「Noton」と一致するもの

Autechre - ele-king

 レヴューは書きそびれてしまったけれど、昨年〈Skam〉から久しぶりにボラのアルバムがリリースされたのはじつに喜ばしい出来事だった。みんなが忘れた頃にぽろっと作品を送り出すマイペースなマンチェスターのレーベル、その主宰者がアンディ・マドックスである。彼はオウテカのふたりとともにゲスコムを構成する一員でもあるわけだが、今回フロントアクトを務める彼のステージもまた、この日の大きな楽しみのひとつだった。〈Skam〉からは最近、アフロドイチェなるニューカマーの興味深いデビュー作がリリースされているけれど、いまかのレーベルがどんなサウンドに関心を寄せているのか、少しでもそのヒントを摑みたかったのである。
 開始時刻の19時30分から少し遅れてフロアへ入場すると、ゆさゆさと身体を揺らしている多数のオーディエンスの姿が目に入る。マドックスのプレイはエクスペリメンタルでありながらも基本的には機能的で、全体的にはジャングルに寄った内容だった。これが最近の〈Skam〉のモードなのか彼自身のモードなのか、あるいは今日のための特別な仕様なのかはわからないけれど、これでもう〈Skam〉から実験的なジャングルの作品がリリースされても驚かない。心の準備は整った。

 そして20時30分。会場の照明がすべて落とされて暗闇が出現、オウテカのショウがスタートする。
 身体の芯までずっしり響く低音と、その合間を縫って忍び寄るメタリックないくつかの音塊。ひんやりとした空調の効果もあって、少しずつ鳥肌が立っていくのがわかる(まあこれはたんに僕が立っていた場所の問題かもしれないが)。おもむろに抽象度を高めていくビートレスな音響空間。そのあまりに曖昧模糊としたサウンドに歓喜したのか、あるいは逆にもっとダンサブルな音が欲しくて物足りなかったのか、10分を過ぎたあたりで誰かが雄叫びを上げる。音は絶えず変化を続け、アンビエントともサウンドアートとも形容しがたい独特の音響が会場を覆い尽していく。

 しばらくすると金属的なノイズが連射され、ふたたび喚声があがる。一瞬、ビートらしきものが形成される。またも喚声。オーディエンスの一部はやはりもっと具体的なものを求めていたのかもしれない。しかしその期待に抗うかのようにオウテカは、次々と深淵を覗き込むかのようなアブストラクトな音塊を放り込んでいく。何度も訪れる静寂な瞬間。そのたびに近くの人たちの会話や衣擦れの音が耳に入ってくる。フェティッシュとしてのそれではない、本来の意味でのノイズ。これもまた彼らの意図した効果なのだろうか。
 リズムのほうも相変わらず複雑で、強勢の位置は短いスパンでどんどん変更されていく。とはいえ小節らしきものを把握することも不可能ではないので、踊ろうと思えばぜんぜん踊れる音楽なのだけれど、ほとんどの人たちが棒立ちになっていたような気がする。退出していく者もちらほら。もちろん、暗闇のなかだからその正確な実態はわからない。

 フェティッシュとノイズとのあいだを綱渡りするかのように、どんどん変化を遂げていく音の数々。それにつられて頭のなかでは、いろんな問いがぐるぐると回転しはじめる。ベースとは何か。リズムとは何か。ドローンとは何か。アタックとは何か。反復とは何か。ノイズとは何か。ビートとは何か。ダンスとは何か。ライヴとは何か――。さまざまな思考が浮かび上がっては消えていく。これぞまさにブレインダンス。ここではたと、前座のアンディ・マドックスのプレイが伏線の役割を果たしていたことに思い至る。身体的な機能性との対比。
 そのことに気がついた途端、場面は急展開をみせた。1時間が経過した頃だろうか。とつぜんリズミカルな音塊が会場を襲う。巻き起こる喚声の嵐。真っ暗ではあるけれど、周囲のオーディエンスが一気に身体を揺らしはじめたのがわかる。リズミカル、とは言ってももちろんそれは4つ打ちなどではない。オウテカらしい変則的なビートとメロディらしきものの断片がいやおうなくこちらの身体を刺戟する。思考のあとに与えられる快楽。なんとも練り込まれた構成である。そのまま彼らはバシバシのサウンドを放出し続け、8年ぶりの来日公演を締めくくったのだった。

 オウテカはいまでもオウテカであることを、すなわち慣習への服従に抵抗することを諦めていない。およそ30年にわたってその姿勢を貫いているのはさすがである。――ぐだぐだと御託を並べて何が言いたいかって? 端的に言って、最高だよ。

The Last Poets - ele-king

 去る6月4日、アメリカの黒人詩人にしてミュージシャンのジャラール・マンスール・ナリディンが74歳で死去した。近年は癌のために闘病生活を送っていたそうだが、彼はラスト・ポエッツの創設メンバーであり、ライトニング・ロッドなどの名前を使い、ラップのゴッドファーザーと呼ばれてきた伝説の存在である。盟友のアビオダン・オイェウォレやウマー・ビン・ハッサンら、ラスト・ポエッツの現メンバー3人も追悼のコメントを述べていたのだが、その少し前の5月にラスト・ポエッツが新作『アンダースタンド・ワット・ブラック・イズ』をリリースしたばかりというのも奇遇だ。
 音楽は喜びや悲しみなど人間のさまざまな感情を表現するものだが、ラスト・ポエッツはそのなかでずっと怒りを表現し続けてきた。アメリカおいては故ギル・スコット・ヘロンはじめ、ニューヨークのラスト・ポエッツ、カリフォルニアのワッツ・プロフェッツという、ポエトリー・リーディングやスポークン・ワード、いわゆる詩の朗読を楽器演奏に乗せてきた黒人アーティストは、白人中心のアメリカ社会において黒人たちの怒りを代弁する存在だった。公民権運動が盛んだった1960年代に活動を開始した彼らは、人種差別はじめ戦争や政治腐敗、マス・メディアの偏向報道などの社会問題をテーマに怒りの声を発し、黒人の自由や解放、社会進出やアイデンティティを一貫して説いてきた。彼らのスタイルや思想は後のラップの先駆けとなり、昨今の「ブラック・ライヴズ・マター」にも繋がっている。このなかでラスト・ポエッツは、1968年のハーレムで過激思想の活動家であるマルコムXの誕生日にあたる5月19日に結成され、そして今年で活動50周年を迎えた。

 彼らの過去を振り返ると、ジミ・ヘンドリックスからマイルス・デイヴィスをプロデュースしてきたアラン・ダグラスのもと、過激に怒りをぶちまけるスポークン・ワードをフリー・ジャズ調の演奏に乗せた『ディス・イズ・マッドネス』(1971年)、名ドラマーのバーナード・パーディーをフィーチャーし、ジャズ・ファンクと詩の朗読の融合した傑作『ディライツ・オブ・ザ・ガーデン』(1977年)、ビル・ラズウェルと組んでエレクトロ・ヒップホップ~ラップ・スタイルに挑んだ『オー・マイ・ピープル』(1985年)と、時代によってじょじょにスタイルを変えてきた。
 1980年代後半から1990年代前半にかけては、レア・グルーヴ~アシッド・ジャズのムーヴメントによってイギリスで再評価され、ガリアーノなどは明らかにラスト・ポエッツのスタイルに影響を受けていたと言えるし、サイレント・ポエッツも『ワーズ・アンド・サイレンス』(1994年)で共演している。『オー・マイ・ピープル』以降はたびたびビル・ラズウェルと共同制作を行っており、ブーツィー・コリンズとバーニー・ウォーレルというPファンク勢、およびヒップホップの始祖のひとりであるグランドマスター・メリー・メルと組んだ『ホーリー・テラー』(1993年)、ファラオ・サンダースとパブリック・エネミーのチャックDと組んだ『タイム・ハズ・カム』(1997年)をリリースする。
 その後も客演やライヴ活動はいろいろと行っており、コモンの『ビー』(2005年)でカニエ・ウェストとともに“ザ・コーナー”にフィーチャーされていたのだが、『タイム・ハズ・カム』を最後にアルバムは途絶えていた。『アンダースタンド・ワット・ブラック・イズ』はそれから21年ぶりの復帰作であり、50周年アニヴァーサリー・アルバムでもある。

 アルバム・リリース時のインタヴューでアビオダン・オイェウォレは、「ブラックというのは単なる色ではなく、白も含めたすべての色の根源である。すべての人類はひとつの種族から生まれたものである」と述べており、それがアルバム・タイトルの『アンダースタンド・ワット・ブラック・イズ』に込められたメッセージである。
 ラスト・ポエッツが生まれた1968年当時は、キング牧師の暗殺などによって黒人の怒りが頂点に達していた頃で、アビオダンらも銃を手に取り、黒人を制圧しようとする白人の殺戮の衝動に駆られたという。ただし、実際には彼らは言葉という銃弾で、社会を糾弾していった。それがラスト・ポエッツの原点であり、今回のアルバムでも“ハウ・メニー・バレッツ”という曲に引き継がれている。“レイン・オア・テラー”はフランス革命時の恐怖政治を捩ったもので、「アメリカ国家はテロリストだ」と断罪している。
 サウンド面を見ると、『タイム・ハズ・カム』はじめ1990年代のラスト・ポエッツはジャズ・ラップ~ヒップホップに寄せたスタイルだったが、『アンダースタンド・ワット・ブラック・イズ』はダブ/レゲエ寄りのアルバムとなっている。制作はロンドンで行われ、プロデュースを務めるのはマッド・プロフェッサーからホーリー・クックなどを手掛けるプリンス・ファッティと、過去にそのプリンス・ファッティと組んでダブ・アルバムも作っているベン・ラムディン。ベン・ラムディンはノスタルジア77名義で数々のジャズ作品もリリースしてきたのだが、『アンダースタンド・ワット・ブラック・イズ』の演奏には彼の周辺のジャズ系ミュージシャンが多くフィーチャーされており、トゥモローズ・ウォリアーズ出身のジェイソン・ヤードから、レゲエ勢ではマックス・ロメオやジャー・シャカらと仕事をしてきたウィンストン・ウィリアムズなども参加している。
 ルーツ・レゲエやアフロ・ダブ、ナイヤビンギにジャズのフレーヴァーを織り交ぜたもので、往年のダブ・ポエットのリントン・クウェシ・ジョンソンの作品から、近年ではザラ・マクファーレンの『アライズ』やサンズ・オブ・ケメットの『マイ・クイーン・イズ・レプタイル』あたりとの共通項も見い出せる。レベル・ミュージックの象徴であるレゲエと、ラスト・ポエッツががっぷり四つに組んだアルバムである。

Bruce Gilbert - ele-king

 実験は永遠に続く。なぜか。生きるとは実験と実践の継続と同義だからである。そしてひとつの生が終わっても、別の生がその実験を継承する。永遠に。むろん音楽も同様だ。だからこそ日々、新しい音楽が生まれ続けている。先端音楽もエクスペリメンタル・ミュージックもポップ・ミュージックもロック・ミュージックもジャズも現代音楽も南米音楽も、いやあらゆる世界で実践と実験が繰り返されている。生の証のように。それゆえ人生というときのなかでつねに未知/自己のサウンドを追求し続けるアーティストが存在する。前衛と継続、逸脱と継承、この相反する状態を長い時に渡って追求したときアーティストは、ひとつのレジェンドになる。

 1946年生まれで、現在72歳(!)、ブルース・ギルバートもまたそんな畏怖すべき永遠の実験・前衛音響作家である。ポストパンク・グループのワイヤーのメンバーだったブルース・ギルバートだが(2000年の再始動後も参加し、20004年にグループから脱退した)、その音楽性はロック/バンドの形式にとらわれるものではない。彼は70年代以降、マテリアルな質感の音響作品を数多く生みだし続けているのだ。
 そんなブルース・ギルバートの新作『Ex Nihilo』が実験音響レーベルの老舗〈エディションズ・メゴ〉からリリースされた(https://brucegilbert.bandcamp.com/album/ex-nihilo)。ちなみに〈エディションズ・メゴ〉からは2009年に新作『Oblivio Agitatum』が発表され、同年に『This Way‎』(1984)、2011年に『The Shivering Man』のリイシューがリリースされている。
 加えて同レーベルはワイヤーのグラハム・ルイスとのユニット、ドームのリイシュー・ボックス・セット『1-4+5』も発売する。私見だが〈エディションズ・メゴ〉は、ノイズからグリッチというエクスペリメンタル・ミュージックの歴史的な視座を持ってブルース・ギルバートの新作および再発を10年代初頭に行ったのではないかと思う。
 さらに、ブルース・ギルバートは英国のエクスペリメンタル・レーベル老舗〈タッチ〉から、2013年にブルース・ギルバート・アンド&BAWで『Diluvial』を送り出してもいる。この1946年生まれの実験音響音楽家は、00年代以降も、つねに前衛的存在/音響を示し続けてきた。

 本作は、『Diluvial』から5年ぶり、ソロアルバムとしては『Oblivio Agitatum』以来、じつに9年ぶりの新作である。聴けばわかるように、いまだ過激かつ実験音響を鳴らしている。ラテン語で「ゼロ、無から」を意味するというアルバム・タイトルそのものともいえるマテリアルな質感のノイズ/ドローン作品だ。
 じじつ、全9曲、どのトラックも聴き手の感覚のむこうから鳴ってくるような物質的なノイズによって、「音/楽の極北」のような響きを生成する。これほどまでに非=人間的なドローンやノイズも稀だ。論理や明晰さかも逸脱しており、人間と世界の中間領域で鳴り響くようなハードコアでマテリアルな音響である。まさに「人間」から遠く離れて。

 なかでもA1“Undertow”、A4“In Memory Of MV”、B2“Black Mirrors”、B5“Where?”などは、まさに電子ノイズ/ドローンの極北ともいえるような音が蠢いており、聴き手の耳を音楽と非音楽のボーダーラインへと誘発する。そして無機的なドローン曲“Change And Not”などは、音楽の実験・前衛の最前線を40年以上にわたって走りぬけてきた御大だからこそ行き着いた音響空間が生成しているように思えた。
 本作においてノイズは音楽/音階とは別次元でサウンドの高低を変化させ、音楽へと抵触する直前に鉱物のような音響を放っている。音=ノイズに対するフェティシズムすらも冷たく引き離すような感覚があるのだ。ブルース・ギルバートが生成する音響は、端的に言ってノイズや音響の快楽を無化する。いわば、「音楽」から遠く離れて。

 現在、電子音楽やノイズ音楽は変化の只中にあるという。すでに過去(20世紀的な)言説では語り切れない領域へと至っているともいわれる。当たり前だがすでに20世紀は終ったのだ。しかし、その「現在」もまた数秒後には過去になる。やがて無効になる。ゆえに「失語症」を恐れるがあまり、現代性を強調した正論を繰り返すようになる危険性もある。そのような言説は空虚である。だからこそ、われわれは「変化」とは「人生」であり、「実験」とは「生の条件」でもあることを再認識すべきだ。世代も時代も超えた地点にあるもの、つまりは実験や前衛に、流行やモードとは無縁のものを見出すこと。

 本アルバムはマスタリングをラッセル・ハズウェル、カッティングをラシャド・ベッカー (ダブプレート・アンド・マスタリング)という鉄壁の布陣で制作されており、〈エディションズ・メゴ〉の250番目のリリース作品(!)に相応しい作品といえる。ポストパンクからグリッチへ。そして10年代的なエクスペリメンタルへ。延々と受け継がれてきた前衛と実験精神の結晶が本作なのである。

編集後記(2018年6月8日) - ele-king

 いよいよ来週の木曜日からロシアW杯がはじまるかと思うと、いてもたってもいられない。来週末の金、土から日までの3日のあいだがすごい。カタルーニャ人も団結できるのかどうかのスペイン、キリアン・エムバペを擁するフランス、そして知将チッチ率いるブラジル、知将レーヴ率いるドイツのそれぞれの試合が見れるという、もちろんメッシのアルゼンチンも忘れるわけにはいかないし、月曜日には個人的に注目しているベルギーも出てくると。え? 日本代表? やはりここは大島僚太選手に注目でしょうね。

 紙エレキングにも少し書いたことだが、今回のロシアW杯はわかりやすい。ドイツを倒すのがどの国か、だ。W杯はいまや戦術の大会などと言われているが(ゆえに直前で監督を変えることは戦術を重視する欧州では考えられないだろう)、ドイツはその最先端でもある。ぼくが子供のころはドイツといえばゲルマン魂の無骨なサッカーという印象だったが、いまやインテリ・サッカーなどとも言われるほど洗練されている。そして、ドイツ相手に前回の地元開催のW杯で1-7という歴史的にもあまりにも無残な敗戦をしたブラジルがチッチ監督の下で蘇生し、リベンジを目論んでいる。ぼくはもちろんブラジルを応援するが、力も技術もあり、根性もあり、幾何学まで取り入れて構築したというドイツ・サッカー(まあ、故障者を抱えていまいち仕上がりが良くないらしいが)をブラジルがどう攻略するのだろう。ついついそのことばかり考えてしまう。まあ、ぼくが考えたところで何も起こるわけでもないのだが。

 そしてこのタイミングで、ぼくはブラジル音楽の本の刊行に携わっている。中原仁氏の監修/編集による『21世紀ブラジル音楽ガイド』という、現在進行形のブラジル音楽のディスク・カタログだが、W杯開幕とほぼ同じ時期に入稿がはじまるのだ。つまり世界中がブラジルのサッカーの魅力を再認識してからその本は刊行されると、これがシナリオである。

 しかしここまで来るのに長かった。個人的にもいろいろあり、別冊エレキングのジャズ特集があり、紙エレキングのvol.22があった。そのどちらの特集もいま現在の音楽における突出したシーンを知るという意味でじつに有意義なものになったと思う。vol.22に関しては、前々からやりたかったアフロフューチャリズムの特集も実現できた。掲載されているチーノ・アモービのインタヴューは、ある意味OPN以上にハイブローだ(笑)。え? W杯がはじまるのにそれどころじゃないって? いや、たしかにおっしゃる通りだが、おそらくvol.22には、英米の音楽ジャーナリズムに興味がある人にとって、今後音楽について文章を書くうえでの重要な確認事項もあると思うので、観戦の箸休めとしてぜひ手にとっていただければと思います。



5月某日、2週連続で檜原村までサイクリング。梅雨前の初夏の最高のトリップでした。走行中、かぶとむしがぼくの背中にやって来ました。そのうち飛んでいくだろうと思って走っていたのですが……現在は家のベランダで元気にしています。

cero - ele-king

 これからここに書き綴ることはきっと、ceroへのラブレターのようなものになってしまうと思う。
 私は、ceroとともに「大人」になってきた。いや、決して言い過ぎじゃないと思っている。いまから10年ほど前に、友人に連れられ阿佐ヶ谷のrojiというバーで初めて髙城くん(以下呼び捨てにさせてもらいます、ゴメン)に出会ったときから、そのときどきにお互いが聴いている音楽を語り合ったり、ときには朝まで飲み明かしたり、私の友だちが彼の友だちになったり、彼の友だちが新しく私の友だちになったりした。そのなかには恋もあったし、ときには悲しいこともあったし、そして何より楽しいことがたくさんあったのだった。
 それは20代半ば、社会に出て、そろそろ気だるさと疲れに膿んできていた頃のこと。自分の周りで生まれつつある音楽が急速にエキサイティングになっていく、その只中に居させてもらったことで、おそらく私は救われていたのかもしれない。
 しかし、あたり前のことだけれど、時間はどんどんと過ぎ去っていき、そして人はどんどんと移ろってゆく。何故という理由もないけれど疎遠になってしまった人たち。仕事を変える人、辞める人、住む土地を移す人たち。恋人と別れる人、結婚する人。亡くなってしまった人たち。
 いろいろな人たちがいろいろに生活をするなかで、もちろん私にもたくさんの変化がやってきた。そしてあの時の仲間一人ひとりへも、たくさんの変化はやってきた。とくに理由もなく、いつしか私はceroの皆とも徐々に疎遠になり、仕事を抜くなら日常的にライヴ会場へと足を運ぶことも少なくなってしまっていた。けれども、彼らが発表する作品は、いつも大切に、大事に聴くようにしてきた。そうしていると、まるで彼らと話をしているようだったから。届けられる作品には、彼らがいま美しいと感じていることが、それぞれ美しい形で音楽となっていた。
 デビューEP「21世紀の日照りの都に雨が降る」を、わくわくしながらライヴ会場で手に入れたときのこと。彼らが青春を過ごしてきた武蔵野の風景が溶かし込まれた、ハイ・ブリットなインディ・ポップが詰まったファースト・アルバム『WORLD RECORD』。震災後の逡巡や沈潜のなかで、果敢な音楽的挑戦に向かい、マジック・リアリズム溢れる「失われた街」東京を描き出したセカンド・アルバム『My Lost City』。そして、世界的に興隆を見た新時代のR&B/ヒップホップ、ディアンジェロの復活などに伴う90'sネオ・ソウルのリヴァイヴァル、ロバート・グラスパーのブレイク以降に顕在化したジャズの新たな潮流、そういったムードへ濃厚に呼応し、新たなcero像を提示することになった2015年リリースのサード・アルバム『Obscure Ride』。それらの音楽は、常にそのときどきに彼らから届く大切な便りとして、私の生活を優しく勇気づけてくれた。
 そしていまceroは、この最新作『Poly Life Multi Soul』で、またしても私を、いや、私たちをこれまで以上に強く勇気づけてくれる。

 前作『Obscure Ride』で彼らが示した方向性は、たちまちにインディ・ミュージック・シーン全体の関心として共有され、以後海外から紹介されるもの含めて、時に似通ったものの供給過多状況となってしまったとも言えるかもしれない。それだけ、彼らが時代の先端を走っていたということの証左でもあるのだが。
 絶え間ない音楽的好奇心と鋭敏なアンテナを持つceroだけに、来るべきアルバムが前作の延長線上に置かれるような内容になるとはもちろん思っていなかったが、ではいったい彼らが次にどんなスリリングな音楽を聴かせてくれるのか、正直予測し難かった。しかし、近年のライヴや、伝え聞く曲作りやリハーサルの様子からすると、多くのファンへ急速に拡大しつつあった「ポップ・バンド」としてのキャリアに対し、自ら大きな挑戦を仕掛けるような刺激に満ちた内容であると予見された。

 音楽ディレクター/ライターの屋号を掲げる者としては恥じるべきかとも思うが、正直に言うと第一印象は、「これは一体何だろう?」という感情が飛び込んできた。
 ものすごくダイナミック且つ高度。破壊的であるとかアヴァンギャルドという意味での難解さとは程遠いのに、簡単な理解を拒む強靭な外郭。しなやかでメロウでもあるのだが、聴き心地として甘さはなく、むしろシャープな苦さが味蕾を刺す。リズミック且つダンサブルであるけれど、熱狂に身を任せるというより、クールな知性によって肉体性が精緻に統御されている。「何々を彷彿とさせる」というレファレンス的言語も簡単に引き寄せようとしない。単一的な解釈・理解を拒む何か。

 ……そして、何度も繰り返し聴いていくうちに、初めて聴いたときには気付くことのなかった様々な魅力を発見することになる。多層的に敷き詰められたリズムは楽器ごとに小節概念を跨ぎ超え、躍動するポリリズムとなって楽曲全体を駆動する。メロディとカウンターメロディの相互的関係性は歌と器楽演奏という古典的ヒエラルキーを内部から溶かし、多数の線や点がゆらぎのように現れて、時に面や立体を形作り、しかもそれらを幾何学的に把握させることを拒む。
 そう、これはアルバムに冠されたタイトル通り、ポリフォニックでマルチな要素が縱橫に(しかも同時に奥行きとせり出しを伴いながら)生成される、いままでに類をみない、多レイヤー的な音楽世界なのだ。

 イントロダクション的に置かれたM1“Modern Steps”は前作におけるアブストラクトなR&B世界の色香を運び込みながらも、それを壊すように、橋本によるエレキ・ギターの鮮烈なコード・ストロークがアルバムの開幕を告げる。
 ミュージック・ヴィデオも公開され、本作のキーとなる曲として位置づけられるであろう荒内作曲のM2“魚の骨 鳥の羽根”では、ドラムスが叩き出すアフロ・ビート的リズムに乗りながら、太い筆致で塗りたくるシンセサイザーが現れ、歌メロディーと呼ぶには異様なまでに奔放な旋律が器楽音と錐揉みしながら空間を進んでいく。そのくせ、近年加わったサポート・メンバーの小田朋美と角銅真実によると女声コーラスは、極めキャッチーなフレージングで彩りを加える。ファンク的な反復構成と思わせつつも、その実めまぐるしい和音進行と複雑な構成。
 続く髙城作のM3“ベッテン・フォールズ”でも、スネア・ドラムが叩き出すリズムにジャジーなギターとヴォーカルがポリリズミックなよじれを創り出し、コーラスがプリティなフレーズを添えていく。続く髙城作M4“薄闇の花”では、ピアノの裏打ちがリスナーへレゲエのイメージを提供し、いっときの安心感を与えるが、ドラムやベースによるリズム・フォルムはアフロ・ビートという方が近く、そこに多層性が宿る。ハンド・クラップが加わる段になってそのリズム構成の妙味が本領を発揮する。まるでかつてのUKレゲエ〜ダブに通じるようなクールネスをこうした複雑でいながら円味あるポップスへ昇華する手腕よ。
 そして、橋本作になるM5“遡行”でも、一聴してサポートを務める古川麦によるガット・ギターの流麗な響きに耳を奪われるので、スムースな音楽世界が期待されるが、ここでもリズム隊はあくまで硬質なビートを提供する。橋本のソングライティングの熟練とともに、かねてよりMPBの最前線など中南米音楽への強い関心を持ち続けていたバンドの面目躍如というべき出来栄え。
 レイモンド・カーヴァーの同名編から詞をとった(翻訳は村上春樹)ロマンチックなエレクトロ・ジャズ・ポエットM6“夜になると鮭は”を挟み、荒内作M7“Buzzle Bee Ride”ではふたたび太い筆致のシンセサイザーがうねり上がるなか、ダーティー・プロジェクターズを思わせる早いパッセージのコーラスが宙を舞う。リズムをサポートするふたり、光永渉によるプレイアビリティ溢れるドラムスと厚海義朗によるベースの(インタープレイとも表現したくなるほどの)演奏は、抑制されたマハヴィシュヌ・オーケストラとでも言うべきか、現在のceroが技巧的な面でもトップレベルの集団であることを強く思い起こさせる。
 続く髙城作M8“Double Exposure”は、美しい歌メロを伴う、前作からの流れを感じさせるブラック・ミュージックへのリスペクトが溢れる清涼な世界ではあるが、リズム・ボックスを思わせる素朴なビートが退場した後は、パルス的リズムとヒプノティックなドローンが交錯し、リスナーの耳を弛緩させることはしない。
前曲に続き同じく髙城作のM9“レテの子”は、フェラ・クティ・アンド・アフリカ70を思わせるキッチュなシンセの音色とフロア・タムの連打によるトライバルなビートがディープな薫りを発散させるが、それを逆手に取るがごとく、却ってその歌メロディーやリフレインはもしかしたらアルバム中もっともポップと言えるかもしれないものとなっている。
 荒内作M10“Waters”はアルバム発売情報と共にアップされたトレイラー映像でもフィーチャーされ、12inchシングルとしても先行リリースされた曲で、これも今作を象徴するトラックといえるだろう。今作のオフィシャル・インタビューにおいて荒内は、リズムの多様性について言及されることが多いが、和音構成の磨き上げについても相当に力を入れたとことを語っていたが、この曲における、モーダルでいながらその実非常に精密なコード・プログレッションを聴くと、彼の発言に強く頷くこととなる。髙城の歌唱ともラップともつかないヴォイシングは、前作以降も継続して先端的なブラック・ミュージックが持つクールネスへ大きな関心を向けてきた証左のようにも感じる。
 髙城作M11“TWNKL”のアンビエント的R&B世界も、フランク・オーシャン以降における美意識との共振を強く感じる楽曲だ。終盤、突如(だが極めてスムースに)ミリタント・ビートに以降しレゲエ化する瞬間の快感。このように音像処理とグルーヴを並立させる様は、本作のミキシング面での秀逸さも物語っているだろう。
 そして、タイトル曲にして終曲、荒内作のM12“Poly Life Multi Soul”。これまでアルバムで開陳された様々な表情を総括するような圧巻の8:36秒。ライド・シンバルの響きが優しく空間を埋めながら、様々な音素が多レイヤー的に塗り込められていく。その筆致はあくまで穏やかで、ポリフォニックなものへの賛歌を静かに、しかし力強く描き出していく。「かわわかれだれ」という象徴的フレーズに導かれるアウトロでは、エレキ・ギターのストイックなフレーズを伴いながら、リズム・パターンが4つ打ちへと変化し、「バンド」という共同体によってこそ創り出され得る、フィジカル且つ祝祭的なハウス・ビートが出現する。永遠にこのビートに身を浸したい、という誘惑が顔を出したとき、しかしアルバムはしとやかに幕を閉じていく。

 その特徴的なリリック世界にも是非各曲ごと触れたところだが、あまりに取り留めのない膨大な文字量になってしまいそうだ……。
 ただしかし、是非言及しておきたいのは、アルバム全編を通し、「川」や「雨」、「陽」や「Light」という語に宿るようにして、「水」そして「光」のモチーフが度々現れては消えるということだろう。そう、「水」も「光」も、物体、粒子であると同時に、波としての性質も重ね持っている。
 生きることとは、自らの生を認識するとことであると同時に、そして何よりそれだからこそ他者の生を見つめることでもある。生とは、個々の現象でもあるとともに、他者との交わりによって織りなされる時には、波でもある。人間とは、実存としては点でありうるが、様々にそれが交錯する時、波としてもある。
 一見、各々の生の蠢きが個的な振る舞いの無秩序な集積のように感じられるにも関わらず、そこに多層的な関係が生成しているように、我々は勝手気ままにダンスすることを通して、総体としては、躍動する社会の姿を形作っている。
 決して「全体」に収斂されることなく、我々が自身を生きるとき、その重ね合わせられたモアレは、このアルバムに収められた音楽のように美しい模様を描くことになる。
 アルバム『Poly Life Multi Soul』は、ここに描かれた音楽的風景と同じように、いまここに生きる私たちの様々な生の形を見つめ、様々なとき、場所、そして我々が知り得ない(知り得なかった)様々な生を肯定しようとする。

 こんな凄いアルバムを作り上げたceroのメンバーとともに、もしかしたらこのアルバムを聴くことで、私もまたひとつ成熟をともにすることができたのかもしれない(できていたなら嬉しいのだけど)。
 彼らとともに、この世界を眺めることができて嬉しく思う。心から、ありがとう。
 こんないびつなラブレターでごめん、落ち着いたら久々に飲みに行きたいね。

ビューティフル・デイ - ele-king

 サフディ兄弟の『グッド・タイム』は、ニューヨークを舞台に街の「ゴミ」として敗残した人間が疾走するクライム・ムーヴィーだった。圧迫感のあるクローズアップの多用と間違った選択肢を取り続けるかのような顛末に、拍車をかけていたのがOPNの担当によるスコアだ。音楽が登場人物たちの心理を説明したりシーンに叙情性を与えたりするために――つまり小道具や飾りとして使用されるのではなく、それ自体が映画の主題や動きと不可分であるという事態である。なるほどOPNの音楽がなければ映画はまったく違ったものになっていただろう、そのテーマですら。であるとすれば、リン・ラムジーの長編4作めとなる『ビューティフル・デイ』もジョニー・グリーンウッドが担当したスコアと切り離せない映画である。これもニューヨークを舞台にしたクライム・ムーヴィーだといちおうは位置づけられるが、犯罪や事件そのものは重要ではない。ここで描かれるのは街にこびりついた病理や狂気、その渦中で苦しむ人間の内面世界である。

 汚らしい姿のホアキン・フェニックスが扮する主人公ジョーは、老いた母親とふたり暮らしであり、どうやら行方不明の人間を捜索するという特殊な仕事をしながら生計を立てている。そのためには殺人もする。と同時に、彼は戦場での経験や幼い頃に受けた虐待によるトラウマを抱えており、フラッシュバックするそれらの記憶に苛まれてもいる。30分ほど、つまり映画の3分の1ほどでようやくそうした設定の骨格は見えてくるのだが、それらは断片的でしかも抽象度が高いため何がどこまで事実なのか判然としない。実際的にも観念的にも暴力と死に支配された日々のなかで苦しむジョーを見ながら、 観客は血生臭い展開に翻弄されるしかない。
 ジョニー・グリーウッドの音楽は、日本では同じタイミングで公開されるポール・トーマス・アンダーソン監督作『ファントム・スレッド』とはまったく別のアプローチを取っている。 愛と執着の異常性を描いたメロドラマを 21世紀のポスト・クラシカルからクラシックへと遡行しながら大仰に華麗に彩っていた同作での仕事に対し、『ビューティフル・デイ』ではミニマル、現代音楽、ノイズ・ミュージック、ミニマル・テクノ、ダーク・アンビエント、IDMなどを行き来しながら非常にアブストラクトかつ不穏な音像を立ち上げる。そこに中心はない。特筆すべきは、映画のなかで鳴っている音=ノイズとスコアの境目がどこにあるのか判断できない場面が何度も訪れることである。ミュジーク・コンクレートの逆の状態になっていると言えばいいだろうか? ジョーが実際に聴いている音なのか、彼の頭のなかで鳴っている音なのかこちらにはわからない。そのノイズの隙間から聞こえる旋律になかば陶然としつつ、わたしたちはジョーと、彼が出会う少女が対峙する加虐的な世界に飲みこまれていく。

 本作には児童買春、虐待、戦争によるPTSDといったセンセーショナルな問題がモチーフとして見られることはたしかだろう。だが、ラムジー監督の前作『少年は残酷な弓を射る』(11)が少年による凶悪犯罪を取り上げながらも事件自体ではなく母親の心理に迫っていたように、本作においても犠牲者として生きることを余儀なくされた人間たちの内面こそが映画の関心の中心にある。街には理不尽な暴力が溢れ、世界は汚く、そこで生きる人間たちは壊れている。本作でジョニー・グリーンウッドの音楽を体感していると、レディオヘッドにおいてトム・ヨークが取り憑かれている「世界は壊れている」という認識にいかに肉体を与えるか、という命題にグリーンウッドがつねに向き合ってきた成果が表れているように思われる。映画音楽においては冷静に「仕事人」として活躍しているようなイメージのグリーンウッドだが、じつはレディオヘッドでの役割とかなり地続きであるかのような気がしてくる。

 その物語の類似性から、本作は「21世紀の『タクシードライバー』である」というコピーがつけられているようだ。だが、アメリカン・ニューシネマの空気をたっぷりと吸い込んだ同作において、薄汚れた街でベトナム戦争の後遺症を引きずりながらも、それでもアメリカン・ヒーローになろうとしたトラヴィスの姿は『ビューティフル・デイ』にはない。弱き者を救うというロマンティシズムにも到達できないジョーは暴力によってめちゃくちゃになった人生に呆然とし、涙を流すばかり。そこに沈みこむかのようなホアキン・フェニックスの存在感の重みは言うまでもない。
 英題は「You were never really here」、「お前ははじめから存在しなかった」。つまり、ジョーはまっとうな人生を奪われた人間たちの亡霊としてここにいる。「すべては幻なのかもしれない」――本作の観念性は幾度となく観る者にそう感じさせるが、済んでのところでジョニー・グリーンウッドの音楽とホアキン・フェニックスの身体性、抑制された演出が彼に肉体を与える。ジョーはこの世界に存在することを許されるのか? ラスト・シークエンスの映画的な飛躍は、弱き者たちがこの残虐な世界に生きることが可能なのかを巡る真摯な問いかけである。


予告編

Superorganism - ele-king

 サムシング・フォー・ユア・マーイン、といえば90年代テクノ・キッズにとってはスピーディーJの1991年の代表曲(2001年にはファンクストラングによってリミックスもされている)なので、元ネタのC’hantalの"The Realm"の同じフレーズをサンプリングどころかもっと大胆に引用して脱力ポップ・サウンドに仕立てた"Something For Your M.I.N.D."が掌の上の小さなスマートフォンから見知らぬプレイリストに乗って流れてきたときには、その強烈なインパクトに思わず動作が止まったものだ。
 スーパーオーガニズムは昨年のその時点でまだ謎の存在で、そこからこの曲はどうやらフランク・オーシャンやヴァンパイア・ウィークエンドのエズラが紹介したことがきっかけで人気に火が付いたらしいと判明し、ヴォーカルが17歳の日本人の女の子だという話題性も加わって世界と同時進行で日本でも徐々に注目されていく。
 今年2月の初来日公演はファースト・アルバム発売前にも関わらず、なんとソールドアウト。インターネットを介してじわじわと浸透していくスピードはいかにも現代的で、見ていて痛快だった。"Something For Your M.I.N.D."はいまやサッカーゲームの「FIFA18」のサウンドトラック曲として、ザ・XXやスロウダイヴ、ザ・ナショナルなどの大御所とともに使用されているほど。

 そもそもスーパーオーガニズムの構造自体が面白い。アメリカに在住していたヴォーカルのオロノが2015年の夏休みに帰省した際に、来日していたジ・エヴァーソンズのライヴを観に行ったことをきっかけに彼らとインターネット上で交流を深めていき、バンドのメンバーのうちの4人がコーラス兼ダンサーの3人を加えて新たに始めたプロジェクトのヴォーカルにオロノが大抜擢された、と何だか架空のプロフィールのようによくできた話。
 軽快なビートに親しみやすいメロディと超ダルそうな歌声を重ねた不思議な音はかつてのチボ・マットを彷彿させ、デーモン・アルバーンの新しいプロジェクトだと疑われたというのも納得できる。多国籍なメンバーで構成されたサンプリング多用のヒップホップ的な感覚はザ・ゴー!チームと似ているかもしれない。
 しかし実際の彼女たちの映像を覗いてみると、敢えて狙ったような荒っぽさやローファイ感は一切感じられないニュータイプのようで、メンバーのなかで誰よりも若くて小さいオロノは奇妙な仲間を引き連れた賢者のように勇ましく見えるし、まったく愛想を振りまかずに堂々としているところもステレオタイプな日本人のイメージを覆せと言わんばかりでカッコいい。
 現在8人のメンバーはイギリスのシェアハウスにて共同生活を行っているそうで、曲づくりは基本的にチャットグループの会話でアイディアを出し合い、ファイルを共有して制作されているのだとか。しかし現代のテクノロジーを駆使しながらも世の中の主流に異を唱える姿勢はしっかりと見せ、アーティスト写真にしか登場しないロバートがMVなどの映像制作を、ドラムのトゥーカンがミキシングを担当、ジャケットのイラストはオロノが手掛けるという徹底したDIYっぷり。

 ちょうど最近目にした文章の中にDIYについて書かれた興味深い一文があって、それによると、DIYには自分で人生をコントロールできると感じ、疎外感がなくなる利点があるという。何かを生み出すことでしくみがわかり、視点が変わり、世界が違って見えるということ。スーパーオーガニズムの音楽のなかでは目覚ましが鳴り、鳥が鳴き、水が流れ、子供たちが笑い、りんごをかじる音が聞こえ、ゲームの音や緊急地震速報やクラクションが鳴らされる。そこに無機質なドラムが歪んだギターと強度のあるモーグシンセが絡まってストレンジな音に膨れ上がると、上がりすぎた熱を下げるようなクールな歌声が聴いている者を気軽に出入りできる自由な空間へと導く。コーラス隊の奇妙なダンスも、シンセを操るエミリーの耳で揺れるイヤリングも、キラキラと光るフェイスペインティングも、どれもが音楽の一部として自信に満ち溢れ、存在感を放っている。それは新しい世界のように眩しくて、生き生きとして、未来のようでもあって。

俺とお前でこの世界を照らせるんじゃないかな
今夜はみんなスターなんだ
なんでだかは知らないけど

 そう歌う"Everybody Wants To Be Famous"だけは、アルバムに収録されている曲のなかで唯一、公開時のアートワークをオロノではなく日本人の高校生の伊勢健人が手掛けている。一昨年ザ・コレクターズの30周年記念シングル"愛ある世界"のジャケットのイラストを描いた彼もまた、元々オロノとネット上の友だちだったそう。ほらね、現代には国や性別や年齢や経歴が違う人たちと気軽に交流できる便利なツールがあって、その気になればひとつに集まって超個体(スーパーオーガニズム)に変身できるのだ。隣にいる嫌なやつはあんたの仲間じゃない。だから仲良くしようじゃないか、世界と。

Smerz - ele-king

 クラフトワークとFKAツイッグスが出会ったような……ラジオでたまたま彼女たちの“Worth It(価値がある)”が流れたとき、ぼくはこの音楽にいっきに持っていかれた。ジェシー・ランザDJラシャドからの影響を明かしているようだけれど、“Worth It”はランザよりもずっと尖っている。ビートは重くインダストリアルな質感で、骨太で、歪んでいる。2000年代初頭のオウテカのように歪んでいるし、寒々しくもダークで、歌はサイボーグと化している。ノルウェー出身のふたりの女性によるスマーズ、その8曲入りのEP(!)は、なかなか面白い。“No Harm(傷つけない)”は、触っただけで切れてしまいそうなカミソリのごときビートを有するR&Bで、“Oh My My”もまたサイボーグが夢見る暗いR&Bで……そのエレクトロニック・ノイズの響きにおいて、スマーズときたら、80年代のサイボトロンがイメージしたような、電子空間において変容する人間の姿が男性であったことに抗議しているかのようだ、と思わず言ってしまうのだった。

 まあ、ぶっちゃけて言えば現代っ子ってことなんだろうけど、“Have Fun(楽しんで)”という表題曲もまた暗く沈んだ曲で、恐怖をかき立てるような、セイバース・オブ・パラダイスめいたトリップホップ調だったりするのだが、うまい具合にお洒落にまとめている。“Half Life(半減期)”と“Fitness(フィットネス)”は明らかにシカゴのフットワークからの影響下にある曲だけれど、前者においては感情が排除された抑揚のない歌と悲鳴にも似た男の声がミックスされ、後者においては歌は削除されている。じつに思わせぶりな曲を作っているわけだが、ぼくのような人間はこうしてすぐに引っかかる次第なのだ。じっさいのところ、インスト曲の“Fitness”を聴いていると、彼女たちは商業主義おいて武器となる「女性の歌声」を放棄してもやっていけるんじゃないかと思うのだが、まあ、〈XL〉がそうはさせないだろうね(笑)。

 捻りのあるアートワークも悪くはない。露光不足の、暗い影におおわれた笑顔の少女たち。だが、『スターウォーズ』のレイア姫には心して話せる女友だちがなぜいないのかという20世紀の違和感はここにはない。

Paul White - ele-king

 〈R&S〉はテクノなどエレクトロニック・ミュージックの老舗レーベルであるが、そうしたなかでポール・ホワイトは異色のヒップホップ系プロデューサー/ビートメイカー/マルチ・ミュージシャンである。南ロンドンのルイシャム出身の彼は、もっとも目立ったところではダニー・ブラウンのプロデューサーとして知られるが、2007年頃から地道に制作活動を続けて数々のソロ作品を出している。ダニー・ブラウンのほかホームボーイ・サンドマン、ギルティ・シンプソン、オープン・マイク・イーグルなどUSのラッパーたちと組んでおり、エリック・ビディンズとのゴールデン・ルールズというユニットではヤシーン・ベイ(モス・デフ)とも共演している。US勢との絡みから〈ストーンズ・スロー〉や〈ナウ・アゲイン〉などで作品をリリースしており、ポスト・DJシャドウ、またはポスト・マッドリブという形容もされてきた。

 UKではモー・カラーズなどのリリースで知られる〈ワン・ハンディッド・ミュージック〉でも作品をリリースしているが、彼のサウンドはヒップホップの王道から外れたオルタナティヴなもので、いろいろな音楽的要素が見られる。とくにサイケデリック・ロックの影響が強く、ダブ、ビートダウン、民俗音楽などの要素が色濃いところはモー・カラーズにも共通する。また、2014年の『シェイカー・ノーツ』ではテンダーロニアス、ウェイン・フランシス(ユナイテッド・ヴァイブレーションズ)、ジェイミー・ウーンらを起用して、かなりジャズ寄りのアプローチも見せていた。フライング・ロータスやラスGなどLAのビート・シーンに近い立ち位置のアーティストで、〈ワープ〉におけるフライング・ロータスのような関係性が、ポール・ホワイトと〈R&S〉の間にはあるのだろう。

 そうしたポール・ホワイトの新作『リジュヴェネイト』も〈R&S〉からのリリースである。〈R&S〉においては『シェイカー・ノーツ』に続く2作目のアルバムとなり、今回も彼の兄弟でマルチ・ミュージシャン/ビートメイカー/シンガー・ソングライターのサラ・ウィリアムズ・ホワイトが参加している。そのほかの参加者はUKジャマイカン・シンガーのデナイ・ムーア、ジンバブエ出身の詩人/ミュージシャンのシュングドゥゾことアレクサンドラ・ゴアで、彼女たち女性アーティストと共演したアルバムとなる。“ア・チャンス”は変拍子のビートとスペイシーなサウンドスケープによるポール・ホワイトらしいサイケデリックなテイストのナンバーだが、もはやヒップホップ的な文脈からは完全に離れた音作りが『リジュヴェネイト』において行われていることも示している。デナイ・ムーアが歌う“セット・ザ・トーン”は、フォーキーでアコースティックな質感とコズミックな質感が見事に融合したUKらしいダウンテンポ。こうした生音とエレクトロニクスの融合が彼の持ち味でもある。同じくデナイが歌う“シー・スルー”はよりポップ色が強いナンバーだが、こちらはレゲエ/ダブ的なニュアンスが加味されている。

 “リターニング”はアンビエント色の強い作品だが、ブリティッシュ・フォークからグナワのようなエスニック・ミュージックのテイストもあり、いろいろな民族音楽にも通じるポール・ホワイトの一面が見える。シュングドゥゾが歌う“スペア・ゴールド”と“アイス・クリーム”はメディテーショナルなサイケデリック・ソウルで、とくにストリングスを交えてシューゲイズ的なアプローチを見せる後者は往年のゼロ7などを彷彿とさせる。“ソウル・リユニオン”もペイル・セインツのようなシューゲイズ・ロックに近い。ジャズ・ロック、ポスト・ロック、ドリーム・ポップなどいろいろな要素が入り混じった“リジュヴェネイト”はステレオラブ的と言えようか。サラ・ウィリアムズ・ホワイトが歌う‟ラフ・ウィズ・ミー“と“オール・アラウンド”は浮遊感のあるドリーム・ポップ。彼ら兄弟の子供の頃の記憶を楽曲にしたもので、随所に実験的な遊びも見られる。この2曲に象徴されるように、いままでのヒップホップのビートメイカー的な立ち位置から脱却し、自身のなかにある音楽を自由に表現していった『リジュヴェネイト』は、新たなポール・ホワイト像を見せるアルバムである。

USのカマシ・ワシントン、UKのシャバカ・ハッチングス。役者は揃った。アフロ、カリブ、そしてヒップホップやR&Bをも飲み込みながら、いままさに新世代がJAZZを更新する!

あたかもジャズと呼ばれないことを良しとし、常識や権威、伝統の外側で、いまものすごい勢いで拡張している。名高い歴史を誇る英国ジャズ史において、彼ら・彼女らは、期待を裏切ることで世界を広げている──ようこそ21世紀のUKジャズへ! いまもっとも熱い南ロンドンのシーンを中心にお届けします!

■ロング・インタヴュー
カマシ・ワシントン──地上と楽園、スピリチュアル・ジャズ曼荼羅

■特集:UKジャズの逆襲
・UKジャズ史──それはいかに根付き、発展したのか
・UKジャズ人脈図
・21世紀UKジャズ・ディスク・ガイド80枚

 INTERVIEW
 シャバカ・ハッチングス──ブラック・アトランティック大航海
 ザラ・マクファーレン──当世UK風ジャズ・シンガー、レゲエを歌う意味
 カマール・ウィリアムス──南ロンドン・ペッカム発、ジャズ・ファンク物語
 ジョー・アーモン・ジョンズ──期待のピアニスト、その若々しい混交とハーモニー

 COLUMNS
 トゥモローズ・ウォリアーズ──UKジャズの重要拠点
 トニー・アレンとジャズではないジャズ
 UKにおけるサン・ラー
 ジャズ・ロックの同心円
 新世代ソウル──キング・クルール以降のシンガーたち
 ブロークン・ビーツなる出発点
 デトロイトとUKジャズの関係
 グライムからハウス、ジャズへ
 電子音楽家としてのエヴァン・パーカー

■特集:変容するニューヨーク、ジャズの自由
・NYジャズ人脈図
・NYジャズ・キーワード(アンソニー・ブラックストンからウィリアム・パーカーまで)
・NYジャズ・ディスク・ガイド30枚
・対談:多田雅範×益子博之

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