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月

出演:宮沢りえ/磯村勇斗/二階堂ふみ/オダギリジョー ほか
監督・脚本:石井裕也
企画・エグゼクティブプロデューサー:河村光庸
原作:辺見庸『月』(角川文庫刊)
音楽:岩代太郎
配給:スターサンズ(2023年/日本/144分/カラー/シネスコ/5.1ch /PG-12)
tsuki-cinema.com
(C)2023『月』製作委員会
10月13日(金)全国ロードショー

三田格 Oct 19,2023 UP

(*先入観を植えつける恐れがあるので作品を観る気のある方は先に読まないでください)

 7年前に起きた「相模原障害者施設殺傷事件」を題材にした辺見庸の小説『月』を映画化したもので、実際の事件は津久井やまゆり園の元職員が19人を刺殺し、さらに26人にケガを負わせた大惨劇。犯人についてはかなり多くのことがわかっており、死刑もすでに確定している。被害者の遺族には氏名を公表しない方々もいて、扱いは慎重になるべき事件である。事件からまだ10年も経っていない時点で映画化されるのは日本では異例のことで、その勇気は称えたいものの、やはり時期尚早だったか、桐野夏生原作の『OUT』や角田光代原作の『八日目の蝉』が映像化された時のような想像力の羽を自由に広げる視野やポテンシャルには乏しかった。そうしたマイナスを補うためか、この作品では別な主人公が設定され、宮沢りえ演じる堂島洋子が犯人と近い距離にいて、その変化に呼応していく役割を任されている。そして、これが結果的に犯人よりも堂島洋子に当てる照明の方が量は多く、堂島洋子の物語になり過ぎてしまったきらいがあった。極端なことをいえば堂島洋子に起きる変化は「相模原障害者施設殺傷事件」でなくても成立する話に思えてしまい、相応の必然性に欠けてしまったのである。たとえば東北大震災を扱った映画のなかでは吉田大八監督『美しい星』と瀬々敬久監督『護られなかった者たちへ』が圧倒的に他を引き離していたと僕は思ったけれど、事件に対する主人公の思いを最後の一瞬まで封じ込めていた後者が事件と登場人物の関係を不可分のものと感じさせたのに対し、『月』では事件と主人公の間には距離があり、悲劇の焦点を分散させてしまったと感じられた。「相模原障害者施設殺傷事件」がどれだけの悲劇だったかという強さがいまひとつ伝わってこないのである。繰り返すけれど、事件から10年も経っていない時点で作品化に踏み切った勇気は賞賛に値するし、この作品が重要な問題提起であることは間違いない。

 ひとつの試みとして「相模原障害者施設殺傷事件」を可能な限り脇にどけて、堂島洋子の話として『月』を眺めてみよう。オープニングは堂島洋子が瓦礫に埋もれた電車の線路を歩くシーン。夜なので視界は悪く、どこか幻想的な風景にも見えてくる。場面は変わって堂島洋子が障害者施設に初出勤するシーン。職員に案内されて施設内を歩んでいくと、二階堂ふみ演じる坪内陽子が元気よく挨拶してくる。二階堂ふみが元気な役柄で登場してくると不安しか感じない。そもそも障害者施設で明るく振舞っている時点で不自然だし、坪内陽子がそのうち豹変するのはわかりきったことである。堂島洋子は終始、不安に溺れたような表情で目の前の現実を受け入れようとしている。目の前の現実とは「生きていても意味がない」と感じる毎日のこと。「生きることに意味はない、生きるのは意志だ」とよく言われる。そうなんだろうけれど、「意志がなければ死んでも可」ということなのかというとそうでもない。なかなか「死んでもいいよ」とは言ってもらえないものだし、意志がなくても唐突に「生きろ。」という命令形にはよく出くわす。多くの人には意志よりも意味があった方が生きるのは楽なんじゃないかと思うこともしばしばだし、生きることはしかも、最近では経済活動をすることと同義になっていて、資本家のゲームに強制的に参加させられることでしかなくなっている面も強い。そういう意味では韓国のTVドラマ『イカ・ゲーム』は後期資本主義をうまく戯画した作品であり、ゲームの仕掛け人が何度か繰り返した「強制はしていない」というセリフはあまりにも巧妙である。誰もが金はあった方がいいと考え、自主的に資本主義に参加せざるを得ない構造になっているように、資本主義と縁を切れない堂島洋子が「なにもできない私」は「障害者施設で働くしかない」という結論に至り、彼女は施設内にいる。「ひとりで生きていく辛さ」が異様なほど強調されていることは観ているだけでトラウマになるほどで、その通り「生きていても意味がない」を内面化した存在と外からはそう見えるとされた障害者たちが二段重ねになり、この作品が最初に放つ最初の強いメッセージは「障害者の力になりたいと思っている人たちが実際に障害者に寄り添っているわけではない」ということに尽きると言っていい。はみ出したものにはみ出したものがあてがわれている、という図式がまずは深く印象づけられる。先日、取り上げた『国葬の日』には見事なほど村社会が浮かび上がっていると書いたけれど、このような施設に来た人たちは入居者であれ、職員であれ、誰もが村社会からはぐれた個人であり、その荒涼とした精神性が予感できるからこそ村社会にしがみつく、という構図にも見えてくる。日本社会で個人になってしまうことの恐怖が、この施設に詰め込まれることのように描かれているのだ。

 その後も物語の多くは堂島洋子の自宅で展開される。堂島洋子は小説家で、いまは小説が書けなくなっている。「なにもできない私」という感覚はそのことに由来していて、スーパーのレジや清掃の仕事ではなく、障害者の介護を選んでいるのは「取材」の感覚もあるからだ、と坪内陽子は推察している。それは自分が障害者施設を題材にした小説を書こうと目論んでいるからで、堂島洋子との出会いを坪内陽子は様々な意味でチャンスだと感じている。坪内陽子の家庭の描写がまた凄まじい。親子で言い争う、というより一方的に坪内陽子が親を罵倒する場面は障害者施設で働く職員の心がどれだけ荒んでいるかを端的に表し、これと並行して食卓に並べられた魚の揚げ物が片付けられ、三角コーナーに捨てられているところのアップは社会から排除されたものをくっきりと可視化しているようで、何をか言わんやであった。オダギリジョー演じる夫の堂島昌平も仕事がなく、途中からマンション管理の仕事に就くことになる。堂島昌平も映画作家を志し、夜はストップ・モーションでアニメの撮影に勤しんでいる。ふたりはクリエイター同士で励まし合うこともあり、自分のことしか考えていない、と互いになじり合う場面も差し挟まれる。この辺りのやりとりはさすがに濃すぎて「相模原障害者施設殺傷事件」からどうしても頭が離れてしまう。毎日決まりきった仕事の繰り返しで、この先のことを考えると「生きていても意味がない」と感じてしまう人だったり、特殊な技能を持つ人ではない人を主人公にした方がよかったのではないかと僕は考えてしまう。それに加えて坪内陽子たちを夕食に招いた堂島夫婦は酔っ払い、予想通り豹変した坪内陽子から堂島洋子の偽善的な作風をなじられるなど、見せ場はどんどん堂島洋子の内面に寄っていく。オープニングで堂島洋子が歩いていた線路は東日本大震災によって壊滅した東北の街だったことがわかり、その時の取材をもとにした作品を編集者によって「大衆路線」に変更されたことが堂島洋子の挫折につながったこともわかってくる。

 とはいえ、「なにもできない私」が「障害者施設で働くしかない」という結論に達した理由は、これでかえって曖昧になってしまう。堂島洋子にはもうひとつ生きる意味を失う理由があるので、仮にそこはわかったとしても、そのことと「相模原障害者施設殺傷事件」はあまり関係がない。堂島洋子を演じた宮沢りえは『紙の月』に迫るほどの熱演なのでこんなことは言いたくないけれど、堂島洋子の話をここまで膨らませる必要はやはりいまひとつ感じられなかった。しかも、堂島洋子は施設で働きながらその実態を目にし、残酷な運営方針に疑問を抱き、のちに犯行に及ぶさとくん(磯村勇人)との対話を通じて再び創作意欲を取り戻す。書けなくなった小説家が「相模原障害者施設殺傷事件」ではなく、犯人の考え方に触れたことで再び書けるようになる。そして、事件が起きたことを知る前に新作を書き終える。さとくんの考え方はそれほど強烈だったという意味にしか取れない。つまり、クライマックスはラスト・シーンではなく、さとくんが自分の考えを堂島洋子に話すシーンなのである。そう考えないと辻褄が合わない。ここからは堂島洋子を脇にどけて「相模原障害者施設殺傷事件」に焦点を移動しよう。石井監督は犯人をどう描いたのか。

 結論からいうと堂島洋子の描写にけっこうな時間が割かれているので、犯人がどのように変化していったのかという情報は少ない。断片的でしかなかったために、かえって説得力があったともいえる。堂島洋子が障害者施設で働くようになると、すぐにさとくんとも出会う。さとくんは自分で描いた紙芝居を障害者たちに見せるなど、いってみれば一番熱心に入居者たちと向き合っている。「障害者の力になりたい」と考える人たちが「障害者に寄り添って」いた例が、まさにさとくんだったのである。このようなさとくんを、同僚は疎ましく思っている。同僚たちは何度も同じことを繰り返す障害者の行動にうんざりしていて、障害者をいじめることに躊躇がなくなっている。同僚たちがイラつき、障害者をからかって遊ぶシーンはそれも仕方がないと思わせるほど自然な感じで描かれていた。むしろ、物語の後半、施設の外でさとくんと出会った同僚たちが同じようにやさぐれた雰囲気でさとくんに接するシーンには違和感があり、「施設の外ではあまりにも普通の人たちと変わらない」という演出にした方が、彼らの人格が施設によって捻じ曲げられている感じが出て説得力が増したのではないかと思う。この辺りも惜しかった。堂島洋子が施設の方針に疑問を抱いて所長と対話をする場面で「県の方針だから」というセリフがあるが、この物語に唯一の悪があるとしたら、それは「県の方針」に集約できる方がいいのではないかと僕は思ったのだけれど、「悪」は同僚たちにも分散されて描かれている。そして、さとくんが変わってしまうのは「県の方針」によって個室に閉じ込められていた患者の部屋に初めて踏み込んだことがきっかけとなる。詳細は避ける。これが例として適切だったかどうかを判断する能力は僕にはない。さとくんにとっては手に負えると思って接していた患者たちがそうではなくなってしまった瞬間であり、その時から考え始めたことをやがて堂島洋子に語って聞かせることになっていく。

 (以下、ネタバレ)さとくんの彼女も障害者で、ふたりは手話で会話している。さとくんのモノローグは長く、彼の話に耳を傾けることが「相模原障害者施設殺傷事件」を受け止めることと同義ともなるので、そこはじっくりと観て欲しい場面である。しかし、これを非情にも要約してしまうと、さとくんは自分の彼女のように障害者でも経済活動ができる人間は生きている価値がある。が、施設に入院している患者たちは経済活動ができないので死ぬべきだ、という結論なのである。ここでわざと誤解をしてみよう。小説が書けなくなった堂島洋子は経済活動ができない存在で、さとくんの理屈からいえば死ぬべき人間である。彼の考え方を受けて堂島洋子がもう一度小説を書き始めたということは、堂島洋子が資本主義に復帰することをこの作品はよしとした、ということになる。小説を書いたからすぐに売れるとは限らないかもしれないけれど、それなりの知名度を得た作家という設定なので、最低でも雑誌の掲載料ぐらいは稼げることだろう。しかし、犯人の考え方に同意しないのであれば、「相模原障害者施設殺傷事件」の被害者たちは殺されるべきではなかったと考えるはずだし、堂島洋子も再び小説を書き始めるべきではなかった、と考えた方が筋は通ってしまう。資本主義のゲームに参加しない人たちに生きる余地を与えるという発想がこの作品にはどこにもない。なんというか、そこに光を見出すべきではなかったのではないか、という方向に話が進んでしまった気がしてしょうがない。『夜空はいつでも最高密度の青色だ』では、オリンピックの会場を建設するために集められた労働者たちの弱さをあたかも支えるかのように石井監督は描いていたので、この変化にはどうしても戸惑いを感じてしまう。堂島洋子に向かってさとくんは説明を続ける。死ぬべき人間の数があまりに多いため、自分がこの作業をやり遂げるには衝動だけでは難しい。こつこつと1人ずつ殺すためにはそれなりの体力も必要だと。彼の話し方はとても理性的で、頭がおかしくなっているとは見えないところはかなり説得力があった。まずは思想があり、しかし、どうしてそれを実践するのが彼なのかという説明が抜けていたことを除けば。

 「相模原障害者施設殺傷事件」の被害者たちは殺されるべきではなかったと考えるならば、むしろエンディングの大虐殺は「もう、やめてくれ」と観る人たちが逃げ出したくなるほどリアルにやるべきだった。前半で堂島洋子の苦悩を通して「ひとりで生きていく辛さ」を強く印象づけたのだから、そのような辛さを終わりにすることがカタルシスに感じられてしまう錯覚を覚えるぐらいでもよかったのではないかと僕には思えた。しかし、石井監督は残酷描写を避け、殺害シーンはぶつ切りにされている。最後の最後で、現実は直視できないという感覚で閉ざされてしまう。これならば殺戮のシーンはなくてもよかった。事件を起こす前にさとくんは言動がおかしいと判断され、強制的に措置入院させられる場面がある。そこで終わりとして、あとはテロップで何があったかを伝えるだけでも充分に効果的だったのではないかと思う。三度繰り返すけれど、事件から10年も経っていない時点で作品化に踏み切った勇気は賞賛に値するし、この作品が重要な問題提起であることは間違いない。だからこうして僕も考えている。「相模原障害者施設殺傷事件」について、まだまだ考えることはあるし、むしろ誰の考えもまだ実際の事件には及んでいないことが、この作品からは伝わってくる。(10月13日記)

三田格