「Noton」と一致するもの

七尾旅人 - ele-king

 何10年ぶりかにサッカー(フットサル)をやったが、さすがに疲れた。50を過ぎた人間だ。若い人間と混じってガチでやるには、無理がある。ゲームに参加することは、ひとりで黙々と走るのとはわけが違うのだ。身体的に無理を強いなければならないし、ただ動けばいいってものでもないし、頭も精神も使わねばならない。だが、爽快である。政治の話をしながらどんどん窮屈になっていくのとは正反対だ。しかし、ではなぜビヨンセを良いと思っているのだろう。矛盾しているじゃないか。熱狂があるからか。まだ快楽産業に回収されていない熱狂が。いや、それ以前の問題として、彼女のパーソナルな事柄からはじまっているがゆえの、人生のより深いところに突き刺さる何かを持っているからだろうか。
 たぶんそうだろう。足をすりむきながらサッカーをやっているのも、すでに終わっているはずのフィッシュマンズのライヴにありえないほど涙してしまうのも、(たとえそれが単にあの娘とのことに過ぎなかったとしても)人生は生きることの誘惑にほかならないという当たり前にして当たり前のこと(だとぼくが勝手に思っていること)をぼくに思いおこさせるからだ。アホらしいと思うなかれ。音楽がもっとも得意とするところは、そこだ。

 七尾旅人が本当に思い詰めていたのが、この作品からはよくわかる。だが、これは感情の寄せ集めではない。コンセプト作品だ。ロバート・ワイアットの『コミックオペラ』と少し似ているかもしれない。あれは、男女の対話を混ぜながら、イラク戦争で家や家族を失ったレバノン人の気持ちを歌うことで、たとえば今日のISが生まれる温床(=憎しみ)に触れているアルバムだった。
 『兵士A』にはふたつの物語がある。戦死する自衛官、すなわち憲法改正を弾きがねとしたであろう『兵士A』とそれを取り巻く物語、もうひとつは七尾旅人というアーティスト自身の創作行為に関わる物語だ。ことに映像は後者を際立たせている。当たり前の話だが、視線は七尾旅人の表情に集まり、表情の変化や彼の一挙手一投足を注視することになる。本作は、2015年11月19日のライヴ公演の実況録音盤であり、その映像作品だ。ここには、3時間にもおよぶライヴが収録されている。

 七尾旅人の根幹に政治的な憤りがあるのは確実だ。それもかなり激しい憤り、絶望。『兵士A』には、彼のお茶目さのひとかけらもない。
 とはいえ、とくに前半だが、弾き語りの名手たる彼の持ち味は発揮されている。七尾旅人は、ギターの単音と声だけでも人を魅了するミュージシャンだ。ファンのなかには声だけでも十分だと思っている人も少なくない。電子音を混ぜてはいるが、最終的には、今回もその魅力は変わらない、が、『兵士A』はしかし、彼はナイーヴさを排し(ある意味ではこれ以上ないほどナイーヴに振る舞い)、そして受け手をアンビヴァレントな気持ちにさせる作品なのだ。“ぼくらのひかり”がそうだ、“Tender Games”もそうだ。“I'M WARBOT”での七尾旅人は激殺気だっている。“エアプレーン”もそうだ。自分の作った歌の登場人物たちに取り憑かれているかのようだ。
 ステージ上の共演者は梅津和時ただひとりである。七尾旅人と同様、このベテラン・サックス奏者も日本兵の格好をしているわけだが、ふたりが演奏する光景を見たら、だれであろうと思い描くことはひとつかもしれない。しかし、『911FANTASIA』と比較される作品だが、じつは本作のほうが解釈はいろいろできる。とくに気になったのは最後の曲だ。“誰も知らない”を、彼はなにゆえに「あの子はバカだから~」という歌い出しからはじめたのだろう、取材するチャンスがあるのなら、ぼくはまずそのことを訊きたい。

 七尾旅人の、アーティストとしてつねに刺激を与えたいという大望は素晴らしいと思う。なにかおかしいぞと思ったら、とことんその疑問を追求する真摯なところもだ。『兵士A』が彼のベストだとは思わないが、いまの日本の絶望感を捉えている真摯な音楽作品であることは間違いない。
 が、政治的コンセプトがあるとはいえ、これは論文ではない。『911FANTASIA』もそうだったが、たとえば七尾旅人は戦中戦後から未来(戦前)へと、数世代にわたる物語を繰り広げている。しかし……ぼくは少年サッカーを見ながらつくづく思う。未来に待っている次世代は、そもそも現在の若者よりもずっと人数が少ないのだ。不安項目はいくつもある。政治的トピックとしては戦争よりも貧困問題を最優先すべきだという意見もよく耳にする。また、万博文化に取って代わるもののひとつは、ぼくは、スマホに象徴される通信テクノロジー商品にあると思っている、などなど。いろんなことが頭を巡る。いろんなことが。そのひとつを取りあげて、このレヴューの締めとしよう。
 ぼくは若い頃、RCサクセションや忌野清志郎のライヴで、梅津和時のソウルフルなサックスを何度も聴いている。そのステージ上には、いつも「愛と平和」という決まり文句があった。しかし、いまでは「自由」という言葉が塗り替えられたように(ネオリベもリバタリアンズも自由の産物)、あの頃と比べると問題はずっと複雑になっている。それもあるのだろう、「愛と平和」などという言葉はもう何年も聴いていない。「愛」も「平和」もさんざん欺瞞的に使われてきた/軍事的にも使われてきた/個人の都合の良いように使われてきたということなのだろうけれど、「平等」はどうだろう。トランプだって平等を要求する。そう、いま政治の問題を考えるときにつくづく思うのは、それでも性懲りもなく音楽にこだわっている自分たちはどこから来たのだろうか、ということである。まあ、ナイーヴで、おめでたいところから来たことは自分でもわかっているけどね。
 サッカーの試合中も、ずっと動いているわけにはいかない。うまくいかなければ、あるいは体力温存のため、ときどき立ち止まり、ふと考える。同じことをずっと言い続けることは無駄にはならない。疲れたときの思考時に効力を持つからだ。戦術が理解され、目指すべきゴールが見えているなら、問題ないだろう。たとえ監督とキャプテンがいなくても、だ。ちなみに、「人生で重要なことはすべてサッカーから学んだ」と言ったのはアルベール・カミュだが、それでもぼくは言う。人生で重要なことは音楽から学んだ。

R.I.P. WOODMAN - ele-king

 衝撃のeep大阪でのウッドマン・ライヴから16年の歳月です。ステージからの光を浴びたガタイのでかい彼のクネクネダンス&変態サウンド。その衝動を今でも鮮明に記憶しています。それから数年後、氏とのALTZの1stアルバム制作がスタート。6ヶ月に及ぶマスタリング作業や、ジャケットのイメージ作り。手描きのイラストも含め、音楽が好きすぎる彼のたっぷりの愛情を受けた『FANTASTICO』が誕生しました。
 この時点でボクにとってのプロデュースの神です。〈レア・ブリーズ〉こんなクールな名前のレーベルからアルバムを発表させてもらえるなんて。
 見事遅咲きのアルバムデビューでしたが、師匠として、ライバルとして、感謝しきれない感慨深い時間を共に過ごさせてもらいました。

 当の本人ウッドマンの処作は、以前から驚愕のハイペースでリリースされていて、タケ&ロス・アプソンが絡んだ流れや、意味不明の自主作品など。未だ全部のCD、CDRを確認できていないんです。多分一生かけても聴けないんだなと思いました。彼の愛機YAMAHAミニQYや、HDレコーダーには消去されたり、再生されない秘密のサウンドが相当数眠っていたはずです。サウンドと歌(ラップ?)を行き来したスタイルも理解不能ですが、今なら聴けるのかな。
 そして何よりもあのしつこいおしゃべり魔女のようなスタイルが鼻につく。ウッド大阪時代の数々の変態調教を通して今想う事 は、蝶になって自由に跳びたいウッドマンの光速メッセージだと自負しております。ほっつき歩きのプロとはまさに彼のことでしょうね。
 しかしもういちど関西弁で語り合いたかったで、ウッドマン! ありがとう……。

 合掌

ALTZ(RARE BREEZZE)

Solo andata - ele-king

 何もしたくない。そんなときにはアンビエント・ミュージックが効く。怠惰。この勤勉と抑圧の近代国家ニッポンでは、もっとも反社会的と思われる行為への誘惑。そう、アンビエント・ミュージックは、社会からの逸脱=怠惰へと誘う。ああ、なにもしたくない。ああ、疲れた。ただ、寝ていたい。いや、なにもしたくないから、寝ることすら面倒である。ゆえにアンビエントを聴いてゴロゴロしていたい。できることなら休みたい(いや、休めない)。そう、怠惰という極楽への誘惑。その意味で夏こそアンビエント・ミュージックを聴きたい。なぜか。暑いからだ。なにもしたくない。そこで今回は、そんな気分に合うアンビエント作品と一作と、正反対に、そんな気分を瓦解させてしまうようなエクスペリメンタルな作品を紹介してみたい。どちらも、とてもクールな作品である。

 まずは、ニューヨークの〈12k〉からリリースされたソロ・アンダータの新作『イン・ザ・レンズ』について語ろう。ソロ・アンダータは、ケイン・アイキンとポール・フィアッコによるオーストラリアのアンビエント・ユニットである。2009年に〈12k〉からリリースしたファースト・アルバム『ソロ・アンダータ』は、いま思い出してもかなりの傑作だ。イーノ的な環境音楽/アンビエント・ミュージックでもなく、KLF的なチルアウト/アンビエント・ミュージックでもなく、日常の隙間にアンビエントの空白を生むための「00年代以降のエレクトロニカ・音楽的アンビエント」を、彼らは『ソロ・アンダータ』で確立したのだから(むろん、当時、似たような音楽は、たくさんあったが、彼らのクオリティは抜きん出ていた)。

 そして6年ぶりとなる新作は、その「エレクトロニカ・アンビエント」の、その先を見据えたような作品に仕上がっていた。電子音のみならず、ピアノやベース、ギターなど楽器演奏=アンサンブルによって楽曲が成立しているわけだが、そこにさまざまな細やかな物音やノイズがレイヤーされ、音楽の層とやわらかく融解しているのである。そのソフトなノイズと音楽のアンサンブル/融解は大変に気持ちがよく、聴き進めていくと夢の中にいるような感覚になってくる。ノイズと楽音的なハーモニーの境界線がシームレスになっている。これこそまさに2010年代的なアンビエント/ドローンの新しいオトノカタチではないか。クラシカルでもあり、ジャズのようでもあり、しかしそのナニモノでもない音楽と音響の生成。まさに音楽/アンビエントの深化。では、この進化の源はなにか。私には、曲のなかで、そこかしこに鳴っているベース(低音)の存在が大きいように聴こえた。つまり、ひかえめなベースの進行が音楽としての構造を生んでいるのだ(ウワモノが持続音でもベースが旋律と刻むと進行が生まれるのだ)。それにしても、本当に素晴らしい作品ではないか。これぞポスト・ノイズ、ポスト・エレクトロニカというべきアルバムだ(本年、ケイン・アイキンのソロ『モダン・プレッシャー』もリリースされている。インダトスリーでありながら浮遊感と現実感が入り交じったような秀作であった)


***


 そんな夢見心地の気分に、砂漠の崩壊していくさまを顕微鏡のような音響/映像感覚で表象し、われわれの現実の足場がすでに倒壊しているのだということを、極めてスタティックなスタイルで示す作品が、 ベルリンのサウンド・アーティスト、ヤコブ・キルケゴールの『サブレーション』である。

 ヤコブ・キルケゴールは、これまでも環境の中に存在する音響の変化を主軸においた音響作品を発表してきたアーティストだ。その作品はまるで、彼の耳のありようをトレースするかのように音響の要素がコンポジションされており、聴き手は、アーティストの耳と同化するような感覚を持つことになる。たとえば2013年に〈タッチ〉からリリースされた弦楽作品『コンバージョン』は、弦の軋みや揺らぎを録音・再構成した作品であったが、同時に、彼の耳の反応そのものを音に「変換」したものにも思えた。

 本年、日本の〈マター〉からリリースされた新作『サブレーション』は、「砂漠化」の名のとおり、オマーン砂漠の映像と音響によって成立している映像作品である。もともとは2010年のあいちトリエンナーレで池田亮司の作品などとともに公開されたインスタレーションが元になっているというが、今回、ついにDVD+フォトブックという形態でリリースされた。まるでヤコブからの「手紙」が届いたような美しく親密な装丁も素晴らしい。

 砂漠が崩壊していく集積/運動のさまを捉えた緻密な音響とモノクロームの映像のコンビネーションは圧倒的で、ずっと聴いている/観ていると、まるで自分の足場が倒壊していくような感覚に襲われてくる。それは知覚の拡張ともいえるのだが、私たちの知覚=現実が倒壊していくような感覚でもあった。ちなみに本作は勅使河原宏の映画『砂の女』(1964)へのオマージュでもあるようで、いわれてみると不穏感覚や、現実への崩壊感覚には通じるものがある。そこからわれわれ「日本という現状/問題」へと結びつけることは、さほど困難でもないだろう。そして、先に書いたように近年のアンビエントが再び足場を確かめるように「低音」を導入しているのに対して、ヤコブは、幾千、幾万もの砂塵が、砂が散り散りに倒壊するような崩壊感覚を音響化/映像化している。そう、これは、「砂漠化」し、やがて崩壊する「世界」そのものではないか。本作の表象は、抽象的に見えつつ/聴こえつつ、やはり一種の(強烈な)リアリティに思えてならない。

 だが、である。いまは暑い。夏が本格化してきた。現状への批評的な視線も大切だが、この美しく砂漠が倒壊していくさまを捉えたモノクロームの冷たい質感の映像と音響に、いつまでも浸っていたい気もすることも事実である。美しい、からだ。たしかに本作はアンビエントというより音響的にはフィールドレコーディング作品(映像)だが、われわれはヤコブの耳をトレースするように、音の磁場が生むアンビエンスを聴くのだからアンビエントとしても聴取/視聴可能なはず。なにより、このモノクロームの砂漠の映像/音響は、灼熱のなかの氷のように冷たい。ゆえに夏の猛暑に効く……。
 
 ともあれ、「ベースと崩壊」である。それは夢と現実の表象でもある。この2作からは、そんな響きを、音楽を聴き取ることができたわけだ。それにしても、今年の日本の夏は夢見るように不安定だ。本当に夢だったらよいとすら思えるほどに。冒頭の無気力さは、暑さのためだけではないかもしれない。

BADBADNOTGOOD - ele-king

 デビューしてから自主制作のフリー・ダウンロードでアルバムを出していた2011年から12年頃、バッドバッドナットグッドは良くも悪くもヒップホップをジャズでインスト・カヴァーするバンドという印象が強く、それは彼らの音楽性を限定していたように思う。オッド・フューチャー、MFドゥーム、Jディラ、ナズ、ATCQ、カニエ・ウェストなどいろいろカヴァーし、またヒップホップ以外でもジェイムズ・ブレイク、ファイスト、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインなどの楽曲を取り上げていた。それによって大きな注目を集めるようになったのは事実だし、ジャズを聴かないような若年層のファンも獲得した(ジャズ・ファンよりも、むしろヒップホップやロック・ファンの間での認知が高かった)。ただ、演奏自体はわりと同じアプローチのものが多く(悪く言えば一本調子)、あくまでネタのチョイスと、それとジャズとの取り合わせの意外性で勝負している感じが強かった。ライヴ自体も粗削りで、若いパワーとパンキッシュな初期衝動でとにかくデカい音を出す、そんな感じのバンドだった。

 ところが、〈イノヴェイティヴ・レイジャー〉と契約し、アルバムに向けた楽曲制作を意識するようになった2014年頃から、彼らの演奏や作風にも変化が表われる。まず、作曲そのものを意識するようになり、それによっていままでは即興的なアプローチによるジャム・セッションが多かった彼らの演奏に、コンポジションに基づいて構築する面が現れていった。また、あくまでピアノ・トリオである3人がメインで、サックスやギターがほんの一部でサポートする程度だった演奏が、より多くの楽器をフィーチャーして膨らみを増していった。実際に2014年リリースの『III』では、サックス奏者のレランド・ホイッティが第4のメンバー的な扱いとなり、彼はテナー・サックス、バリトン・サックス、バス・クラリネットのほか、ヴァイオリンも演奏している。ほかにもトランペット、チェロなどがフィーチャーされたこのアルバムは、全てオリジナル曲で構成されていた。管楽器や弦楽器が入ることにより、それらのアレンジが作曲面にも作用し、より空間を意識した繊細で叙情的な作品が増えていった。もともと演奏能力は高かったが、それを生かすコンポジションを得ることによって、彼らの本当の魅力が開花していった。ある意味で、本当のジャズ・バンドっぽく洗練されていったのだ(それまでは、どちらかと言えばヒップホップ・バンドがジャズをやっているようなイメージだった)。

 そして、通算4枚目のアルバム『IV』では、レランド・ホイッティ(サックス、クラリネット、フルート、ヴァイブ、ギター、シンセ)が正式メンバーとなり、マシュー・タヴァレス(ピアノ、エレピ、シンセ、ベース)、チェスター・ハンセン(ベース、ピアノ、エレピ、オルガン)、アレックス・ソウィンスキー(ドラムス、パーカッション、ヴァイブ)の4人へとBBNGは改まった。彼らは『IV』の前にゴーストフェイス・キラーとの共作『サワー・ソウル』(2015年)を制作しているのだが、そこではゴーストフェイス・キラーはじめいろいろなラッパーたちと共演し、インスト・バンドからの脱皮も図っていた。その成果は『IV』にも表われ、ミック・ジェンキンス、サム・ヘリング、シャーロット・デイ・ウィルソンの歌やMCをフィーチャーした作品が収められる。同じカナダのケイトラナダがパーカッションとシンセ演奏でコラボした“ラヴェンダー”もあり、“コンフェッションズ・パート2”ではアーケイド・ファイアやボン・イヴェールの作品やツアー参加で知られるコリン・ステットソンがバリトン・サックスで参加している。

 楽曲は多重録音したものが多く、たとえば“アンド・ザット、トゥー”でリランドはテナー・サックス、ソプラノ・サックス、フルート、クラリネット、バス・クラリネット、ヴァイブ、シンセを演奏する。この楽曲は彼のブラス・アンサンブルがもたらす重厚で荘重な雰囲気が鍵となっており、その編曲はギル・エヴァンスやジョージ・ラッセルの作品のように複雑な表情を与えている。“スピーキング・ジェントリー”も個々の演奏というより作曲や編曲が興味深く、かつてのデヴィッド・アクセルロッドを想起させるようだ。“ストラクチャー・ナンバー4”や“チョンピーズ・パラダイス”もそうだが、一種のライブラリー・サウンドやサントラ的な味わいもあり、彼らがいかに「ムード」を大切にしているかがわかる。“IV”はアップ・テンポのジャズ・ロック系作品で、この手のサウンドが熱かった70年代初期の空気感を孕んでいる。疾走するリズムが途中でスロー・ダウンするなど動と静の切り替えが鮮やかだ。こうした音は昔のレコードなどを聴かない限り体得できないものなので、恐らく彼らもいろいろと聴いて研究しているのだろう。“カシミア”は70年代でいくと、スティーヴ・キューンのブッダ盤や、アルチュール・ヴェロカイのアルバムに通じるところを感じさせる。ジェイムスズーは彼らのこのアルバムからインスピレーションを受け、『フール』に2人をゲストとして招いた。ほかにもフローティング・ポインツなど、キューンやヴェロカイの影響を受けたアーティストはクラブ・シーンには多いが、BBNGについてもそれは言えるのだろう。

 10日にダラスで警官5人を銃撃して死なせた犯人、マイカ・グザビエ・ジョンソンとパブリック・エナミーのプロフェッサー・グリフに交流があったとされる報道があり、グリフに対する非難の声が巻き起こっている。グリフ自身は即座に否定しているものの、グリフとジョンソンががっちりと腕を組み合う写真も広く出回り、無駄に騒ぎたくなる人たちの気持ちもわからないではない。リンクが切れていなければ、以下で写真と文章が確認できます→https://twitter.com/GRIFFTHENME/status/751503674795491328

 スマホなどで有名人と一緒に写真を撮ることは簡単になっている。どこかで偶然、グリフを認めた犯人が一緒に写真を撮って下さいと頼めば、グリフがそれに応じた可能性は高い。プロフェッサー・グリフとマイカ・ジョンソンがそのような経過によって一枚の写真に収まっていれば、グリフが覚えていないというのは当然である。現時点ではそれ以上のことはわからない。

 マイカ・ジョンソンのフェイスブックにはまた、プロフェッサー・グリフが提唱するアフロセントリズムを訴える文章がコピペして載せられていたらしい(あくまで警察発表)。ジョンソンがグリフの思想に傾倒していたことは確かのようで、しかし、ジョンソンが支持を表明していた黒人過激派組織は複数に及び、そのなかにはヘイト集団に指定されている組織もあったという。立てこもっていた現場で爆弾ロボットによって殺害されたジョンソンは自らの血で「RB」と読めるダイイング・メーッセージを残しており、今後はこの文字が犯人の動機を解く鍵とされている。

 プロフェッサー・グリフは、80年代後半、白人社会と黒人社会の分離、いわゆるセパレーティズムを主張していたパブリック・エナミーに在籍していた。そして、サード・ベースというヒップホップ・ユニットと揉め、ユダヤ人を攻撃するような言動をとったとして同グループからの脱退を余儀なくされている(現在は復帰)。グリフは、シオニズム(イスラエルへの回帰運動)を批判しただけでユダヤ人を人種として攻撃した意図はなかったと主張したものの、戦闘的なブラックパワー運動を展開するS1W(Security of the First World)のリーダーを務めていたこともあって、過激な思想の持ち主だというイメージが付いてしまったことは否めない。グリフは、そもそもダラスでデモが起きるきっかけとなったバトン・ルージュの事件についてもすぐに意見を表明するなど、現在でも発言回数は多く、2年前にカニエ・ウエストが「人種差別がヒドいから海外移住を考えている」とツイートした際も、「大富豪は紛いものの妻を連れてアフリカへ引っ越してしまえ」などと毒舌度合いはかなり高い。ほかにもプリンスやビヨンセなど、彼の発言はユーチューブに多数あがっているので興味のある方は探してみて下さい(英語です。長いです)。

 ちなみにダラスの銃撃事件を受けて#BlackLivesMatter(https://www.ele-king.net/review/album/004601/)も困惑の度合いを高めているものの、LAでは大人数による人間の鎖でピース・マークをつくるなど、抗議の方法に多少変化が見られるようになっていることは留意しておきたい(ミネソタでは100人が逮捕され警官27人が重軽傷と基本はかわらない)。また、パブリック・エナミーが多数の支持を集めた80年代後半は、黒人同士が銃で撃ち合って死ぬセルフ・ディストラクションが大きな問題点として挙げられていた。これに対して目下の問題は黒人対警官であって、僕個人は黒人同士が撃ち合って死んでいた頃よりは救いがある面もあるのではないかと思っている。それはほんとに小さな「良い面」としか言えないけれど(エレキング次号に関連記事あり)。

 警官の残虐行為についてジェイ・Zが7日にアップした「Spiritual」。


(三田格)

Duenn - ele-king

 京都の電子音楽レーベル〈シュラインドットジェイピー〉から、福岡のカセット・レーベル〈ダエン〉主宰ダエンの新作ソロ・アルバム『ア・メッセージ』がリリースされた。

 このリリースは必然であろう。なぜなら近年の〈シュラインドットジェイピー〉と〈ダエン〉は協働関係を深めているように思えるからだ。たとえば〈ダエン〉から発表されていた〈シュラインドットジェイピー〉主宰、糸魚健一のサイセクス『アペックス』のカセット・ヴァージョンや、ショータ・ヒラマのカセット作品『モダン・ラヴァーズ』(2014)も本年になり〈シュラインドットジェイピー〉から単独CDとしてリリースされた。また、6月27日にドミューンにて放送された「duenn "A message" Release SPECIAL!!!「HARD CORE AMBIENCE 5HOURS」に糸魚が出演したことも記憶に新しい。この電子音楽の新しい潮流を生み出す活発な協働関係には、今後も注目していきたい。

 さらには、東京の〈サッド rec〉から、ダエン・中村弘二(ニャントラ)・中原昌也(ヘア・スタイリスティックス)らが山口のYCAMで慣行したライブ盤『ワイカム・ライブ』(2016)がリリースされたことも忘れてはならない。そう、この2016年は、まるで西と東(国外と国外も)を貫通するように日本電子音楽の「新しい協働と実践」が頻繁に行われているような印象を強く持ってしまうのだが、いかがだろうか。そして、そのシーンにおいて「ダエン」という名の才能豊かなアンビエント・アーティストの名が刻印されていることに、私は何より注目したい。本年、彼の作品を続けてレヴューしている理由はそこにある。

 じじつ、〈シュラインドットジェイピー〉からリリースされた彼の新作『ア・メッセージ』は、アンビエント作品として出色の完成度を示していた。写真家、横田大輔の「untitled」という作品にインスピレーションを受けたという本作は、いまや飽和気味となった西欧的なアンビエント/ドローン・シーンを更新させてしまう作品ですらあると思う。私は、ダエン作品の魅力は繊細な音量設定とサウンドのレイヤー/コンポジションの絶妙な交錯にあると考えているのだが、本作『ア・メッセージ』は、まさに、その「音量の美学」が極まっているように感じられた。急いで付け加えておくが、彼は、いわゆるマイクロ・スコピックな「弱音響」ではない。かといって音の大きさを誇示するものでも、それによって快楽を与えるものでもない。そうではなく、「音が空気を変える」ために、もっとも適切な音量を追求しているように思える。その音響が時間と空間のなかに融解するかのごときアンビエンスの聴取効果は絶大だ。流しておくと部屋の空気を変えてしまうような、美しい香水のような音響作品に仕上がっているのだ。あきらかにアンビエント/ドローンやインダストリアル以降のサウンドなのである。
 
 本アルバムは、“ア・メッセージ(サイドA)”と“ア・メッセージ(サイドB)”の長尺2曲から構成されている。各トラックの印象をひとことでまとめるならば、1曲め“ア・メッセージ(サイドA)”は「硬質でやわらかい時間の横溢」、2曲め“ア・メッセージ(サイドB)”は、「鋭さとやわらかさの生成変化」となるだろうか。それらの楽曲は、それぞれの「世界」が反転するような音響を展開しており、「同じ場所の、違う時間で流れていた空気」のような関係のようにも聴こえてくるのだ。この『ア・メッセージ』のアンビエンスは、霧のように、雲のように、空気のように音のカタチを変えていく作品である。澄んだ「大気」のような音響だ。本作を聴いていると、朝の空気の中にいるような、清冽で、時の流れが変わっていく感覚を覚えてしまう。聴覚は研ぎ澄まされつつも、心身がリラックスしていくような、もしくは、まるで朝方の神社の空気のように、非日常的な時間の手前に立っているような音響的生成変化の持続。このような「神社」的な感覚こそ、ロマンティックに音楽化していった西欧アンビエント/ドローンとは違う、新しい「アジア」的なアンビエント音響のように思えてならない。清冽な空気や水を摂取するように聴くことで「浄化」されるアンビエント。まさに本作は「心と体に作用するアンビエント」である。音楽/音響による聴覚と身体のリセット/クリーニングはたしかに可能なのだ。

 それにしても〈シュラインドットジェイピー〉は充実のリリースが続いている。先に書いたように糸魚健一のサイセクスの2015年作品『アペックス』カセット・ヴァージョンのCD化『アペックス ~マグネティズム・アンド・アングラー-モーメンタム』(これは一種のダブ・ミックスだろう)やショータ・ヒラマの『モダン・ラヴァーズ』のCD化、日本を代表するアンビエント・アーティスト、ハコブネがこれまでリリースした膨大な楽曲をまとめるヒストリカルCD『2007-2008』『2009-2010』『2011』(計6枚が予告されている)に加えて、アイ・チューンズ限定リリースであるカフカ『ポリヘドロン』、 Ingern『スモール・ユニヴァース』、ジュンヤ・トクダ『ア・ディ・イン・ザ・アレイ』など、どれもエレクトロニカ/電子音楽の「現在」の魅力が横溢している素晴らしい作品ばかりである。未聴の方は、ぜひとも聴いていただきたい。

LSDXOXO - ele-king

 初めてシカゴのハウス・ミュージックを聴いたときに誰もが感じたのは、そのいかがわしい光沢である。ときに露骨なまでの性欲、避けがたい淫靡さを前にするとドナ・サマーでさえも清純に思えたものだった。スエーニョ・ラティーノにいたっては貴婦人だ。
 ところが、こうしたセックス文化に関しては、日本のほうが寛大だという意見を外国の方から言われたことがある人も少なくないだろう。いくら浄化されたといっても歌舞伎町は歌舞伎町だ。コンビニでエロ本は堂々と売られているし、アイドルが幼児ポルノに見えてしまう外国の方も当たり前のようにいる。ドラッグには厳しく、セックスにはゆるい。だからなのか、リアーナ良いよね、と軽く言える。この調子で、ぼくは数年前にリアーナって良いよねと、あるアメリカ人に言ったら、口を聞いてもらえないほど軽蔑されたという経験がある。広いアメリカのいち部の人たちにとって、彼女はビッチのなかのビッチなのだ。大人の男を怒らせるのに充分なほどの。
 ゲットー・ハウス/ゲットー・エレクトロ、ゲットー・ダンス・ミュージックにも、大人の男を怒らせるほどの猥褻なものがある。本作は、ブルックリンのDJ、LSDの2014年のアルバム『w h o r e c o r e』に続く、セカンド・フル・レングスのミックステープ。基本はもちろんサンプリングで(ゲットーが生演奏であるはずがない!)、カニエ・ウェストの曲も餌食にされている。
 この音楽は、まあLSDという名前からもわかると思うが、まずはどれほどアホをやってられるかという、ゲットー・ハウス(ヒップ・ハウスの極端な展開)や、かつてディプロが引用して世界中にばらまいたボルチモア・ブレイクという淫らなダンスのスタイルの延長線上にあり、近年話題のジャージー・クラブやボールルームの系譜にある。ゲットーであり、ゲイ・カルチャーであり、手法はヒップホップであり、BPMはハウスである。
 〈Fade To Mind〉が昨年出した MikeQ & DJ Sliinkの「Mind To Mind」もニュージャージー発のそのトレンドをキャッチしたもので、聴けばわかるが、細かく、ときに不規則な現代的チョップによるゲットー・ハウス/エレクトロだと説明できる。ダーティーな言葉が飛び交うものの、なんともクリエイティヴで、間違いなくパワフルで、しかもファッショナブルな〈Fade To Mind〉からリリースされたことからも察することができるように、いまはこれがクールなスタイルであり(かつてモ・ワックスがDJアサルトを出したようなもの)、同時にこのスタイルが音楽的にさらに面白くなる可能性も感じないわけにはいかない。
 だが、高尚なゲットー・ミュージックなどはそもそもゲットー・ミュージックではないという矛盾があるように、むしろ生々しいから魅力があると言える。本作『Fuck Marry Kill』はただ淫らなだけではない。微妙な緊張感がある。それはきっとストリートの緊張感なのだ。(この原稿は先週書いたものだが、その数日後、ダラスでの銃撃事件が起きた。大統領選前のアメリカのなんたる殺気。こうした黒人vs警察の模様については、次号の紙ele-king vol.18で三田格が書いている)

 本作と違って、ほとんど年齢的な理由から、実生活のぼくはストイックである。このレヴューは現代のトレンドを紹介してるだけであって、決してぼくが好きな音楽ではない。しかし、オバマ大統領の最大の功績と言われるLGBTへの取り組み(アメリカというマッチョな国の、しかも経済危機のなかで、ゲイの結婚を認めさせることがどれほどのことか……)がアンダーグラウンドの祝祭ムードを盛り上げたことは間違いないだろう。ストーンウォールは観光名所になり、ヴォーグは流行、ボールルームは栄える。そして音楽も熱気を帯びる。これがいまクールなんだよ。

Gold Panda - ele-king

 これからますます、自分がどこに属する人間なのかを精査され枠に押し込められる時代がやってくるのだろうか。地理的に、信条的に、経済的に、政治的に……いま世界中で起こっていることを見ていると、そんな漠とした不安を覚えずにはいられない。これだけ荒れた状況だとそうした帰属意識が戦略的に必要な局面ももちろんあるだろうが、その交通が途絶えていくのは窮屈だし、息苦しくあるのもたしかだ。何者でもない瞬間が許されることも願ってしまう。

 ゴールド・パンダが特定のジャンルのリスナーをまたいで愛でられたのは、あらゆる枠組みからごく自然に解放されていた、音そのものの旅人めいた佇まいゆえだろう。ポスト・ダブステップともLAビートとも、もちろんエレクトロニカとも言われたが、結局そのどれでも説明できなかった彼の音楽は、だから、クラブでもベッドルームでもなく、ある特定の国でも地域でもない、ただ「あなた」がいる場所の生活と風景を切り抜いて感情の色をつけていく。それこそが“ユー”における目の前のひとへの眼差しだったし、“アイム・ウィズ・ユー・バット・アイム・ロンリー”における内省的な個人だったし、あるいは世界中を巡る異邦人としての『ハーフ・オブ・ホェア・ユー・リヴ』における半分はどこにも帰属していないという感覚だった。海外の音楽を聴く日本のリスナーに受けたのもよくわかる。この国にいながら、半分はこの国に必ずしも属していない(属することのできない)ような人間の気持ちを軽くするような想像力、風通しのよさがゴールド・パンダの音にはある。

 たとえば“千葉の夜”と題されたハウシーなトラックがそれでもクラブ・ミュージックだと断定しきれないように、『グッド・ラック・アンド・ドゥ・ユア・ベスト』もまた、ある特定の場所ではなくて、「あなた」がいるそこで鳴っている音楽だ。踊れるが、踊らなくてもいい。それは小さなクラブのDIYのパーティかもしれない。ひとりで過ごす夏の夜かもしれない。車の窓から眺める千葉の街並みなのかもしれない……。とてもメロディアスで、とても柔らかなエモーションが奏でられている彼の音楽からは、そのアコースティックな響きや丁寧に手をかけられたことが分かる編集も相まって、ゴールド・パンダそのひとの内側から来たものだということがよく伝わってくる。弾かれる弦の震えが見えるようなアコースティックの小品が“アイ・アム・リアル・パンク”と名づけられた理由を彼はインタヴューで語っていたけれども、そこにあるのは「パンクとは何か」という定義づけではなくて、友人とのごくパーソナルなエピソードであったことがパンダらしいな、と思う。あなたやわたしが何者か、ではなく、あなたとわたしの間でいま起こっていること、それを大切に扱えるひとの音楽だと感じる。

 使用される楽器も増え音色はさらに多彩になっているし、ブレイクビーツ、ドラムンベース、ハウスなどなどが控えめに断片的に聞こえてくるように、リズムもビートも見事にバラバラだ。エイフェックス・ツインのような無邪気さやフォー・テットのような叙情性も相変わらず覗かせつつ、だからと言って直系のフォロワーという感じもなく、本人の気の向くままに形にした結果がこれだった、というように気負いがない。“メタル・バード”がタイトルとは裏腹に金属的な響きを持たないように、ちょっとした反語的なモチーフをいくつか使いながら、あくまでも穏やかに聴き手の目の前にある風景に染みこんでくるようなまろやかさに覆われている。そして、“ソング・フォー・ア・デッド・フレンド”とのタイトルに対して思わず言葉を失っても、そのメロウともジェントルとも言い難い不思議なドラムンベースあるいはエレクトロニカあるいはシンセ・ポップを聴けば、これがやり場を失った、いまも行き場所探している感情のための音楽だとわかる。

 アルバムのタイトルにははじめ少し笑ったけれど、「あなたの」ベストを尽くしてというのはとても真摯なメッセージだと聴き終えたあとに思う。それはいつだってわたし自身のものだし、誰かから押しつけられるものではない。だからゴールド・パンダの音楽には大それた理想やスローガンではなくて、個人の日常生活の風景やちょっとした感情が響き合っているのだろう。ジャジーなクロージング“ユア・グッド・タイムス・アー・ジャスト・ビギニング”を聴くとずいぶん洗練された味わいになったなと思うけれども、彼にとってはタイトルにあるようにほんの始まりにすぎないし、きっと先のことはつねに未決定にしておきたいのだ。「あなた」のよき時間の。

追記:そして、本稿を書いている途中にブレクジットにインスパイアされたEPをリリースするとのニュースが入ってきた。世界のあちこちを自在に行き来する、いや、音そのものに軽やかな無国籍性を滲ませるゴールド・パンダにとって、非常にシリアスな問題だということがよくわかる。

Sam Kidel - ele-king

 彼・彼女は受話器を取ると途端に声が変わる。感情はない。ただはっきりと明快に「もしもし」は繰り返される。その声の丁寧さ、礼儀正しさ、明朗さ、そして感情の無さは、ぼくたちの生活の一部であり、文明の一部であり、古代にはなかったものである。
 「もしもし」はそして、考えてみれば異様な声だ。当たり前すぎて考えたこともなかったが、ブリストルのヤング・エコー・クルーのひとり、El Kidのソロ・アルバムでは、A面いっぱいに、24分間も「もしもし(hello)」「〜をうけたまわりました」などなど白々しい電話の声が続く。企業のコールセンターに電話する(あるいは一方的にされる)。「もしもし」「のちほどおかけください」「がちゃん」「ピー」「……」。機械よりも機械的な声が続く。そして、この声に、ヴェイパーウェイヴが再利用した使い捨てのBGMがミックスされる。レストランやエレヴェーターなど商用施設のための音楽(ミューザック)が。

 〝分裂するミューザック〟と題された本作の淋しさ、人気の無さは、一聴に値する。通信ネットワークに繋がれた空間の寒々しさ。ぼくたちの生活の一部であり、文明の一部であり、アンビエントなのだ。このコンセプチュアルなアルバムは、明らかに、2年前までがゴシック/インダストリアルなどと括っていたもの、たとえば〈ブラッケスト・エヴァー・ブラック〉のようなものとヴェイパーウェイヴとの結合である。そう、吸血鬼によって魂は吸い取られたというわけだが、その場所が丘の上の古城でも夜の墓場でもないことをこのアートワークは教えてくれる。
 B面はその「もしもし」=声を消したミューザックで、このように書くとたったそれだけかよと損した気になるのだが、作者であるSam Kidel は、「もしもし」なしでもこの音楽が面白いことを証明したかったのだろう。たしかに面白い。最後まで聴く気にさせるし、メランコリックであることはたしだが、しかし、この音楽からブリストルという記号は聴こえてこない。

James Blake - ele-king

 “CMYK”、ないしはポスト・ダブステップ時代からジェイムス・ブレイクがどうして自分の名前を名乗ったのかがずっと気になっていた。ブリアル『アントゥルー』からの連続性を強調するのであればもっと匿名性の高い名義にしただろうし、何よりその音自体があるひとりの人間固有の作家性が示されているようには聞こえなかったからだ。デビュー作『ジェイムス・ブレイク』の時点で彼はすでにはっきりと歌い手であり、なるほどその意味では個人の表現ではあるわけだが、その声には極端にエフェクトが――「ゴーストのように」――かけられていた。ヒップホップとダブステップとR&BとソウルとハウスとゴスペルとIDMがありながらそのどれでもなく、ジョニ・ミッチェルからアリーヤの時代までワープできるその自在さは同時に掴みどころのなさでもあった。言葉にはパーソナルな感情がこめられているようだが抽象度が高く、それを歌う声は過度にへしゃげているときも多い。さまざまなものの間を足をつけずに浮遊する存在としての「ジェイムス・ブレイク」。気がつけばそれは、ビヨンセにまでたどりつくほど滑らかに浸食していった。

 『オーヴァーグロウン』、そして本作『ザ・カラー・イン・エニイシング』とアルバムを重ねて想像されるのは、ブレイク自身が「ジェイムス・ブレイク」とは何かを探求しているのではないかということだ。『ジェイムス・ブレイク』にはある種の幼児性や思春期性が刻まれており、『オーヴァーグロウン』でははじめて発見した愛が描かれていたが、『ザ・カラー・イン・エニイシング』ではさらにか弱くも生々しいコミュニケーション欲求が歌われている……ようだ。ビヨンセのようにはっきりと自分の立つ場所が決まっているわけではない、帰属する場所が曖昧で内向的な白人青年による、自らの内面と愛を巡るソウル・ミュージック。それをブレイクはここでモダン・ソウルと名づけている。

 全体としては、前作に続きよりシンガーソングライター的な側面を前に出し、また声にかかるエフェクトもずいぶん減ってはいるが、曲数の多さもあって中心がどこにあるのかが断定しづらいアルバムだ。“レディオ・サイエンス”のすすり泣くようなピアノとねじれてやってくるシンセ、“ポインツ”の地を這う低音とシンプルなようで歪んだリズム感覚、“タイムレス”のどこか強迫観念的なリフ……。トラックの方法論としてはこれまでのスタイルの延長にあるが、リック・ルービンの共同プロデュースによるところもあるのかプロダクションがこなれている。ジェイムス・ブレイクだけのオリジナリティを深めていった結果の作風なのだと思うが、しかしそもそものスタイル自体に掴みどころがないため、ピアノ弾き語りのバラッド“F.O.R.E.V.E.R.”にアルバムがたどりつく頃には聴いているこちらも地面に足が届かない感覚を覚える。そしてそれがゆえの、そこはかとない不安と安堵を行き来する心地、それがジェイムス・ブレイクを聴くことなのだと思える。

 事前にはカニエ・ウェストとの共作が噂されていたが、結果として参加しているのがフランク・オーシャンとボン・イヴェールだというのはアルバムにとって自然な成り行きだったのではないだろうか。きわめて折衷的なゴスペルをやっているという点ではカニエも共通しているが、カニエ的な虚勢のおもしろさではなく、自身の率直な弱さのなかになんらかの美を探っているのがオーシャンでありジャスティン・ヴァーノン(ボン・イヴェール)であり、ブレイクだからだ。ヴァーノンが参加した“アイ・ニード・ア・フォレスト・ファイア”の、メランコリックだが同時に晴れやかでもあるモダン・ゴスペルは、このふたりだからこそ作れた静かなアンセムだろう。

 もう少し曲数を絞ってタイトなアルバムにすることもできたとは思う。だが、ブレイクは自身の探究の、その混沌をも正直に提示したかったのではないか。この複雑で抽象的な愛の歌のコレクションは、ラヴ・ソング自体が定型化していくことを拒絶しているようだ。何かに熱狂するのでもない、どこに行けばいいのかわからない、彷徨える「現代の魂」たちがそれでも抱えるエモーションを、ブレイクは自分のなかに探し続けている。

 その意味でアルバムのもっとも美しい瞬間は、彼自身がエモーショナルな声を存分に聴かせるタイトル・トラックと……ラスト3曲だ。“モダン・ソウル”のよく響くピアノとアンビエントの音響、シンプルなリズムがじょじょに絡みあって、時空がねじ曲がっていくようなバラッドはブレイクのスタイルのひとつの完成形だ。「この優しい世界」と控えめに告げながらダビーな音響に溺れていくようなR&B“オールウェイズ”、そしてラストの“ミート・ユー・イン・ザ・メイズ”……「迷路のなかであなたと会おう」。アカペラで重ねられる声はまたしてもエフェクトがかけられ、まがいもののコーラスとしてゴスペルを奏でている。だがそれもまた、アイデンティティが混乱した時代や場所から発せられる真摯な歌にちがいない。

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 218 219 220 221 222 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247 248 249 250 251 252 253 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 264 265 266 267 268 269 270 271 272 273 274 275 276 277 278 279 280 281 282 283 284 285 286 287 288 289 290 291 292 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315 316 317 318 319 320 321 322 323 324 325 326 327 328 329 330 331 332 333 334 335