Home > Reviews > Film Reviews > gifted/ギフテッド
泣いた。普通に泣いた。権力者たちにとって、古くは「気をつけた方がいい」とされてきた「頭がいい貧乏人の子ども」は、いまでは「国家のために役立つもの」とされ、存在意義があることにシフト・チェンジしている。ネオ・リベラルは子どもの脳もある種のレアメタルと見なし、早いうちに摘み取っておくものから早いうちに大事にするものに昇格し、どこの国でも天才児狩りのような様相を呈している。それこそ頭が良いか悪いかだけでなく、特殊能力を持つ子ども全般に話を広げると、雑誌などの天才児特集はまるでサーカスかイリュージョンを見ているような気分になるし、低年齢化が進むフィギュア・スケートの選手なんて、メンタルとフィジカルがあまりに釣り合っていなくて、いつのまに日本は旧ソ連みたいなマン-マシーンを生み出す国になっていたのだろうと歴史観すらおかしくなってくる。人類というのは、全体としては一体何がやりたいのかというか。
特別な才能があるのなら、それを伸ばせるに越したことはない。本人だってどこかに埋もれているよりは幸せだろう。だけど、才能が頭角を表すまで待っていられないという焦燥感だったり、幼少期にまで管理の網の目が張り巡らされている感覚は微妙に受けつけがたい。資源にも製造業にも頼れなければ「頭脳国家シンガポール」という国家のあり方しかないのかもしれない。勉強のできる子どもが金にしか見えなくなっている親もそこら中にいるだろう。地下鉄サリン事件が起きた際、TVの報道番組で自分の教え子がオウム真理教に入信していたことを受けて、日本の物理学がこの先、どうなるかを心配していた人がいた。そう、教え子本人の精神状態とか健康のことはまったく心配しないのかなと、僕はその研究者の冷たさに恐れ入るしかなかった。
7歳で天才的な数学の才能を見せた女の子の話。タイトルの「ギフテッド」というのは天から「贈られた」才能を示す修飾表現が暗喩に転じたクリシェのようで、マッケナ・グレイス演じるメアリーが「ギフテッド」そのものにあたる。メアリーは叔父のフランクとふたり暮らし。これまで『キャプテン・アメリカ』や『アヴェンジャー』といったアクション・シリーズが専門だったクリス・エヴァンスがフランクを演じ、感情のパレットを端から端まで使い切るような新境地を見せている。ここにひとつ意外性が仕掛けられ、フランクがメアリーの「数学」に対して、情緒とか感情のような位置に配置されるのかと思ったら、フランクがメアリーを叱る時は必ず論理的にメアリーを説得し、「ダメといったらダメ」とか「大人の言うことを聞け」といったような過剰に権威的だったり、理屈になっていない叱り方は一回もしなかったことが重要である。メアリーには数学の素質があるという前提で話は進められていくものの、メアリーの数学脳を日常的に鍛えているのは、実はフランクなのである。フランクを含め周囲の誰もがそのことには気づいていない。しかも、このふたりのやりとりが実に面白い。フランクが繰り返すのは何度も話し合ったじゃないかというセリフで、そのすべてを聞きたかったと思うほど、ふたりによる言葉のパスは絶妙だった。冒頭から「スペシャルな朝食だといったのに」とメアリーが怒ればフランクは「スペシャル・ケロッグ」という商品の文字を見せる。メアリーは最初のうちこそフランクに言い返すことができないものの、それが少しずつ対等に近づいていく。
一方でメアリーの数学脳をもっと伸ばそうとするメアリーの祖母とフランクは裁判所で養育権を争うことになる。ここにもうひとつの論理合戦が始まる。このプロセスも数式の証明のような展開を辿り、途中でメアリーに大きな打撃を与える事実が浮かび上がってしまう。フランクはこの時、非言語的なコミュニケイションでしかメアリーに自分の伝えたいことを伝えられなくなる。言語を超える瞬間。この飛躍がこの作品は感動的だった。メアリーの存在を論理的に肯定するだけではこの映画はそこまでの作品だったかもしれないけれど、メアリーとフランクの間に非言語的なコミュニケイションが成り立った時、むしろ作品のメッセージは完成するのである。言葉、言葉、言葉ででき上がっていると思った作品が自らそれをひっくり返してしまう。しかも、その後でフランクはメアリーを言葉で裏切るのである。
実際にこの作品を観た方は、ここに書いたことはストーリーの要約になっていないじゃないかと思うことでしょう。確かに物語はもっと別な経緯を辿り、メアリーの担任やフランクの隣人など登場人物はぜんぜん多い。特にフランクの姉は自分でも省略してしまうのはどうかと思うほど重要な役割を負っている。しかし、それらの要素はこの映画をメロドラマ化するための囮のような意味合いが強く、あえて解題の対象としなかった。メロドラマはメロドラマとして楽しめばいいし、僕もそこは普通に泣いた。この映画はそれだけスタンダード作としてよくできている。マーク・ウェブが『(500)日のサマー』の監督だということは忘れて観た方がいいぐらい。あのような奇矯な演出はここでは一切顔を出さない。
フランクは一貫してメアリーに天才教育を施さない。それは冒頭で書いたように反ネオ・リベ的だし、この映画に出てくるどの登場人物とも同じく非常識と受け取られる。それこそ政治的行為に近いのかもしれない。子どもの脳は子ども自身に属し、アンバランスな成長がもたらす悲劇からは遠ざけなければいけない。そう、フランクがやっていることはいわゆる「男の子育て」ではない。裁判では「ゴキブリ」のことばかり言及されるけれど、この作品で男性の家事能力がまったく問題にされていないのも、その辺りは雑音にしかならないとあらかじめ判断されていたからだろう。もっといえばメアリーが家事を手伝う場面もないし、形而下はスパッと切り捨てられている。メアリーが遊んでいるおもちゃも幾何学を思わせる「レゴ」だったり。
言葉で裏切られたメアリーは、フランクとの関係が言葉によって修復されるというストーリーにはならない。ここで非言語的な結びつきが活きてくる。言葉にはまず言葉にしなければならない感覚が先行し、それが言葉になっていくプロセスを言葉と称するのではないかと問うようなシーンがそれに応えている。「生きていくなら、言葉にするのを諦めてはいけない」とは蒼井優の言葉だけれど、同じように「非言語から言語へ」と向かうヴェクトルこそ生きていることだと、この作品も訴えかけている。メアリーは最後にデカルトの有名な言葉をもじってみせる。たったひと言足すだけでデカルトの近代的自我が他者性の議論へと変換されてしまう。そして、公園に駆け出していったメアリーはひとりではできない遊びを友だち相手に始める。こうして天才児はただの凡人になれたのである。なんというエンディングだろうか。
メアリーを「数学」の天才という設定にしたのは、フランクとの論理的な会話を日常に溶け込ませるための方便だったのかもしれない。しかし、「数学」がモチーフになっている映画には、なぜかこのところ面白い作品が多い。先月、取り上げた『ドリーム』もそうだったし、アラン・チューリングの生涯を描いた『イミテーション・ゲーム』(14)はゲイ、ホーキング博士の伝記映画『博士と彼女のセオリー』(14)は身体障害者、同じくシュリニヴァーサ・ラマヌジャンの伝記映画『奇蹟がくれた数式』(16)も人種問題をそれぞれ数学と絡ませ、なぜかイギリス映画が多いなか、圧倒的に意表を突かれたのは『プルーフ・オブ・マイ・ライフ』だった。『女神の見えざる手』のジョン・マッデンが12年前に撮った作品(この頃も数学モノは多かったかもしれない)である。そこでは『ギフテッド』と似た設定ながら、まったく違う結論が導かれていた。
三田格