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サフディ兄弟の『グッド・タイム』は、ニューヨークを舞台に街の「ゴミ」として敗残した人間が疾走するクライム・ムーヴィーだった。圧迫感のあるクローズアップの多用と間違った選択肢を取り続けるかのような顛末に、拍車をかけていたのがOPNの担当によるスコアだ。音楽が登場人物たちの心理を説明したりシーンに叙情性を与えたりするために――つまり小道具や飾りとして使用されるのではなく、それ自体が映画の主題や動きと不可分であるという事態である。なるほどOPNの音楽がなければ映画はまったく違ったものになっていただろう、そのテーマですら。であるとすれば、リン・ラムジーの長編4作めとなる『ビューティフル・デイ』もジョニー・グリーンウッドが担当したスコアと切り離せない映画である。これもニューヨークを舞台にしたクライム・ムーヴィーだといちおうは位置づけられるが、犯罪や事件そのものは重要ではない。ここで描かれるのは街にこびりついた病理や狂気、その渦中で苦しむ人間の内面世界である。
汚らしい姿のホアキン・フェニックスが扮する主人公ジョーは、老いた母親とふたり暮らしであり、どうやら行方不明の人間を捜索するという特殊な仕事をしながら生計を立てている。そのためには殺人もする。と同時に、彼は戦場での経験や幼い頃に受けた虐待によるトラウマを抱えており、フラッシュバックするそれらの記憶に苛まれてもいる。30分ほど、つまり映画の3分の1ほどでようやくそうした設定の骨格は見えてくるのだが、それらは断片的でしかも抽象度が高いため何がどこまで事実なのか判然としない。実際的にも観念的にも暴力と死に支配された日々のなかで苦しむジョーを見ながら、 観客は血生臭い展開に翻弄されるしかない。
ジョニー・グリーウッドの音楽は、日本では同じタイミングで公開されるポール・トーマス・アンダーソン監督作『ファントム・スレッド』とはまったく別のアプローチを取っている。 愛と執着の異常性を描いたメロドラマを 21世紀のポスト・クラシカルからクラシックへと遡行しながら大仰に華麗に彩っていた同作での仕事に対し、『ビューティフル・デイ』ではミニマル、現代音楽、ノイズ・ミュージック、ミニマル・テクノ、ダーク・アンビエント、IDMなどを行き来しながら非常にアブストラクトかつ不穏な音像を立ち上げる。そこに中心はない。特筆すべきは、映画のなかで鳴っている音=ノイズとスコアの境目がどこにあるのか判断できない場面が何度も訪れることである。ミュジーク・コンクレートの逆の状態になっていると言えばいいだろうか? ジョーが実際に聴いている音なのか、彼の頭のなかで鳴っている音なのかこちらにはわからない。そのノイズの隙間から聞こえる旋律になかば陶然としつつ、わたしたちはジョーと、彼が出会う少女が対峙する加虐的な世界に飲みこまれていく。
本作には児童買春、虐待、戦争によるPTSDといったセンセーショナルな問題がモチーフとして見られることはたしかだろう。だが、ラムジー監督の前作『少年は残酷な弓を射る』(11)が少年による凶悪犯罪を取り上げながらも事件自体ではなく母親の心理に迫っていたように、本作においても犠牲者として生きることを余儀なくされた人間たちの内面こそが映画の関心の中心にある。街には理不尽な暴力が溢れ、世界は汚く、そこで生きる人間たちは壊れている。本作でジョニー・グリーンウッドの音楽を体感していると、レディオヘッドにおいてトム・ヨークが取り憑かれている「世界は壊れている」という認識にいかに肉体を与えるか、という命題にグリーンウッドがつねに向き合ってきた成果が表れているように思われる。映画音楽においては冷静に「仕事人」として活躍しているようなイメージのグリーンウッドだが、じつはレディオヘッドでの役割とかなり地続きであるかのような気がしてくる。
その物語の類似性から、本作は「21世紀の『タクシードライバー』である」というコピーがつけられているようだ。だが、アメリカン・ニューシネマの空気をたっぷりと吸い込んだ同作において、薄汚れた街でベトナム戦争の後遺症を引きずりながらも、それでもアメリカン・ヒーローになろうとしたトラヴィスの姿は『ビューティフル・デイ』にはない。弱き者を救うというロマンティシズムにも到達できないジョーは暴力によってめちゃくちゃになった人生に呆然とし、涙を流すばかり。そこに沈みこむかのようなホアキン・フェニックスの存在感の重みは言うまでもない。
英題は「You were never really here」、「お前ははじめから存在しなかった」。つまり、ジョーはまっとうな人生を奪われた人間たちの亡霊としてここにいる。「すべては幻なのかもしれない」――本作の観念性は幾度となく観る者にそう感じさせるが、済んでのところでジョニー・グリーンウッドの音楽とホアキン・フェニックスの身体性、抑制された演出が彼に肉体を与える。ジョーはこの世界に存在することを許されるのか? ラスト・シークエンスの映画的な飛躍は、弱き者たちがこの残虐な世界に生きることが可能なのかを巡る真摯な問いかけである。
予告編
木津毅