P7-6496
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PLP-7907
日比谷公園には開演1時間前に着いた。都心部では唯一と言える、広い森林地帯と明治時代に建てられた歴史的な建築物が残されているこの貴重な場所も、再整備という名のもとで木々が伐採され、風景が変えられようとしている。ぼくは公園の噴水を越えたところに昔からある売店で缶ビールを買ってベンチで飲んだ。こうした心和む変わってはいけない風景はどんどん変えられる。坂本慎太郎は歌う。「あざやかな夕闇につつまれて/ひとつずつ思い出が消えてゆく」
なんでも日比谷公園は、日比谷の商業施設と巨大なブリッジで繋がれるらしい。渋谷の宮下公園の高級化をはじめとする、商業・オフィス高層ビルによる再開発が実現している「快適さ」は、その風景に溶け込める人たちのみを歓迎し、そうではない人たちを疎外する。「キャンドルがゆれる部屋でセンスのいい曲がかかり/大人たちが泣いている/何も感じない」、と坂本慎太郎は “義務のように” のなかで歌っている。

梅雨の真っ只中だったがその日の天気は良く、湿度はあっても夕暮れになれば涼しいし、缶ビールも美味しい。ぼくは屋台でもう一本飲んでから、本番に臨むことにした。そして、かつてRCサクセションやボアダムスやフィッシュマンズなんかを聴きに来たこの場所で、いま坂本慎太郎を聴いている。ロックの予定調和をことごとく外したこのロックのライヴには、いつものことだが、いろんな人たちが集まってくる。年齢層もいろいろだし、ファッションもいろいろで、これほどリスナーの多様性が豊かなライヴもないのではないかと勝手に思ったりもした。形式化されたロック的な高揚感のないこのライヴは、しかしものすごく人気があり、チケットは抽選で運良く当たった者のみが購入できるのだ。

1曲目の “できれば愛を” がはじまったとき、ぼくはその日3本目の缶ビールを求めて列に並んでいた。まだ空は明るく、ゆったりとしたビートが大気のなかに溶けている。ああ気持ちいい。歌は、胸にぽっかり穴があいた男が「はずかしいでしょ/あわれでしょ」と憐れみながら「ここにすっぽりとはまる/何か入れてください」と懇願する。「なんでもいいけれど、少しは愛を込めて」というリフレインは、柔らかい歌と曲のなかのとつとつとした歌詞において、私たちのなかの「空洞」と、それとは相反する強い何かをじわじわと喚起させる。いずれにせよ、坂本慎太郎の楽曲は、日比谷野音の解放感と相性が良かった。

昨年のライヴは、ほとんどがアルバム『物語のように』からの楽曲を演奏していたが、今回は全作品からの選曲だったから、ファンには「次はどの曲を演るのだろうか」という楽しみもあった。 “めちゃくちゃ悪い男” (『ナマで踊ろう』収録)がはじまったときには当然歓声が上がったし、いや、 “鬼退治” (『できれば愛を』収録)も意外なほどノリノリで、“義務のように” から “仮面をはずさないで” ( 『幻とのつきあい方』収録)という、日本社会を辛辣に風刺しているように思える曲で前半は盛り上がった。

ライヴの後半、気分はゆっくりと上昇する。ぼくが4杯目の缶ビールのために並んでいるときに “物語のように” がはじまり、この奇妙なほど緩やかな曲でオーディエンスの気持ちはさらにほっこりする。そして、しばらくしてはじまった “ディスコって” のグルーヴが場内をまるごと踊らせるのだった(野外での演奏が似合う楽しい曲だが、これもまた、日本のLGBT法への当てつけにも聞こえる)。
続いて演奏された “ナマで踊ろう” は、この晩のクライマックスだった。それから “幻とのつきあい方” と “動物らしく”の2曲を演奏し、メンバー紹介をするとバンドはそのままステージから消えた。いつものようにアンコールはなかった(おそらくは、最後の2曲がライヴでよくあるアンコールに相当するのだろう)。野音にやって来た人たちのほとんどがそれをわかっているので、片付けられているステージを名残惜しそうに眺めながらも席を立ち、何人かはしばらくのあいだ席に座ったままライヴの余韻に浸っていた。

ぼくは、自分にとってこの野音で見るライヴは、坂本慎太郎が最後になるかもしれないなと思った。だとしたら、ぼくにとっては、これほどそれに相応しいライヴもないかもしれなかった。完全に別世界が演出されるホールやライヴハウスでのライヴと違って、野音でのライヴは周囲の景色——高層ビルやらなんやら——が否応なしに視界のどこかに入ってくる。自分がいま暮らしている街のなかで聴いているんだなという意識をどこかに保持しながらその音楽に集中するという感覚はここでしか味わえないものだ。坂本慎太郎の音楽は、決してなにか思想を強制するものではないが、この生きづらい街で生きていくうえでの心持ちの調整を助けてくれる。この晩の、「今日めざめて君はそう決めた」を聴いて勇気づけられた人だって少なくないだろう。
情報過多と言われながら、じつはどうでもいいクズのような情報のなかで大切なものが見えずらくなっているのが現代だったりする。とはいえ、おもに海外の音楽を紹介する仕事をしながら、見逃していた宝石というのは少なくなく、そのうちの1枚がジーン・グレイとクエール・クリスによる『Everything's Fine』(2018)だった。これは、その年知っていれば間違いなく年間ベストだった。悔しい。ただし、そのアルバムで最初にぼくを惹きつけのは三田格が褒めちぎっていたクリスのトラックのほうで、若い頃はルーツに見いだされ、タリブ・クエリやDJスピナ、アトモスフィア、ミスター・レン、ハーバライザーといった通好みの作品でフィーチャーされてきたこのフィメール・ラッパーのジーン・グレイはたしかにじゅうぶん魅力的には思えたが、彼女のコミカルな表現主義やその政治性、彼女の知性とウィットの精神まで感じていたわけではなかった。アートワークを見ればわかるというのに……(情けない)。
南アフリカ生まれのニューヨーカー、ジーン・グレイの経歴を見れば、彼女はうまくやればニッキ・ミナージュのようにもなれたかもしれないとすら思う。ジャズ・ミュージシャンを両親に持つ彼女は、しかしラップ・ゲームを降りて、あまりにも独自な路線をいま開拓しようとしている。そもそもコンビを組んでいるクエール・クリス(彼は彼女のパートナーである)が、音楽的な野心を持ったトラックメイカーで、しかもこのふたりにPファンク的知性があることは、くどいようだが、先述したアルバムのアートワークを見れば推して知るべしなのだ。
前置きはこのぐらいにして、問題は、いまここで紹介する、昨年12月30日にリリースされたアルバム『You F**king Got This Sh!t』だ。「現代人のための肯定的宣言」と副題されたこれは、その1ヶ月前に出た『Please Send Help』との連作で、グレイはほとんどラップすることなく喋っている。なにを喋っているのかというと、たとえばこんなことだ。
あなたが鬱気味なのは、資本主義と白人至上主義が原因です。資本主義と白人至上主義のせいで落ち込んでいる可能性が高いのです。人によっては、私のようにもうひとつ追加して、それで3つになります。ですからつまり、あなたが落ち込んでいるのは、家父長制、資本主義、白人至上主義が原因です。これらがない自分の人生を想像して、どんなに素晴らしいものになるかを考えるのです。そしてこの3つに、人種差別、女性差別、同性愛嫌悪、トランスフォビア、クィアフォビア全般、外国人嫌悪、能力主義などのシステム的問題も加わります。長いリストですが、このアルバムはそんなに長くはありません。資本主義や白人至上主義のせいで落ち込んでいるんでしょう。資本主義と白人至上主義のせいで、そうであるために必要以上の労力が必要なのだから。そして、疲れるんです。とても疲れるんです。支持すること、故意に無視することに疲れるんです。自分がグレイトであることが許されない時間は、疲弊させられます。創造することができない時間も、疲れます。だからあなたは落ち込んでいるのでしょう。家父長制、資本主義、白人至上主義。自分のために新しい物語を作ろう。自分のために新しい人生を創りましょう。本当の自分を創り出すのです。
“You're Probably Depressed Because of Capitalism And White Supremacy”
『Everything's Fine』は、バカバカしい政治とバカバカしいジョークや辛辣さが入り混じったコミカルな寸劇だったが、このアルバムは、インガ・コープランドとムーア・マザー(というのは言い過ぎかも)の中間に位置し、かつてのハイプ・ウィリアムスのようなパロディ精神に満ちたコンセプト作品である。あきらかに自己啓発のパロディであり(肯定的宣言=アファメーションとは自己啓発の常套句)、ニューエイジ/アンビエントのパロディであり、Pファンク的なジョークでもあろう。
よし、深く息を吸って、止めて、吐いて、離す。もう一回。深く息を吸って、それを止めて、解放して、息を吐いて。ファンタスティック、ファンタスティック、その人を呪ってやる、クソ野郎ども、クソみたいなクソとクソみたいな人生。クソみたいなクソ野郎とクソみたいな家族。先祖も子孫も、ペットも同僚も。肉体的にも精神的にも、彼らがこれまで接してきたすべての無生物がくたばる。彼らの軌跡も、その欠如も、クソくらえだ。彼らの思考はクソだ。家、アパート、ブラウンストーン、マンション、トレーラーパーク、掘っ立て小屋、川船、どんな種類の住居構造であれ、彼らが住んでいるのはクソだ。
“FTP”
ヨーロッパ型の「美の基準」のせいで、またイケてないって、あなた思ってない? 今日もまたそう? そんなことを止めてから、何かを見たり、誰かに何かを言われたりして、またイケてないと思うようになったということはないですか? そんな考えはゴミ箱に捨ててしまいましょう、だってゴミですから。あなたのすべては、絶対にクソゴージャスで、あなたはあなただからホットなのです。あなたよりホットなものがあるでしょうか? 怖い? 謙虚になる必要がある? 私の顔からそのクソを取り除く。そのクソをここから追い出そう。自信を持て、大きくなれ、巨大になれ、もっと大きくなれ。人はトラウマや自己投影のために、自分を謙遜する必要を感じるだけ。それはあなたのクソ問題ではない。
“European Beauty Standards”
パロディめいているとはいえ、言葉は本気だし、曲もけっこう面白い。最初に引用した “資本主義と白人至上主義(もしくは家父長制)” のような曲は骨抜きされたハウス・ミュージックだったりして、 “FTP” はダビーなアンビエント、アンビエントというよりもウェイトレスの “なんもしない(Doing Nothing)”も切実だが面白いし、笑える。
何もする気が起きない。ベッドから出る気もしない。掃除や料理、考えることもしない。わかった、友よ。自分を卑下するな。大変なんだ。そして人は愚かで疲れるもの。日々の仕事をこなすだけでも、かなり消耗する。そして、人間も。そしてそれらは間違いなく、あなたがやりたいことではないのです。何もしないことが重要なのです。何もしないこと。おそらく、体が睡眠を必要としているからでしょう。脳にも休息が必要。私たちの資本主義社会は、あなたの生産性とハッスルを評価します。実際にあなたが誰であるか、またはあなたが誰であることができるかに関係なく。だから本を読むと言い続けて、何もしない時間ができて、その本を読まなくてもそれはそれでいいんです。何もしないことを楽しみましょう。
“Doing Nothing”
アルバムこれ自体がある意味ファンキーだが、リズムのスタイルとしてちょっとファンキーな “Wear That Thing” は初期〈トランスマット〉系のデトロイト・テクノにリンクし、グレイの、このアルバムで見せる唯一のラップがリズムのなかでクールに躍動する。
あれを着ろ、着たいものを着るんだ、自分のものなら、自分のものにする。好きなんだろ? それならそれを着よう。自分のものなら、自分のものにする。愛しているのなら、それを身につけなさい。あれはどこだ? それはどこだ? 割引おめでとう。
“Wear That Thing”
ここまで読んだあなたもおめでとう。どうです、面白いでしょう? これで予習は済んだし、あなたの記憶にジーン・グレイが刻まれたことと思います。彼女の次回作を楽しみに待ちましょう(ただし……もしあなたがジーンに興味を持ったら、しつこいようですが、『Everything's Fine』から聴くことを推奨します)。
さて、最後になりますが、彼女はこれだけ「疲れる疲れる」と愚痴りながら、何かモノを作ることを推奨しています。「自分のコンテンツに満足するというのはどうでしょうか」と彼女はサジェスチョンを投げます、あくまで自己満足のために。「コンテンツによる外的な検証を気にするのではなく、自分が作ったコンテンツに自分で満足することです」「マネタイズをする必要もなく、説明をする必要もない。売り込む必要もなく、恥をかかせたり、間違っていると言ってくる面倒くさい人もいないのです」「それはとても素晴らしいこと。それをビジネスにするのもいいし、それが悪いことだとは言わない。でも、まずは、あなた自身のためにモノを作ること、何かすること、それに満足することや楽しむことは、本当に素敵なこと」
ゴージャスさとそして色気を増した新作『Portray』が注目を集めているソウル・シンガー、イハラカンタロウ。リリース・ライヴの決定です。アルバムのレコーディング・メンバーが多数参加したバンド編成でのパフォーマンスが予定されているとのこと。当日の会場BGMには『Portray』に影響を与えた曲もピックアップされるそうで、「自分が好きな音楽を人と共有したいんです」と語る彼の、リスナーとしての側面も楽しめそうです。7月23日、渋谷7th floorにて開催。詳しくは下記をご確認ください。新作をめぐるインタヴューはこちらから。
70年代からのソウル〜AORマナーやシティ・ポップの系譜を踏襲したメロウなフィーリング、そして国内外のDJからフックアップされるグルーヴィーなサウンドで注目を集めるイハラカンタロウ最新アルバム『Portray』リリースライヴが決定!
ジャンルやカテゴリにとらわれない膨大な音楽知識や造詣の深さでFM番組やWEBメディアでの海外アーティスト解説やイベント、DJ BARでのミュージックセレクターなどミュージシャンのみならず多方面で活躍するイハラカンタロウの最新アルバム『Portray』リリースライヴがついに決定! Bialystocksの菊池剛(Keyboard)はじめレコーディングメンバーが多数参加したスペシャルなバンド編成でのライヴです! なお当日の会場BGMは、アルバム『Portray』に影響を与えた楽曲などイハラカンタロウ自らによるセレクション!開場から開演まで長めに取っておりますのでライヴ前のお時間もぜひお楽しみください!
<ライヴ詳細>
イハラカンタロウ – Portray Release Live
日程:2023年7月23日(日)
会場:渋谷 7th Floor
時間:開場18:00 / 開演19:00
前売り:¥3,500/ 当日 ¥4,000 *1drinkオーダー
【チケット予約】
https://cantaro-ihara.zaiko.io/e/live20230723
-Member-
Cantaro Ihara
Takuya Miwa (Guitar)
Go Kikuchi (Piano/Keyboard)
toyo (Bass)
Koki Kojima (Drums)
Akira Kan (Sax)
Satoshi Kimura (Chorus)
【Buy/Download/Streaming/Pre-order(Vinyl)】
https://p-vine.lnk.to/5z5p6h
<リリース情報>
アーティスト:イハラカンタロウ
タイトル:Portray
フォーマット:CD/LP/Digital
発売日:CD/Digital 2023年4月28日 LP:2023年7月19日
品番:CD PCD-25363/LP PLP7625
定価:CD ¥2,750(税抜¥2,500)/LP ¥3,850(税抜 ¥3,500)
レーベル:P-VINE
【Track List】
1.Overture
2.つむぐように (Twiny)
3.Baby So in Love
4.アーケードには今朝の秋
5.Cue #1
6.夜の流れ
7.I Love You
8.ありあまる色調
9.You Are Right
10.Cue #2
11.Sway Me
【Musician】
Pf./Key.:菊池剛(Bialystocks)/簗島瞬(いーはとーゔ)
E.Guitar:Tuppin(Nelko/三輪卓也(アポンタイム)
E.Bass:toyo/菊地芳将(いーはとーゔ)
Drums:小島光季(Auks)/中西和音(ボタニカルな暮らし。/ 大聖堂)
Tp./F.Hr.:佐瀬悠輔
【Buy/Download/Streaming/Pre-order(Vinyl)】
https://p-vine.lnk.to/5z5p6h
【イハラカンタロウ】
1992年7月9日生まれ。70年代からのソウル〜AORマナーやシティ・ポップの系譜を踏襲したメロウなフィーリングにグルーヴィーなサウンドで作詞作曲からアレンジ、歌唱、演奏、ミックス、マスタリングまで 手がけるミュージシャン。都内でのライヴ活動を中心にキャリアを積み2020年4月に1stアルバム『C』(配信限定)を発表、“琴線に触れる”メロディ、洗練されたアレンジやコードワークといったソングライティング能力の高さで徐々に注目を集めると、同年12月にはアルバムからの7インチシングル「gypsy/rhapsody」、そして2022年2月には「I Love You/You Are Right」(7インチ/配信)をリリース、さらには12月にサウスロンドンで注目を集めるプロデューサーedblによるリミックスを収録した「つむぐように(Twiny)」(7インチ/配信)をリリースし、数多くのラジオ局でパワープレイとして公開され各方面から高い評価を受ける。またライヴや作品リリースだけでなく、ラジオ番組や音楽メディアで他アーティストの作品や楽曲制作にまつわる解説をしたり、ミュージックセレクターとしてDJ BARへの出演やTPOに合わせたプレイリストの楽曲セレクターなどへのオファーも多く、深い音楽への造詣をもってマルチな活動を行なっている。2023年2月には「I Love You (DJ Mitsu The Beats Remix)」(7インチ/配信)をリリース、2023年4月には待望の2ndアルバムのリリースしている。
Twitter:https://twitter.com/cantaro_ihara
Instagram:https://www.instagram.com/cantaro_ihara/
音楽をやること自体に喜びを覚えているような音楽が聴きたくて仕方がない。音楽をやることそれ自体に意味があり、それ自体に価値があるということをあらためて認識さてくれるような音楽。アメリカのメジャー・レーベルでは、新人と契約する際の最優先チェック事項として、SNSのフォロワー数があるという話を、ここ数年なんどか向こうのメディアで読んだことがある。日本でもありそうな話だ。レコード会社の人間が新人に対して(あるいは出版社が著者に対して)「君たちももっとSNSをうまく使いこなさないとね」などと講釈をたれているなんていう風景は、うんざりするほどありそうだ。某日本のヒップホップ・ライターから、インスタやTikTokをやっていないことに驚かれ、そこにいなければ存在していないも同然だと呆れられたことがあるが、そこに存在したくはない存在について彼は知らない。作品のクオリティよりもSNS上のパフォーマンスでフォロワー数を増やすことのほうに重点が置かれては、クリック数を増やすために記事の質よりも見出しのギミックに腐心し、閉鎖していったオンライン・サイトと同じ運命を辿る可能性は決して低くはないだろう。だからそんなことよりも、音楽を奏でることそれ自体を面白がっている音楽が聴きたいのだ。
ボアダムス/OOIOOなどで知られるYoshimiO、そして音響工作の魔術師でありカレーの達人としても名を上げた和泉希洋志のふたりによるセカンド・アルバムがまさにそれだ。この作品は、言うなればぼくにとって精神安定剤でもある。オリジナルのリリースは昨年だったようだが、〈スリル・ジョッキー〉からのライセンス盤によって、ぼくは『To The Forest To Live A Truer Life (より真実に生きるために森へ)』という喜びの音楽を知ることができた。
制作に関する興味深い話はサンレコに詳述されているが、手短に言えば、YoshimiOは幼少期に学んだピアノを弾き、和泉希洋志が彼女の演奏と歌を(曲によっては森のなかのカフェで)録音し、モジュラー・シンセサイザーに通し、徹底的に加工し、ミックスしている。じつは手の込んでいる作品だが心地よい遊び心に溢れていて、ちょうどぼくはつい先日までグレッグ・テイトという、これはこれは手強い黒人批評家の翻訳本の仕事に徹していたことで、家ではひたすらアート・アンサンブル・オブ・シカゴやBAGのような、フリー・ジャズ第三波における越境的で、解体されハイブリッド色を強めた遊び心に心酔していたのだった。YoshimiOと和泉希洋志によるこの作品には小杉武久からの影響があるとサンレコの取材で明かされているが、スタイルこそ違えど、『バップ・ティズム』や『ツタンカーメン』の流れで聴いて、音楽への向き合い方にはどこか共通するものがあるのだろう、ことのほかハマったのである。
じっさいこのアルバムはいろんな聴き方ができると思う。たとえば、 “OmimiO” にはOPN的な迷宮のエディットがあり、愛らしい “YosunnyO” はアリス・コルトレーンをイーノがリミックスしたようで、 “sun19” では、ぼくの幻覚においては、フェネスのアンビエント風グリッチが架空の民謡と一緒に溶けているのである。 “miniyO” や “mniya” のような曲の捉えどころのなさも、いや、アルバム全体が捉えどころがないのだが、瞑想的というよりも無邪気さが先立ち、実験音楽における敷居の高さを拒否している。
和泉希洋志は、YoshimiOのピアノ演奏の魅力を抽出し、巧妙に断片化し、コラージュし、いくつもの恍惚としたテキスチャーを作り上げている。アルバム冒頭の2曲——“YofuyO” と “yO Me” には心憎いベースラインがあり、その静けさに生き生きとした動きを与えているが、アンビエントとインプロヴィゼーションの交差点をダブ化したような、微細な音の変化を楽しめる立体的な本作には、故ミラ・カリックスの音響作品にも似た、創造行為への微笑みが通底しているようにぼくは思うのだ。西欧の人たちがこの音楽から(おそらくはその間の取り方から)能や狂言を感じるのはわからくもないが、歴史的に言えば武家社会(つまり西欧で言えば貴族)の芸能として栄えたそれら “日本” から著しく、それこそサン・ラー的に離れているのが 『より真実に生きるために森へ』の楽しさ、美しさでもある。リリースから1年以上経っているけれど、ぼくのように本作をまだ知らないリスナーもいると思うし、この喜びの音楽を好むリスナーが、まだまだこの日本にもいるはずなのだ。
あるバルのほんの目先にあるひとつの切り株。それは地上から数センチのところで切断され、チェーンソーで深く十字が切り込まれていた。悲惨な光景だ。人間によって、この場所で「生きるな」というメッセージを強く刻印されたひとつの有機的な植物の前に私は立ち尽くした。その木の近くにあるバルは俳句バルだ。季語という魔法のようなアウラを与えられている植物とは一切交わらず、なんの木かもはやわからないそのような木が現実にあった。私はまずそれを記しておきたい。
最近、領域横断の気鋭の研究者、桑田学さんによる、19世紀中葉~20世紀前半の英国における〈経済〉と〈生態〉を同時に考える思考の思想史をまとめた『人新世の経済思想史 生・自然・ポリティカル・エコノミー』という本が出た。ジョン・ラスキン(1819–1900、美術・建築・社会批評)、パトリック・ゲデス(1854–1932、植物学・動物学)、フレデリック・ソディ(1877–1956、物理化学)などの当時の学問の分野をまたがる思想家たちが、産業革命以後、どのように、〈生命―富―自然〉の関係を問い直し、著述してきたか、世に喚起してきたかをとても精緻に追っている。人間の暮らしの艶と経済を取り戻そうという、言ってみれば「美と経済」への展望を描いた一冊だ。空を毎日のように観察して記録をつけていたラスキンや、ダーウィンの進化論とは異なり競争とは異なる共同や相互依存を提示したゲデスや、植物だけが光合成で太陽から無生物エネルギーの流れを生命力へと変換しうると強調し、「自国と植民地双方でエネルギーの生命利用の条件を破壊しながら膨張する帝国主義的経済の末路をエネルギー論的な次元から分析」するソディ(彼の分析は戦争へも及ぶ)など、植物、地層、大気推しの議論がたくさん出てくる。上野でやっている「恐竜博2023」もすごかったがこの本も自然、本当の意味での科学、太古へのロマンがすごい。読み終えると壮大な科学ロマンを読んだようだ。もちろん最近の大気のウイルスにも一文で言及し、現代への警鐘もある。
先に挙げた思想家同様、桑田さんは、生命を支える「富」は葉などの植物的な腐食・散逸・劣化に向けた絶えざる「流れ」のなかにあり、貨幣/信用・負債の増殖・成長・蓄積のロジックとは根本的に異質なものであると看破する。それは、動物的ではない、植物的な生命観だ。昔話で葉っぱがかわいらしくいたずら好きのたぬきやきつねの頭の上でどろんと金に化ける、そんな話は、おそらく現代でも流用しなくてはならない挿話なのではないかという気がする。それは、人間の生命原理における、失われた植物の優位性・先端性を示唆しているのではないか。そう考えると、人間が死んだとき、遺骨として残されるのもなんだかおかしい。エジプト、中国、日本でも、残そうとしてくる。以前、小さな子どもと古墳に訪れたことがあった。古墳跡は草原のようになっている。そこに吹き抜ける風に、ひとりの子どもがみなぎる自分のパワーとシンクロしたようでとても喜んでいた。もちろん、『アラビアン・ナイト』の話のように、財宝が墓に一緒に埋められているというロマンもやはり捨てがたいが。でもそれは、増殖・成長・蓄積のロジックではない。ある価値変換をされたロマンという信用だ。もちろん、負債の富、「虚構の富」とは異なる、絶えざる散逸、劣化、崩壊、分解に向けた流れを本質としている富もある。まあそれは物語の中や海賊や探検家や投資家にまかせておくとして、現代人の生が、魂の「流れ」が滞っていて蘇りにくいのは19世紀から理由があるよということをこの本が教えてくれた。
少し長くなるが、とてもかっこいいので、桑田さんの本からラスキンの言葉と桑田さんの言葉をいくつか引用する。(この本は抜き書きしたくなるような文章が異様に多い。読むのが本当に楽しい)
内在的価値とは生命を維持するためのモノの絶対的な力である。(…)人がそれらを拒絶しようが、軽蔑しようが、小麦や空気や花の内在的価値には少しも影響することはない。使用しようが、されまいが、それ自身の力はそれらのもののうちにあって、その特異な力は他のなにもののなかにも存在しない。(117)
このような声明を基底とした富の定義から、経済学のさまざまなカテゴリーが論じなおされていく。たとえば労働である。富の価値が、それが人間の生に対して有用であるか否かによって決まるのと同様に、「労働には生の要素を多く含むか少なく含むかにおうじて高低の順」があり、創造的で享楽的でさえある「プラスの労働」(opera)はそれ自体が、感覚を鍛え思考の自由を高め、生を増進させるが、「破壊的」な「マイナスの労働」(labour)はひたすらに生を消耗させ、「死を生ずる」という。(119)
経済学の対象とする富・有用性が、究極において自然界からもたらされるエネルギーと物質(いわゆる低エントロピー源)に由来する、という事実であった。あらゆる純正産物は、物質とエネルギーの支出に伴う「自然によって支払われる利子」と理解されなければならない。とくにフィジオクラートがすでに洞察していたとおり、太陽エネルギーを光合成のはたらきによって人間を含む動物(微生物も含め)にとって利用可能なエネルギーへと変換している植物界こそがあらゆる生き物にとってもっとも根源的な富の純生産者というにふさわしい。大気、水、光、土壌、森林といった自然の保存こそは真の意味での富の貯蓄であり、そこに産業改革が準拠すべきひとつの原則がある。ダンディー大学で行われた最終講義「生物学とその社会的意味──植物学者はいかに世界を見るのか」において彼はこう述べる。
[植物の]葉は生命の主要な産物であり現象である。この世界はひとつの緑の世界であり、そこに比較的少数の小さな動物たちが棲みついていて、そのすべてが葉に頼って生きているのである。葉によってわれわれは生きるBy leaves we live。(202-3)
「太陽エネルギーの収入を超えた暮らし」を可能にしたのは、化石燃料の燃焼、すなわち「巨大なエネルギーの資本貯蔵」、「何百年前も以前に地球に到達した太陽光のたくわえを解放する」ことであった。ソディはこの無生物エネルギーinanimate energyの解放──すなわち有機経済から化石経済への転換──がもつ文明論的な意味を繰り返し強調している。ただしこの化石エネルギーの資本ストックは、けっして「われわれ自身の手柄」ではなく、「計り知れないほど古い時代に生じた、われわれにとって好都合な生物学的・地質学的な出来事の連鎖」の所産であって、その起源をたどるならば遠い時代に植物が捕捉し貯蔵した太陽エネルギーにいきつく。生物進化の理論によって、「本当のアダムは動物的であったことが明らかとなった」ように、「エネルギーの教説によって、真の資本家real capitalistは植物であることが明らかとなる」(257-8-3)
事物や労働の内在的価値と植物のロマンを説いている。私は気象学的な画家ターナーと地質学的な画家セザンヌが好きだ。植物的な画家ゴッホも。なんだかそのような美術には、人の生きる魂や大気(風)・大地(土)・植物と有機的に関わっていた人類の感覚を呼び起こさせている気がする。経済も、「経済の根幹は植物、太陽と土壌と植物、経済がどれだけ進展してもこれはカットできない。経済と生態は分離しない」と桑田さんは言う。ギリシャ語で経済学は、オイコスだ。オイコスは家庭という意味だ。家庭には「庭」と入っている。庭には植物がある。絶対にわたしたちは植物や太陽、土壌と腐敗、そして循環の流れの中で生きている。それが私のようにベランダしかない者でもそうだ。
トークイベントで、「変人をそうみせないように意識して書いた」と桑田さんが語っていたが、実に「変な人」がたくさん出てくるとてもおもしろい本だ。そしてわたしも変だ。これらの思想家は「階級」という言葉を使わない。思想家たちは、スラムの中にいる人の生活にもう一回美しさを取り戻すか、学校とスラムをどうやってつなげるか、そこにアナキストが入っていくなど、どうやって生活の中に広い意味での芸術を取り戻すかということを考えている。貨幣はチケットのように他者に請求できる。その信用は金属的なもので半永久的にその形が変わらないが、強靭なようでそれにすがるととてももろい。単純交換の原理で腐らず、維持にコストもかからず、永続的な利子をもたらす負債であり、自然を回避しようとする法的手段や契約の性格を帯びるようになる。しかし、紙幣は、もともと葉だ。木だ。生きて腐り、変わっていくものへの敬意、信用、生活における艶、広い意味での「美」の力だ。また、この本も紙(木)からできていた。だけどこれは、電子的なもの、テクノポップ、ポーカーなども好きなわたしの一読書記録だ。20世紀の美術家運動、未来派も機械的なものに魅かれていた。それも含めて、人新世でどう腐るかということに思いを馳せることも、重要なことだ。最近、Official髭男dismの “ミックスナッツ” を聴いた。ピーナッツ、落花生の花言葉は、「仲良し」。「ここに僕が居て あなたが居る」って言葉いいなと思った。
アーティスト間のコラボレーションが盛んなヒップホップにおいて、コラボレーション・アルバムは数え切れないほど存在する。特にアンダーグラウンド・ヒップホップでの前例としては、MFドゥームとマッドリブが「Madvillain」という名前で発表した傑作『Madvillainy』(2004)が思い浮かぶ。
現代におけるアンダーグラウンドの奇人たち、Jペグマフィア(a.k.a. ペギー)とダニー・ブラウンがアルバム単位でコラボするというニュースは好奇心を招いた。彼らはあらゆるジャンルを刺激的かつ分裂的に混ぜ合わせ、オルタナティヴなヒップホップ・プロダクションを好んで使用し、しかもなんと4~5枚以上のアルバムを着実に発表してきたことなどを共通点として挙げられるので、ふたりが引き起こす化学反応が楽しみだった。
本作は近年発表された様々なヒップホップ作品のなかでも、積極的なサンプリングと数々の引用など、メジャーな公式に当てはまらない過激さを打ち出した素晴らしいプロダクションを盛り込んだ作品と言えるだろう。特にペギーが Roland のサンプラー1台で全曲を作曲したと明かすように、サンプルを分割してソースを配置する技量はまさに頂点に達しているように見え、そこに鼻音混じりの声でリズムを自分のものにしてしまうフロウを持つ独創的なラップ・キャラクター=ダニーの参加はちょうど似合う。彼らが引き起こす刺激は終始騒がしいが、意外と「多彩なテクニック」を誇る。
“Lean Beef Patty” はサンプリングやソース配置の技術、パフォーマンスまで奇抜かつ完璧に仕上がっていて、本作の登場を楽しみにさせるリード・シングルだった。次のシングルの “SCARING THE HOES” は作中で最も奇妙な曲で、ダーティ・ビーチズのフリー・ジャズ系の演奏をサンプルに、ホラー映画のような映像演出で不気味さを増す。上記のシングルは、ふたりに期待される実験的で過激なエネルギーをよく表している。
サンプルの用例は様々だが、日本の音楽を用いた2曲はそれぞれ異なる魅力を発する。CMのチャントとファミコン・ゲームの効果音を借りた “Garbage Pale Kids” は、荒々しいベース・ドラムを落としたり、途中でファジーなギターを打ち込み、作中で最も刺激的なサウンドを完成させている。一方、某声優のシングルをサンプリングした “Kingdom Hearts Key” は、メロウ・ポップの質感を生かしつつ幻想的でダイナミックな展開を作り出している。
他にもポップ・ソウル曲をいじったり、オーケストラやゴスペルなどの荘厳な原曲に卑猥な歌詞をばら撒いたりするなど、サンプリングを使った様々な遊戯の試みは聴き手の集中力を持続的に牽引する。
ペギーのトラックメイキングの技量はまさに頂点に達しているように思われ、敏腕なラッパーのダニー・ブラウンの参加はその価値をさらに高める。プロデュースを手がけ、自分の領域を確実に構築しているJペグマフィア、コラボレーション相手をはるかに凌駕するダニー・ブラウンのパフォーマンス力。その相反するアンバランスがむしろ新しい重心を見いだしたように見える。
2020年代のヒップホップの風景を眺めると、レイジ(rage)やドリル(drill)、ハイパーポップのようなハードコア化や、ロックやエレクトロニックとの融合が積極的におこなわれてヒップホップのステレオタイプを問い直すオルタナティヴ化などが進み、その形を激しく変貌している。一方、ペギーとダニーが Roland のサンプラーの上で戯れる姿は「新しい」を志すよりむしろ文化レガシーへのノスタルジーに近い。が、彼らの遊戯が、だんだん過激化していくジャンルのなかでも、最も奇妙で刺激的なサウンドで集まった矛盾を見ると、この奇人たちの皮肉は痛烈に通じたようだ。
音楽におけるジャンルというものは考えてみるとイメージを共有するために必要になるものなのかもしれない。新しい音楽を聞く足がかりとなる情報、あるいは他の誰かに伝えるときに必要になる道具、SNSが発展してそこで興味をかきたてられることも多くなった時代においてその情報はひとつのフックとして重要な働きを果たしているように思える。
だが最近ではジャンルの枠を超えるアーティストや既存のジャンルではしっくりこないような活動をしているアーティストも多く出てきた。たとえばUKのラッパー、スロウタイの最新作『Ugly』は〈Speedy Wunderground〉のダン・キャリーのプロデュースで、ジョックストラップのテイラー・スカイやイーサン・P・フリン、フォンテインズD.Cが参加するなどサウス・ロンドンのインディ・シーンのツボを突くような陣容で、実際にインディ・ロック・リスナーからも高い評価を得た。この傾向はレーベル側にもあって、大きな注目を集めていたインディ・ロック・バンド、ブラック・カントリー・ニュー・ロードと契約した老舗〈Ninja Tune〉、あるいは〈Warp Records〉に所属していたジョックストラップが素晴らしいクラブ・チューンである “50/50” をひっさげて〈Rough Trade〉に移籍するなど、レーベルの既存のイメージとは離れた印象のアーティストと契約するというのも珍しくなくなった。これはアーティスト側がリスナーとして様々な音楽を聞き、そのアウトプットとして音楽を作るというアクションが反映された結果なのか、シーンというものに定まった服装や音楽的共通項を必ずしも求めない現代の感覚が出たものなのかはわからないが(彼らはみんなアティチュードで結びつく)、いずれにしてもSNS上のプロモーションとしてのわかりやすさが求められる一方で制作側のジャンルの意識は薄れ、その音楽はどんどん形容するが難しいものなっていっているように思える。
〈Sub Pop〉から1stアルバム『GOOD LUCK』をリリースしたデビー・フライデーはまさにこの流れの中に存在するアーティストだ。「ナイジェリアに生まれ、モントリオール、ヴァンクーヴァー、トロント、カナダのあちこちに移り住んだデビー・フライデーの時空を巡る放浪は、太陽が沈んだときから始まった」と心が躍るようなプレス・リリースの文言があるように彼女の音楽はクラブ・ミュージックがベースにある。クラブで育ち、DJとして活動を始めそうしてすぐに自らの音楽を作ることを志したという彼女はジェイペグマフィアやデス・グリップスをリリースするロサンゼルスのレーベル〈Deathbomb Arc〉から2枚のEPを出し、インディ・ロックの名門レーベル〈Sub Pop〉と契約しアルバムをリリースすることになる。
そうしてリリースされたこのデビュー・アルバムは彼女の特徴であった暗く呪詛的な硬質なビートに加え、これまでの2枚のEPと比べてよりインダストリアル・ロックの要素やポップな側面が強く出ている。アルバムのオープニング・トラックでありタイトル・トラックである “GOOD LUCK” は漆黒のビートの重さを保ったまま、より軽やかに解放されたかのような彼女の声が響く。ヒップホップの要素とインダストリアルの要素が混じりあい、エレクトロニクスの痛みがやがて突き抜けた快感に辿り着くかのごとく変質していく。続く “SO HARD TO TELL” はこれまでのデビー・フライデーとはまったく違う甘いファルセット・ヴォイスが聞こえてくるユーフォリックなトラックだ。その声は甘く、決意を固めたかのように芯があり、挑みかかるようだったいままでの彼女の声とは違う魅力を見せる。孤独を抱えたメランコリックなエレクトロ・インディ・ポップとも呼べそうなこの曲はアルバムの中で異彩を放っているが、しかしこの曲こそがこのアルバムのデビー・フライデーを特別な存在にしているのかもしれない。かつて “BITCHPUNK” を標榜し牙を剥いていた彼女の違う側面、彼女の内に潜んでいたものが少しずつ溶け出して、それがより一層硬質なビートを輝かせている(それは漆黒の闇の中で輝く光がそれぞれをより引き立たせているようなこのアルバムのアートワークにも現れているようにも思える)。
デビー・フライデーはそんな風にしていくつものジャンルを並列に並べ、異質を本質に変えていく。邪悪なポストパンクのような “WHAT A MAN” で電子音の世界からギター・ロックにアプローチするスケールの大きいロック・スター然とした雰囲気を見せかと思えば、“SAFE” では再び狭くて暗い地下室に潜り硬く小さいビートの中で自問自答を繰り返すといった具合に。
このデビュー・アルバムにはデビー・フライデーが影響されてきた音楽の影がそこらかしこに潜んでいるのだ。そこにマッシヴ・アタックを感じデス・グリップスの影を見て、違う世界のイヴ・トゥモアの形を思い浮かべる。自分のようなインディ・ロック・リスナーの耳にも馴染みやすいのはこの音楽の中に様々な影を見ているからなのかもしれない。このハイブリッドな音楽はどの方向からも接続可能なアクセス・ポイントを持っていて、ジャンルの境界を意識させることなく越えていくのだ。ジャンルとは受け手が感じ取るもので、そこに隔たりなどなく、ただフックがその音楽の中に存在するだけなのかもしれない。デビー・フライデーのこのアルバムはそんなゆるやかに変わる世界の流れを感じさせる。そのうちにもっと感覚が変わって、ジャンルの枠を越えたなんて誰も言わなくなるかもしれない。
