「Noton」と一致するもの

チエミのムード民謡 - ele-king

ミイは、にやにやしていいました。
「あんたのことで、おそろしいことをきいたわ。あんた、じぶんのご先祖を、戸だなから追いだしたんだってね。あんたたち、にているそうじゃないの。」
「えい、やかましい。」と、ムーミントロールはどなりました。
トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の冬(1957)』山室静 訳


 美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみの「三人娘」が主演した1956年制作の映画『ロマンス娘』の中で「女学生」江利チエミは痩せるために始めた柔道がめきめき上達して男を投げ飛ばしたり、3人で応募したデパートのバイト先で1人だけ風呂ガマ売り場に配属されたり、お呼ばれした豪邸でウィスキー飲んで泥酔した挙句に森繁久彌(詐欺師役)に猛アタックしたり、と露骨なまでのオチ要員でしたが、それぞれのボーイフレンドと自転車に乗りながら変わるばんこに持ち歌を披露するラストシーンでは“黒田節(~酒は呑め呑め)”を熱唱したりと、3人並べてみれば江利チエミがオチなのは無難な選択とはいえ、そもそも何故この3人がセットなのだろう、という根本的な疑問は何も解決しない。

 その『ロマンス娘』から2年後の1958年、当時21歳の江利チエミは「第十三回芸術祭参加」と併記された『チエミの民謡集』という10インチ盤アルバムを発表する。バックバンドは見砂直照と東京キューバン・ボーイズ。以降1964年【東京オリンピック開催年】までにかけて5枚の「民謡集」10インチ盤が出ることになるこの民謡シリーズではキューバン・ボーイズ以外にも原信夫とシャープス&フラッツなど、一流のジャズメンたちを従えたチエミが何をするのかと思えば「ジャズ民謡」で、しかも全力投球。何と言うか、あの娘ダッシュで100メートル先まで走ってった、と思ったらこれまた猛スピードで99メートル戻ってきて「これ!!!」と(ほとんど『ちはやふる』における広瀬すず)眼の前で報告されているような眩暈を憶える楽曲群と、そして頭がおかしいとしか思えないほどのパッションがある。

 いまの感覚からすると、しかしキング・レコードもよくこんなの出したな(この頃ならまあ出したか)、と思うのですが、ただ当時かなり売れたらしい、と言うのはオリジナルのアナログ盤がヤフオクなどで安く(数百円~)で出回っているからで、数量としては結構な枚数をプレスされたのではないかと思われる。ただしここに収録されている音源(とりわけモノラル録音だった1~3集)はほとんどデジタル化されていないので、時間とレコードプレーヤーのある方は是非入手してみてください。あるいは実家の物置に仕舞ってある段ボール箱を引っくり返したらひょっこり1枚くらい出てくるかもしれません。

 なかでも強烈なものを10曲、挙げておきます(アナログ音源のみのものも含む)。

 “おてもやん”……文句なしの1曲。後に再録されたヴァージョンはまんまジャズ・ボッサ。
 “ナット節”……「淡く哀しみを帯びた軽さ」という離れ業。
 “相馬盆唄”……スウィングしまくりながら「米が穫れた」と歌う一曲。
 “会津磐梯山”……吃驚しているうちに終わってしまう2分弱。
 “田原坂”……服部克久編曲によるストリングスが沁みます。
 “草津節”……まるでコントの出だしのように始まる傑作。
 “伊那節”……『ナット節』と同じく、歌詞の言葉遊びが秀逸です。
 “金毘羅船々”……マンボのこんぴらさん。
 “安来節”……このヴァージョンで泥鰌すくいを踊るのは困難なバラード。
 “チエミのドンパン節”……あまりの脳天気ぶりに腰が砕けます。

 江利チエミがここで演ったのはあくまで「ジャズ調の民謡」であって「民謡モチーフのジャズ」ではない、というのは頭に置いておく必要がある。そもそも和声も伴奏もへったくれもない(アカペラでも充分成立してしまう)日本民謡を再現するフォーマットの提案としてのジャズ、またはラテン、もしくはストリングスを使って仕上げたのが「チエミのムード民謡」シリーズなのであって、本人(達)もこれでジャズやラテン音楽界に何らかの変革を迫るつもりは無かっただろうし、この場合の音楽の「スタイル」は個々の楽曲の良さを最大限に引き出すためのツールでしかなく、そしてそれはどうにも正しい。

 リアルタイムでも果たしてこの言い得て妙な「ムード民謡」というジャンルが成立していたのかどうかも怪しいのですが(ザ・ピーナッツが1963年に同じくキング・レコードから『祇園小唄~ピーナッツのムード民謡』というアルバムを出しているものの、質量ともにチエミの音源のほうが圧倒する)結局、「ムード民謡」はほぼ江利チエミに始まって江利チエミに終わったジャンルなのだろうし、そして21世紀の日本でこれを聴いた人間が「何故いまこういう音を聴かせる人がいないのか……」などと嘆くには当たらない(もしいまの音楽家が当時の譜面に忠実にこれを「再現演奏」なり「新解釈」なりをしてみても恐らく陳腐なものになってしまうだろう)。その時でないと出せない音、というものは確実に存在する。

 たとえ何百曲の「民謡」を掘り起こして録音したところでそれは「我が日本国」の存在理由を何ひとつ証明したりはしないのですが、逆に言うとこれだけバラバラな、例えば“おてもやん(熊本県民謡)”とか、関東育ちの人間には何を言っているのかよく判んないけど超かっこいい曲やってる、といった部分が辛うじて繋ぎとめているのが明治維新後の日本であって、とうの昔に葬ったはずのご先祖様(とは言え遡れるのはせいぜい徳川時代くらいまででしょうが)は、何故か江利チエミ(1937-1982)が蘇らせ、そして遺してしまった音源の中で「ご先祖様ズ」がまあ、踊るか?などと言いながら現代に生きる自分たちの着ている服の裾を引いてくる。歌った人が居なくなった後にも歌唱は残る──そして現在、ほぼそういったものだけが「正しくクニを愛する」という、言ってみれば健全な精神を支えもするのだろう。

 あたしァあんたに ほれちょるばい
 ほれちょるばってん いわれんたい
“おてもやん(熊本県民謡)”

【追記】ちなみに『ロマンス娘』と同じ1956年にスタートした江利チエミ主演の映画『サザエさん』シリーズ(~1961年)はムード民謡シリーズの制作とほぼ重なる。庭を箒で掃きながらラテン・ポップス(“陽気なバイヨン”とかだったような)を歌う、というアニメ版からは想像もつかないくらいにアグレッシヴなチエミのサザエさんを見るにつけ(本家に比べればものすごい地味ではありますが)ああかつてジャパンにもカルメン・ミランダ(1909-1955)がいた時代があったのだ、と再確認する。

R.I.P. 冨田勲 - ele-king

 冨田勲先生(と見ず知らずの方なのに「先生」とすることをお許し頂きたい。しかし、「先生」としか呼びようがないのだ)の音楽は、ある世代以降の日本人における「無意識の記憶」のようになっている部分があるように思える。

 たとえば、あの有名な『月の光』『展覧会の絵』『火の鳥』『惑星』を初めとする歴史的なシンセサイザー・アルバムは、「電子音楽」の大衆化における日本人の無意識だったといえるし、『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『どろろ』などの60年代の虫プロダクション制作の手塚治虫原作のTVアニメや『キャプテンウルトラ』や『マイティジャック』などの特撮ドラマは、ある世代の「幼年期」の記憶だし、『新・平家物語』(1971)などのNHK制作の大河ドラマ、『新日本紀行』、『きょうの料理』のテーマ曲などは、ある時代の「お茶の間」の記憶であった。もしくは冨田先生から松武秀樹氏、そしてYMO(以降)へという影響力。つまり、1960年代以降を生きてきた「戦後」日本人は、なんらかのカタチで冨田先生の音楽(とその影響力)を耳にしていたはずなのだ。

 その意味で、冨田勲先生はシンセサイザーによるイノベイティヴな作品を生み出した革新的な音楽家であると同時に、夢と希望を分け隔てなく与えた「戦後日本」を象徴する偉大な大衆音楽家でもあった。その楽曲の多くはTVのむこうの側の映像とともにあった。そして、その音楽・楽曲は、われわれ日本人の「平和な時間」の記憶と、幸福に重なりあってもいる。

 今年はデヴィッド・ボウイが、ピエール・ブーレーズが、グレン・フライが、モーリス・ホワイトが、ジョージ・マーティンが、キース・エマーソンが、ニコラウス・アーノンクールが、プリンスが相次いで現世を去った。この偉大な音楽家たちがいない「世界」など、本当に私たちが生きてきた「あの世界」なのだろうか。この「世界」は、いつのまにか別の並行世界へと移行してしまったのだろうか、そんな想いにとらわれていた矢先、驚くべきことに、そこに冨田勲先生の名まで加わってしまった。呆然とするなというほうが無理というものだ。2016年はなんという年なのだろう。

 正直にいえば「デヴィッド・ボウイの死」と同じくらいに、いや、それ以上に、「冨田勲の死」という事実は、私の乏しい言語回路にはストックされておらず、その訃報を目にしたときも、いやいまも、思考は止まっている。どうすればいいのかわからない。何をいうべきかわからない。あえていえば「冨田勲の死」というものほど現実感のない死もない。いや、もしかしたら、ご本人がもっとも現実感がないかもしれない。冨田勲先生は、すくなくとも120歳くらいまでは、元気に最先端のテクノロジーと音楽の可能性を信じて創作活動をされているものと思い込んでいた。とはいえ死はいつも、いつでも唐突だ。そして、死は、私たちの現実認識よりも、ほんの少し先に訪れる。となれば現世を生きるものの慎みとして、その死を静かに受け入れるしかない。それはわかる。辛く、悲しいことではあるが。

 私個人の経験でいえば冨田勲先生の楽曲こそ、上記の偉大なる音楽家たちの中でもっとも最初に聴いた音楽だった。世界中のテクノ・ゴッドから愛される、あれらシンセサイザー・アルバムではない。自分は1971年生まれだから冨田先生の作品に直撃された世代の先輩方より、やや下の年齢になるので、それら名盤をギリギリ、リアルタイムでは聴いていない。

 では何か? といえば、忘れもしない小学校一年生のとき、夕方に再放送されていた『リボンの騎士』のテーマ曲であった。当時、巨大ロボットアニメに夢中な少年が、なぜ『リボンの騎士』を観たのか? といえば不思議といえば不思議だが、その理由としては冨田先生の筆によるテーマ曲の存在が大きかった。私はあの曲が好きだった。あのオープニングの鐘の音からはじまるあのビッグバンド・ジャズの構造をポップなライト・クラシックに置き換えたような瀟洒な楽曲は、夕方のほの暗いムードから、一気に西欧世界へと連れていってくれるような、なんともいえぬ夢のような感覚を与えてくれた。それは幼少期の幸福で、官能的な記憶でもある。

 いま、同曲を聴いてみると、そのシンコペーションするメロディは、とてもわかりやすく、かつ、まったく下品ではないという、いわゆる「幼年もの」としては、ほとんど完璧に等しい楽曲である。さらにその楽曲の運動は、手塚アニメの上品な砂糖菓子のような絵柄と完璧にシンクロしており、アニメーション音楽としても完璧だ。『ジャングル大帝』もそうだが、虫プロ制作の手塚アニメ特有の「品の良さ」は、冨田勲先生の音楽の功績がとても大きいように思える。さらにいえば、このシンコペーションするメロディは、「あ」「い」「う」と一音のリズム感に乏しい日本語と言語に、弾むようなリズムを乗せていく手法として、たとえば細野晴臣から小沢健二、さらには小室哲哉から中田ヤスタカにまで至る日本の大衆音楽の基本形のようにも思えてならない。むろん、当時の私は、ただメロディにウキウキしていただけであるが。しかし、この「ウキウキ」感覚こそ、音楽の「希望」の正体ではないか。冨田勲は「希望」の音楽家なのだ。

 近年では初音ミクを起用した壮大な「イーハトーヴ交響曲」を作曲し、本年11月に公演予定であった「ドクター・コッペリウス」もまたミクを歌姫とする交響曲であったという。新しいテクノロジーへの好奇心と信頼と飽くなき挑戦。常識にとらわれない自由な創作。そして何より冨田先生はつねに(そしてたぶん、現世での使命をいったんは止めたいまも)、未来への希望と可能性に対して、一点の曇りもなかったと思う。その視線の先に見えていたものを「希望」というのは簡単だが、そこにこそ氏の人生観の本質があったのだと思うと、その意味はとても重い。だからこそ、そんな先生の突然の訃報を前にすると残されたわれわれはどうすればいいのかと途方に暮れてしまうのだが、しかし、遺されていった楽曲は膨大であり、しかも、私たちは、それらが可能性の宝庫であることも知っている。あらゆる偉大な芸術家がそうであるように、私たちは、この偉大な作曲家のすべてを知っているわけではない。ゆえに氏の作品はいまだ生きているし、それは永遠でもある。そう、それは夜明けのように永遠なのだ。

 日本には、「冨田勲」という音楽とテクノロジーの可能性と、その未来を信じた「希望」の音楽家がいた。こんなに嬉しいことはない。この事実こそが、私たちの「希望」である。いまはそう信じたい。冨田先生、私たちに「希望」をありがとうございました。

Anohni - ele-king

 これまでアントニー・アンド・ザ・ジョンソンズ名義などで発表されたアントニー・ヘガティの楽曲は、ギター、ベース、ドラムスを中心とする伝統的なバンド編成であっても不思議な音響性があった。いわばヴェルヴェット・アンダーグラウンド的な空間的な楽器配置を継承するものだと思うのだが、そこにあってアントニーのヴォーカルは浮遊していた。浮遊する非=中心的な存在? それが、アントニー・ヘガティのヴォーカルの魅力のように思える。どこにも属していない感覚とでもいうべきか。

 その声は、まるで黄泉の国への旅立ちのように衣装を纏ってもいるようにも聴こえた。この衣装こそが、ジョンソンズのサウンドであったのはいうまでもないが、私はその点においてこそアントニーの音楽が「ロック」の末裔にあると確信している。「ロック」とは「死」へと至る「生」を着飾る衣装=モードの音楽だ。資本主義という死の市場を生きる芸術? しかし「死」への過程はひとつではない。生が複数の層によって成り立っているように、「死」の過程もまた複数的といえる。ゆえに複数の衣装(モード)を身に纏う必然性があるのだ。

 「電子音楽」(もしくはパフォーマティヴに未知の音色を探求するという意味で60年代以降の「実験」音楽も加えてもいいだろう)は、ロック史における、衣装(モード)のひとつである。電子音楽(もしくは実験音楽)と「ロック」のマリアージュは多種多様だ。ざっと思い出すだけでも、ピエール・アンリとスプーキー・トゥーズ、ジョン・レノンとオノ・ヨーコ、ロジャー・ウォーターズとロン・ギーシン、トニー・コンラッドとファウスト、ブライアン・イーノとデヴィッド・ボウイ、坂本龍一とデヴィッド・シルヴィアンのコラボレーションなど枚挙に暇がない。テクノからエイフェックス・ツインとフィリップ・グラスのコラボレーションを加えてもよい。さらにはラ・モンテ・ヤングとジョン・ケイルの関係、ザッパにおけるエドガー・ヴァレーズからの影響、シュトックハウゼンに師事したホルガー・シューカイのサウンド、ソニック・ユースの現代音楽への好奇心、レディオヘッドの『キッドA』化などを思い出してみてもよいだろう。

 なぜ、これほどに「ロック」は電子音楽や実験音楽を希求するのだろうか。電気楽器による音響の拡張を嗜好する「ロック」と、音響の拡張を志向/思考する「電子音楽」の相性の良さが原因ともいえるだろうし、電子音楽特有の音の抽象性が、「ロック」がもたらす知覚とイメージの拡張に大きな力を発揮しやすいということもあるだろう。いずれにせよ、未知の音色の導入は、それは20世紀後半の「ロック」という商業音楽における、新たな崇高性(のイメージ)を獲得するためのモードであったと思う。そう、「ロック」は常に新しいモード=衣装を刹那に求めるのだ。窃盗の魅惑? それこそまさに「ロック」の魅力ではないか。

 そして、アントニー・ヘガティあらためアノーニによる本アルバムもまた電子音楽の現代的なモードを纏っている傑作である。歌詞は、これまで以上にポリティカルだが、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーとハドソン・モホークという現代の二大エレクトロニック・ミュージックのプロデューサーを迎えることで、絶望の中の祈りのようなサウンドを実現しているのだ。いまさら、この二人の経歴について書き連ねる必要はないだろうが、これは先に書いたような「ロック」と電子音楽のマリアージュの歴史に、新たな痕跡を残す作品であることは断言できる。

 もっともアントニーとワンオートリックス・ポイント・ネヴァーの録音は本作が最初ではない。2010年にワンオートリックス・ポイント・ネヴァーが〈エディションズ・メゴ〉よりリリースした『リターナル』からシングルカットされた「リターナル」において、二人は共作している。同曲にアントニーがヴォーカルをつけて歌唱しているのである。むろん、6年の月日が流れた本作は、“リターナル”とは比べ物にならないほどの独創的な構造とテクスチャーを獲得している。“リターナル”のヴォーカル・ヴァージョンは、ピアノを主体とするトラックであったが、本作は、より複雑なエレクトロニック・サウンドに仕上がっていたのだ。また、ポップな享楽性(いわば死への快楽的な希求か?)の獲得には、ハドソン・モホークの存在と楽曲が重要であるのはいうまでもない。

 壮大なパイプオルガンのような電子音からはじまる1曲め“ドローン・ボム・ミー”は、アントニーとモホークの共作曲で、崇高なエレクトロニック・サウンドが展開する。まるで死と恐怖に満ちた現代世界への享楽的な哀歌のように響いてくる楽曲だ。2曲め“4ディグリーズ”は、アノーニ、OPN、モホークらの共作。強靭な打撃音とアノーニの絶望を称えた声が重なり、まさに「エレクトロニック・オペラ」とでも称したいほどの唯一無二の楽曲である。

 さらには胸締め付けるようなオルガン・コードが堪らない5曲め“アイ・ドント・ラブ・エニモア”から、6曲め“オバマ”、7曲め“ヴァイオレント・メン”と続くアノーニとOPNとの共作は圧巻だ。アノーニのヴォーカルとOPN的なシンセ・アンビエント・サウンド(とビート・プログラミング)が現代の受難曲のように響く。6曲め“オバマ“のアウトロで聴かれる悲痛なピアノ。7曲めのチリチリと乾いた音から溢れ出るような哀しみ……。続く8曲め“ホワイ・ディド・ユー・セパレート・ミー・フロム・ジ・アース?”はモホークとの共作で、まるで天に昇るような解放感のあるトラックに仕上がっている。全曲までとの対比が見事な構成だ。

 個人的にはOPNとの共作にして、アルバム・タイトル曲である10曲め“ヘルプレスネス”にもっとも惹かれた。シンセ・アンビエント/ストリングスに、これまで以上に強い息吹を感じるようなアノーニの歌声がレイヤーされ、この世のものとは思えない天国的な音楽的サウンド・スケープが展開されているのだ。

 それにしても、本作におけるアノーニの声は、かつてのように浮遊していない。猛烈なサウンドの情報という現実の中で格闘しているようである。その格闘を、過酷な現実への「祈り」から、新しい「崇高性」を獲得するための「闘争」と言いかえてもいいだろう。このような視点(聴点)でアルバムを聴いていくと、本作は、電子音楽とロックの邂逅における「現代の崇高なバロック・ミュージック」といいたい気分にすらなってくる。だが、バロックは地域と歴史を越境する雑多な音楽の交錯点でもあることを忘れてはならない。

 晩年のピエール・シェフェールは、自らが生み出したミュージック・コンクレートを「ドレミの外では何もできない」と完全に否定し、「新しい音楽を作る希望を捨てよ」とまで言い放った。そして、それでも残っている音楽が「バロック音楽」と断言する。さらにシェフェールは「西欧音楽で最も崇高とみなされてきたバロック音楽」とまで語り、そして「バロックとはイタリアや中世の音楽のよせ集めから作られた」とも述べていた。よせ集めから生まれる崇高さと新しさ? まさに「ロック」だ。そして、本作には、そのような崇高と猥雑と新しさに満ちた21世紀のバロッキニズムが横溢しているのである(バ/ロック・ミュージック?)。

 その意味で、OPNとハドソン・モホークが、アントニー=アノーニとコラボレーションを行ったことは、ロック史において重要な意味を持つと思う。たとえば『ロウ』にブライアン・イーノの参加したことに匹敵するような。いうまでもないが『ロウ』(とくにB面)にもまたバロック的な電子音楽(ロック)である。バロックへの希求。ロックの死、死と生。死の旅路を飾る衣装としての音楽=ロック……ゆえにボウイの死後に本作がリリースされたことは、偶然にせよ偶然を超えた偶然に思えてならない。

 黒い星から絶望へ? まさに「世界」が死と恐怖の激動の波に晒されている2016年に世に出るべくして出たアルバムといえよう。そして何よりエレクトロニックのモードを纏いつつも、本作はポップ・ミュージックとしての聴きやすさもあるのだ。電子音と声と和声とノイズによる21世紀のポップ・ミュージック。美しいピアノで終わるモホークとの最終曲“マロウ”を聴き終えたとき、あなたは、現代世界への本当の怒り、そして絶望の果てにある透明な世界を垣間見るだろう。途轍もない傑作が生まれてしまった。

PJ Harvey - ele-king

 それはいつだって彼女自身の問題である。イングランドの血なまぐさい歴史を掘り起こすことで視線が外界に鮮やかに開かれた前作『レット・イングランド・シェイク』が彼女の内側に宿る愛国心への問いかけだったように、『ザ・ホープ・シックス・デモリッション・プロジェクト』では世界でいま起こっていることを自身が知るためにコソボ、アフガニスタン、ワシントンDCを渡る旅――現代アメリカにおける帝国主義を巡る問い――を記録する。90年代、NMEの表紙をトップレスで飾ったポーリーの痛ましさは完全に過去のものになったが、かつて自身の荒れる内面を無視できなかったように、現在の荒れる世界から目を逸らすことができなかったのだろう。近作2作は端的に連作であり、彼女がまさにいま見聞きしたもののドキュメントとして、戦争と紛争の現場を「フィールド・レコーディング」する。
 すでに伝えられている通り、戦争カメラマンのシェイマス・マーフィーが本作のガイド役になっており、先述の旅はマーフィーと共にしたものだ。彼の写真と彼女の詩のコラボ―レションは本にもなっている。アルバムはそれをぐっとポーリーのほうに寄せる作業だったようで、フラッドとジョン・パリッシュという馴染みのプロデューサーを迎え、そして、前作よりもさらに温かみを増した彼女の歌声が聴ける。ミック・ハーヴェイは相変わらずキーボードやギターで傍らにいる。このアルバムの作り自体が、ここに集った人びとで彼女の2010年代を祝福するかのようだ――戦争を無視することができないPJの現在を。

 だからオープニングの“ザ・コミュニティ・オブ・ホープ”において、再生ボタンを押せば、テーマのシリアスさに身構えていた聴き手を解きほぐすようなリラックスしたギターが飛び込んでくるのにはじんとするものがある。朗らかに4分音符を叩くスネアと鍵盤。ワシントンD.C.近くの地域における荒廃をテーマにしたこの曲では政府が90年代から取り組んだ住宅再開発政策「ホープVI」が批判されているそうで(これはアルバム・タイトルになっている)、「希望のコミュニティ」というタイトルにはもちろん痛烈な皮肉が込められている。いきなり紛争地帯の場面から始まらず、アメリカ内部の事情から描かれるのも示唆的だ。が、アウトロで「やつらはここにウォルマートを立てるだろう」とアップリフティングなコーラスで繰り返されるとき、それは両義的な表現として立ちあがってくる。すなわち、それがどんなにひどく、悲惨で、荒廃したものだったとしても、世界の現実を知るのは彼女と彼女の音楽にとって痛みであると同時に喜びなのである。それが本作のはっきりとした魅力になっている。

 前作がコンセプチュアルにブリティッシュ・フォーク、トラッドを引用していたのに対して、“ザ・ミニストリー・オブ・ディフェンス”や“ザ・ウィール”のようにわりとストレートなギター・ロック・サウンドが戻ってきているアルバムと言えるだろう。が、全体として本作を特徴づけているのは管楽器と多くの人間の声であり、すなわち「息づかい」が感じられるものになっている。「どうやって殺人を止める?」というフレーズではじまる“ア・ライン・イン・ザ・サンド”では軽快に弾むリズムの上でバス・クラリネットがふくよかな音を出し、男声コーラスを従えながらポーリーが歌うのはチャーミングに響くし、サックスが低音で重々しく下のほうを這う“チェイン・オブ・キーズ”は彼女の透明感のある声とのコントラストが鮮やかだ。興味深いのは“リヴァー・アナコスティア”で、ゆるく張られたドラムが柔らかい打音を鳴らしつつ、ゴスペル“ウェイド・イン・ザ・ウォーター”を引用する。それは過去のアメリカの大地から聞こえてくるようで……広く言えば、アメリカのフォークやゴスペルを参照した21世紀のアメリカの若い音楽家たちと共振しているだろう。“ザ・ミニストリー・オブ・ソーシャル・アフェアズ”ではそして、あくまで異邦人としてブルーズをサンプリングしながらテリー・エドワーズとPJ自身によるサックスの烈しい演奏の応酬で渦を巻く。作品のテーマに沿う形で、そこにいる人間たちの呼吸が生々しく感じられる音楽となっている。

 “チェイン・オブ・キーズ“では奇しくも「how can it mean such hopelessness?」と呟かれるが、アノーニがその名も『ホープレスネス』で戦争とアメリカの愚行を描いていることと見事にシンクロしている。彼女たちの作品がこのオバマ時代の終わりにリリースされたことは偶然ではないだろう。ただ、アノーニがはっきりと怒りをこめて声を出しているのに対し、ポーリーはアメリカとそこに関与した国々の暴力を遠景に置きつつ、彼女自身はそれがまさに起こっている地点にまず立とうとする。何か明確な主義主張があるわけでもないし、写実的に描かれる風景は断片的だ。都市の汚染と荒廃、空爆が繰り広げられた土地、貧困、資本主義が引き起こし続ける悲劇……。シェイマス・マーフィーがアフガニスタンのカブールで録音した雑踏の音からはじまる“ダラー、ダラー”では、聴き手もまさにその場所――子どもが金銭をせびってくる最中に導かれる。だがその歌はあくまでも穏やかで、優しく、何かをなだめるように響いている。ゆっくりと叩かれる太鼓、静かな情熱を湛えたサックスのソロ、オルガンとともにゴスペルのように立ち上がる歌、鳴らされるクラクション……。
 このアルバムを聴いていると、「怯むな」と言われているように思える。世界で起こっている苦しみを見ることを恐れるな、まずはそこに行けばいい、自分の目と耳を試してみろ、と。なぜならここには、知ることの喜び、そのたしかな高揚があるからだ。『ザ・ホープ・シックス・デモリッション・プロジェクト』はPJハーヴェイのまっすぐな勇敢さに貫かれた作品であり、それは相変わらず彼女が現在の自分を偽らずに晒すことで差し出されている。

Tim Hecker - ele-king

 ティム・ヘッカーの音楽を、ひとまずは通例に倣って「アンビエント/ドローン」というカテゴリーに分類することは可能だろうが(むろん、それ自体への是非はさておき)、彼の楽曲に内包された音楽的な情報量は、じつは多種多様であり(単なる音の持続ではない)、いわばティム・ヘッカーというコンポーザー/サウンドメイカーの音楽的なレファレンスの幅広さを物語っているように思える。

 そう、彼の楽曲にはシューゲイザー的なアンビエント/ノイズから、ドビュッシー以降の近代印象派音楽、ラ・モンテ・ヤング的な永遠のドローンから、ブライアン・イーノが提唱した環境音楽(アンビエント・ミュージック)、ダーク・アンビエントから、ロマンティック・エレクトロニカ、00年代的なグリッチから、10年的シンセ・ドローンなどなど、時代と歴史を越境するような多様な音楽的エレメントが、アンビエント・サウンドの中に溶け合い、幽玄に鳴り響いているのだ。

 それは時代も歴史もジャンルもフラット化したゼロ年代以降の音そのもののようでもありながら、同時に西欧的な叙情性や崇高性を感じさせるものであった。作曲家的なコンポジションといってもいい。ティム・ヘッカーが、ほかのアンビエント/ドローンの音楽家と一線を画するのは、もしかすると、この作曲家的な「個」ではないか。

 そのような「個=コンポーザー」の表出は、〈ミル・プラトー〉からリリースされたセカンド・アルバム『レディオ・アモーレ』(2003)から変わらないものであり、00年代中期以降の〈クランキー〉から発表された『ハーモニー・イン・アルトラヴァイオレット』(2006)、『アン・イマジナリー・カントリー』(2009)、『レイヴデス、1972』(2011)まで通低し、深化されてきたものともいえよう。

 それら創作の結晶が、2013年に〈クランキー〉から送り出された『ヴァージンズ』であった。その音楽性は近年のモダン・クラシカル的なものとも呼応しつつ、氷の宮殿のような幽玄な音響世界が展開されていた。傑作といっていい。この作品には
『レイヴデス、1972』にも参加していたベン・フロスト、
ポール・コーリーがエンジニアを担当し、演奏者にはいまをときめく(?)カラ・リズ・カバーデールも名を連ねている。

 先にティム・ヘッカーは作曲家としての「個」が強いと書いたが、同時に彼はコラボレーション作品でも転機となる仕事を残している点を忘れてはならない。2008年にリリースしたエイダン・ベイカーとの『ファンタズマ・パラステイシー』も良作だが、なにより2012年にリリースされたワン・オートリックス・ポイント・ネヴァー=ダニエル・ロパティンとの『インストゥルメンタル・ツーリスト』が重要で、このアルバムによって、ティム・ヘッカーは近年のシンセ・アンビエント的な潮流に合流することができたと思う。彼はコラボレーションの名手でもあるのだ。

 そして前作より3年ぶりのリリースとなる本作は、彼のキャリアの中でも、さらに高い完成度の楽曲が収録されている。リリースは〈クランキー〉を離れ、名門〈4AD〉から。それゆえの力の入れようかと思いきや、本作も前作を引き継ぐ形で、エンジニア・プロデュースにベン・フロスト、
ミックスにポール・コーリー、キーボードにカラ・リズ・カバーデールらが参加しており、一聴すると『ヴァージンズ』からの延長線上にあるサウンドに聴こえるだろう。

 しかし、「声」と「リズム」という要素を大胆に導入している点に強い意思を感じるのだ。むろん、リズムといってもいわゆるビートではなく、1曲め“オブシディアン・カウンターポイント”の冒頭で聴かれるシーケンスフレーズや“ライブ・リーク・インストゥルメンタル”で展開される鼓動のようなアトモスフィアを感じさせるリズムであるし、何より、カラ・リズ・カバーデールのキーボードによる旋律は強いリズム性を導入しているように聴こえる。

 そして「声」もまた旋律というよりは、バロック的な宗教曲の歌唱を拡張したようなサウンドのひとつとして、楽曲全体のアンビエンスを形成していく。たとえば2曲め“ミュージック・オブ・ジ・エア”の楽曲の宗教曲/宗教歌のような響きには、カラ・リズ・カバーデールの西欧音楽的/神話的なアンビエント的音楽性が強く作用しているように聴こえるし(ちなみに本アルバム全体のコラールのアレンジは、あのヨハン・ヨハンソンが担当している!)、また、最終曲“ブラック・フェイズ”のアンビエント・レクイエム的な響きには、ティム・ヘッカーとカラ・リズ・カバーデールの音楽性の交錯に、そこにヨハン・ヨハンソン、ベン・フロストらの個性が見事に融合していった結果に思えるのだ。この楽曲の白昼夢のような儚い美しさは筆舌に尽くし難く、まるでヒトの世界の終わりで鳴り響くレクイエムのようである。

 私は本作を聴きながら、不意にハロルド・バッドが1978年にブライアン・イーノの〈オブスキュア〉からリリースした『ザ・パヴィリオン・ドリームス』を思い出した(〈4AD〉リリースなのでコクトー・ツインズとハロルド・バッドのコラボレーション作品と比べたくもなるが、作風がやや違う)。このアルバムはイーノによるプロデュースで、宗教的/神話的/西欧的なクラシカルな音楽性が、とにかく美しい作品である。とくに声とキーボード、ギター、管楽器などの器楽・楽器の演奏/層が独自の空間性を生成している点に、『ラブ・ストリームス』との不思議な共通点を聴き取ってしまった。

 イーノは、このアルバム以降は、あの環境音楽=アンビエント・ミュージックへと「進化」していくわけだが、しかし、現代のティム・ヘッカーはイーノ以降の環境である「アンビエント/ドローン」からはじまり、しかしアンビエント以前の〈オブスキュア〉レーベルとの親和性を示し、崇高性へと「深化」していく点が現代的に思える。進化ではなく深化への希求?
この2作品を続けて聴くと、どちらが、どちらかわからなくなる瞬間もあるほどであり、私には、この(歴史的な)「進化」と「深化」の「対比」の感覚がことさらに興味深いものに感じられた。

エグベルト・ジスモンチ・ソロ - ele-king

 2016年4月20日練馬文化センターにおけるエグベルト・ジスモンチの単独公演は本当に素晴らしいものだった。なんだか"モノ"が違う演奏に、有り余る現役感に、圧倒された。また同時にあまりに大きなパーカッショニストを失ったことを感じた公演でもあった。

 めくるめくギター演奏がメインの1stセット。パーカッシヴな演奏と言ってしまえばそれまでだが、基本になるリズムのエンジンがまずあって、それを元にまた別の噛み合うリズムやメロディーがついていく。そのリズムの理にかなった構築性と説得力、そして緻密且つ自由に放たれるメロディーとの融合たるや! そうやって発信される音楽は複雑にも聴こえるが、その実はシンプルだ。しかし一人で何人分やっているのだろう。なかなか日本では見られれないスタイルの演奏とその完成度にただただ圧倒された。
 そしてそこにナナ・ヴァスコンセロスを見た気がした。会場にいた全員が見たであろうし、曲間にジスモンチ本人も言っていたと思う。左手がナナのビリンバウだった。
 ナナはそこにいないのに十分なまでの打楽器奏者としての言わば編集能力みたいなものを発揮していた。音楽における編集は重要な要素であるが、ナナは打楽器を通してプリミティヴな形でそれをやってのける。ギターリストでも歌でも例はなんでもよいが、ナナがいるとなんだかいい演奏が出来てしまう、という感じが大いにする。それは打楽器奏者の最も大きな仕事であり、ナナがここまで愛される要因の一つでもある。ジスモンチの左手にナナがいることによって、一気に音楽は昇華したのではないかと思わせるナナの存在と、ジスモンチの信頼みたいなものに感動した。
 MCで、喧嘩して「もうあなたはいらない」とナナに言ったというようなことを喋っていたように思うが、ジスモンチのその信頼の裏返しに自分は聞こえた。

 2ndセットは、どんどんジスモンチの自己に入っていく演奏に見えた。美しい演奏の向こうに見える自己や何か見えないものと格闘していく姿や、その準備のための演奏の完璧なコントロールは、ナナを向いていたかもしれないが、ナナがそこにいるようには思わなかった。正直着いていけないくらいの修行のような感じを受けた。曲間にピアノに両手をついて下を向く姿にも象徴されていた。
 そのピアノという楽器のまま、アンコールでのスクリーンに映ったナナのビリンバウ演奏とのコラボは、まさにナナの打楽器奏者としての懐の大きさが際立った。一気に視界が開けて行くような気がした。

 一体彼らは何を見ていたのであろうか。想像も及ばないものであったかもしれないが、そのベーシックには彼らのトラディショナルへの敬愛が間違いなくあった。それはあまりに大きな土台である。
 島国の隅で活動する一打楽器奏者として、真摯に0からスタートする気持ちにさせてもらうには充分であり、会場にいたほとんどの人に実りあった素晴らしいステージだった。

Random Access NY 号外 - ele-king

 先週、ディーライトのレディ・ミス・キアーやヴァンパイア・ウィークエンド、ダーティ・プロジェクターズなどのバンドを、https://www.brooklynvegan.com/watch-grizzly-bear-and-epmd-play-the-bernie-sanders-rally-in-prospect-park/

 グリズリー・ベアーは、“While You Wait For the Others”, “Two Weeks”, “Knife”をプレイ。「can't you feel the knife(ナイフを感じないの?)」という歌詞の下りを「can't you feel the bern(バーニー・サンダースを感じないの?)」と歌い、EPMDは、"You Gots to Chill"をプレイ。総勢20,000もの人が集まり、お昼の贅沢な野外コンサートを楽しんだ。私の日本人女子友達は、そうとは知らず、普通にプロスペクト・パークでピクニックをしていたが。

 そして今日月曜日4/18は、最後のキャンペーン(予備選挙の)。場所は、ロングアイランド・シティのハンター・ポイント・サウスパークで、人もセキュリティも気合が入ってる。数々のバーニーグッズの押し売りを潜り抜け(Tシャツだけで何十種類とある)、空港のようなセキュリティチェックを受け、ようやく中に入る。7時からのショーに、人は早々と5時頃から待っていたようだ。

 数人のスピーチの後、TV・オン・ザ・レイディオが登場。“Young Lliars”他6曲をプレイしたが、オーディエンスは、バーニー・サンダーズを出せ、と演奏の最中にも容赦なく「バーニー」コールを投げかける。バーニーの人気はすごいが、バンドに対しての態度はあまり良くない。

 「Bern baby bern」とかいたTシャツを着ているベイビーや「Fuck Trump-Keep America Great」というTシャツのカップルなど、それぞれの思いをTシャツにして着ている人がたくさんいた。最近Tシャツを見ると、なんて書いてあるか注意して見てしまう。

 そして、バーニーが登場するころには、音楽のヴォリュームが倍になり、大きな拍手で彼を迎える。バーニーのスピーチは30分以上にも渡り、これはアメリカの変化への第一歩、自分とクリントン氏の違う所や(彼女はウォール・ストリートから寄付を受け取っているが、自分は受け取っていない)、など、様々な勇敢な言葉でオーディエンスを活気づけていた。彼の一言一言で、バーニー・プラカードが力強く振られ、「そうだそうだ」と、やんやの声援が送られ、人びとがひとつになる姿を、また目の当たりにした。バーニーは、スピーチのしすぎなのか、声が結構枯れていたが、言葉は力強い。さて、明日どうなることやら。(沢井陽子)


Bill Laurance - ele-king

 ジャズ、ロック、ファンク、ソウル、R&B、アフロ、ラテン、カントリーなど多種の音楽を融合するフュージョン・ジャム・バンドとして知られるスナーキー・パピー。グラミー賞受賞作の『ファミリー・ディナー vol. I』(2014年)の続編『ファミリー・ディナー vol. II』が先にリリースされ、そこではベッカ・スティーヴンス、ローラ・マヴーラ、クリス・ターナーなど進境著しい若手アーティストから、サリフ・ケイタやデヴィッド・クロスビーなど大御所に至る幅広いゲストとの共演を披露していた。彼らの魅力はインプロヴィゼイションに富むライヴ演奏で、このアルバムもライヴ録音によるものだったが、リーダー格のベーシストのマイケル・リーグとともに、バンド結成時からサウンドの核を担ってきたのがピアニスト/鍵盤奏者のビル・ローレンスである。スナーキー・パピーはアメリカで結成されたが、ビル自体はイギリス人で、いまもロンドンを拠点としている(スナーキーの活動時などはアメリカに遠征しているのだろう)。

 クラシック教育を受け、ロンドンのインスティテュート・オブ・コンテンポラリー・ミュージック・パフォーマンスを卒業したビル・ローレンスは、同時に14歳からプロ活動をはじめ、ライヴ・ミュージシャンとしての腕を磨いていった。スナーキー以外にもバレエ、演劇、映画、テレビ、コマーシャル・フィルムなど多方面でも演奏し、ソロ・アルバムも『フリント』(2014年)、『スウィフト』(2015年)と既に2枚発表している。それらソロ作では、クラシックの素養を感じさせる繊細なピアノ・タッチにオーケストレーションを絡め、シネマティック・オーケストラやヘリテッジ・オーケストラなどに通じる壮大で重厚な佇まいの楽曲も披露していた。これらはアメリカ録音で、マイケル・リーグが制作や指揮を行い、演奏にはスナーキー・パピーのメンバーも参加していたのだが、そのスナーキーの『ファミリー・ディナー』のようなポップ寄りの作品とはまた違うアルバムだなという印象を持った。スナーキーはオランダのメトロポール・オーケストラ(現在の指揮者はヘリテッジ・オーケストラのジュールズ・バックリー)とも共演作『シルヴァ』(2015年)を録音するが、その小型編成版的な雰囲気がビルのアルバムから感じられるのは、彼がクラシック教育を受けたことによる部分が大きい。また、『スウィフト』にはエレクトリックなテイストの作品も多かったのだが、ビルが作曲する楽曲にはUKのクラブ・サウンドの影響も表われており、それはビルが日頃接する音楽環境が関係するのだろう。

 『スウィフト』から1年ぶりの新作『アフターサン』はニューオーリンズ録音で、いままでと同じくマイケル・リーグ、ロバート・“シーライト”・スパットというスナーキーの仲間が共同プロデュース/アレンジ、及び演奏で参加する。だが、前2作とはかなりテイストが違うなということをオープニングの“ソチ”を聴いて感じた。アフロ・ビートを取り入れたかなりファンキーなフュージョン・ナンバーで、どちらかといえばスナーキー・パピー本隊が持つライヴ感が露わになっている。前2作にはホーンやストリングス・アンサンブルが入っていたが、本作はビル(キーボード)、マイケル(ベース、ギター)、ロバート(ドラムス)の3人にパーカッションが入った編成で、鍵盤が主要メロディを弾き、シンセによってサウンドを複合していく。従って個々の演奏そのものやインプロヴィゼイションに重きが置かれ、結果として演奏から生み出される熱量やグルーヴが増しているのだろう。それが顕著なのが“タイム・トゥ・ラン”で、ハモンド・オルガンが活躍するアフロ・テイストのジャズ・ファンクとなっている。“バレット”もそうだが、アフロ的なモチーフが多いのが本作の特徴でもある。この曲はディスコ・ダブ的なアレンジが施してあり、そうしたクラブ・サウンドの影響の強さも本作からは伺える。“ア・ブレイズ”はダブ色の濃いナンバーで、表題曲や“ファースト・ライト”でのバレアリック・テイストは70年代フュージョンやジャズ・ロックの現代的な解釈によるものだろう。一方、ピアニストとしてのビルを見ると、“ザ・パインズ”や“ゴールデン・アワー”での叙情的なプレイが光る。“マデリーン”はそうしたリリカルなピアノに対し、クラブ・ミュージックの影響が濃厚な太いビートが組み合わさり、ゴーゴー・ペンギンやバッドバッドナットグッドといった新世代のピアノ・トリオに比類するようなナンバーとなっている。いままでからより力強く進化したことを感じさせるアルバムだ。

Secret Boyfriend - ele-king

 シークレット・ボーイフレンドは、〈ホット・リリース〉〈アイ・ジャスト・ライヴ・ヒア〉などから多数のカセット作品をリリースしてきたノースカロライナの異邦人、ライアン・マーティンのソロ・プロジェクトである。
 今年2016年に発表された彼の新作は、レイム、トロピック・オブ・キャンサーなどのリリースで知られるUKの〈ブラッケスト・エヴァー・ブラック〉からのリリースで、同レーベルからは2014年の『ディス・イズ・オールウェイズ・ホエア・ユーブ・リブド』以来、2年ぶりのアルバムとなる。聴いてみて驚いた。新作『メモライズ・ゼム・ウェル』は、彼のボヘミアン的美意識が、旅人の記憶のような淡い音像の中に、これまで以上に自然に融解/結晶しており、まさに最高傑作といっても過言でない作品であったのだ。ダーク・アンビエント、シューゲイザー、サイケデリック、ニューウェイヴなどの音楽的なエレメントが、柔らかく霞んだ音響の中に、見事に溶け合っている。

 レーベルは本作のことを「孤立するマシン・ミュージック」と評しているが、まさに言い得て妙である。コンピューターではなく、マシン=機械であること。そして孤立とはライアン・マーティン自身のことでもあるのだろう。たしかに本作には、これまでのライアン・マーティン=シークレット・ボーイフレンドの作品に内包されていた「旅人の孤独さ」のような雰囲気、つまりは自ら進んで故郷から離れながらも記憶の中でかつて観ていた風景を希求しているようなノスタルジアが濃厚に漂っている。
 
 たとえば、どこか最近のマウリツィオ・ビアンキを思わせもするノイズ・アンビエント・トラック“ザ・シンギング・バイル”などは、まさにそのような曲だ。機械。光景。記憶、追憶。不可能。その交錯と融解。もしくは〈モダン・ラブ〉からリリースされたザ・ストレンジャーのような孤独な都市生活者のサウンドトラックとしてのインダストリアル/アンビエントとでもいうべきだろうか。その暗く霞んだ音の中で、夕暮れから夜の光景を想起させるようなノン・ビートのアンビエント曲が展開するのだ。

 また、ライアン・マーティン=シークレット・ボーイフレンドの音楽は、ダーク・アンビエントとサイケデリックでフォーキーなヴォーカル曲に分けることが可能だが、本作においては、ヴォーカル曲とダークなアンビエントサウンドは境界線を喪失するように共存している点も特徴的である。とくに“リトル・ジェミー・セントル”は、当初は簡素なリズム・トラックが入ったアンビエント・テクノイズなトラックとして展開するが、終盤近く、溶け合う記憶の層に侵食するかのように幽玄なヴォーカルが入ってくるのだ。この不意を突くような構成がじつに見事。また“ストリッピング・アット・ザ・ネイル(Stripping At The Nail)”は、壊れたスロウダイヴを思わせるシューゲイズな雰囲気が濃厚な曲で、どこか狂気の淵に佇むような印象を残サイケデリック・フォークな楽曲に仕上がっている。

 そして、アルバム中、もっとも深いノスタルジアの芳香を放つ楽曲は“ピアン・デッレ・パルム”だろう。16世紀の教会音楽を思わせる多声的な音響空間に、モノクロームでメタリックな音が微かな旋律を奏でる。いくつもの音の層はやがて溶け合い、ダーク・アンビエント/ドローンへと変化を遂げていくわけだが、それはまるで失われてしまった故郷への消えかけた追憶のように耳に浸透していくだろう。そして遠くの踏み切りを通り過ぎる列車を思わせる音の反復を残して、この曲は終わりを迎える。そのもの悲しさは、本作のムードを決定付けている大切な要素であり、アルバム最終曲“メモライズ・ゼム・ウェルl”においては、よりドラマチックに展開されていくだろう。

 そう、どの曲も簡単には癒されないほどの深い「孤独さ」が息づいているのだ。霧の中に降り注ぐ星空のようなネオ・サイケデリック/ネオ・ニューウェイヴとでも称したい本作は、このポスト・インターネット時代において、特異なほどに心を強く揺さぶるような孤高のノスタルジアを生成しているように感じられたのだ。ここには初期〈クレプスキュール〉のようなヨーロッパ審美主義的なものを小さな記憶に封じ込めていくようなアトモスフィアがある。

 まさに21世紀における孤立主義とロマン主義的電子音楽。もしくは霞んだテープ録音によるフランツ・シューベルト的なボヘミアニズムか。または初期ル・クレジオ的な物質的恍惚か。その不安定な音の揺れは、世界が不穏に揺れ動く時代を生きる、われわれの「実存」そのものだろうか。ライアン・マーティンの音楽は、不安で、不穏で、曖昧で、しかし、だからこそ美しい。2016年だからこそ聴いておきたいアルバムである。

Toyomu - ele-king

 京都のビートメイカー、Toyomuがbandcampにアップした、想像上のカニエ・ウェストのニュー・アルバムが海外でものすごく話題になっている。とにかく聴いてみて。コンセプト(ヒップホップmeetsヴェイパーウェイヴ!)、楽曲、ユーモア、じつに面白い! ナイスです。なお、この若きビートメイカーは、昨年12月にchartを寄せてくれています(thanks RILLA)。

 https://toyomu.bandcamp.com/album/iii-imagining-the-life-of-pablo

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 218 219 220 221 222 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247 248 249 250 251 252 253 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 264 265 266 267 268 269 270 271 272 273 274 275 276 277 278 279 280 281 282 283 284 285 286 287 288 289 290 291 292 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315 316 317 318 319 320 321 322 323 324 325 326 327 328 329 330 331 332 333 334 335