中には、あの泥遊びのような手触りは存在しない。
だが、いまから40年前、無機質なシンセサイザーの群れを前に、電子音のしなやかな抵抗を指の腹で探り、その柔らかな手応えを確かめるように作品を編みあげた音楽家がいた。ジャズ・ピアニストという枠を超え、音の深淵を歩み続けた菊地雅章である。
1958年に18歳でプロ・デビュー後、渡辺貞夫や日野晧正との共演を経て渡米。ギル・エヴァンス・オーケストラへの在籍やマイルス・デイヴィスのリハーサルへの参加などの活動を続け、81年にシンセサイザーを導入したアルバム『Susto』と『One Way Traveller』を発表。その後、本作『六大 (地・水・火・風・空・識)』の制作に、80年代の大半を費やすこととなった。
菊地は本作では、録音した音の上に別の音を重ねていくオーヴァー・ダビングを封印した。事後的な音の塗り重ねや、時間軸を跨いだ修正は、彼にとって「音楽からの後退」を意味したからだ。必要なのは、一瞬の判断が生命線を分かつ、逃げ場のない「いま」への即応である。彼はすべての音をライヴ・ミックスしながらダイレクトに録音していく、彼自身が「リアルタイム・シンセサイザー・パフォーマンス」と呼んだ手法に没入していった。ごく簡単に言ってしまえば、大量の機材群(YamahaのDX7が6台、同じくQX1が4台、OberheimのOB-8が2台など、挙げればきりがない)をつなぎ、自動演奏パターンを仕込み、その上に即興ソロを乗せ、ミックスも同時にこなしながら、一発録りで完成させるという、極めてスリリングな方法だ。放たれる無数の電子音のなかで、その瞬間瞬間の判断を積み重ねながら、誰の目にも映ることのない巨大な彫刻をひとりで削り出していくような作業である。
真言密教において万物を構成するとされる6つの要素──「地水火風空識」をタイトルに据えたこの全6作のプロジェクト。その幕開けとなるのは、憂いを帯びたレゲエのリズムの曲 “Reggae Triste” からはじまる『地・EARTH』だ。2曲目の “Andes” では、ガガーリンが宇宙から眺めた青い球体の光景から、人類が生まれる前の地底から突き上げられるカオスまでが、縦横無尽に拡散していく。
その混沌を潜り抜けた先で、聞き手の意識をさらに深くへと引き込んでいくのが『水・WATER』だ。“Moon Splash” には、月光の飛沫が水面に弾けるような輝きと、底知れぬ不気味さが同居している。一方、“Aurola” で展開される、覚えのない影が背後を追ってくるような鏡的なシンコペーションは、後に登場するレイ・ハラカミの繊細な叙情や、エイフェックス・ツインの『Selected Ambient Works』が提示した孤高のサウンドへと繋がる、まだ誰も知らない予兆に満ちている。さらに特筆すべきは “Water Song” だ。BPMは121。突然、立体的なビートが立ち上がるこのトラックは、あらゆる方向からきめ細やかな音の粒が曲全体を纏う。深夜のクラブのメインフロアでこの曲が鳴り響くとき、人びとは瞬く間に平衡感覚を明け渡し、ただただ眩暈を伴う恍惚に呑み込まれていくに違いない。
対照的に『火・FIRE』では極めて強いミニマリズムが支配し、『風・WIND』では穏やかさとは無縁の、ある種の恐れや不穏さを帯びた音風景が広がる。ミュジーク・コンクレートにも似たサウンドが漂う『空・AIR』では、どこか宗教的な響きも持ち合わせている。
そして、プロジェクトの帰結とも言える『識・MIND』へと辿り着く。恐れずにいえば、約50分に及ぶこの楽曲には、終わりに向かう気配がない。ミニマルなループのイントロダクションが作り上げる網目を、一定の体温を保持した電気信号が、するすると滑り落ちていく。はっと息をのむのは、曲が30分に差し掛かろうとする直前。胎動か、あるいは宇宙の鼓動か。巨大な生命の脈動が、約1分間続く。『地・EARTH』からはじまった本作は、ここへきて、私たちの頭上の遥か彼方に意識が吸い上げられ、いつの間にか自分の身体の輪郭が曖昧になっていく。
坂本龍一が信頼を寄せたテイラー・デュプリーによるリマスタリング、金岡秀友、稲岡邦弥、須川崇志、そして原雅明という、多角的な視点を持つ4名によるライナーノーツに加え、原雅明の著作『アンビエント/ジャズ マイルス・デイヴィスとブライアン・イーノから始まる音の系譜』に収録された菊地の1997年の未公開インタヴューも、本作を聴くための強力な補助線となる。機材の詳細、制作秘話、シュトックハウゼンやイーノへの傾倒、フランソワ・Kのレーベルからリリースされたハウスのトラックを作ったときの心境まで。それは過去を懐かしむためではなく、「いま」と真摯に向き合うことを一度も手放さなかった、ひとりの人間のドキュメンタリーだ。ただ、意外なのが、ここでの菊地の語り口が、ストイックな音楽とは裏腹に驚くほど軽やかなことだ。飾らない言葉で、包み隠さず話すその率直さに触れたとき、この作品を「超大作」と身構えて聴いてしまっていた自分を、どこか恥じるような気持ちにさえなってしまった。
インターネットは世界を広げるどころか、色彩豊かな現実を遮断し、私たちの感性を日々狭めている。そこにあるのは、アラン・ケイが危惧した「遠隔操作」のような手応えのない世界であり、予期せぬノイズを排除した〈管理された偶然〉の虚構だ。しかし、菊地雅章が本作で示したのは、その真逆にある。テクノロジーを自らの身体の延長として扱いながら、それらを支配するでもなく、されるでもなく、長年に渡り電子音と向き合い、対話を続けてたどり着いた、コントロールの向こう側にある〈あるべき偶然〉。そこには、あまりにもやわらかな生命が、息づいている。
「『リアルタイム』っていうのは “いま” に対するフレキシビリティがないと絶対にできないからね」
── 菊地雅章









