「Dom」と一致するもの

interview with Kikuchi Naruyoshi - ele-king


菊地成孔00年代未完全集『闘争のエチカ』(上下巻)
イーストワークス

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 「瓢箪から駒」というか「バタフライ効果」というか、3年前に活動休止したデート・コース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデン(以下デート・コース)の突然の復活劇に私の提案が一役買っていたのは、眩暈のする気分だった。70年代のマイルス・バンドのベーシスト、マイケル・ヘンダーソンが往時のマイルス・バンドを再結成し日本に来たがっているという話をあるひとから聞いて高見氏の耳にいれたのは私だったからだ。もう2~3年前の話だから、すっかり忘れてしまって、まあ立ち消えたのだろうと思っていた私は、ゼロ年代全集『闘争のエチカ』を出し、10月9日に日比谷野外音楽堂でのライヴを控えた菊地成孔の口からその話を聞くにおよび、不思議な感慨をおぼえた。
 
 ともあれ話は動き出しており、それはあの10年とはちがうこの10年に波風を立たせないはずはなく、私は3年ぶりの活動再開は休止というにはスパンが短いとも当初思っていたが、いまは考えをかえた。非常にたのしみになった。私は菊地成孔とちがい、運命論はほとんど信じない。決定論から逸れるのがおもしろいと思っている。決定論へのすききらいは別にして、全集に--これはあくまで全集の「構え」をしたものと断ったうえで--闘争のエチカ(倫理)とつけた菊地成孔にはゼロ年代からつづく運命とも公理とも正義とも道徳ともいえるものへの諧謔がありいささかも衰えていない。

「マイケル・ヘンダーソンがあのときのエレクトリック・マイルスのメンバーを招集してライヴして、そのフロント・アクトでデート・コースもリユニオンして一回だけ演りませんか?」と高見くんに訊ねられ、「だったら演る」と答えたのね。

デート・コースが復活したいきさつを教えてください。

菊地成孔:(プロデューサーの)高見(一樹)くんにだまされたというのが本当のところです(笑)。

そんなこと書けませんよ。

菊地:いいよ書いて。2年くらい前、アメリカでマイケル・ヘンダーソンがエレクトリック・マイルスのリユニオン・バンドを作った。ついては日本公演がしたいと第一報があったのね。そのとき僕は『オン・ザ・コーナー』のバンドでのリユニオンだともうちょっと細かい話を聞いていたんだけど、「マイケル・ヘンダーソンがあのときのエレクトリック・マイルスのメンバーを招集してライヴして、そのフロント・アクトでデート・コースもリユニオンして一回だけ演りませんか?」と高見くんに訊ねられ、「だったら演る」と答えたのね。リユニオンといっても一度だけだし、旧メンバー集めて演奏して「よかったね」で終わると思って一年くらい交渉を待っていたの。だけど、待てど暮らせど......というか、よくある話なんだけど二転三転して、最終的にその話自体がなくなったはいいが、途中経過で野音を押さえてしまっていた、と。
 マイケル・ヘンダーソンの話は黒人にありがちなブラフで、結局エレクトリック・マイルス・バンドの来日公演というこっちがワクワクするようなものじゃなくドサまわりだとわかってきたんだけど、ギリギリまで粘ったんですよ。じゃないと、デート・コースが単体で活動再開ってことになりかねないから。僕はそれはイヤだといったわけ。というのは、野音がデート・コースが活動を再開するからっていっぱいになるわけないと思っていたから(笑)。もう誰も憶えてないよって。

「誰も憶えていない」は極論だと思いますが。

菊地:だとしても野音は規模がちがう。マイケル・ヘンダーソンに興味をもったひとが「そういえば昔デート・コースってバンドがあったな」って、久しぶりに見るのも悪くないというかね。だから高見くんには、一所懸命頼んで、最終的には「マイケル・ヘンダーソンひとりでもいいから旅費払って呼べ」っていったの(笑)。「デート・コースにマイケル・ヘンダーソンが入るのでもいいから、単独で活動再開っていうのはやめてくんない」って(笑)。だけど彼はそんなこと聞くひとじゃないから、僕の望みなんかたいがい叶わない。で、自分たちだけで野音やるはめになった(笑)。「だったら」ってこっちも降りる目もあったんだけど、そのころには再開に向けてマイケルの話とは別に気持ちが高まっていったところもあったから、彼の来日がなくなったのはたまらないものはあったけど、「でもまあ、やるか」って感じにはなってきていた。どうせ活動再開を謳うなら、懐かしいメンバー中心ではなく、僕以外は若いメンバーで--マイルスのスタイルですが--再構築しようと考えたんです。アルバムのリリースやライヴの頻度は別にして、まずは野音とボロ・フェスタで(新生)デート・コースをたちあげるのに、全体の計画がシフトしてきたわけ。シンシアにいうと、なにもない状態から「デート・コースをもう一回やるべきだ」というモチベーションが生まれてきたわけではない。

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若手にはデート・コースのチルドレンみたいなヤツがいるんだよね。僕の教えている生徒にはティポグラフィカのライヴにはとうとう行けなかったけど、音源を全部もっていて、「楽譜みせてください」とか「自分で採りました」って子がいっぱいいるわけ。


菊地成孔00年代未完全集『闘争のエチカ』(上下巻)
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活動休止から3年の期間をどう見るかですね。しかしそれは瓢箪から駒かもしれないですね。

菊地:そうであってほしいけれども。ただエレクトリック・バンド、デート・コースと名乗るかどうかは別として、ここのところフル・アコースティックのバンド活動に傾いていたから、そろそろファンキーなもの、5~6人のスモール・コンボでポリリズムを主題にしたエレクトリック・バンドはやろうとずっと思ってはいたの。

メンバーは事後的に考えたわけですね。

菊地:そう。旧メンバーで「こいつだけはどうしても」っていうひとには残ってもらって。

それはどなたですか?

菊地:坪口(昌恭)と大儀見(元)と(津上)研太。それと僕を加えた4人が残る。あとは全員変える。

新デート・コースのパーソネルを可能な範囲で教えてください。

菊地:千住(宗臣)くんとJ・A・Mとかソイル&ピンプ・セッションズのピアノの丈青くんはわかるだろうけど、ほかは生徒とかアマチュアからハントしたひととか、名前を知られていないひとたち。厳密にいうとニコニコ動画のテクニック系動画マニアの間では有名とか(笑)、そういう名声あるけど、一般的には無名ですね。

リハーサルはもうはじったんですか?

菊地:明日(取材日は2010年9月15日)が初日。

期待と不安半々ですね。

菊地:僕にとっては千住くんや丈青くんの方がむしろ未知数ですよ。彼らの場合いろんなツテを頼ったけど、ほかのメンバーは自分で選んだからポテンシャルがだいたいわかる。若手にはデート・コースのチルドレンみたいなヤツがいるんだよね。僕の教えている生徒にはティポグラフィカのライヴにはとうとう行けなかったけど、音源を全部もっていて、「楽譜みせてください」とか「自分で(音を)採りました」って子がいっぱいいるわけ。彼らはそこからデート・コースに進んで......なんというかな、種はまいたというかね。いま20代でデート・コースのライヴにギリギリ間に合ったくらいのプレイヤーがでてきた。そういったひとたちからもらったデモ・テープを聴くと、彼らは最初からデート・コースを聴いて育っているから血肉化されているんですよ。ロックンロールのパイオニアに対する第二世代というか、下の世代が育っていることに気づいたんですよ。

デート・コース的な言語でしゃべるネイティヴですね。

菊地:そうそう。彼らは若いし、前のデート・コースの最大のネックだったスケジュールや活動資金の問題もクリアできる。さらに彼らはリズムに対するリテラシーが高い。メンバーがあらかじめ曲を全部知っていれば、マイルス・スタイルを採用しても対応可能であり、現にそういったひとたちが複数名いたというのが活動再開の契機でもありましたね。

ミュージシャンに技術があってもコンセプトを飲みこめないと演奏できないでしょうからね。

菊地:上手いということは結局万能ではないからね。

菊地さんは教鞭をとられてもいるわけですが、この10年の菊地さんの活動によって、若いリスナー一般のリズムのリテラシーが高まったということですか?

菊地:全体はなにも変わってない。むしろ退化している。というのはいいすぎにしても、ほとんど変わってないですよ。いまいったひとたちは好事家であって、アメリカのどの州にも何人かはザッパが死ぬほど好きなマニアがいる、というような意味です。

テープを擦り切れるほど聴いてコピーして、ザッパ・バンドに入りたいひとたちですね。

菊地:オーディション待っているひとたちね。じっさいザッパ・バンドってそうやって長い時間かけてまわっているわけでしょ。いまはザッパの時代とちがうから、YouTubeがあって音源も共有ソフトでとれるし、はいりこむ回路はいくらでもある。新生デート・コースのメンバーは東京にいて、デモ・テープをもらった数人の直接コンタクトできる子たちから選んだけど、時間があればオーディションしたかったですよ。

菊地さんの活動に啓蒙されてリズムのリテラシーが変わったひとは少数であったとしてもいた、ということですね。

菊地:僕がこの10年やってきたことは、ゼロからはじめることだったんです。リテラシーがゼロなのを、友人である優れたミュージシャンたちにやらせてきたのをファースト・インパクトだとすると、それを聴いて育ってひとがでてきて刈りとるセカンド・インパクトが当然うまれるわけ。あらゆる音楽史にとってそれは必然です。僕のゼロ年代にやったことは全部同じで、頭のなかでコンセプトを作り、それをすでにキャリアがある友だちたちにやらせて、結果的にうまくいった、その繰り返し。だから第二世代がでてきたこと自体がすごく新鮮なんですよ。ロックンロールや、レゲエやヒップホップみたいなジャンルではもっと短いスパンでそういった現象が起こるわけで、うちらにもそういったタームに入ったか、と驚いたところもある。それがマイケル・ヘンダーソン不在にも関わらずモチベーションがあがった大きな要因ですよね。

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リテラシーを高くとることで賞味期限を伸ばそうという戦略があったわけではないけど、結果としていまの日本人全体にはポリリズムとか複合リズムはリテラシーは高いものになってしまっている。だからいつまで経っても消費されない感じがある。

『闘争のエチカ』はベスト盤......というか総括とも全集ともいえるものですが、菊地さんのいうゼロ年代は『闘争のエチカ』に集約されたと考えていいですか?


菊地成孔00年代未完全集『闘争のエチカ』(上下巻)
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菊地:『闘争のエチカ』は最初、〈イーストワークス〉のワークスをCDボックスで出そうというありきたりな話で進んでいたんですよ。〈イーストワークス〉の仕事というのは、ゼロ年代というディケイドを前半と後半にわけると、後半なの。00年から05年はスパンク・ハッピー、デート・コース、『スペインの宇宙食』で、後半は歌舞伎町でジャズ。2005年に『情熱大陸』に出演しているから、ちょうどカードの裏表みたいにバチッとわかれる。ディケイドは半分に割れるものだから。その考えで、〈イーストワークス〉ワークスを出すとなるとカードの裏面、後ろ側の5年の全集が出ることになる。それで高見くんにムリは承知で「デート・コースとスパンクスも入れた、この10年の前半も入れた全集が出せたらいいね」っていったんですよ。そうしたら高見くんはもちまえの行動力でそれを実現したわけ。「全部いけますよ」となったときに「じゃあ徹底的にいこう」と。「CDの何枚組っていうのはやめて、4ギガのUSBメモリに全部入れる」となった。僕はご存じの通り、ハードは全然知らないから、「おもしろいね、これ」といっただけなんだけど、いずれにせよ、商品形態としては一個人の10年間の活動を動画と静止画とテキストをあわせて4ギガバイトのメモリに収録して1万円というのは世界初だからね。値段の設定もよくわからなかった(笑)。「安すぎ」だっていう声もあるし、「高くて買えない」っていう若い子もいるという。その意味ではすごく現代的で、昔みたいに鶴の一声で価格をいえば国民のコンセンサスが得られる時代じゃないから値段つけるところから楽しくやったわけだけど、仕事の総括ということとニュー・メディア、新しいプロダクトを出す喜びが重なってきた。デート・コースの活動再開とは時期がダブったのは偶然(笑)。デート・コースは映像がでかくて、夏目(現)くんが撮影した映像が膨大に残っているんだけど、初心者はもちろん、マニアでも見たことのない〈みるく〉でのライヴ映像なんかを入れたらちょっとしたプロモーションにはなるかな、と大急ぎでこれが野音前夜に向けて制作されたという事の次第です(笑)。

〈みるく〉ももうないですからね。菊地さんはコンテンツを確認されたんですか?

菊地:もちろん。高見くんとふたりで全部確認して写真も全部選んで、ライヴ音源も山ほどあるもののこの部分を使おうと指示して、相当な難事業でした。最初は新録がいらないから楽だと思っていたんだけど(いままでで)一番キツかった(笑)。2004年の仙台でやったライヴとか、「ひょっとしたらいいテイクがあるかもしれない」って見るんだけど、全部"ヘイ・ジョー"とか"キャッチ22"なの(笑)。

気が狂いそうですね(笑)。

菊地:狂うよ(笑)。それを乗り越えて、厳選に厳選を重ねました。

キツかったのは過去の自分に対峙するのがキツかったわけではなくて?

菊地:いや、過去の自分の対峙するのは誰でもそうであるように僕だってキツかったですよ。10年前の映像を見るのなんてイヤなものじゃない。でもそのキツさは最初だけで、自分史を補強したというか、精神的なつらさはそれほどでもなくなった。

そのうえで自己分析するとどうなります?

菊地:「多岐にわたる活動」といわれてきたけど、僕のこの10年やってきたのは構造レベルに還元すればひとつだなと思った。全部ポリリズムとポリグルーヴだよね。そういうことも頭では理解していたけど、目のあたりにすると「なるほどな」と思いました。

「なるほど」というのは過去あるいは表現への所有感ですか? 

菊地:音楽の衝動っていうのは個人から出ているとはいえ、もっと共有的なものだと思うよね。だから所有感というより、ともすれば忘れてしまうちょっと前のことだとか、「いろんなことをやっている」といわれるうちに自分でも「いろんなことをやっている」と思いがちだけど、つまるところストーンズみたいな金太郎飴状態ではなくても同根感はあるということです。YMOとかソロとか、坂本龍一さんの音楽はいろんな要素を孕んでいそうだけど、結局のところ、ドビュッシー風の和音がポップスに乗っかってくるというそれだけをつづけている側面があるのと同じで、結局僕はブラック・ミュージック発のダンス・ミュージックの新しい形を模索し、ジャズをどうレコンキスタさせるかを模索しているだけです。

それはこの10年のテーマですか? それとも通史的な?

菊地:10年間を総括して、掛け値なしでよかったと思ったのは消費されきってないということなんですよ。リテラシーを高くとることで賞味期限を伸ばそうという戦略があったわけではないけど、結果としていまの日本人全体にはポリリズムとか複合リズムはリテラシーは高いものになってしまっている。だからいつまで経っても消費されない感じがある。スパンク・ハッピーみたいに例外はありますけどね。あれはポップスだったから、即消費され即分析され、ネットで書かれたり二次制作にまわされたけど、ほかのものにはミスティフィケーションが生きているんですよ。

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いま感じているのは社会単位といっても個人単位といってもいいけど、またリテラシーが下がっているということ。90年代は音楽に対するリテラシーが極限までいって、ちょっとした大学生もレア盤に詳しかったじゃない(笑)。いまのちょっとした大学生はレア盤にくわしくない(笑)。


菊地成孔00年代未完全集『闘争のエチカ』(上下巻)
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リテラシーという言葉には難解なものを理解するという意味をこめてます?

菊地:難解さの定義は明快さの定義と表と裏で、フランス語に対して日本語が難解かという図式であって、難易度ではないよ。よくイタリア語にRの発音がないから日本人にやさしいとかアフリカの言葉には複雑な拗音や促音があるから日本人にはむずかしいとはいうけど、それは極大値の話であって、平均値をとったら、なにが難解かという話ではなくてただの文化的な差異でしょ。
 10年間やったことでもうひとつわかったことがあるんだよ。大友(良英)なんかと比べるとよくわかるんだけど、海外にもっていって外国人がどう反応するかというテストは僕はしなかったのね。大友は作品を作って、外国に売りにいく。そうすると、エキゾチシズムを含めて外国に市場があることがわかって、それは彼の90年代の経験がそうさせていると思う。これからやっていこうと思っているもののひとつはそれで、じっさい、キップ(・ハンラハン)とかマルタン・メソニエだとかそういったひとには、日本人の音楽評論家や音楽家よりもはるかにストレートに通じて大喜びするわけよ。ドメスティックでやっていくのを自分に課していたわけではないけど、この10年ドメスティックでいたよね。デート・コースをアメリカにもっていこうとか、ダブ・セクステットでどこかにいこうとか、そういった話はあったけど、神の見えざる手でことごとく潰れていくわけ。そういう意味では僕の音楽にとって難解さは程度でしかなく、文化的な差異、つまりリテラシーといういい方がいちばん正しく、日本人にとってはリテラシーの高い音楽になってしまったけど、コスモポリタンにとってはどうかなという思いはありますよね。このあいだ、(エルメート・)パスコアールがきたとき、〈ジャズ・ドミューン〉でティポグラフィカとぺぺ(・トルメント・アスカラール)を聴かせたら、「メチャメチャいい」とかいっているわけ、普通に。

大友さんはエキゾチシズムを輸出した側面があったとしたら、菊地さんのおっしゃっているのは翻訳可能性というか、普遍言語としてのリズムで向こうのフィールドに割っていく感じですよね?

菊地:そうそう。だからある種のイグザイルというか、国内においては一種の不適合ではあるよね。

ディアスポラともいえる?

菊地:それは重要かもしれないし、海外でいざやってみると意外と簡単に消費されるかもしれないからね。不適応を抱えたひとがずっと東京の新宿にいることのほうがおもしろいかもしれないわけだから。

2010年代にそこにあえて乗りだしていこうという気が芽生えつつある?

菊地:うーん。ゼロ年代の総括として、複合的なファクターでそれをやらなかったことはたしかで、ゼロ年代の積み残しとして2010年代にそれをやってみようかなと思う部分もあるということだよね。ゼロ年代もトライはしていたんだけど、僕は極端な運命論で、ダメなときはどんなにがんばってもダメで、うまくいくときは放っておいてもうまくいくと思っているから(笑)。今回のデート・コースの野音のフロント・アクトもリッチー・フローレスとペドロ・マルチネスの〈アメリカン・クラーヴェ〉の連中だしさ。(デート・コースの)解散コンサートにキップいたんだよね。キップはデート・コースを大好きだし、僕の旧譜もだいたい聴いて大好きだと。それはヒップホップでいうシンジケートみたいなもので、外国とのネットワークは模索しつつある。

菊地さんはゼロ年代と10年代の空気のちがいをどこに感じます、現時点で?

菊地:歴史は線的に発展しつづけるんだという、いわゆる20世紀的な近代史観というものがあるよね。音楽でもそこに寄与したひとはマイルスをふくめていっぱいいるけど、20世紀のなかば過ぎにそういった考えはダメだ、もしくはまちがいだと主張するひとたちが出てきた。そういう解釈の柔構造として出てきたのがビーガンとかロハスで、彼らは近代を止めろといっているわけだよね。僕はそういったひとたちを批判はしないけど、考えは足りないとは思う。このままいったら破滅するから破滅しないために近代化を止めようといっても止まらないわけで、彼のいっていることは志は高いけどムダな抵抗だと思うわけ。そんなことしなくても、人類史には波みたいなね、行き過ぎたあとの空白みたいな部分がかならずあって、ゼロからやりなおすポイントがある。「マヤ文明は科学が発達したのに一夜にして消えました」とかね(笑)。

ずいぶん遡りましたね(笑)。

菊地:そういうのも喧しくいわれてきたし、レヴィ=ストロースに代表される「インディオの時間は円環している」というような反近代的な時間感覚とか反近代的な文明史も唱えられていたけど、僕はどれもピンとこなかった。というのは、iPadにしろiPhoneにしろ、じっさいにモノは発達しつづけているわけで、たった20年前にはケータイもないわけじゃない。一方でこんなに発達しているものを抱えつつ発達を止めろといってもムリだという気持ちを抱きながらゼロ年代はずっとやってきんだけど、いま感じているのは社会単位といっても個人単位といってもいいけど、またリテラシーが下がっているということ。90年代は音楽に対するリテラシーが極限までいって、ちょっとした大学生もレア盤に詳しかったじゃない(笑)。いまのちょっとした大学生はレア盤にくわしくない(笑)。90年代は音盤的知識がユースに行き渡って、ゼロ年代には構造分析が主流になって、ユースのポピュラー・ミュージックへの解像度がどんどんあがっていくんだと、すくなくとも20世紀的な見地ではいいたかったわけだよね。でもまったく上がってない、どころか下がっている気が、いましています。それが白紙に戻って、10年代はもう1回トライするイメージがありますよね。

そこで必要なのが倫理(エチカ)だと?

菊地:そういうこと。エチケット、エチカがないからどこまでずるずると動物化したわけで、それによって身体性をかなり喪ったと思うんだよね。音楽はどうしても身体的なものだから、それに引きずられるようにして、音楽の身体的なリテラシーが下がってしまった。〈ジャズ・ドミューン〉のあとに〈クラブ・ドミューン〉になるじゃない。Twitterで〈ジャズ・ドミューン〉の間のリプライを全部読むじゃない。読んでいるうちにDJが登場して、TLは「このDJヤバい」ってコメントで埋まるんだよね。それをみていると、ある意味ものすごいリテラシーが高いんだけど、音楽そのものの構造に対するリテラシーはなきに等しいというかね。それは悪い意味ではなくて、そういう状況なんだな、ということですよね。しかもそういったひとたちも数すくないストリーミングでクラブ・ミュージックを聴きたい一部の帰属層っていうかさ、ユース全体ではなくて、アッパー・ユースというか、かつてよくクラブにいったひとたちかもしれない。だからまあ、自分と同じ年配や上のひとたちがどう思っているかは、自分も中年になったからわかってきたけど、いつでも若いひとに刺激を与えるにはどうしたらいいかつねに考えています。50になったら、「いやー、もう若いひとの考えはわからないしねー」って精神的な「引退」をしてもいいわけだけど(笑)、まだそれは考えてますよね。昔のひとはまだ、頭でっかちだといわれながらわざわざクラブに行って「あのDJがヤバい」とかいっていたわけじゃない。いまはそんなことしなくても音楽を聴ける状況ができあがってしまった。音楽の意義がだんだん変わってきていて、レイヴに行くひとなんかはユース全体っていう括りじゃなくて、「レイヴに行くひと」っていう括りに変わっていきつつあるなかで、ユース全体に刺激があると思わせる感覚をもっと研ぎ澄ましてやっていきたい。ゼロ年代もそれはやってきたことだけど、2010年代の展望があるとするとそれですよね。

(2010年9月15日、新宿で)

ライヴ情報 : 菊地成孔presents DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN

出演:DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN
Opening Act: Richie Flores & Yosvany Terry Cabrera
2010年10月9日(土)  開場16:00 開演17:00
会場:日比谷野外大音楽堂
入場料:¥6,500(税込み)
お問い合わせ:0570-00-3337(サンライズプロモーション東京)

『闘争のエチカ』(イーストワークス)

10月30日上下巻同時発売
"ewe special products store" https://eastworks.shop-pro.jp/

Lee Perry & the Upsetters - ele-king

 リー・ペリーが自宅の裏庭に計画したブラック・アーク・スタジオが完成したのは、1973年の終わりだった。配線を考えたのはキング・タビーで、実際に配線を施したのはエロール・トンプソンだったという。当初は4トラックしかなかったそのスタジオで録音された曲のなかで、商業的に成功した初めての曲が、ジュニア・バイルスの"カリー・ロックス"(1973年)である。本作の1曲目のリディムが、まさに"カリー・ロックス"であると、鈴木孝弥さんによる恐ろしく詳細な各曲解説(https://bit.ly/a9Nna7)に記されている。
 
 ダブと呼ばれるスタイルにおいて、ブラック・アーク時代のリー・ペリーの音源はキング・タビーやエロール・トンプソンら同時代のオリジネイターたちとは確実に一線を画している。"X線音楽"と呼ばれるような骨組み(ドラム&ベース)が強調されたシンプルなものではなく、ディレイやエコーを使ったよくあるアレでもない。それは音の断片化とその再結合の、流動的な試みである。何かカタチあるモノをいちどぶっ壊して、その無数の破片をいろいろくっつけては面白がる、完成型を目指すのではなく、そのときどきのカタチを流動的に楽しむ、それがブラック・アーク時代のペリーのミキシングだ。音のリサイクルという意味では、実に過剰なリサイクルをしているのがペリーで、それはかの有名な『スーパー・エイプ』によく表れている。そう、あれは既発の音源の使い回しだが、しかし"オリジナル"に対する"ヴァージョン"ではない。ペリーは音の断片の廃墟のなかからそれらを再結合し、明らかに新しい音を創造しているのだ。
 
 ブラック・アークは1970年代末から、ペリーの精神バランスの不安定さと比例するように荒廃していき、1983年の火事によって破壊されている。そのあいだに録音されたレア音源は、すでに多くの編集盤によって紹介されている。驚くのは、そうした秘蔵作のどれもがユニークで、魅力的であるということだ。そして、それら編集盤によって、ジャマイカ国内よりも海外で評価されてしまった当時のペリーの強い実験精神をあたらてめ窺い知ることができる。ペリーの多彩なミキシングは、"ヴァージョン"を目指すものではなく、創造を目指していたのだ。だいたいレア音源や未発表音源などというと、多くの場合は"オリジナル"盤の副産物であり、熱心なファンか研究者でもなければそうそう面白がれるものではない。が、ペリーの場合は違う。リアルタイムで広く知られている作品よりも明らかにユニークな作品だって少なくない。
 
 『サウンド・システム・スクラッチ』はブラック・アーク時代のダブプレート音源を編集したものだという。ダブプレートというのは、多くの場合はサウンドシステム(野外ディスコ)のために作られるもので、だからペリーのダブプレート音源という情報を最初に知ったとき意外に思った。キング・タビーは自分のサウンドシステムを所有していたほど、その大衆文化に深く関わっていたひとりとして知られるが(というか、ダンサーたちの興奮とともにタビーのダブ・ミキシングは開発されている)、しかし、もともとアート志向の強いペリーはこのブラック・アーク時代、むしろそうした大衆性とは距離を置き、ひたすらスタジオに籠もってはつまみをいじりながら石を叩いたり、テープを土に埋めたり、機材に小便をかけたり......とにかく音の実験を繰り返していた......とモノの本はよく記されているからだ。たんに僕の知識不足かもしれないが、まあ、こうした編集盤が出ているわけだから、タビーほどではないにせよ、実は関わりがあったということなのだろう。ダブプレートとはミキシング・アートにおける流動性の極みであり、だから『サウンド・システム・スクラッチ』は当時のブラック・アークの自由な発想のドキュメントでもある。
 まあ、なんにせよ、ブラック・アーク時代のペリーがあらたに掘り起こされて、こうして聴けるのは幸せなことだ。ペリーとは、救いようのないほどの実験主義者だったのだとあらためて感心する。網羅している時代も幅広く、1973年から狂気の時代へと突入する70年代末まである。CDには実に20曲も収録されているが、すべてがいちいち面白い。

Boris Gardiner - ele-king

 ボリス・ガーディナーといえば......、かの『スーパー・エイプ』でぶっといベースを鳴らしている男で、要するにあの時代(70年代後半)のジ・アップセッターズのベーシストである。コンゴスの歴史的な『ハート・オブ・コンゴス』もそうだし、ブラック・アーク時代の最後の傑作『ロースト・フィッシュ、コリー・ウィード&コーン・ブレッド』もそう。それ以前は、ジャッキー・ミットゥー率いるソウル・ディメンジョンにも参加しているし、ジ・アグロヴェイターズにも参加したこともあった......という話だ。ベーシストとしてのそうした勇ましい経歴とともに、ガーディナーにはラウンジ・ミュージッシャンのとしての側面がある。ジュニア・マーヴィンの"ポリスとこそ泥"であれほど攻撃的なベースを弾いたかと思えば、腰をくねらせながら甘ったるいソウルを演奏するのだ。
 初期の代表曲の"ハピネス・イズ・ア・ウォーム・プシン"を収録した1970年の『ア・ソウル・イクスペリエンス・イズ・ハプニング』、ガーディナーのエレピが冴えるグルーヴィーな1973年の『イズ・ホワッツ・ハプニング』、ハンマーを打ち砕くジャケットの写真とは裏腹にメロウなレゲエが展開される1975年の『スレッジハンマー』......90年代以降に再発されたこれらのアルバムはDJやレアグルーヴのファンのあいだで好評となったおかげで、いまではボリス・ガーディナーといえば、ヴィンテージなメロウ・グルーヴを代表するひとりとして知られている。もちろん僕もヴィンテージなメロウ・グルーヴの流れでそれらのアルバムを聴いたひとりである。なにせここに挙げた3枚すべてが何度も繰り返し聴いてしまうほどに温かく、そして上機嫌なのだ。
 
 この度〈ジャズマン〉から再発されるのは、1973年に映画のサウンドトラックとして制作された『エヴリ・ニガ・イズ・ア・スター』で、中古でも滅多に見かけない幻の代物である。ジャケットのイラストは同時代のアメリカの黒人文化からの影響で、ブラックスプロイテーションそのものとなっている。映画自体はジャマイカの自主制作映画として企画され、ビッグ・ユースが主演したラスタファリズムのドキュメンタリー調の映画だったというが、そうしたジャマイカ人による自主制作という画期的な試みにも関わらず、興行的にはまったくの失敗作となった。ジャマイカの映画史上もっとも短い上映期間を記録したばかりか、返金を要求する客によって暴動まで起きたという。いずれにしても、それだけ映画が悪評を高めれば、人びとが好んで音楽にアプローチするはずがない。『エヴリ・ニガ・イズ・ア・スター』は映画とともに葬り去られ、のちのクラブ・カルチャーにおけるガーディナーの再発見がなければ、この素晴らしい音楽は歴史の闇のなかに佇んでいたままだったのかもしれない。
 
 アルバム・タイトルをはじめ"ラフ&タフ・イン・ザ・ゲットー"や"ファンキー・ニガー"、"ゲットー・ファンク"といったシリアスで挑発的な曲名からは、音楽の主題が同時代の『ハーダー・ゼイ・カム』(1971年)と同じようにゲットー・リアリズムを背景にしていることがわかる。が、『ハーダー・ゼイ・カム』と違ってガーディナーの音楽にはマーヴィン・ゲイや『スーパー・フライ』からの影響が滲み出ている。欧米諸国でレゲエが注目を集めはじめた当時のジャマイカ音楽シーンにおいては、ソウル/ファンク色があまりにも目立つ。アルバムがリアルタイムで埋もれてしまったもうひとつの理由はそれだろう。いま聴くとUSソウル/ファンクとの混合具合が面白いというのに、つくづく音楽の価値とは時代によって相対的である。
 
 ほとんどの曲をガーディナー自身が歌っている。彼の魅力たっぷりのソウル・ヴォーカルが聴ける"エヴリ・ニガ・イズ・ア・スター"や"ホーム・アゲイン"は言うまでもなく、ジャッキー・バーナードが歌う甘いバラード"ユー・ジャスト・ガット・トゥー・ビー・イン・ラヴ"も胸がいっぱいになる。グルーヴィーな"ゲットー・ファンク"、緊張感みなぎる"ファンキー・ニガー"、そしてアーリー・レゲエ・スタイルの"デッドリー・シティング"の格好良さと来たら......。
 
 ボリス・ガーディナーは、1980年代以降は、シングル「アイ・ウォント・トゥ・ウェイク・アップ・ウィズ・ユー」でUKのナショナル・チャートの1位になり、ポップのメジャー・フィールドでの成功も収めている。

Various - ele-king

 〈ウィアード・フォレスト〉とともに、いま、何をリリースするのかまったく見当がつかないレーベルからわかるといえばわかるけど、あー、やっぱりわからないかもーと思ってしまう「シャンガーン・エレクトロ」のコンピレイション。マルカム・マクラーレンのデビュー・アルバム『ダック・ロック』にはズールーとともにシャンガーンからのインスピレイションが重要な要素になっていることが記されていて、ワールド・ミュージックとヒップホップをストリートという共通項によって結び付けようとしたマクラーレンのアイディアがどこまで理解されたのか、いまさらのように悩ましく思えてきたりもするけれど、『ダック・ロック』や「バッファロー・ギャルズ」から徹底的に重さを取り除き、すべてのBPMを倍にしたものを想像してもらえれば「シャンガーン・エレクトロ」はもう聴こえてきたも同然でしょう。

 ワールド・カップに映画『第9地区』(ユーチューブで「YELLOW」をチェック!)と、2010年にはそれなりに注目を集めたヨハネスブルグの郊外で(同地に対してアンビヴァレントな気持ちを抱きながら)生まれたというシャンガーンはマクラーレンが影響を受けた当時からそうだったのかどうか、強くテクノロジーと結びついた音楽とされ、プロデューサーのNozinja(読めない)がライナーで記すにはヒップホップではなくディスコであり、いわゆるアフロ・ポップとも関係はなく、とにかく大事なのはテンポが速いこと。ユーチューブで確認できるダンスもたしかに動きが早い。全体的にBPM180以上で「疲れを知らず、1時間はそのスピードで彼らは踊れるんだよ」とか。

 コンピレイションにはプロデューサーの娘を含む6組のミュージシャンが参加しているけれど、現時点ではとても聴き分けられない。全部、同じに聴こえるのではなく、シャンガーンという音楽性が際立ちすぎて、これがシャンガーンかあ~と思っているうちに、全12曲がすぐに終わってしまうから。ギターやベースを一切使わないというのが一種のポリシーらしく、基本の楽器といえるマリンバやそれを模したらしきドラム・マシンの音がまずはとにかく軽い。コーラスはズールーと同じくイメージ通りアフリカのそれで、リード・ヴォーカルが入る曲もテンポが速すぎてコーラスがエコーしているようにしか聴こえない。ほかにはヴォイス・サンプルやオルガンが多用され、ありとあらゆる軋轢を避けるようにしてサラサラとすべては滑っていく。そう、音楽が「滑っていく」という表現がピッタリかも。フランスのDJにはこれをダブステップと混ぜてかける人もいるらしいけれど、どんな感じなのか、ぜんぜん想像もつかない。ラマダンマンやジェイムズ・ブレイクとはつながらないよなー(......ジョーならあるかな?)。

 コンパイルはマーク・エルネスタス(ベーシック・チャンネル/リズム&サウンド)による。

interview with Phew - ele-king


Phew / ファイヴ・フィンガー・ディスカウント(万引き)
E王 BeReKet / P-vine

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 彼女はこの国におけるオリジナル・パンク・ロッカーのひとり......である。1979年、ザ・スリッツやザ・レインコーツのデビュー・アルバムと同じ年に発表されたアーント・サリーのアルバムは、怒りと絶望の頂点に達した少女がまばたきもせず無表情に、そしてぬかりなく正確に、相手の急所に一撃を食らわすようなレコードだ。しかも(最近、再結成が囁かれている)ザ・ポップ・グループの"ウィ・アー・オール・プロスティテューツ"よりも1年前だ、"すべて売り物"とはよく言ったもので、ジョン・サヴェージ流に言い表すなら、「アーント・サリーこそ中曽根政権によって変えられた日本のその後の暗い未来を最初に予感したパンク・バンドである」となるのだろう(その観点で言えば、彼女が坂本龍一と組んだのは必然だったとも......、いまあらためて思い返せば)。
 
 それから30年の月日が流れた。ポスト・パンクが欧米の若い世代を中心にリヴァイヴァルしたように、日本でもフューの音楽はいまより強く必要とされている。ザ・レインコーツが初めて日本で演奏したとき、彼女たちの出演前のステージで歌うフューを見ながら僕はそう思った。そんなわけで、ele-kingはいま、誇りを持って彼女のインタヴューをお届けする。

ピストルズは同じ世代なんです。ジョン・ライドンが私よりふたつぐらい年上なのかな。あのファッションから音楽から何もかもがすべて衝撃でした。彼の持っていた気分というのが、ある種、私たち世代の気分を代表していたんですね。70年代の音楽にうんざりしていたわけですよ。

ザ・レインコーツのライヴが良かったとおっしゃいましたが、フューさんから見てどこが良かったんですか?

Phew:昔の曲も良かったですけど、いまの彼女たちの身体を通して出てくる音楽が最高に良かったですよね。楽しかったです。

楽しかったって感じですか?

Phew:ファーストからの曲もたくさんやっていましたけど、なつかしいという感じではなかったです。私、ピストルズが再結成していちばん最初に来たときに観に行ったんですね。

えー、武道館に行かれたんですか(笑)! 僕はあれ、チケット買って行かなかったんですよ。

Phew:行ったんですよ~(苦笑)。あれはね、もう、出てきただけで......、最初は"ボディーズ"からはじまったのかな? はじまった瞬間、それでもうオーケーなんですよ。「あ、生のピストルズだ」って。レインコーツは、それとはぜんぜん違うものですよね。

女性バンドとしての共感はあったんですか?

Phew:むしろそれはいちばんわからない部分というか、共感しにくい部分。〈オン・エアー〉でも、ミキサーの人が「女の人だ」みたいなこと言ってるんですけど、それがいちばんよくわかない。

そうですか。ところでdommuneに出演されたときにスーサイドをかけてましたが、いまでもあの時代のパンクにシンパシーを抱いているんですか?

Phew:それはしょうがないですよね。いちばん多感なときに聴いたということもあるし、何もかもが好きです。スーサイドの1枚目とシングル「ドリーム・ベイビー・ドリーム」は本当に好きです。2枚目になるとちょっとわからなくなるんですけど(笑)。

やっぱアラン・ヴェガの叫び声ですかね(笑)。

Phew:あの時代のリズムボックスの質感とか、ぜんぶひっくるめて好きですね。

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私の若いときっていうのは精神的に危ない場所にいたと思うんですよ。まあ、いまも危ないと思うんですけどね(笑)。あの二行はね、決意表明というか、「そうするんだ」っていう、意思表明みたいなものなんです。あの二行は、いまの気分でもありますよ。

最初に聴いたパンクって何だったんですか?

Phew:たぶんね、ジョナサン・リッチマンだったと思うんですよ。パンクって名前はあったのかな? なかったと思うんですよね。

当時、ジョナサン・リッチマンを聴いていた日本人ってどれぐらいいたんですか?

Phew:日本盤で買いましたよ。私が高校1年のときでしたね。

モダン・ラヴァーズですね。

Phew:そう、ジョン・ケイルがプロデュースしていてね。"ロードランナー"という曲があって、それはいまでも好きです。ただ、それはパンクっていうよりも、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの延長上で気になって、買ったんです。で、それからラモーンズ、ブロンディ、パティ・スミス......その後ですよ、ピストルズは。

フューさんにとってどんな衝撃だったんですか?

Phew:ジョナサン・リッチマンに関してはそれほど衝撃はなかったんですけど。私、とにかくヴェルヴェット・アンダーグラウンドが好きだったんですね。中学3年生のときにルー・リードが来日しているんですけど、行ってるんですよ。グラム・ロックの頃ですね。同じ頃にニューヨーク・ドールズとか大好きで。当時はまだリリースの量もそんなに多くないですし、だからプロデュースがジョン・ケイルであったりすると、ジョナサン・リッチマンとかパティ・スミスとか、わりとたやすく辿れるんです。衝撃という点で言えば、何と言ってもピストルズでしたね。本当にあれは......、良かったです。

それはちょっと意外ですね。

Phew:だってそれはね、パティ・スミスにしたってブロンディにしたってひとつ上の世代じゃないですか。ピストルズは同じ世代なんです。ジョン・ライドンが私よりふたつぐらい年上なのかな。あのファッションから音楽から何もかもがすべて衝撃でした。ピストルズ=ジョン・ライドンだと思うんですけど、彼の持っていた気分というのが、ある種、私たち世代の気分を代表していたんですね。70年代の音楽にうんざりしていたわけですよ。私は、(日本では)そう感じていた極々少数派かもしれないけれど、世界中にそう感じていた人は多かったと思うんですね。だから、ピストルズが起爆剤になったというか、彼の言動やファッションが、当時のティーンエイジャーを代弁していたんです。

僕の勝手な想像は、ブリジット・フォンテーヌとか、ダグマー・クラウゼとか......。

Phew:あ、そういうのも聴いていましたよ。シャンソンも好きで聴いてました。

まあでも、モストをやられているくらいですし、『秘密のナイフ』にも"ひとのにせもの"というパンク・ソングがあるし。

Phew:そうですね(笑)。

アーント・サリー時代からずっとあるように思うんですけど、フューさんが定義するパンクって何でしょうか?

Phew:当時は、77年は定義できたと思うけど、いまはとても......、パンクというのはとても難しい。

解釈がいろいろありますからね。

Phew:だってもう、現実の世界で実現しているじゃないですか。(すでにいろんな人が)勝手なことやっているし、あの当時の「既成の価値観を破壊する」とか言っていたのがほぼ実現しているし、だから、何かに対してのアンチテーゼ、反対するっていうのはあまり意義がないっていうんですかね。70年代後半のパンクの精神みたいなものはつねに持ち続けているし、音楽活動を通じて表現していると思うんですけど、それは私だけじゃなくて、インディペンデントなスタイルを貫いている人たちみんなに言えるんじゃないですか。

DIY主義ということですよね。

Phew:ですね。

ちなみにアーント・サリー以前に音楽活動はされていたんですか?

Phew:ピアノを弾く同級生の女の子と何かをカヴァーしたりとか、遊びでそういうことはしていましたけど、バンドはやっていないですよね。

どんな少女時代を過ごされたんですか?

Phew:少女時代(笑)! 難しいですねー。

反抗的な少女時代だったんですか?

Phew:ハハハハ、そうですね。

学校みたいなところでもアウトサイダーだったみたいな。

Phew:真面目でしたよ。家は朝出て、神戸だったんですけど、三宮に出て公衆電話から親のフリして「今日は欠席します」とか電話して、そういうことはやってるんです(笑)。そうやって、学校をさぼるんです。不良という言葉が生きていた時代ですけど、不良って言われていたかもしれない(笑)。

いやー、フューさんの少女時代ってどうだったのかなーと思って。

Phew:少女っていつぐらいですか?

それはやっぱり小、中、高までですかね。......まあ、小、中、高ではぜんぜん違いますけどね。

Phew:それ違うでしょ(笑)。

ぜんぜん違いました(笑)。

Phew:ただ、自分持っている自己イメージと他人から言われることがものすごく離れてたりするんですね。自分では暗い、暗い、学生時代だったと思っていたとするじゃないですか。そうすると、「面白い子だった」みたいなね。よくわからないんですよ(笑)。

僕はフューさんの作品を聴いたときに、音もそうですけど、言葉にも感銘を受けたんですね。やはり早い時期から言葉を書いていたんですか?

Phew:それはなかったです。歌詞を書くようになって書きはじめました。もちろん、本を読んだりしてましたし、いつも現実ではないものを求めていたというか、いつも本を読んだり映画を観たり音楽を聴いたり、そういったものは子供のときから自分には必要なものでしたね。よくね、先生には「ぼーっとしてる」とか「どこ見てるかわからない」とか言われてましたね(笑)。

なんですかね、頭が良すぎて男を寄せ付けないような(笑)。

Phew:いやそれが、ずーっと女子校だったんですよ。

でもやっぱ、フューさんってそういうイメージありますよ。

Phew:いや、そんなことないですよ。ただね、男の子って嫌いだったかな。中学生とか高校生ぐらいのときとか、同年代の男の子がわからないっていうか、なんか汚いし(笑)。

ハハハハ。

Phew:まあ、女の子ってそういうものじゃないですか。

では、言葉の面で影響を受けた人っていうのは誰かいないんですか?

Phew:作家とかですか?

作家とか。......たとえばアーント・サリー時代の"フランクに"って曲あるじゃないですか。ああいう言葉って「いったいどこから来るんだろう?」って思ってましたね。

Phew:どういう歌詞だっけ?

「飢えて植えた上には上がある/認って慕った下には下がある」とか。

Phew:あー。寺山修司の短歌、塚本邦雄の短歌ですとか、そういうものが好きでしたね。いわゆる現代詩みたいなものよりも、定型詩みたいなほうが好きでしたね。散文みたいなのは好きじゃなかった。

短歌とか俳句とか......。

Phew:だけど、文学少女という感じではなかったんです。

違ったんですか?

Phew:まったく違います。

へー。

Phew:文芸部に入っているような友だちはいましたけど、私はそういう感じではなかったですね。

「返り血を浴びて大きくなるわ」とか......。

Phew:ああ、あの短い曲、"転機"ですね。

そう、「なんであれが"転機"なんだろう?」って。

Phew:あれはね......、私の若いときっていうのは精神的に危ない場所にいたと思うんですよ。まあ、いまも危ないと思うんですけどね(笑)。あの二行はね、決意表明というか、「そうするんだ」っていう、意思表明みたいなものなんです。あの二行は、いまの気分でもありますよ。

「夜な夜な目を凝らしても出口なんか見つからない」って、なるほど。ちなみにあの詞はいくつのときに書かれたんですか?

Phew:18ですね。肉体をもった存在として決意表明なんですね。私、今週末で51になるんですけど、いまはそういう気分です。

なるほど。そういえば、レインコーツといっしょにライヴをやったときにアーント・サリー時代の曲をやってましたね。

Phew:"醒めた火事場で"。

ちょっとびっくりしましたけど。

Phew:アーント・サリー以降、あの歌を歌ったことがなかったんですよ。でも、なんか、あの歌で歌っていたイメージ、風景みたいものがいまの時代と重なる。いまの気分にぴったりというか、向島ゆり子さんのピアノのアレンジで蘇りましたよね。

アーント・サリー以降、あの歌を歌ったことがなかったというのは、やっぱり、フューさんのなかにアーント・サリー時代に対する複雑な気持ちを持ってらっしゃるというのもあるんですか?

Phew:アーント・サリー自体は純粋無垢なバンドで、ビッケにしてもマユにしても、メンバーもほぼ初めて楽器を持った人たちばかりが集まって、純粋に自分たちのやりたいことを手探りで探していって、曲を作っていったわけです。で、なんとなく、〈ヴァニティ〉の阿木(譲)さんという方が出してくれて、でまあ、ぱっと売れたんですよ。でも、いわゆる評判というものは最低だったんです。地元のライヴハウスとか、つまらない雑誌が関西にあって、「学芸会バンド」とか、「下手くそで最悪」とかね、書かれてたんです(笑)。もう、憶えてますよ、そういう意見ばっかり。それで坂本龍一さんプロデュースでシングルを出したじゃないですか。

「終曲/うらはら」(1980年)ですよね、僕もそれが初めてでしたね。

Phew:東京に来て、坂本龍一さんプロデュースで、メジャーからシングルを出した。そうしたら、さんざんボロクソに言っていた人たちが手のひらを返したように、こんどは「すごいモノが出てきた」みたいな評価になっていたんですね。

ハハハハ。

Phew:だから実にくだらない......最初から夢を見ていたわけじゃないですけど、「はぁ、こんなもんなんだ」とか。20歳になるかならないかの頃でしたから、「はぁ、こんなもんなんだ」と思って、そのなかで上手にやっていこうっていう発想がなかったですね。あまりにも若くて、ナイーヴだったのかな。10年前だったら違ったと思いますけど。

そうですね。

Phew:人はそういう反応の仕方をしなかったと思うし、実際にライヴハウスを中心に別のやり方で続けていくってことはできたと思うんです。それが70年代末の関西には......なかったですね(笑)。

ハハハハ、相当、冷たいリアクションだったんですね。

Phew:だけど、唯一、田中唯士さんだけが......。

田中唯士さんって、S-Kenですね?

Phew:そうです。東京ロッカーズが関西に来たときに彼にテープを渡したのかな? そうしたら、「SSといっしょにぜひS-Kenスタジオに来てください」って話をもらって。

そういう風にレコードを出して、ツアーまでしようっていうくらいですから、フューさんのなかの気持ちのテンションも相当に高かったわけですよね。

Phew:それはもう、ムチャクチャ高かったですよね。だけど、なにもかもがピストルズの解散で終わりましたけどね。

そうですか。

Phew:だからあれは時代のものだったんですよ。あのときに何か絶対にやらなければならないという気分、しかも自分たちの世代でって。

パンクの熱で突き動かされていたんですね。

Phew:そうですね。

僕が中2のときにピストルズが解散しているので、解散したということにショックを受けるほどではなかったんですよね。

Phew:でしょ。いわゆる90年代のパンクやピストルズの評価って、シド・ヴィシャスが評価されていたり、あとマルコム? 「どうして?」って。私にとってピストルズの解散の原因って、マルコムなんですよ。もちろんマルコムの功績もわからないでもないんですけど、パンクの流れとして、マルコムがいてヴィヴィアンがいてみたいなのは......「はぁ?」というか(笑)。この感覚は、レインコーツの人とかわかってもらえると思うんですけどね。

僕は、リアルタイムではもちろんジョン・ライドンの発言をすべて信じていたし、インタヴューを読むととにかく彼がマルコムの悪口を言っていたから、最初はすごく印象悪かったんですけど、その後、イギリスのジャーナリストの書いたものを読んで、やっぱりマルコム・マクラレンがジェイミー・リードとともに60年代の夢みたいモノを抱いていて、それがやがてジョン・ライドンみたいな天才と出会ってスパークしたという話を知ってしまうと、マルコムに対する見方もずいぶん変わりましたけどね。

Phew:読んでみようかな、それ。はははは。

60年代後半の学生運動をかじっているんですよね。

Phew:団塊の世代でしょ。

はい。

Phew:私ね、それが嫌だったんですよ。子供が音楽やって、大人が儲けるみたいなのが。

なるほど(笑)。でも、ポップ・カルチャーのなかで最初に"アナーキー"という言葉を使ったのはマルコムだし。「アナーキストこそ美しい」っていう言葉が描かれた有名なシャツがありますけど。

Phew:たしかにそういう要素があったから売れたとは思うんですけどねー。

マルコムのお店にやって来たジョン・ライドンを見たときに、リチャード・ヘルに似ていて、しかもディケンズの小説に出てくる労働者階級の少年そのものってことでジョン・ライドンを気に入るわけで、彼にもそれなりに夢があったんだと思いますけどね。

Phew:ジョン・ライドンはミュージシャンだったし、結局そこでうまく合わなかったんでしょうね。

ピストルズのアメリカ・ツアーの最後のライヴの、ジョン・ライドンがステージ去る前のいちばん最後の言葉があるじゃないですか。「騙されていたと思ったことがあるかい?」っていうの。

Phew:私、あのアメリカ・ツアーのヴィデオを観ていると泣きそうになるんですよね、あのジョン・ライドンの顔を見ていると。

あー、それはわかります。しかもあれ、客席からモノ投げられてものすごく空虚に笑っているんですよね。

Phew:そういえばアーント・サリーもモノ投げられたな(笑)。

フューさんから見て、当時の関西のシーンは評価できないんですね。

Phew:シーンなんかなかったですから。バンドはありましたよ。数は少なかったですけど、みんなすごく良いバンドでした。ただ、シーンと呼ぶにはあまりに......だって、お客さんは多くて30人とか? アーント・サリーの頃なんてそんなものですよ。解散ライヴをいちばん最初にライヴをやったお店でやったんですね。そのときお店から溢れるぐらいの人が入ったんですけど、それでも50人いなかったんじゃないかな。そのぐらい狭いところ。それをシーンと呼ぶのはどうかなー(笑)。

小さすぎたと。

Phew:しかも(アーント・サリーは)半年ぐらいしかやってなかったんです。シーンが大きくなったのは80年代になってからじゃないですか。イエロー・マジック・オーケストラ以降ですよ。

ニューウェイヴ色が強くなってからですかね。

Phew:だいたい私はレコード・マニアだったんです。そういう音楽を聴いたり、やっていた人たちは、ほぼ全員マニアだったんです。新譜が入ってくるお店にみんな集まるわけです。そういう繋がりなんです(笑)。

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「なんでいまさら」っていうのがあったんですよ。アーント・サリー時代に誰にも評価されなくて、メディアとまではいなくても、そういうモノに対する幻滅というか......だから、インタヴューに来る人すべてに対して攻撃的だった(笑)。

なるほど。僕はでも、高校生のときにフューさんの「終曲/うらはら」を買って聴いて、ものすごく好きになって、で、コニー・プランクとホルガー・シューカイが参加した『Phew』も買って聴いて、で、アーント・サリーのアルバムをものすごく聴きたかったんですけど、すでに廃盤となっていて聴けなかったんです。中古でもかなり高値がついていて。再発盤でようやくちゃんと聴けましたね。それまでは友だちが雑誌の『ZOO』とかの文通コーナーで知り合った人からテープを送ってもらったり、ライヴのカセットテープを買ったりして。

Phew:はははは。海賊カセット、一時、売ってましたね。

ハハハハ。〈PASS〉で出すきっかけは何だったんですか?

Phew:〈PASS〉レコードの後藤(美孝)さんという方がアーント・サリーのライヴを神戸に見に来たんです。そのときに「〈PASS〉で何かやりませんか?」と言ってくれたんですけど、アーント・サリーが解散することが決まっていたんですね。だったら、後藤さんの知り合いに「坂本龍一という人がいてて、いっしょにやりませんか」ということで、はじまったんですね。私は坂本龍一さんのことはあんま知らなくて、イメージしていたのはフュージョンの人だったんです。実際に当時はキリンとかやって、渡辺香津美なんかといっしょにやっていたし。

そうでしたよね。

Phew:「でも、ぜんぜんフュージョンとかではなくて」っていう説明を受けたのを憶えています。

それで、その後はドイツのコニーズ・スタジオで『Phew』(1981年)を録音するわけですよね。僕ね、当時、音楽雑誌をよく読んでいたから、フューさんのインタヴューもけっこう読んだんです。で、当時のフューさんのインタヴューの発言って、とにかく恐いというか、トゲがあるというか。

Phew:トゲだらけでしたね(笑)。

「ホルガー・シューカイはどうでしたか?」みたいな質問で、「いや、別に」みたいに答えていて。

Phew:そんなこと言ったかな?

正確にはどうだったかまでは憶えてませんが、たしかそんなような、質問に対してすごくぞんざいな態度というか......、やっぱあの頃は構えていたんですか?

Phew:「なんでいまさら」っていうのがあったんですよ。甘えというのもあったと思うんですけど、でも、アーント・サリー時代に誰にも評価されなくて、メディアとまではいなくても、そういうモノに対する幻滅というか......だから、インタヴューに来る人すべてに対して攻撃的だった(笑)。

ハハハハ。本当にそんなインタヴューでしたよ。

Phew:実際に、私はマニアだったから、カンなんか値段の高い輸入盤で買って......、大好きだったわけですよ。コニー・プランクにしたって、クラフトワークにしたってね。だけど、インタヴューに来る人たちが何にも知らないわけです。全国流通の音楽雑誌の人たちが、そういう音楽のことをまったく知らない。だから取材で大好きな音楽の話ができるわけじゃない、「だったら......」という感じで(笑)。

なーるほど(笑)。

Phew:いまそういう仕事をしている人たちのなかには音楽が好きな人がいっぱいいると思うし、レコード会社にもそういう人がいると思うんですけど、80年当時はほとんどいなかったと思います。自分で見つけてきた音楽について書くのではなくて、有名になったから近寄ってきたみたいな人が多くて。

まあ、僕もカンを意識しはじめたのは『メタル・ボックス』や『Phew』以降でしたけどね。だって音楽雑誌にもほとんど載ってなかったですから。

Phew:でも実はそういうの、日本に入ってきてたんですよ。高かったけど。

では、『Phew』のあとに活動を休止してしまうのも、そのあたりの業界への幻滅が原因だったんですか?

Phew:ていうか、あらゆる要素です。自分が出したモノがわりと注目されてしまって、だけど、自分のなかにはその準備がなかったんですよね。多くの人に聴いてもらいたいとか、そういう感覚がまったくなかったんです。それが、時代のなかで「変な少女」みたいなね(笑)、ちょっと「変わった少女」みたいな扱いですよね。そのへんのことも、自分のなかで最初に「もうこれで食べていくんだ」ぐらいの覚悟があれば大人の対応もできたと思うんですけど、なんだかわけのわからないままに、「変な女の子」という扱いを受けて、来る取材も、コマーシャルの出演とか、グラビア雑誌のモデルとか......。

えー、そんなのもあったんですね。

Phew:いっぱいありましたね。ぜんぶ断りましたけど。

さすがっす。

Phew:いや、だから、出て行く用意がなかったんですよ。かといって、音楽はやっていきたいなという気持ちがあって。それをやるにはもっとしたたかさが必要だったんですよね。時代のなかの象徴的な何某みたいなことはできなかった。

『Phew』を出されたあとに、ご自身で辞めることを決めたんですね。

Phew:次にどういうものをやったらいいのかというのが、像を結ばなかったんです。誰とこういうことをやってとか、イメージが浮かばなかったんです。ショービジネスを否定したところからはじまったパンクだったのが、ニューウェイヴになってショービジネスになってしまったじゃないですか。スリッツがソニーと契約して、ポップ・グループもメジャーと契約して、で、「契約金がいくら」「どひゃー」みたいなね。そういう風になっていった。だから、ものすごく幼稚な感覚なんですけど、「私のファンタジーは終わった」みたいなね、81年にはそう思ってました。ロンドンではニュー・ロマンティックのムーヴメントがあって、いっぽうでスロッビング・グリッスルみたいな人たちはどんどん地下に潜っていった。で、私は......どっちかというと地下のほうかなって(笑)。

まあ、80年代はパンクのDIYもインディ・ブームになっていきますしね。

Phew:85年ぐらいからですか、それが商売になるからですよね。

それでも、『View』(1987年)によってカムバックしたのは、表現に対する欲望みたいなものを抑えきれなかったというのがあったんですね?

Phew:そうですね。時代とはまったく別のところでやっていくぞという意思表示が『View』ですね。当時は、それこそバンド・ブーム、インディ・ブームでした。それらとはまったく違うところでやっていきたいという気持ちでしたね。だから音楽的にもオーソドックスというか......。

なるほど。そして『View』以降は、わりと精力的な活動をされていますよね。とくに90年代後半あたりからはすごくありません?

Phew:そんなことはないですよ。毎年出しているわけではないし。

ソロだけではなく、ノヴォ・トノやモストやビッグ・ピクチャーみたいな別プロジェクトもやってますし、先日dommuneで演奏した山本精一さんとの『幸福のすみか』(1998年)もありました。

Phew:ああ、そういうのは増えましたね。

山本(精一)さんや大友(良英)さんのような人たちと共演されたり......そういった精力的な活動の背景には何があったんですか?

Phew:ライヴハウスで活動するなかで、人に伝わることをやらないとダメだなというのがあって、で、嘘がなくて人に伝えられるものということを考えていたときにモストが生まれた。初期パンクのスタイルで、ストレートな音ですよね。はじまりは、山本さんなんかとスラップ・ハッピーの前座をやったときに、1曲パンクをやって、気持ちよかったというのがあるんですけど。だけど、アルバムを作って、ライヴを続けていくっていうことは、そういうことですね。

いやー、でもフューさんのパンク・ソングはいいっすよ。

Phew:そうですかね。

僕、アーント・サリーのアレとかすごい好きだったなー。なんて曲名だっけな......。

Phew:"すべて売り物"。

そう、"すべて売り物"!

Phew:ハハハハ。

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 彼女の15年振りのソロ・アルバムは、全曲カヴァー曲となっている。時代の大きな流れに背を向けて、ときには苛立ちや失意を表してきた彼女が、カヴァー曲を歌うことで、いまま で表現してこなかった領域に侵入しているようにも思える。そしてその作品、『ファイヴ・フィンガー・ディスカウント(万引き)』は、素晴らしい力強さと大らか さを持っている。


Phew / ファイヴ・フィンガー・ディスカウント(万引き)
E王 BeReKet / P-vine

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ところで、ソロ作品ということで言うと、1995年の『秘密のナイフ』以来なんですね。

Phew:そうですね。

で、通算5枚目となるんですね(1981年の『Phew』、1987年の『View』、1992年の『Our Likeness』、1995年の『秘密のナイフ』)。

Phew:え、そうなの? あ、そうか、そうですね。

で、15年振りなんですよね。

Phew:そうですね。

で、15年振りのソロ・アルバムがカヴァー・アルバムなったことが興味深いんですけど。先ほども話したように、フューさんの独自性の強い言語センスはフューさんの音楽の一部としてずっとあったと思うんです。でも、カヴァーって他人の言葉を歌うじゃないですか。

Phew:ただね、カヴァーはずっとやりたかったんです。他人の言葉で歌うっていうのを。自分で歌詞を書いてメッセージを届けるということではなくて、いち歌手として音楽をやりたいというのがあったんですよ。

もうちょっと具体的に言うとどういうことなんですか?

Phew:自分で歌詞を書くと、どうしてもメッセージ性が出てきてしまう。いまの時代、顔の見えない人たちに向けてメッセージを吐くというのは、私にとってちょっと難しい。それをやるには慎重にならざる得ない時代っていうのかな。

それは何でなんですか?

Phew:世のなかの風潮っていうのかな、言ったものが勝ち、やったものが勝ちみたいな、人の評価を得たものが勝ちみたいな、それに対する反抗......というわけでもないんですけど、ミュージシャンとして敢えて黙っていたい。

言ったものが勝ち、というのは昔からありませんでした?

Phew:昔からあるんですけど、その傾向がね......、ネットを観察しているとものすごいスピードで......気が変わるのがすごく早い(笑)。だから、そのなかに乗り込んでいく気はないってことですね。そこまでの強いものがないんです。逆に言えば、そこまで強いものをいま大きな声で言うっていうのは、すごく恐いことだと思うんです。顔が見えている相手に、どんどん話していくことは逆にいまやりたいことなんです。見えない相手にいまそれはできない。だから......なんかもう、ものすごい小さいレヴェルの話なんですけど(笑)。

いえいえ(笑)。

Phew:世のなかの風潮に背を向けたいんです。いっぽうで、目に入る人たちとのコミュニケーションはすごく大事。そこをいまの出発点に置きたい。このアルバムに関わったすべての人たち、ミュージシャン、絵を描いてくれた人、デザインをやってくれた人......すべての人たちが個人の繋がりで、説得ではなく共感をもってやってくれたんですね。それが誇りというか、出発点というか、それで自主制作というか。

背を向けるというのは、いかにもフューさんらしいというか。いまのお話は今回の選曲には関係しているんでしょうね。

Phew:かもしれないですね。

好きな曲といえば、まあ、キリがないんでしょうけど、今回は選曲も興味深いんですよね。ただ好きな曲を並べたわけではないと思いますが、どんなコンセプトで選曲されたのでしょうか? ポップスというコンセプトはあったんですか?

Phew:「言葉が届く歌」というのが選ぶときの基準でしたね。

ある時代のものが多いですよね。加藤和彦関係、寺山修司が2曲、永六輔、中村八大というのも目につきますね。

Phew:たぶん............

はい。

Phew:批評性のようなものを感じ取られたかと思いますが......って、いま言おうとしたら固まってしまった(笑)。

ハハハハ。それは松村正人による素晴らしいライナーノーツに書いている通りなんですね。

Phew:それはもう、音楽を通して感じてもらえればと思っています。ミュージシャンが言葉で言ってしまのは良くないかなと思います。

松村正人が書いていますが、アーカイヴ化に対する批評性?

Phew:はい、そんなたいそうなものではないですけど、まあ、多少は(笑)。

古い歌の力を証明したかったというのはあるんですか?

Phew:歌でこれだけ風景が変わるってことはやってみたかったですね。もちろん音楽の力もあるんですけど。歌と音楽でこれだけ風景を変えられるってことはやってみたかったですね。

プレスリーの曲はときどきライヴでやってたんです。これはいつか録音しておきたいなというのがありました。"Thatness and Thereness"に関してはすごく好きな曲だったんですよ。あの曲はデニス・ボーヴェルのミックスで、ダブで、だったら、それが21世紀に違うアプローチでできないかなと思ったんです。なんて言うか、21世紀の風景を作れないかなと。

アルバム・タイトルの『万引き』という言葉はカヴァー集というところに起因していると思うのですが、いろんな言葉があるなかでなぜそれを万引という言葉で表したのですか? 

Phew:レコーディングの合間に雑談していたとき、ジム(・オルーク)が「英語で可愛い言葉がある」って、で、「5本の指のディスカウント(five finger discount)、万引き」って。「あ、それアルバム・タイトルにいただき!」って。

なるほど(笑)。そういえば、選曲という観点で言えば、坂本龍一さんの"Thatness and Thereness"とプレスリーの"Love Me Tender"の2曲が特殊というか、浮いていると言えるんじゃないでしょうか?

Phew:浮いてるかなー。

音楽的には浮いていませんが、選曲ということで言えば、発表された時代とか違うじゃないですか。

Phew:なるほどね。プレスリーの曲はときどきライヴでやってたんです。これはいつか録音しておきたいなというのがありました。"Thatness and Thereness"に関してはすごく好きな曲だったんですよ。あの曲はデニス・ボーヴェルのミックスで、ダブで、だったら、それが21世紀に違うアプローチでできないかなと思ったんです。なんて言うか、21世紀の風景を作れないかなと。石橋英子さんがドライヴ感のあるピアノを弾いてくれたおかげで、とても面白くできたと思います。最初はドラムも入っていたんですけど、それを抜いて、自分でつまみもいじったりして。

なるほど。それで......しつこいかもしれませんが、他の8曲が60年代の曲であるのに対して、その2曲だけが違うというのはどうしてなんですか?

Phew:ああ、それは......、もう、いつかやってみたいと思っていたんでしょうね。年代に関しては、特別なこだわりは、あまりなかったです。

音楽性に関しては、フューさんはどの程度仕切っているんですか? あらかじめ方向性なり全体像は決まっていたんですか?

Phew:曲によりますね。"世界の涯まで連れてって"は「せーの」ではじめた完全なセッションでベーシックを録音して、山本精一のギターや向島ゆり子さんのヴァイオリンは後からダビングしました。

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ないです......いや、まったくない。だけど、訊かれることはアーント・サリーや『Phew』になってしまうのは、もう仕方がないかなと思ってますけどね。でも、私のなかに愛着はないんです。愛着があるのは、強いて言えば、最新作ですよね。

フューさんの作品って、つねにどんな作品でもトゲというか、ささくれ立ったものがあると思うんでけど。

Phew:あるのかなー(笑)

と、思うんですけど、今回は音楽に対して違ったアプローチをしていますよね? 

Phew:トゲがないですかね?

ないことはないと思うんですけど、今回はより柔らかく、より寛容な感覚を感じるんですよね。

Phew:それはね、曲の力だと思います。やっぱり......ちゃんとしいてます(笑)。歌い継がれてきたポップスというのかな、すごくちゃんとしいてますね。曲の力が大きいと思います。

もちろんすべての曲が好きなんでしょうけど、とくに歌詞の点で好きな曲ってどれですか?

Phew:"どこか"ですかね。永六輔さんの歌詞が好きです。

当時、リアルタイムで好きだったんですか?

Phew:いや、あとからですね。でもね、永六輔さんの書く歌詞は憶えているんですよ。"遠くへ行きたい"とかね、なんとなく子供心にあって......。"青年は荒野をめざす"も、なんとなくは憶えていて、あとから好きになった曲ですね。私がリアルタイムで好きだったのは、パンクですよ(笑)。

そうでしたね(笑)。

Phew:パンクとドイツのニューウェイヴ。DAFも数ヶ月間、ものすごく夢中になりましたね(笑)。

音楽家が歳を取っていくことについてはどのようにお考えですか? 

Phew:いわゆる天才、私がみて「この人すごい人だ」という人はみんな死んでいるんです。限りなく自殺に近い死だったり、非業の死じゃないですけど、結局、自分の場所が見つけられなくて死んでしまった。いつもその人のことがあります。生きているんだったら、なんか作らないといけないなというのがあります。本当に天才だけど、そういう人が認められなかった、音楽業界というか......。

それは身近な方なんですか?

Phew:野田さんも知ってる人ですよ。クリスロー・ハース(元DAF、元リエゾン・ダンジェルース、Chrislo名義で〈トレゾア〉からテクノの作品も発表している。2004年に死去)。

あー。

Phew:彼は本当にすごい天才で、彼の残した未発表がものすごいんですよ。たとえばノイバウテンの(アレキサンダー・)ハッケとか、「クリスローがいたから僕はシンセができないと思った」とか......。だから、ミュージシャン仲間ではものすごく認められていた。ああいう人が、力を発揮できずに終わってしまった音楽の世界ってどうよ、っていうのがあります。それだけにこだわるのは良くないと思うんですけど。あ、質問とちょっとずれてしいましたね(笑)。

まあ、パンクも初期衝動における純粋な情熱みたいなものがあったと思いますし、それって強いものがありますけど、しかしアーティストも歳を取っていかなければならないわけですし、またリスナーの年齢層もずいぶん幅広くなっているし......。

Phew:歳なんか関係ないという人もいますけど、私は自覚してますね。51歳になるということも、すごく自覚している。初期衝動なんかとっくにないです。そんなものがいまもあったらただのアホですよね(笑)。でも、これ(音楽)でご飯を食べているわけではないので、止めたほうが楽だったりするんですけど、でも、別のところでやっていかないと、半分死んだ感じになる。それは身体感覚なんです。

なるほど。

Phew:いまだにアーント・サリーや1枚目のアルバムについてよく話をされるんですけど、塚本邦雄の「表現者は処女作に向かって退行していく」という格好いい言葉があるんですけど、それを踏まえつつ作り続けるっていうことなのかなぁ。それは、「自分からは死なないよ」という感覚と近いものじゃないかと思うんです。

フューさんのなかにはいまでもアーント・サリーに対する愛着もあるわけですよね?

Phew:ないです......いや、まったくない。だけど、訊かれることはアーント・サリーや『Phew』になってしまうのは、もう仕方がないかなと思ってますけどね。でも、私のなかに愛着はないんです。愛着があるのは、強いて言えば、最新作ですよね。

なるほど。

Phew:新しいものを作っていかなくちゃという強迫観念はないです。でも、生きている限り、何かをやっていくだろうなと、死んだ人たちといっしょに(笑)。

ちなみに、最近、家でよく聴く音楽は何ですか?

Phew:最近、クラスターが来日していたじゃないですか。そのときにメビウスから彼の作品をもらったんです。一昨年でたアルバムなんですが、それをよく聴いています。彼も取材されれば昔のクラスターのことをよく訊かれるだろうし、コニーズ・スタジオで録音した頃の話をよく訊かれるだろうし......。

僕も初めて取材したときにそうしましたからね。

Phew:でも、いまでもシンプルなメビウス節っていうのがあるんですよね。そのねばり強さというか、体力というか、これは音楽の中心にあるものだなと思います(笑)。それを持ち続けることって大変なことだと思うんです。マニアの人たちからすれば「最近のクラスターなんか......」という意見があると思うんですけど、だけど「最近のもすごいな」と思います。これは初期衝動じゃないんです。もっと、生きているということに近いところにあるものだと思うんですけど。

なるほど。

Phew:私、犬をずっと飼ってて、犬の写真をメビウスに見せたんですよ。「かわいいでしょ」って。そしたら「ベトナムで犬を食べた」とか。

ハハハハ。

Phew:すっごい面白い人なのよね(笑)。ICCで取材を受けていたときも、態度悪いんですよ。「どんなアートの影響を受けたんですか?」と訊かれても「知らない。俺は何の影響も受けてない」とかね。66歳の言葉とは思えない。素敵だなと思いましたね(笑)。

面白い人たちですよね。

Phew:実はファーストのとき、コニー・プランクがメビウスにも声をかけていたらしいんです。でも、ちょうどそのとき都合が合わなくて。それでメビウスのほうから絶対にいっしょにやりたいって、一時期やりとりしていたことがあったんですけどね。コニーズ・スタジオがつぶれてしまいましたし......。

コニー・プランクが亡くなってからもスタジオは続いていたんですね。

Phew:2005年まで奥さんがやってました。スタジオの切り盛りをした奥さんが亡くなって、それで終わりましたね。機材とか売ってましたよ。「これはユーリズミックスの弾いたギターだ」とか。最初に行ったときにはすごく小さなスタジオでしたけど、2度目に行ったときは立派なスタジオになっていて、びっくりしましたけど。

ところで、ご自身の作品をお子さんに聴かせることはあるんですか?

Phew:あー、ないない。人に教えられるんじゃなくて、自分で見つけて欲しいです。よく言うんですけどね、湘南乃風とか買ってます。

ハハハハ! 家で聴いているんですね。

Phew:いまはマキシマム ザ ホルモンが好きですね。

いい話を聞かせていただきました(笑)。

Phew:いやいや、親の趣味を強制するのはよくないなと思って。

「カンを聴きなさい」とは言わないわけですね(笑)。

Phew:絶対に言わない(笑)。前に「パンクを聴きたい」と言うからイギー・ポップを聴かせたんです。そうしたら、「古い」って言うんです。マキシマム ザ ホルモンなんかすごい情報量だし、楽曲もよくできているんですね。だから、あれ聴いていたらイギー・ポップが古く聴こえるんだと思います。

なるほど。そういえば、新作は、ジャケットが可愛らしいイラストになっていますよね。いままでは、マン・レイ風のフューさんのポートレイトがジャケットになっていましたけど......。

Phew:いやいや、これはもう、カヴァー集ということで第三者の視点を入れたかったんです。イラストを描いてくれた小林エリカさんはまだ30ぐらいの若い人で、こういう絵を描いてくれて、とても嬉しかったですね。

No Age - ele-king

 シットゲイズとはよくいったもので、彼らが見つめるのはクツではなくてクソ。いわゆるシューゲイザーは、過剰な歪みと軋みによって、純粋性を守ろうという音であり態度である。オリジナル世代はもちろん、忠実なるフォロワー「ネオ・シューゲイザー」にしても同様だ。汚れた世界をシャット・アウトし、深く自分のなかへ潜り込むためのフィード・バック・ギター。ノー・エイジのノイズはそれとは対照的だ。クソのような世界そのもの、である。

 『ノウンズ』に続くサード・フルとなる本作だが、ヴォーカルのレヴェルが全体的に上がっている。曲にもよるが、以前はもっと音に埋もれていた。相変わらず音程の上下の少ない、祝詞のように平板なメロディだが、歌の輪郭が前面に出てくるというのはひとつの変化だ。タイムズ・ニュー・ヴァイキングほど割れてはいないが、ノイジーでストレートなパンク・チューンが目立ち、前作でいえば"ヒア・シュッド・ビー・マイ・ホーム"や"リップト・ニーズ"といった曲の傾向が、より素直に瑞々しく伸ばされている。"フィーバー・ドリーミング"のハードコア、"ディプリーション"の切ない疾走感、他の音を圧倒的に凌駕していくアンセミックなギター・ソロ、寄せてはかえす波のようなギター・ノイズは、滋養と生命に溢れた濁流にも、現代の混沌にも聴こえる。"キャタピラー"などアンビエント・テイストのインタールードもアルバムによい表情を加えている。がアルバムの折り返し点となっている"スキンド"や"ダスティッド"の繊細な叙情性にも驚かされる。
 『ピッチフォーク』に掲載されたインタヴューによれば、昨年の『ルージング・フィーリング・EP』以来長い期間をかけて作ってきたのが本作で、マスタリング・ルームでヴォーカルを録り直すほど、細かく手がかけられているそうだ。こうした試行錯誤がふたりを成長させたという実感も述べられている『エヴリシング・イン・ビトウィーン』、『その期間のすべて』である。

 彼らの活動拠点であるロサンゼルスのアート・スペース〈ザ・スメル〉や、ディーンが運営する〈ポスト・プレゼント・ミディアム〉の周辺を見渡せばわかるように、ブルックリンのアーティなインディ・シーンとも共振する西海岸の沃野......エイヴ・ヴィゴーダやミカ・ミコやラッキー・ドラゴンズ、シルク・フラワーズやハイ・プレイシズ、〈ザ・スメル〉のほうならギャング・ギャング・ダンスや横浜トリエンナーレでも異彩を放ったマルチ・クリエイター、ミランダ・ジュライまで繋がっている一大アンダー・グラウンド・サークル......この豊穣さを思えば、アルバム1枚の評価など相対的にはさして重要なものではないかもしれない。あるいは、彼らの動機と比べたら。
 2年前に彼らは『タイニー・ミックス・テープス』の取材ではこうも語っている。「音楽をやるのはストレートな資本主義に対抗する行為だ。自分たちは決して金のためにバンドをはじめたのではない。ほんの少しでも経済的に見返りがあればラッキーだ。だがそれがなくても続ける。これはやらなくてはならないことなんだ。音楽をやらなくてはならない」
 これはゼロ年代インディ・ミュージック・シーンのムードのひとつを的確に捉え、象徴する発言である。

Jules Chaz - ele-king

 コブルストーン・ジャズや最近ではディンキーがリクルートしてきたことでも知られるカナダのテック-ハウス・レーベルが方向転換でも考えているのか、アブストラクト系ヒップホップのデビュー・ミニ・アルバムをリリース。全体に映画的な雰囲気が強く漂うインストゥルメンタル・トラックが(アナログでは10曲ほど)並べられ、30分にも満たないヴォリウムにもかかわらず独特の世界観を印象付ける。どこかファンタスティックで、しかし、基調はあくまでもしっとりとしていて、すぐに消えてしまう夢でも見ているような。

『ツイン・ピークス』から様々な断片を縦横にサンプリングした"ブラック・ロッジ"はオリジナルの妖しいムードを活かしたパートがあるかと思えばトロピカルな要素を上手く取り出したりと、かのTVドラマが持っていた多面性をそのまま曲にも移し替えている。また、上がり過ぎないカリビアン・テイストを練りこんだスレンテン風の"ウィピッツ"やどう説明していいのかわからない"93ミリオン・マイルズ"などユーモアのセンスには非常に優れたものがあり、インド映画か何かをカット・アップしたらしい"セイ・サムシン..."やモンド風の発想ではとくに冴え渡るものがある。見世物小屋的な感性といえばいいのか、予想外のヒップホップ・サウンドが見せてくれる素敵なイリュージョンは聴いても聴いてもどんどん耳からこぼれ落ちていく。

 アナログとダウンロードを併用するというリリース形態が定着してきたからか、これまでCDのキャパシティに引きづられてきたような収録時間のアルバム・リリースは減ってきて、今年の初めに話題になったウォッシュト・アウトもそうだったけれど、パースウィート・グルーヴスやUSガールズなど、自由気ままな長さでアルバムをつくる人が増えてきた(石野卓球の判断もこれらと似たようなものか)。作品にはそれぞれ適正なスケールがあるはずで、それらがマッチしているに越したことはない。短いからといって、それだけでインパクトが落ちてしまうわけでもない。
 
 ちなみに今年はスターキーやオリオールなど従来通りのフル・サイズでつくられたアルバムでも期待外れのものは少なくなく、とくにヒップホップではオンラに思いっきり肩透かしを食らわされてしまったので、どの辺りを注意して見ていればいいのかよくわからなくなって、それがまた楽しいなーという感じもありましたけれど、とりあえず、この人とポール・ホワイト、それからシュロウモはもっと聴きたいかも。

DJ mew - ele-king

CURRENT TOP 10 CHART


1
V.A. - Kompakt Total 11 - Kompakt

2
Latin Playboys - Same Brown Earth - Warner Bros.

3
Lay Low & Big Robot - Nordisc Split E.P. - I'm Single

4
Linval Thompson - I Love Marijuana - Trojan

5
Tom Tom Club - As Above, So Below - Sire

6
Laid Back - White horse - Sire

7
Daniel Lanois - Shine - Epitaph

8
Andres - II Part 2 - Mahogani

9
Hey-O-Hansen - Zulu - Pingipung

10
Juana Molina - Un Dia - Domino

Gold Panda - ele-king

 2010年にエイフェックス・ツインの『セレクテッド・アンビエント・ワークス85-92』を聴くことは、1992年に『E2-E4』を聴くようなものかもしれない。より激しく、よりやかましく、ベースばかりが強調されていくダンス・カルチャーにおいてある種の"歌"を求める、という点において。当時、『E2-E4』の再評価と平行して湧き上がったのがデトロイト・テクノ・リヴァイヴァルであったことを思い出せばいい。デトロイト・テクノにより強調されてあったもの、そのひとつは"メロディ"だ。
 あるいは、2010年にマウス・オン・マーズの『ヴァルヴァランド』を聴くことは、1992年にクラスターの『ツイッカー・ツァイト』を聴くようなものかもしれない。汗ばかりが噴き出て笑顔を忘れたダンスフロアに背を向けるという点において。クラウトロックの陽気な実験精神が、マンネリ化したダンスフロアにどれほどの自由を与えたのかを思い出せばいい。
 
 ダーウィン・パンダにとって初めての新録アルバム(前作『コンパニオン』は既発曲の編集盤)『ラッキー・シャイナー』は、ダブステップのいかめしさからそそくさと離れていく。日本語堪能なこのエセックス・ボーイは、ハドルをしっかりと握りながら、やかましいダンスフロアを尻目に、進むべき向きを変えている。彼方に見えるのは『セレクテッド・アンビエント・ワークス85-92』やなんか、メロディアスで楽しげなIDMスタイル......といったところだ。が、それは1992年に戻ることではない。2011年に進もうとすることだ。
 
 先日来日したクラスターのライヴではずいぶんと女性の姿が見られたそうだ。90年代に初めて彼らが来日したときは、僕のようなクラウトロック好きのテクノ・リスナーか、さもなければ僕よりもさらに年上のマニアックな連中ばかりが集まって、狭い場内においても女性の姿を探すのは困難だったものだが、時代は変わったのだ、「クラスターの柔らかい側面がエレクトロニカを聴いている女性にも受けたのでしょう」とはある関係者の弁である。だとしたら......『ラッキー・シャイナー』は昨今のエレクトロニカ・リヴァイヴァルに反応する女性たちにも受け入れられる作品となるだろう。彼女たちに好奇心と、パンダの悪戯心を受け入れるぐらいの寛容さがあれば。もし『ラッキー・シャイナー』の音楽性を問われればこう答える。「とってもかわいらしいIDMスタイルですよ」と。それでもわからなければこう付け足す。「初期のマウス・オン・マーズと初期のエイフェックス・ツインが一緒にスタジオに入ったと想像してみてください」
 
 まずは1曲目、先にシングル・カットされた"ユー"が素晴らしい。過剰にチョップするヴォイス・サンプリングで歌われる歌は、いわばジェームス・ブレイクらのポスト・ダブステップ・サウンドのポップ・アート・ヴァージョン......いや、3歳児のよるポスト・ダブステップ・サウンドのようである。
 サンプラーを主体に曲作りをしているこの青年は"ペアレンツ"ではアコギの音を鳴らし、生まれて初めてギターに触る子供が出すような(要するにヘタッピーな)音を加える。"セイム・ドリーム・チャイナ"では中国の楽器の音を変調させ、あるいは"インディア・レイトリー"ではインドの楽器をいじくり倒し、それぞれ陽気でエキゾティックなハウスに変換する。"ビフォア・ウィ・トークド(僕たちが話す前に)"と"アフター・ウィ・トークド(僕たちが話したあとに)"は初期のマウス・オン・マーズのような悪戯っぽいエレクトロニカで、"ヴァニラ"や"スノー&テキサス"、"アイム・ウィズ・ユー・バット・アイム・ロンリー(君と一緒でも僕は淋しい)"にいたってはまさしく『アンビエント・ワークス』のモダン・ヴァージョンだと言える。
 
 僕は『コンパニオン』をたしかに気に入ったし、よく聴いた。しかし『ラッキー・シャイナー』は気に入ったなんてもんじゃない。嬉しい驚きであり、ダブステップのネクストにおける重要な1枚だと思っている。下手したら流れを変えるかもよ。マユリちゃんもこのアルバムを聴いたら、来年の〈メタモルフォーゼ〉にパンダを呼ぶことを決断するんじゃないだろうか......。

 なお、10月6日、dommuneにゴールド・パンダが出演します。時間は7時からです。みんなで彼の最新ライヴを聴きましょう。

Chart by JETSET 2010.09.20 - ele-king

Shop Chart


1

HARVEY PRESENTS LOCUSSOLUS

HARVEY PRESENTS LOCUSSOLUS TAN SEDAN / THROWDOWN »COMMENT GET MUSIC
DJ Harvey Presents Locussolus第二弾!!ジャケ付き&重量盤でのリミテッドプレスになります。その圧倒的なクォリティで現行バレアリック・シーンの先頭に踊り出たウルグアイ International Feelから、前作"Gunship"も爆発的ヒットのDJ Harveyによるプロジェクト"Locussolus"待望の第2弾が登場。Prins Thomas, Eric Duncan, Tim Sweeney, Balearic Mike等々、今回もサポートがハンパないです!!

2

DAM FUNK

DAM FUNK HOOD PASS INTACT »COMMENT GET MUSIC
Toeachizown収録のあの曲にMC Eihtが参加した12"が到着!更にSteve Arringtonを迎えた"4 My Homies"、アルバムから"Come On Outside"のDevonwhoリミックスなど充実過ぎる一枚です!

3

FALTY DL

FALTY DL ENDEAVOUR »COMMENT GET MUSIC
☆特大推薦☆バカラック・フレーズからヘッズ直撃のブレイクビーツまで飛び出します!!Cosmin TRGとの相互リミックス・スプリットもヒット中、NYを拠点に活躍する美麗UKGマスターFalty DLが、本拠地Planet Muから特大傑作をリリース!!

4

ITALIC INDIAN

ITALIC INDIAN DROWSY BRUISE »COMMENT GET MUSIC
Antn Hrkwkをリリースするカリフォルニアのグレイト・レーベル、Life's Bloodから。Antn HrkwkとRangersを足してドロドロに煮詰めたようなヘヴィ・エクスペリメンタル・サンプリング・サウンド。RangersやSampsの裏側を見るようです。グレイト!!

5

RUSKO

RUSKO HOLD ON »COMMENT GET MUSIC
☆特大推薦☆ぶち上げつつ込み上げ倒す胸キュン死ボムが遂にリミックス・カット!!ご存知天才ダブステッパーRuskoがDiplo率いるMad Decentからぶっ放した傑作1st.アルバム"OMG"収録のフィメール・ヴォーカルUKG大人気曲が遂にリミックス・カット!!

6

TOTALLY ENORMOUS EXTINCT DINOSAURS

TOTALLY ENORMOUS EXTINCT DINOSAURS GARDEN »COMMENT GET MUSIC
☆大推薦☆Hot Chipに見出された新星をJesse Roseがスウィンギン・リミックス!!盟友Oliver $とZombie Disco Squadによる1、2番が連続ヒットし話題沸騰中、Jesse Rose率いる名門Made To PlayのオフシュートPlay It Downからの第3弾!!

7

FLYING LOTUS

FLYING LOTUS PATTERN + GRID WORLD »COMMENT GET MUSIC
早くも到着!また新たな境地へと歩み入る、これが第一歩!先日リリースされ、各方面で絶賛されたアルバム"Cosmogramma"に続いて、早くも新作EPが到着。アルバムのアウトテイクでも続編でも無い、まったく新たな世界が広がる全7曲。

8

KUNIYUKI

KUNIYUKI SET ME FREE »COMMENT GET MUSIC
アルバム『Walking In The Naked City』からの新カット!!両面共にアルバム収録曲とはヴァージョン違い。よりアブストラクトでアシッドな質感を打ち出した"Set Me Free Dub"は鳥肌の立つカッコヨサ!! DJ ChidaもBeats In Spaceのプログラムにてプレイ済み。

9

WES COATS / BLACKJOY

WES COATS / BLACKJOY WHATCHAWANNADO VOL.4 »COMMENT GET MUSIC
もうお馴染みのリエデット・シリーズ"Whatchawannado"第4弾が登場!今作にはWes Coatsと、新作アルバム"Erotis"も好調なBlack Joyによる極上ニュー・ディスコ・トラックを収録!

10

ANTN HRKWK

ANTN HRKWK THOROUGHBRED »COMMENT GET MUSIC
メチャクチャ最高です。SampsとGold Pandaつなぐ直通弾丸列車インディ・ダンス・キラー!!SampsばりのサンプリングとGold PandaなビートでDomに通じるポップ・センスを爆発させるニュータイプ・サンプリング・ミュージック、Antn Hrkwk。全10曲収録のデビュー・アルバム!!
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