「Noton」と一致するもの

gifted/ギフテッド - ele-king

 泣いた。普通に泣いた。権力者たちにとって、古くは「気をつけた方がいい」とされてきた「頭がいい貧乏人の子ども」は、いまでは「国家のために役立つもの」とされ、存在意義があることにシフト・チェンジしている。ネオ・リベラルは子どもの脳もある種のレアメタルと見なし、早いうちに摘み取っておくものから早いうちに大事にするものに昇格し、どこの国でも天才児狩りのような様相を呈している。それこそ頭が良いか悪いかだけでなく、特殊能力を持つ子ども全般に話を広げると、雑誌などの天才児特集はまるでサーカスかイリュージョンを見ているような気分になるし、低年齢化が進むフィギュア・スケートの選手なんて、メンタルとフィジカルがあまりに釣り合っていなくて、いつのまに日本は旧ソ連みたいなマン-マシーンを生み出す国になっていたのだろうと歴史観すらおかしくなってくる。人類というのは、全体としては一体何がやりたいのかというか。

 特別な才能があるのなら、それを伸ばせるに越したことはない。本人だってどこかに埋もれているよりは幸せだろう。だけど、才能が頭角を表すまで待っていられないという焦燥感だったり、幼少期にまで管理の網の目が張り巡らされている感覚は微妙に受けつけがたい。資源にも製造業にも頼れなければ「頭脳国家シンガポール」という国家のあり方しかないのかもしれない。勉強のできる子どもが金にしか見えなくなっている親もそこら中にいるだろう。地下鉄サリン事件が起きた際、TVの報道番組で自分の教え子がオウム真理教に入信していたことを受けて、日本の物理学がこの先、どうなるかを心配していた人がいた。そう、教え子本人の精神状態とか健康のことはまったく心配しないのかなと、僕はその研究者の冷たさに恐れ入るしかなかった。

 7歳で天才的な数学の才能を見せた女の子の話。タイトルの「ギフテッド」というのは天から「贈られた」才能を示す修飾表現が暗喩に転じたクリシェのようで、マッケナ・グレイス演じるメアリーが「ギフテッド」そのものにあたる。メアリーは叔父のフランクとふたり暮らし。これまで『キャプテン・アメリカ』や『アヴェンジャー』といったアクション・シリーズが専門だったクリス・エヴァンスがフランクを演じ、感情のパレットを端から端まで使い切るような新境地を見せている。ここにひとつ意外性が仕掛けられ、フランクがメアリーの「数学」に対して、情緒とか感情のような位置に配置されるのかと思ったら、フランクがメアリーを叱る時は必ず論理的にメアリーを説得し、「ダメといったらダメ」とか「大人の言うことを聞け」といったような過剰に権威的だったり、理屈になっていない叱り方は一回もしなかったことが重要である。メアリーには数学の素質があるという前提で話は進められていくものの、メアリーの数学脳を日常的に鍛えているのは、実はフランクなのである。フランクを含め周囲の誰もがそのことには気づいていない。しかも、このふたりのやりとりが実に面白い。フランクが繰り返すのは何度も話し合ったじゃないかというセリフで、そのすべてを聞きたかったと思うほど、ふたりによる言葉のパスは絶妙だった。冒頭から「スペシャルな朝食だといったのに」とメアリーが怒ればフランクは「スペシャル・ケロッグ」という商品の文字を見せる。メアリーは最初のうちこそフランクに言い返すことができないものの、それが少しずつ対等に近づいていく。

 一方でメアリーの数学脳をもっと伸ばそうとするメアリーの祖母とフランクは裁判所で養育権を争うことになる。ここにもうひとつの論理合戦が始まる。このプロセスも数式の証明のような展開を辿り、途中でメアリーに大きな打撃を与える事実が浮かび上がってしまう。フランクはこの時、非言語的なコミュニケイションでしかメアリーに自分の伝えたいことを伝えられなくなる。言語を超える瞬間。この飛躍がこの作品は感動的だった。メアリーの存在を論理的に肯定するだけではこの映画はそこまでの作品だったかもしれないけれど、メアリーとフランクの間に非言語的なコミュニケイションが成り立った時、むしろ作品のメッセージは完成するのである。言葉、言葉、言葉ででき上がっていると思った作品が自らそれをひっくり返してしまう。しかも、その後でフランクはメアリーを言葉で裏切るのである。

 実際にこの作品を観た方は、ここに書いたことはストーリーの要約になっていないじゃないかと思うことでしょう。確かに物語はもっと別な経緯を辿り、メアリーの担任やフランクの隣人など登場人物はぜんぜん多い。特にフランクの姉は自分でも省略してしまうのはどうかと思うほど重要な役割を負っている。しかし、それらの要素はこの映画をメロドラマ化するための囮のような意味合いが強く、あえて解題の対象としなかった。メロドラマはメロドラマとして楽しめばいいし、僕もそこは普通に泣いた。この映画はそれだけスタンダード作としてよくできている。マーク・ウェブが『(500)日のサマー』の監督だということは忘れて観た方がいいぐらい。あのような奇矯な演出はここでは一切顔を出さない。

 フランクは一貫してメアリーに天才教育を施さない。それは冒頭で書いたように反ネオ・リベ的だし、この映画に出てくるどの登場人物とも同じく非常識と受け取られる。それこそ政治的行為に近いのかもしれない。子どもの脳は子ども自身に属し、アンバランスな成長がもたらす悲劇からは遠ざけなければいけない。そう、フランクがやっていることはいわゆる「男の子育て」ではない。裁判では「ゴキブリ」のことばかり言及されるけれど、この作品で男性の家事能力がまったく問題にされていないのも、その辺りは雑音にしかならないとあらかじめ判断されていたからだろう。もっといえばメアリーが家事を手伝う場面もないし、形而下はスパッと切り捨てられている。メアリーが遊んでいるおもちゃも幾何学を思わせる「レゴ」だったり。

 言葉で裏切られたメアリーは、フランクとの関係が言葉によって修復されるというストーリーにはならない。ここで非言語的な結びつきが活きてくる。言葉にはまず言葉にしなければならない感覚が先行し、それが言葉になっていくプロセスを言葉と称するのではないかと問うようなシーンがそれに応えている。「生きていくなら、言葉にするのを諦めてはいけない」とは蒼井優の言葉だけれど、同じように「非言語から言語へ」と向かうヴェクトルこそ生きていることだと、この作品も訴えかけている。メアリーは最後にデカルトの有名な言葉をもじってみせる。たったひと言足すだけでデカルトの近代的自我が他者性の議論へと変換されてしまう。そして、公園に駆け出していったメアリーはひとりではできない遊びを友だち相手に始める。こうして天才児はただの凡人になれたのである。なんというエンディングだろうか。

 メアリーを「数学」の天才という設定にしたのは、フランクとの論理的な会話を日常に溶け込ませるための方便だったのかもしれない。しかし、「数学」がモチーフになっている映画には、なぜかこのところ面白い作品が多い。先月、取り上げた『ドリーム』もそうだったし、アラン・チューリングの生涯を描いた『イミテーション・ゲーム』(14)はゲイ、ホーキング博士の伝記映画『博士と彼女のセオリー』(14)は身体障害者、同じくシュリニヴァーサ・ラマヌジャンの伝記映画『奇蹟がくれた数式』(16)も人種問題をそれぞれ数学と絡ませ、なぜかイギリス映画が多いなか、圧倒的に意表を突かれたのは『プルーフ・オブ・マイ・ライフ』だった。『女神の見えざる手』のジョン・マッデンが12年前に撮った作品(この頃も数学モノは多かったかもしれない)である。そこでは『ギフテッド』と似た設定ながら、まったく違う結論が導かれていた。

Nicolas Jaar - ele-king

 昨年『Sirens』という素晴らしいアルバムを送り出し、改めてその才能の高さを世に示したニコラス・ジャー。本日10月24日、彼の主宰するレーベル〈Other People〉から上梓された『Sound Works / Art Works』という本のイベントがマンハッタンにて催されることになっているが、ニコラス・ジャーはその告知ツイートで、新たなレコードの存在を示唆している。会場ではジャー自身がその新作をライヴ演奏する予定のようなのだけれど、アンビエント・アルバムであるということ以外はまだ何も明かされていない。続報を待つべし。

- ele-king

 いきなり音楽がハード・ミニマルで始まる。映し出されているのは自然の景色。完全にミスマッチを狙ったものだろう。
 大森立嗣監督の新作『光』は音楽をジェフ・ミルズが手掛けている。数年前、ジェフの音楽は断片的でも効果的だし映画音楽に向いているんじゃないかと言ったら、「場面に合わせて音楽をつくるのは好きじゃないから、映画音楽はやらない」と言ってたのに、全編これ、ジェフ・ミルズである。ジェフ・ミルズがルーブル美術館のキュレーターを勤めていた際に大使館で大駱駝艦を紹介されたことから、その主催者である麿赤兒の長男・大森立嗣とはいつか手を組むラインが引かれていたのだろう。自分には理解できないものだから使ってみたと監督自身は話し、実際に作品を観てみるとかなり実験精神を賭けたものだということは伝わってくる。

 邦画でテクノだけが流れるというのは思ったよりも妙な体験で、大雑把にいうと、音楽の役割として邦画は叙情性、洋画は叙事性が勝ると思っていたその通り、ジェフ・ミルズの曲は誰の内面に立つこともなく、登場人物の外側でしか鳴らないことがまずは異様な雰囲気をもたらした。音楽が叙事性に徹するというスタイルは洋画では慣れているはずなのに、邦画ではやはり体に馴染みが薄く(武満徹の記憶などはとうに失われている)、近年の邦画がいかに人の心を表す上で音楽を説明的に使っているかを思い知らされたともいえる。
 ただし、「音楽がジェフ・ミルズ」という先行情報が耳に入っているということは映画を観ている上で音楽だけを過剰に意識させてしまうところがあり、僕の中ではオープニングからしばらくはひとつの作品として一体化してくれなかった。大森監督は『まほろ駅前』の2作目もそうだったけれど、僕には1カットがやや長く感じられるところがあるので、なかなかストーリーに引き込まれず、余計に映像と音楽が分離してしまう傾向にあった。音楽が流れてから、ああ、そうか、ジェフ・ミルズだったと思い出すようになるのは中盤に入ってから。「家族」ということが意識されるシークエンスで3フェイズ“ダー・クラン・ダー・ファミリエ(der klang der familie)”をアレンジしたような曲が流れたりするのはさすがでしたけれど。テクノのことはよく知らないという人には、むしろどんな体験になるのか知りたい気も。

 物語は離島の学校から始まり、黒川信之と篠浦未喜(ともに14歳)は恋仲であるかのように示唆される。10歳の黒川輔(たすく)はいつも信之につきまとい、信之が灯台にコンドームを買いに行く時もしつこく付いてくる(コンドームを売ってくれる灯台守の役はなんと足立正生)。信之が未喜にデートをドタキャンされて山をぶらついていると、未喜が宿泊所の客とセックスをしているところに出くわしてしまう。未喜の「助けて」というひと言を聞いた信之は躊躇の末、レイプではないと弁明する男を殺し、輔は男の死体を写真に撮る。その後、島は地震に襲われ、ほとんどの島民は津波に呑み込まれてしまう。誰もがここで東日本大震災のことを思い浮かべるだろう。島の名前も美浜島と名付けられているので、余計にそのことは考えたくなる。そして、25年後。
 井浦新演じる黒川信之は市役所に勤め、妻と娘がいる。鬱屈として閉塞感に満ちた団地からすぐにも引っ越したがっている妻は真面目に話を聞いてくれない信之に腹を立て、浮気をしている。そして、瑛太演じる浮気相手が溶接工場で働いていると、同僚に「客」が来ていると紙を見せられ、表に出てみるとそこには黒川信之が立っていた。浮気相手の労働者は輔で、「島を出て以来だな」と再会を喜ぶ間もなく、輔は金目当てで信之の妻を誘惑していたことが暴露される。妻が浮気していることを同僚にバラされたら困るだろうと輔は脅迫するものの、金だったら直接、妻に言えと信之はその場をさっさと立ち去ってしまう。

 大森立嗣の作品はこれまでふたりの男を中心にすえた「ブロマンス」が多かった。むしろ、ほとんどがそれだった。『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』(10)では体目当てで接触したはずのカヨちゃんを男ふたりが高速道路のサービスエリアに置き去りにして爆笑し、ヒット作となった『まほろ駅前』シリーズ(11・14)でも探偵ふたりは仲がよく、元妻はやっかいな存在、『セトウツミ』(16)では男子高校生ふたりが土手で最初から最後までダベっているだけである。この世界に男がふたりいるだけで、どれだけ幸せかと訴え続けてきた監督なのである。大森立嗣とは。それが『光』では少し様相が異なってくる。25年ぶりに再会した信之と輔は島で育った頃の関係性を喪失し、いわゆる険悪なムードで話は進んでいく。これに名優・平田満演じる輔の父が絡んでくることで映画全体のムードはどんどん絶望的なものになり、長谷川京子演じる篠浦未喜がいまは芸能界で活躍する売れっ子だということがわかってくるあたりから、しばらくすると男ふたりではなく、ついに男と女の恋愛に大森監督は乗り換えたのかというストーリー展開になっていく。意外な男女の組み合わせを題材にした『さよなら渓谷』(13)ですでに乗り換えていたのかもしれないけれど。(ここからは完全にネタバレです。公開が楽しみな人は読まないように)。しかし、信之と輔の関係は後半に入っていくと、これまでになく複雑で凝ったものだということがわかってくる。思い出したくない過去を共有しているという意味で『まほろ駅前』の「啓介と春彦」にも多少の屈託はあったけれど、「ケンタとジュン」や「想と小吉」に比べて、「信之と輔」には助けてやりたいのか邪魔なのか、憎んでいるのか慕っているのか、単純には割り切れない感情がぶつかりあう場面が多々あり、男ふたりの関係を描くという意味ではいままでのものよりもはるかに凝った心理劇を見ている思いがあった。いわゆるセックス表現もなく、ゲイの紋切り型に陥るわけでもなく、ボーイズラヴの成熟した発展形になっているのではないかと。そういう意味では音楽はジェフ・ミルズとマイク・バンクスのふたりでやって欲しかったかもしれない(ウソ)。

『光』よりも一週間早く公開されるトム・フォードの新作『ノクターナル・アニマルズ』は女性に対する否定的感情が激し過ぎて僕にはゲイの嫌な面が印象に残った作品だった。『光』にもこれと重なるところがあり、信之と輔の関係性が濃密に描かれれば描かれるほど、篠浦未喜という女が貶められていくというのか、男性たちの純粋さに水を差した存在に見えてくる。ここまで書いてきたこととは裏腹に、本来、この作品で問われているのは「暴力」であり、その起源は女性にあり、女さえいなければ男たちは島という楽園でいまでも幸せに暮らしていたとまでは言わないけれど、女さえいなければこんなことにはならなかったと言いたげな映画にはなっている。実際には黒川輔は父による幼児虐待の犠牲者で、黒川信之は14歳で人を殺す。女が具体的に暴力を振るう場面は信之の妻が娘を張り飛ばすシーンだけで、この世にあふれる暴力はほとんどが男性の手によって引き起こされている事実に変わりはない。しかし、それは表面的にそうなっているというだけであって、男たちにそうさせているのは女なのだと訴えているようなのである。パンフレットを読むと、島を襲った津波は篠浦未喜にもその爪痕を残しているという設定になっている。とはいえ、そのことはあまり時間をかけて描写されていない。秘書が言葉で説明するだけである。それはあまりに簡単すぎる。篠浦未喜にはもう少し時間をかけても良かった気がする。

 この映画のもうひとつの主役は自然である。津波のように具体的に襲いかかるものでなくても、自然は常に人間にのしかかってくるものとして描写され、断片的なイメージが細かくインサートされる。真っ暗な木の祠や汚く汚れた花びらのアップ。自然を美しいものとして撮らなければいけないというルールがあるわけではないし、これはひとつの撮り方である。もっと突き詰めてもいいかもしれない。そして、このような自然描写は前にどこかで見たことがあるなと思った僕は、大森立嗣も役者として出演していた故・荒戸源次郎の傑作『赤目四十八瀧心中未遂』(03)のことを思い出した。小説を書くことに行き詰まった男とソープに売り飛ばされる運命の女が自殺の名所、三重県の赤目四十八滝に向かう話である。『光』にはあのクライマックスで描かれた滝の風景がどこかでこだましているのではないか。


Jordan Rakei - ele-king

 昨年デビュー・アルバム『クローク』を発表し、新世代のネオ・ソウル・アーティストと絶賛されたジョーダン・ラカイ。それから約1年ぶりのニュー・アルバム『ウォールフラワー』は、老舗の〈ニンジャ・チューン〉からのリリースとなった。エレクトロニック・ミュージック主体の〈ニンジャ・チューン〉にとって、彼のようなシンガー・ソングライター系は珍しいタイプでもあり、レーベルが新たな方向性を摸索していることの表われかもしれない。現在はロンドンを拠点に活動するジョーダン・ラカイだが、出身地はオーストラリアで(もともとはニュージーランド生まれだが、幼い頃にオーストラリアのブリスベンへ移住している)、音楽学校を卒業した19歳のときに処女作のEP「フランクリンズ・ルーム」(2013年)をbandcamp経由でリリース。ネオ・ソウル系ナンバーに加えてレゲエもやっており、ニュージーランドのファット・フレディーズ・ドロップやブラック・シーズ/ロード・エコーなどが持つ、ソウルとレゲエのミックス感覚の影響を感じさせるものだった。第2弾EP「コラード・グリーンズ」(2014年)はヒップホップ/R&B寄りの作風で、エレピなどインストゥルメンタル演奏はジャジーに洗練されていく。このEPはネットなどでも大きな評判を呼び、より本格的な制作活動を求めてラカイはロンドンへ移住する。

 ロンドンでの活動開始直後の2015年、ディスクロージャーの『カラカル』へ参加して“マスターピース”を歌い、彼の名前は一躍世界中に広まる。ジャイルス・ピーターソン主宰の「ワールドワイド・フェスティバル」への参加や、トム・ミッシュ、Ta-kuの作品への客演に加え、ダン・カイという変名で〈リズム・セクション・インターナショナル〉からハウス作品を出すなど、トラックメイカーとしての才能も開花させる彼だが、そんな多彩な活動を経て発表したのが『クローク』だった。ジャズ・ドラマーのリチャード・スペイヴンほか、多数のミュージシャンが参加したバンド形式の演奏によるもので、ソウルを軸にジャズ、ヒップホップ、AORなどの要素を織り交ぜ、ディアンジェロからジェイムス・ブレイクに通じるようなムードの作品までが生み出された。ラカイ自身は、アルバム制作にあたってリズムにもっとも配慮したそうで、ジャズのシャッフル・ビートからハウス、ポスト・ダブステップ系と多彩なリズムを駆使し、それが単なるネオ・ソウルの枠には収まらないラカイの奥深い個性にも繋がっていたと思う。ラカイの歌はどちらかと言えば淡々としてクールなもので、作る楽曲も複雑なメロディやコードを持ち、物憂げで陰りを感じさせるものが多い。シンガー・ソングライターという部分で見た場合、彼が影響を受けたミュージシャンのひとりに上げるニック・ハキムや、ライのミロシュやジェイミー・ウーンなどが近いタイプに感じる。

 今年に入ってからもリチャード・スペイヴンの『ザ・セルフ』、ノア・スリーの『アザーランド』といったアルバムにもフィーチャーされ、そうした中で発表された新作『ウォールフラワー』は、『クローク』の世界観がより内省的な方向へ向かっていることを伺わせる。『クローク』においてもパーソナルな部分を反映した歌詞の世界を大切にしていたラカイだが、それがより強まったシンガー・ソングライター作品と言える。アルバムにはアルファ・ミスト、ジム・マクレエなど前作から引き続いてのメンバーほか、ジ・インヴィジブルのデイヴ・オクム、ユナイテッド・ヴァイブレーションズのアーマッド・デイズやウェイン・フランシス2世らが参加し、さらに充実した演奏内容となっている。そうしたバンド・スタイルの作品がある一方で、ほぼひとりで作り上げた“メイ”や“ハイディング・プレイス”、新進女性シンガー・ソングライターのカヤ・トーマス=ダイクとデュエットしたフォーキーな表題曲では、ラカイが持つディープで繊細な感性が浮かび上がる。クールに綴っていく中で、ラカイには珍しくサビでは切々と歌いかける“カーネーション”と共に、サンファの『プロセス』にも通じるようなナンバーである。

 先行シングル・カットされた“ソーサレス”は、ジム・マクレエのシンコペーションの効いたドラムと、全体的にエフェクトを掛けた音像が幻想的なムードを生み出すソウル・ナンバー。“ケミカル・コインシデンス”もサイケデリックでスペイシーな質感の音響、テンポ・アップしながら終わるというトリッキーさを持つ。一見すると正統的なソウルであっても、こうした微妙な実験性や屈折感を織り交ぜていくあたりは、ピンク・フロイド、フランク・ザッパ、レディオヘッドなども好きだというラカイならではだ。フォーキーで穏やかな序盤から、ミステリアスでトリッピーな世界へと展開する“アイ・トゥ・アイ”も同様で、ニック・ハキムの『グリーン・ツインズ』のトリップ感覚に繋がるところもある。“ソーサレス”に続くシングル曲の“ナーヴ”は、比較的オーソドックスなソウル・マナーに基づくメロディを持ち、哀愁に満ちたムードをストリングスが彩る。“ルシッド”も哀愁に満ちた1曲で、こちらはハンド・クラップとアコースティック・ギターを交えてスパニッシュ風のムードを作り出す。“グッドバイズ”はマーヴィン・ゲイ&リオン・ウェア路線の夜の匂いに包まれたメロウ・チューン。AORの影響も感じさせ、アルバム中でもっともアーバンなナンバーである。逆に“クルーズ・ブルース”はレゲエの影響を感じさせるダビーなナンバーで、初期の『フランクリンズ・ルーム』の頃に戻ったようなところが見られる。アルバム通してみると、もはや「新世代のネオ・ソウル・アーティスト」といった形容はそぐわないだろう。実験的な試みも交えて、ラカイのオルタナティヴな個性が表われたシンガー・ソングライター・アルバムである。

思い出野郎Aチーム - ele-king

 いかにこの夜を楽しむか? 彼らにとってその問いは、「いかに人生を善く生きるか」と同じなのかもしれない。生き急ぐ男たちにもたらされる、ナイト・ライフの祝福。7人組のソウル・ファンク・バンド、思い出野郎Aチームの2ndアルバム『夜のすべて』は、ダンスフロアへの敬虔な信仰にあふれている。

 思い出野郎Aチームは2009年の夏、多摩美術大学の仲間たちで結成された。大学卒業後はそれぞれが働きながら多数のライヴやフェスをこなし、2012年には新人アーティストの登竜門とも呼べるFUJI ROCK FESTIVALのルーキー・ア・ゴー・ゴーに出演。2015年には1stアルバム『WEEKEND SOUL BAND』をリリースした。Ovallのmabanuaプロデュースによる洗練された音の中に泥臭さが残るサウンドで、限られた週末を音楽に捧げる生活への焦燥と愛しさをシャウトに滲ませる。まだ自分たちにもはっきりと掴みきれていないようなバンドの美学を必死に貫こうとしているような、情けなさと気高さが混在する1枚だった。
 『WEEKEND SOUL BAND』が彼らの日々全体のサウンドトラックだったとすれば、2年半ぶりにリリースされた今作『夜のすべて』の舞台は週末のダンスフロアとその周辺だ。終わらない仕事を切り上げた金曜の夜から、再び満員電車に乗って職場へ向かう月曜日の朝までのストーリー。やけのはら、VIDEOTAPE MUSICら多彩なゲストを迎え音楽的にも幅広かった前作に対し、今作はソウル~ファンクで全体を統一し、メンバーのみで作り上げたことで、物語としての没入感を高めている。

 彼らは夜を謳歌する。それが限られていて、人生のすべてではないことを知っているからだ。タイトルトラック“夜のすべて”でヴォーカル・高橋一がしゃがれた声で繰り返す「スゲー自由 朝まで」というフレーズは、自由じゃない時間を予感させるし、昼夜が逆転していく様子を歌ったメロウ・ナンバー“生活リズム”は、規則正しさから逸脱する甘やかな背徳感が最大のスパイスになっている。退屈な毎日は続く。だけど、今だけはそこから逃れられる。有限の逃避行が生み出すのは、ベッドルームにはないグルーヴとドラマだ。だから美しいスウィート・ソウル“ダンスに間に合う”では、手遅れなことで溢れた世界を憂いながら、音楽が鳴り続けているフロアに希望を託す。

 そしてフロアを見渡せば、同じような切実さを抱えた隣人が踊っている。このところ、CM起用されたモデルに人種差別的な誹謗中傷が飛び交ったり、偏見を助長する前時代的なキャラクターをテレビ局が突如復活させたり、本当にうんざりする話ばかり耳にした。そんな中で、思い出野郎Aチームの音楽はダンスフロアを現実に対するシェルターにする。

君が誰でも良いぜ
スポットライトに照らされて
僕らの肌はまだら模様
話す言葉は歌に溶けて
聞いたことのないラブソング
信仰よりもコード進行
右左よりも天井のミラーボール “フラットなフロア”

 ここでは国籍も、人種も、信仰も関係なく、スポットライトに照らされた人々の肌が同じまだら模様に染まる。かつて黒人やゲイたちの解放運動へと結びついたナイトクラブの歴史が、2017年の日本と接続されるように。フロアの亡霊の力を借りて、踊りながら拳を握りしめる。

 抑圧された日常からの解放。その時間はあっという間に過ぎていく。週末のあっけなさを象徴するかのように、アルバムは明るいラウンジ・ファンク調の“月曜日”を最後にたったの42分で終わってしまう。
 10月1日にWWWで行われた彼ら初のワンマン・ライヴでも、高橋は翌日が月曜日であることを嘆いたあとにこの曲をプレイしていた。その嘆きは観客の多くに親しみを感じさせただろうし、バンド・メンバーが働きながら音楽を続けていることは、このアルバムの物語に大きな説得力を与えているだろう。彼らが「週末はソウルバンド」な生活をこれからもずっと続けていくかはわからないが、バンドが着実に成長を遂げていく中で、『夜のすべて』が今の彼らのリアリティを昇華させた1枚であることは間違いない。

 息継ぎのような夜が終われば、再び遠泳のような一週間がはじまる。退屈で、理解しがたいラベリングに溢れ、これがすべてと言い表せない複雑な日常を、どうにかまたやり過ごす。だけどどんなにひどい時代でも、生き抜く人のために輝く時間があり、諦めなければ必ずそれに間に合う。そして遊び疲れた明け方にミラーボールから放たれた光線は、重たいドアの隙間から漏れ出て太陽の光と溶け合い、この日常の中をたしかに照らしているのだ。

Lana Del Rey - ele-king

 行ったことがないので伝聞でしかないのだけれど、西海岸で最大規模のフェスティヴァルである〈コーチェラ〉はもはやセレブ御用達の一大産業になってしまっているという。音楽産業にとってフェスが重要な収益場となっている以上避けられないことだろうが、もしセレブリティがインスタグラムにセルフィーをアップするためのイヴェントになっているのだとしたら、音楽フェスティヴァルがかつて目指していたのであろう……目指していたのかもしれない……愛と平和の精神はもはや死に体だということだ。
 が、現在のセレブリティ・カルチャー/アメリカのエンターテインメント産業のある部分を強烈に象徴するラナ・デル・レイは、“Coachella - Woodstock In My Mind”で、そのタイトル通りに現在のコーチェラと1969年のアイコニックな愛の夏を接続してしまう。ウッドストック・イン・マイ・マインド……彼女はこれまでも粒子の粗い映像のMVとサウンド、そしてヴィジュアルで古き良きアメリカを回顧していたが、これまでとどうやら少しばかり様子が違う。はためく星条旗ではなく、ドラッグと音楽に酔いしれる群衆を引っ張り出す。そして愛を……“Coachella - Woodstock In My Mind”で彼女は壊れた世界と次世代について想いを巡らす。それが本気かどうかはこの際どうでもいい。事実として、オーディエンスとともに過ごしたコーチェラからの帰り道(彼女は出演者ではなくオーディンスとして参加している)、ラナ・デル・レイというポップ・アイコンは60年代末の夢を幻視したのだ。

 そもそも、アルバム最初4小節のイントロを聴くだけでコンセプトが60年代であることがわかる。1963年辺りのフィル・スペクターを彷彿とさせるビートと響きで彼女が歌うのはまさに“Love”だ。続く“Lust For Life”では60年代のガール・ポップスのシングルのようなコーラスを、ウィークエンドとデュエットしながら2010年代型R&B(「ジェイムス・ブレイク以降」)と溶け合わせる。「服を脱いで、あなたの服を脱がして」……スロウなテンポで交わされる情動の歌のタイトルは、「生への渇望」。それはたしかにアメリカのノスタルジーとして召喚されているが、あの変革のディケイドを――もちろん彼女にとっても我々にとっても伝聞でしかないのだけれど――何らかのエネルギーに変換しているようなのである。
 これをファースト・アルバム『死ぬために生まれた』と対比させる向きもあるようだが、しかしながら、正直僕には彼女がここで急にポジティヴなパワーを発揮し始めたようには思えない。続く3曲め、“13 Beaches”で「まだあなたを愛しているの」と懇願するように繰り返す声には、どうしたって男に虐げられる女の姿を思い浮かべずにはいられない。何かの呪いのようにダウナーに引き伸ばされた“Cherry”のプロダクション。トラップ以降のサウンドを意識し、エイサップ・ロッキーとプレイボーイ・カルティを迎えた“Summer Bummer”でのあの世から発せられるような歌。ラナ・デル・レイはいまでも死と退廃を纏うアイコンだし、そういう意味で本作はそうした彼女のイメージを引き受けている部分も多い。自殺を促したとしてキム・ゴードンに「陳腐」と批判されてこそ彼女の不道徳は際立つし、仄暗い光を放ってしまう。聴く者の生気を奪うかのように甘美なハスキー・ヴォイスの魅力に取り憑かれた者であれば、『ラスト・フォー・ライフ』もまた耽溺の歌曲集だろう。レトロへのノスタルジーとモダンなアプローチが入り混じったプロダクションは、マックス・マーティンやリック・ノウルズといった超メインストリームのアーティストを手がけてきたプロデューサーによるこなれたものだったとしても、見事と言う他ない。本人も周りの人間も、偶像としてのラナ・デル・レイに何が求められているかよくわかっている。

 だが、先述の“Coachella”を経ての中盤、少なくとも言葉の上では『ラスト・フォー・ライフ』は「わたしたち」の生を祝福しているようなのである。続く曲は“God Bless America - And All The Beautiful Women In It”、そして極めつけは“When The World Was At War We Kept Dancing”だ。「アメリカとすべての美しい女たちに祝福あれ」、「戦時下でわたしたちは踊り続けた」……それが50年前の邪気のなさを思い出しているのは明らかだが、と同時に、スピリチュアルに愛と平和を謳うことが21世紀に有効ではないことを彼女は当然わかっているはずだ。それを証明するように、音はデカダンな装飾を脱さない。嘘のように透き通ったファルセットと、余韻たっぷりに響くストリングスとエレクトロニクス。ショーン・オノ・レノンとデュエットを取るアコースティック・ギターのバラッド“Tomorrow Never Came”では抜け抜けとビートルズ~ジョン・レノンのサイケデリアを引用し、スティーヴィー・ニックスと歌う“Beautiful People Beautiful Problems”では気だるげに地球規模での美を歌う。虚像としての美しきアメリカ、退廃としての60年代。アルバムのベスト・トラックのひとつ、“Groupie Love”では20世紀のグルーピー・カルチャーの亡霊が愛らしく戯れているようだ。
 その分裂こそがこのアルバムの面白さで、ジャニス・ジョプリンが死んだ27歳をとっくに過ぎ、サターン・リターンも終えたラナ・デル・レイ、いや、エリザベス・グラントがこれからどの方向へ行くのかが読めないものとなっている。そもそも、デビュー時の彼女を見て多くのひとはここまでキャリアが続くことなど予想していなかったのではないか。だから、わたしたちはとりあえず彼女が演じる偽物の60年代にいまは酔いしれていればいい。それが完全に忘れ去られる前に。

Norhern Soul - ele-king

 個人的には今年のベスト映画はこれ。『ノーザン・ソウル』。本国イギリスでは2014年の上映だが、有志による日本語字幕付きのほとんど自主上映の形で、「ほぼ丸ごと未公開!傑作だらけの合同上映会」(https://nbsff2017.wixsite.com/nbsff2017)の1本として上映される。

 簡単に言おう。『さらば青春の光』『ビギナーズ』『トレインスポッティング』『24アワー・パーティ・ピープル』『THIS IS ENGLAND』──以上のなかから2つ以上好きな映画がある人は必見である。
 さて、ノーザン・ソウルとは何であるか。今日のダンス・カルチャーには3つの源流がある。1.DJのミックス技術を生み、発展させたNYのディスコ・カルチャー。2. オリジナルを何度も何度も再構築するヴァージョン文化を生んだジャマイカのサウンドシステム。そして3つめが、「レア盤」文化を促し、レイヴ・カルチャーの青写真となったひと晩限りのアンダーグラウンド・ダンス・パーティを醸成させたUKのノーザン・ソウル、である。
 音楽産業とは隔離された、イギリス北部の工場で働く労働者階級を中心に盛り上がったノーザン・ソウルのシーンは、長いあいだミステリーでもあった。ノーザン・ソウルの「ノーザン」とは、音楽が作られた場所ではなく、その音楽が人気だった場所を指す。ノーザン・ソウルとは完璧にリスナーの文化である。しかもそれがロンドンではなく、シェフィールドとかブラックプールのような、パっとしない地方都市のリスナー文化であり、労働者階級による自発的なパーティ文化だった。音楽メディアも手が及ばない。

 映画『ノーザン・ソウル』でぼくたちは音楽史最大の謎のひとつをようやく知ることになる。ストーン・ローゼズの“アイ・アム・リザレクション”がモータウンのビートであった理由もね。英国アカデミー賞のデビュー賞にもノミネートされたこの映画、物語も音楽もファッションも最高だが、ひとつだけ気をつけなければいけないのは、この映画を見終わったあとではスリムのデニムなんて履けなくなること。
 それにしても、この映画を情熱だけで日本上映までもっていったスタッフの方々には頭が下がる。そのアティチュードもまさにノーザン・ソウル。いまのところたった1回の上映だが、はっきり言って最低3回は観たい映画だ。

※上映日時は、12月2日(土) 14時30分~会場はユーロライブ(https://eurolive.jp/

ザ・サークル - ele-king

 産業革命以降、二酸化炭素の排出量が増えたとされるように、このところ「書き言葉」の量も飛躍的に増えた気がしてならない。ちょっとスマホを見るだけでも同じ内容の案件が繰り返し書き込まれていて「書き言葉」は放射能のように漏れ出してくる(この文章も「書き言葉」だし)。「書き言葉」の歴史はわずか5000年である。人類は鉄道がなかった時代(たかだか200年ぐらい前)にも戻ることはできないだろうけれど、「書き言葉」がなかった時代までリセットすることも不可能だろう。それ自体はいい。つい最近まで代書屋という職業があったぐらいで、文字が書けなかった人の方が多かった時期よりも、いまはきっと何かが良くなっていると思いたいし(一方で日本の識字率は下がりつつあるらしい)。しかし、それにしても文字量が多過ぎる。ここまで何もかも文字にする必要があるのだろうか。人類にとって適正な食物の量というものがあるならば、「書き言葉」にも同じく適正の量が想定されてもいいような気がしないではない。「書き言葉」が増えに増えて、そして、二酸化炭素がオゾン層を破壊したとされるように、いつしか過剰な「書き言葉」も人類の何かを破壊したりはしないだろうか(J・G・バラードなら、ここで言語掃除機を取り出すか)。
「書き言葉」が飛躍的に増えたと感じたのはSNSの影響が大きい。単に体感でそう思っているだけなので、本当かどうかはわからない。100万部に近いベストセラーが立て続けに出たりして出版不況などという言葉がなかった時代の方が印刷された文字数自体は多かったりするのかもしれない。人の目にはふれない日記というものもあっただろう(いまもあるか)。そんなことはSNSの監視に余念がないCIAあたりが毎年の文字量をカウントでもしてくれない限りわからない。SNSが増やしたのは明らかに発信する人の数だから、「多過ぎる」と感じるのは、「書き言葉」そのものよりも、どこに向かって放たれてるのかわからない「書き言葉」のあり方が乱雑すぎて過剰に感じられるというだけのことかもしれないし。もう、ぜんぜんわからない。キングコング西野に至っては文字数を単位とした仮想通貨「レターポット」などという新たな信用経済の構想をぶち上げてくるし。うがー。

 巨大SNSを扱った映画だというので『ザ・サークル』に興味を持った。しかし、結論から言うとSNSがテーマの作品というよりは、SNS批判がトレンド化している現在にあって、その危険性を面白がるエンターテインメント作品であった。文字量=人数という捉え方でSNSを把握し、数の暴力に作品のテーマは絞られている。集合無意識は必ずしも善ならずというような。
 主演はエマ・ワトソン。普段からファンとセルフィーは撮らないと公言し、ツイッターで「HeForShe」や「FemnistBookClub」を呼びかけたり、地下鉄を舞台に様々なアクティヴィストぶりを発揮する彼女がSNSを批判する役回りというのはあまりに……あまりに整合性があり過ぎる。一方、SNS企業のトップにいて悪役を務めるのはトム・ハンクス。メールのやり取りに慰めを見出していた相手が実はビジネス上の敵だったという『ユー・ガット・メール』(98)の役柄がそのまま肥大化し、スケール・アップした感じ。エマ・ワトソン演じるメイ・ホランドは苦情処理の仕事から巨大IT企業、ザ・サークルへ転職を果たす。ツイッターとかフェイスブックがぐちゃぐちゃに混ざったようなアカウント・サーヴィスを提供するザ・サークルが新たに提供しようとするのは小型の監視カメラで、目的はリベラルな政治活動を支援すること。これにホランド自身が命を救われることになり、ホランドは以後、自分自身に監視カメラをつけて行動し、24時間、自分の生活を実況放送することになる。ところがホランドと一緒にいると自分のプライヴァシーまで奪われると感じた親や幼馴染はみな彼女と距離を置くようになり、SNS上のフォロワー以外、彼女はあらゆる人間関係を失ってしまう。そこに小型カメラに託された真の目的を探っている活動家が現れて……。

 すぐに思い出したのは『エドTV』(99)である。マシュー・マコノヒー演じるエド・ペカーニは24時間、自分の生活をケーブルTVで放送し続ける。彼は自分のすべてを誰かに観られることが楽しくてしょうがなく、やることなすこと過剰になっていく。要するにリアリティTVのパロディである。ストーリーの大筋は『エドTV』も『ザ・サークル』も大して変わらない。個人情報をさらけ出せば出すほどいいことがあるとしても、それによって失われるものを秤にかけた時点で話の流れは変わっていく。たとえば自らの身体情報をさらけ出しておくことで早期に病気が見つかるとしても、それでも知られたくないことはあるというようなことが話の潮目になる。そうした倫理観は2作とも同じだった。しかし、無名の一般人が多くの人に注目されたいという欲望を持っていることを暴き出した『エドTV』と、公共の利益をたてに個人情報を流出させようとする『ザ・サークル』では欲望の主体がまったく逆である。ここに政治家に期待される「透明性」だとか、様々な理屈が『ザ・サークル』では積み上げられていく。あなたの個人情報はあなたにはうまく管理できないから国が管理してあげた方がいいでしょうということになる(実際にイギリスではビッグ・データから個人の寿命を割り出せるので、あなたは○○歳で死ぬから年金はいくら納めて下さいという制度にすることも可能だけど……その方が平等なので……でも、さすがにそれはやらないんだとか)。話はそこまで急進的にはならないけれど、アメリカでは親が子どもを育てられないと判断すればソーシャル・ワーカーが親から子どもを取り上げてしまうように、個人から個人情報を取り上げていくような未来が待っていると『ザ・サークル』は示唆する。物語はそのようなことになったら怖いでしょうというSNS批判のトレンドにのって収束し始める。奇しくもいまアメリカではハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ騒ぎが引き金となって#WomenBoycottTwitterが巻き起こっている最中である。そう、SNSはよっぽど社会全体の負担になっていたのだろう。それも峠を越したから、こうしてエンターテイメント化され、スリラー映画として楽しめるのである(怖いという意味では同じエマ・ワトソン主演の政治劇『コロニア』はまったく別種の怖さだった)。

 SNSが個人情報を流出させるという危惧(「いいね!」のプロファイラーという職業もあるらしい)というのはいまは完全に反転してしまい、たとえば芸能人たちがTVで見せる「プライヴァシー公開芸」のようなポテンシャルにすり替わってしまった(気がつくと視聴者は誰かと誰かが飲みに行ったという話を延々と聞かされているだけだったりする)。80年代ならば「それ以上はプライヴェートなので」といってお笑い芸人でさえも口を閉ざすことができた領域をビジネス・チャンスと捉え、すべてをさらけ出しているフリをするのである。芸能人をやっているその人に共感するとか、消費者から見た対象の位置が変わっている現在、プライヴェートがどのようなものであるかを想像させることができない芸能人はもはや売れないのだろう。これはいわばリアリティTVの常態化であり、差し出すものがあるから得るものがあるという構造をどうコントロールするかにその人のセンスがかかっているといえる。こういった仕組みを批判的に捉えたのが『容疑者、ホアキン・フェニックス』(10)で、同作は俳優のホアキン・フェニックスがラッパーに転じるというフェイク・ニュースを流し、プライヴェートを捏造しきったモキュメンタリー作品だった。それと同じことを、もっと薄く、現在の芸能人たちはやっている。改めて思うのは、人々は、では、何を買っているのだろうということだけれど、物語の消費欲求は『ザ・サークル』ぐらいでは止めようがないことだけは確かである。

 もうひとつ気になったこと。グーグルの宣伝映画でしかなかった『インターンシップ』(13)もそうだったけれど、『ザ・サークル』も現在のサンフランシスコを過剰にユートピアのようなところとして描く傾向がある。メイ・ホランドが転職してきてすぐに会社の中を案内され、しばらく歩いていると中庭で本物のベックがコンサートをやっていたりと、どこもかしこもサブカルチャーの天国かと思うような仕様なのである。実際にそういった面もあるのだろう。しかし、現実にはアマゾンなどに多くの社員が勤め出したことにより、地元の交通状況は混乱の一途を増している上に、全米からホームレスが集まってきたためにカリフォルニア州には2年前から非常事態宣言が出されている(アマゾンは社屋のひとつをホームレスに開放している)。60年代にヒッピーが集まってきた時もサンフランシスコの住民はいい迷惑だったかもしれないけれど、似たような歪みがあることはまったく触れられていない。それなりにIT企業を主役として描いているわけだから、ユートピア性ばかりでなく、少し引いた視点も織り交ぜてくれないかなあと思うばかりである。

 ちなみに『エドTV』は、その前年に公開された『トゥルーマン・ショー』(98)に対するブラック・アンサーと評された作品だった。同じようにリアリティTVから発想したとしても、自分の人生が世界中の人に視聴されていることを知らずに暮らしている『トゥルーマン・ショー』はどちらかというと「自分は神に見られている」という宗教的な観点を持った作品で、その主題は当時から統合失調症を予感させるものであった。そういう意味では『トゥルーマン・ショー』に対してアンサーを返した作品は『エドTV』ではなく、僕はウィル・フェレルが珍しくシリアスな演技に徹した『主人公は僕だった』(06)だったと思う。『エドTV』は『ザ・サークル』との対比でようやく現代性を発揮できるようになったのではないかと。


Cornelius - ele-king

 最近、20年ぶりにele-kingに寄稿している大久保祐子がコーネリアスの応援サイト、「コーネリアスのファンのすべて」を立ち上げたことはお気づきだろうか? 
 先日同サイトでは、「コーネリアスについて話す会」というとにかくファン同士で喋り合うという企画に続いて、「コーネリアスについてのアンケート」を実施。果たしてコーネリアスの一般的なファン像とは……『Mellow Waves』でもっとも人気のある曲とは? そしてあなたがいるならの「あなた」とは誰だと思いますか?
 ※もし調査結果にご不満なファンがいたら、ぜひアンケートに答えて異見を表明してください~~

密偵 - ele-king

 ヴァイオレンス映画やホラー映画が専門なのかと思っていたキム・ジウン監督の新作は日本統治時代の大韓帝国を扱った抗日アクション映画。エンターテインメントであることは外していないものの、これまで緻密に描きこんできたテンションや恐怖感とはどこか焦点が異なっている。拷問シーンなどもあっさりとしたもので、これが残虐極まりない『悪魔を見た』(10)と同じ監督なのかと思うほど。アクション映画とは書いたものの、これもくどいほどヤクザ同士が殺し合う『甘い人生』(05)に比べれば非常に淡白で、そもそも血がそんなにほとばしらない。爆破シーンもカメラは引きになってしまう。抑えたものである。「反日」を強く印象づけているとも思えず、日本人が為政者としてわざとらしく振舞っているシーンも皆無。刑務局のトップを演じているのは鶴見辰吾で、これはけっこう冷酷な役ではあるけれど、日本ではもっと冷酷な役を鶴見は演じまくっている。そう思うと単なるナイス・キャスティングである。では、どこにパワーを振り向けているのか。

 この夏、韓国で公開された『軍艦島』が日本のTVニュースなどでも話題になった。日本統治時代に長崎の軍艦島で朝鮮人たちが強制労働に就かせられ、脱出を試みるというエンターテインメント映画だそうである。観ていないのでなんともいえないけれど(つーか、日本では公開されない?)、どうも韓国通らしき人のブログなどを読むと大韓帝国における「親日派」の表現に違和感があるらしい。日本がどうこういう前に日本に尻尾を振っていた同胞にすっきりしないものがあり、日韓両国でメディアが大騒ぎしたほどの映画ではないというのである。詳細はやはり観てみないことにはわからない。しかし、キム・ジウンが『密偵』で力を入れていたテーマが、そう、これと同じだった。「親日派」をどう描くか。『軍艦島』を観てからつくるのは時間的に無理なので、まったくの偶然なんだろう。監督自身は現在の北朝鮮と大韓民国に分かれてしまう前の大韓帝国について考えてみたかったということもあるらしい(日本による占領時代を舞台設定とした作品はこの2~3年だけでも『暗殺』や『お嬢さん』などけっこうな数がある)。

 オープニングで刑事イ・ジョンチュル(ソン・ガンホ)は日本からの独立運動を進める義烈団(ウィヨルダン)のメンバーを追い詰める(義烈団は実在した組織で、作中で行われる爆破事件はすべて史実)。イは朝鮮総督府の刑務局部長ヒガシ(鶴見辰吾)の命令で義烈団の全貌を探り、ハシモト(オム・テグ)もその捜査に加われと命じられる。義烈団の団長チョン・チェサン(イ・ビョンホン)はイを味方に引き込もうと画策し、二人は共に酒を酌み交わすことになる。大韓帝国にとどまることが難しくなった義烈団はいったん上海に逃れ、爆弾を大量に入手して、再び、京城へと引き返す。列車に乗り込んだ彼らはメンバーのなかにハシモトの密偵が潜んでいることを知らされ、発車寸前に乗り込んだイやハシモトらと車中で攻防戦が繰り広げられることに。


 韓国系といえば『スノーピアサー』(14)や『新感染』(16)など走行中の列車のなかで登場人物たちが活劇状態に突入するというヒット作が続くのは偶然なんだろうか。狭い空間には経済的に厳しくなってきた韓国の閉塞感が投影され、パニックに陥ることが幻視されているのだろうか。『密偵』で興味を引いたのは、そうしたパニックは適度に回避され、登場人物たちが空いている席にスッと座ることで何度も危機を切り抜けることである。それだけ空席があり、余裕があることを示すことで全体は落ち着くことができる。まるで「親日派」について考えることもそうした余裕から生まれると同作は示唆しているような気がしないでもなかったけれど、警察が待ち受けている京城に着くと、結局はパニック状態を招き、独立運動は頓挫したかに見える。「親日派」の心が深く揺れ出すのはここからである。誰もが初めから抗日の活動家などではなく、占領下にあってはもっと弱い人間だったのではないかという問いが後半のストーリーをドライヴさせていく。韓国では『軍艦島』よりも『密偵』の方がヒットしたそうなので、エンターテインメント以上の問題意識がここでは評価されたと見ていいのかもしれない(反米を強く打ち出した『シン・ゴジラ』とは逆パターン?)。

 ソン・ガンホが演じたイ・ジョンチュルはまったく表情が読めない。「密偵」というのはダブル・ミーニングでもあり、イがどこで何を感じ、どう思ったかは観客次第だし、その解釈によって「密偵」が意味する範囲も変わってくる。ソン・ガンホの演技は、そうした解釈の幅を主人公の「心の揺れ」として感じさせるところが素晴らしい。角度によっては毒蝮三太夫に見えてしょうがない人だけれど、やはり『シュリ』(99)や『殺人の追憶』(03)といった名作に起用され続けてきただけのことはある。また、僕が役者として見飽きなかったのはハシモト役のオム・テグ。日本人を演じているのはやはり無理があったとはいえ、こまわり君を思わせるメイクのせいもあって、その風貌だけで遠くまで持って行かれてしまった。すでに彼を指してオムファタールなどというフレーズまで生まれているらしい(内輪受けですいませんが「倉本諒が真面目な役者としてデビューしたら、こんな感じになりそう」とか言いたい)。

 日本の占領時代といっても舞台の大半は20年代に集中していた。セットによって再現された京城の景観は高貴な佇まいを示し、西欧的なモードとも巧みに折り合った独自の豊かさを感じさせた。『グエムル』(06)や『息もできない』(08)で見慣れた現代の景色とはまったく異なる雰囲気であり、戦後に続いた軍事政権とはもちろん異なっている。この時代を描き出す目的は日本に占領されていたことを思い出すための記憶装置としてだけでなく、日本でいえばバブル回顧のような側面もあるのかなあと。1997年と2008年に2度も通貨危機を経験した韓国は現在、またしても構造危機に陥っているとされ、恋愛や結婚、出産を諦めた若い「三放世代」がさらに仕事や家、夢や人間関係も諦めた「七放世代」に膨れ上がり、すべてを諦めた「n放世代」にまで発展しているらしい。現在の韓国で義烈団がどのように振り返られているのかはわからないけれど、テロリズムを肯定した『密偵』は様々な意味でガス抜きの効果も備えているのかもしれない。

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