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(*先入観を植えつける恐れがあるので作品を観る気のある方は先に読まないでください)
7年前に起きた「相模原障害者施設殺傷事件」を題材にした辺見庸の小説『月』を映画化したもので、実際の事件は津久井やまゆり園の元職員が19人を刺殺し、さらに26人にケガを負わせた大惨劇。犯人についてはかなり多くのことがわかっており、死刑もすでに確定している。被害者の遺族には氏名を公表しない方々もいて、扱いは慎重になるべき事件である。事件からまだ10年も経っていない時点で映画化されるのは日本では異例のことで、その勇気は称えたいものの、やはり時期尚早だったか、桐野夏生原作の『OUT』や角田光代原作の『八日目の蝉』が映像化された時のような想像力の羽を自由に広げる視野やポテンシャルには乏しかった。そうしたマイナスを補うためか、この作品では別な主人公が設定され、宮沢りえ演じる堂島洋子が犯人と近い距離にいて、その変化に呼応していく役割を任されている。そして、これが結果的に犯人よりも堂島洋子に当てる照明の方が量は多く、堂島洋子の物語になり過ぎてしまったきらいがあった。極端なことをいえば堂島洋子に起きる変化は「相模原障害者施設殺傷事件」でなくても成立する話に思えてしまい、相応の必然性に欠けてしまったのである。たとえば東北大震災を扱った映画のなかでは吉田大八監督『美しい星』と瀬々敬久監督『護られなかった者たちへ』が圧倒的に他を引き離していたと僕は思ったけれど、事件に対する主人公の思いを最後の一瞬まで封じ込めていた後者が事件と登場人物の関係を不可分のものと感じさせたのに対し、『月』では事件と主人公の間には距離があり、悲劇の焦点を分散させてしまったと感じられた。「相模原障害者施設殺傷事件」がどれだけの悲劇だったかという強さがいまひとつ伝わってこないのである。繰り返すけれど、事件から10年も経っていない時点で作品化に踏み切った勇気は賞賛に値するし、この作品が重要な問題提起であることは間違いない。

ひとつの試みとして「相模原障害者施設殺傷事件」を可能な限り脇にどけて、堂島洋子の話として『月』を眺めてみよう。オープニングは堂島洋子が瓦礫に埋もれた電車の線路を歩くシーン。夜なので視界は悪く、どこか幻想的な風景にも見えてくる。場面は変わって堂島洋子が障害者施設に初出勤するシーン。職員に案内されて施設内を歩んでいくと、二階堂ふみ演じる坪内陽子が元気よく挨拶してくる。二階堂ふみが元気な役柄で登場してくると不安しか感じない。そもそも障害者施設で明るく振舞っている時点で不自然だし、坪内陽子がそのうち豹変するのはわかりきったことである。堂島洋子は終始、不安に溺れたような表情で目の前の現実を受け入れようとしている。目の前の現実とは「生きていても意味がない」と感じる毎日のこと。「生きることに意味はない、生きるのは意志だ」とよく言われる。そうなんだろうけれど、「意志がなければ死んでも可」ということなのかというとそうでもない。なかなか「死んでもいいよ」とは言ってもらえないものだし、意志がなくても唐突に「生きろ。」という命令形にはよく出くわす。多くの人には意志よりも意味があった方が生きるのは楽なんじゃないかと思うこともしばしばだし、生きることはしかも、最近では経済活動をすることと同義になっていて、資本家のゲームに強制的に参加させられることでしかなくなっている面も強い。そういう意味では韓国のTVドラマ『イカ・ゲーム』は後期資本主義をうまく戯画した作品であり、ゲームの仕掛け人が何度か繰り返した「強制はしていない」というセリフはあまりにも巧妙である。誰もが金はあった方がいいと考え、自主的に資本主義に参加せざるを得ない構造になっているように、資本主義と縁を切れない堂島洋子が「なにもできない私」は「障害者施設で働くしかない」という結論に至り、彼女は施設内にいる。「ひとりで生きていく辛さ」が異様なほど強調されていることは観ているだけでトラウマになるほどで、その通り「生きていても意味がない」を内面化した存在と外からはそう見えるとされた障害者たちが二段重ねになり、この作品が最初に放つ最初の強いメッセージは「障害者の力になりたいと思っている人たちが実際に障害者に寄り添っているわけではない」ということに尽きると言っていい。はみ出したものにはみ出したものがあてがわれている、という図式がまずは深く印象づけられる。先日、取り上げた『国葬の日』には見事なほど村社会が浮かび上がっていると書いたけれど、このような施設に来た人たちは入居者であれ、職員であれ、誰もが村社会からはぐれた個人であり、その荒涼とした精神性が予感できるからこそ村社会にしがみつく、という構図にも見えてくる。日本社会で個人になってしまうことの恐怖が、この施設に詰め込まれることのように描かれているのだ。

その後も物語の多くは堂島洋子の自宅で展開される。堂島洋子は小説家で、いまは小説が書けなくなっている。「なにもできない私」という感覚はそのことに由来していて、スーパーのレジや清掃の仕事ではなく、障害者の介護を選んでいるのは「取材」の感覚もあるからだ、と坪内陽子は推察している。それは自分が障害者施設を題材にした小説を書こうと目論んでいるからで、堂島洋子との出会いを坪内陽子は様々な意味でチャンスだと感じている。坪内陽子の家庭の描写がまた凄まじい。親子で言い争う、というより一方的に坪内陽子が親を罵倒する場面は障害者施設で働く職員の心がどれだけ荒んでいるかを端的に表し、これと並行して食卓に並べられた魚の揚げ物が片付けられ、三角コーナーに捨てられているところのアップは社会から排除されたものをくっきりと可視化しているようで、何をか言わんやであった。オダギリジョー演じる夫の堂島昌平も仕事がなく、途中からマンション管理の仕事に就くことになる。堂島昌平も映画作家を志し、夜はストップ・モーションでアニメの撮影に勤しんでいる。ふたりはクリエイター同士で励まし合うこともあり、自分のことしか考えていない、と互いになじり合う場面も差し挟まれる。この辺りのやりとりはさすがに濃すぎて「相模原障害者施設殺傷事件」からどうしても頭が離れてしまう。毎日決まりきった仕事の繰り返しで、この先のことを考えると「生きていても意味がない」と感じてしまう人だったり、特殊な技能を持つ人ではない人を主人公にした方がよかったのではないかと僕は考えてしまう。それに加えて坪内陽子たちを夕食に招いた堂島夫婦は酔っ払い、予想通り豹変した坪内陽子から堂島洋子の偽善的な作風をなじられるなど、見せ場はどんどん堂島洋子の内面に寄っていく。オープニングで堂島洋子が歩いていた線路は東日本大震災によって壊滅した東北の街だったことがわかり、その時の取材をもとにした作品を編集者によって「大衆路線」に変更されたことが堂島洋子の挫折につながったこともわかってくる。
とはいえ、「なにもできない私」が「障害者施設で働くしかない」という結論に達した理由は、これでかえって曖昧になってしまう。堂島洋子にはもうひとつ生きる意味を失う理由があるので、仮にそこはわかったとしても、そのことと「相模原障害者施設殺傷事件」はあまり関係がない。堂島洋子を演じた宮沢りえは『紙の月』に迫るほどの熱演なのでこんなことは言いたくないけれど、堂島洋子の話をここまで膨らませる必要はやはりいまひとつ感じられなかった。しかも、堂島洋子は施設で働きながらその実態を目にし、残酷な運営方針に疑問を抱き、のちに犯行に及ぶさとくん(磯村勇人)との対話を通じて再び創作意欲を取り戻す。書けなくなった小説家が「相模原障害者施設殺傷事件」ではなく、犯人の考え方に触れたことで再び書けるようになる。そして、事件が起きたことを知る前に新作を書き終える。さとくんの考え方はそれほど強烈だったという意味にしか取れない。つまり、クライマックスはラスト・シーンではなく、さとくんが自分の考えを堂島洋子に話すシーンなのである。そう考えないと辻褄が合わない。ここからは堂島洋子を脇にどけて「相模原障害者施設殺傷事件」に焦点を移動しよう。石井監督は犯人をどう描いたのか。

結論からいうと堂島洋子の描写にけっこうな時間が割かれているので、犯人がどのように変化していったのかという情報は少ない。断片的でしかなかったために、かえって説得力があったともいえる。堂島洋子が障害者施設で働くようになると、すぐにさとくんとも出会う。さとくんは自分で描いた紙芝居を障害者たちに見せるなど、いってみれば一番熱心に入居者たちと向き合っている。「障害者の力になりたい」と考える人たちが「障害者に寄り添って」いた例が、まさにさとくんだったのである。このようなさとくんを、同僚は疎ましく思っている。同僚たちは何度も同じことを繰り返す障害者の行動にうんざりしていて、障害者をいじめることに躊躇がなくなっている。同僚たちがイラつき、障害者をからかって遊ぶシーンはそれも仕方がないと思わせるほど自然な感じで描かれていた。むしろ、物語の後半、施設の外でさとくんと出会った同僚たちが同じようにやさぐれた雰囲気でさとくんに接するシーンには違和感があり、「施設の外ではあまりにも普通の人たちと変わらない」という演出にした方が、彼らの人格が施設によって捻じ曲げられている感じが出て説得力が増したのではないかと思う。この辺りも惜しかった。堂島洋子が施設の方針に疑問を抱いて所長と対話をする場面で「県の方針だから」というセリフがあるが、この物語に唯一の悪があるとしたら、それは「県の方針」に集約できる方がいいのではないかと僕は思ったのだけれど、「悪」は同僚たちにも分散されて描かれている。そして、さとくんが変わってしまうのは「県の方針」によって個室に閉じ込められていた患者の部屋に初めて踏み込んだことがきっかけとなる。詳細は避ける。これが例として適切だったかどうかを判断する能力は僕にはない。さとくんにとっては手に負えると思って接していた患者たちがそうではなくなってしまった瞬間であり、その時から考え始めたことをやがて堂島洋子に語って聞かせることになっていく。
(以下、ネタバレ)さとくんの彼女も障害者で、ふたりは手話で会話している。さとくんのモノローグは長く、彼の話に耳を傾けることが「相模原障害者施設殺傷事件」を受け止めることと同義ともなるので、そこはじっくりと観て欲しい場面である。しかし、これを非情にも要約してしまうと、さとくんは自分の彼女のように障害者でも経済活動ができる人間は生きている価値がある。が、施設に入院している患者たちは経済活動ができないので死ぬべきだ、という結論なのである。ここでわざと誤解をしてみよう。小説が書けなくなった堂島洋子は経済活動ができない存在で、さとくんの理屈からいえば死ぬべき人間である。彼の考え方を受けて堂島洋子がもう一度小説を書き始めたということは、堂島洋子が資本主義に復帰することをこの作品はよしとした、ということになる。小説を書いたからすぐに売れるとは限らないかもしれないけれど、それなりの知名度を得た作家という設定なので、最低でも雑誌の掲載料ぐらいは稼げることだろう。しかし、犯人の考え方に同意しないのであれば、「相模原障害者施設殺傷事件」の被害者たちは殺されるべきではなかったと考えるはずだし、堂島洋子も再び小説を書き始めるべきではなかった、と考えた方が筋は通ってしまう。資本主義のゲームに参加しない人たちに生きる余地を与えるという発想がこの作品にはどこにもない。なんというか、そこに光を見出すべきではなかったのではないか、という方向に話が進んでしまった気がしてしょうがない。『夜空はいつでも最高密度の青色だ』では、オリンピックの会場を建設するために集められた労働者たちの弱さをあたかも支えるかのように石井監督は描いていたので、この変化にはどうしても戸惑いを感じてしまう。堂島洋子に向かってさとくんは説明を続ける。死ぬべき人間の数があまりに多いため、自分がこの作業をやり遂げるには衝動だけでは難しい。こつこつと1人ずつ殺すためにはそれなりの体力も必要だと。彼の話し方はとても理性的で、頭がおかしくなっているとは見えないところはかなり説得力があった。まずは思想があり、しかし、どうしてそれを実践するのが彼なのかという説明が抜けていたことを除けば。

「相模原障害者施設殺傷事件」の被害者たちは殺されるべきではなかったと考えるならば、むしろエンディングの大虐殺は「もう、やめてくれ」と観る人たちが逃げ出したくなるほどリアルにやるべきだった。前半で堂島洋子の苦悩を通して「ひとりで生きていく辛さ」を強く印象づけたのだから、そのような辛さを終わりにすることがカタルシスに感じられてしまう錯覚を覚えるぐらいでもよかったのではないかと僕には思えた。しかし、石井監督は残酷描写を避け、殺害シーンはぶつ切りにされている。最後の最後で、現実は直視できないという感覚で閉ざされてしまう。これならば殺戮のシーンはなくてもよかった。事件を起こす前にさとくんは言動がおかしいと判断され、強制的に措置入院させられる場面がある。そこで終わりとして、あとはテロップで何があったかを伝えるだけでも充分に効果的だったのではないかと思う。三度繰り返すけれど、事件から10年も経っていない時点で作品化に踏み切った勇気は賞賛に値するし、この作品が重要な問題提起であることは間違いない。だからこうして僕も考えている。「相模原障害者施設殺傷事件」について、まだまだ考えることはあるし、むしろ誰の考えもまだ実際の事件には及んでいないことが、この作品からは伝わってくる。(10月13日記)
畠山地平の『Hachirōgata Lake』を毎日繰り返し聴いている。音を流すだけで、周辺の空気が変わり、「環境」について意識的になるし、その蕩けるような音の持続が心身のコリを解してくれる。個人的な感覚で恐縮だが、どこか良質なシューゲイザーのアルバムを聴いているような音の快楽があった。
要するに日々の疲労のなか、自分を労わるように聴いてしまうのだが、秋田県にある「八郎潟」という湖を主題にしたアルバムが、なぜ聴き手の心身を癒すような、よりパーソナルな効能を持っているのだろうか。そこがとても重要に思えた。おそらくそこには90年代以降の「アンビエント・ミュージック」の大きな展開が内包されているのではないかと。
90年代中期から00年代中期のあいだに「アンビエント・ミュージック」は、「環境のための音楽」から「環境についての音楽」という面が加わったという仮説を付け加えてみたい。かのブライアン・イーノが提唱したアンビエント・ミュージックの概念から離れつつ(拡張しつつ)、環境について問い直しつつ、「心身に効く」音楽の方へと接近していったように思えるのだ。いま思えば、この時期にアンビエントのニューエイジ化ともいえる事態が進行したのかもしれない。
そうして生まれた00年代以降の「新しいアンビエント・ミュージック」は、環境音もドローンも環境それ自体を再考するような音楽であったとするべきだろうか。同時に音楽スタイルは、淡いドローンを基調としつつ、クラシカルからフォーク、ミニマル・ミュージックから電子音楽まで、さまざまな音楽が混合し溶け合っていくようなものとなっていった。上記のような意味でも、アンビエント・ミュージックにおいてスターズ・オブ・ザ・リッドは重要かつ偉大な存在であったといえる。加えてイックハル・イーラーズやシュテファン・マシューの初期作品もまた重要なアルバムである。
そして畠山地平のアンビエント・ミュージックは、まさに「環境についてのアンビエント」ではないかと私は考える。彼の音楽には彼自身の旅の記憶、つまり環境への記憶が音楽のなかに溶け合っている印象があるのだ。これは畠山の多くのリリース作品に共通する傾向だが、本作はそれがさらに高みと深みを獲得しているように思えた。同時に彼の音には体のいたるところに届くような圧倒的なまでの心地よさがある。
彼の活動歴は長く、作品も多岐に渡るが、なかでも本作は、そんな環境と心身に効く音楽として素晴らしい出来栄えを示していた。傑作といっても過言ではない。畠山は、これまで老舗〈Kranky〉やローレンス・イングリッシュが運営する〈Room40〉、自身が主宰の〈White Paddy Mountain〉などの国内外の電子音楽レーベルからアルバムを多くリリースしてきた。本作『Hachirogata Lake』は、そんな彼の作品の中でも一際、重要な指標になり得るアルバムである。
『Hachirogata Lake』は、秋田県にある湖「八郎潟」、その草原保護区、尾形橋、排水路などでフィールド・レコーディングした音をモチーフに、彼ならではのドローンを交錯させていく実に美しい作品である。リリースは、オランダの電子音楽レーベル〈Field Records〉。このレーベルは Sugai Ken の「利根川」もリリースしており、日本の「湖」をテーマにしたシリーズの2作目だ。「日本とオランダが共同でおこなった水管理の歴史を探求するシリーズ」だという。
じっさい八郎潟は、「第二次世界大戦後に、オランダ人技師 Pieter Jansen と Adriaan Volker の協力を得て、政府が大規模な干拓工事をおこない、1977年の工事完了後、周辺地域から植物が繁殖し、鳥類をはじめとする野生生物の種類も増え、新たな生態系が確立された」というのだ。オランダと日本の「水」をめぐるこんな素晴らしい歴史を知ることができただけでも、このアルバムを知る/聴く意味はあった。
もちろん、先に書いたように畠山地平の音楽自体も大変素晴らしいものだ。畠山のギター・サウンドとドローンがレイヤーされ、ロマンティックな音世界が美麗に折り重なり、ずっと聴き込んでいくと、たとえようもないほどの心地よさを得ることができた。単にシネマティックというのではない。雄大・壮大であっても人の心に染み込むようなサウンドスケープなのである。身体に「効く」音なのだ。
全9曲が収録されたアルバムだが、どの曲も環境音とギター、ドローンが溶け合うように交錯し、記憶の中に現実が溶け合っていくような感覚を得ることもできる。中でも二曲目 “水に鳥 / Water And Birds” に注目したい。水の音、鳥などの野生動物のフィールド・レコーディングされた音からはじまり、次第に音楽的な要素、アンビエントなドローンやギターなどがレイヤーされ、やがて環境音は消え去り、畠山のサウンドのみが時間を溶かすように流れ続ける。とにかく冒頭の水の音からしてアンビエントのムードを醸し出している。
「八郎潟」という湖(の音)と、その歴史、その場所でフィールド・レコーディングした畠山の記憶が交錯し、融解し、ひとつの「アンビエント=音楽」に生成されていったとでもいうべきか。このアルバムに限らずだが、畠山地平の音楽にはいつもそういう溶け合っていく記憶のような音楽のような感覚がある。
同時に畠山の音はとても気持ちが良い。聴いていると、あまりの心地よさに意識が遠のいてしまうそうになるほどである。この深い「癒しの感覚」は何か。彼の音楽が環境と身体という具体的なものからはじまっていることに起因するのだろうか。
いずれにせよ『Hachirogata Lake』は、湖の「環境」を音として感じ、心と体に心地よさを与えてくれる最良のアンビエントである。
じじつ、私はこのアルバムを聴いているとき、日常の疲れが溶けていくような感覚を得た。日々の暮らし、生活の中でも大切なアルバムになるだろう。
「死ぬまで遊ぼう!!!」
AROW(fka Ken Truth)が最後に放った飾り気のない一言。それを受け彼を抱き締める拳(liQuid)。電池切れ寸前まで走り抜いたふたりの主催者の素の人間くささが表出して、音楽は鳴り止む……そんな実にありふれた幕切れを迎えたこのパーティは、ありふれているからこそ特別な一夜として記憶に焼き付いた。平日も休日も音楽について考えてばかりだと「あー楽しかった」で終われる日も次第に目減りしていってしまうものだけど、この日ばかりは100%の純度で、スカっとした感覚のまま走り切ることができた。まずはそこに純粋な感謝を。
2021年に旗揚げされ、トレンドの潮流を汲みつつ独特の違和感をブレンドしたオーガナイズを続けるプロモーター・拳(こぶし)によるパーティ・シリーズ〈liQuid〉と、2010年代末にコレクティヴ〈XPEED〉を立ち上げ現行インディ・クラブ・シーンの潮流をいち早く築き上げた立役者・AROWが新たに始動したコミュニティ〈CCCOLLECCTIVE〉初の共同企画としておこなわれたのが、この「中野3会場回遊」だった。なお同日、世間ではTohji率いる〈u-ha〉とコラボレーション開催された「BOILER ROOM TOKYO」やゆるふわギャングによる「JOURNEY RAVE」などのビッグ・パーティが各地で開催されていたが、それらと一見同質のようで全くの異物である、人と人との有機的なつながりに基づく営みであったことも印象深い。
総計30組以上が知名度やシーンを越境して混ざり合う特異点となったこの日、メインステージのheavysick ZEROではアンビエント~ノイズ~エレクトロニカ~デコンストラクテッド(脱構築)・クラブといった実験性の強い電子音楽や、トランス~ジャングル~ゲットー・テック~レフトフィールド・テクノなどの異質さを備えたクラブ・ミュージック、レゲトンやトラップ、ダブステップなどバウンシーな熱気に下支えされたストリート・ミュージックが2フロアで同時多発的にプレイされ(B1Fではマシン・ライヴも!)、サブ・フロアとなる2022年オープンの小箱・OPENSOURCEと〈Soundgram〉主催DJ・PortaL氏が営むバー・スミスではハウシーなクラブ・マナーを下地にしつつジャンルレスな音楽がスピンされ続けた。

無論、出演者単位で切り取るべき素晴らしいアクト、素晴らしい瞬間はいくつもあった。国内Webレーベルの筆頭〈Maltine Records〉からのリリースも話題となったDJ・illequalの希少なライヴが見せた激情と繊細さのコントラスト、世界的に活躍しながらも日本のロードサイドの慕情をこよなく愛する電子音楽家・食品まつりa.k.a FOODMANが〈ishinoko 2023〉帰りの足で披露した戦慄の前衛サイケデリック・ドローン(これはかなり怖かった)、かつて2010年代後半にアンダーグラウンド電子音楽シーンを築いたDIYレーベル〈DARK JINJA〉を率いたShine of Ugly Jewelのゴシックなレイヴ・セットなど、副都心エリアの小箱というスケール感を大きく超えたギグが同時多発的に各ヴェニューで繰り広げられていた。知らない人は知らないが、知っている人には垂涎のラインナップ。いま、クラブ――けっしてビッグ・ブランドの支配下にない、人の息遣いがすぐそばに在るインディ・クラブ――を追いかけているすべてのユースは、このタイムテーブルを前に「他会場の様子を覗きに行きたくても行けない!」というアンビヴァレントな悩みに苛まれたことだろう。
けれど、そういったアーティスト個々の表現にフォーカスするよりは、なんとなく全体を取り巻くムード自体の方にエポックな一時があったように思える。スミスでのオープニングDJをきっかり128BPMで果たしてからはひたすら3拠点を駆けずり回り、フロア・ゾンビとなって朝を迎えた身としては、羽休めに立ち寄ったヴェニューをソフトなサウンドでロックしていた初めて出会うDJの所作や、移動中偶然会った友人と公園で過ごす10分限りのチルタイム、夜明け前の空のあの群青色、フロアの熱狂を尻目に閑散としたバーで頼んだ鍛高譚(ソーダ割り)の味……そうした合間合間に訪れるエア・ポケット的な一時がただ愛おしかった。フロアの内にも外にも色濃くクラブ的な体験が根付いている、そんな極上の遊び場を20代の我々が自力で作り上げた、という実感も含め、忘れられない高揚感に包まれた。
ちなみに、朝7時近くまで続いたパーティの終盤には、前述した複数のイベントから流れてきたユース・クラバーもいつしか合流してきていた。「みんな」というのは実に恣意的な括りであり、現象を俯瞰するには適さない表現だが、そこには最後、たしかに「みんな」がいてくれた。その事実も、ただただ嬉しいことで。

パーティの開放感はそのままに、各々が隠し持つ美意識がラフな形であけすけに表出してゆくような美しい一幕が、3つの拠点で同時多発的に展開されていく。それは市井の人々の暮らしを切り取って提示する群像劇のように。生活と地続きであり、音楽シーンを未来へと後押しするあらゆるインディペンデントな営みを「ハシゴ」という体験とともに凝縮する、というのがおそらく裏側にあるコンセプトなのだけど……そんな説明も野暮かもしれない。とにかくめちゃくちゃ楽しくて、めちゃくちゃ刺激的だった、みたいな。もう、それに尽きる。最高の夜だった。世のさまざまな不和を打ち破るには、アクチュアルに「死ぬまで遊ぶ」ことと本気で向き合い続けるしかないと改めて痛感した。
たぶん、なにかを粛々と続けていけば、どこかで別のなにかが生まれて、潮目が変わっていく。そんな絵空事を馬鹿正直に信じて日々を紡ぐ覚悟を無意識のうちに持っている人々が、中野の小箱に(少なく見積もっても)160名以上が集まったというのだから、それは感動的な事実なのではないだろうか?(世代的にはやや外れた年頃の自分ではあるが)我々ユース層が大人たちに「Z」と十把一絡げに括られることへの抵抗感は、やはりこうした場を知らない層への反発から起こるものだろう。だって、そんな括りでは説明できない営みが、この国の各地で日々、ハレでもケでもない夜として確実に存在しているのだから。そう、遊び場に必要なのは純度のみ。いつの時代も人々が追い求めるのはピュアネスだろうと僕は信じている。フロアは暗く、クラブ文化の未来は明るい。
追記:本パーティについて一点だけ文句をつけるとしたら、それはフォトグラファーやビデオグラファーといった記録媒体を操るプロフェッショナル(ないしはプロを超越したアマチュアの才人たち)を迎え入れなかったことにある。本記事の執筆中、自身のカメラロールを見返してもそこにあったのは数本の動画のみで、写真の用意に窮する事態となった(オーガナイザーふたりの笑顔は、iPhoneのスクリーン・ショットで無理やり用意したもの)。

そこで、InstagramやTwitter(現X)の各地に「なにかフロアの感じが伝わるような写真を送ってください!」と呼びかけてみたものの、寄せられたのはパーティの終わりごろに訪れた青年から送られてきた画素数の粗い1枚のみに留まった。つまり、そう、これは……「ナイス・パーティ」だったことを決定的に証明する事実でもある、ということ! アーカイヴという行為がここまでイージーとなったこの時代に、デバイスの存在を失念させるほどの体験を与えてくれたふたりに改めて謝辞を送る。
AROW、拳、heavysick ZERO、OPENSOURCE、スミス、そしてすべての来場者と出演陣へ。過去/現在/未来を繋いでくれてありがとう。でも、あくまでここはスタート地点にすぎない。満足してなんかいられない。まだまだゴールしちゃいけない。そうでしょ?
【liQuid × Cccollective FLOOR BANGER TRACKS】
さいごに、写真や動画といったアーカイヴの代わりに、各ヴェニューを沸かせていたトラックをいくつか紹介したい。ポップス、ユーフォリックなトランス、ダークなテクノ、アンビエント、エレクトロニカ、ラテン・ミュージック、ベース・ミュージック、トライバル、そしてハウス……。まさしくオール・ジャンルであり、交差しそうになかった音楽が危うげなバランスで融和する様子。それこそが2020年代以降ガラパゴス的に発展した日本のインディ・クラブの現在形なのだ。理解に苦しむ人こそ、まずはぜひ一度ドアに手をかけていただきたい。
☆heavysick ZERO
Ariana Grande - Honeymoon Avenue
https://open.spotify.com/intl-ja/track/5dDJIkINQylL9jVOhHv757
Dark0 - zeroGen
https://dark0.bandcamp.com/track/zerogen
Evian Christ - Ultra
https://evianchrist.bandcamp.com/track/ultra
illequal - hikari
https://soundcloud.com/maltine-record/illequal-hikari
TAAHLIAH, KAVARI – Transdimensional
https://taahliah.bandcamp.com/track/transdimensional-feat-kavari
☆OPENSOURCE
Arakatuba - Riva feat. Liliana Chachian
https://open.spotify.com/intl-ja/track/55W1x8oKbWEp0mV40qAMvV
Ben Hixon & Stefan Ringer - Shawty Don't Play
https://benhixon.bandcamp.com/album/shawty-dont-play
Karima F - Sheer Rage
https://open.spotify.com/intl-ja/track/2oH5A9AANj4WVnZ7hVjoGF
☆スミス
Alt Fenster - Clipeé (Original Mix)
https://altfenster.bandcamp.com/track/clipe-original-mix
D.A.N. – Native Dancer
https://open.spotify.com/intl-ja/track/00F3OgPKZMifNnzBD6G09H?si=f868d93262a440ba
hide - PINK SPIDER (SYNTHETIC REMIX)
https://open.spotify.com/intl-ja/track/0WiiGEoZUqWAgoOO2lR1XZ?si=Wuvj7XFRQYqTjA6Up5jE7g&nd=1
Red D - Red D 'Fantasize' (Kiani & His Legion Remix)
https://weplayhouserecordings.bandcamp.com/track/red-d-fantasize-kiani-his-legion-remix
SUNS OF ARQA - Sul-E-Stomp (Astral Ambient Excursion I)
https://sunsofarqa.bandcamp.com/track/sul-e-stomp-astral-ambient-excursion-i
※以下はパーティーと主催コレクティヴについての概要です
liQuid × Cccollective 中野3会場回遊
2023/09/30(sat) 22:00
at heavysick ZERO / OPENSOURCE / スミス
▼heavysick ZERO
B1F
LIVE:
Deep Throat
illequal
Misø
食品まつりa.k.a FOODMAN
DJ:
電気菩薩(teitei×Zoe×DIV⭐)
DJ GOD HATES SHRIMP
Hiroto Katoh
ippaida storage
PortaL
Shine of Ugly Jewel
B2F
AROW
Egomania
拳
KYLE MIKASA
London, Paris
MELEETIME
Rosa
Sonia Lagoon
▼OPEN SOURCE
AI.U
ハナチャンバギー速報
Hue Ray
DJsareo
テンテンコ
▼スミス
かりん©
Hënkį
kasetakumi
kirin
kiyota
mitakatsu
NordOst
shiranaihana
『liQuid』
2021年より東京でプロジェクト開始。オーガナイザー・拳(こぶし)の音楽体験をもとにHIPHOPからElectronicまで幅広く取り込み、ジャンルやシーンに捉われない音楽イベントのあり方を模索している。PUREな音楽体験/感動を届けることに重きを置き、オーバーグラウンドからアンダーグラウンドまで幅広い層の支持を集めている。
Instagram : https://instagram.com/liquid.project_
『CCCOLLECTIVE』
2022年末に始動した〈CCCOLLECTIVE〉は、有機的な繋がりを持ったオープンな共同体を通して参加者に精神の自由をもたらすことを目標として掲げている、自由参加型のクリエイティヴ・プラットフォームである。これまで『Orgs』と題したパーティを下北沢SPREAD、代官山SALOONにて開催。また、2023年8月からは毎月最終水曜日の深夜に新宿SPACEにて同プラットフォーム名を冠したパーティを定期開催中。シーンを牽引するアーティストらを招き、実験と邂逅の場の構築を試みている。
Instagram : https://instagram.com/cccollective22
また1人、ブラック・ミュージックの優れた才能が宇宙に向かっている。サン・ラーやURなど地上に公平なパラダイムが見出せないミュージシャンが宇宙に独自のヴィジョンを投影する系譜はさらに先へと伸びようとしている。アメリカの黒人たちを取り巻く状況が好転せず、ブラック・ライヴス・マターを頭から非難したキャンディス・オーウェンズのようなオピニオンが力を持つことでさらに悲観的になっているということだろうか。スピーカー・ミュージックことディフォレスト・ブラウン・ジュニアが4年前にケプラと組んだコラボレーション・アルバムのタイトルは『黒人であることの対価は死(The Wages of Being Black is Death)』(19)というもので、対価(Wage)は肉体労働に限定された報酬の意。それこそ『こき使われて死ぬだけ』というタイトルをつけたわけである。このことはさらに翌年からの新型コロナでエッセンシャル・ワーカーの死亡率という具体的な数字にも表れ、『別冊ele-king アンビエント・ジャパン』で取材したチヘイ・ハタケヤマもカリフォルニアに行くと「あちこちにブラック・ライヴス・マターのステッカーが貼ってあるけれど、エッセンシャル・ワーカーとして働いているのは黒人しかいない」という光景として認識できるという。スピーカー・ミュージックのセカンド・アルバム『Black Nationalist Sonic Weaponry』(20)はそうしたブラック・ライヴス・マターの動きをフィールド録音し、ドキュメンタリーとしての側面も併せ持っていたものの、21年にブラック・ライヴス・マターの幹部であるパトリッセ・カラーズらが寄付金を着服して豪邸を手に入れていたことが報道されてからは右派だけでなく左派からも風当たりが強くなり、評価はかなり流動的な様相を呈している。また、ブラック・ライヴス・マターの副作用として警官になろうという人が全米で減少傾向にあり、警官の数がどこも少なくなっているのをいいことにこのところブラック・ライヴス・マターのデモがある時を狙ってカリフォルニアやフィラデルフィアで不特定多数のフラッシュデモが商店の打ちこわしや略奪を繰り返していることは日本のニュース番組でも報道されている通り。店舗を閉めざるを得なくなった経営者からはブラック・ライヴス・マターのデモさえなければ……という逆恨みの声も。一方で昨秋、キャンディス・オーウェンズの知名度を引き上げることに一役買ったカニエ・ウエストは「ホワイト・ライヴス・マター」と書かれたTシャツを着てファッション・ショーに出たことでほんとに人気がなくなってしまった。最近のカニエ・ウエストはビアンカ・センソリと籍を入れたことも含め宗教的な話題ばかりになってしまった。
『Black Nationalist Sonic Weaponry』はブラック・ライヴス・マターをメインに扱ったアルバムではなく、彼の政治的な主張はアメリカの産業構造やマルクス主義など歴史性を問うものが多く、それらが斬新なサウンドと組み合わせられることで初めて意味を持つアルバムだった。耳新しいと感じたサウンドのなかではハーフ・タイムとドラム・ファンクを組み合わせたような独特のドラミングが素晴らしく、これによってベース・ミュージックに新たな地平が切り開かれたことは確か。『Black Nationalist Sonic Weaponry』と前後してリリースされたディフォレスト・ブラウン・ジュニア名義『Further Expressions Of Hi-Tech Soul』(20)や4曲入りの『Soul-Making Theodicy』 (21)でもそのドラミングはさらに中心的な役割を果たし、シンコペーションの多用を存分に楽しませてくれた。そして、3年ぶりとなった3作目のフル・アルバム『Techxodus(テクノと大量脱出の合成語)』にももちろんこのフォーマットは受け継がれ、2曲目から4曲目は同系統の曲が並べられている。比較的、安心して楽しめるパートである。スピーカー・ミュージックのデビュー・アルバム『of desire, longing』(19)では、このドラミングはまだ大きな役割を与えられていず、サウンドの基調をなすのはゆらゆらとどこか幽霊めいたドローンだった。これが『Techxodus』ではオープニングと5、6、8、9曲目でパワフルなトーンを帯びて蘇り、単純に迫力を増したドラミングとドローンの組み合わせはスピーカー・ミュージックの新局面をなしている。ノイズともいえる攻撃的なドローンはURの登場を思い出させ、アルバム全体に漲る「怒り」を印象づける。そう、『Techxodus』はエルモア・ジェームズのブルーズ・ギターを思わせるほどパッショネイトで、同時にパブリック・エナミーのような恐怖の演出も試みる。フリーキーなトーンは曲を追うごとに激しくなり、最後に置かれた“Astro-Black Consciousness”ではあまりにも混沌としたウォール・オブ・ノイズが組み上げられる。もはやそれは地獄図に等しいものがある。僕はジャズにはあまり積極的な関心はないのでちょっと適当だけれど、この5曲はジョン・コルトレーン『Ascension』(66)の混沌としたアンサンブルを想起させるものがあり、思わず聞き直してしまったほど。『Techxodus』は彼がテクノやエレクトロニック・ミュージックの歴史について書いた著書『Assembling A Black Counter Culture』(未読)のエピローグの役割を果たし、また、ドレクシアの神話を語り直したものでもあるという。どの曲がどうそれに対応しているのかはわからないけれど、エピローグにあたるということは歴史の最先端を実践しているという意味に取れるし、ドレクシアの『Grava 4』や『Harnessed The Storm』といったアルバムに曲名として出てくる〝Ociya Syndor〟をそのまま曲名に使った“Our Starship To Ociya Syndor”は明らかにドレクシアの引用で、ドレクシアの「こんな星にいられるか」というメッセージと宇宙旅行を結びつけたロング・ドローンということなんだろう。この曲だけはドラミングがカットされている。そして、コンセプトが優先されたということなのか、それとも別に理由があるのか、これが7曲目に置かれてしまったことで、せっかくの流れが寸断されてしまい、どうも後半に入ると集中力を欠くアルバムとなってしまった。この曲はオープニングか最後に置かれた方がもっと活きたはず。あるいは、まとまりがよく感じられた『Black Nationalist Sonic Weaponry』に対して『Techxodus』はそのせいで重厚長大に過ぎて一気呵成に聴き通すのが少し面倒なアルバムになってしまったと僕は思う。なので、僕は“Our Starship To Ociya Syndor”は別で聴くか、『Ascension』系の5曲だけを繰り返し聴くことが多い。兵士たちの叫びをサンプリングしてオーディエンスが興奮しているかのように聞かせる“Dr Rock’s PowerNomics Vision”、レゲエ風のブラスがむちゃくちゃに貼り合わされた“Jes’ Grew”、あるいはJ・リンに影響を受けたらしき“Feenin”の奇妙なインプロヴィゼーションと、とにかく混沌としたヴィジョンがこの5曲は凄まじい。
サンフランシスコを拠点に活動するクリストファー・ウィリッツが、2023年の来日公演の一環として御茶ノ水RITTOR BASEにて3Dサウンドシステムを使用したライヴコンサートとセミナーを開催します。
また、スペシャルゲストとして〈12K〉レーベルのメンバー、ILLUHAのライヴもあり。
ILLUHAはドラマーの山本達久を新メンバーに迎え、9月22日にアルバム『Tobira』をリリースしたばかり、今回は伊達伯欣と山本のデュオによるライヴ。イベントの最後にはウィリッツとILLUHAがギター、生ドラム、エレピによる生演奏を披露。アンビエント・ファンの皆様、ぜひお見逃しなく。
(*ウィリッツのセミナーは日本語の通訳があります)
主催: RITTOR BASE(御茶ノ水)
開催日時:2023年10月29日 (日)
Open 14:45 Start 15:00
https://rittorbase.jp/event/948/
14:45- 開場(チケット番号順の入場になります)
15:00- クリストファー・ウィリッツによるセミナー
15:45- ILLUHA live
16:45- クリストファー・ウィリッツ live
17:45- ウィリッツ+ILLUHA live
(終演予定18:30)
会場参加券:4,950円(学割:3,300円)
オンライン視聴券:3,300円
*会場参加券、オンライン視聴券ともに2023年11月5日23時までアーカイブ視聴が可能です
※なお、:2023年10月31日 (火)京都METROでも、Christopher WillitstとTomoyoshi Dateのライヴがあります。関西の方はこちらもぜひチェックしてくださいね。https://www.metro.ne.jp/schedule/231031/
10月14日正午、ぼくは京都駅から東京方面の新幹線に乗って、余韻に浸っていた。つい先ほどまで、取材者の特権を使い、〈AMBIENT KYOTO〉における「坂本龍一 + 高谷史郎 | async ‒ immersion 2023」をもういちど聴いて観て、感じていたばかりである。京都新聞ビル地下1階の元々は印刷所だったその場所で繰り広げられている、『async』の最新インスタレーションを、ぼくはその前日にも聴き、観て、感じている。音楽も映像も、音響も場所も、すべてが完璧に共鳴し合ったそのインパクトがあまりにも強烈だったので、京都を離れる前にもういちどと、その日の早い時間、午前10時過ぎに同所に行って、「async ‒ immersion 2023」を焼き付けておこうと思ったのである。
この話をしたら長くなるので、後回しにする。まずは、昨年に続いて〈AMBIENT KYOTO〉が開催されたことを心から喜びたく思う。ぼくは「アンビエント・ミュージック」が大好きだし、そう呼ばれうる音楽をこの先も可能な限り聴き続けるだろう。そして、この「アンビエント」なる言葉が広く普及することを願ってもいる。だから〈AMBIENT KYOTO〉がシリーズ化されたことが、率直な話、いちファンとして嬉しい。
とはいえ、ぼくが思う「アンビエント」なるものとは、やかましくなく、強制もせず、静寂や控え目であることの強度を抽出し、BGMでありながら同時に実験的であるということであって、そこにはひねり(ウィット)を要する。つまり、静寂こそやかましく、変わらないことこそ変化であると。しかしながら今日では、もっと幅広く、場所の雰囲気(の調整のため)に重点を置いたサウンドも「アンビエント」に括られている。だからというわけではないのだろうが、〈AMBIENT KYOTO〉は、今回はサウンド・インスタレーション(音響工作によって、さまざまな空間と場を創出するアートの総称)の領域にまで広げて展示している。それはそれで意味がある。サウンド・アートという創造的分野を広く知ってもらえる機会を用意しているのだから。
とまれ。そんなわけで、ぼくは10月13日の午後3時、京都駅から展覧会場である京都中央信用金庫を目指して歩いたのだった。
人混みを避けるため地下道を使って歩いていくと、通路の両側のガラスのなかに〈AMBIENT KYOTO 2023〉のポスターがいくつも設置されていることに気が付く。おお〜これはすごい。わずか1年でここまで市民権を得たのかと、ちょっと感動してしまい、その風景の写真を撮りながら会場へと向かったのだった。
地下道から出て、通りを挟んで見えるあの古い建築物には、ちゃんと今回のキーヴィジュアルが飾られている。絵になっているじゃないですか。町の風景のなかに溶け込んでいる。

そして建物に入って、まずは3階のコーネリアスから。

Photo by Satoshi Nagare
それはもう、コーネリアスらしいというか、コーネリアスそのものというか、ファンタズマの世界というか何というか、いきなり“霧中夢”の、言うなれば、音と光で夢を見るトリップ装置だ。サウンドとライティングがシンクロし、ちゃんとミスト(霧)も噴射される。比喩としていえば、子供も楽しめるエンターテイメントとしても成立してしまっている。



上から、ZAKが新たにミックスした立体音響のバッファロー・ドーター “ET” と “Everything Valley” 。そして山本精一の“Silhouette”。Photo by Satoshi Nagare “霧中夢”によってSF的な夢の世界に入ったぼくは、そのまま同階に設置されている、バッファロー・ドーターと山本精一の部屋へ。ふたつの巨大なスクリーンに投影された映像とサウンドが連動し、ここではまた別のエクスペリエンスが待っていた。ぼくはメモ帳に、忘れないようにと、いろんなことを書いてきたのだが、我ながら字が汚くて読めない。バッファロー・ドーターのきらびやかで躍動的なサウンドスケープ(“ET”と“Everything Valley”の2曲)、そして山本精一の、おそらく多くのアンビエント・ファンが思い描くであろうアンビエントの定義に忠実な、つまり川や海のように、遠くで見れば静止状態で、近く見れば変化しているかのような没入感のある映像と音響、今回の展覧会のために作られた“Silhouette”。


Photo by Satoshi Nagare
とまあ、刺激的な空間をたっぷり堪能したので、3階のラウンジスペースでひと休み。居心地が良いので気を緩めると眠ってしまう。
ところで今回は、どの作品においても、ZAKの手による高性能の立体音響が効いている。きわめて緻密にこれら音響空間は考慮され、設計されているのだろう。ここには、聴覚的体験におけるあらたな座標がある。その立体音響をとくにわかりやすく体感できるのが、2階に設置されたコーネリアスの“TOO PURE”である。ライヴでもお馴染みのサウンドと映像のシンプルな構成だが、しかしライヴでは味わえない宙を浮遊するサウンドたちによる、心地よい聴覚/視覚体験だ。鳥のさえずりは部屋のなかを旋回し、ギターの音色は森のなかに響いている……そんな感じで、あまりにも気持ちいいので、ぼくはここでもしばらく寝た。

Photo by Satoshi Nagare
1階の“QUANTUM GHOSTS”も、ZAKの立体音響とコーネリアスとの共作と言える作品だ。部屋に入るとすぐベンチがあるので、ついついそこに座ってしまいそうになるかもしれないが、これは奥に設置された正方形の舞台の上に立って体感するべきもので、またしても目眩のするようなトリップ装置である。思わず踊っている人がいたが、それはある意味正しい反応だといえよう。
最後に、アート展に行ったらショップに寄ってしまうのが人のサガ。今回もいろんなものがあって見ていて楽しい。しかも、別冊エレキング『アンビエント・ジャパン』号も売られているじゃないありませんか! ぼくは、テリー・ライリーのTシャツと「AMBINET KYOTO」Tシャツを買った(コーネリアス・タオルも迷ったのだけれど、家にいくつもタオルがあるので断念)。

平日の午後なので空いているのかと思いきや、けっこう人がいた。その日はとくに若い人たちが多かったように思えたが、コーネリアス、バッファロー・ドーター、山本精一という名前に反応した人たちなのだろうか、各作品の解説があるような格式張ったアート展というよりは、喩えるなら、なかばクラブやライヴハウスにいるみたいな開放的な雰囲気があり、ぼくはリラックスして楽しめた。



Photo by Satoshi Nagare
ざっとこのように、〈AMBIENT KYOTO〉の本拠地における、いわば「時間の外の世界」をおよそ1時間かけて楽しませてもらい、さて、続いては今回のクライマックスといえる京都新聞ビル地下1階を目指して地下鉄に乗る。親切なスタッフの方から7番出口を出るとすぐ入り口だと教えられ、その通りに行くと、ほんとうにすぐ会場だった。
階段を降りて、地下一階へ。
そして入口のドアを見つけてなかに入ると、ちょうど運良く、かかっていたのが“andata”だったので、『async』をほぼ最初から聴くことができた。
会場内は、写真のように、じつに雰囲気のある広いスペースで、横長に、芸術的な意図をもった、素晴らしい映像が映されている。立体音響はここでも効いており、ぼくは遠い昔、タルコフスキーの『サクリファイス』を映画館で観たときのことを思い出した。あの、サウンドと映像で語りかける深淵なる何か。リスナーへの問いかけ。


Photo by Satoshi Nagare
人の生とは何か、死とは何か、この大きなテーマに(ありきたりの宗教性に陥ることなく)立ち向かったのが『async』の本質だったことを、ぼくは感じざるえなかった。家のスピーカーではわからなかった各曲の繊細な構造的な変化や揺らぎも、ここでは充分感知することができるし、体内に入ってくる。その美しさ、そして重さも、同時に入ってくる。これは『async』に違いないのだが、高谷史郎との共同作品でもあって、そしてこれはもう、この忘れがたい場所でしか体験できないのだ。ぼくを惹きつけて止まない映像は、アルバムに合わせて毎回同じようには反復しない(非同期している)。だから目の前には、そのときだけの音楽と映像のコンビネーションがある。
この日の夜は、テリー・ライリーのライヴがあったのだけれど、ぼくのなかでは『async』の余韻がまったく消えず、二日酔いのようにずっと残ってしまい、よって翌日もまた冒頭に書いたように同じ場所に来てしまった。敢えて極論めいて言うけれど、「坂本龍一 + 高谷史郎 | async ‒ immersion 2023」のためだけに来ても、〈AMBIENT KYOTO 2023〉には価値はある。いまだにうまく言葉にできないし、楽しむというよりは頭も使う作品であることは間違いないのだけれど、ドイツの美術館でロスコの巨大な原画の前に立ちすくんでしまった経験に近い、何か圧倒的なものに出会ってしまったときの感動を覚えた。もっと長い時間あの場所にいたかったというのが正直な気持ちである。ちなみにぼくが行った2日ともに、来ている人たちの年齢は明らかに高めで、外国人も混ざっていた。
もちろん、京都中央信用金庫でのドリーミーな体験があったからこそ、ある種の相互作用によって「坂本龍一 + 高谷史郎 | async ‒ immersion 2023」が異なる次元において際だって見えたのだろうし、結局のところ、それぞれが独自の世界を持っていて味わい深く、面白かった。ありがとう、〈AMBIENT KYOTO 2023〉。

