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弟の夫

弟の夫

田亀源五郎

双葉社

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岩佐浩樹   Aug 16,2017 UP

「誰もが差別撤廃と難民について語る。だが、クィア・ピープルこそが最大の難民集団なのだ。」 ―ヴィーランド・シュペック、ベルリン国際映画祭パノラマ部門ディレクター (2016.03)

 「何故いまだにベルリン国際映画祭テディ・アワードのようなLGBTQ映画賞が重要なのか(英語)」と題された昨年のインタヴュー記事のなかで、このテディ・アワード(1987年創設。クィア ≒ LGBT 映画における世界示準のひとつ。毎年ベルリン国際映画祭全上映作の中から選出される)の共同設立者であるヴィーランド・シュペックは当時の「難民パニック」の最中に上記のように答えている。記事のタイトルからも窺えるように、近年「LGBT映画・映画祭・映画賞という枠組みはその役割を終えつつあるのではないか」といった意見を耳にするようにもなってきたが、ヴィーランドの発言はそうした一部の流れに対する牽制でもある。

 先ごろ全4巻で完結した漫画『弟の夫』を発表した田亀源五郎はおよそ四半世紀に渡り、日本においてゲイのエロティシズムをいかに表現するか、という道なき道を切り拓いてきたパイオニアである。もちろん彼より前にも「ゲイ・エロティック・アート・イン・ジャパン」として連綿と先行してきた作家たちの作品は──時代的な制約からあくまで極く一部の領域で共有される形で存在せざるを得なかったとしても──たしかな水脈として受け継がれていて、田亀作品にしても木の股からいきなり産まれたものではない。が、彼がとりわけ特異な存在であるのは、あくまで自身の欲望に根差した表現活動を続けながらも、それを可能な限り遠くまで届ける事に意識的な作家としての姿勢であり、ゲイ・メディア以外の媒体が田亀源五郎を発見するのは時間の問題だった、とも言える。

 より広範な、そしてより外側に想定された読者に向けて発表されることになった新作『弟の夫』において、田亀源五郎はこれまで自身が技巧を尽くして表現してきたゲイのセックスという、謂わばこれまでの主柱であった要素をすべて外した。いままで使わなかった題材を軸とし、作家として培ってきた技術を駆使して組み上げられた作品は、かつて日本に存在しなかった類の表現物として読者に届けられた。本作は「月刊アクション(双葉社)」に2014年11月号〜2017年7月号まで連載され、連載中の2015年には第19回文化庁メディア芸術祭マンガ部門で優秀賞を受賞した。また単行本は現時点で仏語、英語、韓国語にも翻訳されている。

 1人娘の夏菜と暮らすシングルファーザーの弥一には双子の弟である涼二がいたが、彼はカナダに渡って男性と結婚し、そこで亡くなる。涼二の死後、弥一にとっては「弟の夫」にあたるカナダ人ゲイ男性、マイクが日本を訪れて弥一・夏菜と3人で過ごした三週間の日々が綴られる、言ってみれば「遺族たち」の物語であり、海を隔てて顔を合わせることのなかった二者が出会うことで物語は動きはじめる。第1話のタイトル『黒船がやってきた!』に象徴されるように、日本人側にとってマイクは突如としてやってきた強烈な異文化圏の人として登場する。(ちなみにマイクがペリー提督と同じアメリカ人ではなくカナダ人に設定されているのは連載開始当時、アメリカではまだ全土では同性婚ができる状態では無かったからでもあるが、同時にアメリカとカナダのどこが違うか、などと考えることもない弥一・夏菜の「外国」への距離感をそれとなく示している)
 
 弟がたまたまゲイだった、ということを除けば弥一は同性愛に関して取り立てて知識も理解もない、ごく平均的な日本のヘテロセクシュアル男性として登場し、小学3年生の夏菜に至っては白紙状態である。また夏菜の「パパに弟がいたの!?」といった台詞からも判るように、弥一が涼二の存在を無いものとして扱ってきたことも明かされる。当然ながら日本のスタンダードに合わせて自分を隠す事などしないマイクが、この2人をはじめとした周囲に静かにかつ確実な影響を与え、当初はぎこちない緊張感を漂わせていた3人の関係が深まっていくさまは読者に深い感動をもたらす。ゲイのキャラクターが物語の単なるアクセントや色モノとしてではなく、本筋に欠かせない存在として機能している「良質のホームドラマ」が成立したこと自体画期的ではあるが(またこの作品には『現在カップルです』という状態の人が一組も登場しない、ということも付け加えておくべきだろう)、『弟の夫』が現在の日本にとって重要な作品である一番の理由はその点ではない。

 『弟の夫』において静かな凄みを帯びた瞬間は、メイン3人がそれ以外の人たちと接触する際のエピソードで顕著に現れる。同級生やその家族、近所の人、小学校の担任などの周囲の人々がマイクを見る視線、面と向かっては言われない言葉、外国人(+ゲイ)が良くも悪くも異物として扱われる空気、そうした一見些細に見える出来事によって引き起こされる感情の軋みに、自らの内部にもそうした「世間の目」が深く入り込んでしまっている弥一の煩悶を重ねることによって、この国ができるだけ見ないようにしているものが浮かび上がってくる。例えばこの作品のなかにもゲイの日本人は登場するが、マイクのようにオープンに生きている人物は皆無である。ロールモデルとなる日本人ゲイが存在しないこの世界は、残念ながらリアルなものだ。そして弥一はつい「日本ではあまり同性愛差別は聞かないって涼二も言ってた(とマイクから聞いた)」などと二重にも三重にも他人事のように口走ってしまう。

 自分ですら国外で「日本の同性愛者が置かれた状況はいまどうなっているのか?」といった漠然とした質問を受けることがたまにあるが、答えはじめると決まって「同性と付き合うこともセックスすることも違法ではない、ないが一方で国レヴェルで自分らの人権を守ってくれる法律もない。とくに都市部で(用心深く)暮らしていればあからさまな差別を受けることもないが、かと言って職場や家庭で気軽にカミングアウトできるような状況でもなく」などと無い無い尽くしで韻を踏みはじめてしまい、自分が話している内容に苛立ったまま終わる。『弟の夫』もそれに似た苛立ちと憤りを、あくまで穏やかなトーンの中に込めているが、苛立ちの対象が見えづらい事がまたそれに拍車をかける。

 見えづらい、とはつまり闘うべき相手の像が何だか定まらないと言うことである。「日本はキリスト教がベースにある国とは違って同性愛者に対する偏見は薄い」といった発想もそうした数ある煙幕のうちのひとつであり、よほど気力と体力と能力に恵まれた者でなければ個人として対抗できるようなものではない。『弟の夫』の涼二は賢明にもそれを悟って日本を出た。形式的にはどこまでも合法的な移民ではあるが、実質的に国を捨てる選択をしたのである。この涼二というキャラクターは、ほぼ追憶と伝聞と幻影としての姿でしか登場しないが(彼の顔が明瞭に描かれるのは物語も終盤に差し掛かる辺りである)日本と縁が切れてしまっても仕方がない、という諦めとともに渡航したらしい事はそれとなく示唆されている。

 「難民としてのゲイ」に関してやや脱線すると、イスラエルの映画監督、Yariv Mozerが2012年に制作したドキュメンタリー映画『The Invisible Men』の中である若いパレスティナ人ゲイの青年はこう言う。「自分はパレスティナ人だ、いつだって祖国のために闘う準備はできている」と。しかし彼の祖国で警察はゲイである彼を拘束し便器に顔を突っ込んで拷問したり、親族は「今度お前を見かけたら、殺す」と脅迫するような土地柄なので彼らは仕方なく(本来なら彼らの「敵」ではあるが、取り敢えず同性愛では罰せられない)イスラエルの首都テルアビブに逃げる。すると今度は「不法滞在のパレスティナ人」になってしまい、結局はNGOを頼って難民として第三国に移住する。「そんな寒いとこなんてやだ、しかもこの歳でいちから外国語を憶えなくちゃいけないなんて」などと不平を言いつつも、彼らにとって安全な場所は外国にしかない。冒頭に引いたヴィーランド・シュペックが言ったように、性的少数者は数の上では恐らく世界最大の「難民」と見做せるだろうが、厄介なことに世界のあらゆる場所に点在して生まれるので、自分の属する家族やコミュニティーが味方なのかどうかすら疑心暗鬼のままで育たざるを得ない。「✕✕人/✕✕族/✕✕教徒であるため」であるとか「住んでいる地域が紛争状態で」といった理由の難民集団とはまた違う、そして子供にとっては余りに重い、個としての困難が最初から付いて回るからだ。

「同性愛者が子供に悪影響だと考えるような大人の/その子供が同性愛者だったとしたら/その子が親に/カミングアウトしたら/自分にとって最も身近な人が/自分のことを良く思わない人生で出会う最初の敵になるかも知れない」―『弟の夫』第3巻 p.15

 物語の後半ではこんな風に考えるようになった弥一だが、涼二にカミングアウトされた当時、困難に直面した弟の姿をはっきりと捉えることはできなかった。弟のセクシュアリティーを受け入れたことにはしていても、それ以上の対話が深まることも無いままに弟は海を渡り「向こう側の人」になる。涼二の死後、向こう側からやって来た彼の配偶者との交流を経て、初めて弟の姿が生きた人間のそれとして立ち上がり、弥一は深い後悔と共に自分たちの将来についても思いを巡らすようになる。マイクが夏菜に与えた有形無形の影響と同じく、それはある種の希望ではあるだろう。が、いくら涙を流したところですでに彼岸に渡ってしまった人間はもう戻って来ない。遺された者たちは、故人の選択は恐らく正しかったのだろう、と願望混じりに推測するだけだ。追憶と踊ることは、どこまでも生きている人間のためにある慰めの手段なのである。

 奇しくも『弟の夫』の連載中にアメリカ合衆国全土での同性婚が合憲となった。オランダ(2001年)を皮切りに欧州はそれよりも先行している。また今年、アジア圏では初めて台湾で同性婚を認めない現行民法は違憲、との判断が下された。異性愛者ではない、というだけで侵害されている権利を取り戻すための運動が高まるなかで、「性的少数者の作品」というラベリングへの違和感を表明する声が上がってくるのは当然の流れではあるが、それは現時点でもまだごく限られた国・地域・階級の中で生まれ育つことが出来た者にのみ許されたものだ。日本で、中国で、韓国で、シンガポールで、マレーシアで、インドネシアで、ロシアで、その他ほぼすべての近隣諸国においいて「性的少数者の人権」が吹けば飛ぶような現実は微動だにしない。

 『ブエノスアイレス(1997)』、『キャロル(2015)』、あるいはまだ記憶に新しい『ムーンライト』と思い付くままに挙げてみれば、そしてとくにそれが話題作・大作であればあるほど、ひとたび日本の配給会社の手にかかると細かい事は脇に置いて兎にも角にもピュアな「愛の物語」として世間に放流されるのが常であって(この国では面倒くさそうなものは何でもかんでも愛に包まれてしまうのだ)、結果「ゲイとかレズビアンとか、この作品の素晴らしさはそういう属性を超えたところにあるのであって」になってしまう。しかし、それはあくまで宣伝上の方便でしかない。もし仮に『弟の夫』を最初から「愛の物語」として話を始めると、「ゲイの」という一番大事なものが背景に後退してしまう。これは乗り越えるどころか、よく見えない状態で消えていった、あるいは現在もこの国で見えなくされている者たちについての物語だからだ。

 カナダ人のマイクは「日本オタク」で日本語は話せるがペラペラ、というほどでもない(恐らく漢字仮名は読みこなせない)という設定で、日本語圏の読者としてはつい「図体はデカいのに子供みたい(=カワイイ)」と錯覚してしまうが、もちろん彼は成人であり、英語でならばずっと複雑にロジカルに語ることが出来るはずだ。言語の壁というハンデを押して何かを伝えようとするときの子供のような日本語が、本物の子供である夏菜の素朴な疑問と共鳴しながら弥一の耳に入り込み、その度に彼の中で常識が揺るがされる。弥一はひとつずつ自分の頭で考え、理解し、そして受け入れていく。本気で考えなくても済むような近道はないのだ。作者が向こう側で発している、「こちらの声は届いているか?」という通奏低音を読者が聴き取った時にようやく、『弟の夫』がいつの日か「愛の物語」になる道程のスタートラインに立つことが出来るのだ。


岩佐浩樹