Home > Reviews > Film Reviews > 国葬の日
ちょっと前にグラフィック・デザイナーの石黒景太と話をしていたら「まるで安倍晋三なんかいなかったみたいだ」という話になった。TVを観ているととくにそう思うし、安倍晋三という人は初めからいなかったように世の中は動いていると。いわゆる「忘れっぽい」ではなく、安倍晋三がいたことは知っているのに誰も触れないで避けていく。それこそ少し前の流行語でいえば、安倍晋三がいなかった世界線を暗黙のうちにつくりあげようと示し合わせている無意識の国家事業みたいだと。裁判が始まったらそうではなくなることはわかっているけれど、それまでの雰囲気はそれこそ「忘れてしまう」だろうから、このことはちょっと書いておきたい。もちろん、銃撃から1年後にTVの報道番組は事件を振り返ってはいた。ついこの間まで一国の首相で、しかも在任期間が最長だったともてはやされていた人物なんだから当たり前だと言いたいけれど、それにしては素っ気なく、事件が起きた直後に「安倍元首相がやったことは今後の検証を待ちましょう」と語っていた口が何ひとつ検証めいたことは口にせず、次のニュースに移っていく。最近になってFBIがが多くの資料を公開したことで新たな事実が明るみに出たケネディ暗殺事件の方が長めの特番として組まれていたほどである。
安倍晋三のことを多くの人が口にしない理由のひとつは安倍信者の存在だろう。からまれたら大変。攻撃されたら面倒っちー。実際、事件から1年というタイミングで刊行された岩波書店の「世界8月号 安倍政治の決算」と安倍晋三の国葬をテーマに撮られたドキュメンタリー映画『国葬の日』はそれがどんな内容なのかも判明する前にSNSは凍結され、情報サイトが落ちたりして、安倍信者から攻撃を受けたのではないかという噂の方が先に広まった。内容がどんなものかわかる前につぶすというのは考えることも許さないというのに等しい。「触れない」や「避ける」から一歩でも踏み込むと封殺される。及び腰になるのも仕方がないのかもしれないと思わせる。安倍晋三がいなかったかのように振る舞う原因はそれだけではないだろうし、何かもっと恐ろしい心理が働いているのではないかと思うけれど、はっきりとはわからないので、むしろ僕はその報を受けて『国葬の日』を観てみようと思った。安倍晋三については大きく3つの点で評価できなかったので、たとえ全国民が賛成でも僕は国葬には反対しようと思っていたし、「国葬」について何か考えさせてくれるかなと思ったので。
『国葬の日』はしかし、大いなる空振りだった。安倍晋三の「国葬」についてのドキュメンタリーではなく、タイトル通り国葬の「日」にカメラを向けた作品だった。「国葬」が決定するまでのプロセスを追うでもなく、関係者は1人も写っていない。TVで中継された式次第の断片もなく、三浦瑠璃が着ていたというアレキサンダー・マックイーンの喪服すら見ることができなかった。日本国民はその日、何をしていたかというドキュメンタリーなのである。導入こそ会場の入り口が撮影されていたものの、次の場面では今日が何の日かも知らなかったというテキ屋の人たちに話を聞いたり、日本中あちこちに飛んで同じように道行く人にマイクを向けていく。被災地ではガレキを片付けるのに忙しく、それどころではないという様子が映し出され、辺野古では基地建設に反対する人たちが警察に追い立てられていく。結婚式に出ていた花嫁の父だったかは強烈な安倍信者で「国葬」支持を訴え、どちらかといえば賛成という声も多く拾われている。内容を見ないでサーバーをダウンさせた安倍信者は……まいっか。安倍信者のほとんどが、そして、安倍を支持する理由として外国に向けて見栄えが良かったからとインスタ映えみたいな理由でしか安倍を推していないのは脱力感を倍増させた。80年代に中曽根が支持された理由と同じかよと。賛であれ否であれ、どの立場の人も「国葬」についての意見がとにかくバカらしい。銃撃事件のあった現場に花を供えていた女性は安倍の死を深く悲しんでいるのかと思いきや「あんまりよくわかってないんですけどね」と笑い出す始末(この人が一番衝撃だった)。「国葬」については何ひとつわからないけれど、何十年か後に安倍晋三が神格化され、偶像として異様な力を持ち始めるようなことが起きた場合、このドキュメンタリーを流すと「あれっ」という空気になって妙な気運は打ち砕かれるかもしれないなとは思う。
自分の意見がない。日本人の特徴はこれに尽きると思った。「国葬」についてもう少し何か意見があるだろう。どうしたってそう思って観てしまう。低レベルだけど、仕方がない。意見がない人たちの行動原理はなんなのか。それは相も変わらず村社会の一員として動いているということだと思うしかなかった。安倍のお膝元だった下関でのインタビューがとくに興味深かった。安倍支持か反安倍か。はっきりしてる人はまだいい。自分がどの意見に属していれば有利か。あるいは安全か。村からはみ出さないようにしているというニュアンスばかりが言葉の端々からこぼれ落ちる。これは自民党や野党が思想集団でもなんでもない集まりだということと同じで、自分はどこにいれば有利なのか、あるいは安全なのか、いつでも動けるようにしておくためには思想を持たないほうがいいということにつながっている。「国葬」をめぐって国民は「分断」なんかされていない。多くの人は有利な方に付こうとしているだけ。いつでも動けるようにしておく。思想を固定しまうと動けなくなる。とにかく曖昧にしておく。極端なことをいえば、この作品が伝えていることは別に「国葬の是非」ではなく、まったく異なる質問でも結果は同じだったと思う。繰り返すけれど、この作品を見ても「国葬」については何ひとつわからない。「村社会」だけがくっきりと映し出されている。横断性のない社会。個人が認められない社会。肩書きでしか動かない社会。どれだけ新自由主義が既得権益に切り込んだつもりでも、競争の土壌となる基盤は何も変わっていない。古過ぎてクラクラする。
上映の後に大島新監督に対する質疑応答の時間があった。会場から出た2番目か3番目の質問に「国葬当日に反対の声を挙げに行ったけれど、あまり面白くなかった」というのがあった。正直な声だと思った。日本人は見知らぬ同士が同じ場所にいた場合、その場を共有して楽しむ力に欠けている。クラブやデモに行っても最後のところで突き抜けた感じにならないのはそのせいで、村ごと移動して、村ごと騒がないと羽目を外せない。感情を解放できない。エモくならない。個人でその場にいて、個人でその場の人とつながる能力が低い。村社会の映画だなーと思って観ていたら、追い討ちをかけるように村社会の感想が続くとは。最近、日本各地の駅に設置されたストリート・ピアノが相次いで撤去されているのも同じことで、うるさいとか、ちゃんと弾かないとか、様々な理由がこれには付けられているけれど、その場に居合わせた人たちがその場を共有して楽しむことができないことが最大の原因だと僕は思っている。芸大のピアノが売られ、ストリート・ピアノが撤去され、それらはみなタケモトピアノに集結しているのだろうか。
文:三田格