「Noton」と一致するもの

電気グルーヴ - ele-king

 基本的にぼくは疲れている男だ。これは自己嫌悪型ナルシズムではない、と自分では思っている。明日、起き上がって歩けるだろうかというレヴェルにおいて、本格的に疲れているのだ。悲しいことに、若い頃のように夜が明けるまでぶっ通しで飲むことができないどころか、ビールのジョッキを5〜6杯と焼酎を少々飲んだぐらいで翌日に残ってしまうという有様だったりする。ライヴの当日がまさにそうだった。前日の夜、恐れていた二日酔いに見舞われると、自分のメランコリックな属性が稼働し、さらに悪いことに朝から最悪のことばかりを想像してしまう。「何も変わらないだろう」と電気グルーヴは歌ったが、人類は少数の富裕層と大多数の下々という、考えてみれば昔ながらの世界に回帰した。おめでとう。そしてぼくはゾンビの大群のひとりのように電車に乗って、ふらふらとみなとみらいへと向かった。なんとか歩けるようだし。
 最近、代名詞についてちょっと調べる機会があった。中国の(秦の)始皇帝は自らを「朕」と呼んだが、これはもちろん庶民には使えない言葉だった。中国語の一人称代名詞は「我」で、その言葉には価値のない身体という意味があったという説があるらしい。正しいか俗説なのかはわからないが、少なくともぼくには相応しく思える。そんなことを思いながらも、ぼくはステージ上で踊っているひとりの「朕」=ピエール瀧を眺めていた。
 ワンマンライヴは3年振りだとステージ上のふたりは言っていたけれど、ぼく個人にとってはもっと久しぶりだった。最後に見たワンマンがいつだったか思い出せないくらいに。それはたぶん、人間生活にとって不都合な管理体制がいまほどきつくなかった時代だったかもしれない。インターネットがよりよい世界を作るだろう、新しいコミュニケーションをうながしオンライン上では誰もが自由に自己表現ができるだろうなどという説を知識人たちが喧伝しはじめた頃だった。人類が、日がな一日液晶画面のなかのアルゴリズムによる広告や動画を視界に入れながら、敵を作らないよう細心の注意が払われた安っぽい文章を読むか、さもなければ好みの動画で時間をつぶすこともなかったあの時代の電気グルーヴのライヴなら、人に自慢できるほどたくさん見ている。彼らがギリギリのところで存在していた奇跡的な時代のドキュメント、思い出だらけのあれこれ……。


 
 二日酔いの身体にビールを流し込むことは決して快感ではないはずだが、音楽とは不思議なモノで、電気グルーヴのライヴがはじまってから3曲目だったか、“モノノケダンス”のころにはビールのなかに抗うつ剤が混じっていたのかと疑ったほどだった。
 電気グルーヴは素晴らしかった。クラフトワークと同じように、彼らはテクノの徹底的な大衆主義者だ。エンターテイナーとしての自分たちの型と世界を持っている唯一無二の存在だ。誰もがその扉を開けることができるし、誰もが楽しむことができる。ヴィジュアルや照明といった演出も良かった。ライヴが終わったあと、ぼくはその場にいた湯山玲子にもっともらしくそんなことを言った。
 しかしごめん、湯山さん、ぼくがライヴの最中に泣いたのは、じつは“Fallin' Down”のときだった。その曲が名曲であるかどうかを判断する基準として、リスナーの個人的な事情や社会の認識という主観が許されるなら、こいつはこの夜のぼくにとってはスマッシュヒットだった。もっとも盛り上がった曲のひとつで人気曲、石野卓球がワンコーラス目を歌い逃したほど感極まったかに見えた“NO”は、ふたりの友情の証でもあるが、PWEIがサンプリングした1977年のディスコ・ソング(Belle Epoque)の冒頭のアカペラを情熱のこもった愛らしいイントロに変換してしまった意味においてもこの曲はインパクトがある。PWEIは、1980年代のまだロック主義者たちがディスコを見下していた時代に、茶化しと反抗とユーモアの入り交じったサンプリング芸としてそれを見せたわけだが、電気グルーヴは彼らの精神を継承しながらも、ひとつのジョークとして、さながら文化的階級闘争のように、もはやディスコこそが最高だと他を見下しているかのようなのだ。そう、ピエール瀧こそが朕であり、そしてステージ上では朕の執行猶予明けが報告されもした。「執行猶予中のみなさん、もうすぐだからね」と、彼は人びとを勇気づけることも忘れなかった。

 相変わらずのリップサーヴィスのなかで、自分たちは資本主義者で金の亡者だから物販を買って欲しいと繰り返す場面もあった。ぼくはこれにも笑った。反資本主義と言いながら何万部突破などと宣伝していることより信用できるだろう。とまあ、そんな具合に、1万人以上のオーディエンスを2時間ものあいだ楽しませた電気グルーヴは、アンコールでは“富士山”をやって、それからさくっと「みんなとみらいのYOUとぴあ」という面白い言葉を冠したライヴ公演の幕を下ろした。“人間大統領”も“虹”もやらなかったけれど、なんの不満もない。理解を超えた、不毛(ナンセンス)なことに熱中することはなんて楽しいのだろう。それがこんなにもまぶしいポップな娯楽として成立している世界は、そんなに悪くない。
 
 電気グルーヴは、11月には全国ツアー「みんなと未来とYシャツと大五郎」も控えている。 

 

ファイブ・デビルズ - ele-king

 今年前半に公開されたジャック・オディアール監督『パリ13区』の脚本を共同で手掛けたセリーヌ・シアマとレア・ミシウスがそれぞれに監督した『秘密の森の、その向こう』と『ファイブ・デビルズ』が今年後半に立て続けに公開。パリの移民地区を舞台にした『パリ13区』はそれまでのオディアール作品とは比較にならないほど複雑な人間関係を扱い、その妙味は明らかにシアマとミシウスがもたらした変化であった。早くからシアマとミシウスの才能に着目していたオディアールが『リード・マイ・リップス』から21年を経て、70歳にしてこれだけの新境地を開けたことにも驚くし、『秘密の森の、その向こう』と『ファイブ・デビルズ』がいずれも『パリ13区』の一部を拡大し、どちらも示し合わせたようにSF的な要素を導入していたことも驚きであった。シアマとミシウスは子どもの視点を大幅に活用したことでも共通し、演技経験がなかったという子役の選び方まで同じ。子どもというファクターを加えることで2人は男性を必要悪としてでも受け入れなければ次世代がない=人類は存続できないという時間の流れを意識させ、そうした世界観を娘たちの目を通して描くというアクロバティックな観点へと観客を連れ去っていく。同じフランスの女性監督でもヴァレリー・ドンゼッリやミア・ハンセン=ラブにはなかった感覚であり、オディアール作品の死角ともいうべき部分が浮かび上がった感もある。いずれにしろ『パリ13区』、『秘密の森の、その向こう』、『ファイブ・デビルズ』はユニークなトライアングルをなし、どの作品も「女性たちにとって男性とは何か」という問題意識をそれぞれの角度から考えさせられる。

 『パリ13区』からエミリーとその母と祖母という3世代の女性を抜き出して距離感を測り直したものが『秘密の森の、その向こう』のネリーとその母と祖母の関係に相当し、ネリーが父親にヒゲを剃って欲しいと頼むことで、要するにテストステロンを抑制すれば男性も女性たちの輪に加わっていいという単純なメッセージになっている(世代を単なる友人関係に置き換えると『かもめ食堂』のミサンドリーにも通じるだろう)。これに対して、『パリ13区』のノラとアンバーとカミーユの関係をジョアンヌとジュリアとジミーに置き換え、ヴィッキーという娘を加えたものが『ファイブ・デビルズ』の骨格部分をなす。『パリ13区』ではノラとアンバー、『ファイブ・デビルズ』ではジョアンヌとジュリアという2人の女性が奇妙な結びつき方をしていることがそのまま物語の核心をなし、ノラに恋するカミーユも、ジョアンヌと結婚しているジミーも、男は雑音に等しい存在として描かれている。雑音の入れ方がしかし、ミシウスは非常に巧みで、ヒゲを剃っていれば女性たちの輪に加えてもらえるというほど単純ではなく、そのノイズがノイズと見なされる理由も含めてストーリーの歯車に組み込んだところが『ファイブ・デビルズ』をとても見応えのある作品にしている。『ファイブ・デビルズ』は家族を扱ってるようで、実際にはジョアンヌという「個人の生き方」を描いた作品で、「家族のあり方」を描こうとする姿勢はむしろ希薄である。フランス映画というのは昔からそういうものかもしれないけれど。

 ジョアンヌはプール教室のインストラクター。老人たちのレッスンを指導しながら子どもたちの行動にも気を配っている。彼女の隣には黒人の女の子がいて、全員が帰るとその子(ヴィッキー)はプールの片付けを手伝い始める。ジョアンヌは白人なので、養女なのかと思っていると、しばらくして彼女の夫であるジミーは「セネガル人」で、ヴィッキーも実の子どもだということがわかってくる。ジョアンヌは仕事が終わるとヴィッキーを伴って湖に寒中水泳をしに行く。ジョアンヌはいつもほとんど無表情で、物語も中盤を過ぎると(以下、少しネタバレ)寒中水泳で死と隣り合わせの状態に自分を置かないと自分が生きている実感を持てないという感覚を漂わせる。ヴィッキーはいつもジョアンヌが泳ぎ出して20分が経過すると警告を発し、湖から上がったジョアンヌにやはり無表情でガウンを着せる。冷え切ったジョアンヌの表情は寒中水泳を始める前よりもさらに表情を失い、ヴィッキーはジョアンヌが湖に飛び込む前に全身に塗るワセリン状のものを母親の匂いとして認識し、自分の手についたワセリン状のものをすべてビンに入れて保存している。ジョアンヌとジミーはセックスレスで、ジミーも家にいる時は表情がない。親子3人でTVを観ていてもそこには感情の交流はなく、言葉にして出されるのはいかにも親が言いそうな常套句のみである。物語が動き出すのはジミーの電話が鳴り、妹のジュリアが村に戻ってくることになってから。「いいよ」と返事したジミーにジョアンヌはなぜ許したのだと抗議する。しかし、ジュリアはジョアンヌの家にやってくる。そして、ジョアンヌの家に住み、酒がないとわかると夜な夜な酒を飲みに出掛けることから村の人たちにジュリアが戻ってきたという噂が広まっていく。ジョアンヌは同僚のナディーヌに噂の真偽を確かめられるものの、その噂は嘘だと否定する。

 ヴィッキーは嗅覚が異常に発達している。ジョアンヌもヴィッキーの嗅覚が警察犬並みに能力が高いと気づき、ヴィッキーの能力を試してみる(この辺りは話がどっちに向かうのかさっぱりわからなくて最も期待が高まるところ。作品を観る気のある人はこれ以上読まないことをお勧めします)。ヴィッキーはジュリアの匂いを再現しようとし、その途中で「ある匂い」に反応して気を失ってしまう。彼女が目を覚ますと、そこは体育館で、学生時代の母親たちが体操の準備をしている。そこにコーチが新しいメンバーを紹介するといって連れてきたのが若きジュリアだった。ヴィッキーは人の匂いを介してその人の記憶に潜り込む能力を得たのである。ヴィッキーは何度もタイムリープを繰り返し、やがて10年前に何があったのかが少しずつわかってくる。(以下、完全にネタバレ)ジョアンヌとジュリアは女性同士で好意を抱き合っていたものの、理解のない父親に反対され、彼女たちの関係は誰からも祝福されなかった。ヴィッキーのタイムリープにはミッシング・リンクがあり、過去のすべてが明らかになるわけではなく、ジョアンヌとジュリアの関係もどのように展開していったのかはわからないものの、体操クラブが練習の成果を村の人たちに披露している最中にジュリアだけが私服に着替えて集会場から出て行ってしまう。ヴィッキーがたった1人の黒人として学校でいじめられているシーンが何度か挿入され、周囲の子供たちをタイムリープの道連れにしてしまう場面もあるので、もしかすると、若きジュリアも村には珍しい「セネガル系フランス人」としていじめられていたのかもしれない。だとすると、『パリ13区』でノラが強い絆を結ぶことになるのがネットで人気のポルノスターだったという異形のポジションにジュリアが置かれていると考えるのが自然だろう。オディアールもミシウスもフランスを「村」として描く態度が共通し、どちらもサルコジ以降に際立ち始めた共同体の閉塞感をあぶり出していく。ちなみに映画のタイトルは『5人の悪魔』なのに主要な登場人物は4人しかおらず、5人目は誰のことを指しているのだろうと思いながら観ていたら、ファイヴ・デビルズというのは村の名前で、どうやらそれはミシウスが『ツイン・ピークス」の大ファンだったことからアルプスの麓にある村という設定に変換されたものではないかと(推測)。いずれにしろ『パリ13区』も『ファイブ・デビルズ』も「場」を限定することに意味があったことは確か。

(以下、さらに完全なるネタバレ)集会場から飛び出したジュリアは外に飾ってあった巨大なクリスマス・ツリーに火をつける。その火が集会場に燃えうつり、逃げ遅れたナディーヌは顔半分にやけどを負ってしまう。そして、元の世界でも村の噂やナディーヌの責めに耐えきれなくなったジョアンヌが開き直って家族全員でカラオケ・バーに繰り出し、ジュリアと生き生きとしたデュエットを披露する。ジョアンヌはまるで感情の限りを絞り出したかのようであり、ヴィッキーとジミーは無表情の世界に取り残される。ジョアンヌとジュリアがタコ(=デビルフィッシュ)をキッチンに叩きつけ、笑い転げながら調理するシーンも印象的。そこには「敵」が凝縮され、ジョアンヌに続いてジュリアも見事に解放されていく。ヴィッキーはしかし、母親をジュリアに取られると感じてジュリアに対する敵意を倍増させ、悪臭でジュリアを家から追い出そうと自分のおしっこやカラスの死体を集めて魔女のスープのようなものを庭で煮立て始める。異形のものがインターネットからやってくる『パリ13区』では解決できることが、現実の世界しかない『ファイブ・デビルズ』ではそうはいかない。インターネットに逃げ込むことができないジュリアは、そして、再びジョアンヌの前からいなくなる。人間が電子化された存在になるということが共同体にとってどれだけの逃げ場をつくっているのかということがこの2作には差として表れ、その道を閉ざした時に人は死を選ぶというのがミシウスの立てた道すじとなる。ここにミシウスはもうひとつ男性の存在というファクターを濃厚に絡めてくる。ここまで背景に退いていたに近いジミーも姿を消したジュリアを探しまくる。そしてそのために自分がジョアンヌと結婚する前に付き合っていたナディーヌの元を訪ねる。ナディーヌは自分にやけどを負わせたジュリアを憎み切っているし、おそらくはそのせいで男とは縁がなくなっていたのだろう。セックスレスだったジミーはナディーヌの体を見た途端、いきなり襲いかかる。2人にとっては久しぶりのセックスであったことがその激しさから窺える。それと同時にジミーとジョアンヌはセックスレスだったというよりも制度に従った組み合わせだったために内発性が奪われていたのではないかという疑問に転化し、ジミーにとっては社会的には不倫に相当するセックスが結果的に様々なことの封印を解いたようになり、ジョアンヌとジュリアの関係を肯定するだけでなく、村の秩序とは異なる方向へ彼らを向かわせるのではないかと想像させることになる。ジミーとナディーヌのセックスの後、登場人物はみな優しくなり、誰も無表情ではなくなっている。現実にはタイムリープの代わりに何を持って来ればいいのかはわからないけれど、もはや時代はインターネットではないとミシウスは主張している。インターネットという逃げ場がある限り、このような変化は永久に起きなかった。必要としていた人との歌や料理やセックスによってジョアンヌもジミーも肉体や感情を取り戻し、共同体が求める家族像をぶっちぎれたのである。

 よくよく考えてみると随所で説明不足なのに、そうは感じさせないところがこの映画はすごいかもしれない(実際には撮影しているのに、整合性のあるカットをわざと外してしまうのもデヴィッド・リンチの影響らしい)。その最たるものとしてラスト・シーンがあり、僕にはその意味がさっぱりわからなかった。ジュリアにだけは未来から来たヴィッキーが見えるという設定だったので、おそらくはヴィッキーの子どもが過去を探りに来ていると取るのが自然なのだろうけれど……。オディアール作品のほとんどが多様な人種の混淆を描き、それが意図的であることを窺わせるように『ファイブ・デビルズ』でセネガル系に重要な役割を演じさせているのも国民連合(旧国民戦線)が台頭しているフランスの現状に対し明確に政治的な意図をもってやっているとミシウスは発言している。「どの大人の登場人物もどこか道を踏み外しており、どこか不幸です。その良い面は、失敗した人のおかげで、ヴィッキーが生まれたということです。失われたものはない、失われた時間を埋め合わすことができないなら、私たちには選択肢がある、物事は決まってないのです。私たちには行動を起こすことができるのです」(レア・ミシウス)

Can - ele-king

 「クラウトロックという言葉は使わないで欲しい」——これがダニエル・ミラーからの唯一の要望だった。いまから2年ほど前、日本でのCANの再発に併せてライナー執筆および別冊を作る際に、全カタログをライセンス契約しているロンドンの〈ミュート〉レーベルの創始者は、イギリス人によるドイツ人への侮蔑と悪意がまったくなかったとは言いがたいこのタームを使うことに物言いをつけたのだった。
 このタームには、もうひとつの問題がある。たとえばクラフトワークとアモン・デュールを同じ括りでまとめてしまうことは、ボブ・ディランもガンズ・アンド・ローゼズも同じアメリカン・ロックと束ねてしまうことのように、作品性を鑑みれば決して適切な要約とは言えない。しかしまあ、70年代の日本のメディアでは、ジャーマン・ロックという、だだっぴろい意味を持つ言葉を使って区分けされていたわけで、そのことを思えばジュリアン・コープが普及させたこのタームのほうが対象を絞り込んでいるだけまだマシかもしれない。もちろんそれを否定する権利は、このレッテルを押しつけられたドイツ人ミュージシャンにはある。が、いまでは多くの当事者が受け入れているし、クラウトロックといったときの、ぼんやりとしたイメージもたしかにある。そもそもこうしたターム(ジャンル名)はレコード店の棚のためにあって、それが買い手にとって機能していることもたしかだ。かくいうぼくも何百回となくこれを使用してきたし、このレヴューでも、ダニエル・ミラーの考え方を理解した上で敢えて使わせてもらいたい、たとえばこんな具合に。クラウトロックを語るとき、「我々には父がいない」という言葉がたびたび引用される。

 「我々には父がいない」——これを言ったのはクラフトワークだが、クラウトロック全般に共通する、ひとつのメタファーとしても有効だ。ナチスに同意した過去を持つ親の世代と自分たちを切り離し、あらためて再出発することを必要とした彼らクラウトロック世代共通の感覚として。
 ぼくはこの、「父なきロック」という言い回しが気に入って、自分の原稿のなかでなんどか使ってきている。その理由には、おそらくぼく自身が父と良好な関係をなかなか築けなかったということもあるのだろう。いまから10日ほど前、じっさいに父を亡くしたときに去来したいろんな感情のなかで、しかしひとつ思い当たったことは、父がいなければ自分もいなかったという、じつに当たり前の事実だった。

 CANには、音楽的観点で言えば尊敬すべき先達が何人もいた。それこそクラシック音楽の前衛たちからジョン・ケージ、ミニマル・ミュージック、ジャズのレジェンドたち、ヴェルヴェッツやジミ・ヘンドリクス、ジェイムズ・ブラウン等々、要するに未来に開けた音楽。父との強固な確執があったイルミン・シュミットは、なおのこと(過去よりも)時代の新しい空気に貪欲だった。バンド編成も型破りだった。もしもCANが、ごく一般的な、メンバー全員が同じ音楽ジャンルをバックボーンとする4人組だったら話は違っただろう。シュミットとホルガー・シューカイはクラシック音楽の前衛をかじったエリートだったが、ほかは経験豊富なジャズのドラマー、ひと世代も若いロックのギタリスト、そしてずぶの素人がバンドのヴォーカリストとして招ねかれた。これは偶然ではない、考えにもとづき意図してこうなった。
 バンド内にリーダーを作らず、また、譜面も持たず、メンバーの相互作用から何かが生まれるという可能性にかけたのがCANだった。彼らは、どこに着地するのかわからないからこそ、離陸することを選んだ。ジャムセッションが彼らの作曲方法で、作曲者はつねにCAN、ギャラも印税も作品の貢献度に関係なくメンバー全員で等分された。安易にコミュニティ(共同体)という言葉を使うことをぼくは好まないが、CANに関してはその平等性において、思わずそう言いたくもなる。そして、リーダー不在を意識したこのバンドは、ジャムセッションからはじまっているのだから、彼らがライヴ盤を出していなかった原因もわからなくもない。CANの音楽は、そもそもがスタジオ内のライヴにはじまっているのだ。

 本作『ライヴ・イン・クックスハーフェン1976』はCANのライヴ・シリーズの3作目で、1976年1月、ハンブルクよりずっと北の北海に面した街における録音になる。シュミットとエンジニアのレネ・ティナーによって、ファンがこっそり録音した記録を最新技術によって蘇生させるこの企画は、当時のライヴ演奏におけるCANをみせることを目的としている。それは、“ある意味”彼らの本来の精神に忠実な姿と言えるのだろう。(※“ある意味”というのは、CANのアルバムはジャムセッションの記録を編集し、手を加えたことで完成しているからだ
 ダモ鈴木が脱退し、4人組となったCANは、初期のジャムセッションに立ち返ったかのように、集中力を要する一発勝負の即興をステージの上で展開していた。1975年には、イギリス、フランス、ドイツなど欧州において、計30回にも及ぶ公演をやったというから、ライヴ・バンドとしてのCANの乗りに乗った絶頂期だった。シリーズ1作目の『ライヴ・イン・シュツットガルト1975』が1975年10月末のライヴ、2作目の『ライヴ・イン・ブライトン1975』が同年の11月、本作が1976年1月と、これら3枚は、およそ3ヶ月以内におこなわれた演奏の記録になる。まずはそれをこうして再現させたのだから、企画の指揮をとったシュミットには、この時期の演奏に関してそれなりの自負があるのだ。ただし、『クックスハーフェン』は前2作と違って収録時間が極端に短い。『シュツットガルト』と『ブライトン』が90分近くあるのに対して、本作はほとんど30分で収まっている。ただ漠然と記録を再現するというよりは、今回は、CANにとっての「良い瞬間」に的を絞って編集したものだと思われる。

 CANにとっての1975年は、2月から4月にかけて『ランデッド』を録音、1976年6月からは『フロウ・モーション』のレコーディングに入っている。つまりこの時期のCANからは——『スーン・オーヴァー・ババルーマ』までの宙に浮く流動体のような感覚を残しつつ、異国情緒を取り入れながら彼らにしたらロック・バンド然とした『ランデッド』でのアプローチと、レゲエ/ダブ(そしてディスコ)を大胆に取り入れた『フロウ・モーション』での展開をほのめかすという、この時代ならではの演奏が聴けるわけだ。
 とくに今回は、反復とその変化を楽しむことができる。全4曲あるうちの4曲目では、ジャマイカ音楽からの影響が明白なリズムにはじまっているが、途中で入るミヒャエル・カローリのギターが曲を別の次元にもっていく。3曲目ではCAN流のファンクを披露しつつも、シュミットのシンセサイザーが入ると曲は抽象化されてスペーシーに展開する。1曲目と2曲目にも律動的なリズムの反復があって、ひらたく言えば躍動感のある、ダンサブルな音楽性へと向かっている。シューカイは『フロウ・モーション』を経てからは、関心が演奏よりもポスト・プロダクションに移行するので、これは、ベーシストとしての彼のほとんど最後のほうのパフォーマンスということになるのだろうか。ことにヤキ・リーヴェツァイトとの掛け合いは有機的で、まさにひとつの生命体の骨格を成している。

 そう、間違いなく、CANそれ自体がひとつの生命体として、ここにうごめいているのだ。この感覚は、CANなきあとも継承されている。今年に入ってからも、ぼくはCANを感じる新世代のバンド・サウンドに出会っているのだが、たとえばその一例としてキャロラインがいる。ロンドンの20代によるこのバンドも、言うなればリーダー(中心)不在の民主的な演奏を意識しているようだし、いささか感傷的とはいえ、自由形式の音楽をやっている。グラスゴーのスティル・ハウス・プランツにいたっては、可能性にもとづいた実験精神という点においてCANに近い。
 しかしながら、CANのように自らを限定せず、どこまでもおおらかで、面白いと思ったサウンドならどんなものでも取り入れていくようなバンドは、そうそういるわけではない。ひとつの決められた方向性を極めるのではなく、ごく自然に、流動的に変化することを好み、メンバーのひとりひとりが相互的に共鳴しながら(ときに格闘しながら)いろんな方角に開かれていくようなバンド、テクノロジーを頼りにするのではなく、自分たちのアイデアをもってサウンド工作の可能性を探索するバンド、そんな共同体は、いまも決して多くはないだろう。

 ゆえにCANは今日でも古びることなく聴かれている。ミヒャエル・カローリが言うように、「自分がほかの命によって生かされていること」、そしてそれを知ること、それこそがCANから学べる究極の哲学なんだとぼくも思う。CANはたしかにロック・リスナーの耳穴をおっぴろげ、みんなの聴力を向上させたバンドだったが、この音楽から引き出せる本当に大切なことはまだ残っているのだ。

SAULT - ele-king

 今春、がらりと作風を変えクラシック音楽の要素を取りいれた作品『Air』をリリースし驚きを与えたSAULT。このUKの匿名グループが新曲を発表している。題して “Angel”。静けさが際立つバックトラックに、ルーツ的なパトワのヴォーカルが乗る、一風変わった楽曲だ。長さは10分10秒、公開が10月10日、収録シングル名も「10」ということで、またなにか狙いがありそう。チェックしておきましょう。

Haruna Yusa - ele-king

 この春に素敵なアルバム『Another Story Of Dystopia Romance』を送り出した遊佐春菜。
 8月頭、江ノ島OPPA-LAにて開催されたリリース・パーティでは、SUGIURUMNなどによる最高に盛り上がるDJの合間をぬって、遊佐本人もキーボードを携えてライヴ・パフォーマンスを披露。アルバム後半で表現されていたような、パーティが持つ楽しさとはかなさが同居したような、覚めたまま見る夢というのか、夢のなかで夢だとわかっている感覚というのか、なんとも不思議な時間を体感させてくれた。
 と、ここへ来て、アルバム収録曲のなかでも「僕はインターネット 世界と繋がってる」のフレーズが印象的な1曲、“everything, everything, everything” のMVが公開されている。7インチとしてシングルカットされる予定で、発売は10月19日、カップリングには “巨大なパーティー(JAH善福寺 from 井の頭レンジャーズ Remix)” が収録されるとのこと。ご予約は下記リンクから。

TYPE NINE - ele-king

 東京からハード・テクノを発信する〈09recordings〉と最近はテクノやハウスをモチーフにすることの多いファッション・ブランド〈WATERFALL〉がコラボTシャツをリリース。これは10月22日、青山VENT(Wall&Wall)にて開かれる〈09recordings〉主催の「TYPE NINE」にて限定発売される。
 ちなみに、同パーティには〈09recordings〉レーベルのオーナーで、東京のハード・テクノ・シーンを代表するDJ/プロデューサーのひとり、SHINICHIRO IMANARIをはじめ、レーベルの共同運営者でありDJのShintarø Kanie、テクノ界のレジェンド、DJ WADA、欧州からハード・テクノの使者AnGy KoRe & Gabriel Padrevitaなど、“ハード”にこだわったDJたちが集結する。速めのBPMのテクノやミニマルでがっつり踊りたい人たちはチェックして欲しい。

 なお、太っ腹な〈09recordings〉と〈WATERFALL〉から、エレキング読者に「TYPE NINE」コラボTシャツ1枚、〈WATERFALL〉から「DETROIT TECHNO」Tシャツ1枚、12月24日にCircus Tokyoにて開催される「TYPE NINE」へ来日予定のハード・テクノのレジェンド、PETDuoがデザインした「got techno ?」Tシャツ1枚の計3枚(サイズはL)をプレゼントします。
 応募は、info@ele-king.netまで、「好きなハード・テクノ・トラックを1曲」とご希望のTシャツを書いてメールをください(件名は、「〈09recordings〉〈WATERFALL〉Tシャツ・プレゼント」。名前不要)。当選者には編集部からメールを差し上げます。締め切りは、10月18日正午。Tシャツを着て「TYPE NINE」で踊りましょう!


①TYPE NINE×WATERFALLLコラボTシャツ L


②デトロイトTシャツ


③PETDuoデザインTシャツ


Kendrick Lamar - ele-king

はっきりさせておきたい。私たちがラッパーに求めるのは、政治的な一貫性、明快さ、方向性、指示などではなく、むしろ肌の色を超えたアメリカの日常生活の当たり前の泡沫の表面に、目に見える分裂病の亀裂を生み出している精神的圧力の本質なのだ。
——グレッグ・テイト

 BLM熱の余韻がまだ残る昨年の7月、『The New Yorker』に掲載されたイシュメール・リードの長いインタヴュー記事において、彼は現代の反レイシズムを「新しいヨガ」と、反骨とユーモアの作家に相応しい言葉で揶揄している。1938年生まれ、マルコムXにインタヴューしたことで60年代はNYに移住、しかしブラック・ナショナリズムともブラック・アーツ・ムーヴメントとも袂を分かち、黒人男性は暴君だというステレオタイプとも、カーセラル・フェミニズムとも闘ってきたこの一匹狼は、BLMによって非黒人社会に広がった「黒人を知りましょう」的な空気がどうにも気に入らない。そういえば、ケンドリック・ラマーの5月にリリースされた『ミスター・モラル&ザ・ビッグ・ステッパーズ』にも、「黒人のトラウマの何がわかるって言うんだ?」という言葉があった。

 じつを言えば本作のレヴューは、夏前にほとんど書いている。が、途中で煮詰まって、自分でもいまいちだと放置したままになっていた。それがいまこうして最後まで書こうとしているのは、ほんの数日前、三田格とケイトリン・アウレリア・スミスの新作の話題からなぜかケンドリックへと転じ、彼から最後まで書くよう言われたからという、ただそれだけのことだったりする。(たしかに今年の重要作ではあるし、レヴューしない手はないのだが)
 リリースからはもう4か月も経っているので、プロダクションに関する詳しい内容はすっ飛ばしてもいいだろう。手短に言っておけば、二部構成になっていて、ぼくには長すぎるアルバムだが、ラマーらしいファンクとソウルあるいはジャズの折衷に加え、ストリングスやピアノを活かしながら実験的なサウンドにも挑戦している。多彩な音楽性と連動するラマーの幅広い魅力が詰まった野心作だ。高速ドラムとファスト・ラップの“United In Grief”、あまりにもリズミカルな男女の口喧嘩“We Cry Together”がとくに気に入っているが、良い曲はたくさんある(なにせ20曲近くあるのだ)。ゴーストフェイスキラーが登場する“Purple Hearts”の引き締まったリズムとメロウなライムや、ポーティスヘッドのベス・ギブソンをフィーチャーした“Mother I Sober”が今回の目玉であることはいまさら言うまでもないだろうが、いまあらためてここで強調したいのは、先行公開された“The Heart Part 5”のMVだ。マーヴィン・ゲイの人気曲“I Want You”の大胆なサンプリングからはじまるこのファンクに合わせて、憂鬱な表情をしたラマーが最高に格好いいラップを披露するその映像はじつに興味深い。よく見るとラマーの顔は、カニエ・ウェストやウィル・スミス、射殺されたニプシー・ハッスルや悪名高きO.J.シンプソンなど、言うなればスキャンダルにまみれた過去を持ち、公にバッシングされた黒人男性セレブの顔に変幻する。

 ぼくがこのレヴューを煮詰まった理由のひとつは、コダック・ブラックの起用をどう評価したらいいのかわからなかったことにある。じっさい、英米のレヴューでは彼の参加がアルバムの評価を二分する大きな要因となっているわけだが、レイプや暴行などの容疑で逮捕されトランプによって減刑されたラッパーに関する知識がぼくにはない。ただ、『The New Yorker』のレヴューがいうように、この起用が「もっとも人目を惹くリベラルに対す挑発」だとしたら、それそれでポリティカル・コレクトネスに対しラマーの投げた問題提起として考える価値は、充分にある。
 それにまた本作には、同紙が言うように“Alright ”がプロテストソングとして採用され、2020年のブラック・ライヴズ・マターのデモの際にラマーが沈黙したとされることへの反発もあると思う。そういう意味では自分への評価に対してもラマーは疑いを見せてもいるわけだ(それが、自らの過去の欠点や汚点を赤裸々に陳述していることにも、自分は救世主ではない発言にも連なっているのだろう)。だいたい“Savior”において、黒人活動家よりも自分はコダック・ブラック派だという煽りは、友情というか今回のアルバムにおける“個人に立ち返ることで社会を見る”というアプローチにも関わっている話だが、意味を汲み取ればずいぶん勇気ある発言だ。しかもその後のライヴでラマーはコダック・ブラックをステージに上げているのだから、これは“挑発”以上の何かである(アメリカにおけるキャンセル・カルチャーは、日本よりもはるかに強烈だと聞いている。いまもっとも評価の高いアーティストがそれに抗うことは、それなりに意味があろう)。
 しかしながらコダック・ブラックの起用に関しては、『Wire』などははっきりと失意を述べているのだが(いわく「信頼していた友人と仲違いしてしまったような気分」)、多くのレヴューに見られる「天才」「ピューリッツァー賞」*という面白味のない賞賛よりは、今作について部分的には批判を向けているそれのほうが、作品を深く理解する上では役に立った。もっともピッチフォークのレヴューが「ケンドリックは明らかにリスナーを困らせることに喜びを感じている」というように、『ミスター・モラル〜』はなんとも捉えどころのない作品だとぼくも思う。もちろんラマーが意図的にそうしたという可能性も決して低くはない。ただでさえ曲数が多いうえに、自己解放であり社会批評でもあり挑発でもあり……この時代の、とくにSNS上で好まれるトピックにいちいち対応した孤独な独白めいている。
 売れれば売れるほどブルーズが歌えると言ったのはジミ・ヘンドリックスだが、ラマーもいまその真っ直中にいるのかもしれない。これは、人生の成功者が勝ちどきを上げている作品なんかではないことはたしかだ。ポップスターの内的葛藤に同情するほど感情移入していないリスナーにとっては、それはどうでもいい話なのかもしれないけれど、BLMの主宰者の金銭スキャンダルが報じられ、抗議運動の熱もいつしか冷めていったかに見える今日において、個人に立ち返ったケンドリック・ラマーのやり方は少なくとも誠実な選択だったのだろうし、アルバムはこの時代の(そして多分にSNS上の)喧々がくがくたる混乱と苦い思いをある意味巧妙に表現してしまっている。もっとも抗議運動のその後については、(それを反植民地主義へと転化させた)UKでは以前として継承されていると聞くし、アメリカにだって気骨ある反レイシズムは絶対に活きている。たんに「新しいヨガ」として騒いだ連中がいなくなったと、それだけの話なのだ。


* ピューリッツァー賞のはじまりは20世紀初頭だが、ラマーが前作『DAMN』で受賞したその音楽部門において、1965年に審査委員会がデューク・エリントンを賞にとって初めてのジャズ音楽家であり黒人受賞者として推薦した際、理事会はそれを却下したという汚点がある(ちなみに黒人ジャズ・ミュージシャンが最初に受賞するのは1997年のウィントン・マルサリスの『ブラッド・オン・ザ・フィールズ』まで待たなければならなかった。つまり、マイルスやコルトレーンでさえ受賞したことはない!)。近年はあの悪名高きIOCでさえ、ジム・ソープの1912年のオリンピック金メダルをあらためて授与したこともあって(ネイティヴの血を引くソープの記録は当時は無効にされた)、今年はデューク・エリントンにピューリッツァー賞を与えよという署名運動が起きている。ちなみにその署名者のなかには、スティーヴ・ライヒとテリー・ライリーの名もあったことをここに付記しておこう。

Frank Zappa - ele-king

 今年(2022年)は、バリー・マイルズ『フランク・ザッパ』(P-Vine)の刊行に続いて、アレックス・ウィンター『ZAPPA』が全国公開されるという、日本のザッパファンにとっては慶賀すべき年となった。しかも、東京では上映期間が連続10週に及ぶヒットになるというオマケつきだ。『アメリカン・ユートピア』のように社会現象になるほどではなかったとしても、近年雨後のタケノコのように公開される音楽ドキュメンタリーが次々と討ち死にしていく中では、かなりの成功だったといえるのではないか。

 劇場には昔バンドやってました系のアラ還世代が詰めかけたとも聞くが、その中に若い男女の姿が確実に見られたこともまた確かだ。映画がザッパの音楽そのものよりも人物像を描き出すことの方に力を注いでいた分、ザッパが音楽に向きあうときの真摯さが一般の音楽ファンにも伝わったということではないか、と考えておく。

 従来のファンの一部からは歌詞の過激さや故なき噂(ステージ上で糞食したという伝説が流布したことがあった)から「変態」と呼ばれ、ギター雑誌からはアラン・ホールズワースと並ぶ凄腕ギタリストと目され、プログレファンからはジャン=リュック・ポンティ、チェスター・トンプソン、テリー・ボジオ、エイドリアン・ブリュー、スティーヴ・ヴァイ(あれ、プログレじゃない……)を輩出した敏腕バンドリーダーとして知られ、そして映画『ZAPPA』では作曲家としての顔が強調されたザッパ。少し前にはSNS等で「ビートルズみたいに平和や反戦の歌を歌わないんですか?」「おれはデンタルフロスの歌を歌ったんだが、お前の歯は綺麗になったか?」という捏造問答が話題にもなったので(この話はまたいずれ)、それで名前を知ったという方もひょっとするとおられるかもしれない。

 しかし、来年はザッパ没後30年、その間にも新譜は着実に発売され続け、今や公式タイトル数は120を超えるというのだから、名前を知って興味を持たれた方がいざ聴いてみようとして二の足を踏むのも無理からぬことだろう。こういうときの定番の話題として「ザッパを最初に聴くならどのアルバム?」という質問があるが、「存命中に発売されたものなら何でも可、どうしてもというなら『200モーテルズ』」と捨て台詞を吐きつつ、書き手の頭の中はすでに「ユニバーサルミュージックグループがザッパ全作品を獲得」という2カ月前のニュースをめぐる話題に移っている。

 いや、そうなのだ、今回の映画『ZAPPA』公開を機に、そのサントラ『ZAPPA』や『ザ・マザーズ1971』、そして『ザッパ/エリー』といった作品が国内リリースされ、もちろんそれ自体は喜ばしいことなのだが、問題は肝心のザッパ自身の生前リリース作がすべて廃盤状態になっていることなのだ。なにせ『ZAPPA』は3枚組、『エリー』は6枚組、『1971』は8枚組。マリー・アントワネットに「『ロキシー&エルスホェア』がなければ『エリー』を買えばいいじゃない」といわれているようなものだ。

 これはそう遠からぬうちに全作品リリースというかたちで解決さるべき事態だが、それまでは残念ながら近くの中古盤屋に駆けこむなり、サブスクという非常手段(と書くのはザッパの場合、アートワークと歌詞のもつ意味がまた重要だからだが)で渇きを癒していただくよりほかはない。若者を前にしたアラ還世代としては、まことに忸怩たる思いだ。上の諸作ももちろんアルバイトをしてご購入いただく価値は十分にあるのだが、まず本人がオーソライズした作品を聴いていただく方が亡くなった本人としてもありがたいことだろう(と書いても、心の広いユニバーサルは許してくださるに違いない)。

 ところで、先に「『ロキシー&エルスホェア』がなければ『エリー』を…」という喩えを出したが、これはまんざら意味のない比較ではない。『エリー』はその名のとおり、ペンシルヴェニア州エリーで行われた1974年と1976年の演奏(当然メンバーもレパートリーもまるで異なっている)を中心とするライヴアルバムなのだが、かねてザッパファンの中では「要は『エルスホェア』でしょ?」ともいわれていた作品なのだ。どういうことか。

 1974年に発表された『ロキシー&エルスホェア』という名作がある。これはザッパのほかにナポレオン・マーフィ・ブロック(vo, ts)、ジョージ・デューク(key, vo)、ブルース・ファウラー(tb)、ルース・アンダーウッド(per)、トム・ファウラー(b)、ラルフ・ハンフリー(d)、チェスター・トンプスン(d)というメンバーで、1973年12月ロキシーというヴェニューで収録された音源、及び上記の布陣にドン・プレストン(syn)、ウォルト・ファウラー(t)を加えた1974年5月のライヴ音源をつなぎ合わせて作られたライヴアルバムなのだ(このときロキシーでの3日間のライヴのもようは後に完全版が『ザ・ロキシー・パフォーマンシズ』(2018)、映像が『ロキシー・ザ・ムーヴィー』(2015)としてリリースされている)。

 そして、『ロキシー&エルスホェア』の「ロキシー以外」こと「エルスホェア」、具体的にはエディンボロ・ステート・カレッジで行われた演奏を含むかたちで作られたのがこの『エリー』というわけだ。構成としては、1974年5月、1974年11月、1976年11月のライヴがそれぞれ1本分まるまる入っている、くらいのイメージでよいかと思う。

 いずれの時期のバンドも脂が乗っていて、ライヴ音源を元にスタジオでみっちり作りこまれた『ロキシー』に比べるといささか荒っぽく聞こえるかもしれないが、それでこの完成度と思うとそのミュージシャンシップの高さにはいまさらながらあっけにとられるばかりだ。

 1974年5月のツアーはマザーズ結成10周年を記念するものでもあったので、初期ナンバーが続々取り上げられているのと「インカ・ローズ」のラテンっぽいユニークなリズムアレンジが聞きもの。

 同年11月のラインナップはザ・名盤『ワン・サイズ・フィッツ・オール』(1975)に向けて走っている時期のもので、曲目は『ユー・キャント・ドゥ・ザット・オン・ステージ・エニモア Vol. 2』(1988)を彷彿とさせる。観客が盛り上がりすぎて演奏を一時中断するという珍しいひと幕も。

 1976年11月の録音ではメンバーはすっかり若手に一新され、レイ・ホワイト(g, vo)、エディ・ジョブスン(Key, v)、パトリック・オハーン(b, vo)、テリー・ボジオ(d, vo)という、後の傑作ライヴ『ザッパ・イン・ニューヨーク』(1978)をがっちり支えるメンツに、短期間在籍していたビアンカ・オーディン(key, vo)が加わっている。「ブラック・ナプキン」で彼女が披露するヴォイスソロ、特に高音域での重音唱法は短いけれど聴き逃し厳禁! ごていねいにも2テイク入ってます!

 生前のザッパはライヴを録りっぱなしでリリースすることをほとんどせず、いくつかのテイクをつないだり、スタジオでオーヴァーダブして発表するのが常だった。ザッパにとっては「作品」を作ることが何より優先だったのだ。それは「作品」を残すことが「作曲家」の務めだと考えていたからだろう。だから、こうしたかたちでライヴ音源が発表されることはザッパの本意に背くことなのだといえなくもない。しかし、ザッパの考える「作品」にまた違うかたちで光を当てるのがこうしたリリースの役割なのだし、これらに耳を傾けることでザッパの理解もまた間違いなく深まっていくことだろう。

Kamui - ele-king

「この世界の色を塗り替える/できないなんて思ったことねえぜ/stay young 正解はない/俺は疾風/誰よりも先走る」(“疾風” より)

 『YC2.5』は、スピードに対する偏執が垣間見える作品だ。数々の乗り物や速度を表すモチーフ、それらに命を吹き込み駆動させるSEや効果音、ダッシュするビートとラップ。走ること、運動することによって変化する景色、視界を巡る色彩、肌を切りつける風。

 Kamui は名古屋出身、現在は東京を拠点に活動するラッパーである。ダメ元で送ったというデモテープにプロデューサー/エンジニアの illicit Tsuboi が惚れこみ、2016年に『Yandel City』でアルバム・デビュー。その後なかむらみなみと結成した TENG GANG STARR や若手ラッパーをフックアップし組んだ MUDOLLY RANGERS での活動、THE ORAL CIGARETTES とのコラボレーション、そしてソロ活動で積み上げているカッティング・エッジな作品がアンダーグラウンドでつねに話題を呼んできた。『YC2.5』は2020年にリリースしたものの配信を取り下げることになった『YC2』のデラックス・ヴァージョンとして、クラウドファンディングで制作された最新作。「本作の完成度に大きく寄与するのは全曲のフック(hook)、つまりサビに掛かってるといっても過言ではないだろう」(※)と言及されていることからもわかるが、『YC2』ならびに『YC2.5』は過去作と比較し一段とフックのキャッチーさが際立っている。

 けれども、アルバム終盤の “疾風” と題された象徴的な曲で表現されている通り、『YC2.5』はそのビートとラップでもってキャッチーに/滑らかに疾走するだけの作品ではないことも明らかだ。過去にもポエトリーラップ的手法で過剰な量のリリックをぶちまけヒップホップのリズムを大いに乱してきた Kamui は、颯爽と駆け抜けなければならないはずの曲──少なくとも「疾風」というタイトルからはそのようにうかがえる──でさえ、「stay young」と「正解はない」、「疾風」と「走る」で律儀すぎるくらいに韻を踏み、スピードを減速させて躓きを生む。そもそもこれまでも変則的なフロウが表出するしかなかった Kamui というラッパーのいびつな実存だが、サイバーパンク的SFを構築した架空と現実が入り乱れるような世界観をさらに推し進めた本作においても、彼のラップはゆがみ、捻じれ、やはり躓いている。

 日本語ラップ史における「スピード」をモチーフにした作品というと Shurkn Pap の数々の曲が想起されるが、たとえばその運動性が極まった傑作 “ミハエルシューマッハ feat. Jinmenusagi” と比較しても、Kamui の特異さは際立っているだろう。一直線に走り抜ける「ミハエルシューマッハ」と対極にある価値軸を際立たせる『YC2.5』は、多彩なビートやめくるめくフロウによって細やかな情景を想起させながらも、それら各シーンをコマ送りするなかで、立ち上がってきた運動自体に Kamui の「蛇行する身体」が異質の文法を導入している。

──「未来はいち方向だけに進んでいるわけじゃないわ。私たちにも選べる未来があるはずよ」

 冒頭の “Runtime Error” で告げられる台詞は、そのまま次の曲 “ZMZM” に繋がりながら、ここでも一方向だけにスムースに進まず躓いてしまう Kamui のいびつさを明らかにする。「MAZDA ZMZMZM」というフックが一聴するとキャッチーなようにも聴こえる本曲は、しかしながらマツダを飛ばしつつ振り絞る「ZM」の反復が、アクセルを踏んだ次の瞬間に弛めざるをえない凸凹の身体感覚を浮き彫りにさせる。そもそも、『YC2.5』は近未来を描きながらも無機質な電動マシーンがただただ加速し動いていくという姿が想起されづらい。むしろ、排気ガスを噴出しながら、アクセルとブレーキを人体の不自由さに委ねるしかない旧来的などうしようもなさが終始渦巻いている。Kamui のオルターエゴであるボーカロイド・キャラクター suimee やピーナッツくんなどが随所で前面に立ちながらも、ゆえに、SFにありがちな冷淡さは退けられ、街や人に体温が通っている。そう、本作においてはSFが運動を規定するのではなく、運動がSFを形作っているのだ。たとえば『I am Special』(2019年)を支配していた音割れに向かうブリブリのベースラインも、シングル曲 “東京CyberPunkness” (2020年)の各小節内で散らかる花火のようなサウンドの破片も、最新作『YC2.5』ではある程度まで過剰さが抑制されている。しかし、いや、だからこそ、それでも整理整頓しきれずにそこかしこに飛び散る Kamui の肉体の破片が際立っている。思えば、デビュー・アルバム『Yandel City』からインダストリアルなビートの導入を徹底することで自らの体温を際立たせていた彼のことだ。

 あるいは、“BAD FEELING feat. 荘子it” のドラッギーなスピード感は格別とも言えるだろう。1:09からスピットする Kamui のラップは音節の区切りが交錯し、リリックにある通り、まさに痙攣と眩暈を喚起するような未聴感を届ける。Kamui の蛇行による異物感がクライマックスを迎えたところで入る荘子it のヴァースも抜群にキレている。重いラップの演出! 重々しい自らの実存をどうにか持ち上げて駆動させていくような、スピードと重量の引っ張り合いが破裂しそうではないか。「リストカットまみれのナオンとネオン/律動過多のパオンが振り切るレッドゾーンのエンジン音(ぶおおおん)」というラインではエンジンをふかす騒々しい音とともにネオン輝く歌舞伎町の情景がアクロバティックに描写される。リストカットまみれのぴえん系女子が「ぴえん超えてぱおん」と呟きながらたたずむ、それら生と死が漂うシーンを振り切って駆け抜けるのは、車と一体化しつつ実存を懸けて死ぬまで生ききる「重々しい」ラッパーの姿だ。(昨年末に荘子it に取材した際、彼は最近初めてハマったというバイクのスピード、そこで風とともに路上にさらされる自らの身体の加速について熱心に語ってくれた。おそらく、彼のなかでスピードと実存というものは昨年末から大きなテーマになっているのではないだろうか)

 躓き、蛇行、重さ──。それら運動は、本作におけるスピードを一筋縄ではいかない、非常に興味深い試行錯誤として成立させている。だからこそ、Kamuiは、その変化球のスピードで世の中の先を進む。『Cramfree.90』(2018年)とトラヴィス・スコット『ASTROWORLD』(2018年)、『MUDOLLY RANGERS』(2019年)とリル・アーロン『ROCK$TAR FAMOUS』(2018年)、『I am Special』(2019)とプレイボーイ・カーティ『Whole Lotta Red』(2020年)──それらは共鳴しているに違いない。もはや2022年のヒップホップがトラップとブーンバップの範疇を超えてあらゆるリズムやニュアンスを吸収していることと同様に、『YC2.5』は四つ打ちやドラムンベースなど多彩なビートと Kamui の肉体の破片を飛び散らせながら、最後の曲 “Hello, can you hear me” で空っぽな空洞のようなトラックのなか、手を差し伸べて「君」を確かめる。これは希望だろうか──開始から1分56秒で、相変わらず躓いたリズムを響かせながら。

「頭ん中ぐちゃぐちゃになったけど/死ぬことをやめました/壊れたものは元には治らない/だから花火を天に打ち上げよう」
「遠のく記憶の先で/君の声が聞こえたよ/目が覚めたならもういないよ/手を差し伸べて/俺は君を確かめた/思い出になる前に/消えてしまう前に」

※万能初歩【Album Review】 Kamui, 《YC2》 (2020)
https://note.com/allroundnovice/n/n5337c1c2638e?magazine_key=m0a82010e3a19

Wordcolour - ele-king

 ロンドンを拠点に活動を展開するエレクトロニック・ミュージック・プロデューサーのワードカラー(ニコラス・ウォラール)のサウンドには、シンセサイザーの魅惑的な音色、コラージュされる声、細やかなリズムが横溢している。
 特に今年リリースされた彼の最初のアルバム『The Trees Were Buzzing, and the Grass.』は格別な出来栄えだ。過去2作のEP作品で展開されていたサウンド・コラージュ的な要素とエレガントなエレクトロニック・ミュージックの要素が融合し、エクスペリメンタル・ミュージックの領域へと無理なく拡張したアルバムに仕上がっていたのだ。
 最初にワードカラーのリリース歴をざっと振り返っていくと、まずロンドンのアンダーグラウンド・ミックス音源で知られる〈Blowing Up v The  Workshop〉から『I Want To Tell You Something』という秀逸なミックス音源を2019年にリリースした。翌2020年には、スペインはバルセロナの〈Lapsus Records〉から最初のオリジナル音源であるEP「Tell Me Something」をリリースし、その2021年にはロンドンの名門〈Fabric Records〉傘下のレーベル〈Houndstooth〉からEP「Juno Way EP」を、2021年にはEP「Bluster」を相次いでリリースする。特に「Juno Way EP」におけるサウンド構築の進化が凄まじい。音のコラージュがいっそう研ぎ澄まされていたのだ。
 彼の作り出すサウンドは、さまざまな音源からサンプルングされた声の要素などをコラージュ的に組み合わせていく最新型のエレクトロニック・ミュージックである。シンセサイザーの音色の聴き心地もよく、けっして聴きづらくはないが、実験的な要素もそこかしこにある。その音世界には優雅なムードが流れており、曲の頭からつい引き込まれてしまう。
 そして2022年に〈Houndstooth〉から『The Trees Were Buzzing, and the Grass.』を送り出す。このアルバムは今年リリースされたエレクトロニック・アルバムのなかでも、注目すべき現代性を宿している逸品といえる。
 シンセサイザーの音色の魅力を存分に展開しつつも、コラージュ的な構成を展開していく楽曲はとにかくモダンだ。機能性が、その機能を逸脱するというよりは、拡張するかのようにエクスペリメンタルなサウンドに隣接するさまを味わうことができるのだ。
 なかでもシンセサイザーのアルペジオとフレージングにドラムンベース的なリズムが断片的にレイヤーされる2曲め “Blossom” に聴きいっていると、数年前の「OPN以降」という言葉を久しぶりに思い出した。あえていえばワードカラーの音は「OPN以降がもはや当たり前のものになった時代」のサウンドではないか。つまり「以降の以降」というフェーズが鳴っているように思えたのだ。洗練と深化の時代とでもいうべきか。
 じじつ、ワードカラーの『The Trees Were Buzzing, and the Grass.』には、声のコラージュ、柔らかい電子音、シンセサイザーのシルキーな音色とアルペジオなど、いまの電子音楽を考えるにあたって重要な要素がすべて揃っている。そう、『The Trees Were Buzzing, and the Grass.』は、2022年に聴く「いまの音」であり、2022年以降の新しいモードを模索するためにも重要なアルバムである。
 コラージュとシンセサイザー・電子音楽のいまとその先へ。新しい情報密度を持ったエレガントなエレクトロニック・ミュージックがここにある。例えばカテリーナ・バルビエリの2022年作『Spirit Exit』とともに聴き込みたいアルバムではないかと思う。

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